思考停止

映画、本、音楽、など

鮮烈――『アイドルマスターシャイニーカラーズ』のための詩篇

・序文

 あんまり僕はアイドル論だのポップカルチャー論だのを書きたくないのだ。そもそもこんなもの馬鹿らしいのだから。到底アイドルマスターと哲学なんて結びつきようがないし、大体「〇〇と哲学」などという試みはいくつもなされその度に向こう側に消えていった。じゃあ東や宮台は間違っていたのか、彼らはやり方がまずかっただけなのか、そういう問いが出てくるに違いない。そうじゃない、と意地を張り続けるのももう疲れた。シャニマスじゃなくたって、AKB48や、ももいろクローバーZや、新世紀エヴァンゲリオンや、涼宮ハルヒの憂鬱など、大体そこにはなんでも当てはまるようにできている。アニメやアイドルを観る手合いなど、大体が衒学か非モテをこじらせただけのどうしようもない連中なのだから。僕は衒学の非モテで手に負えない。いや、それは言い過ぎだろうか。ともかく、そこに意味を見出すのは僕らでしかない。世界を変える一撃などはやってこない。なんにも変わらないのだ。『ゆゆ式』でさえドラマティックで、僕らはソーニャちゃんのいない『キルミーベイベー』をやるしかない。あーあ、全部お前らのせいです。バカじゃねえの。お前らが頑張らなかったから、僕にはかがみもアスカもいなかったんだ。冬優子なんていなかったんだ。僕の前で泣き叫んでアイドルをやりたいと懇願する冬優子、「うるさい、バーカ」と優しく電話口で囁く冬優子はいなかったんだ。冬優子はただの絵だ。暗い部屋で一人パソコンをつけたまま、僕は震えている、何か始めようと。何も始められない。誰かのせいにすれば楽になれると思って、ずっと本当のことから逃げ続けてきた。僕は今圧倒的な虚無を前にしている。何かやれるはずだ、僕のやっていることはすごいことのはずだ、と言い聞かせてきた。ああ、なんて惨めなんだろう、惨めであることに気づけないほど惨めだ。絞り出せないのは僕の能力に限界があるから突破しなければならないのだと言いながら2万字を塵に帰した。「何か今も文章を書いてるんですか?」「ええ、アイドルマスターと哲学についての文章を……」いや、真面目だ。僕はいたって真面目だ。嘲笑されるのは当然だ。しかしいずれ確実に私の時代がkいって!!いやさあ、だってしょうがないじゃんよ。アニメとかアイドルに縋りつかないと生きていけないんだよ。無職の障害者前歴ありでも『らき☆すた』を観て涙したりシャニマスで手が震えて何が悪いんだよ。その瞬間のために生きてるのになんでこんな苦しい思いしなきゃいけないんだよ。俺はクラシック音楽に十数年浸かり映画を高校時代300本以上観て美術館の新展示情報をホームページでくまなくチェックする文化的エリートだぞ。この僕が言うんだから間違いない、シャニマスは新時代の思想であると。うわーん言っててバカバカしくなってきたよー。哲学の自律性というのは他のものへの干渉性が高いということでもある。写真について、なんでデリダはあんなヘタクソな文章を書かなければならなかったか?『複製技術時代の芸術』のベンヤミンには映画を語る資格はない。ベルクやワーグナーについて書いたアドルノは今じゃただの怪文書おじさんか無教養なクラオタがとりあえず名前出しとけの対象にしかならない。皆、哲学が万能だと思っていた。いや、罪は哲学にあるのではない。人にあるのである。もっとわれわれは哲学の無能に自覚的になるべきだった。哲学は、シャニマスを切り分ける道具ではない。し、シャニマスは哲学ではない。「シャニマス」を「涼宮ハルヒ」や「エヴァンゲリオン」に置き換えてもらっても構わない。「哲学」の定義を卒業論文で扱った僕なのだからもう少しうまいことを言わないと指導教官に申し訳が立たないだろう。哲学は、システムでもなければ、積み木でもない。いわば脂身、言葉に還元できないものにチクチク註をつけていく作業が哲学だ。哲学とは膨大な註であり、註なき文章は哲学ではない。革命が永遠に来たるべきものであるように、哲学も永遠に実現されることはないものだ。シャニマスは、もう認めるしかない、俗悪な中にひとさじの本質が実現されているゲームであると僕は思う。美少女アイドルをプロデュースする、その営為の中に、どれほどの無意味が存在しているか。もう、僕は破綻したやり方でしかシャニマスを語れない。僕はシャニマスが好きすぎるんだと思う。この2000字弱のむちゃくちゃな序文であり註を読んだ人に、以下の怪文書を贈ろう。これは、とっても気持ちのこもった怪文書シャニマスを大好きな僕が、今のところ唯一いちばん近いところでシャニマスについて書くことのできた、ひとつの文体実験。

