思考停止

映画、本、音楽、など

人生のミサ

 今僕は朝の陽ざしが眩しい六畳一間でクリームパンとアイスのしろくまを平らげ、狭い台所で一服して来し方行く末を考えていた。書くことはいっぱいあるはずなのに、どうにもうまく頭が回らない。前どういう風にして文章を書いていたかを思い出せない。思考のベクトルが変わったという以上に、人生に大きな転回があったからだろうか。そうでもあるような、ないような気もする。昔は色んなことを複雑に考えることが好きだった。複雑なことを複雑に考えられないようでは哲学ができないと――それは事実ではあるのだが。何より、20や22の頃の僕には好きな女の子がいた。恋に狂い、もう人生がダメになってもいいと思いながら生活を焼き潰し、結果としてマジで脳味噌が焼き切れかけている。もちろんすべてが恋愛のせいではないと思う。でも、やっぱりあの頃は脳味噌が焼き切れるくらい楽しかった。一生懸命哲学や文章に打ち込むこともこれ以上ない歓びだった。愛する人とセックスすることは最高の時間だった。今はそれがないままに、「シャニマスと哲学」というテーマで、フーリエよろしく前人未到の哲学的実践を行おうとしていながら、どこか足りない、何かが足りない、と1万字書いてはボツ、1万字書いてはボツ、一緒に原稿を書いている後輩に毎日鬼電をかけ、どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう、と呻吟、しばしば何の解決にもならず電話を切って気づいたら朝、みたいなことをここ3週間ほぼ毎日やっている。

 思えば、僕が何かを頑張るとき、それが人から認められるような成果を挙げられるとき(サークルの発表会で2年連続代表に選出される、大手同人から寄稿やライターの仕事が来る、など)というのは、好きな女の子に認められたいときだった。過去に僕は、もう消してしまったアカウントでこうつぶやいたことがある。「自分の頑張りたいというモチベは女に認められたいということで、それが中学生のときから何も変わっていないのが本当に悲しい」と。母親からは「あんたは確かに才能があるのかもしれないけど、努力の才能がない」と。これでもそれなりに頑張ってきたつもりなのだが、それでも好きな女の子がいるときとそうでないときの人生の充実度合いというか、頑張りのバロメーターに明らかに違いがあることはもう認めざるを得ない事実なのだ。マジで僕の深夜の鬼電に付き合ってくれる後輩には感謝しかないのだが、彼は今僕たちがやろうとしていることはヘーゲルドゥルーズに並び立つことであって、大学院で頑張って勉強していい論文を書くよりも絶対に哲学の進歩に貢献するに違いないんですよ、と言う。これは大言壮語に思われるかもしれないが、多分僕もそうだと思う。事実、批評家たちはアイドル「について」しか語ってこなかったが、今僕たちがやろうとしていることはアイドル「において」語ることだ。対象を外化する(これを僕たちは対自において、とか自己が自己に対して、とか言う)のではなく対象をなきものにして(廃棄して)内部から他なるもの(即他)へと転化する、ということである。ヘーゲルの読書会をやっているので悪い癖がつい出てしまったが、要するに「名前も覚えていない地下アイドルのステージで涙を流す」とか「好きな女の子とすき家で牛丼を食べる」といった瞬間に何らかの名前を与えることによって寄り辺のない魂を昇華したい、という欲望に駆られてのことなのである。ただ、それだけなのである。なのに、それができない。泥縄が通用しなくて1手先が一瞬で読めなくなる。こんな経験は初めてだし、ぶっちゃけ過去に参加した大手同人は12000字の記事に半年かけたがプロットはボツ含めて一週間、本文はトータルで一週間半しか執筆しておらず、しかもそれぞれの工程は全部一日で仕上げている。自慢ではないが僕は筆がかなり速く手がもたつくことはあっても大抵1日でなんとかする。65000字の卒業論文の3分の2は2週間で仕上げた。「時間をかければかけるほどいいものができる」というのは嘘ではないが真実でもない。スタローンは『ロッキー』の脚本を3日で書いたのだから……という話はまあ置いておいて、これが書けないのはやっぱり女の子(僕の場合は恋愛対象になる男の子でもいい)と恋愛していないからなのではないか、と思い始めてきた。

