思考停止

映画、本、音楽、など

中庸への意志 2021年総括

 この総括を書き始めてからというもの、毎年毎年「今年は特別な一年だった/忘れられない一年だった」と言っている気がする。考えてみれば、その一年が自分にとって特別でかけがえのないものであることなんてその都度自明であるはずなのに、それを言表することによって事後的に特別だったよね、と確認してその一年の価値を相対化してしまう。大学院試験で書きたくもない書類を生成するのと最近の人文思想界隈のジャーゴン化に完全に辟易してしまい、気づけば僕も「思想」「批評」「哲学」に疲弊してしまっていた。大学院に受かるかどうかは分からないけれど、一つよかったこととしては自分が何をやりたいのかを分かっていなかったことが分かったことだ。フランス語でアブストラクトを書いたり、フォーマット通りに研究計画書を作成したりしてみて、つくづく自分が研究者向きじゃないことを思い知る。働いて、良い配偶者を見つけて、静かに暮らすためのリハビリだと思いながら、逆説的ではあるが、大学院試験の準備をしている。僕にはもう、文筆で身を立てていくヴァイタルもないし、鋼のメンタルも当然持ち合わせてないし、何より、自分の知っていることを個人的な意味以上で誰かに知らせたいという気持ちもほぼゼロに近い。今年の3月にいきなり目の前がクリアになるような感覚でもう文章は書かないと言ったのとはまた別の感覚で、これは僕には文章を書く才能が――これから書く2021年のいささか人とは違った経験を経てなお――なかったということなのだ。何もかも自分のペースでやりたいというたち(みんなで何かをやる楽しさというのは高校生までで充分やったと今なら思える)なので同人で予定通り原稿が上がってこないとそれに意識を持っていかれていつまでもイライラするし、文章を書くことだけならブログでやればいい。学位論文は自分が満足するものを書くことが目的だし、別に昔持っていた自分の本を出版することへの憧れももうない。ただただ中庸に、健やかに、生きられればそれで満足なのだ。

 僕は今年で24になって、障害者で、無職で、しかし東京郊外の閑静な住宅地にある小ぎれいなマンションで実家暮らしをして今のところ何にも困っていない。親は仮に僕が40まで定職に就かなくても一向に構わないと言っている。しかしそれでは自分が困る。年金暮らしから脱して、勉強して、働きたい。同じ哲学科の友人は4年鬱病で臥せっていたところから1年勉強して大学に入ったから、彼は今の僕と同い年のときに哲学科に入ったことになる。彼は今社労士事務所で働いている。彼を見ていると、僕の置かれている状況なんか大したことはないなと思えるし、今の自分以上に辛い人はいっぱいいるのだろうという気持ちに自然となる。「今の自分より辛い人がいるのは当たり前」、こう思うことは結構難しい。事実、少し前の僕は「自分が世界で一番辛い」と思っていたし、「苦しみは相対化できるものではない」という文句を間違えて受け取っていた。自分より辛い人はいっぱいいる、こう自然に思えるようになったのは今年の3月に激烈な躁状態から、大学の卒業式の日に紹興酒の瓶で騒いでいた集団のうちの一人を殴り飛ばしてしまって留置場に入った経験からだと思う。