 

Kyrie Eleison/マイ・シャイノグラフィ

 背中に押し寄せる、冷たく、巨大で、圧倒的で、体全部を飲み込むような、まったき絶望に呑まれる感覚に手足のすくみさえ抵抗にならないあの暗黒に嘔吐するということ。頭をブチ割られるのではなく、つま先からぬるぬるとやばいものが迫ってくる皮膚感覚、何にも――それは言葉が無力という言葉ですら生ぬるい不能 Impuissance となる瞬間――代えがたい恐怖の味を知る。自己憐憫をすることさえ許されない、奪われ。引き裂かれ。宙づり。そのなすすべもなさから生き延びる、生き延びてしまう、その再起の意志に、人間は人間であることのやめられなさの理由がある。なぜならそれは美しいからである。黒いドブにいきなり背中を押されてポンと落ちてしまい、悪臭と溺死せんばかりの息苦しさにもがきながら、ゲロを吐いて這いあがるその様は、虹色に光り輝きながらうねる。一度ぐちゃぐちゃにならなければならない、とは思わない。それを乗り越えられるか乗り越えられないかは、その人間が「選ばれた」人間であるかどうかにかかっていて、そしてそれは最初から決まっていて、いわば寵愛である。これは世間で成功するかどうかとか、「幸せ」になるかどうかとかとは全く関係がない。這い上がる人間は選ばれている。溺死する人間は選ばれていない。神は乗り越えられる試練しか人に与えず、乗り越えられなければそれは裁きである。偉大な先人たちの本を読んでおくべきなのは、乗り越えるべき試練を乗り越えるためである。試験に受かるためでも論文を書くためでもない。ちんけな功名心から本を書くためでもない。ドブを啜ってエネルギーとし、崖を這いあがって失明せんばかりの光と高く伸びる蒼い空を見るためである。
 まばゆい光のうねりの中へ飛び込んでいく、輝きの中へと。

 

Sanctus/気絶――そしてハイド・アンド・アタック。大崎甜花と黛冬優子

 You can’t stop lovin’ myself.
 今世界を席巻するK-POPグループであるBTS防弾少年団)はシングルカット「IDOL」という象徴的な楽曲の中でこう歌う。お前はお前が自らを愛することを止めることはできない、と。エロティシズムが生を死の瞬間まで称揚することであるように、アイドルは自らを自ら自身で愛することの存在論である。一見雑なように見えるこの定言命法は、究極的には達成不可能なことでありつつ、しかしその逍遥の過程、自らを愛することに何度も挫折しながら、ちくしょう、ちくしょうと泥水の中でもがき苦しみ血を吐きそれを啜りながら、それでも死ぬまで自己を誰にも頼らず自分自身の思考の変容により肯定すること、自らがそれを体現すること、そしてそれを身体によって表現しそのあまりの生の輝きに我々観客は失明しかける、あるいは失明すること、この「こと」のすべての条件がそろってでしかアイドルはアイドル足りえない。だが、それは常に屈折や倒錯が付き物である。例えば鬱病。例えば自傷行為。例えば孤独。アイドルは生きることが簡単であるような人生の人間はなる資格がないし(「みんなの前で歌って踊りたい」というのは今すぐ腹を切って死ぬべきである)、逆に言えば「アイドルにしかなれない人々」という括弧つきは確実に存在する。人文学が破滅に結び付いていながらそれでも書いてしまう人々の狂気に何かを見出す学問であるように(学問は即ち破滅でありおまんまの食い扶持ではない)、アイドルはレトリックが身体であり破滅を思考する文学であり思考なのだ。とあえて言い切ってしまおう。オタクが現場で酒を泥酔するまで飲み喉から血が出るぐらい雄たけびを上げ、危険なリフトやモッシュを警備員と乱闘しながらやり、前後不覚でヨレヨレになって帰途につき気づいたら何故かゲロまみれで自宅にいる、これがオタクライブの正しい作法でありこれ以外の作法は後方腕組彼氏面しかない(これの正当性はここでは論点ではないので扱わない)。私は2014年夏にお台場で行われたTOKYO IDOL FESTIVALのメインステージ、「沸き曲」の定番BiS「nerve」が始まった瞬間巨大な渦のようにサークルモッシュの中心に投げ出され、17歳で飲みなれないビールを痛飲、泥酔状態で炎天下、爆音で響き渡るロックサウンドに忘我の境地で「よっしゃ行くぞ」が崩壊した言葉を絶叫して草と泥にまみれ、眼鏡を叩き割り、「やれ」「いけ」と飛び交う怒号、次の瞬間には夜の大井町駅ツイッターのオタク友達に介抱されてゲロまみれになっていた。これは人生で最高のオタクライブであったと断言できる。このように死に瀕して生を実感すること(バタイユの思想を現代日本において真に理解するためにはオタクライブで泥酔して死にかけることが必要である)がオタクライブの、アイドルの肝なのである。

