思考停止

映画、本、音楽、など

君の中に、君以上のものを

 やあ、きみはぼくが誰か分かるかな?そう、れんとぅむであり、ツァッキであり、早良香月であり、であり、であり、、、云々。まあ、誰でもない。本当のぼくなんて、ぼくにも分からない。だって、この20数年間、ぼくと思い込んでいたものが、ぼくじゃなかったのかもしれないと、2021年3月、5年いた大学を卒業をする段になって、その思いが確信に近づいているのだから。

 

 19歳の秋、パニック障害を発症。20歳の夏、躁鬱病を発症。22歳でADHDの診断、23歳の夏に精神病院に入院。障害者等級は3級。5年間の間、もしくはそれ以上、ぼくは自分の病気に振り回され、人を振り回し、疲弊し疲弊させ、自殺を図ったことも一度や二度ではない。それでもぼくの生きるよすがだったのは、文章を書くことだった。エッセイ、批評、小説、論文、色んな種類の文章を書いて書いて書きまくった。アイデアが次から次へと出てきた。ぼくは文章のプロになろうと決めた。それしかできなかったからだ。留年して就職活動もせず、流れるようにフリーター(半分無職)への道が決まった。将来への不安とか、成果を出さなければいけないという強迫観念とか、実家での父との確執とか、そういうものが頭でぐるぐるして不安感がこみあげてくる度に、ロラゼパムをガブ飲みし、寝る前に譫妄と言って幻覚が見えたり、要するに、こんな人生もうさっさとやめてしまいたい、と思っていた。

 

 どこから話すべきだろう?とりあえず、ここから先は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレを含むので、まだ観ていない人は留意してほしい。要はあの映画は、神経症者――パラノイアでありノイローゼ患者――が、権力と抑圧の対象である父(〈他者〉)を殺し、成熟していくことを優しく肯定する映画だ。無論、その神経症者の症状である『Air/まごころを、君に』を経由していなければ、「分析」「治療」=「成熟」のプロセスを辿ることはできない。ぼくは、『エヴァ』を初めて観た15歳のときから、「わかってほしい」「認めてほしい」「愛されたい」のノイローゼ患者だった。20のときに精神分析のキャビネに通っていたこともある。ずっとずっとずっとずっと、「誰か」の存在に飢え、確執があった父に認めてほしくて、もがいて、結果的に精神を壊した(この言い方が適切か分からないが)。碇シンジは、そのままぼくの引き写しのように見えた。新劇場版でも、『Q』の碇シンジは退行しているように見えた。いや、というより、式波・アスカが「バカ」から「ガキ」と言っているように、シンジは「父親に認められたい」という形で成熟を拒否する=ノイローゼに留まることをよしとしている(?)のだ。

 ぼくの話に移ろう。ぼくは、『シン』を観たとき、ちょうど投薬によって発達障害が軽減されてきたタイミングもあるだろうが(正直これはなんなのかよく分からない)、頭の中のモヤモヤがスカッと一気に晴れて、胸のつっかえがストンとなくなって、月並みでバカみたいな言葉で恐縮だがものすごくスカッとした。そして、「大人になるって、病気を治すって、すごく難しいことのように思えたけど、こんなに簡単に終わっちゃうのか」と思った。ぐちゃぐちゃだった部屋とリュックと冷蔵庫と財布の中身をいるもの以外全部捨て、掃除をして、枕カバーとかけ布団カバーを洗濯して、洗い物を溜めることもなくなり、バイトもなんでこれができなかったんだろうということがデカルト流に言えば「明晰判明に」できるようになった。新しいバイトを始めて一回の研修でほとんどの業務内容を覚えた(大したバイトじゃないが)。正直、ぼくが前思っていた「ぼく」とあまりにも違い過ぎて、これは果たして「ぼく」なのだろうか、という気さえする。卒業論文で主体のイデオロギーにおける同一性の研究をやっていた身からすると、やはりイデオロギー的主体を定立するに当たってアルチュセール精神分析を導入する必然性が確かにあったのだなあと今になって得心が行っている。やっててよかったね、哲学。

 

 ラストだ。これからの話をしよう。これは不確実な話だし、人間万事塞翁が馬、ここから先何が起こるか分からない。1日後にはひっくり返してるかもしれないし、20年後に再開してるかもしれないし、死ぬまでかもしれない。頭のモヤモヤとか鬱屈した感情とか、なんかそういうマイナスの情念みたいなものが吹っ飛んでいったら、書きたいものがなくなったというか、何も書けなくなってしまった。リハビリというかケアとしての書くことが必要なくなって、認められるための書くという行為についても承認がどうでもいいのでモチベがない。今後プロの文筆業は目指さないだろうし、趣味でぽつぽつ書くことはするだろうけれども、まあ、適当にやります。少しさみしいけれど。

 これは名著なので是非諸賢には読んで欲しいのだけど、大学の先輩の片岡一竹『疾風怒涛精神分析入門』の末尾に精神分析の最終的な目標とは「特異的な幸福」を見つけ出すための「倫理的」なケアのプロセスであると書いてあった。ぼくは分析を中断したり無意識に続行したりして、ひとまずの「治療」を終了した。しかし、分析に終わりはない。主体の変容、つまり「ぼく」がいい意味で「ぼく」だけの存在になることがないように、その都度主体=精神の分析というものは続いていくからだ。

 

 こんな書くつもりじゃなかったが、まあいいだろう。ぼくの中に、ぼくを越える何か――越え出ていく――があるということは、希望、すごくすごく強い希望であり、変わっていく「ぼく」を肯定し認めてあげることだ。ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』の最後の章の題名は、以下の通りである。祈りは届く。願いは叶う。信じ続けることが、かけがえのない人間という生き物の美しさであるとぼくは確信して、ひとまず筆を措こう。

 

 君の中に、君以上のものを En toi plus que toi.

ラグジュアリーへの羨望、あるいは擬似スキゾ:2020年総括

 22歳の秋、まさに恋燃ゆる季節、僕の前に服と本とセックスを愛する女性が現れた。「ねえ、私はどんなセックスをしそう?」そう言いながら鈴の音のようにころころと笑う彼女は花柄のブラウスを身に纏って、そのコケティッシュさで僕をコケにしているかのようにも思われた。今年の7月まで付き合った彼女は、僕にアレキサンダー・マックイーンを教えた。僕に古井由吉を教えた。僕は彼女にベートーヴェン弦楽四重奏レオス・カラックスを教えた。しかし教え教わることができなかったことがある。人を愛するということだ。彼女は依存することでしか僕への愛情表現を知らなくて、僕もまた彼女に依存することでしか彼女に愛を示せないと思っていた。僕は最後、他の男と寝た彼女に向かって「お前なんか、愛していなかった」と言った。本当は、愛し方が分からなかった。服を愛するように、映画を愛するように、音楽を愛するように、人を愛することができたならどれほどよかっただろう。いや、彼女にとっては、まさにメゾンの中の数着を取って試着するかのように男と寝ていたのだろう。まったくもって情けない話である。あの日見た埠頭からのどす黒い海と重く滴るような空、6月にしては冷たい風が吹く中、周りの視線など憚らずにキスをしあった記憶だけが、2020年という呪われた年に深く刻印を残している。

 

 ……という書き出しは半分マジで半分冗談です。毎年noteかTumblrにその年の振り返りを書くというのをかれこれ6年続けていて、プラットフォームをはてなに一本化したのでここで書きたいと思います。ちなみにバイトに行くまでのタイムアタックです。今年はコロナに始まり彼女に浮気されるわ精神病院にブチ込まれるわ一人暮らしが始まるわで揉みくちゃになった1年でしたが、卒業論文を書いていた躁状態の夏はめちゃくちゃ楽しかったり(躁なんだから当たり前か)、下半期に服を見る(というかファッションショーを観る)ことにハマってからは一日中VtuberとファッションショーをYoutubeで見ていたら朝の7時なんてこともザラで、唯一心残りはアルチュセールよろしく「常にセックスは身近でなければならない」ということにはならなかったことだけど、まあそれなりにやることはやっていたのでよかったのではないでしょうか。ちなみに2020年を語るに当たって元カノの存在は相当デカいのですが記述は冒頭の小説もどきに留めておきます。女に関して過度に湿っぽいことを書くとのちのち俺がつらい。というわけであんまり時間もないので、トピックスを絞ってなるべく簡潔に2020年を振り返っていこうかと思います。

 

