思考停止

映画、本、音楽、など

Vtuberで学ぶメンヘラ学概論~潤羽るしあの場合~

・メンヘラは状態ではなく、性質である

 「概論」と銘打っているが、本記事で取り上げるのはメンヘラと呼ばれる人々にいかに同化し、そして愛するようになるのかの応用的な話である。メンヘラという言葉の定義をするのは眠たい話なのでしないことにしよう。ただ、アニメやVtuberにおいて戯画的に描写されるメンヘラ像から意図的に捨象されているのは、依存の対象が別に一人でなくてもいいことである。彼/彼女らが性的に奔放である場合においても「私一人を見てくれなきゃイヤ」式の物言いの場合においても共通しているのは自分の存在意義の揺らぎ、もっと分かりやすく言えば「寄る辺なさ」のようなものをとりあえず糊塗してくれる相手がその場においているかどうかが重要となる。だから、もしあなたがメンヘラを好きになったとしよう。そして「あなただけを愛している」という字面上では陳腐でテンダーな言葉を囁かれたとしよう。その言葉は、断じて嘘ではない。その場限りにおいて。その人(メンヘラ)は、永遠があると信じている。場合によってはその永遠を自ら破壊する自己破砕性を持っていながらも、自覚的であれ無自覚的であれあなたと共に破滅することによって永遠に留まることを選ぼうとする。意外に思われるかもしれないが、メンヘラと付き合って最も望まれるハッピーエンディングは両方死ぬことである。Vtuberの叶は、メンヘラに振り回されることをよしとした時点で(メンヘラを「あしらう」余裕と選択を失った時点で)「君」もメンヘラなのだ、という旨の発言を天開司とのラジオで発言していた。メンヘラにかき乱され、振り回され、自分もメンヘラになり、そして二人一緒に死ぬ。メンヘラとは本来的に自己否定的なナルシシズムとロマンティシズムの陳腐化した謂であることに今更疑いを差しはさむ余地はないが、その否定性の昇華されるところ、それは死である。でなければ、ウェルテルも自死を選ぶことはなかったであろう。

 男女のいるところに恋愛あり、だとすれば、メンヘラのいるところに別のメンヘラあり。メンヘラとは、よく「ヘラる」という形で造語の動詞形で使われることが多いことから「状態」だと思われている。しかし、ヒモ野郎が何故か女に金を奢られる生き物であるのと同様に、メンヘラは「何故か」そうなっている、つまり素質と才能がなければメンヘラという生き物になること自体が不可能なのである。ここでメンヘラを手術台の上に載せ、解剖実験を行ってみたところで、それにはあまり意味がないと思われる。そう、今から潤羽るしあを例にとってメンヘラの素描をスケッチすることには、「何をメンヘラについて語るか」というより「何をメンヘラについて語らないでおくべきか」という意義がある。私がよく批評を書く際に大切にしている「秘められたもの」だ。承認欲求、自己肯定感の低さ、そういったキーワードだけ取り出して見れば至極簡単で単純に見えるこれらの要素だが、それではそのメンヘラ当人が「なぜ」承認に飢えてしまったのだろうか?「なぜ」自分で自分を愛することができなくなってしまったのか?BTSの「Answer:Love Myself」でRMがラップするように「自分を愛することは他人を愛することよりも難しい」。メンヘラが辿ってきた、辿っている道のりだって決してメンヘラ特有のものではないはずなのだ。しかし、固有なもの、特異なものの条件の下で、メンヘラは自分の腕を傷つけ、知らない誰かとセックスしまくり、精神薬を飲んで投与量を競い合い、場合によってはようやく見つけた自分を愛してくれる人を物理的にであれ精神的にズタズタにし、死へとチキンレースして場合によってはコースアウトする。かく言う私も立派なメンヘラであり、かつての恋人たちや友人たち、家族を過剰な負のエネルギーで引きずり回しては疲弊させてきた。そして恐るべき事実を目の前にして、私は私自身の(擬似)恋愛観というものにほとんど絶望しかけているのだ。それはつまり、私が他ならずメンヘラであるが故に、メンヘラの女の子にしか興味が持てなくなってしまった、と。

 

・ホロライブファンタジー、子どもから大人まで

 さて、ようやくVtuberの話である。企業勢Vtuberの常として、「〇期生」というものが存在し、一緒に入った仲間たちは「同期」と呼び合ってあるときは配信内で仲睦まじい様子を我々に見せてくれたり、あるときは配信外で実際に会って遊びに行ったりする。実は、今回取り上げるホロライブのカバー株式会社、にじさんじのいちから株式会社はVtuberを「所属タレント」として扱い「社員」としては扱っていない(なので福利厚生が受けられるわけではない)。扱いはあくまでも個人事業主であり、配信の匙加減というものは(概ね)各Vtuberに委ねられている部分がある(未成年の赤井はあとや紫咲シオンなどがどういうことになっているのかは不明)。

 個人的な話をさせてもらうと、男子校出身者である私はホモソーシャルでしか連帯や一体感を感じたことがなく、大学に入ってから女子は「同期」ではなく「獲物」となっていた(最低)。しかし、男女共学の連中が不思議と醸し出す「男も女も、同期の仲間だよね」という雰囲気がうらやましかった。いや、めちゃくちゃうらやましかった。そんなわけで、ない青春を追い求めるという意味でVtuberを追ってからしばらくして私はにじさんじSEEDs一期生を最も観るようになっていた。社築と轟京子のチャージマン研イクラに腹を抱えて笑い、OTN組を観ながら寝落ち、花畑チャイカにはスパチャも投げた。卯月コウへの屈折した感情は本ブログの過去エントリを見ていただければ分かる通りである。

 ホロライブは男性タレントが「ホロスターズ」となっており住み分けがなされているのでそういった男女のわちゃわちゃしたやり取りというのは見れないのだが、潤羽るしあも所属する「ホロライブファンタジー(三期生)」はホロライブ全体の中でも特に仲がいい世代として受容され、人気も高い。その人気の一要因として、幅広い年齢層が観るYoutubeで各々の世代に合ったキャラクターを選べてなおかつどれを選んでも面白いというものが挙げられる。先日チャンネル登録者数100万人を達成した兎田ぺこらは独特の声質、特徴的な「ぺこ」語尾もさることながらゲームのチョイスや高速回転するトーク、観ているこちらも楽しくなるようなゲラ笑いで視聴者をあまり選ばない。良い意味で大衆向けコンテンツである。逆に、宝鐘マリンなどは圧倒的なトークセンスで群を抜いているものの話題が昔のアニメだったり、やるゲームが東方STGだったりとコアなオタク層を的確に狙い撃っているように見える。

 潤羽るしあは見た目は16歳ぐらいの緑かピンク色の髪をした少女で、彼女の最も分かりやすい魅力を説明するとしたら普段の瀟洒な声でまったりと喋るいわゆる「清楚」な一面と、ゲームで負けたときや大詰めの勝負所で発せられるマイク許容音量無視の叫び声のギャップである(エヴァンゲリオン初号機の咆哮に似ていることから「初号機ボイス」などと言われることがある)。王道のぺこら、豪速球の変化球のマリンとはまた違い、トークの上手さで見せるタイプのVtuberではない。また同期の白銀ノエルと不知火フレアは「ノエフレ」と呼ばれる公式カップリングが存在するが、るしあは初期こそマリンとのカップリングがあったものの現在は事実上消滅状態にある。そんな訳で、ホロライブファンタジー全体を推し、特にるしあとマリンを応援している私でさえ、るしあの魅力を言語化しづらいところがある。いや、ないわけではない。確実にある。それが、るしあにしかない芸風、メンヘラ芸である。

