思考停止

映画、本、音楽、など

君がバーボンと煙の味を知る頃に――Ado論

・序――葛藤なき=負い目なき痛みの歌姫

 フレディ・マーキュリ―のヘルメスマイクがライブ・エイドの会場を沸かせたとき、よもやその30年後のウェンブリースタジアムの上空を韓国の「アイドル」グループ、BTSのジョングクが舞うことになるなどとは誰も思いもよらなかっただろう。韓国で今最も煌びやかでリュクスな7人組は年末の歌謡祭でハイブランドを纏って現れ――グッチを着たTWICEのモモもハイブランドとスターのマリアージュを代表する好例だろう――ステージの彼らは100人、いや200人以上のバックダンサーを引き連れて歌い踊る。「世界が憧れるポップ・イコン/ロック・スター」はもはや自分たちで楽曲を作り、演奏し、歌うというわけではなくなった。「お仕着せ」を我が物にできる者こそキング・オブ・ポップ、さてここで僕が繰り出すのは14歳で「歌ってみた」をインターネットの荒波にドロップし、今年ようやく酒と煙の味を知る年端もゆかない少女のことだ。彼女の厚く濃く太い歌声はときに「魂を揺さぶり」、「恩寵を受けている」と言うに如かないものだ。ところが、彼女の歌声からは魂を「奪われている」。誰に?神に奪われているのだ。スカスカの器のまま彼女は命を燃やす。「あの記憶も/この制裁も/お前らのせいだ/お前らのせいだ」と「お仕着せ」の曲を自らの臓腑を吐き出すようにして我が物にしていく彼女はどこか痛々しい。このダメージこそが現代の痛み(「若者の」ではない)であり、空虚であることの苦し気な充溢に他ならない。


www.youtube.com

 彼女の名前はAdoという。Adoは常に単一で、引き裂かれがない。つまり、どんなに苦しく痛々しい歌を歌っても、「歌えない」という葛藤がないのだ。フレディ・マーキュリ―がライブ・エイドで「We Are The Champion」をオクターブ下で歌うとき、その「歌えなさ」は引き裂かれとしてなんと美しいことだろう。ここでは「歌えない」ということさえもがフレディの結界のうちだからだ。Adoが「歌えない」とき、それは後ほど述べる「シル・ヴ・プレジデント」のような「オンナノコ」を要請する楽曲を歌うときであり、その「歌えなさ」はいわば分裂ではなくて敗北である。Adoはマイクラ配信をしようと、テレビのインタビューにモニター越しに出演しようと、力の限り「あなたが思うより健康です」と歌おうが、Adoのままである。それは確固たるアイデンティティが――フレディのように――あるというわけでもなく、あるいは「Euphoria」で天空を舞うジョングクよろしく「アイドル」のきらめきを放つわけでもなく、顔を隠されたアノニマス=「クラスのあの子が、もしかしたらAdoかもしれない」という「誰でもよさ」の上に成り立つ新時代の「痛み」を引き受けた来たるべきポップ・イコンこそがAdoなのである。これは「論」と銘打たれてはいるが、批評でも論考でもなくただの僕のAdoへの想いが高じた一種のラブレターだ。あるときはロックンロールを、あるときはファッションを引いて彼女について理屈をこねるが、冒頭に言っておいてしまおう。そんなことはどうでもいいのだ。Adoの歌の純粋さは、神が嫉妬する純粋さである。今年で弱冠20歳という彼女に、この長ったらしい批評もどきを捧げることにしよう。

 第一章は「「声」と「敗北の世代」」と題し、ティーンエイジャーにとって(あるいは97年生の僕にとって)Adoの歌が魂を揺さぶる歌の形式としての「ロックンロール」ないしは「ブルース」であることについて銀杏BOYZを引きながら考えたい。僕らの世代であれば学校の給食時間に誰かが『DOOR』か『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』を持ってきて「BABY BABY」や「夢で逢えたら」を流していたわけで(「彼女は綾波レイが好き」をかけて問題になったことももちろんある。あるよね?)、多分今の子たちは黙食の時間に「うっせぇわ」をかけているのだろう(かなりシュール)。Adoにおよそ似ても似つかない「ロックンロール」あるいは「ブルース」という言葉を間接証明的に当てはめ、僕ら(つまり、クラスで音楽通ぶって、友達の家にCDを大量に持って行ってギターの音の違いにイキっていた僕ら)にとって銀杏BOYZがあったように、彼らにとっても共通言語/コンテクストである「ロックンロール」としてのAdoがあるのではないかという見立てをシングルカット楽曲から検討する。