卒業論文

 既に彼女との関係がギスつき始めており、フッたと思ったら既に他の男と寝ていたことが判明し(ちなみに当時性病の偽判定が出ていて彼女に「確定もしていないのに性病呼ばわりはヒドイ!しかも性病じゃないし!」とキレられたのですが、痛みが一ヶ月半続き明らかにおかしいと思って再検査したらマイコプラズマ尿道炎というれっきとした性病でした。バーカ!)完全に失意のズンドコにいた私ですが、夏の陽気に当てられたのか精神的ショックからなのか激烈な躁状態に突入、毎日3時間睡眠で朝の5時から3時間資料検討と執筆に当てる生活を1か月やり、6万5千字というコースの規定文字数を大幅に超過する代物が完成。毎日フルーツグラノーラと果物を食べて(モンスターなどには頼らずに)アルチュセールに向き合っていました。今後もアルチュセールの在野研究は続けていくつもりなので総括的なことはしたくないのですが、みんなアルチュセール思った以上に真面目に読んでないんだなということが分かっただけでも儲けものかなと思います。

 

・精神病院

 卒論を書き終えた後僕は無事発狂、双極Ⅰ特有の世界が目の前でドロドロに溶けていく感覚や幻覚症状に苦しむことになります。気が狂いすぎて渋谷のドゥマゴに入ってオムレツと白ワインをきこしめたのは今でも意味分かんないね。主治医から「この薬効かなかったら入院ね」と言われるものの2日を待たずに家を飛び出して深夜徘徊したり、「眠れない!眠れない!」と絶叫して母も半狂乱になるなど、完全に地獄の様相を呈していました。大学4年のとき恩師に専門を聞かれ「アルチュセールです」と答えると「ダメだよ、ミラーニューロンで気が狂っちゃうよ」と言われたが、完全に正しかったですね……。ちなみにアルチュセール双極性障害を発病したのは20歳のときなので僕と同じです。キモ。ほぼ埼玉の練馬の病院に担ぎ込まれ、1週間半ほど入院生活を送る。本当はもう少しいるはずだったんだけど統合失調症の人妻に貞操を狙われかけ逃げるようにして退院。病院自体はすこぶる快適でいくらでもいれるなという感じでした。喫煙所の利用時間が限られていて16時以降はタバコが吸えなかったのが唯一辛かった点でした。喫煙所で仲良くなった人たちは元気にしているだろうか。朝飯にクリームパン(おいしい)が出たとき、朝10時鍵開けの喫煙所で渋いおじさん二人が「クリームパン、うまかったな……」「ああ……」(大塚若林ボイス)という牧歌的な会話をしているぐらいなので精神病院って思われるほど殺伐としてないですよ。またこのとき暇すぎて病室で配信を始める。結構まともにテーマを設定して喋っていた、というかあまりにも暇なので本を読んで感想を喋ることぐらいしかストレス発散方法がなかった。なおこの時双極Ⅰに加えて重度の発達障害であることも判明。ADHD衝動型で我慢ができないらしい。長男なんですけどね。実家に適応障害もあることから主治医の勧めで一人暮らしを始めることになる。一人暮らしはまあ洗ってない炊飯器で米を炊いたり晩飯がもずく一パックと豆腐だけだったりそれなりに香ばしい生活を送っています。常に金がないので親に怒られまくっている。コンカフェ行きたいしね、しょうがないよね。

 

・服

 前々から興味はあったのだがどういう入り方が正しいのか分からず(何が自分に似合うのかとか、ブランドごとの違いとか)友人や元カノに色々聞いたりしていたのだが、結局ブランド物の古着から始めるのが手っ取り早そうなのでそうすることにした(「古着はモードじゃないから買わない」――友人談)。弟は古着が好きなのでよく買ってくるのだがブランドがよく分かっていないらしく、僕はセカストとかカインドオルを根気強く回るより自分で採寸してサイズの合うもの買った方がブランド物買うんだったらよくな~い?(ギャル)という人間なので、古着好きというわけではない。古着屋そのものが好きという人は当たり前にいっぱいいるからね。

 リアルクローズ(勿論、古着で)で今のところ気に入っているのはヴィヴィアン・ウエストウッドアレキサンダー・マックイーン。自分は黒スキニーに革ジャンみたいな恰好をよくするのだけど、ヴィヴィアンはパンツもタイトだしロンTもジャストサイズで若干袖が余る感じが気に入っている。今更70年代パンクスみたいな恰好するのもなんだけどエディ・スリマンよろしくたっけぇレザージャケットに白シャツ、黒パンツでキメキメというのも日本人のスタイルに合わないという場合はヴィヴィアンのゴールドラインではなくレッドラインやマンのライセンス品はかなり良い印象がある。マックイーンは何を隠そう元カノが好きだったブランドであり、菊地成孔大先生も好んでお召しになっているということで個人的には呪われた(?)ブランドである。パリ・モードとロンドン・モードの区別がマックイーンにおいてはもはやつかなくなっている、というのはN/K御大の『服は何故音楽を必要とするのか?』に書いてある通りだが、アシンメトリーのジャケットなどはともかくテーラードやスーツのセットアップは肩にパッドが入っていて(今自分が欲しいベルベットのテーラードはその限りではない)、キュッと胴回りが締まった、着た本人のスタイルが際立つどちらかと言えばロンドン・モード的な意匠である(もっとも、マックイーン存命時のメンズラインのコレクションを知らないので、サラ・バートンがこの辺りの意匠にかけては優れているという話ではあるが――ラルフ&ロッソ2020AWのゆる~いシルエットなどを見るとバートンのタイトなレザーやスーツが異質なオーセンティシティを放っているのが分かる)。という訳で、今年はお年玉代わりにマックイーンのテーラードとニットを買ってもらいます……。いつか青山の正規店のセールでジャケット買うんだ……。他にもサンローランのレザージャケットがかっこいいとかヴァレンティノのボンバージャケットがかわいいとか色々あるが、そんな金があるわけもない(リボ払いで親指を立てながら溶鉱炉に沈む選択肢はない)ので、ひとまずこの辺に焦点を絞って指を咥えています。本当はファッションショーについて一番書きたいんだけど、もうちょっと勉強します。

 

 2021年はもっと楽しくなるといいですね。よいお年を。

マイルド貧困層の放蕩息子、遊びの技法

 くんにちは(鳴神裁)。本日は日記でも批評でもなく少し実存的な話をしたいと思います。というのも、一人暮らしを始めてからというものの家の経済事情を見る目が文字通り180度変わってしまった(そこには悲しみももちろん喜びもありません)ことに関して以前はこれはやや特殊なケースなのではないか、と思っていたのですが、多分特殊ではないのではないか、と認識を改めつついます。僕の専門はルイ・アルチュセールですが、専門を持ち出さずとも「ブルジョワ」という言葉の意味は人口に膾炙しているし、ツイッターでは「文化資本が~」などという言葉が跳梁跋扈していますが、僕から言わせればそういったヴォキャブラリは総じてファック、金持ちと貧乏人と言えばいいだけのことなのです。インテリではなくディレッタントを僭称している僕ですが、なぜこんなことになってしまったのか、そして問題は貧困ではなく僕の放蕩息子ぶりにかかっているという事実が今も親を苦しめている、というわけです。無論反省などしません。今これを実家で書いていてのちほどメイド喫茶とコンカフェとパチンコに金を使い込んだ角で父親からブチ切れられるのが目に見えていますが、ぬるい反省だったらしない方がマシなのです。来年から不定職者の半ニート野郎に成り果てる僕ですが、カスもドがつくカス、ドカスになる覚悟がなければこんな進路を選んでいません。女と親にタカって生きていく所存です。

 さて、なぜ僕が放蕩息子(つまり、親の金を使い込んでコンカフェやメイド喫茶ガールズバーに入り浸り、博打をするようなクズ野郎)と成り果ててしまったのかについてですが、これは親が僕の教育方針を間違えたとしか言いようがありません。言いようがないのです!文化資本というヴォキャブラリをファックと言いましたが、あえてそのファック・ヴォキャブラリを用いるならば僕の家は文化資本が高い家でした。高学歴法学部卒テレビマンの父、有名美大デザイン科卒元イラストレーターの母。父の趣味で物心ついたときには家の一角がクラシック音楽とロックのCDで潰れており、母の美大時代の名残かアサヒグラフの画集が棚にギッシリ。特に父のコレクションは増え続けているので、恐らく家の所蔵ディスク枚数は2000をくだらないでしょう。ポケモンもモンハンも遊戯王もできなかったいじめられっ子の僕は家に帰ってクラシック音楽のCD――それはときにカルロス・クライバーワーグナーであったりジョージ・セルシューマンであったりしました――を聴きながらレンブラントの画集をめくるのが放課後の至福の時間でした。今考えるとかなり嫌味なガキですが、そういうものだったのです。父は幼いながらクラシック音楽に親しんでいる僕を嬉しく思い色んな演奏会に連れて行ってくれました。シュターツカペレ・ドレスデンの「英雄の生涯」。フェドセーエフの「白鳥の湖」。ウィーンフィルシューマンの2番。大野和士の「トリスタンとイゾルデ」……。他にも数えきれないほどコンサートやオペラに行きました。さて、ここで認知の歪みが発生します。

