思考停止

映画、本、音楽、など

C'est ma faute.:ぼくのぐだぐだじゅけんせんそう・その壱

 「君さあ、やる気あんの?」

 結局人は努力と継続しかないわけである。駆け出しでコケるにしても、その人がどれだけ頑張って目の前のことに取り組んできたか、コツを掴むためにどんな工夫をしてきたかでミスに対する周りの視線も変わってくる。僕は努力の仕方も分からなかったし、継続できたこともせいぜい文章を書くことぐらいだが、同人の運営がワタワタで「みんなで何かをやる」ことの「めんどくさいフェーズ」に入っているので早めにここから脱したい。まあ、楽器も続けなかったし(ホルンなどという取り回しの効かない楽器を選んでしまったが故にオケか吹奏楽団以外に入るところがなかったというのが当時の僕の言い分だったが、金管経験者なんだからトランペットかトロンボーンでもやっていればよかった)、毎日コツコツ地道に、ができない性分である。それでも高校まではなんとかなった。中学時代から理数系は壊滅的にできなかったけれど(数学と理科さえできれば全国トップの国公立高校に行けると言われたものだが、全国トップの人間は数学と理科ができる)、それでも三科目で大した苦労もせず第一志望の私立に進学、必修だった第二外国語のドイツ語はなぜみんなできないのかが分からないレベルで難なくできた。ドイツ語のスピーチもやったし、A2ぐらいならノー勉でもクリアした。

 附属だったから勉強せずに大学に入って、僕は初めてのアルバイトに中学時代通っていた塾の講師を選んだ。今から考えるとここで得たものも大きいが、高校までで増長していた僕のプライドは当時の塾長に粉々に粉砕された。「君さあ、やる気ある?」「人生で頑張ったことないでしょ」「大学が良くたって社会じゃ何の役にも立たないよ」……まあ、よくある社会人特有のパワープレイであるが(そもそもそんなパワープレイを19歳のガキにねじ込むな)、それを僕は「ケッ、うるせえな。オメーが知的な人間じゃないからって根性論でヤキ入れてんじゃねえよタコ」と一蹴できず、バイト前には必ず最寄りの駅でゲロを吐いてしまうぐらいには素直に受け止めて追い詰められてしまった。ブラック企業に勤めようものなら一発で自殺モノだが、僕は健気にも期待に応えようと頑張った。給料は出ないのに生徒の質問の面倒を見るためや答案の添削のために出勤したし、終盤は保護者が目の前で我が子の成績が上がらないとブチ切れる面談の後で泣きながら特別カリキュラムを作り、その子の偏差値を20上げてガンギマった目で「やりました!!!やりましたよお父さん!!!!」と絶叫していた。而して僕は躁鬱病になり、流れ流れて無職である。別に今の身の上はわりかしどうでもいいのだが、僕は元から努力/継続/頑張りみたいなものが不得手だった上に変な頑張り方をして関節を痛め、根を詰めることにビビっている節がある。というか明確にビビっている。部活だって例えば高い音が出ないとか、吹けないパッセージがあったりとかの場合は吹いているふりをして先輩や同期に合わせて吹き真似をしていたぐらいには努力が嫌だ(その割には高校時代60人の所帯を率いて主将をやっていたのだから自分のハッタリは評価してあげたいところだが)。