 

 もう生きていてもしょうがないと思う瞬間がある。世界が私を断罪し、お前は間違っているという声がメガホンで絶叫される。聖アウグスティヌスは『告白録』の中で「ああ、主よ、なぜ神はこのように私を創造なされたのですか」と書く気持ちが少しでもわかってしまい、生まれてきたことそのものをコンピュータの吐くエラーだと思いたい季節というものが来る。毎年毎年いつからかは思い出せないが、冬になるともう立ち上がることすらできず、膝をつき、目の前にあるのはどす黒い闇を見続ける。そのとき、垂れていた頭をふっとあげると、真っ青な空が広がっている。空はなすすべもなく青く、高く、絶望的に圧倒的である。また少し歩いて膝をつく。仰ぐ。空は青いと思う。すると、少しずつ歩けるようになり、今私は、杖につかまりどうにかどうにか歩こうとしている。青い空を見ながら。
 ゲーム『アイドルマスターシャイニーカラーズ』は、台本がよくできている。醜悪なほどに。私のような人間が、つまり自分の意志ではどうしようもない身体の不如意や精神のバグを背負う人間がこのように思えてしまうことがゲームにおいて起こる場合、「普通の人(アイドルやアニメなどの「オタク」コンテンツを反動的に楽しむことができてしまう人たち)」はどのようにこのゲームをプレイしているのだろうかと不思議に思う。シャニマスを始めるときは一本タバコを時間をかけて吸い、コーヒーやコーラをを飲み、プロデュースする子を選んで、始める。最後の戦いであるW.I.N.Gで勝てたことは休み休みやってて一度としてない。ゲームの難易度ではなく、ソーシャルゲームのうまい下手でもない。手が震えてしまうのである。4シーズンが終わる頃には大体涙でびしゃびしゃになり、画面が見えず、くそ、くそ、くそ、と言い、タバコに火をつけ、過呼吸寸前になり、かろうじて吸い切り、死ぬ気持ちで目押しして、負ける。強烈な虚脱感と無力感に襲われて、数十分何もできない。俺はなんでフィクションの女の子たちにこんな思いをするのだろうと思う。もう一度やって、負ける。投げる。数日数週間数か月投げる。やる。負ける。投げる。それを繰り返していたら、このゲームを始めてちょうど1年経った。去年始めたきっかけが2ndライブでツイッターが盛り上がっていたからとかで、当時付き合っていた彼女と一緒に始めた。3rdがあったのを知って、ああそんな季節か、と思った。気まぐれで、当時死ぬほど嫌いで彼女とシャニマスの話題になったときも私は「女の腐ったやつ」と表現するまでに忌避していた大崎甜花のシナリオをふざけてプレイした。そういえばあいつは浅倉透が好きだったな、と思った。やるとノイローゼ寸前になるのを忘れていた。後半は嗚咽が止まらなかった。