 第二章は「起源なき起源の抹消、あるいは篭絡するモード」という題で、もう少し前章よりコンセプチュアルな話をする。Adoは顔出しなしのアーティストであることは言うまでもないことだが(Vtuberによくある話だが、文化祭か何かの写真が上がってはいる)、これは歌手によく見受けられる現象であると同時に――GReeeeNなどの醜悪な例もあるが、それに比べればAdoは一部の例を除いて遥かに審美的である――ファッションデザイナーに見られる事象である。言わずと知れたかの有名なマルタン・マルジェラはもちろんのこと、初期のラフ・シモンズも(恐らくマルジェラの影響で)顔出しなしだった。AdoのイメージピクチャーやMVに見られる「ちぐはぐな」「Ado像」は、それぞれの「Ado」を歌で縫合するのではなく歌解体してしまう。それは月ノ美兎が『月の兎はヴァーチュアルの夢を見る』でバラバラの作曲陣を彼女のコケティッシュが強引にまとめあげてしまったのとは対照的に、Adoは「顔なし」のいびつさで作曲家ごとの世界観を渡り歩く。結果的に立ち現れるAdoの歌は、特徴的なグロウル(がなり)、伸びやかなヴィブラートといったテクニックが表層でしかないことを逆説的に証明する。マルジェラの作品が(ショーやアーカイヴであっても)絶えず本質から逃れ続けるのと同様に、Adoの歌も「ロックンロール」でありながら「顔なし」で演じられるパントマイムとして本質から遁走する。月ノ美兎が「ひとりの女/ひとつのカオス」と歌うことで「月ノ美兎」を時間に刻印するのに対し、Adoは「私が俗に言う天才です」と歌おうが「アンダスタン」と歌おうが「半端ならK.O.」と歌おうが、「Ado」を歌ったことにならない――この章で語るAdoの空虚さこそが「ロックンロール」であり「ポップ・イコン」の根拠なのだが――のがその決定的な差異を印付けている。Adoとマルジェラにおける「抹消された起源」と空虚であることの逆説的な充溢についてAdoの「歌いました」(「歌ってみた」)とアリソン・ジルによるデリダ/マルジェラ論も参照しながら、Adoのポップネスとファッションのモードを探る。

 第三章は「「ヘイ、ミスター」――飼い殺しの狂犬:『狂言』レビュー」である。2022年1月26日に発表されたファーストアルバム『狂言』ではシングルカットに加え7曲のアルバム曲という充実の内容だが、問題はAdo(とそのファンの多く)が「Z世代」と呼ばれるインターネット・ネイティブであり、サブスクリプション全盛の世代にやってきたアーティストである点だ。岡村靖幸が『幸福』(2016年)のドロップで完全にサブスクに適応し、一方上に挙げた銀杏BOYZはサブスク展開の一方「GOD SAVE THE わーるど」の12インチのカップリングに「MajiでKoiする5秒前」のカバーと表題曲のリミックスをつけて発売するなど現在でもアナログに対する売り手側の熱意が伝わってくる。Adoは今回のCDアルバムという形態――原理的にループもシャッフルもない「閉じない円環」――においていかなる成果を見せるのか、上二章では取り上げなかったアルバム曲を中心に思うところを述べてみたい。

 というわけで、「聴き手にとってAdoは何者か」(ロックンローラーである)、「シーンにとってAdoはいかなる現象か」(モードである)、「Adoは世代を媒体によって自負しているのか」(これはアルバムを聴いたうえでも判断しかねる)、の三層構造で僕と一緒にAdoの迷宮を彷徨ってもらおうという魂胆である。Adoが「空虚なボカロ・ポップス」であるとしたら、僕は先程この文章を書きながらタバコを吸っていて彼女の4月4日のライブに行こうと決心などしないはずなのである。それはAdoの「千本桜」カバーを聴けばたちどころに分かる。音楽に不滅があるとして――ベートーヴェンの作品111、バッハのゴルトベルク変奏曲モーツァルトのレクイエム、なんでもいい――「千本桜」は悪ふざけのクリシェ以上のものとして後世には残らないであろうという意味で、インターネットにこびりついて消えなくなってしまったオタクの汗の染みでしかなかった。ましてや、(Adoが多くのボカロPによってコンポジションされているという事実を踏まえるにしても)元々機械が歌うために書かれた曲を人間が歌うとここまで醜悪になってしまうのか、という残酷な驚きがあった。Adoの真の空虚はもっと他のところにある。「酒が空いたグラスあればすぐに注ぎなさい」「皆がつまみやすいように串外しなさい」と何も知らない少女――アルコールの味も、ニコチンの快楽も知らない少女(「飲まなきゃその明日すらもねぇんだよ」、なのに彼女はバーボンの味を知らない!)――が力いっぱい歌うその様に迸る偶像としての生を、僕はあえてここに言祝ごう。――ねぇ、あんたわかっちゃいない!