 メンヘラ芸は諸刃の剣である。下手に乱用すればテンプレートと化して面白くなくなる。たまにしかやらないとマジになりすぎて着地点を見失う。るしあは才能と言うべきか、そこの押し引きに非常に長けたライバーである。犬山たまきとのコラボでこれでもかというぐらいメンヘラ芸で押するしあはたまきへの信頼故のことだろうが、ソロ配信でスパチャ読みをする際の駆け引きは、場合によっては本編以上にスリリングな局面を見せることもある。メンヘラ芸が「芸」として浮いた印象にならないのはもう少し理由があり、それは随所で見せる絶叫と相まってるしあのパーソナリティが極めてヒステリックなものとして我々の眼に映るからだ。無論、ここで言う「ヒステリック」はかならずしも悪い意味で使っているわけではなく、「潤羽るしあ」という人格を形成する一要因として然るべき機能を果たしているということである。Vtuberにおいて最も重要なこと、それは一貫した人格を持っているか、ということである。「中が生身の人間だからそこが乖離するなんてあり得ないのでは?」――あり得る。好例は過去にも取り上げた御伽原江良だが、彼女の場合ガチャ芸人、ヒステリー、普通の女の子、オタク、と人格が分裂しすぎており完全に「一見さんお断り」のライバーになってしまっている(普通の配信をメンバー限定配信にしているのも集金以外の目的がはっきり言って分からないが、普通の配信でスパチャで稼いだ方がメン限よりも稼げるように思えるのは私がYoutubeのシステムを理解していないだけだろうか?)。その意味で、もはや正確な配信タイトルを思い出すのも億劫だが2020誕生日配信は面白い試みだった。ヒステリックでも素でもない「御伽原江良」を20分やりきったあと、真っ黒い画面で猿の人形に「江良ちゃんお誕生日おめでとう」と言わせる御伽原は、私のような人種に何かを言わせないではおかない「人格」の問題に対する訴求力があった。るしあはその咆哮から「ホロライブのギバラ」と呼ばれることもあるが、この人格の保存の問題にその差異がかかっていると言ってよい。るしあは清楚、ヒステリー、そしてメンヘラを「潤羽るしあ」という人格の元に統合している(統合していない/できていない御伽原を否定したいわけではない)。もっと言えば、これはホロライブファンタジー全員に言えることでもあるのだが、ロールプレイ問題に関して最もゆるくなった結果キャラクターの人格と素の人格にあまり齟齬が出ていないのがるしあなのだ(マリンはRPを放棄しているが、素の人格があまりにもキャラクター的過ぎてキャラクターの「宝鐘マリン」を素の「宝鐘マリン」が食ってしまっているという力業の逆転現象が起きている)。スパチャ読みの清楚でゆったりしたるしあも、机を叩いて絶叫するるしあも、どれも我々の愛するるしあであることには変わりない。そして無論、メンヘラのるしあも。

 

・何故私はかくもメンヘラを愛するようになったのか

 よりメンヘラの深奥に迫っていくことにしよう。るしあは、メンヘラ芸である決定的な一点を持って本来のメンヘラが持つヒリつくような感覚を忘却の彼方に葬り去ってしまっている。それは、「愛されたい」と口に出して言うことだ。「私だけを見ていて」、「他の女に目移りするなんて許せない」、本当のメンヘラはそんなことを言わないのである(恐らくこれはオタク達もよく分かっていないが故の誤謬だと思われるが、いわゆる「ヤンデレ」の方が近似概念である。メンヘラは「誰でもいい」のに対して、ヤンデレは「あなただけ」であることを求めるという点で異なっている)。このメンヘラ像の誤謬と見落としは何もるしあに限った話ではなく、多くのオタクコンテンツにおいて見られる現象である。

 そういった意味で、限りなくその描き分けに成功していたのは日本のゲームではなく私が最も愛するノベルゲーム『Doki Doki Literature Club!』である。以下ネタバレとなるのでやっていない人は注意してほしいが、「あなたのためなら私もこんな世界も、もういらない(I leave you be)」と最後に言ってゲームを終えるモニカと、ある世界線ではMCに「愛している、ずっと一緒にいよう」と言われて抱きしめられていながら死を選んだサヨリ(例えそれがモニカの仕組んだものであったとしても)の、どちらがよりリアルな「メンヘラ」と言えるだろうか?モニカは、Act3のJust Monika.世界線から分かるようにMCから発言権を全面的に奪った上で自分のものにしようとした。chrファイルがなければ江戸川乱歩の『芋虫』状態である。このように相手の全てを奪ってでも相手を自分のものにしたい(最終的にモニカはその間違いに気づいたが)という欲望は、メンヘラではなくヤンデレの心理状態そのものである。では、サヨリは?モニカによるプログラム操作というDDLCで最も重要なギミックをあえて捨象して考えるなら、サヨリは「誰かに必要とされたいが、誰かから必要とされると途端に自分の無価値さに気づいてしまう」というメンヘラに特有の心性を持っている。私はメンヘラたるものサヨリ推しなので(?)『Doki Doki Rainclouds!』もプレイしたが、MCに抱きしめられている時点でサヨリは世界を正常に把握できていない。下校中の喫茶店でオレンジジュースの味からMCとの思い出がフラッシュバックして人目もはばからず泣く(プルーストかよと若干笑ってしまったが)シーンは、フロイトに言わせるまでもなくメランコリーである。ちなみにだが、ユリはモニカと別方向でヤンデレの「気質が」ある(Act2の異常行動はモニカの介入がなければ説明できない。ただ、自傷行為に性的快感を覚えるというくだりは自己損壊という意味でややメンヘラっぽいとも言える)。

 メンヘラの「愛されたい」という欲望は、発露されることによって初めてその意義がある。るしあのメンヘラ芸が「芸」としてある種様式美になるかならないかギリギリのところで良い意味で「オモシロ」に昇華できているのは、「愛されたい」という無人称の欲望の発露がないがために生々しくなく、何度もコスることができているのだ。同じようにリスナーを捕まえてヤンデレ的にイジる戌神ころねは、ある意味ヤンデレの表現という意味でるしあより生々しい。しかし、ころねについてはるしあほど観れていないので(そもそもアーカイブを消化することが難しい)、コメントはこれ以上は差し控えておこう。では、生々しかろうがそうでなかろうが、何故「我々」はこれほどまでにメンヘラを愛するようになったのか?ある種の「愛着」と言ってもいいかもしれないが、ここでメンヘラを愛する我々オタク達は、精神分析のうちにヒントを求めるのもよいかもしれない。そう、転移である。

無意識が特殊な状況のもとで表れ、意識ある二つの主体を関係づけるということをフロイトは示し、主張した。そしてフロイトはその特殊な状況を転移状況と名づけた。この状況においては、ある主体が他の主体にみずからの無意識的な幻想のいくつかのかたちを意識しないままに投射するし、また逆の場合もある。(中略)さらに転移の関係は、たとえ存在するときでもかならずしも相互的ではない。かなり一方的な場合もある。(ルイ・アルチュセールフロイト博士の発見」 

  肝心なのは、転移というのはフロイト精神分析入門』27講で言われているように、キャビネにおいて分析主体と分析家の間で分析主体が自らの無意識を分析家に投射する現象が原義的な定義であるということだ。しかし、アルチュセールはこれを拡大解釈し、二つの主体の無意識的投射と定義し直している。(精神分析においてはアルチュセールの知見にやや疑問が残るものの)アルチュセール流転移概念に従えば、メンヘラという主体に惹かれるのは自らの無意識――つまりメンヘラに呼応する部分――の投射、己の内なるメンヘラが別のメンヘラに呼応関係を持っているということが明らかになる、とまでは言わないまでも示唆されている。「一方的」であればこそ、戯画的なメンヘラ像を示してくれる(ホロライブファンタジーの中では異色とも言える存在の)潤羽るしあにも惹かれる。私はメンヘラが確かに好きだし、メンヘラから被った被害も多々ある。それでもメンヘラに惹かれ、架空の存在にまでメンヘラ性を求めてしまうことに、ロマン主義的な言い訳をするべきではないと考えている。己の中にメンヘラを飼ったとき、あなたは既に「こちら側」に来ているのだ。

