思考停止

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(性的)不能者の仮想転移(杏子昆布/@ans_combe氏への応答=責任)

   先日、杏子昆布(@/id:ans_combe)氏にマシュマロを飛ばし、興味深い返答を頂いたので本来であればツイートにて応答するべきことであるが(議論がオープンになり見えやすい為)、環境により付すことがあらかじめ不可能な脚注をそれぞれのツイートに対する応答に無理矢理つけてブログのエントリとする。
 決して長くはならないものの、この主張をまずは宣言しておきたい。私は実質的な不能者である。射精に快感を覚えなくなった。生理現象の中途半端な勃起しかしなくなった。異性との繋がりを保つためのマッチングアプリで連絡をまめに取るのが億劫になり、多少のことで異性に苛立つようになった。そして美少女Vtuberを溺愛し、ついには仮であれアバターを作って毎日ニコ生で配信するようになった。視聴者はいなくても(それでもたまに同時接続30人でびっくりしたりする)、この生き方はとても楽しい。私は「女の頭に金属バット」を本当にフルスイングできるようになった、つまり対象を語る転移とその転移に敗北することを運命づけられた抵抗が語りに表面化しやすくなった。例えばid:turnx氏のような倒錯への耽溺でもなく、「他人事ではないかのように」その対象を語ることは、恋愛、憐憫、共感、同情などの感情に限らず、理論的モデルや概念からの逸脱に向ける視線が不自然に肥大化するといった場合もある。
 杏子昆布氏への手紙(マシュマロ)は無事届いた。ならば、手紙を出した者として「不能者の転移」をときに長い注釈ーーナルシシズム的なーーを付しつつ、文字と欲望の往復を示してみよう。

 

・「僕は転移を起こさないよう注意して書いています。そもそも、病者(書かれる客体)-治療者(書く主体)の構図にならないようにも注意しているつもりです(できているかは微妙)。(後略)」
フロイト精神分析入門』第27講「感情転移」における「転移」は一義的には分析家と分析主体の間の特殊な関係(L.アルチュセールフロイト博士の発見」1976も参照)を指すので、治療者と患者という関係性は間違ってはいないと思いますが、転移概念(あるいは私が批評において使う「転移」)はその一方向的な関係性が揺らいでしまうところに分析の「裂け目」(これはJ.ラカン精神分析の四基本概念』1967の「無意識」の節冒頭を参照)があります。また、あまり批評において精神分析の用語を不用意に使いたくないという気持ちは私にもありますが、何かの対象という「分析主体」を「書く」という行為自体が「分析家」の役目であり、多かれ少なかれの倒錯や不能の露出というのは書くこと=転移の宿命であり、その意味では杏子氏は書くことの営みに存する倒錯的な面を見落としています(私がなぜあのマシュマロを送ったかというと、転移の抑制に失敗していると思ったからです)。

 

・「理由としては、転移する文章が私的言語に近づき、意味が分からなくなる(検証ができなくなる)という問題点があるからです。外部との関係を制限してしまう文章/考え方に対する、違和感が強くあるのです。」
→これについてはよく分かりませんでした。批評には常に「私的言語」が潜んでおり、「私的言語」であるから意味が分からないということにはなりません(テクニカルタームジャーゴンの濫用という意味であれば全面的に同意しますが、どちらにせよ批評言説は常に私的です)。むしろ、「読んで全員が分かる文章」になど何の価値もありません(それは「開かれ」ではない)。検証可能性という意味で言うと、Vtuberを概念工学として捉えるか、哲学・文学として捉えるかの差異でしょう。私はナンバユウキ氏の文章に大変反感があります。なぜなら、彼の文章は「何かを語っている」ように見えて私がVtuberに見ているものを何も明らかにはしてくれないからです。しかしこれは見方の問題でもあるので、わざわざ取り上げる必要もない以下のツイートで言及されている杏子氏にとっての中沢新一アガンベン(なぜ中沢のようなペテンをここで挙げるのかーー柄谷や蓮實ではなくーー理解に苦しみますが。アガンベンは不勉強につき言及しません)と似たようなものなのでしょう。これは相対化でなくVtuber言説の棲み分けが不十分であることに由来すると考えられます。

 

・「転移する文章をVtuberで考えれば「ガチ恋」の対象について書く、というのがあり得ます。(中略)このメンバーについて今のところ書こうとは思っていません。」「(前略)他の人が散々やっているかなあ、という感じや、あまりにもポエムみたいになってしまうという危惧から避けています。(後略)」
→私はガチ恋だった御伽原江良論からVtuber批評を始めたのであまり分からないのですが、「俺にしかこの子の良さは分からないが、なんとしてでも俺だけが分かるこの子の良さを言語化したい」というモチベーションがないのだとしたらあまり言うべきことがありません。「他の人がやっている」かどうかは私にはあまり関係がないので(過去に書いた轟京子論は「Vtuberの人格」論としては凡庸だったと思いますが、気に入っています)。ポエムはポエムで否定されるべきものではありませんが、技術と才能が必要で、これは私にもありません。あえてハイパーリンクを貼りませんが、八神きみどり氏の「Yellow Green Mechanical」というはてなブログの「2019年4月1日(水)の、僕のガチ恋」というエントリは「Vtuberガチ恋するオタクはどんな言葉を紡げばもっとも美しいのか」を示しています。

 

・私は杏子氏の読んだエントリの中で神楽めあ論が最も優れていると思います。倒錯的ではない愛情の眼差しがあるからです。

 

 以上、一部反論、一部賛同を示し、私なりの回答を行った。ところで、なぜ私は杏子氏のブログを読み、マシュマロを飛ばし、このような記事を書いているのか。そこには生が賭けられていたからである。私と違った形で何かこれによってVtuberの言葉を変えられるのではないかという賭けがあるからである。無論、私も。