思考停止

映画、本、音楽、など

2022年総括

 毎年年末にはその年にあったことを備忘録的に書き留めることにしていて、去年は逮捕や精神病院、院試などが重なってかなり精神的に追い詰められていたから、他の年との相対化を否応なくさせられたのをよく覚えている。「今年は忘れられない一年だった」という言明は実のところナンセンスで、「忘れられない一年だった」と書くことでその一年を無理やり特別なものにしてやろうという浅はかさが滲むようで、あまり好んで使いたい表現ではない。今年が終わってみて思うのは、年を重ねるごとに一年の中にある節目がどうでもよいというか、あってもなくてもさして変わりがないものとして目に映るようになったということである。誕生日、クリスマス、などなどは、当然友人たちと過ごせるに越したことはないが家で一人煙草を蒸していてもさほど心が痛まなくなってしまった。自意識は年を経るごとに擦りきれて、青い激情はどこか遠くに置き忘れてきてしまった気がする。つまるところ、年を取るとは次第に色んなことの輪郭がぼやけてどうでもよくなっていく過程なのだと思う。

 とはいえ、2022年はここ数年間で最も体調がよく、病気にも振り回されず、面白い人との交流も増え、率直にとても良い一年だったと振り返ることができるのは大きな喜びだし、昨年泥を啜ったことが無駄ではなかったと確実に言える。とりわけ感じたのは、年下の子たちの層の厚さだった。彼らはよく本を読み、よく内省し、よく物事を受け取っている。2001年生まれの後輩たちと関わることが多かったが、彼らと同い年(つまり、21の代)の時分の俺と言ったら読書と勉強から逃げてパチンコと風俗に明け暮れていたと考えると彼らの柔軟でしなやかな感性と辛抱強さにはまったく頭が上がらない。大学以外でも、Twitterで良い出会いもあった。そう考えると、今俺は第二の青春を謳歌しつつあるのかもしれない。長かった雌伏のときが終わりつつあり、今からいいことがいっぱい起こるのかもしれない。そう考えると、今年の始めに院試に落ちたのは結果的にはよかった、とあえて言ってしまおう。落ちたことで謙虚になれたし、身の程に合っていない大学院を受けて自分のレベルも相対的に把握できた。そして何より、学部時代を過ごした母校にOBの立場から戻ってきて優秀で頭の良い後輩たちに刺激されながら日々を過ごせているのは本当に良いことだと思う。来年は大学院合格を見据えつつ、同人誌二号の出版を視野に入れて一層の飛躍を目指したい。

 今はバイト中で暇(バイト中なのに暇……?)なのでスマホで文章を書いているのだが、スマホだと観念連合的にズラズラと書きたいことが垂れ流しになって欲望が制御できずなかなか慣れないが、例によってトピックごとに今年思ったこと・興味、関心を並べていく。去年と違って今年は平和な年だったので、面白くはないかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。

 

・研究のこと

 大学院の面接で叩きのめされ自信があったアルチュセール研究にすっかり意気喪失し、ルソーやラカンにすがるも手応えを得られず、メタフィジカが出るか出ないかぐらいの頃は自分の学問的なアイデンティティがまったく分からなくなっていた。そんなときたまたま以前神保町で購めていたスティーヴン・ハーパー『アントナン・アルトー伝』を読み、本自体はそこまで面白いものではないがアルトーに惹かれていた高校時代を思いだし、意を決してアルチュセールからアルトーへ方向転換を図った。森島章仁『アントナン・アルトー精神分裂病』などの精神病理学的見地のテクストやデリダエクリチュールと差異』所収の「吹き込まれ掠め取られた言葉」を参照しつつ、『演劇とその分身』『神経の秤・冥府の臍』『神の裁きと決別するため』『ロデーズからの手紙』などの一次文献渉猟に当たった一年だった。とりわけ自分が着目したのは「残酷演劇」における時間性と生の概念で、「分節化」というタームを鍵にしてアルトーの言うバリ島などの言葉を用いない演劇がいかにしてドラマトゥルギーを生起させるのかという問いをこれから洗練させていきたいと思っている。とりわけ、さしあたっては映画との関連に注目しているので、今はドゥルーズの『シネマ』を読んでいる。相変わらず難しいが、DRやAŒほどではないので、負担をかけつつ楽しく読めている。相も変わらず主体の変容みたいなところに興味があるのは、哲学に向いていないと言いながら文学に完全に転向することもできない自分の中途半端さが身に沁みるようで情けない気もするが。