卒業論文、先走り公開

 昔から僕はそうというかADHDの衝動型ゆえの特性なのか分からないが、待ち合わせにも早く着きすぎるし、提出物もめちゃめちゃ早く出したがる(出せるわけではない)しでこらえ性が全くない。というわけで(どういうわけだ)、一応教授との間でこれで完成という最終的な卒業論文の完成稿をアップすることにする。ちなみにまだ提出すらしていないので何か大学側から文句が出たら取り下げることにする。これで退学になったらウケるよね。ならないと思うけど。

 

 本論文「1960年代のアルチュセールの「哲学の実践」――イデオロギー概念の分析から導かれる主体の理論について――」の内容はアルチュセールの言う「哲学」がいわゆる他の西洋哲学の伝統とは違うところにあるというのが大きな枠組みで、「五月革命」をパラレルなテーマ設定にしている。第一章は五月革命前夜のアルチュセールをPour Marxなどのテクストから素描し、「理論」の時期と「レーニンと哲学」に代表される「転回」の時期について論じる。65000字のうち実に4万字以上を占める第二章ではSur la reproductionの分析を中心に行う。テクストをべったり読むことを目的としており、精神分析社会学などの他の分野については最小限にアルチュセール哲学の一つの結実としてSRを扱うことを心がけた。

 

 それでは、どうぞ。私の実名が入っていることについては気にしないように。

 

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ほんとうの言葉はいつも間に合わずに――哲学科の思い出

 そうだ、これは夢、起きたら僕は20歳の5月になっていて、僕は世界で一番好きな人と付き合っていて、色んな哲学書を読んでいて、一生懸命フランス語を勉強して、そしてベルクソンだかアルチュセールだかで大学院で研究者の道に進むんだ……書いてて胃が痛くなってきた。そうはならなかった。そうはならなかった時点で、この話は終わりなんだよ。今僕は大学院受験の前に「哲学にやっぱり興味ないわ」と大学院進学から逃げ、「就活する」と大ウソをこいて何もせず、やっぱり留年したら哲学への情念が燃え上がってくるという情けない顛末で、そしてマンスリーマンションのベッドだけがクソデカいワンルームでこれを書いている。卒業論文はもうすぐ書き上がって、哲学科の5年生アルチュセールが専門、という学内ではもはや有名になった肩書を捨てて文筆ワナビのフリーターという最悪の人種に成り果てようとしている。でも、これも全部自分が選んだことだから、後悔はしていない。僕は哲学科の友人は少なかったし、哲学サークル(読書会サークル)も同期に一人も友人はおらず先輩後輩とつるんでいたけど、それでもやっぱり「哲学」が好きな人たちが集まる空間や「哲学科」という自分の専攻に誇りを持っていた。大学生活の終わりに向けて、少しだけ思い出話をさせてほしい。そして、進振りで哲学科に行こうとしている大学1年生や2年生の人たちは、どうか僕のようにならないでほしい。なってしまったのなら、折り合いをつけられずにずるずるとしてしまう自らの身の上を、ずっと恥じ入ることになるだろう。

 

 大学1年生の僕は、進学振り分けを三つのコースで悩んでいた。哲学科、仏文科、映画学科。元々高校時代は日本映画で卒業論文を書いていたから、1年の選択ゼミでは映画学のゼミでは発表者を質疑応答で全員ボコボコにし、皆がジブリとか『フォレスト・ガンプ』とかで発表する中自分はルビッチと成瀬の比較検討などをやってご満悦になっていた。そのときゴダールベルトルッチの発表をしていた男が今まで続く最良の友人の一人だったとか、そういうのはある。仏文科については高校時代からバタイユマンディアルグアラゴンアルトーなどを一通り読み、大学に入ってブルトンを読んで衝撃を受け、正直一番行く可能性が高かったのは仏文科だった。もう一人の悪友が仏文科に行くということもあり、ブルトン研究をやりたかったという思いがあった。選択外国語はドイツ語だったが、うちの大学はその辺がゆるゆるで、志望して面接し、熱い思いを語れば通るとのことだった。幸いGPAも優秀というほどでもないがヘボでもないといった感じだったので、行けなくもなかった。

 しかし問題はここからだった。同じ英語クラスの入学当初からぞっこんだった女の子が哲学科に行くとのことだった。これには青天の霹靂、自分の進路と恋路が大きく変わることになる大問題に他ならなかった。僕は彼女のことが好きで好きでたまらず、塾講師のバイトの過重なストレスと過剰な恋愛感情で渋谷駅のホームで発狂、パニック発作を起こして以来障害が変異して躁鬱病になるぐらい好きだった。元々僕は小学生のときから永井均の『子どものための哲学入門』を読んでおもしれ~となって、高校時代はよくも分からずヘーゲルの『美学講義』やウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』などなどを読んでいたが、今考えるとシュルレアリスム文学や蓮實や柄谷などの批評の方を読んでいたし、それ以前に映画を一か月に20本以上観ていたので、そもそも哲学大好きっ子というわけではなかった。しかし、である。哲学科に行けばあの子と一緒に勉強ができる。勉強を頑張って演習の発表などでカッコよく決めればあの子も振り向いてくれるかもしれない。まあ、そんなわけがないし、たまたま入っていた哲学の読書会サークルでベルクソンを割と一生懸命読んでいたというのもあるのだが、僕は血走った眼で第一志望学科を哲学科にした。その子とは3回告白して3回フラれたりやっとベッドインまで持っていけたと思ったら当時既に童貞ではなかったにも関わらず緊張でチンチンがビクともしなかったりとか色々あったのだが、これは哲学科とは関係ないので省略。ただ、後述するが彼女が僕の個人的な哲学科生活に大きな影響を与えていたことは間違いない。

 2年になり無事哲学科に進学した僕は、もうがむしゃらに勉強した。1限のレヴィナスのフランス語講読の予習で前日は徹夜し、フラフラのまま出席して今もお世話になっている教授の話を聞いたり当てられて訳を答えたりして終わったら質問して、大学近くのシャノアール(今はない、大学よりいた時間が長かった喫茶店)でホットサンドとコーヒーを食べて飲みながらカント演習の発表原稿を作り、ラテン語とフランス語の文法をそれぞれ2時間ずつ……などなど。今考えれば好きな女の子と専攻が同じになって舞い上がっていただけなのだと思うが、この猛勉強した期間は間違いなくその後哲学科で過ごす上で糧になったと思う。授業の合間にシャノアールで数少ない哲学科の同期(彼らが社会人や修士に行った後も繋がりがある)と一緒にハイデガーレヴィナスについて語り合ったのもとても良い思い出である。

 そうこうしているうちに、運命的な出会いが訪れる。ルイ・アルチュセールだ。たまたま古本屋で投げ売られていた今村仁司の入門書をウンウン唸りながら読み切り、これは面白いのではないかと思って『マルクスのために』を買った。正直何を言っているのか分からなかった。しかし、その文体の冷徹な切れ味、得も言われぬ凄味に僕はあっという間にアルチュセールの虜になってしまった。特に「矛盾と重層的決定」には衝撃を受けた。僕が好きな女の子と付き合えて、少しの幸せな期間の後に躁鬱地獄に叩き落され、ぐちゃぐちゃの状態になってしまっても、僕は「矛盾と重層的決定」について、喫茶店で、彼女の家で、とにかく手書きで大学ノート一冊分丸々潰して研究ノートを書いた。これはのちのち卒業論文で大いに役に立つことになった。病気というのはよく分からないものである。とにかく、彼女と別れてからやたらフーコーを読むようになったり(単純にあまりエキサイティングな論述ではないので読んでて神経が逆立たなかったというのもある)してもこれ以降今までずっと、というか年を追うごとにアルチュセールへの気持ちは強くなっていくばかりだ。多分哲学科を卒業してもそうだろうし、僕が哲学科にいた意味こそがアルチュセールに出会えたことだと言っても全く過言ではない。