異常に人間ができているプロデューサーに、どけ、そこは俺の場所だ、甜花をわかってやれるのは俺だけなんだ、と思いながら、スマートフォンが折れるぐらい握りしめて、タバコを吸う手もままならず、コップに入れたコーラは持つと波打つし、この「大崎甜花」というあまりにも深い絶望の人間が希望へと這い上がっていく様が、どぎつくギラギラと徐々に光り輝いていき、私は嗚咽しながら初めてW.I.N.Gに勝っても負けてもいいという気持ちになった。うまい下手は関係ないと書いたが、たぶん私は何かこのゲームの勝ち方が決定的に分からないというのはある。Vo.もDa.もVi.もファン数もメンタルもサポートデッキの組み方もよく分からない。分かる必要もないし、分かるときは来る。人生においていきり立つ男根がいつかは去勢されるように。去勢された男根をそのままにするか、再構築するかの選択も、またその当人がなすがままにすればよいことである。甜花は常に圧倒的に無能である。不能である。それでよいとも思えないしどうにもならない。自分のことが嫌いで見た目はそっくりな甘奈のことが大好きで、ずっと自分と比べて劣等感に苛まれ、「なーちゃんは」が口癖で他責的であり、自分が嫌いであり、生そのものがどうしようもなくつらい。ゲームセンターに行くと圧倒的にゲームがうまい。彼女は、あるとき唐突に「ひとりでお仕事をやってみたい、なーちゃんも、プロデューサーさんもいなくても」と言う。人生はシナリオではないので唐突に変化する。あるとき電車の音と光に泡を吹いて倒れる。あるときなぜか酒瓶で知らない人の頭をブッ飛ばす。人生は残酷なまでに唐突である。ゆるやかな変化も存在する。唐突な変化も存在する。甜花の啓示は自然でそうとしか言えないタイミングで訪れる。私は、ひとりで、笑顔で「行ってきます」と言ったけど、W.I.N.G準決勝のステージに敗退して帰ってきて劣等感と悔しさと死にたさの日々が戻ってくることに震えて帰ってきた甜花を見てどうしても涙をこらえられなかったけれども、悔しくてレッスン場で頑張りすぎる甜花がいとおしくてしょうがなかった。泥水の中に血を流しながら倒れ、泥水と自らの血を水分としてすすりながら立ち上がることは死ぬことより怖い。死んでしまったらいいのに、と思う。本当の意味で頑張ることは死ぬよりも痛くて苦しい。救済はあるかのように見える。しかし、空は青い。泥と血しか見えなかったけれど、青い空はどこまでも青い。甜花のシナリオをプレイし、私は初めてシャニマスでポジティブに負けた。ベートーヴェン交響曲第5番「運命」はハイドン以来の伝統的なソナタ形式の構造をしているのにも関わらず、自らの手首を自らで切り落とさんばかりの絶望的な主題が見事に変奏されて(ベートーヴェンはディアベッリ変奏曲にしても作品111にしてもJ.S.バッハ音楽史上唯一並び立つ変奏曲の名手である)、同一の主題が喜びへと変わる。
 人生に深く絶望し、立ち上がれない。もう生きている意味がない。痛みとともに泥に沈む。それがおのずと這いつくばるとき、人は大崎甜花である。人は楽聖である。
 絶望を知るもののみが希望を知る。