 

・第一章――「声」と「敗北の世代」

 やや話は遡って、90年代の洋楽ロックは文字通り「ロックンロール」の復興だったというありもしない過去への郷愁からAdoへと流れ込んでいこうと思う。1994年に銃で自死したことによってファンタスムとしての(イデオロギーとしての)ロックを殺したカート・コバーンが弾く「Smells Like Teen Spirit」のリフは適当にフレットを押さえていただけだからそのときごとに微妙に違ったし、痩せぎすのジョニー・グリーンウッドが力まかせに一発かます「Creep」の「ガコッ」という無骨でむきだしの鉄骨のようなギターの音は、その後『スピッツ論』の伏見瞬が「ピクシーズジェフ・バックリーとDJシャドウとマイルス・デイヴィスオリヴィエ・メシアンを混ぜ合わせ」たと評するレディオヘッドサウンドメイキングからは遠く離れて「誰でも弾ける(Anyone can plays the guitar)」ギターの一撃として永遠のエポック・メイキングになっている。僕も友達の家でギターを見つけるとむちゃくちゃにフレットを押さえて決まってレッド・ツェッペリンの「Kasimir」を弾いた。ましてやファズやディストーションでひずんだギターは、「声」としての役割を持っていた。ジミー・ペイジの大してうまくもないギターがいつまでも輝いているのは、それが今なおリスナーの心に直接語りかけてくるからだ。だから、ロックンロールのギターは叫びであり、慰めであり、語りであり、悲しみである。「While my guitar gently weeps」と歌ったビートルズの「すすり泣く」ギターは、比喩でもなんでもないのである。

 2007年に初音ミクが登場すると、「声」としてのギターサウンドの特権性は失効してしまうに至る。楽器が弾けなくてもDTMができればギターもベースも(ボーカロイド登場以後の目覚ましい楽曲の変化にベースラインの複雑化が挙げられるだろう)ドラムも打ち込みでできるようになり、楽曲のBPMとピッチは人間には到達不可能な速度と高さに達する。「歌ってみた」文化の勃興は「声」のシンギュラリティに対する人類の前向きな敗北だったと言ってよいだろう。人間を模した人工音声を人間が模すという一種の倒錯は、ちょうど僕(97年生)から少し下、ギリギリ高校までスマホを持っていなかった世代(つまり、家のダイヤルアップ接続でLANケーブルを引いたパソコンでニコニコ動画を鑑賞し、違法ダウンロードしたYoutubeの音源をCD-Rに焼いて学校の友達と交換していた世代)が抱える共同幻想であった。そんな中、Adoは「うっせぇわ」でメジャーデビューする以前に「君の体温」で「歌ってみた」活動を始めていたのだから、彼女は「声のシンギュラリティ戦争」の「敗戦後」の子どもなのである。

 彼女にとって「声」はボーカロイドであり、曲のBPMはどれも速く、歌詞は冷笑的か浅薄な死生観を歌ったものが当たり前で、ギターも、ベースも、ドラムも、事実上存在しないところから自分の「声」を創作しなければならなかった。いや、彼女は自分の「声」をまだ知らない(し、恐らく今後も知ることはない)。ツイキャスカラオケ配信で歌う「ダーリンダンス」の走るテンポ、不安定なピッチはエディット済みの音源よりもずっとチャーミングである。彼女の脳内で反響する「声」はボーカロイドのそれであり、人間やブルースのギターのファズ一発ではない。


www.youtube.com

 この奇妙な隔たりを認識してなおAdoが「ニューエラロックンローラー」であると言うことができるとしたら(「絶対絶対現代の代弁者は私やろがい」と歌うAdoに熱狂する者も、眉を顰める者も等しくAdoの――繰り返すが作詞作曲のsyudouではなく――術中にはまっているのである)、彼女は彼女自身のカリスマとヴィルトゥオジティの悪魔に呑まれて空虚な記号になっている=Adoの「声」は「少し聴いただけでAdoと分かる」が故に「誰の声でもいい程度のうまさと符牒性がある」というある種のスティグマを背負っているが故だと言えるだろう。実際、Adoのシングルカット楽曲はほとんどが(「うっせぇわ」「ギラギラ」などのメッセージ性の強い楽曲を除いて)歌詞が言葉というより「音」である(声が楽器として扱われている)。Youtube再生回数1億回越えのメガヒット「踊」はその典型例だが、トラップ調の楽曲は徹底してAdoに寄り添おうとしない。Adoは曲を自分のものにできていないが故にスティグマを印付けられるのではなく、「何を歌ってもAdoにしかならない(が、Ado以外が歌っても「同じ歌」になる)」というスティグマを歌詞と音楽が浮き彫りにするのである。「塞ぎ込んで舌鋒絶頂へ/合図を奏でて prr prr prr prr yeah/ほら集まって夜行だ 鳴いて行こう」という押韻以外の何の意味も持たないリリックにAdoである必然性はあるだろうか?どんなにうまいギタリストが「Stairway to Heaven」のリフを弾いてみたところで、ジミー・ペイジのヨレヨレのギターには敵わないのとは真逆なのである。Adoの「ニューエラ」性はまさにここにある。つまり、交換可能な(取り返しのつく)高度な遊戯に魂を賭けない軽やかさがまさに同時代的な「スター」なのである、と。言い換えれば、聴き手に魂を賭けることを要求しないが故に(かつシンギュラリティの孤児であるという事実を見ないふりもできる)、「お好みでどうぞ」と歌う彼女の姿に新たなカリスマの可能性があるのかもしれない。