 さて、年が明けて未だに病気でうろんだった僕はフーコーデリダなどを適当に読みつつ時折起こるパニック発作と昏迷に悩まされていたわけだが、この辺りで明確にパチンコにハマり出す。一度先輩から借りた3万を一瞬で適当な4パチに溶かし、親から激怒されるもよく分からず、結局親が先輩に借金を返すなどというどうしようもない一幕もあったりした。結局3年の半ばあたりまでは強制的にドゥルーズヘーゲルを読む機会があったので勉強はしていたが、完全に失速。パチンコ、風俗、アイドルの三本の矢で全く自主的なモチベーションが上がらなくなる。ただ、それでもアルチュセールだけは読んでいた。僕は二巻立ての本を最後まで読み切れた試しがないのだが、『再生産について』だけは「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」含めて線を引きながら完読することができた。結局パチンコは今でも完全にはやめられていない。生活費を賭けてするパチンコ、気持ちよすぎるからね……。そんな中、僕の文章のファンである女の子と付き合うことになる。彼女に関しては特に言うことがない(哲学に関して与えられた影響があまりない)のだが、文筆の道に背中を押してくれたことは感謝している。別れ際は最悪だったが、これも自分のやってきたことのツケだろう。

 そして5年生になった今、2年生のときかそれ以上に、アルチュセールと哲学への感情がより純粋に、より熱くなっているのを感じるのである。

 

 そうだ、これは夢……と思いたい気持ちはもちろんある。病気をしていなかったらあの子と一緒のままアルチュセールを研究して、アカデミアに行けたのではないかとか、3年生のときすごく時間を無駄にしてしまったなとか、もっといろんな本を読んでおけばよかったとか、そういう気持ち。でも、そうならなかったのだ。そうならなかったということは、こうなるしかなかったということでもある。そして、迷っていた仏文科や映画学科との選択に関して言えば、最初の動機はかなり不純であったものの、「やっぱりブルトンをやりたかった」とか「増村保造研究をすればよかった」と思ったことは一度もない(アルチュセールの性質上文学部という選択からミスしていたというアレはあるが、それを言ってもしょうがない)。哲学研究を学部なりに真面目にやってきた人間として、哲学研究の手法が肌に合っていたというのもある。反時代的であれ、それが哲学をもっとも真面目に受け取る仕方なのである。

 

 眩しい未来に もう戻れない――敬愛するルイ・ピエール・アルチュセールの命日に。

ミューザック評論の試みあるいは缶詰音楽の旨味:その1

 一人暮らしを始めると食生活が有意に荒れる。実家では料理の上手い母親が作る肉料理にホカホカの炊いたご飯、サラダには生ハムなんか入ってたりして、勿論味噌汁は赤味噌で、お腹いっぱい食えるわけだが、一人暮らしになると面倒なのでボウルにレトルトのポトフをぶち込んでチン、同じくレンジの飯をチンしたポトフの中に入れてかき込むとかそういうことになる。そして晩酌。実家では酒なんて飲まないが一人でいると音楽を聴きながら酒を飲むぐらいしか楽しいことがない。やきとり缶を開けて味の素と七味をドバドバかけたゴミのようなつまみで金麦を飲んでタバコを吸う。

 しかし、それではこれが惨めでまずい食事だろうか?私はそうは決して思わない。ANARCHY feat. KOHHの「Moonchild」でKOHHが蹴るバースに「お金持ちにカップラーメンのうまさ分からない 白いご飯に醤油かけて食べるのもうまい」とあるように、美食や金をかけた、手の込んだ食事だけをうまいと思う人生はある意味不幸である。缶詰に味の素をかけるような食事をうまいと思うこと、そのような感性を音楽に対して持っているかということを、これから私が紹介する音楽は問う。それが、「ミューザック Muzak」である。本記事は批評ではなく、評論なので私の美意識による価値判断が多分に含まれる。ミューザック自体が日本で未だ体系化されるに至っていないということは勿論あるし、作家性がないジャンルである以上作家主義的な差異づけというものがかなり困難であることも挙げられる。「その1」とあるように、この「ミューザック評論の試みあるいは缶詰音楽の旨味」はシリーズであり、手始めにMuzak Orchestraという団体(あるいはアーティスト?)のSpotify上にある10枚弱の音源について1枚ずつ、全ての盤について評論・吟味していくことが目論見となる。

 

・陳腐なロマンスに陶酔すること

 ミューザックとは1920年代に作られた、主にアメリカのスーパーで流すための「複製品」の音楽であり、粗製濫造が目的であるために全てが似たようなものになる。最近ではVaporwaveの潮流から「モールソフト」というジャンルでオーヴァーダブやイコライザー、エコーなどの加工をかけてズタズタに切り貼りしたものがごく一部で流行っている。とはいえ海外文献をあまりしっかり読み込んでおらず(海外文献でさえもあまりないが)、知識の浅い私がミューザックに関して言える客観的な情報はこの程度である。ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンド結成以前にミューザックを作曲する仕事をしていたというインタビューを読んだことはある。id:godsavequeen氏のブライアン・イーノとミューザックについて書かれた記事を参考にされたい。

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 さて、ミューザックの抗いがたい魅力とは何か。まず、スーパーで流れることを想定している=BGMを主体的に聴こうという我々の態度がおかしいしそれをアルバムにまとめる連中がいるというのも大分狂っているという前提を主張した上で、流血沙汰が起きる前の爛熟した、陳腐なロマンスの表象に陶酔する、あるいはその匂いを嗅ぎつける感性を持っているか否かでミューザックへの没入が可能かの如何が決まると言ってよい。例えば、デヴィッド・リンチブルー・ベルベット』の冒頭の白い柵、青い空、赤い花に陳腐なジャズ・ヴォーカルが重ねられるショットに得も言われぬ不穏さを感じ取るかどうか。あのシーンで既に心臓発作を起こす男が映されているが、そこにデニス・ホッパーの狂気を感じ取れるかどうか。あるいは意外な例かもしれないが、リンチ的な恐怖という意味で言うとAKB48の『ラブラドール・レトリバー』のミュージックビデオ。ボウルに犬のエサのシリアルを入れる間延びしたショットにタイトルバックが来るぎょっとする演出もさることながら、ナイアガラサウンドで歌い踊るアイドルの白飛び寸前のあまりにも明るい画面に甘美な死の匂いを感じたのなら、あなたはもうミューザックの入り口に立っている*1

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 ナット・キング・コールエラ・フィッツジェラルドの甘く蠱惑的なヴォーカルが音楽そのものとしてキッチュではなくポップであり、それ自体として美しい音楽であったのに対し、ミューザックはキッチュである。過剰な明晰さはときとして人を不安にさせる。陰影がなくのっぺりしている。ダイナミズムがない。引き伸ばされた陶酔で感覚がバカになる。人によってはうんざりだろう。しかし、ブロンや金パブのオーヴァードーズがデパスの強烈なそれよりも手軽でのっぺりした陶酔をもたらしてくれるが故に、デパスよりもブロンを大量に酒で流し込むことの方がよい(?)場合もあるのだ。「美は餌に過ぎない」とは指揮者のセルジュ・チェリビダッケの弁だが、ならば餌を大量に、たらふく食ってやろう。本質なき空虚で嘔吐寸前まで満腹になること、それがミューザックのアルバムを何回も聴きこむことである。

 