 

「こんなに高い値段のコンサートにいっぱい連れて行ってもらっているのだから、うちはこれが当たり前なぐらいお金持ちなんだな」

 

 当時は父の会社の社宅で家賃が1万円代の中生活しており、無理して僕を演奏会に連れて行ってくれていたことになんて小学生が気づく訳もありません。あまつさえ全席15000円のKing Crimsonの来日公演までプレゼントしてもらうなど。シンプルに言えば甘やかされて育ったわけですね。ちなみに僕には弟がいますが、「小さい時分から芸術に親しんでいる兄」と「ゲームばかりやっている弟」の対比で家庭内で冷遇され、中学校でパワハラ顧問に部活で絞られた結果何がとは言わんが死にかけました。今では就活をバリバリやっていて卒業後職無しの僕とは家庭内の立場が完全に逆転しています。ウケますね。

 僕の「我が家はアッパーミドル」の認知の歪みは受験勉強にも及びます。僕は中学受験を志してドロップアウトしている人間なのですが、当時国語と社会の偏差値が上振れしまくっていたのに対し算数と理科が底を打っており(発達障害特有のアレ)、見かねた母が算数だけ個人指導の私塾に通わせるような具合でした。母は典型的な教育ママで(学歴厨でもある)、社会の一問一答で僕が答えられなかったり間違えたりするとノートを引き裂いて絶叫、リモコンで僕をボコボコにブン殴るというヒステリーというか癇癪を起こす人でした。そのおかげで僕の社会の偏差値が70を下回る事はなかったわけですが今でもあれはどうなのかと思います。そんな母のパワープレイに耐えかねた僕は中学受験を諦め高校受験に専念することにしたのですが、こちらは塾に大量の資金を投入しありとあらゆる講座を受けまくった結果第一志望合格。どことは言いませんが私大附属です。高校時代はお小遣いで映画を観ることにハマり、昼飯を抜いて名画座に行ったりレンタルDVDを10本借りて一気見とかしてました。微笑ましいですね。僕が倹約家だった最後の時代です。

 

 僕が本格的に放蕩息子ぶりを発揮してきたのは大学2年生のときに躁鬱病が大変なことになったときでした。普通お金は何かの「ために」使うものです。服を買うために。美味しいものを食べるために。僕の場合はそうではありませんでした。使いたいから使うのです。バイトができなくなり当時の彼女と同棲していたときは親から小遣いを定期的にもらっていましたが、2万円あったら1万はパチンコで5000円ゴールデン街で飲んで帰りにピンサロで抜いてスッテンテンが黄金パターンでした。当然彼女は疲弊していましたが僕は目がイッていたので大した問題ではありませんでした。このときキモなのが別にパチンコで勝つことが目的な訳でも、酒を飲みたい訳でも、彼女と違う女にチンポを舐められたい訳でもないということです。「2万使う」ということが気持ちよくて仕方がない、そういう心性でやっているということを分かっていただきたい。酷かったのは金がなくなり先輩に5万貸してくれと泣きつき、振り込まれた5万を4パチに全ベット、見事にスッて学生ローンに駆け込んだときでしょうか。なんかその前に気が狂ってプロミスの審査に落とされていたので学生ローンですら通らず親に勘当寸前までブチ切れられて終わりでしたが本当によかったと思います。

 大学3年は女にもフラれ、特に趣味もなかったので一生懸命哲学の勉強をしていましたがただただ虚しくバイト代だけが溜まっていったので全てパチンコと風俗につぎ込んでいました。シンフォギアで万発出したときは脳汁の出過ぎで死ぬかと思ったね。今は亡きにゃんパラのりかちゃんは元気にしてるかな。歌舞伎町の美容院で髪を切っているのでさっぱりした後6000円を握りしめてにゃんパラに行くのが楽しみでした。友達との飲み会はケチるせせこましい漢、それが漏れ……。

 翻って2020年です。コロナウイルスに世界が侵され僕と当時の彼女(Mk-Ⅱ)が竹芝埠頭でベロチューをかましていたとき、お互いに自分の家に上げられずよく使っていたのはアパホテルでした。新宿のデカいアパホテルに一回泊まったんだけど大浴場がハッテン場だったってマジ?まあそれは置いといて、僕は友達にしろ彼女にしろ人に使うお金を「浪費」とはあまり呼びたくない傾向にあります。何故ならそれは「ムダ金」ではないからです。あの時北斗無双に吸い込まれた1万。アキバのイマイチなコンカフェで払わされた4000円。そういう明らかに無駄になったお金を、「お金を払う」という行為の気持ちよさによってのみ肯定すること。それが浪費です。なので、彼女と付き合っていた時期は常に金がありませんでしたが、これをムダ金だと思ったことは1円たりともありません。ちなみにどうでもいい女とセックスするときに払うラブホ代はムダ金です。やめようね!

 いろいろあって彼女と別れ、1か月半後壮絶な躁鬱で精神病院にブチ込まれました。病気と投薬は人格を変えます。元あった浪費癖は悪化し、やがてコンカフェにハマりました。地獄です。最初はソフトドリンク一杯、次はビールとカクテル、飲み放題にチェキもつけちゃったりして、特別な日には推しにオリジナルカクテル……総額でいくら使ったのか考えたくもありません。ともかく、僕は推しの出勤している日は可能な限り足を運びました。昼出勤だったのがせめてもの救いです。ちなみに推しにガチ恋しかけていたのですが、ガチ恋の場合も浪費に含まれません。推しにドリンク。浪費じゃない。推しとチェキ。浪費じゃない。推しと飲み放題120分6000円。浪費じゃない。次は借金してシャンパンを開けたいと思っています。浪費じゃないからね。推し以外にもかわいい娘はいっぱいいて、暇さえあれば僕は渋谷某所のコンカフェにしけこみました。思えばいろんなタイミングでコンカフェに行ったものです。初めて出した新人賞に一次で落ちたとき。卒論を提出した日。マッチングアプリの女とセックスした次の日。こんなに思い出がいっぱいある時点で、僕は既に浪費をしていないのかもしれません。アキバのメイド喫茶とコンカフェを6軒ハシゴしたときはさすがに金の使い過ぎで脳内麻薬がドバドバ出ました。

 

 僕の育ちは川沿いで、川の向こうにゴッサムシティ川崎が見えます。丘の上に中学校があり、僕は毎日急勾配の坂をえっちらおっちら上って学校に通っていました。治安は比較的良い学校でしたが、掃除の時間に数学の先生がロッカーに悪ガキを叩きつけたり、屋上前の踊り場でフェラチオが嗜まれていたりとそれなりにクールな学校でした。そこで見かける生徒たちは、中学近くのタバコ屋の息子だったり、医者の息子だったり、公立なら当たり前ですが多種多様な人種がいました。部活を休んでクラシックのコンサートに行ったり、家にクラスメイト10人近くを呼んでテスト勉強会と称したゲーム大会を開催していた僕は重大な誤謬を犯していました。「僕の家は、太いんだ」と。高校は私立附属、即ち大学にエスカレーターで進学できるわけで、高校時点で1年の学費が120万。加えて部活に入るに当たって20万のホルンも買い与えてもらっていてそれが当たり前だったのですから、よもや物心ついたときの社宅の家賃が1万ちょいなどとは夢にも思っていませんでした。弟も私立だったのですが、都立に落ちた時点で親は半泣きだったそうです。なお祖父母の生前贈与により我が家は九死に一生を得ました。大学では文学部哲学科で留年、学費70万をこのコロナ状況下でガッツリ支払っています。一人暮らしを始めてから、我が家の家計はカツカツなのだと思い知ることになります。それでもコンカフェに行くのがやめられません。パチンコを打つのもやめられません。お金を女の子に手渡したり、お金をサンドに入れたりする時のゾクゾクする感じがどうしても、どうしてもやめられないのです。