www.youtube.com

 そんなわけで僕はAdoに「一周回って順張り」の好きになり方をしているのだが――強いて言えば「会いたくて」のようなどうしようもないメロドラマではなくお洒落なラヴ・ソングを歌ってほしいと思っているのだが――僕らの世代のロック小僧には大きく分けて二つのルートが存在していたという話をさせてほしい。一つは銀杏BOYZの例の二枚のアルバム(『光の中に立っていてね』『BEACH』のリリースは2014年1月なので、僕の中学時代の思い出とは被らない)を無限に聴いているイケてないやつら(僕も含む)で、もう一つはRADWIMPSをカラオケで歌う陽キャである。RADは実は当時僕も聴いていたが、実際『絶体絶命』までのRADは冷たく鋭いサウンドが特徴的で今のような体たらくではなかったし、巷間言われるほど悪いバンドではないと思っている(新海と組んで以後と、野田洋次郎人間性は終わっている)。しかし、僕は銀杏を聴いていることがプライドだった。峯田じゃなければダメだったのだ。あれから10年以上が過ぎ、僕は「MajiでKoiする5秒前」を聴いた。広末涼子の原曲を聴いたことはなかったが、勉強を終えた喫茶店からの帰り道、誰もいない夜の住宅街で鳴り響いたギターに、中学時代を思い出して目が潤んだ。「魂を賭けるも賭けないも、どうぞお好みで」と可逆的な記号性のスティグマによって「ロックスター」になったAdoに対して、峯田は広末涼子だろうが、クリープハイプだろうが魂を賭ける。『きれいなひとりぼっちたち』であまたのアーティストによって銀杏の楽曲がカバーされようとも(出色の出来だったミツメの「駆け抜けて性春」でさえもが)、峯田の魂の体臭にこらえきれず、聴き手は音楽と不可逆的かつ交換不可能に刺し違える。


www.youtube.com

 それでは、Adoは空虚で――第二章で述べるように、確かに彼女はある種の空虚さをまとっているのだが、それは一般的な意味での空虚ではない――銀杏BOYZ峯田和伸)は本質的である、Adoは時代の要請に応えて登場して祀り上げられた御神輿に過ぎず、銀杏BOYZは魂を賭けているが故に不滅なのだ、と言い切ることが正しいのかと言われると、僕は理屈よりも先に首をかしげてしまう。「お前の魂を賭けろ」と首根っこを掴む峯田(のようなアーティスト)に、「僕ら」――「彼ら」はなることができない。魂を賭ける「声」を発することができる人間は一握りで、それは才能というよりも狂気の領域である(参考までに言えば、毛皮のマリーズドレスコーズの志摩遼平はAdoに近いものがある。Adoも志摩も、魂を使い切ることなく――適度なベットをしながらのゲームのやりくりに長けていると言った方がよいだろうか――「ロックンロール・スター」としての偶像を打ち立てることに成功している。両者の違いは楽器を自分でプレイするかどうかである)。「魂を賭けるも賭けないも、どうぞお好みで」と聴き手の欲する「Ado像」を変幻自在のヴォーカルでカメレオンのように乗りこなすAdoは、いかにもしなやかで、強靭で、そしてロック小僧にもマイルドヤンキーにもなれない「彼ら」は布団の中で、教室の隅で、こう思う――Adoになりたい!それはフェティッシュでもなんでもなく、ロックンロール・スターへの憧憬と寸分たがわず一致するのである。いくらAdoがそのセンセーショナルなデビュー曲で「一切合切凡庸な/あなたじゃ分からないかもね」と「ギザギザハートの子守歌」のオマージュを歌いあげ、それを知らない一定の人々からの顰蹙を買ったからといって、それを意にも介さず(?)昨年末の日本レコード大賞のメドレーの最後で「うっせぇわ」をキラー・チューンとして昇華させるAdoは紛れもなく「スター」であり「カッコイイ」シンガーだった――ボカロが音楽の原体験である世代の憧れとしては十分すぎるほどのポジティヴな空虚こそ、彼女のスター性なのである。