・その1:『Muzak Stimulus Progression 1974』

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 最初に紹介するのは私が勝手に「青盤」と呼んでいる『Muzak Stimulus Progression 1974』。何故「青盤」かというと、「Muzak」の後に「:」がついている以外タイトルに違いがなく収録曲が全く異なる黒いジャケットのものがあるためで、差別化するためにこう呼んでいる。こうした雑さも、またミューザックの一興である(これをややこしいと思ってディグをやめてしまう人はミューザックに向いていないだろう)。Muzak Orchestraの作品の中では最も特徴的で、ひっかかりやすいアルバムである。ソフトロック的な『Number One』辺りと比べると艶っぽくジャジーな色が強い。また、モールソフトの大名盤であるMall Music Muzakの『Mall of 1974』のサンプリングの元ネタでもあり、私はミューザックをVaporwaveの流れでこのアナログのYoutube音源から知った。これもid:godsavequeen氏が主題的に取り上げている。ちなみにInternet Archiveから全曲落とせるが、私はヴァイナルで買おうと思っている(金がない)。

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 Muzak Orchestraからのリリースが1970年代に集中していたり、またKmartシリーズ(と言っても伝わらないので、イリノイ州にあるKmartという大型スーパーで流れていた音源が何故か月単位で残っており、その300を超えるアーカイブのことを便宜的にKmartシリーズと呼んでいる)の名盤『Reel to Reel』が1973年だったりなど、70年代はMuzakにおいて傑作の森だったのだろう。ジャズ要素が強い、あるいは讃美歌などのアレンジといったスキモノにはたまらない要素が盛り込んであるのも70年代だ(90年代のKmartとかだと割とショボい打ち込みやシンセなどが入っていたりする)。という訳で、紹介していく。

 

1.Star Eyes

 名曲。と言ってしまえばそれまでなのだが、その一言で片づけてしまいたくなるほどに素晴らしい。劇的なストリングスの開始で一気に幻想の世界に連れ込まれ、安いシンセサイザーの多重録音がめまいを引き起こす。ホルンとトランペットのソロがこの曲の目玉となるが、特筆するべきはホルンの甘い音色だろう。私は元ホルン奏者なのだが、明晰で出音がスパーン!と鳴るいかにもアメリカな音色のトランペットに比べてこのホルンの艶やかで色っぽいハイノートはアメリカやドイツのそれではなく、イギリスのパックスマンあたりに近い印象を受ける(ホルンオタク語り)。過剰なルバートをかけないのも、またなんというかいやらしさがある。勿論、ブリッジでフルートとグロッケンを重ねるラヴェル的なんだかよく分からない絶妙に下手なオーケストレーションもたまらないポイントの一つだ。必聴。

 

2.Lady Blue

 陶酔的な「Star Eyes」から打って変わってバッキングのクラシックギターとワウをかけたエレキギターが軽快な一曲。ストリングスとギター、ホーンセクションの妙に気を取られるが、この曲で聴くべきは全くルートを弾いておらず別の旋律を弾いているエレキベースである。どことなくファンキーな印象もあり、はっきり言ってバッキングが退屈なミューザックにおいては珍しい曲でもある。ただ、電子楽器が結構元気な曲なのでミューザックの中では聴いていてやや耳が疲れる感じもする。ちなみにSpotifyのMuzak Orchestraの中では最も再生回数が多い。

 

3.Kate McShane

 軽快で能天気なホーンセクションとファンキーなバッキング、グロッケンのループが印象的な一曲。トロンボーンの朗々としたテーマの歌い上げの後にエモーショナルなストリングスが入って一気に曲が締めに入っていくのが唐突で面白い。『Mall Of 1974』に明確に引用されており、同作は「青盤」とKmart『Reel To Reel』の組み合わせ(サンプリング)によるものだと思われる。短い曲だが耳に残りやすく、山椒は小粒でピリリと辛いといったところか。

 

4.Vorale

 いわゆるKmart的(日本で言えば「ジャスコでかかってそうな曲」)な陳腐さと安っぽさが顕著。ホーンセクションのクソダサいブレイク、合いの手のピーキーなシンセの音、サビの流麗だが中身が無さすぎるストリングスなど、「Star Eyes」の深みのあるしっとりした味わいからかけ離れすぎていて「Kate McShane」よりもズッコケ感がすさまじい。誤解のないように書いておくと、私はめちゃくちゃ褒めている。聴きどころは二回目のブレイク前のギターソロだろうか。三連符で割ればカッコいいのかというとそういう訳でもないということを身をもって示している。こういう曲を聴くとミューザックとはどの程度真剣なのかが全く分からなくなってくる。

 

5.This is my country

 ベースがウッドベース的にルートを大人しく弾いているが、「Lady Blue」が異常なだけであってこのベースはミューザック的には普通である。イントロやブレイクでストリングスが入るが、大変失礼なのは承知の上で基本的にはカウント・ベイシー的なビッグバンドのビートとホーンセクションで展開していく。何気に聴き逃されがちなのがミューザックにおけるフルートの立ち回りで、グロッケンやストリングスの音の厚みを増すためにオーケストレーションされがちなので、よく聴くとフルートが重ねられていたりする。これはどちらかというとクラシックからの影響と言うべきだろうか。

 

6.Dance With Me~12.Tower of Strength

 ここまで1曲ずつレビューしてきたが、これ以降はある1曲を除いてほとんど変わり映えがしない。サルサボサノヴァのリズムを取り入れたジャズ・オーケストラ……と言えば聞こえはいいのだが、上にも書いたようにジャスコのBGMを1曲ずつレビューするという狂った営みをやっているわけで、ジャスコのBGMばかり聴いていたら頭がおかしくなる。しかしここがミューザックのミソで、人畜無害な音楽、あるいは美しい音楽であるかのように見せかけて根本的な不安をどこかで煽ってくるような、そういう音楽なのである。「これ以上聴いていたら頭がおかしくなる」と思わせるそれは、いわゆるカールマイヤー的なそれというよりも、ポケモンのシオンタウンのBGMにどこか近いかもしれない。同じ音楽が目の前で複製され続け、もはや何の曲を聴いているのかさえ分からないという……モールソフトは、その「不安」を作品の要素として還元した一ジャンルである。ガビガビのVHS録画の日本の昔のCMが不安をかき立てつつも美しいように。

 「Teach Me Tonight」は、その中でも「Star Eyes」と並んで、いや別次元でエロティックでしめやかな一曲だ。ゆったりしたスウィングのリズムに乗って、ギターのオクターブ奏法(二本のギターである可能性もある)はウェス・モンゴメリーのそれを思い起こさせる。イントロが終わると、最も官能的な楽器ことアルト・サキソフォンの旋律が顔を出してはシンセサイザーやギターの寄せては返す波の中に沈んで浮かんで、消えていく。これはジャスコではかからないだろう。過剰な明晰さの中に、秘められたものがある。その秘められたものは、どこか猥褻かもしれない。猥褻で卑猥なキッチュさ、それこそがミューザックの「密かな愉しみ」なのである。

 

・次回予告

 今回は『Muzak Stimulus Progression 1974』を紹介した。「:」の「黒盤」も勿論紹介していくつもりだが、次回はMuzak Orchestraのアルバムの中でも体系的な1977年のアルバム『Joy and Peace to You』を紹介したい。ミューザックにおける「クリスマス・オラトリオ」であり、1曲ずつというよりはアルバムの特性を腑分けして紹介することになるかもしれない。更新は一応2週間後を予定している。缶詰音楽の旨味、化学調味料をドカ食いすること、それを健康ではなく快楽のために摂取すること、これすなわちミューザックを聴きまくることの愉悦である。

*1:AKB48的なアイドルポップスの良い意味での陳腐さがそもそもミューザック的であるという言い方は可能ではある。裏付けがないが。

(性的)不能者の仮想転移(杏子昆布/@ans_combe氏への応答=責任)

