思考停止

映画、本、音楽、など

アイドル私的年代記、あるいは感情教育

 個人史なるものを人に向けて説得的に伝えるのは大変難しい。自家撞着的になるというのもそうだし、そもそも自分がそんなに人に興味を持ってもらえる人間なのだろうかという感慨も、今から個人史を書こうとしている俺の胸中に湧き上がってくるのを抑えきれない。しかし、ブログという形態がまずは個人史に他ならないという事実もまた厳然と存在する。大学1年生の春学期に始めたこのブログももう7年目にならなんとしているわけで、よくもまあ恥知らずに自分語りを7年もしているものだとうんざりもする。結局俺は自分が可愛くてしょうがない。だからTwitterをやっているし、同人誌もやるし、ブログもやる。あんまり根がハイパーメディアにできていないので複数の媒体で自己を発信することが得意ではないが、それでも文章を書くということは下手の横好きで続けてきた。

 個人史を書くにあたって、俺は自分の血肉になっているものについて簡単な見取り図をそういえば書いていなかったなと思った。個人史というのも適切な語彙ではないような気がするが、要するに自分が何を好きになることによって反省的に自己を形成してきたかをまとめる作業をすることは自己満足であれ有意義なのではないかと思う。俺が自信を持ってこれがルーツですと言えるものはおおまかに二つあって、一つはクラシック音楽で、もう一つはアイドル(広義)である。まあ、前者は書いても面白くなりようがない(というか、面白くするための工夫に際限がない。アイドルは面白いのかと言われるとそれも微妙だが……)のでここでは扱わない。アイドルの話を俺はしたい。俺は今月で26になるけれども、アイドルを意識して観始めたのは13歳からなので、かれこれ人生のちょうど半分をアイドルに捧げてきたことになる。当たり前だが、13年間は人を変える。人と比べて経歴が多少面白いことになっている俺だが、13歳のときの俺は26歳になってもデートもできない女のケツを必死になって追い掛け回しているとは想像もしていなかっただろうし、よく覚えてないが、多分26にもなれば定職に就いて未来のお嫁さんと同棲でもしているだろうと考えていたと思う。でも、そうはならなかった。しかし、そうはならなかったからと言って、人生が終わるわけではない。最近Twitterでも見かけたが、夢の後始末をする時間が俺には刻々と迫っている。俺も適当なところで自分のメシ代を稼げるようにならなければならないし、多分その頃にはいろんなことが手遅れになっていて、それを取り戻す体力もないまま、孤独と友人になっていることだろう。別にそれでいいと思っているし、一発逆転があるならあるで期待したいが、現状はモノトーンである。俺がアイドルを好き(?)なのは、こういう孤独を慰めたり、癒したりしてくれるということももちろんだが、スキャンダルやゴシップを通じて世界とつながっている感触を俺に与えてくれるという側面もかなりある。夢の装置としてのアイドルというよりも、世界を覗く穴としてのアイドルが俺の青春のすぐそばにあった。

 だから、俺はアイドルについて、このブログにも折に触れて書いてきたが、トピカルな記述ではなく、アイドルと自分のモノグラフィを編んでみようと思う。俺がアイドルの何に惹かれて、何に打ちひしがれて、もうオタクをやめようと何度も思いながら、それでも目の前にある泥水を啜ってしまうこの作用機序を残しておくことは、何よりも俺にとって有意義である予感がするのだ。同人誌でやるにはプライベートすぎるし、Twitterでやるには長すぎるし、ブログという形態がちょうどいいというのもある。このブログの現時点での最新エントリは冬優子の話だけど、どんどん自分の中でケジメのようなものをつけようとしているなと思うし、それでもやっぱりこの生は続くので、適当なところで句読点を打ちつつやっていくしかないのだろうなという気がする。俺にとって、アイドルについて書くということは、自分について書くということであるけれども、それは後ろめたかったり、恥ずかしかったりするという時点で俺は誠実な(誠実な?)アイドルオタクではない。しかし、アイドルに倫理的であろうとする態度がそもそも誤謬であるという事実は既に「女の頭に金属バット――Vtuberとリアリティショーの倫理、射精するオタク - 思考停止」で指摘しているのでいいとして、自分に誠実であろうとするのは人が人であるための条件である。あまり面白いものにはならないだろうなと思いつつ、しかしそれなりの切実さをもって、書き始めてみよう。

 

