思考停止

映画、本、音楽、など

僕にとってのアルチュセール:面接試験のためのメモ(教育、主体、良心)

 院試まで4日になった。周りの人からは院試は熱意とコネだから大丈夫だよとか、君のフランス語力じゃ厳しいんじゃないとか、諸説ある。フランス語を見ると心臓がバクバクして視野が狭くなる。今更語学でできることはないんだし、当たって砕けるしかないとは思いつつも、ぐるぐると脳内で最悪のケースが浮かんでは消える。ドゥルージアンの友人は良い奴なんだけど優秀なだけに言うことが残酷である。英語のSVOCさえ分からない(その代わり性数一致とかは格で判断している)人間に試験数日前に精読しろと言われても無理な話である。当日はなんとしても、なんとしても解答用紙を埋める。あれだけ量だけは読んできたのだから手も足も出ないということはないはずだ。人生で二度目の試練が今なのだと思っている(一度目は高校受験)。三度目、四度目のために、今の挑戦がある。受験などたいしたものではないというのは、それはそれで本当のことなのだが、やはり自分事になると胃が痛みますね、タハハ~。

 

 今日仮面浪人している(同じ大学の理工学部から哲学科に行くために文学部を受験するという気合の入った人間である)後輩と電話した。彼はあることをきっかけに(それまで考えていたことが一挙に繋がって)「ニーチェが見ていた景色を見たかもしれない」と言い、ニーチェはもちろん、キルケゴールサルトルドゥルーズのイズムを継承できるかもしれないと続けた。彼は理工の1年のときにサルトルの『存在と無』を読破し(僕には一生かかっても無理だ)、実存主義に影響を受け、そうしていたら骨の髄までエグジステンツになった。僕は彼と話しながら、僕自身がどういう思考の経路を辿ってきたのかを考えた。僕は存在とか、実存とか、認識とかに最初から興味がない。うまく説明できないが、「手ごたえ」を感じないのだ。自らが現存在であることとか、世界に現象していることとか、他人との交われなさとか、なぜ真理を措定しなければならないのか(真理は存在論ではなく認識論だと思っている)とか、はっきり言ってどーでもいい。だからはハイデガーのSZを読んでも息苦しいし、カントのKrVは続けて30分も読めない。うまく言えないが、魂の態度というか型みたいなものが合わないのだと思う。そもそも僕はエピステモロジーを専門にしたいですと哲学科の自己紹介で言っていたのだから、形而上学ははなからアウトオブ眼中だった。かと言って、文学もどうせいっちゅうねんという感じで外から面白がることしかしてこなかった気がする。リゴーやブルトンロルカをなんとなく読み、なんとなくしか読んでいないのでなんとなくの感想しか出てこなかった。人文学を選んだのは、「これがいいんだ」というよりも、社会科学も自然科学も肌に合わず逃げた先にあったのが人文学だったからな気がする。幼い頃にヘッセや三島を読み、マーラーを聴きながらクリムトの画集をポケモンやモンハンそっちのけで眺めていた事実はあまり関係がない。僕にとって人文学は魂の賭けではなく、暇を有意義っぽく潰せる好奇心の矛先がそれだったというだけである。