   先日、杏子昆布(@/id:ans_combe)氏にマシュマロを飛ばし、興味深い返答を頂いたので本来であればツイートにて応答するべきことであるが(議論がオープンになり見えやすい為)、環境により付すことがあらかじめ不可能な脚注をそれぞれのツイートに対する応答に無理矢理つけてブログのエントリとする。
 決して長くはならないものの、この主張をまずは宣言しておきたい。私は実質的な不能者である。射精に快感を覚えなくなった。生理現象の中途半端な勃起しかしなくなった。異性との繋がりを保つためのマッチングアプリで連絡をまめに取るのが億劫になり、多少のことで異性に苛立つようになった。そして美少女Vtuberを溺愛し、ついには仮であれアバターを作って毎日ニコ生で配信するようになった。視聴者はいなくても(それでもたまに同時接続30人でびっくりしたりする)、この生き方はとても楽しい。私は「女の頭に金属バット」を本当にフルスイングできるようになった、つまり対象を語る転移とその転移に敗北することを運命づけられた抵抗が語りに表面化しやすくなった。例えばid:turnx氏のような倒錯への耽溺でもなく、「他人事ではないかのように」その対象を語ることは、恋愛、憐憫、共感、同情などの感情に限らず、理論的モデルや概念からの逸脱に向ける視線が不自然に肥大化するといった場合もある。
 杏子昆布氏への手紙(マシュマロ)は無事届いた。ならば、手紙を出した者として「不能者の転移」をときに長い注釈ーーナルシシズム的なーーを付しつつ、文字と欲望の往復を示してみよう。

 

・「僕は転移を起こさないよう注意して書いています。そもそも、病者(書かれる客体)-治療者(書く主体)の構図にならないようにも注意しているつもりです(できているかは微妙)。(後略)」
フロイト精神分析入門』第27講「感情転移」における「転移」は一義的には分析家と分析主体の間の特殊な関係(L.アルチュセールフロイト博士の発見」1976も参照)を指すので、治療者と患者という関係性は間違ってはいないと思いますが、転移概念(あるいは私が批評において使う「転移」)はその一方向的な関係性が揺らいでしまうところに分析の「裂け目」(これはJ.ラカン精神分析の四基本概念』1967の「無意識」の節冒頭を参照)があります。また、あまり批評において精神分析の用語を不用意に使いたくないという気持ちは私にもありますが、何かの対象という「分析主体」を「書く」という行為自体が「分析家」の役目であり、多かれ少なかれの倒錯や不能の露出というのは書くこと=転移の宿命であり、その意味では杏子氏は書くことの営みに存する倒錯的な面を見落としています(私がなぜあのマシュマロを送ったかというと、転移の抑制に失敗していると思ったからです)。

 

・「理由としては、転移する文章が私的言語に近づき、意味が分からなくなる(検証ができなくなる)という問題点があるからです。外部との関係を制限してしまう文章/考え方に対する、違和感が強くあるのです。」
→これについてはよく分かりませんでした。批評には常に「私的言語」が潜んでおり、「私的言語」であるから意味が分からないということにはなりません(テクニカルタームジャーゴンの濫用という意味であれば全面的に同意しますが、どちらにせよ批評言説は常に私的です)。むしろ、「読んで全員が分かる文章」になど何の価値もありません(それは「開かれ」ではない)。検証可能性という意味で言うと、Vtuberを概念工学として捉えるか、哲学・文学として捉えるかの差異でしょう。私はナンバユウキ氏の文章に大変反感があります。なぜなら、彼の文章は「何かを語っている」ように見えて私がVtuberに見ているものを何も明らかにはしてくれないからです。しかしこれは見方の問題でもあるので、わざわざ取り上げる必要もない以下のツイートで言及されている杏子氏にとっての中沢新一アガンベン(なぜ中沢のようなペテンをここで挙げるのかーー柄谷や蓮實ではなくーー理解に苦しみますが。アガンベンは不勉強につき言及しません)と似たようなものなのでしょう。これは相対化でなくVtuber言説の棲み分けが不十分であることに由来すると考えられます。

 

・「転移する文章をVtuberで考えれば「ガチ恋」の対象について書く、というのがあり得ます。(中略)このメンバーについて今のところ書こうとは思っていません。」「(前略)他の人が散々やっているかなあ、という感じや、あまりにもポエムみたいになってしまうという危惧から避けています。(後略)」
→私はガチ恋だった御伽原江良論からVtuber批評を始めたのであまり分からないのですが、「俺にしかこの子の良さは分からないが、なんとしてでも俺だけが分かるこの子の良さを言語化したい」というモチベーションがないのだとしたらあまり言うべきことがありません。「他の人がやっている」かどうかは私にはあまり関係がないので(過去に書いた轟京子論は「Vtuberの人格」論としては凡庸だったと思いますが、気に入っています)。ポエムはポエムで否定されるべきものではありませんが、技術と才能が必要で、これは私にもありません。あえてハイパーリンクを貼りませんが、八神きみどり氏の「Yellow Green Mechanical」というはてなブログの「2019年4月1日(水)の、僕のガチ恋」というエントリは「Vtuberガチ恋するオタクはどんな言葉を紡げばもっとも美しいのか」を示しています。

 

・私は杏子氏の読んだエントリの中で神楽めあ論が最も優れていると思います。倒錯的ではない愛情の眼差しがあるからです。

 

 以上、一部反論、一部賛同を示し、私なりの回答を行った。ところで、なぜ私は杏子氏のブログを読み、マシュマロを飛ばし、このような記事を書いているのか。そこには生が賭けられていたからである。私と違った形で何かこれによってVtuberの言葉を変えられるのではないかという賭けがあるからである。無論、私も。

早良香月Vtuber批評まとめ

   Vtuber批評がまた盛り上がっている。よいことだと思う。私は今まで4つのVtuber論を書いてきた。それぞれに簡単なコメントを付し、改めて挙げておきたいと思う。この全てに、私は私のVtuberについての何かを賭けていることが読み手に伝われば幸いである。

 

・2019年

「御伽原江良について――虚構の臨海とペルソナの呪い」

https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2019/06/24/033706

初めて書いたVtuber批評。ナンバユウキ的工学/美学による三層構造ではなく構造から逸脱する文学をVtuberに見いだす試み。当時5chに貼られて「キチガイギバラヲタク」と言われた。

Vtuber・轟京子という人格――凡庸なろきぺによる一考察」

https://note.com/anusexmachina/n/nc3bc30b89129

三層構造の限界から「人格」という現在の他の分野の批評まで通低するテーマで轟京子について。「ガワ」や「プラットフォーム」というインターフェースは人格を左右するかの問い。

 

・2020年

「女の頭に金属バット――Vtuberとリアリティショーの倫理、射精するオタク」

https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2020/06/05/025022

生配信Vtuberには倫理がないとする「みそは入ってませんけど。」に対する応答。Vtuber論というよりオタク論。何をもってオタクがオタクの判断を下すかは倫理の彼岸にある。

「われら主体を待ち望む――Vtuberイデオロギー的再認、還元不能な場所で――」

https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2020/09/09/164421

サークル誌に載せる原稿の初稿(なお「もっと簡単にしてくれ」と編集から差し戻された)。Vtuberの定義を工学/美学に求めるのではなく、哲学/社会思想の分野から基礎づけ、卯月コウに応用する批評的試み。轟京子の記事に次いで伸びた。

大森靖子、語りの未遂――ポップネス・悪徳・複雑なもの

はじめに
 現在精神病院に入院、静養と投薬治療で嘘みたいに頭の中がクリアになった。パソコンの持ち込みはできないようなので、ポメラからスマホに移してのブログ投稿になった。やっぱり人は簡単に絶望してはいけないと同時に、簡単に絶望させてもくれないのである。

 