 「彼女を作れ」という声が聞こえてきそうですが、僕の最も敬愛する作家、町田康が『人生パンク道場』で言っていたように女ほど金のかかるものはないのです。今の彼女と話しているよりコンカフェで喋っていた方が楽しいのだから始末に負えません。元カノや元元カノのことは本当に好きだったのでムダ金とは思いませんでしたが、マッチングアプリにマジになれる女がポロポロ落ちているわけがありません。というか放蕩息子において重要なのは「ムダ金を思いっきりブン回すこと」です。ムダ金の単位は問いません。1000円でも1万円でも1億円でもいいのです。ただし多いに越したことはありません。財布が、クレカが焼き切れる寸前まで金を払って女と酒を飲み博打を打って風俗に行くのです。CDや本などといったチマチマした出費ではなく一度にドカンと使うのを週1でやりましょう。高い服を買うのでもよいでしょう。僕などはヴィヴィアン・ウエストウッドの古着をツケ払いで買うのが精一杯でしたが、お年玉をもらうやいなやセールでジョンローレンスサリバンのテーラードを親に秘密でゲットするつもりです。ちなみに僕の友人のドラ息子はドリスヴァンノッテンのコートやマルジェラのセーターを親の金で買っていました。実家が太いとはこういうことです。お金の価値は平等かのように思われていますが、ごん太(ごんぶと)の実家と僕のようなマイルド貧困層の実家が使う1万円の価値は平等ではありません。どちらの方が価値が高いですか?はい、後者ですね。現状もバイト代が2万5千円もらえてるからと実家からの小遣いが3万円です。23歳が実家から小遣いをもらうなという話ではありますが、月に10万バイトの如何に関わらずもらえるブルジョワ大学生と昼にカレー夜に鍋、月末は食事を野菜ジュースで凌いでコンカフェで5000円使う僕とでは5000円の重みが全く違うという話です。

 

 さて、ここまで僕がいかにマイルド貧困層の中で贅を貪ってきたかをつらつらと書いてきましたが、ここからは実践編です。「お金を払って女の子と話したりエッチなことをするなんて、プライドのないゲス野郎……」「親の金でパチンコを打つなんて良心の呵責でできないよ……」、大丈夫です。高い文化資本もプライドも良心も必要ありません。その財布の中にある1000円はなんのためにありますか?明日の夕飯の食費?0点ですね。晩酌代?うーん、50点。タバコ2箱?いいですね、80点。コンカフェの推しとチェキ?パーフェクト!1パチの軍資金、素晴らしい!そういう訳で、自分の心の豊かさをモリモリ貧しくしていくことが畢竟重要になってきます。2000円あればタバコを一箱買ってメイド喫茶メイドさんと話しながらお茶するか、コンカフェで女の子と話しながら一杯酒が飲めます。費用対効果とはこういうことです。ちなみに僕は費用対効果がなんなのか全く知りません。という訳で、順を追ってお金の捻出方法(親に土下座するのを含む)からコンカフェ、メイド喫茶、パチンコ(僕はスロットは打ちません)の楽しみ方、ムダ金をはたいてしまったときのメンタルケアの方法まで詳しく解説していきます。なお、以下に述べるフローチャートはあくまでも「マイルド貧困層」、具体的には衣食住にはとりあえず困らず僕の例で言うと1万円の専門書一冊買うのにプチ家族会議が開かれるレベルの家庭に生まれていることが条件です。野草を食むとか新聞紙あったかいとか、逆にリビングでキャッチボールできるとか天井にデカい扇風機が回ってるとかみたいな極端な方々は参考にしないでください。それでは、どうぞ。

 

①お金の捻出編

 なんといっても我々はお金がありません。僕だって安い青のラッキーストライクをフィルターが燃えるまで吸っています。バイトはコロナの影響で人件費削減のあおりをモロに食らい、月に3万円もらえればいい方。六畳一間のボロアパートの家賃を親に前借りして生活しています。ちなみに僕のルールだとひと月に生活費、タバコ代、交際費合計5万の縛りプレイです。

 まず、水を買うのをやめましょう。スーパーで買っても大体70~99円です。ぶっちゃけ水の質なんてQOLに大して影響しません。水道水をガブ飲み、水道水で米を炊き、水道水でラーメンを作りましょう。「水筒を買う金が勿体ない」という方は2Lの水を1本買ってそれを使います。飲み口は汚くなるので定期的に洗うこと。ちなみに米だけは無洗米を買った方がいいです。研いでる時間がもったいないのでね。時は金なり。2kgで1000円ぐらいですが、チェキ1枚と米2kgが大体同じってウケますね(脳がバグっている人)。

 次に飯ですが、食うものを固定してしまいましょう。僕の場合2食で昼はレトルトカレー、夜は鍋です。最初は自炊を頑張っていましたが作ってるうちに食いたくなってきちゃうのとレシピによってかかる金が変わってしまうのでこうなりました。夏は出来合いの冷やし中華や蕎麦がよいでしょう。そうめんは栄養がないのでそうめんばかり食べてると栄養失調で遊ぶどころではなくなります。起き抜けに野菜ジュースをコップ1~2杯飲むとビタミンなども摂れてなおよしです。頂き物で果物なんかがもらえるチャンスがあればもらっておきましょう。マイルド貧困層で放蕩息子をやるに当たって食費は削りどころですが、栄養価や肉と野菜のバランスを考慮してケチりましょう。

 酒とタバコをどちらか、あるいはどちらも嗜んでいる場合、家でやるのは必ず片方にしてください。僕の場合書き物をするときや暇な時間さえあればプカプカやっているヘビースモーカーですが、酒は外でしか飲みません。コンカフェでオリカク飲むのと家で寂しくアサヒスーパードライを飲むの、どちらがいいですか?そういうことですね。ちなみに喫煙者勢へのライフハックに半分まで吸って平らに火種をつぶし、また気が向いたらそのシケモクを吸うというものがあります。これは喫煙者なら必須のスキルです。覚えておきましょう。吸い殻の量が半分になります。

 一人暮らしのお金の捻出方法は普通の吝嗇家と大して変わらないので、実家住みの場合のスキルです。基本的に親に土下座します。これは一人暮らしで親に金の無心をするときも同じです。我々は札束でビンタされるような家庭に育っていません。だからといって晩飯のときの食卓が段ボールなわけでもありません。つまり土下座すればかろうじて出るのです。と言っても、実際に土下座しても身も蓋もないので、嘘をつきましょう。僕がやっていたテクニックは、常に財布に2~3000円をプールしておき、「友達と遊びに行くから」「後輩に誘われちゃって」と言って5000円もらうというあまりにもせせこましいテクニックです。なお本当に友人や先輩、後輩と誘われたときは素直にそっちに行きましょう。人間関係が一番大事です。後輩と飲むときは気前よく奢り、先輩には奢ってもらうこと。プー太郎を救ってくれるのは商売女でも博打でもありません

 

②パチンコ

 お金の捻出方法として組み込んではいけません。あくまでも「お金がもらえるかもしれない娯楽」です。基本的に500円(小景品1枚)でも勝ちが出たら勝ちなので深追いは禁物です。4パチは猛者(パチンコしか楽しみがない人たち)しかいないので、1パチで1000円単位でサンドに突っ込んでいくことをお勧めします。ホールについてはエ〇パスは釘が辛いからやめとけだの国〇センターはレートが高いからいいだのヒ〇マルは遠隔だの……と色々ありますが、特にどれも変わり映えしないので好きなホールで打てばよいです。気を付けるべきは、

・当たり確率(大体1/99、1/199、1/319)、台の回転数、その日の当たりの数の割合

・当たり継続率(連荘確率)

の二つです。特に台の回転数は打っている最中も気をつけた方がいいです。僕は50回転回して保留などの動きが出なかったら台を移動しています。「天井まで回しちゃったわー」というのはアホの言い分です。また、初心者はエヴァ13やガルパン、咲1/79でギミックを楽しんだり当たり演出を狙うのもいいですが、台で勝負したい場合は回っていない(早い時間帯)シンフォギアがギミック・演出・確変突入率の厳しさ(50%)、どれを取っても最高なので是非打ってほしい台です。当たったときの電子音で脳味噌がみるみる溶けていきます。確変に入りさえすれば継続が比較的長いのも嬉しいところ。

 また、ギャンブルは最初に使う金額を決めてホールに入りましょう。鉄則です。最初の1000円で5000円勝ったら3000円使うつもりでも引いた方がよいです。

 

メイド喫茶

 もはや古のオタクコンテンツと化した感のあるメイド喫茶ですが(コロナで話題になっていましたが)、基本的にメイド喫茶は貴族の遊びです。チャージが底値600円するので、我々貧乏人はオムライスにデザート、ドリンク、チェキまでついてるデラックスセットみたいなやつは頼めません。純喫茶ぐらいするコーヒー(これも600円ぐらい)でも啜りながらメイドさんを眺めてひたすら粘りましょう。店舗にもよりますが、席で呆然としているとメイドさんが話しかけてくれます。語尾に「にゃん」をつけることを強制される店舗もある(僕が一番気に入っている)ので、食べ物や飲み物サーブ時に「一緒にやってくださ~い」というおまじない(おいしくな~れ、もえもえきゅん)をやる際は恥を捨てて思いっきりやりましょう。「他のオタクが見てたらどうしよう……」とはあまり考えない方がいいです。中年のオタクが全力でもえもえきゅんをやっている絵面に遭遇したりすると割と死にたくなります