 僕は大学1年の年末、のちに付き合う女の子と古本屋デートをしている最中に、今村仁司アルチュセールの入門書が100円で叩き売られているのを見かけた。ちょうど粟津則雄が福永武彦に献本した手紙入りのブルトン全集を買い損ねて――あそこで13000円を出していたら僕の人生は大きく変わっただろう――ムカついていたから、やみくもに手に取って他の本と一緒に買った。次の年のゴールデンウィークになんとなく手に取って読み始めた。難しいけど面白くて、一気に読んでしまった。次にさっき書いたときの女の子と学校をサボってデートに行く前、渋谷の丸善で『マルクスのために』を買って、今はもう喫煙席がない松濤のベローチェで一緒に購めたスピノザ『エチカ』もそこそこに待ち合わせ時間まで『マルクス』を読み始めた。ほとんど何が書いてあるか分からなかったけど体に電流が走るぐらいの衝撃を受けた。これはすこし時制が行き来するが、僕は文書きのゴロをやっているから人の文章も書き手ベースで読む癖がある。卒論執筆時に嫌と言うほどアルチュセールの文を読んでいて気付いたのは、レーニンのパロディとして非常に完成度が高く、つまりは歯切れがよくて、もったいぶらず、明晰で、論理構造は入り組んで複雑怪奇、体のいい結論は出ないというスタイルである。僕はあとでも述べるがアルチュセールの思想に共感できるところは少ない。それでも僕がアルチュセールを読みまくった(邦訳は精神分析講義以外多分全部持ってる)のはその文体である。単に読んでいて気持ちよかったのだ。他の哲学者がゴニョゴニョモタモタ言うのに対してアルチュセールはズバッと切り込み、新たな謎を提示して論文を終える。その感じがなんとも言えずよかった。

 しかし僕は院試を目の前にして、「君はなぜアルチュセールを読んでいるの?/君は大学院でアルチュセールの何を研究したいの?」と面接で聞かれたら何も答えられない。答えられないというか、「なぜ」「何を」という意識でアルチュセールを読んでこなかった。僕ははっきり言ってアルチュセールの言うような革命にはなんにも期待していない(というか、『再生産について』を読めば分かることだがアルチュセールは戦後の民主国家で革命が起きると本気で思っているわけがない)し、一応レフトですとは言ってはいるがルンペンプロレタリアートではない(そもそもルンプロだったら親の脛を齧りながら年金で大学院受験などできない)。アルチュセールの政治論は理論偏重主義と言われるように(今読めば、転向後の「今日のマルクス主義」などの70年代の諸論文でさえもが)空転しているように見える。なので、「オレは今こそ革命、蜂起が重要だと思うからアルチュセールを読んでるんだよね」とは言えない。となると、僕がアルチュセールで重要だと思っているトピックは教育と精神分析なのだが、これにはどちらも理論と臨床(実践)がある。僕の言う「手ごたえ」とは「理論に基づいた(あるいは理論が全く役に立たない)臨床」である。精神分析をやるんだったら、多分医学部とか行かなきゃいけないので、僕の頭では到底無理となると教育がやれることとやりたいことの一致として適切な気がしている。人に関わることが僕にとっての「手ごたえ」だからである。

 

 僕にとってのアルチュセールは一体なんだったのか。多分、これは著作に明文化されていないけど、教育者としてのアルチュセールに惹かれていたのだと思う。政治も興味ない(語弊があるが、あえてこう言っておこう)し、精神分析は臨床の頭が多分ない(駒場精神分析で出してしまったので、二枚舌を使うしかないが)。「学校装置」とイデオロギー装置として学校を呼んでおきながら、学生の解答用紙を全て手書きで写しを作り、採点用と復習用の用紙を毎度作っていたアルチュセールの丁寧さは、思想にも表れている。僕がしきりに言う「主体」と「〈主体〉」の関係性(再認と服従)をきめこまやかに二重化していく手つきに、アルチュセールが自分の教師という身分にある種苦い感情が込められていると思う。教育とは教え育てるの謂だが、教師が教えて子どもが育つわけではない。教師と子どもが何かビッグな主語(〈主体〉としか言いようがないもの)に導かれ、最終的に良心の声、つまりは誰もいない道にゴミをポイ捨てするときに「これをやったらまずいかもしれない」と思うその声を聞くことによってゴミを捨てないという倫理的判断を行えるようになったり、「知る」ということの面白さが教師と子どもの双方で交換できるようになったりするという良い面や、逆に悪い面に導くのも教育の役目である。良心の声と言ったように、この狙いの根底にはルソーがある。ルソーの「自然」の「善さ」からアルチュセールの「学校装置」は真逆なように見えるが、「主体」というキーワードを軸にして繋がっている。アルチュセールにおけるイデオロギーと主体の教育を「装置」(国家)から解放する手立てとして、主体が持っている自然による良心(意識)の涵養を目的としてルソーを補助線とする。これが僕の持ち球であり、もし一次試験をパスできたら面接で言おうと思っていることである。研究計画書とは大幅に外れていないので、これで行く(これで本郷に一次で落ちて駒場の二次に通ったらいよいよ僕のペテンが試されるが。そもそも研究計画書通りに研究してる人なんて周りにいないし)。本郷に行っても駒場に行っても、僕の筋はアルチュセールとルソーである。