・序:ポップネス、悪徳の栄えーー大森靖子批評
 音楽の「批評」といった場合、安直な形で「歌詞」あるいは「コード」の分析といった部分に論旨を帰する場合が多い。筆者は音楽理論に明るくはないのだが、例えば田中秀和の用いるオーギュメント・コードの進行が他のアニメソング・ポップスと差異化の一因であることを指摘したところで、何だ?例えばつんく♂の書いたハロー!プロジェクト(これは本稿で主題的に扱われる大森が「IDOL SONG」でオマージュしていることだが)の楽曲の歌詞がエリック・ロメールの映画のように女の子の心理を卓抜に描写していることを指摘したところで、何だ?
 要するに、従来の、とりわけポップ・ミュージック批評の面において、歌詞と曲をただそれのみとして取り上げる以外のことが、環境的にも文脈的にも難しかったのである(「恋するフォーチュンクッキー」がフィリーソウルなどという唾棄すべき言説はここでは俎上にも上がらない)。ここで取り上げる大森靖子という「超歌手」の生み出すポップ・ソングについても、事態は同じかそれ以上に困難である。何度もセルフ・リメイクされる「ミッドナイト清純異性交遊」「絶対彼女」の楽曲のあり方それ自体を「ポップ」だと言ってしまえばそれまでだが、大森の引用するハロー!プロジェクトに対する惜しみないリスペクトや以下に論じる銀杏BOYZからの影響などが大森自身を重層化し、また大森プロデュースで最近は戦慄かなのとの舌戦でまたトレンドに上ってきたアイドル、ZOCの掘り下げが音楽ライティングシーン全体で甘いことなど、様々な問題系が絡み合っている。この大森靖子というポップの「超歌手」を、一挙にまとめる批評的な論陣の仕掛け方を、今まさに問おう。
 大森靖子、それは最上の悪徳のポップス・クリエイターである。どういうことだろうか。
 この記事が大森に抗するものであるとして、この次の節で述べるパンク・ロックとポップスの違いがリフレインであり、リフを前提とした主張を許してもらえれば、大森は「 繰り返すこと」を拒否するが故に、ポップスのクリエイターとして一級なのだ。しかし、大きなテーマ、つまり「他者の承認によって担保された女の子の「かわいい」」像を大森の中で循環的にループし、反復を拒み、大森は進んで「アイコン」になった。もっとも、大森のアイコンは何をも代理=表象していない。大森のような欲望、ルサンチマン、さらにそれを戯画化し、あらゆる現実的事物の概念を「超出」した「歌手」として大森は自らを位置づける。
 さて、ここまでの読者でどれほどの人数が気づいているかは分からないが、これは大森靖子に関して毀誉褒貶のいずれかを与える訳でもなければ、「分析」する記事でもない。大森、ひいてはポップ/ロックに対する「批評」言説の一定の指針であり、その限りで価値判断のようなものは存在するだろう。しかし、大森が「すごい」と言われるとき、それはどの次元で「すごい」のか、という根拠を問わねばならず、それが音 楽批評であるのだが、音楽的文脈、コード、歌詞(歌詞は本稿でも触れる)の表面的な解釈で「すごい」と言えてしまってはダメなのだ。大森というシンガーソングライター、「超歌手」、そして何より悪徳のポップス・クリエイターについて「ただしく」何かを言うための手引きを、今こそ示さねばならない。

 

・破ーーあいどんきるゆー/あいどんわなだい ZOC「ちゅーぷり」

https://youtu.be/WWIYBv3mYio
 恋人同士がキスすること、それは果たして均等な欲望の交換となるかーー否、である。セックスも同様である。欲望が均等に交換されることなどあるのかーーそれもまた否。この絶えざる欲望の不均等(それが欲望の肯定である)はさながらジャック・ラカン「アンコール」のようだが、大森楽曲においてはこのいかようにもしがたい欲望の交換関係の破調をほとんど神経症的にループする。「愛してる」「はじめてを全部あげる」と歌う初期の「愛してる.com」は能動的な大森的恋愛を示す一方で、作詞作曲、ディレクションのZOC初期の「ちゅーぷり」では「ねえ、ちゅーして」と扇情的で受動的な愛の欲求の呼びかけから始まる。肝要であることは、愛においてはもらう方もあげる方もそれが空虚であることである。「ちゅーぷり」の特殊性、つまりアイドルがファンに会いたくて愛している、という一般的で陳腐な見方はその空虚さをどうにかねじ曲げようとしている、大森のアイドルグループだからこそ見れる精神分析的真理における自己分析の姿であろう。大森は「激情派」(筆者は浅学なのでこれにどういう体系だった見通しがついた呼称なのか知らないし、多分そういう見通しはない)と呼ばれるシンガーソングライターであるが、この屈折なきままに「沈没」し、その激情に一定の価値があるのは毛皮のマリーズの「愛する or die」の「俺だけ愛してくださいよ」という不可能な雄叫びが対比的に挙げられる一方で、大森は愛について志摩よりいささかクレバーであり、そして絶望している。
 「ちゅーぷり」が屈折しているのは、この楽曲は愛の挫折であり、生の肯定が予示的であれ示されている(のちに示す楽曲で回収されている)という事実である。「会いに来て会いたい」とサビで言っているにも関わらず、「ちゅー」がファンにバレたらまずい、という曲の冒頭での「恋愛禁止」という陳腐なタブーに対するアンチテーゼがそのまま歌われている。さて、では、「ちゅーぷり」という曲は「アイドルになって都合よく愛されたい」という曲を意図しているだろうか。おそらくではあるが、大森でなければそのような単なる露悪的なーー「悪徳」ですらないーー曲というのは多分実のところいくらでもあるだろう。大森の構造がポップのループだとして、本文がパンクのリフであるとすれば、大森は「悪徳」のポップネスである。悪徳とはどういうことかーー悪において審美的であることである、マルキ・ド・サドの示したそれのように。大森は優れて審美的に悪であろうとする、あるいは悪とされている部分に審美的な部分や人間的な部分を見いだす。そしてそれは、「大森靖子」であり、大森靖子ではないのである。
 話を戻そう。多くのアイドルソングがそうであるように、ファンと思しき二人称単数がここでも用いられている。また、「あ」という連続しづらい母音の連打は「アイドルになって」に繋ぐためである……か?そうではないだろう。最も重要な歌詞、「あいどんきるゆー」というひらがなの英語がここで出てくる。先の節でも示した通り、大森ポップスの究極的な理念は「他者」(きみ)がいないと「自分」(わたし)がいない、という構造に基づいている。他律的でありながら自己中心的であり、この「女の子」の生き方について大森は一貫して擁護もしていなければ否定もしていない。ただ、肯定している。そう生きることによって生きられる人々は、切羽詰まっている。その切羽詰まりとして出てくるのが 、「あいどんきるゆー」なのだ。I don't kill youであり、「きみ(たち)」を殺してしまっては「わたし」は生きられない。だから、「ちゅー」できるかどうかではない。「ちゅーして」「ちゅーさせて」と、「きみ」がいなければ言えない台詞を言わなければならない、神経症的に、という話である。簡単な連想を許してもらえるのであれば、直感的に峯田和伸の詞である「あいどんわなだい」が対で思い浮かぶ。峯田は銀杏BOYZにおいて、徹底的に押し進めたのは「ぼく」の内宇宙(インナースペース)の無限性であった。峯田には「きみ」が実はいなかったが故に、「駆け抜けて性春」でYUKIをキリングパートで起用せざるを得なかったのである。代わりに、無限の「自分語り」にポエジーがあった。それはのちほど述べるとして、あいどんわなだいである。死にたくない。殺したくない。「ない」、と言うことでしか、生を言祝ぐことができない。この消極的な生への祝福こそ、大森が峯田から引き継いだものであり、そしてまた峯田のリビドーの逆流を抱えきれなくなった大森の峯田に対する断罪が、この後述べるイコノグラフィックな大森と峯田の詞の比較論、そしてまたZOCに戻り、「ヒアルロンリーガール」でのエディプス的なものとの決裂を胚胎的に示すのである。