 今年、僕は大学院受験をする。東大の仏文科と地域文化研究専攻である。ドラゴンボールで言うとラディッツ魔人ブウに挑む程度の勝率しかないが、なぜこうなってしまったのかということについては僕の「努力恐怖症」とそこから来る慢性的な自信のなさによるところが大きい。頑張りたくないわけではない。めんどくさいという気持ちもあるにはあるが「頑張れば俺だって」という気持ちが勝るときもある。実際に高校受験は成功したわけだし……しかしその後「自力で」成し遂げたことは何もないのだ!以下で縷々と書き記す学部生活の回顧と受験記は僕の嘆きである。ロングトーンとスケール、マウスピースのアンブシュア確認が何よりも大事なように、野球部が最初はバットを持たせず走り込みをするように、地道な練習と確認が欠けていた。結局色んなテキストを買ってはみたが、意味はなかった。意味がなかったわけではないが、意味がないのと同義だったのである。仮に、もし仮にだが、受かったとして、あるいは受からなかったとして、僕がやることは「一番簡単な文法書とドリルを最初から最後までちゃんとやり通すこと」である。難しいフランス語を読んだりできもしない単語帳をやることは完全に時間の無駄だった。決断も早かった。来年の今頃受験でようやく歯が立つか立たないかというレベルだろう。そしてこれは僕の大学生活に対する回答なのだ。これを読んでいるインテリ大学生諸君、あるいは院に進んで研究者になりたいと思っている君たちはどうか焦らないでくれ。「早くデリダのテクストが読めるようにならなきゃ」、「僕/私も一年経ったらあの先輩みたいにギリシャ語やラテン語を読めるようになるのかなあ」、どーでもいい。気にするな。そのqueは何のque?そのdeは何にかかっている?si節の中身が直説法か条件法かで訳出の違いは明確か?そういった事項に一個一個答えられるようにすること、これを怠ると僕になってしまう。ドイツ語の定冠詞と前置詞を見て格が答えられないようでは何も読めないのと同じである(というか、関係代名詞とかもそうだが、フランス語よりドイツ語の方がはるかに訳文との対応関係が明確な気がするのだが……)。というわけでワタクシのグダグダ受験記+グダグダ大学生活記です。

 

・高校~B1

 もはや自分の身分になんの執着もないので(実名で検索すると顔写真が出る)書いてしまうが、僕は早稲田大学高等学院という私立高校出身である。男子校で、入ってさえしまえば(比較的厳しめの要件を達さないと留年、2回ダブると退学となる)100%早稲田大学に行ける。3年生の途中で進振りがあり、期末試験と特別考査の成績で学部が決まる。僕は100点満点の評価中78とかで同じ成績帯の人間は法学部や商学部に行っていたが、僕は文学部以外行く気はなかった。この時点では卒論を増村保造論で出したので演劇映像コース映像科に行くか、吹奏楽部の顧問の先生がインド哲学の博士(学院は先生も大学の管轄なので基本研究者である。ディドロ研究の大家に倫理の授業を教わっていたのを卒業後に知る)だったのでその影響で東洋哲学コースにしようか迷っていた。

 無事早稲田大学に進学し、同時に哲学・批評研究会という読書会サークルに入る。僕はヤージュニャヴァルキヤとか説一切有部をやりたかったのに(そもそもそれなら仏教青年会に入ればよかったのだが)頭数が足りないという理由で新入生のデカルト『哲学原理』読書会にぶちこまれた。ぶーたれながら出席したが、その場にいた先輩(のちに『疾風怒涛精神分析入門』を出す片岡一竹先輩である)と話すのが楽しかったので毎週遅刻しながら出席した。そこでレジュメの切り方も教わった。片岡さんに「デリダみたいなレジュメを作るね」と言われたのが何になのかはよく分からないが今でも響いている。院に進もうと思ったのはこのサークルでベルクソン『時間と自由』の読書会をやり、同時にサークルで発表会をやるということで立候補して資料を書いたところだと思う。初めてフランス語に触れ(この時期はパニック障害がひどく、ろくに授業に出ず図書館にこもって資料に当たっていた)、初めて地下の図書館に行き(早稲田の中央図書館はめちゃくちゃデカい)、なんだか研究者になった気分だった。発表も好評だった。1月ぐらいに進振りがあり、(何度も擦っているが)好きな女の子が哲学科に行くというのとなんとなくベルクソンバシュラールをやりたいなと思って哲学科にした。3月には精神分析コロックの手伝いとかやって、『精神分析の再発明』『ラカンと哲学者たち』を出版された工藤顕太さんにけっこう質問に答えてもらった。こうして見てみると語学以外はB1は比較的頑張っていたと思う。高校でやって楽できるからとドイツ語を選んでドイツ語もやらずもちろんフランス語もやらなかったこの時点が"""差"""なのかもしれない。気が狂ってゲーテ・インスティテュートの会話クラスに通ったりはしたが、レストランでの注文方法を教わって終わった。