 Adoが魅力的である理由、それは「メッセージ性」とか「魂」とか言われるものを置き去りにして(彼女は魂を込めて歌っているのだろうが、それにも関わらず)時代の風速に飛び乗って勢いよく「ギターの音がさあ……」などと語る「老害」の間をすっ飛んでいくからだ。Adoはスカスカであるが故に軽い。何も背負わせないから何も背負わない(し、教室の隅で「うっせぇわ」を聴く中学生の味方をAdoはしない)。Adoは誰のものでもない。それはちょうど、銀杏やRADWIMPSが「思い出」や「世代」によってある種の「所有」を余儀なくされてしまったように――「MajiでKoiする5秒前」を聴いて中学時代を思い出し、涙する態度が所有でなくてなんであろう――、「失われた」という形で回顧されることによってしか現前し得ない「声」としてのギターのファズやディストーションが「われらのもの」であるのとは対照的なものとして、Adoは「どこにでもありそう」であるが故に「誰のものでもない」という無-世代性がパラドキシカルにこれからの世代を形作っていく。「声」は今やギターサウンドでもパンクロッカーの魂の叫びでも、そしてボーカロイドの打ち込み音声でもないのだ。時代意識を作り、時代意識と共にあり、世代を形成するのは、「私でも歌えそう」だけど「絶対に歌えない」憧れのあの人の「声」――つまり、ニューエラロックンローラーとしてのAdoの「声」なのである。

 

・第二章――起源なき起源の抹消、あるいは篭絡するモード

 前章では要するに「Adoはカッコいいんだ」という話を彼女の「空虚」(つまり、「カッコよさ」の要件は本質的でなければならないという要請に対するパラドックス)を起算点にして述べてみたが、歌手ないしアーティストが必然的に求められるヴィジュアルについては意図的に言及していなかった。何をもって「カッコイイ」とするかは結局人によると言ってしまっては軟着陸に過ぎるだろうが、しかし例えばクリーム期のクラプトンにシビれる!という人がUVERworldTAKUYA∞にもビンビン感じてしまうということは(いないという訳ではないだろうが)少ないということは容易に想像がつくし、薄汚れた渋谷のライブハウスで法律スレスレの地下女児アイドルのライブと物販に足しげく通うオタクが隣のクラブで踊るギャルに熱を同じく上げるということもまた、想像しがたい事態ではある。要は、欲望の回路というものは恐らく人間が自分で思うほど複雑にできていない。またしても精神分析の謂を引くならば、自分で自分の欲望が分からないとき欲望は自分で充足するが(自体愛)、他者の領野に入ると主体は他者の欲望を欲望するというラカンが提示したこの普遍的なテーゼは、憧れや「カッコイイ」の対象にも当てはまる。欲望の対象(ギターを弾くクラプトンや、幼女)を欲望する手立ては他者の介入をおいて他にない(=欲望が近似した他者しか他者と認識できず、まったく接点がない他者は他者ではなく単なる外部である)。ましてや、対象が「見えない」のであればなおのことである。

 ある時期までのまさしくモード・ファッションの寵児であるマルタン・マルジェラは「「可能な限り自らの作品から消え去る」ことによって、ブランドの背後にその名を置かれることを拒否することによって「匿名のデザイナー」と呼ばれてきた」(アリソン・ジル「抹消記号下のファッション」小林嶺一訳、アニェス・ロカモラ/アネケ・スメリク編著『ファッションと哲学』所収、フィルムアート社、2018年、404頁)とアリソン・ジルがカート・デボを引いて書きつけたように、徹底して公の場に姿を現そうとはしなかった。有名なカレンダーのようなプリントがしてあるタグは可能な限り簡潔で、マルジェラほど「デザイナーの不在」がそのまま製作され発表される衣服の現前性とオリジナリティを浮き彫りにしたメゾンもそうそうないだろう。最近では『We Margiela』に続く本人の肉声入りのドキュメンタリーが公開されて話題を呼んだ。デザイナーとしての誕生から「モードに殺された」母親を追っての自死を描く悲痛なドキュメンタリー『マックイーン:モードの反逆児』で、タバコを吸いながらハイテンションでまくしたてる神経症者・アレックスとは違い、「マルジェラが語るマルジェラ」のトーンは穏やかである。マルタンは自分のブランドの持つ非-符牒性が符牒であることに、ゆっくりと絶望しつつあるように聞こえた。