 今年の1月は酷い鬱で何もできず、六畳間の窓のカーテンを全部閉め切って明かりを消し、ずっと真っ暗な状態で布団にくるまって朝5時に起き夕方17時に寝て、UberEatsで頼んだマックかケンタッキーを食べ、バーチャルYoutuberをぶっ続けで12時間見て気絶していた。卒論の口頭試問の前後は嘔吐が止まらず、前日に渋谷のバーでラムコークとパスタを全部吐いたのを覚えている。2月の終わり(ウマ娘のアプリリリースぐらい)に躁転、3日4日眠れず40時間ぶっ通しでウマ娘をプレイし、そのままの状態で観たシンエヴァのデカ綾波で号泣。眼精疲労がひどく一番高い目薬を差しながら当時アニメでも放映していたウマ娘2期で抱きしめた枕を濡らし、毎晩うどんともずく納豆を食べながら同じ回を何回も観た。やがて寛解のような「スカッとさわやか」な気分が訪れると共に躁は悪化し、詐欺出会い系サイトに3万をぶちこむなどいよいよ行動は支離滅裂になっていった。いつもの中華料理屋で酒瓶を握りしめ、目の前で血を流してうずくまる被害者、「お前何やったか分かってんのか」と僕に向かって言いながら腰が引けて手が震えている周りの人間、顔面が真っ青になっている就職が決まっている修士の先輩を見つめる僕は、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、「ついにやった」と思った。怒ると泣いてしまうためにいじめられてきた僕は、毎回気に食わないことがあると頭の中でそいつにどんな暴力を振るうか考えたものだ。正気の僕が振るえなかった一撃を、気に食わない、やかましいやつにぶちかました。そのことを、少なくともそのときは後悔しなかった。パトカーに乗ったときも、手錠をかけられたときも、足腰は真っ直ぐで、取り調べは朝の5時まで続いたがキマっていた僕は一切眠くならず警察に驚かれた。

 留置場で過ごした23日間は、忘れたくても忘れられないだろう。本当だったらウマ娘2期の最終話を観て、友達と上野から靖国を歩きながらビールを飲んで花見をして、新しく決まったバイトに出勤して……。結果論だが、僕は留置場と精神病院に入っていなかったら大学院(しかも、自分のレベルより遥か上の)にチャレンジするという選択を取らなかったことを考えると、「本当だったら」という仮定に大した意味はないように思われる。そこで出会った人たちは立場が様々だった。持続化給付金詐欺で逮捕、個々のケースのあまりの多さから再起訴と再逮捕を繰り返され半年以上留置場にいた10番さん。1500万会社の金を横領した(本人はしていないと言っていたが)5番さん。元いた会社にはめられ仕事をもらえなくなり路頭に迷い、住んでいたテナント下の飲食店からコーラやサイダーをパクって窃盗で留置場に来た3番さん。僕は4番だった。彼らは生活保護受給者だったり、やり手の営業マンだったり、オンラインカジノの元締めだったりした。彼らとは漫画の話で盛り上がったりする一方、僕が大学で何を勉強しているのかについて聞いてくると一様に首をひねった。「哲学を学んで、何になるの?」「何かの資格が取れるの?」、まあありふれた問いだと思う。人生を豊かにしたり、困難なときに考えるヒントをくれるので、意味はあると思いますと答えると、「お金稼げないじゃん」と言われた。しかし、留置場での過酷な日々(朝6時半起床、日中は取り調べか書類送検、夜は明日の調べや刑務所送りのことを考えて一睡もできない)は哲学を学んだ経験があったからこそどうにか乗り越えられたのだと思う。最初の書類送検のとき、護送車から靖国の桜を見た。本当だったら友人とはしゃぎながら見ていたであろう桜。僕の誕生日の訪れを知らせる桜。去年の春に元恋人と見た桜……。ことの重大さを今更知った僕は、護送車で手錠と結束ロープが繋がれたまま涙をこらえられなかった。もし相手が打ちどころが悪くて死んでしまったり、よしんば下半身不随だったりしたら、今僕はブログを書くことすらできていないだろう。担当の弁護士が有能で理解ある人だったこと、親の迅速な行動、そして奇跡的なことに検事と向こうの弁護士の仲が悪かったこと、様々な人たちの努力と運の甲斐あって僕は23日不起訴満期勾留で留置場をあとにした。23日の禁煙後に吸ったマルボロメンソールの肺に染みわたる煙と血中に浸透していくニコチン、香ばしく涼やかな味わいも留置場の思い出も相まって忘れることができない。僕が雑居房を出るときに5番さんが言った「こんなとこ、お前みたいなのは二度と来るもんじゃねえぞ。頑張れよ」という言葉も。