・13歳:AKB48の衝撃

 部活からクタクタで帰ってきて、俺と母親と弟は遅くに帰ってくる父親を待たずに夕食を食べ始める。よく覚えているが、その日のおかずは好物のチキン南蛮だったと思う。父親がいないときの食卓ではテレビをつけていた。飯を食い終わったあとの音楽鑑賞タイムが待ち遠しくて仕方なかった俺は惰性でミュージックステーションを観ながらチキン南蛮で飯をかっこむ。

 俺は嫌味なガキだったので当時はハイカルチャーにしか興味がなく、周りが『ナルニア国物語』を読んでいる間にヘッセや島崎藤村を読んでいたし(内容は何も分かっておらず、「読んでいる俺」が好きだっただけ)、ポケモンもモンハンも知らぬ存ぜぬ、延々と許光俊宇野功芳のクラシック評論本を読みながら音楽を聴くのが至上の悦びだった(これは本当に好きだったと思う)。だから、MステにAKB48が映ったときも何も思わなかったし、むしろバカにしていた。「ポニーテールとシュシュ」のイントロが始まった瞬間、それが俺の人生に入った重大な亀裂である。後で知ることになるが、アイドルには「花の世代」というものが偶然か運命の悪戯か存在する。当時(2010年)のAKBは91年世代がまさにそれで、前田敦子を筆頭として19歳組の若々しさが画面から溢れんばかりだったのが昨日のように思い出せる。ポニーテールに白と水色の衣装を着た彼女らは全く俺の目に新しかった。中でもカメラに抜かれた瞬間完璧なウィンクを決めた柏木由紀の姿があまりにもまぶしく映った。

 その日から、俺はグラビア情報などを収集するためにTwitterを始め、「ゆきりんネ申推し」のキモ・オタクとして毎日を過ごすようになった。別に柏木由紀について書くこともあんまりないのだが、当時の俺にとって大きかったのは中1のガキがTwitterで頻繁にオフ会でエンカウントできるわけもなし(そもそも現場に行くこと自体大ごとだった)、オタクの共同体が通っていた中学校でできていたことである。そこでMIXを覚えたし、指を折りながらメンバーの名前を暗唱したし、ときには全握(全国握手会。シングルの初回限定盤を買うと握手券がついてくる。「劇場盤」の握手券で開催される「個握」とは別)に部活をサボって友達と始発で行き、顧問にバレて仲良く大目玉を食らったりなど、体験したことがないことだらけで毎日が本当に楽しかった。柏木由紀と初めて握手をしたとき、あまりに幸せで耳から脳みそが溶けて出ていきそうだったあの感覚を味わいたくてオタクを続けている節もある。こうして俺のオタク人生は幸福な幕開けで始まったのだった。

 

14歳:ももクロはオタクに何を望んでいたのか?

 東日本大震災があって、すでにチケットを取っていたクラシックのコンサートは来日キャンセルになるし、またAKBのみならずSKEにも手を出していた俺はお年玉をはたいて買った劇場盤の握手券がこれまた地震の影響でパーになり、使い方をようやく覚えたTwitterでオタクと絡むのが日々の癒しだった。実際に被害に遭った東北の方々には申し訳ないが、東京でせいぜい震度5強の地震で学校や部活が休みになるぐらいしか生活が変わらなかった俺はいかにもガキらしく非日常を過ごしていた。ちょうどその辺でネットサーフィンをしていたらYoutubeももクロの「怪盗少女」と「ココ☆ナツ」を観た(記憶があいまい。Twitterのオタクに勧められたような気もする)のだが、これに熱しやすく冷めやすい俺は大いにハマった。AKBの「クラスにいる」ような親近感ではなく、戦隊もののようなコンセプチュアルなパッケージとヒャダイン作曲の中学生の脳天に直撃するアッパーなサウンドに一気に惹き付けられた。まだアイドルのチケ代が安かった頃なので、品川ステラボールで行われた「男祭り」にお小遣いで行き、もみくちゃの汗だくになって大満足の中帰ったのもよく覚えている。

 ここから少しこのブログ記事で書きたい内容に肉薄していきたいのだが、俺はももクロがオタクに望んでいたのは一体なんだったのだろうかと時折思い返してしまう。というのは、AKB全盛だった時代=握手会に行ってアイドルに覚えてもらうことがオタクのステータスだった時代に「激しく一体感のあるライブ」という機軸と明確なコンセプトを打ち出したところまではいいのだが、当時ももクロのオタクに観測され、今ではK-POPのファンダムに通底しているような、オタクに対して「私たちを好きなことを誇りに思ってください」というメッセージを真正面から受けとってしまうナイーブさが確実にファンコミュニティにあった。もちろん、中2の俺は全くスレたところのない純粋無垢な少年だったため(アイドルでオナニーすることすらできなかった)ももクロのそういった価値観に影響されて食卓でももクロの道徳性について語ったら父親に「綺麗事を言うな」と一蹴されて大号泣したこともある。どんどんこの後俺はスレていくが、アイドルコンテンツに欺瞞を感じずに接することができた最後の輝きが14歳の俺でありももクロだったのかもしれない。