 マルジェラは「反本物主義」(とでも言えばよいだろうか)の徹底によって、それが逆に物質としての衣服の互換不可能性を強調していた。GIVENCHYFENDILOEWEを擁するLVMHがメゾンを駆逐し職人の手作業とデザイナーのひらめきがブランドのマニファクチュアライズによって圧殺される=「ハイブランドを身につけている『アナタ』をご提供」する一方で、マルジェラは徹底して――「ディーゼル・マルジェラ」のことを平川武治は「ラーメン屋のラーメンじゃなくて、ファミレスのラーメン」と簡単に評してしまったが――「ラグジュアリー」な括弧つきの「本物」を拒否し続けていた(これにはマルジェラがエルメスで修行していたという事実も関係している)。「坂道」グループ(乃木坂46、櫻坂46など)の若いオタクが揃ってバレンシアガのキャップとブルゾンを着用し、ハイブランドスニーカーで連帯を保証しあったりするのに対してメゾン・マルタン・マルジェラを「マルタン」と呼ぶ人々は群れない。一点物の本人がプロデュースした「アーカイブ」と呼ばれるコレクションにはいくらでもお金をかけ、古着屋を駆けずり回ってマニア垂涎のアイテムを手に入れようと躍起になる。マルジェラのコレクションはどれも江湖に知られるところではあるだろうが、「異素材ライダース」や97-98AWのコットンドレスはその典型例だろう――彼は素材を切り刻み、逆方向に貼り付け、ミスをそのままにし、既製品と既製品を縫い付けて店頭に並べる。「レディメイド」だ。

f:id:lesamantsdutokyo:20220107185309j:plain

f:id:lesamantsdutokyo:20220107185323j:plain

 Adoのリスナーとマルジェラの購買層が被っているのかどうかは知る由もないが、とりあえず両者に安易な共通点など見出せそうもないことは明らかだろう。とはいえ、糸口がまったくないわけではない。Adoは、ヴィジュアル面において「誰か」に「責任をなすりつけている」。その「誰か」というのは、青いインナーカラーのロングヘア―でスーツを纏ったアバターの「Ado」であり、目つきが悪くロングバレットライフルを振り回す「うっせぇわちゃん」であり、四等身にデフォルメされた「阿修羅ちゃん」であり、顔に縫い目がある「ギラギラちゃん」である。彼女の歌のYoutubeのコメント欄――「授業中に脳内でこの曲が無限リピートする!」という文字列がいかにも眩しい――でよく見かける「画面の子が歌っているみたい」式の言及は、Adoがあずかり知らず、そしてGReeeeNMAN WITH A MISSIONとははるか遠く隔たって美しい「歌=記名」の所在の責任転嫁である。前章で示した「交換可能性」はこの「責任転嫁」=「蓋絵次第でどうとでも受け取れてしまう」という軽率なまでの「名づけ=名指し」を拒否する態度の審美性であり、「私が歌っている」という銘記を絶えず免れることでその非-銘記がかえってAdoの「Ado像」をちぐはぐな形で浮き彫りにする。それは「歌ってみた」を「歌いました」と恥ずかし気に表記する彼女のボカロカバーにしても同じであり、鬼のような形相の「ボッカデラベリタ」にせよ黒い髪の少女が佇む「君の体温」にせよ、彼女は自らのオリジナルを抹消しながら痕跡のみをYoutubeに、サブスクリプションに残していく――フィジカルとしての(もはや現在無意味なDVD特典付きの)CDでさえもが、AKB48式に「1枚」の意味が溶解するシミュラークルにすぎないのである。この「記号(絵、あるいはテロップ/ブランドの名前)が先か、現象(歌/衣服)が先か」という問いは、ここに至ってAdoとマルジェラの間の虚焦点の彼方に置き去りにされてしまうことになる。なぜなら、Adoもマルジェラも記号と現象の「オリジナル」など存在しないことが新たな「オリジナル」だからだ。言い換えれば、両者には共通して「本質」がない。徹底して空洞であることが逆説的にブランドを保証する。顔のない歌手、顔のないデザイナーが、手を変え品を変え消費者の目の前で狐のように己の姿を化かす。マルジェラがモード足り得た理由がまさにその「レディメイド」性にあったように、Adoがあえて「モード」であると言うとするならば彼女自身がオリジナルなき(オリジナルを自らが抹消していく)痕跡の「オーダーメイドのブランド身につけ威張」ることのない/できない「レディメイド」なのである。