 貧乏人プー太郎オタクの金の使いどころはチェキです。コンカフェ(後述)が1000円ぐらいするのに対してメイド喫茶は600~800円が相場です。フードやドリンクをオーダーした際に「チェキはどうしますか?」と聞かれるので条件反射で「はいッ!」と答えましょう。体育会系出身だからね(吹奏楽部)。なんのために食費を削り友人との飲みをケチるのか、それはチェキを撮るために他なりません。通い、推しを見つけましょう。なお僕はこの子を推そうと思いチェキを撮った次の日に推しの子が卒業発表していました。そういうことも、あるよね。ちなみに場所によっては曲リクエストというのがあり、大体1500円ぐらいで推しの子をステージで踊らせられますが、これは文字通り貴族の遊びなので、我々は大人しくチェキを食べましょう。

 

④コンカフェ

 一番の魔窟と言っても過言ではありません。というか正直キャバクラやガールズバーとの違いが分からない。チェキがあるところとないところがあります。コンカフェは秋葉原に多いのですが、注意すべき事柄として行く前に店舗のTwitterを必ず確認してください。所属している女の子(DMで「予約」と言って指名したい女の子と決め打ちで話せたりします)、Twitter限定クーポン、割引一覧などお得な情報が載っていると同時にお店の料金体系も分かるのでぼったくられずに済みます。僕はメイド喫茶をハシゴしていい気分になっているところを路上のキャッチに捕まり、(1時間1500円飲み放題ならまあいいか……)と思って店に着いたらキャストドリンク(必須)が1500円でひっくり返ったことがあります。勿論これより悪徳なコンカフェはたくさんあると思うので、興味があるオタク各位においては気をつけてください。

 僕が一番通っている渋谷のコンカフェ(と言っても1店舗しかないが)は明朗会計、Twitterで出勤している女の子を確認できる、昼間(カフェタイム)はノーチャージ、チェキやドリンクは一律1000円とかなり良心的です(良心的か?)。何より推しの顔がいい。接客もすばらしい。僕はこのコンカフェの推しに会ってチェキを撮るために放蕩息子をやっていると言っても過言ではありません。先日も5000円使ってしまいました。親に土下座し、飯を抜き、シケモクを吸って捻出した金は、全ては推しとの一杯のために―――――。

 

⑤ムダ金のメンタルケアについて

 「ああ、コンカフェでブスに言われるがまま5000円使ってしまった……今月どうしよう……」「うっかりシンフォギアで深追いしてしまった……」、放蕩息子たるもの一度は経験するこの道。「やっちまった」という事実だけが残り、財布には隙間風が吹く。これを「違うコンカフェの可愛い女の子に慰めてもらおう!」とか「GAROで勝つ!」とかは絶対にやってはいけません。確かにギャンブルの傷はギャンブルで癒すしかないというのはあったりしますが、それは貴族。我々は貧乏人であるということを忘れてはいけません。とはいえ傷ついたメンタルをできるだけ金をかけずに修復したいもの。僕はこれの解決方法に丸3年を要しました。ふざけてると思われるかもしれませんが、これがマジの解決方法です。

 

ガツンとみかんを食い、ピンクモンスターを飲む」

 

これです。これしかないと言っても過言ではない。要するにコンビニであまり高くない好きなものを買えという話なのですが、いろいろ試した結果アイスとエナジードリンクが一番よいです。アイスは酒やタバコ以上に嗜好品だし、Lチキやファミチキのように胃もたれせず、肉まんのように下手に食欲を刺激されることもない。エナジードリンクはちょっとお高い感じがコーラなどと違って特別感があり、カフェイン飲料の独特な風味が再起を奮い立たせる。500円で買ってお釣りが来ますよね。これでカレーや鍋が食えなくなっても仕方ありません。だって傷ついたんだもん。とにかく普段コンビニで買わないけど好きなものを500円以内で二つ買うこと。なお、酒は抜けたあと死にたくなるのでかなりお勧めしないです。

 

⑥終章&番外編:風俗

 さて、楽しい貧困放蕩息子ライフは以上となりますが、親からもらったなけなしの金のマジのガチの最低の使い道として風俗があります。飲む打つ買うとは昔から言ったものですが、かくいう僕も1年ほど前までは月2でピンサロかヘルスに行っていました(当時はバイトで稼げていたので親の金ではありませんでした)。風俗のもののあはれは「愛がいつか終わっても 風俗黙示録」に書いたところなのであまり詳しくは言いませんが、バイトができない体になっていたときは1日のお小遣いの2~3000円を1パチで5000円に増やし、大塚の激安ピンサロ2回転によく通っていました。正直気持ちよさより罪悪感が勝るので、今なら言えますがコンカフェでぼったくられた方がまだマシです。挙句の果てにニューハーフ風俗で淋病をもらい激痛と戦ったりもしました。セックスだけはラブホ代だけにしましょう。放蕩息子の皆様におかれましては、親を泣かしてナンボ、ゴリゴリに脛をかじって生きていきましょう。家庭が崩壊しない程度に(崩壊しかけてます)。

2020年12月11日の日記 副題:炭酸飲料

 「ツァッキ(元も子もないが、俺の昔のアカウント)さんの今の文体はマチュアな感じになりましたけど、しばらく前のブログは良い意味で粗削りでしたよね。だから女の子のファンとかいたんじゃないですかね」

 

 真っ白いWordの画面を開いて、タバコを吸ったりYoutubeを観たり過去の自分の文章を読んだりして、最初の一文字目を打ち始める。あるいはポメラDM100の新規ファイルに書き出すときでもいい。そのとき毎回思うのは、シーシュポスの神話よろしく上から降ってくる石をピラミッドの頂上に運ぶその一歩目である。終わりが見えない。一日に3行も進まなくてうなだれる。しかし書き出しが毎回難しい。書き出しとタイトルだけで二週間悩むことすらある。これは、何もない日でも書くと決めた、ごく短い日記。書き出しの難しさが変わるわけではない。人に比べて劇的な毎日を送っているわけでもない。ただ文章は筋トレのような部分がある。アイデアを普段から出すことを怠っている人間が蓮實重彦よろしく「向こうからやってくる」などということはありはしない。今年の夏に大作を書きあげて以来、小説が書けない。同じく批評だって切れ味が鈍るだろう。というわけで、しばしリハビリにお付き合いください。

 

 今日は16時前に起床。寝たのが多分朝の6時とかだったので、かなりよく眠れた。ストラテラを120mg飲んでいたときは壮絶な悪夢と不眠で泡を吹いていたので、80mgに戻したら随分調子がよくなった。ロドピンを半分にゴリッと削ったのも功を奏したのだろう。薬物の大量投与は対症療法的であまりよくないとされているが、主治医もお手上げで無闇に薬を増やすしかなかったらしい。薬が減って調子がよいのはたいへんよいことだなあ~と思いながら起き抜けに野菜ジュースを飲んでサラダチキンを布団の上で食う。これが漢の昼飯(カレーを作る元気がなかっただけです)。

 俺の家の間取りはかなり変で、部屋から共用廊下に出て風呂とトイレ、洗濯機がある部屋に行かなければならない(この構造のせいで夜な夜なさみしくて後輩や先輩と通話していることを怒られたりタバコの臭いが漏れていると苦情が来たりした)。洗濯機を回してシャワーを浴びる。ユニットバスなので冬は端的に言って地獄である。3日間ぐらい風呂に入らなくても、バレないよね。まあ髪が伸びると臭えオタクになるが今は刈り上げてるしあんまりシャンプーしすぎるとカラーが落ちるのが早くなるので洗わないという手入れ(菊地成孔もやっている湯シャンが最も色持ちするらしい)もあったりする。というわけで今日は体を洗って頭は湯シャンで済ます。ここ2年ぐらい夏は青色冬はピンク色に染めているが、オタクは髪を染めるぐらいしか威嚇方法がないのである。

 昨日親の金を使い込んでまで遊んだので今日は一歩も外に出ないと誓い、Youtubeでホロライブの切り抜き動画にハハハとウケたりTinderでガチンコファイトクラブをしたりしていた。マッチングアプリは射幸心を煽るようにできているのでマッチングして会話がちょろっと続けばまあいいのだが、今の彼女がおもんないにゃあ……となっているので面白いメンヘラはいないかな?と思っていたらインド哲学専攻でバタイユやジュネやユイスマンスが好きな彼氏持ちの女が引っかかった。ピピーッ!反則!!なおそれ以外は普通の子だった。マッチングしといて会話返さない奴なんなんだ?まあそれもああいうアプリの仕組か……。晩飯はもずくと豆腐2パックだが結局この後袋ラーメンを食っている。