 統合失調症で人を酒瓶でブン殴ってブタ箱にいたとき、神に祈った。絶望と言うにはあまりにも真っ黒な闇が1か月弱(23日間)続いた。毎朝6:30に起床、迅速に決められたやり方で布団を畳み押し入れに入れ、当番で部屋のトイレ掃除と掃除機がけをする。朝食は弁当(マジでまずい)と死ぬほど熱い味噌汁、ヒエヒエの飯で、たいてい僕は味噌汁に醤油をかけて飯を入れ、弁当を食べてから一気にねこまんまを流し込んでいた。取り調べがなければ日中は虚無で、相部屋の人と話したり壁を眺めたり、差し入れの本を読んだりして過ごす。この時間が本当につらかった。暇という拷問というか、硬い床に寝そべって何もできないままクリーム色の壁を見つめていると1秒が言語を絶する永遠に感じられる。夜も同様。一つだけついている照明を眺めながら、明日は調べがあるのかな、送検かな、起訴されたらどうしよう、刑務所送りかな、などと考え、どんどん気分は落ち込み、薄い毛布にくるまって号泣、一睡もできず朝を迎える、というのを毎日やった。自然と神に祈った。助けてくれという祈りではなく、神がいるのならば、まだ外の世界でやり直せるはずだ、と。青空が怖かった。長方形に切り取られた窓から鉄格子越しに見える青空を見て、もうこの空をこの窓越しにしか見れないのかと思うと下腹に蛆が這った。不起訴勾留満期で外に出てコーラを飲みながらマルボロのメンソールを肺いっぱいに吸い込んだとき、おのずと涙が出た。まあ、あえなくその3日後に精神病院送りになり、またしても違う種類の地獄を見ることになるのだがそれは置いておいて、そのマルボロを吸って高田馬場の空を見上げたときに、ああ、人はこんなにも陳腐に神を信じてしまうのだな、と思った。