 

15歳:DDの享楽と思考停止

 上に書いたように、ももクロのスタンスに完全な賛同を示すことができなくなり始めたのが中学3年生で、俺も大体このあたりの年齢から自我が形成され始めてきた。Twitterもガンガンに使いまくり、無銭カレンダー(その日の無料アイドル現場(そういうのがあったんですよ昔は。今もあるのかな?)をまとめた有志のサイト)を逐一チェックして暇があれば現場に通った。この時期はもうステージ上で女が踊ってればなんでもいい状態だったが、これはこれで楽しかった。東京女子流野音で踊り狂ったり、ひめキュンフルーツ缶のライブで絶叫したり。いわゆるDD(誰でも大好き)である。AKB、ももクロのオタクを経験して、俺には次第に「物語アレルギー」のようなものが形成され始めてきた。音楽が、パフォーマンスが優れていればよいのであって、背景にあるメンバーの苦労やライブに向けての努力など知ったことではない。とりわけ女子流は音楽性も高いし、その辺の見せ方に優れていたので中3は女子流の現場によく通った。今はそこまででもないが、なんだかそういった物語的な要素が説教臭くローティーンの目には映ったのも確かである。

 同時に、当時の俺は完全にアイドルを見るということに関して思考が止まっていた。高校受験はそこまで頑張った覚えもないけど、シンプルに現実逃避という側面もあったと思う。今が楽しければいいし、メッセージなんか受け取りたくないし、現場で叫んで踊れていればそれで十分だった。受験がほぼ終わり、滑り止めの高校の一次試験に合格したのを発表場所で確認してからTwitterを見ると仲の良いオタクから「今から六本木に来い」とリプライがついていた。そこで行った現場が決定的に俺のアイドルとオタク観をねじ曲がったものにする。

 

16~17歳:地下アイドル、内省の季節

 六本木で観た、恐らく総ファン人口は200人にも満たないであろう(現場にいるのは10人とか)地下アイドルに俺は面食らってしまった。名前をchoice?という。曲は確かに良い。凝ったポップスという感じで俺が好きなタイプだったが、問題はメンバーのルックスだった。AKBの沈殿物のさらに沈殿物といった感じで、もうどうしようもないブスが5人でステージの上でワチャワチャしている。今でも全く説明できないのだが、俺はそのchoice?という5人のブスがステージ上でこの上ないほどにまばゆい光を放つのを確かに見てしまったのである。そもそもオタクがいないから快適に見れるとか、「この子たちの良さを知っているのは俺だけ」というのとも少し違う。どう考えても可愛いとは言えない女の子たちがやる気なさそうにステージでフラフラしているのを見るのがとにかく最高だったのだ。俺は高校生になってから1年ほどクラスで友達もできなかったから、部活がない日はどんなに辺鄙な場所でもchoice?の現場に行った。押上のワロップ、大井競馬場、渋谷のエイジア、ライブをやるシチュエーションに統一感など全くなかった。オタクの顔ぶれだけがいつも同じだった。中学の同期と示し合わせて無銭ライブを観に行って、チェキ1枚と音源1枚だけで5分間接触を粘っては、帰りのマックで友達と「今日も最高だったな~~~~~~~」と言いながらしなしなになったポテトをつまんだ。

 と同時に、「アイドルオタクって、実はものすごく恥ずかしくて後ろめたい趣味なんじゃないか?」という疑問と内省が芽生えたのもこの時期である。確かに、choice?はchoice?でなければならなかったし、他の女の子の寄せ集めだったら俺はこんなにハマらなかったかもしれない。しかし、究極的には現在の俺のスタンスである「ステージで肉が踊っててデカい音が鳴ってればなんでもいい」の具現化がchoice?だった、というアンビヴァレントもそこには胚胎されている。高校のクラスメイトに、「宮﨑、今日も部活?」と聞かれて、「あ、ああ、うん」と言いながら財布の中のチェキ券を確認してそそくさと教室を出るときの何にとは明確には言えないが、確かに感じた敗北感のようなもの、それは今でも俺が抱えているアイドルオタクの感触であり手触りである。東浩紀は「自分の好きなオタクコンテンツを大声で好きと言ってしまったらなんかもう終わりという感じがする」と述べていたが、俺はそれを地下アイドルにハマることで知ったのだった。良い思い出ももちろんあるが、あの時の苦味が今も俺を苛むことはある。