 ひとつ、マルジェラの精神を象徴するかのような(そして「顔のない」という符牒で安易にもAdoとの連関を想起させるような)ショーを紹介しよう。メゾン・マルタン・マルジェラ創立20周年であり、マルタン・マルジェラがデザイナーから退く最後のシーズンとなった2009SSのランウェイである。


www.youtube.com

 マルジェラはこのショーで衣服のペルソナとでも言うべき、オートクチュールにおける、「この服はノット・リアル・クローズでありながら服としての機能性を持っていますよ」という肉としてのモデルによる衣服の人格の宣言をいともたやすく放棄してしまっている。音楽ということだけで言っても、ショーのエンディングにおける陳腐にも聞こえるマーチによる安っぽい祝祭感は、例えばエディ・スリマンがサンローランのランウェイでアークティック・モンキーズを起用するようなロックとショーの融合であろうが、カール・ラガーフェルド御大が率いるシャネルがロネッツやマッドネスをランウェイのBGMに選ぶ美意識であろうが、ラグジュアリーブランドの感性からは遠く隔たっている。アレクサンダー・マックイーンのヘンデルサラバンドでさえ、マルジェラの一種グロテスクなカオナシの行進曲よりかは「発狂した中世」(菊地成孔)のヴィジョンとしてあまりに豊かすぎるのである。マルジェラの注意深さであればそれもまた彼の術中というわけなのだろうが、顔を奪われたモデルたちは「無という全称」がかわるがわるコレクションを着替えているようにも見える。すっぽりと顔をタイツで覆われているモデルもいれば、大きい毛玉のような被り物で顔を隠しているモデルもいる。彼ら彼女らの衣服はどれも継ぎ接ぎであったり、中に縫い込まれているボタンがボディ・モディフィケーション身体改造。肉体の中に金属を埋め込んだり、舌や耳、鼻を切り取る加工を行う一種の整形作業のこと)のように盛り上がったりしていて、「マルジェラらしい」コレクションはどれも身体の自然な美しさを見せるというよりも、衣服を身体の形に切り取る、即ち衣服がモデル(/リアル・クローズで着る消費者)を得て「受肉」するかのような印象を与える。

 この「無という全称」が「受肉」する現象は、Adoが他の歌い手やVtuberにカバーされる際、あるいはAdo自身のボカロ曲のカバーに顕著だろう。Adoを考える上でこの「カバー」問題は重要である。前章で「Adoでならなくてはならないが、Adoでなくてもよい(私はAdoになりたいしなれそうなものだが、決してAdoになることはできない)」というパラドックスについて書いたが、Adoはプロ(つまり、CDを出して、ライブをして、お金をリスナーから取る)としては異例の量でボカロ曲をYoutubeに上げている。また、ボカロ人気から考えても自然なことだが、歌い手やVtuberによるAdoの楽曲の「歌ってみた」も数多い。これは彼女のキャリア(「君の体温」の「歌ってみた」の投稿でインターネットに肉声を乗せ、ボカロPのくじらとのコラボ「金木犀」で注目された)とコンポジションの面々を形成する上でも非常に重要であり、またAdoのパラドックスにおいても意味を持つ。「ギターもベースも弾けない、ドラムも叩けない、歌も下手」だけど音楽をやりたいと思うアマチュアに訪れた天啓こそ初音ミクであり、DTMであった(無論できるに越したことはない)。70年代後半のロンドンあるいはニューヨークでレザーパンツとライダースを着てギターを持ち、パワーコードを押さえてジャーンと弾くところから80年代になるとアフロ・アメリカンはサンプラーを買ってなんでもかんでもサンプリングして、「Dig」(レコードを掘る)の文化が生まれた。なんなら『8mile』のエミネムに電撃を受けてサイファーを始める若者でもいい。初音ミクはそういうアマチュアの魂であり、「誰でもできそう」なところに魅力があった。「歌い手」がわざわざ自分の蓋絵を作り(「名乗り=記名」である)、雨後の筍のごとく「歌ってみた」を自分で編集してアップロードしていたのはもちろんその延長線上である。というか、Vtuberにせよ「ニコ生」にせよ、ゼロ年代後半以降のネット文化はアマチュアの共同戦線によって保たれていたと言うべきだろう。「音MAD」(「例のアレ」タグの勃興は良きにつけ悪しきにつけネットのアマチュアイズムの新陳代謝をいささか早めすぎてしまったようにも見えるが)にせよ同じことが言える。