 他には研究とは関係ないものの興味を惹かれた論文・本をいくつか。ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか?」は現在OBとして参加しているサークルの読書会でフランス語で読んでいる。レトリックを使わず数式のように組み上がっていく精緻なフランス語は読んでいて気持ちが良い。差異的=微分的(differentiel)/強度の概念やセリーの問題が登場するなど、DR前夜(「何を~」の執筆時期は1967年)の文章として読むのも一興。クッツェー『鉄の時代』はハードボイルドな文体ながら愛、絶望、超越と言った文学でしか表現できないテーマを扱っており一気に読んでしまった。黒人の少年・ジョンに主人公のミセス・カレンが長説教をぶつ場面は心が震えた。クッツェーは『恥辱』も気になってる。淵田仁『ルソーと方法』はマイナー資料の読解の卓抜もさることながらコンディヤックから始めるという意外性で冒頭からググッと引き込まれ、幕引きの『告白』に至って感動的なラストを迎えるドラマティックな博論で読んでいて飽きなかった。

 来年はシュルレアリスム周りの文学史の整理、映画史・映画理論、文芸批評を目処に読書していきたいですね。クラカウアー高スギィ!

 

シャニマス

 ライブは4th2日目とセツナビート1日目に行った。恐らく俺はああいう大所帯ライブに慣れておらず、興味のないイルミネやアンティーカのときはソワソワソワソワしてしまうし、なのでセツナビートは最初から最後まで楽しめた。5thってマジでPWから2曲ずつやっておしまいなんですかね……?まあいいけどさ……。ハマってそこそこ経ってバンナムの底意地の悪さも見えてきたけど、それを分かりつつもお金を落とすのが大人(なお、無職)なので、これからもシャニマスには継続的にお布施をしていきます。ガシャには金もう入れないけどね。グッズとチケット買えなかったら元も子もないし。

 忘れがたいコミュで上がるのは(去年実装だったっけ?まあ、いいや)樋口のLanding Pointだろうか。ピトス・エルピスにおける初期衝動の問題が川のシーンで昇華されていて──愛するにも愛されるにもプロデューサーに対する憎悪と表裏一体の激情が彼女の中に存在しているということ──読みごたえがあった。Merryは天井したけど、これからあの調子で甘ったるいままだったら嫌だなあ。トワコレ冬優子はstarring Fの続きという感じがして、「冬優子」が「ふゆ」である必然性を下品にならないスレスレのところで説話構造に落とし込んだ良いコミュだった。冬優子はいつ俺の前に現れてくれるんですか?ヴィレヴァンでクソデカ冬優子タペストリー買ったんで、あとはオフレコのスケールフィギュアを待つのみですね。PWの曲はGive me some more…しか聴いてません。放クラの曲死ぬほどダサくて泣いた。

 

・女児アニメ

 後輩からプリマジの甘瓜みるきのエロ同人をもらったことがきっかけで(最低のきっかけ)女児アニメに興味を持ち、Twitterの友人にU-NEXTのアカウントを貸してもらって、最初はエロ同人の理解を深めるためというとんでもなく不純な動機でプリマジを観始めたところ、視聴中幾度となく涙を流すほどにはハマってしまった。今はアイカツを観ているのだが、女児アニメに共通しているのは「圧倒的な善性」と「予定調和」である。この二つについては次号のメタフィジカで深く掘り下げる予定なので詳しくは書かないが、様々な芸術や文学が人間の弱さや醜さ、愚かさを描いてきたのに対し、女児アニメはいつも絶対的に「善い」。それは女児が観るからというだけではなく、人間の美しさはこうであってほしいという願いや祈りによって産み出されたものである。心愛れもんが目を隠していた金髪を切ってステージに上がる瞬間、みゃむが砂浜でまつりのためだけにマジ・ワッチャパレードを歌い踊る瞬間、そこには少女たちにしか許されない生命の輝きと煌めきがある。みるきの同人誌をくれた後輩とU-NEXTのアカウントを貸してくれたTwitterの友人には感謝したい。

 

 こうして振り返ってみると今年は実存的な悩みがほとんどない。いつも一年の総括の記事には病状を書いていたのだが、(まったくないわけではないにしろ)今年は異常らしい異常がなかった。少しおかしいと思ったらすぐに病院に駆け込んでいたのもよかったのだろう。まあ、薬の量は一向に減らないが、薬を飲んで健康ならそれでよい。友人や後輩など、人間関係にも恵まれた一年だったのも自分のコンディションに影響を及ぼしていると思う。また、メタフィジカに関しては実際に運営に携わった自分や久我、執筆陣のみならずデザイナーや組版スペシャルサンクスの方々まで巻き込んで良いものができたと自負している。在庫は抱えてしまったが(これは俺のプロモート下手もあるけど)、二号はよりよいものを作れるように一層努力したい。

 

 あまり面白いことは書けなかったが、平和な一年だった。来年は目標クリアに向けて頑張ります。皆さんにおかれましては、どうかよいお年を。