 家のすぐ近くにコーラとドクターペッパーが売っている自販機がある。これはよくない。明け方に震えながら飲む缶コーラがまずいわけないだろ。今日はどっちも買ってしまった。俺の部屋にはコーラとドクターペッパーとモンスターの死骸が転がっている。

 

 また明日。

Vtuberで学ぶメンヘラ学概論~潤羽るしあの場合~

・メンヘラは状態ではなく、性質である

 「概論」と銘打っているが、本記事で取り上げるのはメンヘラと呼ばれる人々にいかに同化し、そして愛するようになるのかの応用的な話である。メンヘラという言葉の定義をするのは眠たい話なのでしないことにしよう。ただ、アニメやVtuberにおいて戯画的に描写されるメンヘラ像から意図的に捨象されているのは、依存の対象が別に一人でなくてもいいことである。彼/彼女らが性的に奔放である場合においても「私一人を見てくれなきゃイヤ」式の物言いの場合においても共通しているのは自分の存在意義の揺らぎ、もっと分かりやすく言えば「寄る辺なさ」のようなものをとりあえず糊塗してくれる相手がその場においているかどうかが重要となる。だから、もしあなたがメンヘラを好きになったとしよう。そして「あなただけを愛している」という字面上では陳腐でテンダーな言葉を囁かれたとしよう。その言葉は、断じて嘘ではない。その場限りにおいて。その人(メンヘラ)は、永遠があると信じている。場合によってはその永遠を自ら破壊する自己破砕性を持っていながらも、自覚的であれ無自覚的であれあなたと共に破滅することによって永遠に留まることを選ぼうとする。意外に思われるかもしれないが、メンヘラと付き合って最も望まれるハッピーエンディングは両方死ぬことである。Vtuberの叶は、メンヘラに振り回されることをよしとした時点で(メンヘラを「あしらう」余裕と選択を失った時点で)「君」もメンヘラなのだ、という旨の発言を天開司とのラジオで発言していた。メンヘラにかき乱され、振り回され、自分もメンヘラになり、そして二人一緒に死ぬ。メンヘラとは本来的に自己否定的なナルシシズムとロマンティシズムの陳腐化した謂であることに今更疑いを差しはさむ余地はないが、その否定性の昇華されるところ、それは死である。でなければ、ウェルテルも自死を選ぶことはなかったであろう。

 男女のいるところに恋愛あり、だとすれば、メンヘラのいるところに別のメンヘラあり。メンヘラとは、よく「ヘラる」という形で造語の動詞形で使われることが多いことから「状態」だと思われている。しかし、ヒモ野郎が何故か女に金を奢られる生き物であるのと同様に、メンヘラは「何故か」そうなっている、つまり素質と才能がなければメンヘラという生き物になること自体が不可能なのである。ここでメンヘラを手術台の上に載せ、解剖実験を行ってみたところで、それにはあまり意味がないと思われる。そう、今から潤羽るしあを例にとってメンヘラの素描をスケッチすることには、「何をメンヘラについて語るか」というより「何をメンヘラについて語らないでおくべきか」という意義がある。私がよく批評を書く際に大切にしている「秘められたもの」だ。承認欲求、自己肯定感の低さ、そういったキーワードだけ取り出して見れば至極簡単で単純に見えるこれらの要素だが、それではそのメンヘラ当人が「なぜ」承認に飢えてしまったのだろうか?「なぜ」自分で自分を愛することができなくなってしまったのか?BTSの「Answer:Love Myself」でRMがラップするように「自分を愛することは他人を愛することよりも難しい」。メンヘラが辿ってきた、辿っている道のりだって決してメンヘラ特有のものではないはずなのだ。しかし、固有なもの、特異なものの条件の下で、メンヘラは自分の腕を傷つけ、知らない誰かとセックスしまくり、精神薬を飲んで投与量を競い合い、場合によってはようやく見つけた自分を愛してくれる人を物理的にであれ精神的にズタズタにし、死へとチキンレースして場合によってはコースアウトする。かく言う私も立派なメンヘラであり、かつての恋人たちや友人たち、家族を過剰な負のエネルギーで引きずり回しては疲弊させてきた。そして恐るべき事実を目の前にして、私は私自身の(擬似)恋愛観というものにほとんど絶望しかけているのだ。それはつまり、私が他ならずメンヘラであるが故に、メンヘラの女の子にしか興味が持てなくなってしまった、と。

 

・ホロライブファンタジー、子どもから大人まで

 さて、ようやくVtuberの話である。企業勢Vtuberの常として、「〇期生」というものが存在し、一緒に入った仲間たちは「同期」と呼び合ってあるときは配信内で仲睦まじい様子を我々に見せてくれたり、あるときは配信外で実際に会って遊びに行ったりする。実は、今回取り上げるホロライブのカバー株式会社、にじさんじのいちから株式会社はVtuberを「所属タレント」として扱い「社員」としては扱っていない(なので福利厚生が受けられるわけではない)。扱いはあくまでも個人事業主であり、配信の匙加減というものは(概ね)各Vtuberに委ねられている部分がある(未成年の赤井はあとや紫咲シオンなどがどういうことになっているのかは不明)。

 個人的な話をさせてもらうと、男子校出身者である私はホモソーシャルでしか連帯や一体感を感じたことがなく、大学に入ってから女子は「同期」ではなく「獲物」となっていた(最低)。しかし、男女共学の連中が不思議と醸し出す「男も女も、同期の仲間だよね」という雰囲気がうらやましかった。いや、めちゃくちゃうらやましかった。そんなわけで、ない青春を追い求めるという意味でVtuberを追ってからしばらくして私はにじさんじSEEDs一期生を最も観るようになっていた。社築と轟京子のチャージマン研イクラに腹を抱えて笑い、OTN組を観ながら寝落ち、花畑チャイカにはスパチャも投げた。卯月コウへの屈折した感情は本ブログの過去エントリを見ていただければ分かる通りである。

 ホロライブは男性タレントが「ホロスターズ」となっており住み分けがなされているのでそういった男女のわちゃわちゃしたやり取りというのは見れないのだが、潤羽るしあも所属する「ホロライブファンタジー(三期生)」はホロライブ全体の中でも特に仲がいい世代として受容され、人気も高い。その人気の一要因として、幅広い年齢層が観るYoutubeで各々の世代に合ったキャラクターを選べてなおかつどれを選んでも面白いというものが挙げられる。先日チャンネル登録者数100万人を達成した兎田ぺこらは独特の声質、特徴的な「ぺこ」語尾もさることながらゲームのチョイスや高速回転するトーク、観ているこちらも楽しくなるようなゲラ笑いで視聴者をあまり選ばない。良い意味で大衆向けコンテンツである。逆に、宝鐘マリンなどは圧倒的なトークセンスで群を抜いているものの話題が昔のアニメだったり、やるゲームが東方STGだったりとコアなオタク層を的確に狙い撃っているように見える。

 潤羽るしあは見た目は16歳ぐらいの緑かピンク色の髪をした少女で、彼女の最も分かりやすい魅力を説明するとしたら普段の瀟洒な声でまったりと喋るいわゆる「清楚」な一面と、ゲームで負けたときや大詰めの勝負所で発せられるマイク許容音量無視の叫び声のギャップである(エヴァンゲリオン初号機の咆哮に似ていることから「初号機ボイス」などと言われることがある)。王道のぺこら、豪速球の変化球のマリンとはまた違い、トークの上手さで見せるタイプのVtuberではない。また同期の白銀ノエルと不知火フレアは「ノエフレ」と呼ばれる公式カップリングが存在するが、るしあは初期こそマリンとのカップリングがあったものの現在は事実上消滅状態にある。そんな訳で、ホロライブファンタジー全体を推し、特にるしあとマリンを応援している私でさえ、るしあの魅力を言語化しづらいところがある。いや、ないわけではない。確実にある。それが、るしあにしかない芸風、メンヘラ芸である。