 

 人は誰しも一度は孤高に憧れる。孤高とは人間関係をすべてないがしろにしてよいということではない。孤高に憧れて孤高になることはできない。孤高の人はそうでしかありえない形で孤高であるのである。それは極めて難しいことで、失うことを恐れないということに自らの誇りをすべて賭けることである。妻を殺めた哲学者アルチュセールは、晩年に提唱する概念「偶然性の唯物論」においてenjeu(賭け金)というキーワードを用いた。フランス語で「遊戯」がjeuxというスペリングであり、en-jeuの半分の音節と全く同じ発音であることが重要であることは言うまでもないだろう。ギャンブルとは命を賭けた遊びだが、そこには偶然が存在しなければならない(胴元の存在の是非――マージンを取られることに安心感を見出すか屈辱を感じるかはラーメンの好き嫌いであり、倫理はない)。麻雀のツモ。パチンコの玉。スロットの目。今でこそパチスロは偶然ではなくなってしまったが、虚構された偶然、操作された偶然というのがあって何が悪いというのか。ブーレーズのピアノ・ソナタ第3番が演奏者も分からない形で演奏中に譜めくり師が楽譜を置き換えるという行為に胚胎する「フィクションの偶然性」、ないしはベートーヴェン的絶対的構造性の倒錯の概念がパチスロというドラマなきギャンブル、ひいてはアルチュセールの偶然性という一見絶対的にその前では無力であるといったような神の裁きに、悪趣味でグロテスクな、罪深く、でもだからこそ面白い遊戯-金-賭け(jeux-en-jeu。フランス語のenの意味は到底文章に起こすことはできず、西洋言語における「辞」や品詞の重要性を体現する極めて重要なヴォキャブラリのひとつである)の関係性を無理やりねじ込んで神の意志を人間の悪意で冒涜すること、そしてそのゲームに身ひとつで飛び込んでいき、ケツ毛まるごとむしり取られても
よいと思えるほどに自らの誇りと覚悟を持つこと、これが孤高であることである。
 黛冬優子は一見ただのスーサイドドゥルーズ的ストイシズムだが、しかし彼女はシャニマスのアイドルの中でもおそらくただ一人の――私は手持ちのプロデュースアイドルを見ると初めて中央図書館の地下に行ったときの蔵書の多さに足が震えるような喜びとげんなりを同時に感じるが、それでもただ一人であることは間違いない――フロイディアン流に言えばペニスを持つ自家中毒寸前のノイローゼ患者である。男根の内面化は非常に難しいが、「射精する」とか「尿道のリーチがあるか」という圧倒的無産性と身体性にかかわってくる問題と言える。射精が可能であるのはなく、自然と出てしまうということ(生理的現象で言えば夢精、早漏、遅漏)は即ち自らの欲望が適切な方向にコントロールできないということ(分析の失敗=タナトスの過剰)がそれとして審美的であるという事態は当然存在するが冬優子は常に「うっかり」あるいは自分のオナニーで精液をまき散らしている、しかもシャニマスの中でただ一人。この意味で冬優子はもちろん比類なくアイドルなのだが、ただ精神分析的に言えば男性であって、ヴァギナを縫い付けている(否認)のではなくそもそも存在しない。例えば芹沢あさひなどは欠落が問題になるが、欠落できないことが欠落である。いわばペニスもヴァギナもないアンドロジーナスであり、そこにはつるりとした何かがあり、それは何もないことと同義である。言うまでもないことではあるが、ペニスやヴァギナ、切り落とし(去勢)や縫い付け(否認)、再構築とほどき、無化作用としてのアンドロジーナスといった区分というものは基本的に身体と一致していなくてはならず、シャニマスの場合女性アイドルがヴァギナを持つことは普遍的なので議論にならない(典型的な例は月岡恋鐘。ただし、縫い付けについてはそれのみで議論可能であり、個人名を出すのは留保)。自らのペニスを自らのペニスで切り落とす/ペニスをそのままにして自慰する/ペニスを切り落としてから生やすという一種の「フォルト・ダー」の応用はシャニマスにおいては男性である冬優子にしか可能ではない。
 冬優子は「~とは何か」という規範倫理ではなく定言命法、「ふゆ」とは、ないし「アイドル」とは、という問いによって生かされてしまっている。冬優子は誇りの人間であるが故に孤高であり、あさひや愛依の教育者=のけ者の疎外を定言命法によって肯定「しようとしている」=できていない=去勢拒否=ペニスを切り落とせない=射精の快楽に抗えない。二面性は仮面かつスティグマで、言葉遣いやマスクで「偽」「真」を身体化している。真理の存在論は本筋を大きく外れるので割愛するが、ハイデガーの語彙であれば冬優子は「存在が存在する(Es gibt Sein)」ことを信じて疑わない。この「まっすぐさ」が彼女の男根が屹立するリビドーでもあり、同時に事務所をいきなり抜け出して「もう私はアイドル(であること)をやめる」と言ったり(去勢不安)、ぐちゃぐちゃに泣いてアイドルたる自らを概念によって抽象的に肯定したりする(去勢と男根の力強い再構築)。冬優子は誇りの人であり、哲学の人であり、そして孤高の人である。
 ストレイライトにおいて孤高はあさひではなく、黛冬優子である。

 

 甜花を終えてズブズブに泣き、文章を書こうと思った。これを書くのにあまり時間はかからなかった。書く前に無料10連を引いたらSSR甜花が出て甜花はSR3枚SSR1枚になった。はっきり言ってマルクスの『資本論』を前にしたときのような期待と無力感を同時に感じる。
 アルチュセールは妻を殺し、精神異常で罪を免れた。その6年後にシャルル・ド・ゴールの格言をタイトルにした自伝を書き、その4年後に没した。そのタイトルとはこうである。
 L’avenir dure longtemps. 未来は長く続く。