 

・B2

 哲学科での最初の授業が西南学院大学から早稲田に着任一年目の西山達也先生のレヴィナス講読だった。西山先生はべらぼうに頭がいいのだが天然で、話題があっちこっちに行く楽しい授業だったので金曜1限で出席なしにも関わらずほぼ毎回出席していたと思う。このときにいきなりレヴィナスのフランス語に直面し、悪い癖がつく。分からない構文や前置詞を飛ばして無理矢理意訳するという関口存男が聞いたらブチ殺されそうなことを平気で(いや、多少の罪悪感と共に)やっていた。大学を中退したが今も仲がいい先輩と一緒に出席していた速習フランス語は5限だったのでシャノアールのホットサンドをおやつに食べた後だったものだから毎度爆睡。その割にはラテン語にはきっかり出席し、ちゃんと小テストも毎回満点で後ほど述べる諸事情があったにもかかわらず単位が取れた。ちょうどこのときアルチュセールと出会い、その代わりにバシュラールがつまらなさすぎて『科学的精神の形成』を途中で投げる。しばらくは彼女の家で『マルクスのために』と『物質と記憶』を読みつぶし、フランス語とラテン語を適当にやる。今書いてみても思うが、そんなに無茶しなくても頑張れるポイントは全然あったな。全ては自分のせいなのですが。フランス語の理解できないポイントはいくつもある(試験10日前でいくつもあったらダメだろ)が、一番は英語もそうだけど格がないこと。僕は高校まで英語をノリで読んでおり、そしてそれでなんとかなっていたので、àがatになったりtoになったり、inに当たるのがenだったりdansだったり、もはや意味不明。その点ドイツ語はmitやausの後は必ず3格=「~と/~から」が一緒の括りになるということがシステマティックなので分かりやすい。zuみたいによう分からんのもあるが。英語もドイツ語も洋楽やクラシックを聴いて耳が出来てたんだろうね。

 そんなこんなで躁鬱の世界がデロデロに溶ける地獄で大体全てが終了する。大学には配慮願いを叩きつけて春学期の後半は一切出席せず、家でテストだけ受けた。まあ病気については散々ここにも書いてるので今更書きませんが、認知能力も終わったので勉強しても手の平の間から砂がこぼれていく感触があって辛かった。とはいえまだ院に行きたいという気持ちは依然強かったが、当時の彼女と年の終わり(クリスマス直前)に別れて友人とヤケ酒して東横線の最果てまで運ばれたりし、色々自制が効かなかった反省がある。

 

・B3

 マジで書くことがない。大3病というものがあるのかは知らないが、勉強をしても楽しくなくなってしまったのがこの辺。『意味の論理学』の注釈書を出した現神戸大学教授の鹿野祐嗣先生の授業に出たりして無理矢理ドゥルーズを読もうと思うものの、何が書いてあるか分からなくてレポートの評価もイマイチだった。新しい喫茶店のバイトではADHDをフル発動して怒られまくり、女にはフラれまくり、何をしてもうまくいかなかった。エロゲにハマって2週間学校に行かなくなったり、パチンコで5万円をスッたりした。何をしたいかも見えなくなり、無闇に取った教職の授業にも行けず、もう何をすればいいか分からなくなった。この時期は「こうすればよかった」というポイントさえ見つけられないのでこれはこういうものでいいということにしておく。

 