 

・急ーーぐじゅぐじゅなもの、文、単語 大森靖子「みっくしゅじゅーちゅ」「ミッドナイト清純異性交遊」銀杏BOYZ「ぽあだむ」「あの娘は綾波レイが好き」

https://youtu.be/TFAJssLruSU

https://youtu.be/aT2B-MEAMLA
 完全に当たり前の話をすると、ソングライティングにおいて性的なものを喚起する場合は液体のイメージが用いられることが多い。精液、血、唾液、汗、などがある。性=生をテーマにする大森も峯田もその点においては通じている。では、どのような仕方で現れているのか?この現れ方は、二人の歌詞がもたらすイメージの差異、あるいはパンクとポップの違いにも結びついている。
 峯田は、歌詞の中で決定的に性的なものが問題となる場合、名詞を伏せる(例:愛液「僕のチン毛は べっとりあの娘で濡れている」)か代名詞で置き換える(例:精液「いっぱいあれ 出しちゃいそうなの」)傾向にある。この後述べる決定的なパンクとポップの差異、即ちリフレインかループあるいはその複雑化という部分にすでに触れてしまうのであれば、峯田の「決定的な箇所を言わない」(あるいは言う:cf.「べろちゅー」など)という方法はパンクの方法論に則っている。どういうことかというと、パンク・ロックはリフレイン(リフ)の原則であって、ギターやリズム隊が四小節、あるいは八小節、四分の四拍子の中で決まったリズムパターンやコードパターンを繰り返すこと(反復すること)に一定の美学が存在する。原義的なパンク・ロックにおいて「スリーコード」(三つコードが押さえられればよい)の原則が様式美となり、以上の形になった。当然乗せられる言葉も限定され、あまり高度な比喩表現ができない(「ふいていいよ 潮」などもこれに当てはまる)。この意味で言えば、ファンク・カッティングのリフとシンセによるメロディが魅力的な反復を見せる「ぽあだむ」の原曲とクボタタケシがリミックスした同じ曲ではまさにパンクとポップの差異があると言ってよい。
 さて、大森の「みっくしゅじゅーちゅ」の検討に入る前に、簡単に上で触れた峯田の「イメージの羅列から来る〔…〕二重化されたポエジー」とは、いったいなんなのか。峯田の 歌唱、あるいは銀杏BOYZの歌詞を見てもらえば分かるが、主語がなく述語だけがある、目的語がない、などの日本語になっていない歌詞がかなりある。「白い塩素ナトリウム 水色の水着を溶かすなよ」という「夢で逢えたら」の歌詞は完全に意味不明である。しかし、ライブでは「白い塩素ナトリウム」を歌った後、「水、水」と叫んで「白い塩素ナトリウム」をリフレインするなど、要するに「夢」が喚起するリアリティとは独立した"ポエジ ー"を峯田は描いている。
 それに対して、大森は峯田からの影響を隠しておらず、「Re:Re:Love」(これは両者ともに失敗作で、どちらの良いところも出ず、手癖だけのどうしようもない曲だが)で念願のコラボを果たすなど、様々な点で大森にとって峯田が特権的な位置を占めていることが確実である。しかし、2013年に「大森靖子と来来来チーム」がプレスしたアルバム『ポイドル』の頭を飾る「ミッドナイト清純異性交遊」ーー大森が同年リリースした『絶対彼女』のジャーマン・テクノポップ的アレンジとは異なったピーキーパンク・ロックで、恐らく大森が「ピンクトカレフ」以上に「ロック・バンド」だった証拠としての「ミッドナイト」ーーでの有名なライン「春を殺して夢はひかっている」に峯田に対する「父殺し」を見ることが可能だ。そもそもこの文章の主語は「夢」、述語は二重で「殺して」「ひかっている」、目的語は「春を」できれいな日本語である。察しの良い銀杏リスナーならおわかりの通り、ここで出てくる「春」(「青春時代」、「駆け抜けて性春」など)や「夢」(「夢で逢えたら」、「人間」など)は峯田が殆ど強迫的に単語のみで反復して使うことが多い。"ポエジー"の鍵であり、言葉が単独であること(単語)に峯田の場合意味を持つ。ところが、大森は文章にすることによりそれらの単語に複数性と意味の固有な連関を発生させ、単独的"ポエジー"だったものが複数の"イメージ"  へと解体される。既に峯田の方法論は乗り越えられ、大森はデビューにおいて単独なものの否定、即ちロックでなくポップへと向かっていくのが「ミッドナイト清純異性交遊」の段階で分かるのだ。
 「みっくしゅじゅーちゅ」は、まず曲の異様な複雑さを正しく分割できる人間が音楽の教育を受けていない者に果たしてどれほど正しく理解されるだろうかーーポップ・アナリーゼ以下の、「Aメロの前半と後半の性格の違いはBメロではない」レベルの。とはいえ、「サビの導入が正確に前の小節に八分音符分食って入っていて、サビのシンコペーションも帳尻合わせの十六分音符もなしにBメロが作られている」という驚くべき事態(驚くべき、というほどでもないのだが)には、当たり前に驚いてしまう人がいても自然かもしれない。なぜなら、これが「ポップ」であるから。ポップであるとは字義通り目の前で何かが炸裂することで、あらゆる予定調和を大森は軽やかに、歌謡曲も歌うかのように「超出」してみせる。「絶望がサマになる 恋の季節SUMMERになる」と「しょーもない」駄洒落を踏んでみたところで、パンクならキメのリフになるところを大森のポップスでは箸にも棒にもかからない。驚異的な歌詞がある。「この夏 君と私は二人きり みっくしゅじゅーちゅになろうね って言った」の箇所であるが、このように予定調和を破られ複雑化したポップスにおいては「君と私」は「みっくしゅじゅーちゅ」という「ミックスジュース」を越えた「ぐじゅぐじゅ」の何かがそれまでの歌詞の連繋=複雑化した"イメージ"と結びついて性=生を表象している。さらには、「って言った」のは、「きみ」なのか、「わたし」なのか、分からないのだ。『MUTEKI』時の大森が意図していたのかは分からないが、ここに、小さな交換=交歓の成就を見ることができるだろう。逆行するようだが、「ちゅーぷり」(無理があるなら「絶対彼女」や「愛してる.com」でもよい)におけるような挫折が発話の責任の所在の宙づりによって「みっくしゅじゅーちゅ」になってしまうのだ。そしてまさに現在を単独なものとして捉えない、まさに引き裂かれた言葉の「悪徳」の頂点にいる大森は、こう言うのだ。「幸せのイメージは 捉えた瞬間過去になる」-ーと。

 

・未遂ーーも~っとヒワイな自己肯定! ZOC「ヒアルロンリーガール」

https://youtu.be/YUGOXBgl87I
 さて、ここまで、大森ワークスを峯田和伸との影響からも「概観」できずに「つまみ食い」に留まってしまったわけだが、音楽批評の可能性と困難とは、特にポップネスにおいてなんであったか?それは、「好き/嫌い」の価値判断を下さずに「批評」しなければならないからだ。むろん、このブログでも言っているように批評対象に「転移」することは、とても、とても大事だ。私が大森靖子という「超歌手」のどこに何を見いだして、どこが優れていると思ったのか、それは読み手のみなさまに委ねられる。
 しかし、この楽曲、ZOCの「ヒアルロンリーガール」、「君を注入してかわいくなりたい」、そして「死にたい言わない主義」という歌詞が示す一連のイメージの解釈、また本記事で唯一言及するZOCメンバーの巫まろの歌い出しの異様な感じの私が唯一できるリズム・アナリーゼがまだできていないなど、課題含め、本記事は、私の、そして今後のアマチュア音楽批評の未だ「未遂」に留まっている。