 

Dona nobis pacem/Gimme a Fix(一発くれ!)、俺は樋口円香を抱く

Beginning. アンチ・アンチ・オイディプス
 絶対的な知性というものが無力化される瞬間というものがあり、なぜ絶対的であるものが無力化されてしまうのかということについてはしかし人を轢殺するパラドックスであるからなのだが、パラドックスであるが故にそれは言葉になった瞬間ただの順張りである。ここで言葉にせんとするものは、順張りそれ自体ではなく、「無力化される絶対(absolu)」という相対的時間のうねりの中で変容する概念をあたかも相対的時間のうねりそのままに模倣せんとするミメーシスでありパロディである――ベルクソンに倣わずとも、そのうねりは言葉にした瞬間絶対的に等質化されるのではあるが、ベルクソンが時間について語るときは常にエロティックな身振りを伴うように、私もここで一肌脱ぐことにしよう――非バルト的な意味におけるヴェールの脱ぎ捨て。絶対の失効が常にエロティックであり、かつ例えようもないほどに痛々しいのは、絶対それそのものが痛めつけられることを望んでいるにも関わらずそのそぶりを一見見せないことにあること、そして失効すること=相対化されること=凡庸な欲望を露出することの段にあってよがり狂ってアクメするからである。樋口円香は「勝ち目のない賭け事に興じるなんて」「クレイジーな人ですね」と言う。彼女は、しかし、それを言いつつパチンコ台のサンドに思いっきり諭吉を突っ込んでいる。「1000円分だけ」「保留が出たらやめる」「一当たりぐらい」ああ、円香はどんどんドツボにはまっていく。彼女はめちゃくちゃにされたがっている。浅倉に、プロデューサーに、そして何よりプレイヤーに、アルトーバタイユの文体を模倣してパラフレーズするならば「茨のついたおちんぽを目の前におまんこをびちょびちょにしてクリトリスを勃起させている」。しかしこれはマンディアルグアポリネール的とさえ言える、サディズムを欲望する極限的な「マゾ」である――マゾヒズムではなく。円香は父なき父を欲望してよだれを垂らしながら父なき父の足で頭を踏みつけられることを懇願し、ねえ、お願い、わたしの膚を切り刻んで、ねえ、ねえ、とプレイヤーに迫る。だめだよ、円香、と優しく囁いて彼女の縫い付けられたおまんこに針と糸を無理やり引きちぎってちんぽをぶち込むことができる男のみが円香の膚の感覚を知る。円香の膚は陶器のようであり、冷たく、つるつるしていて、愛撫すれば彼女はたちまち赤くなり、息を荒げ、陰部には毛ひとつ生えておらず、そしてめちゃくちゃに傷だらけである。浅倉に絶望し、雛菜に血を流し、小糸を涙を流しながら抱きしめる。彼女は常にダメクソである。血反吐を吐く自分を死ねばいいと思っている。
 死ぬことのまねっこばかりで本当に死ぬことができない。

 