 

18歳:接触至上主義への回帰とアイドルとの決別

 長らく地下に潜っていた俺は、もう何が良いアイドルで何が悪いアイドルなのかの審美眼を完全に失っていた。金を払って女と写真を撮ったり手を握ったりすることだけが生きがいになっていた。choice?現場に一緒に通っていた中学の同期と喧嘩別れするのと同時にchoice?現場に行かなくなり、俺は乃木坂とHKTの個握をフワフワしつつpredialyrical schoolで楽曲派面するのにハマっていた。15歳のときはもっとアクティブにDDをやっていたが、18歳ともなるともうそろそろ大人の階段を上り始めるときなのでいい湯加減でアイドルを楽しむやり方を心得ていたと思う。ラーメンの食べ比べをするよりも回らない寿司を一貫ずつつまみながらゆっくり日本酒をひっかける方が大人みたいな、そういう感じである(多分違う)。男子校で行き場のないリビドーも炸裂していたし、とにかく接触したくてCDを買ったりチェキ券の列に並んだりした。歪んだ自己主張ではない握手のマナーも身に着け、受験がない付属校ならではの自由を謳歌していた。

 しかし、choice?で入ったヒビは確実に俺の心を蝕んでいた。HKTの矢吹奈子がセクシーな衣装でクネクネ踊る(矢吹奈子はそのとき12とか13だったと思う)のを見たとき、率直に「こんなのが許されていいわけないだろ」といきなり怒りが湧いてきた。いや、お前アイドルのグラビアでヌきまくってたのに自己矛盾しまくりだろという突っ込みも発生して当然だし、人に突っ込まれる以前に自分で気づくべきなのだが、ともかくも俺は突然オタクをやめた。だんだんとアイドルがスキャンダルをすっぱ抜かれる率も多くなってきて、ドロドロした部分が露見してきたのもおおよそ2015年辺りである。その矢吹奈子の姿があまりに醜く見えたのは、恐らく自分のオタクとしての膿がそこに凝縮して反映されていたからだろう。今から考えると俺もピュアだなと思うが、ここから約2年半俺はアイドル現場に一切行かなくなる。その間俺は大学に入り、バイトで精神を病んだり、異性と初めて付き合ったりという変化があったが、この変化にも俺は適応できなかったので、ここでオタクを続けていれば多分結構色んなことが違っていただろうなと思う。

 

21歳~23歳:Kの誘惑とモラル

 大学も3年目に入り、女にもフラれ、勉強にも身が入らず、俺は日々をパチンコと風俗に溶かしていた。使い道がそれしかないので金は勝手に溜まり、夏休みに友人たちと熱海に行こうということになった。海で大はしゃぎし、昼からビールを痛飲、ベロベロで宿に戻って俺が持ってきたジャックダニエルの大瓶をソーダで割りながら皆で(またしても)Mステを観ていたら、TWICEが「BDZ」をやっていた。俺にとっては女がこうやって踊っているのを観るのは久々だなあという感慨もあり、酒で胡乱な頭ながら感心しながら観ていると、一人とんでもないデカパイがいるのに気づく。縦揺れが多い振り付けであることを差し引いても凶悪すぎるパイオツである。全員が「デカパイだ!!」と絶叫する中俺は画面にくぎ付け。結局その後俺は飲みすぎて気絶したのだが、後日調べてみるとあの子はパク・ジヒョという名前であることが分かった。その直後(秋学期が始まってから)に俺は鬱病で大学とバイトに行けなくなり、配慮願いを大学に提出して日がな布団にくるまっていた。延々と根拠のない悲しみで頭がいっぱいになり、食卓で急に泣き出したり、友人に電話でつらいつらいとよくこぼしていた。このときの俺を支えてくれたのがTWICEであり、社会復帰させてくれたのもTWICEである。V LIVEを布団の中で観たりしていつか大学とバイトに戻ろうと思った日々があったから俺は大学を卒業できたのである。