 メンヘラ芸は諸刃の剣である。下手に乱用すればテンプレートと化して面白くなくなる。たまにしかやらないとマジになりすぎて着地点を見失う。るしあは才能と言うべきか、そこの押し引きに非常に長けたライバーである。犬山たまきとのコラボでこれでもかというぐらいメンヘラ芸で押するしあはたまきへの信頼故のことだろうが、ソロ配信でスパチャ読みをする際の駆け引きは、場合によっては本編以上にスリリングな局面を見せることもある。メンヘラ芸が「芸」として浮いた印象にならないのはもう少し理由があり、それは随所で見せる絶叫と相まってるしあのパーソナリティが極めてヒステリックなものとして我々の眼に映るからだ。無論、ここで言う「ヒステリック」はかならずしも悪い意味で使っているわけではなく、「潤羽るしあ」という人格を形成する一要因として然るべき機能を果たしているということである。Vtuberにおいて最も重要なこと、それは一貫した人格を持っているか、ということである。「中が生身の人間だからそこが乖離するなんてあり得ないのでは?」――あり得る。好例は過去にも取り上げた御伽原江良だが、彼女の場合ガチャ芸人、ヒステリー、普通の女の子、オタク、と人格が分裂しすぎており完全に「一見さんお断り」のライバーになってしまっている(普通の配信をメンバー限定配信にしているのも集金以外の目的がはっきり言って分からないが、普通の配信でスパチャで稼いだ方がメン限よりも稼げるように思えるのは私がYoutubeのシステムを理解していないだけだろうか?)。その意味で、もはや正確な配信タイトルを思い出すのも億劫だが2020誕生日配信は面白い試みだった。ヒステリックでも素でもない「御伽原江良」を20分やりきったあと、真っ黒い画面で猿の人形に「江良ちゃんお誕生日おめでとう」と言わせる御伽原は、私のような人種に何かを言わせないではおかない「人格」の問題に対する訴求力があった。るしあはその咆哮から「ホロライブのギバラ」と呼ばれることもあるが、この人格の保存の問題にその差異がかかっていると言ってよい。るしあは清楚、ヒステリー、そしてメンヘラを「潤羽るしあ」という人格の元に統合している(統合していない/できていない御伽原を否定したいわけではない)。もっと言えば、これはホロライブファンタジー全員に言えることでもあるのだが、ロールプレイ問題に関して最もゆるくなった結果キャラクターの人格と素の人格にあまり齟齬が出ていないのがるしあなのだ(マリンはRPを放棄しているが、素の人格があまりにもキャラクター的過ぎてキャラクターの「宝鐘マリン」を素の「宝鐘マリン」が食ってしまっているという力業の逆転現象が起きている)。スパチャ読みの清楚でゆったりしたるしあも、机を叩いて絶叫するるしあも、どれも我々の愛するるしあであることには変わりない。そして無論、メンヘラのるしあも。

 

・何故私はかくもメンヘラを愛するようになったのか

 よりメンヘラの深奥に迫っていくことにしよう。るしあは、メンヘラ芸である決定的な一点を持って本来のメンヘラが持つヒリつくような感覚を忘却の彼方に葬り去ってしまっている。それは、「愛されたい」と口に出して言うことだ。「私だけを見ていて」、「他の女に目移りするなんて許せない」、本当のメンヘラはそんなことを言わないのである(恐らくこれはオタク達もよく分かっていないが故の誤謬だと思われるが、いわゆる「ヤンデレ」の方が近似概念である。メンヘラは「誰でもいい」のに対して、ヤンデレは「あなただけ」であることを求めるという点で異なっている)。このメンヘラ像の誤謬と見落としは何もるしあに限った話ではなく、多くのオタクコンテンツにおいて見られる現象である。

 そういった意味で、限りなくその描き分けに成功していたのは日本のゲームではなく私が最も愛するノベルゲーム『Doki Doki Literature Club!』である。以下ネタバレとなるのでやっていない人は注意してほしいが、「あなたのためなら私もこんな世界も、もういらない(I leave you be)」と最後に言ってゲームを終えるモニカと、ある世界線ではMCに「愛している、ずっと一緒にいよう」と言われて抱きしめられていながら死を選んだサヨリ(例えそれがモニカの仕組んだものであったとしても)の、どちらがよりリアルな「メンヘラ」と言えるだろうか?モニカは、Act3のJust Monika.世界線から分かるようにMCから発言権を全面的に奪った上で自分のものにしようとした。chrファイルがなければ江戸川乱歩の『芋虫』状態である。このように相手の全てを奪ってでも相手を自分のものにしたい(最終的にモニカはその間違いに気づいたが)という欲望は、メンヘラではなくヤンデレの心理状態そのものである。では、サヨリは?モニカによるプログラム操作というDDLCで最も重要なギミックをあえて捨象して考えるなら、サヨリは「誰かに必要とされたいが、誰かから必要とされると途端に自分の無価値さに気づいてしまう」というメンヘラに特有の心性を持っている。私はメンヘラたるものサヨリ推しなので(?)『Doki Doki Rainclouds!』もプレイしたが、MCに抱きしめられている時点でサヨリは世界を正常に把握できていない。下校中の喫茶店でオレンジジュースの味からMCとの思い出がフラッシュバックして人目もはばからず泣く(プルーストかよと若干笑ってしまったが)シーンは、フロイトに言わせるまでもなくメランコリーである。ちなみにだが、ユリはモニカと別方向でヤンデレの「気質が」ある(Act2の異常行動はモニカの介入がなければ説明できない。ただ、自傷行為に性的快感を覚えるというくだりは自己損壊という意味でややメンヘラっぽいとも言える)。

 メンヘラの「愛されたい」という欲望は、発露されることによって初めてその意義がある。るしあのメンヘラ芸が「芸」としてある種様式美になるかならないかギリギリのところで良い意味で「オモシロ」に昇華できているのは、「愛されたい」という無人称の欲望の発露がないがために生々しくなく、何度もコスることができているのだ。同じようにリスナーを捕まえてヤンデレ的にイジる戌神ころねは、ある意味ヤンデレの表現という意味でるしあより生々しい。しかし、ころねについてはるしあほど観れていないので(そもそもアーカイブを消化することが難しい)、コメントはこれ以上は差し控えておこう。では、生々しかろうがそうでなかろうが、何故「我々」はこれほどまでにメンヘラを愛するようになったのか?ある種の「愛着」と言ってもいいかもしれないが、ここでメンヘラを愛する我々オタク達は、精神分析のうちにヒントを求めるのもよいかもしれない。そう、転移である。

無意識が特殊な状況のもとで表れ、意識ある二つの主体を関係づけるということをフロイトは示し、主張した。そしてフロイトはその特殊な状況を転移状況と名づけた。この状況においては、ある主体が他の主体にみずからの無意識的な幻想のいくつかのかたちを意識しないままに投射するし、また逆の場合もある。(中略)さらに転移の関係は、たとえ存在するときでもかならずしも相互的ではない。かなり一方的な場合もある。(ルイ・アルチュセールフロイト博士の発見」 

  肝心なのは、転移というのはフロイト精神分析入門』27講で言われているように、キャビネにおいて分析主体と分析家の間で分析主体が自らの無意識を分析家に投射する現象が原義的な定義であるということだ。しかし、アルチュセールはこれを拡大解釈し、二つの主体の無意識的投射と定義し直している。(精神分析においてはアルチュセールの知見にやや疑問が残るものの)アルチュセール流転移概念に従えば、メンヘラという主体に惹かれるのは自らの無意識――つまりメンヘラに呼応する部分――の投射、己の内なるメンヘラが別のメンヘラに呼応関係を持っているということが明らかになる、とまでは言わないまでも示唆されている。「一方的」であればこそ、戯画的なメンヘラ像を示してくれる(ホロライブファンタジーの中では異色とも言える存在の)潤羽るしあにも惹かれる。私はメンヘラが確かに好きだし、メンヘラから被った被害も多々ある。それでもメンヘラに惹かれ、架空の存在にまでメンヘラ性を求めてしまうことに、ロマン主義的な言い訳をするべきではないと考えている。己の中にメンヘラを飼ったとき、あなたは既に「こちら側」に来ているのだ。

卒業論文、先走り公開

 昔から僕はそうというかADHDの衝動型ゆえの特性なのか分からないが、待ち合わせにも早く着きすぎるし、提出物もめちゃめちゃ早く出したがる(出せるわけではない)しでこらえ性が全くない。というわけで(どういうわけだ)、一応教授との間でこれで完成という最終的な卒業論文の完成稿をアップすることにする。ちなみにまだ提出すらしていないので何か大学側から文句が出たら取り下げることにする。これで退学になったらウケるよね。ならないと思うけど。

 

 本論文「1960年代のアルチュセールの「哲学の実践」――イデオロギー概念の分析から導かれる主体の理論について――」の内容はアルチュセールの言う「哲学」がいわゆる他の西洋哲学の伝統とは違うところにあるというのが大きな枠組みで、「五月革命」をパラレルなテーマ設定にしている。第一章は五月革命前夜のアルチュセールをPour Marxなどのテクストから素描し、「理論」の時期と「レーニンと哲学」に代表される「転回」の時期について論じる。65000字のうち実に4万字以上を占める第二章ではSur la reproductionの分析を中心に行う。テクストをべったり読むことを目的としており、精神分析社会学などの他の分野については最小限にアルチュセール哲学の一つの結実としてSRを扱うことを心がけた。

 

 それでは、どうぞ。私の実名が入っていることについては気にしないように。

 