 見沢知廉が『囚人狂時代』で書いているが、常人であっても拘禁症状といって出所後に人ごみに出ると嘔吐したり錯乱状態になるが、精神異常者である僕がならない訳もなく、バイト先に挨拶と給料を受け取りに行った帰りに渋谷の地面がぐにゃりと歪むような錯覚、続いて自分が目の前の人を傘で殴る幻覚(ジョジョキング・クリムゾンを連想してもらうと分かりやすい)が見え、家まで50mのところで泣きわめいて友人に電話をかけたまま足がすくんでしまった。次にいつもかかっていたメンクリに行った足で入院が決まり、去年行ったところとは別の精神病院に入院することになった。コロナの関係で隔離室(ベッドとトイレしかなく、監視カメラつき)に1週間、普通の部屋に3日程度いた。スマホがいじれる分留置場よりマシだったが、電源はなく、毎日ナースに預けて充電してもらったものを朝もらうことになる。このとき僕が凝っていたのはタトゥーのデザインを考えること。カバンにたまたま入っていたノートとペンで色んなデザインを考えた。20の頃から精神状態が極限に達するとタトゥーを入れたくなるのだが、毎回親に止められていた。このときも親に止められて、もう親は僕がタトゥーのことなんかすっかり忘れていると思い込んでいるが、親の扶養を外れることができたらそのときは自分の生まれ年の梵字(丑年)とその菩薩様を背中に入れようと考えている。そのときに入れたくなくなったら、それはそのときで。このときに出会ったドクターとの相性が非常によく、エヴァVtuberの話でよく盛り上がっていた。病院を出たあとの初夏の日差し――結局僕は最も好きな季節の春を塀の中で過ごしていたことになる――が暑く、入院時に着ていたマックイーンのジャケットが汗ばんでいた。このあとの数日間が、僕の人生の中でもっとも死に近づいた瞬間であることを当時まだ僕は知らなかった。

 精神病患者でなくとも薬の飲み忘れは場合によっては致命的だが、僕は最も重要な薬(ロドピンベンザリン)を次のかかりつけ医の通院まで大体4日ほど飲んでいなかった。それを飲んでいなかった丸四日眠れず、ひたすらゲームをしたり音楽を聴いたりした。先輩に電話をかけていたら僕のあまりのマッドな様相を見た親が止めに入り、「寝ろ!」と言った父親に半狂乱になった僕を見て初めて父親が僕を恐れた。誰もいないリビングのソファに横たわって大好きなアイドルマスターシャイニーカラーズのメドレーを聴きながら5月の青白く燃える朝焼けを梟の鳴き声と共に迎えた不眠の3日目の朝、世界に神がいることの直観が降りてくるのが分かった。自分の行なってきたことどもの全てが有機的に意味付けされ、円環の全体として把握される瞬間が青空に飛ぶ鳥を見て理解された。4日目の朝、父親がトイレを使っていると思い込み(本当は明かりがついているだけで誰もいなかった)、マンションのトイレを使おうと思って外に出たらクライスラーの「愛の喜び」のビープ音とファミマの入店音が聴こえ、エレベーターに乗ると足がすくんだ。帰ってきたら起きていた父親に「色がある!色がある!」と絶叫、廊下に飾ってあるモンドリアンのレプリカにフルパワーのパンチを正確に四発叩き込んで倒れた。僕は「家族の肖像画を作る」と言って怯え切った母親をモンドリアンの絵の右に置き、父親を左に置こうとしたが、父親は僕のあまりのイカれ具合を理解せず(父親は狂気に憧れはすれど狂気を理解することはできない人だったし、また理解できないものとして理解しようとしなかった)、ひたすら自分が水を飲んだジョッキを洗っていた。その後、僕は飲みはぐっていた睡眠薬をようやく飲んでこんこんと眠った。起きた後、人生で経験した絶望が一挙に脳内に押し寄せるような感覚になり、頭が割れそうになった。泣き叫びながら母が昼飯にレンチンしていたチャーハンを手づかみで食べようとするも、顎が開かず固形物が喉を通らない。テレビのYoutubeエヴァの「甘き死よ来たれ」を嗚咽しながら再生し、僕はようやく息を整えた。というより、世界の辻褄が「甘き死よ来たれ」によってようやく合った、と言った方が正しいだろう。リハビリにはそんなに時間はかからなかった。駅前に一人で行けるようになるまで二週間。電車に乗れるようになるまで一か月。下宿との往復ができるようになるまで二か月。同人を発足するまで二か月。院試の勉強を始めるまで四か月。バイトできるようになるまで半年。そうやって、僕は今なんとかスタートラインに立てている。この騒擾の日々がなかったら、きっと僕は引き払っていない下宿にもそれなりに慣れて目標もなくフリーターをしているだろうし、だからこの2021年は僕にとってのリセットの年だったのだ。昔の恋人に会って話をした(院を受けようと思ったのは彼女の影響もある)。たくさん誰にも見せない文章を書いた。後輩と計何十時間も電話をした。一番尊敬している先輩に一番弱っているとき面倒を見てもらえた。これから先も友人でありたいと思うかけがえのない友人2人と出所後下宿でピザパーティーをした。そんな忘れがたい思い出ができたのも、今年の出来事である。