・B4

 B3の落ち切ったモチベのまま4年に突入し、ハッタリだけの卒論計画書と何もしていない語学で周りは院の話か就職の話、しかし特に親しい友人2人だけは何にも考えずに卒業や留年した後もプーをこくつもり満々だったので安心していた(するな)。ここで親にずっと言っていた院進を撤回、文字通り頭がおかしかったので就活すると言い出す。実際、僕もこれを書いている今になってようやく(研究計画書を2学科分書き、それとは別に研究経過と研究計画4000字英語600words、フランス語の論文要旨A44枚を書いてからのようやく)自分の大きなやりたいテーマがはっきりしてきたというものなので、このとき「哲学が本当に好きだったのか分からない」と言い出してベンチャーのコンサルの説明会に行き、0次面接で「みんなに今日あった良いことをプレゼンしましょう!」と行った先で切り出されて「トイレ行きます!!!!!!!!!!」と絶叫、池袋のビルを脱走した自分を責めることはどうしてもできない。この年は就活もどきをやって(一応一社ESは通ったけど現実的じゃなかったので面接には行かなかった)、バイト三昧にオタク三昧、TWICEのCDに7万ぐらい使ったりBTSのコンサートに行ってサウナを楽しんだり、病気も全く兆候がなく将来のことを忘れて遊び惚けた。もはやフランス語のフの字もない。書けば書くほど自分が大学院なんて目指すべきではなかったのではと思えてくる。

 

・B5

 遊び過ぎたので自分を見つめ直す期間として卒論の単位だけ残して留年した。西山先生に「卒論の字数が4万字を大きく超えそうなのですが……」と言ったときに先生が「まあ、君は院にも行かないし、好きに書けばいいよ」と返しつつ苦い表情になっていたのを忘れられない。結局論文は頑張ってしまうたちなので、書いていたら字数は膨れ上がり、6万5千字とかいう修論クラスのデカさになってしまった。結果的に精神病院に入院する直前に書きあげた第一稿は8月には出来上がっており、そこから提出の前日まで先生とやりとりした。西山先生の専門はフランスにおけるハイデガー受容と翻訳の問題なのでアルチュセールにはかすりもしないのだが、先生は僕の悪文をていねいに直し(コメントがいちいち辛辣なので笑ってしまったが)、「論文」なのかは謎だがとりあえずアルチュセールについての文の塊を生成し、無事卒業した。前のエントリでも書いた居酒屋酒瓶殴打事件の直前、卒業式で先生に「宮﨑さんはアルチュセール以外だと今何に関心があるの」と聞かれ、適当に「百科全書派と精神分析ですね」と答えると東大の王寺ゼミか原ゼミはいいかもしれないけど、宮﨑さんは在野研究とか向いてそうですねと言われた。適当言わんでくださいよォ~!あとは知る通りである。

 

 学部時代を振り返るとこんな感じだろうか。やっぱり最初は勢いがよいのだが改めて分かりやすく書いてみると見事に失速しているのがよく分かる。このブログのタイトルは「私のせい」なのだから僕の不勉強は僕以外の何にも帰責しないのだが、強いて言えば恋愛は大きな壁になった。恋愛すると何もできなくなるの、バカなのでは?まあ頑張れるのも女のためなのですが……。「ナメてんのか、お前」と塾長や父親にしょっちゅう言われたものだが、これじゃあそう言われても仕方がないのかもしれない。あ、でも一つだけ。『再生産について』を(もちろん邦訳で)2年かけて読破したことは唯一しんどくてもできたことであり、アルチュセリアンを自負する僕の誇りである。厚みで言えば大した量ではないが、線と付箋だらけの『再生産について』は僕の宝物であり、ベルクソン『時間と自由』以上の学部時代の財産だと思っている。

 

 僕が大学院に再度チャレンジすることになった経緯とそこからの半年は別稿に譲る。Au revoir!