 

 余談。僕は教育ということに関して、子どもの頃から椅子に座ってクソつまらん授業を有象無象と受け、先生がなぜああも偉そう(「道徳的」であろうという教師ほど偉そうだった)なのか分からず、中学ではわざと授業中に教室の後ろで横になって寝たり、先生から見えないようにパンツを脱いでフルチンで授業を受けたりして、高校ではツイッターに気に食わない女教師についての卑猥な侮辱を書いて凄まじい説教を食らって以降一切その現代文の授業には出なかったりした。僕は先生が、教師が何かを子どもに教えることができるなどと一切思っていない。僕が今でも年賀状を交換している小学校の担任はホームルームでドイツ語の文法を早口で解説し始めては寝てる生徒がいたらいきなりブチ切れていたし、年に一回一緒に食事する高1の現代文の先生は平気で出来の悪い生徒のことをバカとか言う。何かを受け取った先生はみんな人格破綻者だった。「いい授業をすれば子どもは言うことを聞く」、「先生は道徳的にすばらしくあらねばならない」、全てクソ喰らえだと思う。そういう風に考えている僕がなぜ教育に関心があり、大学院で教育の思想を仏文科や総合学科で勉強したいのか(まあ自分の関心が最近まではっきりしなかったので落ちたら教育学科も受けるが)というと、自分で自分を涵養する技法(つまり、ひろゆきや中田の切り抜きを見て物を言うようにならないように気を付けるためのテクニック)に他者が介入できる可能性を文献学的に検討したいということに尽きる。「そんなもんばっかり見てたらバカになる」というのは場合によっては真実であるのだが、必ずしもその都度伝達の仕方が適切であるとは限らない。かと言って、何か「適切な方法」があって、それを毎回言えばいいというものでもない。僕の尊敬する教師は、非常にその塩梅がうまかった。教えるのがうまいのではなく、教え学ぶ場を作ることに長けていた。みんな彼らにバカとかアホとか言われながらも一生懸命話を聞いていたし、僕の言う(多分ルソーもそうだと思う)「良心」とは分かりやすいから例に挙げただけで道にゴミを捨てるかどうかの問題ではないのだ。小学校の担任のおかげで僕はニコニコ動画の解説動画を見ながらドイツ語を自習ノートに勉強し、簡単な作文を毎回つけると先生は「Sehr Gut!」と赤で返し、それがとても嬉しかった。現代文で太宰の「ロマネスク」を自己流精神分析で読解したレポートを書いたら「研究者よりもよく書けています」というコメントと共に最高評価の上の評定が書いてあり、僕は自分の文読みの能力を多少なりとも信じることができた。そのコメントの中に、彼らが託した――ドイツ語や文芸理論などではなく――学びのメッセージがあったのだと思う。声の小さい小学生に「テメエ金玉ついてんのか!」と怒鳴り散らす教師に、それだけ見て良心がないというのは表面的に過ぎる。知的好奇心と成長の可能性を引き出すこと、その場を用意すること、教師と子どもが互いに学べること、これらが揃って初めて教育と言える。そのためにはアルチュセールの「装置」だけでもルソーの「自然」だけでも不十分で、システムの構築としてのイデオロギーに真の意味での良心=意識を介入させることで二つの異なる主体である教師と子どもにおいて〈主体〉が要請されるのである。

 

 まあこんなこと書いてても一次試験受からないと意味ないんですけどね。気合、根性、魂で行きます(それで受かれば苦労はない)。