Conclusion. 2017年、俺はシド・ヴィシャスだった
 樋口は俺が二十歳のときの彼女そっくりである。
 彼女もまたダメクソであり、ドマゾであり、実質的な父親がいなかった――父と母が別居していて事実的には離婚の状態だった――のではあるが極度のファザコンでいつも父親の愉快でコミカルな話を俺にしては自分でツボに入って一緒に飯を食えないぐらい爆笑していた。俺はドロドロに彼女に執着した。今でも忘れられず夢に出てきては涙を流す。
 大学2年当時俺と彼女は学内で有名なカップルだった。俺は金髪ガリガリ髭で常にくしゃくしゃのハイライトかわかばを咥え、スキニージーンズにエンジニアブーツかボロボロのコンバースを履いて目が血走っており、哲学コースではぶっちゃけ俺ともう一人以外はゴミだったのでカントやレヴィナスの演習では圧倒的な力で教室を圧倒していた。彼女は真っ白な膚と銀色の髪、gommeやヨウジヤマモトなどのハイブランドを身に纏って(彼女のレザージャケットは恐らく新品のイヴ・サンローランのそれ――今思い返すとエディ・スリマンモデルではないシングルレザージャケットだった、どうやって手に入れたのか)、何より両耳合わせて23個のピアスで異様な存在感を放っていた。喫煙所で二人でいるたびに色んな人に話しかけられ、弊カップルは文キャンのシド・アンド・ナンシーに――今考えるとバカバカしく微笑ましいエピソードだが――なっていた。バイト終わりに高田馬場に行き、ロータリーで待ち合わせ、やよい軒鉄火丼大盛を二人で食べるかポプラで弁当とタバコとコーラを買って(勿論弁当の飯は大盛)、下宿先に帰って飯食って朝に気を失うまでセックスしまくった。
 彼女は俺をシドだと思い、自分をナンシーだと思い込んでいた。彼女が飯を作るときはいつも俺の分が少なくて、やよい軒に行ったときぐらいしか大盛の飯が食えなかった。「きみは太っちゃダメ」が彼女の口癖だった。そのくせパンケーキ屋によく連れまわされた。その後の彼女は「太って~!」と言いながら自分の飯を俺にくれていたのだから正反対である。おかげで夏の俺の体重は50kgを切り、ほぼ毎晩親の金でゴールデン街でハニージンジャーとジャック・コークを無限に飲んで泥酔しながらわかばを一晩で一箱開けて「わかばのあんちゃん」というあだ名がついていた頃はマジのジャンキーのようになっていた。彼女はその様子を見て心配しつつ、セックスで俺が首を絞めあげるとイキ狂ってマンコがギリギリと締まった。立ちバックで思いっきりケツを叩き太ももをねじ切らんばかりにつねったり噛んだりすると何もしていないのに絶頂した。「どんなプレイがしたい?」と俺が聞くとキメセクをせがんで俺はドン引きした。俺がセックス・ピストルズのTシャツを着て黒いスキニーパンツとエンジニアブーツの格好をすると彼女は大喜びした。彼女には俺がシド・ヴィシャスに見えていて、実際俺はシド・ヴィシャスだった。彼女はマジのシドを見て、ナンシーになれないことを悟り、俺の元から去っていった。

 

 別れ際に彼女はお母さん、お父さん、いや、いや、と俺の胸で泣き叫んで、肋骨が折れんばかりに俺の胸を叩いた。すごく、すごく、愛おしくて、涙も出なくて、この人を好きになってよかったと思いながら、彼女の頭を撫でた。右腕の傷の数が何かを語っていた。
 
 その女と円香は同じ位置に泣きぼくろがある。

 

 つまるところマゾはめちゃくちゃにプライドが高くなければならない。このあたりについては哲学は無力であり、文学のうねりがマゾを抱きしめることができる。円香の子宮口にキスをするために必要なのは乳首を噛むことであって一生懸命腰を振ることではない。「俺とナンシーは死ぬときは一緒だって、悪魔と契約したんだ。そう契約したから、そうじゃなくちゃいけないんだ。」――確かに俺は契約したつもりになっていた。円香と一緒なら死んでもいいと思っていた。本当に死ぬつもりだった。しかし、彼女は俺と一緒に死ぬことを選ばなかった。平成に生まれた哲学のシド・ヴィシャスについていけなかった。俺は彼女を口説くときに、レヴィナスだかブルトンだかを引用して――ああいやもういい。円香はドマゾであり、「愛してるって言わなきゃ殺す」なのだが、しかし、しかし、彼女はその気になれればよくてモノホンを前にするとドン引きしてしまう。アイドルは端的に言って狂気だから、彼女は「心臓を握る」や「二酸化炭素濃度の話」でためらってしまう。しかし、彼女の背筋はゾクゾクする。おまんこがびちゃびちゃになる。そして勝っても負けても、すっきりするのである。「あっち」の円香は、どこまでも蒼いから。「こっち」の円香は、それはそれで、ぬかるみの魅力があるのだが。

 

 とまれ我々は、はは、と乾いた笑いを浮かべつつ、アルテュールランボーの前に膝をついて、シド・ヴィシャスに敬礼をしよう。ヴィヴィアン・ウエストウッドのライセンス・レーベルとフェイクレザーのジャケット、土まみれのエンジニアブーツを死に装束に。もちろんジッポはジャック・ダニエル。

 

 いつだって僕らは せいいっぱい僕らは 昨日よりもっと強く 光れ 光れ

 

 それは見出される

 何が――永遠

 海と太陽が溶けあうあわいに