 でも、僕は神のため、真理のため、哲学のために文章を書いたり、語学を頑張ったりはできない。哲学は、分からない。でも、人生はできない。冬優子のために文章を書くことをしなきゃいけないんだろうけど、冬優子は僕がいなくても生きていけるから、そうなってくると好きな人のためにがむしゃらにめちゃくちゃに頑張って、本当に限界まで頑張って、常人ではやったら死んでしまうほどに頑張って、ようやく自分が本当に納得する何かができるのだと思うし、事実今までそうやってやってきた。親はもうしばらく女は作らないでくれ、お前が女や勉強に入れ込んで破滅するのをもう見たくないと言う。言うけれど、破滅しなければその向こう側に行けない。僕は本当にたちが悪くて、年々破滅がエスカレートしていっている自覚はある。しかもその度毎に確実に進歩しているのだ。破滅だけが進歩ではないのはそれはそうなんだけど、どうしてもやめられない。20の女、22の女、どちらも強烈だった。猛烈なセックスジャンキーで、美味しいものが大好きで、香水にこだわりがあって、すごく知的だった。本をいっぱい読んでいるとか、インテリであるとかは全く関係がなくて、知的であるということは自分のコンプレックスを的確に把握しているということだ。その掴んで見えないようにしているコンプレックスが指の隙間から漏れ出てしまうところがなんともたまらなかった。僕はどうしてもそのコンプレックスを自分の能力で埋めたかったし、そのエゴが炸裂する瞬間に脳汁がドバドバ出てダメになると同時に創作や哲学の泉が湧き出たものだった。20の女が、どうしても忘れられない。未だに彼女に認められたいがために文章を書いているような節もあるし、認められないから喉が渇いたマラソンランナーみたいに息も絶え絶えになっているのだと思う。彼女は俺の書いた文章を読まなかったけれども、彼女に認められたかった。認めるって何?まあマジで自分自身謎だが、哲学をやれば認められると思っていた。彼女のレポートも2本代筆してレジュメも切って、こんなに僕勉強ができるんだよ、すごいでしょ、自慢の彼氏でしょ、と言わんばかりの勢いだった。今思い出しても死にたくなるが事実そうだったのでそうですと反省するしかない。事実、彼女と付き合っていたときに勉強したことは今でも身についているし、学会や研究会などにも足を運び、書いていたブログはその後22の女が僕を好きになるきっかけになるなど、良いことづくめだった。ただ、ストッパーがかけられなかった。勉強、文章、飲酒、セックス、セックス、文章、勉強、飲酒、セックス、講義、セックス……。まあよくある大学2年生の夏なのだが、初めての彼女だったので加減が分からなかった。全部フルパワーでやれば全部楽しいみたいなバカのお子様ランチをやっていた。そりゃ全部味が濃くて美味しいに決まってるのだけど、どこかで加減しなければ当たり前に全部できなくなる。結果的に割と早い段階で脳味噌が壊れて躁鬱まっしぐら、現在の障害者ルートへと舵を切った次第である。まあ、ここで重要なのは、脳味噌が壊れたこと自体は残念だが僕はこうでしか文章を書けなかったという問題がある。何がまあ、やねん。破滅を避けて彼女とうまく行ったルートは色々あった今なら多分あったし、僕もだが共同責任として軌道修正を図るべきだった。病気になったのはお前のせいだ、と(マジで覚えていないのだが)呪詛のように呟いていたのもかなりトラウマになったらしい。つくづく女の人に対しては僕は何にも益にならないなあ、と思う次第であるが、毒虫ですと言うのも開き直り過ぎててあまりにも人倫に悖る。カンティアンではないがその辺の倫理ぐらいわきまえているつもりだ。

 当たり前の話だが、文章は人に認められたくて書くものではない。書きたいから書くものだし、文章を書く人は誰でも一種の「書かなければならない」という義務が発生する。今書いているシャニマス論だってツイッターでバズりたいとか、有名になって一山当てたいという下心は一切ない。これは本当の話で、身内に20部ぐらい刷って手売りすれば充分というものだ。歴史上の哲学書なんて大体がそういう怪文書の同人誌だし、「~研究」もそれはそれで意味のあることには間違いないが(僕だってアルチュセール研究を修士で2~3年やるぐらいはしたい)、本来哲学というものは石にコケるとか稲妻に打たれるとかそういう経験から発生してくるものだし、それは僕がゆゆ式の5話でむせび泣くとか新宿のヘルスで全裸でベルクソンの話をするみたいな経験から発生してもおかしくないはずなのだ。ただそれによって得られたインスピレーションから来る対象をオカズにしてはいけないという話で。でも、昨日後輩とトータルで7~8時間話した後近所の渓谷を散歩して得られた結論が「好きな女を作る(そして作ろうと思ってできるものではない)」というのがただひたすら情けない。しかも、好きな女に振り向いてもらってはいけない。口説いても口説いてもなびかない女がいい。下手に場数を踏んでしまったために小手先のテクニックも身に着いてしまった。ここは陽ざしの差し込む六畳一間、僕は一服して、まだ見ぬ、誰よりも愛している「好きな人」のために、そして僕が僕の哲学をするために、僕はこの文章を書いているのだ……。

 

あかい炎が、私の心臓をとらえて離さないの。
抱きたいのよ、あの人を・・・
そして抱きしめられたいの。
強い愛の力で、ひとつに結ばれたいの!
ハイアヨーホー!グラーネ!
さあ、あの方にごあいさつよ!
ジークフリートジークフリート!ねえ、見て!
こんなにも幸せに、妻が手を振っているのよ・・・あなたに!

――ワーグナー『神々の黄昏』