 

 締めくくる前に、自分の備忘録としてある出来事と自分がこれからやりたいことを書いておきたいと思う。精神病院から出た後の錯乱の最中、僕は大学時代のサークルの先輩とLINEのやり取りをしていた。彼は体躯が大きく筋骨隆々で(武道を修めている)、大学を中退しているが読書量は僕が会ったことのある人の中でも随一の教養人だった。アニメには一家言あり、所属していた別のサークルでは合評会などもしていたらしい。不安状態、あるいは錯乱状態にある人間を相手にして簡単でありながらなかなかできることではないのが「話を聞く」ことだ。同期は僕の電話攻撃に音を上げていたが、先輩は僕が電話をかけてもLINEをしても全く拒否を示さなかった。それどころか、僕の地元まで遊びに来てくれたのだった。もしかしたら、彼からしてみればなんということはなかったのかもしれないが(一緒にラーメンを食べて喫茶店と渓谷に行き、商店街をぶらぶらしただけ)、僕は恐らく生きてきて最も過酷なときに親身になってくれた先輩と一緒に遊んだその日のことをきっとずっと覚えているし感謝している。

 僕は、また別の先輩に言われたことで強く印象に残っていることがある。「人間は体を動かさなきゃダメ」。要するに、机に向かって勉強するのも大事だが、体で応用しなければいけないということである(と勝手に解釈している)。その意味で言うと、僕は教育の現場に将来的には身を置きたいなと思っている。しかも、発達障害や引きこもり、不登校児が学校に行かずとも親とは別の仕方で学び、また教師も教わることができるようなフォーマットの開発をこれまで自分が携わってきたことが活きるような形でできれば、それに越したことはない。具体的には、「良心の陶冶・知性の涵養・精神の倫理」の原則が個別~少人数の幅で「臨床的に」かつ「装置における暴力性が最小限において」実現できること。本当は、というか僕はシュルレアリスム文学とかを読んでいたわけだから、そんな人間が「良心の陶冶」とか言い出してもプププーみたいな感じかもしれない。

 しかし、僕にはこの2021年を通じて「善く生きる」義務が生まれたと思っている。留置場の2番部屋の天井を眺めながら、「もし外に出れる/出れないとしたら、それはどういう意味なのだろう?」と考えていた。「まだ外でやるべきことがある」、という声を聞いたとするならば、それは何をやるべきなのだろう?と。まだ何が「善い」ことなのかは分からないが、僕は「善さ」について、これからの人生で考えることが、僕に与えられた哲学からの課題なのだと思っている。

 

 来年は穏やかに、変化のある1年にしたいですね。皆様におかれましては、よいお年を。