 TWICEに限った話ではないが、K-POPは非常に理念と倫理を重んじる(まあJYPはことにその色が強いけど)。「真実・誠実・謙虚」というJYPの社訓にもある通り、最初は生意気なジャリガキにすぎないアイドルたちは徹底的にこれを叩きこまれる。俺が何故病気から復活できたのかと言えば、彼女らが語る「綺麗事」が心からの言葉であるように思われたからだ。それはももクロのような物語の押し付けではなく、彼女らがV LIVEで見せる人となりが自然体で、それがパフォーマンスに結びついていると素朴に感じられた。TWICEから離れてしまったのは二つ原因があり、一つは接触イベで、もう一つはファンダムの問題である。当たり前だが、彼女らは(モモ、サナ、ミナを除き)日本語がほとんどできないため、接触はハイタッチという形式を取る。俺はこれに5万をつっこみ、なんとしてもジヒョとハイタッチしたいと思った。たかだかハイタッチに5万て……という誹りは甘んじて受けるが、ツウィの彫刻のような美しさや、チェヨンの自然体な身振り、何よりサナの弾ける笑顔に癒された。で、肝心のジヒョだが、これがめちゃくちゃ塩対応だった。塩であることがあらかじめ想像つくメンバー(ナヨンとか)ならまだしも、いつもは喜怒哀楽をはっきり示すプロ意識の高いメンバーであるはずのジヒョに塩られたのが結構ダメージだった。ファンダムについては、詳しいことはここで述べている(ONCEになれなかったヲタクの嘆き、あるいは生き恥 - 思考停止)が、結局オタクの自己欺瞞を「あなたは特別ですよ」という見せかけの成熟で糊塗しているだけなのでは?という疑問がはじめの方こそ起こらなかったものの、最終的には自分が息切れするような形でTWICEからは離れた。アイドルを観ることによって自分が誇らしいと思えるようなチープな人生を歩んでいないと言ってしまえばなんかカッコがつくようでもあるが、それだけ俺という人間が俗悪で卑しいということなのかもしれない。

 

23~25歳~現在:ひとまずの結論とやっと見つけた安寧の地

 AKBでステージの女の子の輝きを知った。ももクロで彼女らが流す涙の美しさに打たれた。choice?で薄汚いライブハウスに射す一筋の光明を信じた。TWICEで一時的にではあれ高潔な人間であろうと思えた。俺はアイドルから色んなことを教えてもらった。しかし同時に、人間の汚い部分や醜い部分に直面し、何故俺は好き好んで辛い思いをしているのだろうという気持ちになった。柏木由紀の手越お泊りデートもそうだし、ジヒョとカン・ダニエルの熱愛報道、自分とは直接かかわりはないがNGTの集団いじめ(レイプ未遂)、AKB旧メンバーのAV落ち……挙げていけばキリがない。それでも、俺はステージを目指してしまう女の子に自分が見たことのない世界を見せてくれると期待してしまう。いや、というよりも、アイドルという存在が俺にとってあまりに自明で、血となり肉となってしまっていて、ゴシップやスキャンダルに盲目であるとかそういう問題以前に女のケツを追っかけていないと生きる意味が見いだせなくなっているという病的な状況なのかもしれない。安いシャブを打ち続けるドラッグ中毒者のようなもので、離脱症状を抑えるためにはひたすらシャブを打ち続けるよりはないのだ。

 人を殴ってブタ箱と精神病院を盥回しにされ、疲弊した俺を受け止めてくれたのはシャニマスだった。シャニマスについては散々ここでも書いているので省くが、先日行われた周年ライブの配信チケットを買って、家でチューハイを傾けながら観ていた。芹沢あさひ役の田中有紀さんが鋭い眼光でカメラをにらむときに感じたときめきは、完全に「ポニシュ」を歌う柏木由紀に感じたものと同質だった。今の俺の楽しみは、田中有紀さんのニコニコ生放送スマホで観ながらチューハイを飲んでTwitterをすること。俺の終の棲み処がここであるのかどうかは、果たして分からない。それでも、今俺がいる場所は陽だまりのようで、ここにいるといろいろな嫌なことを忘れられる。しばらくは、俺はここに留まろうと思う。他の女性声優を推すこともあるかもしれないし、ずっとこれから田中有紀のオタクとして生きていくことも悪くないかもしれない。夢はいずれ終わるが、人生もオタクも終わらないのだ。俺の13年間はとりあえずここまでだが、残されたあまりに長い時間の使い道はいくらでもある。オタク・オタク・オタク、神の子たちはみな踊る(俺は春樹読んでません)。