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ほんとうの言葉はいつも間に合わずに――哲学科の思い出

 そうだ、これは夢、起きたら僕は20歳の5月になっていて、僕は世界で一番好きな人と付き合っていて、色んな哲学書を読んでいて、一生懸命フランス語を勉強して、そしてベルクソンだかアルチュセールだかで大学院で研究者の道に進むんだ……書いてて胃が痛くなってきた。そうはならなかった。そうはならなかった時点で、この話は終わりなんだよ。今僕は大学院受験の前に「哲学にやっぱり興味ないわ」と大学院進学から逃げ、「就活する」と大ウソをこいて何もせず、やっぱり留年したら哲学への情念が燃え上がってくるという情けない顛末で、そしてマンスリーマンションのベッドだけがクソデカいワンルームでこれを書いている。卒業論文はもうすぐ書き上がって、哲学科の5年生アルチュセールが専門、という学内ではもはや有名になった肩書を捨てて文筆ワナビのフリーターという最悪の人種に成り果てようとしている。でも、これも全部自分が選んだことだから、後悔はしていない。僕は哲学科の友人は少なかったし、哲学サークル(読書会サークル)も同期に一人も友人はおらず先輩後輩とつるんでいたけど、それでもやっぱり「哲学」が好きな人たちが集まる空間や「哲学科」という自分の専攻に誇りを持っていた。大学生活の終わりに向けて、少しだけ思い出話をさせてほしい。そして、進振りで哲学科に行こうとしている大学1年生や2年生の人たちは、どうか僕のようにならないでほしい。なってしまったのなら、折り合いをつけられずにずるずるとしてしまう自らの身の上を、ずっと恥じ入ることになるだろう。

 

 大学1年生の僕は、進学振り分けを三つのコースで悩んでいた。哲学科、仏文科、映画学科。元々高校時代は日本映画で卒業論文を書いていたから、1年の選択ゼミでは映画学のゼミでは発表者を質疑応答で全員ボコボコにし、皆がジブリとか『フォレスト・ガンプ』とかで発表する中自分はルビッチと成瀬の比較検討などをやってご満悦になっていた。そのときゴダールベルトルッチの発表をしていた男が今まで続く最良の友人の一人だったとか、そういうのはある。仏文科については高校時代からバタイユマンディアルグアラゴンアルトーなどを一通り読み、大学に入ってブルトンを読んで衝撃を受け、正直一番行く可能性が高かったのは仏文科だった。もう一人の悪友が仏文科に行くということもあり、ブルトン研究をやりたかったという思いがあった。選択外国語はドイツ語だったが、うちの大学はその辺がゆるゆるで、志望して面接し、熱い思いを語れば通るとのことだった。幸いGPAも優秀というほどでもないがヘボでもないといった感じだったので、行けなくもなかった。

 しかし問題はここからだった。同じ英語クラスの入学当初からぞっこんだった女の子が哲学科に行くとのことだった。これには青天の霹靂、自分の進路と恋路が大きく変わることになる大問題に他ならなかった。僕は彼女のことが好きで好きでたまらず、塾講師のバイトの過重なストレスと過剰な恋愛感情で渋谷駅のホームで発狂、パニック発作を起こして以来障害が変異して躁鬱病になるぐらい好きだった。元々僕は小学生のときから永井均の『子どものための哲学入門』を読んでおもしれ~となって、高校時代はよくも分からずヘーゲルの『美学講義』やウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』などなどを読んでいたが、今考えるとシュルレアリスム文学や蓮實や柄谷などの批評の方を読んでいたし、それ以前に映画を一か月に20本以上観ていたので、そもそも哲学大好きっ子というわけではなかった。しかし、である。哲学科に行けばあの子と一緒に勉強ができる。勉強を頑張って演習の発表などでカッコよく決めればあの子も振り向いてくれるかもしれない。まあ、そんなわけがないし、たまたま入っていた哲学の読書会サークルでベルクソンを割と一生懸命読んでいたというのもあるのだが、僕は血走った眼で第一志望学科を哲学科にした。その子とは3回告白して3回フラれたりやっとベッドインまで持っていけたと思ったら当時既に童貞ではなかったにも関わらず緊張でチンチンがビクともしなかったりとか色々あったのだが、これは哲学科とは関係ないので省略。ただ、後述するが彼女が僕の個人的な哲学科生活に大きな影響を与えていたことは間違いない。

 2年になり無事哲学科に進学した僕は、もうがむしゃらに勉強した。1限のレヴィナスのフランス語講読の予習で前日は徹夜し、フラフラのまま出席して今もお世話になっている教授の話を聞いたり当てられて訳を答えたりして終わったら質問して、大学近くのシャノアール(今はない、大学よりいた時間が長かった喫茶店)でホットサンドとコーヒーを食べて飲みながらカント演習の発表原稿を作り、ラテン語とフランス語の文法をそれぞれ2時間ずつ……などなど。今考えれば好きな女の子と専攻が同じになって舞い上がっていただけなのだと思うが、この猛勉強した期間は間違いなくその後哲学科で過ごす上で糧になったと思う。授業の合間にシャノアールで数少ない哲学科の同期(彼らが社会人や修士に行った後も繋がりがある)と一緒にハイデガーレヴィナスについて語り合ったのもとても良い思い出である。

 そうこうしているうちに、運命的な出会いが訪れる。ルイ・アルチュセールだ。たまたま古本屋で投げ売られていた今村仁司の入門書をウンウン唸りながら読み切り、これは面白いのではないかと思って『マルクスのために』を買った。正直何を言っているのか分からなかった。しかし、その文体の冷徹な切れ味、得も言われぬ凄味に僕はあっという間にアルチュセールの虜になってしまった。特に「矛盾と重層的決定」には衝撃を受けた。僕が好きな女の子と付き合えて、少しの幸せな期間の後に躁鬱地獄に叩き落され、ぐちゃぐちゃの状態になってしまっても、僕は「矛盾と重層的決定」について、喫茶店で、彼女の家で、とにかく手書きで大学ノート一冊分丸々潰して研究ノートを書いた。これはのちのち卒業論文で大いに役に立つことになった。病気というのはよく分からないものである。とにかく、彼女と別れてからやたらフーコーを読むようになったり(単純にあまりエキサイティングな論述ではないので読んでて神経が逆立たなかったというのもある)してもこれ以降今までずっと、というか年を追うごとにアルチュセールへの気持ちは強くなっていくばかりだ。多分哲学科を卒業してもそうだろうし、僕が哲学科にいた意味こそがアルチュセールに出会えたことだと言っても全く過言ではない。

 さて、年が明けて未だに病気でうろんだった僕はフーコーデリダなどを適当に読みつつ時折起こるパニック発作と昏迷に悩まされていたわけだが、この辺りで明確にパチンコにハマり出す。一度先輩から借りた3万を一瞬で適当な4パチに溶かし、親から激怒されるもよく分からず、結局親が先輩に借金を返すなどというどうしようもない一幕もあったりした。結局3年の半ばあたりまでは強制的にドゥルーズヘーゲルを読む機会があったので勉強はしていたが、完全に失速。パチンコ、風俗、アイドルの三本の矢で全く自主的なモチベーションが上がらなくなる。ただ、それでもアルチュセールだけは読んでいた。僕は二巻立ての本を最後まで読み切れた試しがないのだが、『再生産について』だけは「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」含めて線を引きながら完読することができた。結局パチンコは今でも完全にはやめられていない。生活費を賭けてするパチンコ、気持ちよすぎるからね……。そんな中、僕の文章のファンである女の子と付き合うことになる。彼女に関しては特に言うことがない(哲学に関して与えられた影響があまりない)のだが、文筆の道に背中を押してくれたことは感謝している。別れ際は最悪だったが、これも自分のやってきたことのツケだろう。

 そして5年生になった今、2年生のときかそれ以上に、アルチュセールと哲学への感情がより純粋に、より熱くなっているのを感じるのである。

 

 そうだ、これは夢……と思いたい気持ちはもちろんある。病気をしていなかったらあの子と一緒のままアルチュセールを研究して、アカデミアに行けたのではないかとか、3年生のときすごく時間を無駄にしてしまったなとか、もっといろんな本を読んでおけばよかったとか、そういう気持ち。でも、そうならなかったのだ。そうならなかったということは、こうなるしかなかったということでもある。そして、迷っていた仏文科や映画学科との選択に関して言えば、最初の動機はかなり不純であったものの、「やっぱりブルトンをやりたかった」とか「増村保造研究をすればよかった」と思ったことは一度もない(アルチュセールの性質上文学部という選択からミスしていたというアレはあるが、それを言ってもしょうがない)。哲学研究を学部なりに真面目にやってきた人間として、哲学研究の手法が肌に合っていたというのもある。反時代的であれ、それが哲学をもっとも真面目に受け取る仕方なのである。

 

 眩しい未来に もう戻れない――敬愛するルイ・ピエール・アルチュセールの命日に。