 そんな中、Adoはテロリストと言ってよい。「歌ってみた」=記名性による有象無象の「お遊び」にプロフェッショナルと技巧性を持ち込み、一躍文字通り「令和の歌姫」へと上り詰めてしまったのだから。ここで重要なのは、原理的にはAdoも「お遊び」の延長線上にあることなのだが、この原理を「カオナシ」の「無という全称」としてのAdoは「恋は戦争」に、「ブラック★ロックシューター」に、「乙女解剖」に「受肉」させることによって痕跡としてしか表象されない「オリジナル」(=人間が歌っている「かのような」初音ミクの声)を抹消し、その上に彼女はAdoという新たな「オリジナル」を書きかえる。これは奇しくも、マルジェラが顔にすっぽりとタイツを被せてしまって衣服が「誰か(quelqu'un)」によって「着られている」という事実のみをともすればチープなやり方/「ラグジュアリー」に対するアンチテーゼで提示することで衣服に「メゾン・マルタン・マルジェラ」をアンチ・キャピタリズムのもとで「受肉」させていたのと点対称になるような形で、Adoは「誰か」=大きな意味での〈初音ミク〉によって「歌われていた」、あるいは有象無象の記名によって「歌ってみた」されていた歌にメジャー・レーベルの資本主義とヴィルトゥオジティによってAdo自らを「受肉」「させられている」という事実が浮き彫りになる。ドスの効いた声で歌われる彼女の「歌いました」ディスコグラフィの中でも出色の出来である「うみなおし」、序章でも引用した(「うっせぇわ」のsyudouが手掛ける)「コールボーイ」の圧倒的な表現力は、それ自体が「無」=「空虚」、即ち抹消記号なのではない。抹消記号の下にある「抹消された起源」(オリジンとしての〈初音ミク〉)が喚起する記憶――たとえ初音ミクを聴いたことがなくとも、彼女の歌声に人間離れした低い温度と乾ききった湿度を聴きとれるように――の効果によってAdoの歌声という新たな記号が事後的に起源を抹消するのであり、それは「抹消記号(Ado)が起源(〈初音ミク〉)を抹消する」のではなく「起源があらかじめ抹消させられるが故に、呼び出される記号はつねにすでに抹消記号になる」という事態である。「シンギュラリティの孤児」Adoは、有象無象によって持ち上げられて高笑いするアマチュア的ミュージックメイキングと人工音声という(ない)起源に常にちょっとずつ敗北し続ける。Adoがいくらうまく、魂を込めて歌おうが、それは〈起源〉ではない。し、〈初音ミク〉は「起源としての起源」ではない。いくらかAdoが〈初音ミク〉を越えた起源に抗う、あるいは到達することができるとするのならば、「花が咲いて月が満ちて/また景色を塗り替えて/ここにいたこと 君の体温/忘れていつか冷たく それだけさ」といささか恥ずかしすぎるお仕着せのラヴ・ソングを彼女が始まりとして持っているという、そのことだけと言ってもよいだろう。


www.youtube.com

 

第三章:「ヘイ、ミスター」――飼い殺しの狂犬:『狂言』レビュー

 アルバムの内容に入る前に、「CD」という今やクラシックやジャズマニア(ブートレグを漁るロック親父もそのうちに入るだろう)しか手に取ることのないメディアにまつわる非常に個人的な話から始めることにしよう。僕は高校2年生のときデトロイトテクノに凝っていたが、当時はサブスクもないし、セオ・パリッシュやMoodymannのフィジカルはどれも高額で、せいぜいSoundcloudに上がっている数少ない音源を掘るぐらいしかなかった。ある日部活終わりに渋谷(新宿だったっけ?)のディスクユニオンで物色していると、喉から手が出るほど欲しかったMoodymannの『Black Mahogani』が3000円で売られていた。財布には1000円しかない。しかし、家の貯金箱(高校生なので当たり前に口座など持っていなかった)には確か5000円ぐらいあったはずだと思い、店員さんに「これ、家からお金持ってくるので取り置いてください!」と言って引き返し、往復1時間かけてお金を持ってきて『Black Mahogani』を買った。Amazonがあったり、そうでなくても口座でお金を下ろせる今からすると考えられないが、当時の僕は音楽にそれだけの労力をかけて当たり前だと思っていたのである。配信サービスが始まったときも「俺はそんなの使わないもんね」と思いながら渋谷のツタヤで大量にCDをレンタルして一生懸命リッピングしてスマホに取り込んでいた。嫌なガキである。

 Adoに限った話ではないが、良いとか悪いとか抜きにして今のアーティストにはそういう労力をかけなくてよくなった。リリース日にはサブスクに曲が上がるし、そもそも「音楽を聴く」という行為に一日の時間を割くような人口も減ったと思われる(移動中にイヤホンで聴くのが主流だろう)。Spotifyで聴けばいいものを、あえて僕が『狂言』に4400円を払って家のアンプで、良いヘッドホンで聴くのかと言えば、それはAdoが僕にとってお金を払うに値するアーティストだからである。何より、サブスクでは分からないアルバム単位でのコンセプトに興味があった。無圧縮音源が手に入るということもさることながら、Adoが何をアルバムで表現するのか/表現させられているのかということに俄然好奇心がそそられた。「お仕着せ」のAdo。「ニューエラロックンローラー」のAdo。「オリジナルなきオリジナル」であるところのAdo。そういった個人的なイメージに、Adoはどう応えたのか。

 「レディメイド」に始まり「夜のピエロ」に終わるこのアルバムの始点と終点は、Adoというアーティストの卓越に比べて耐え難い凡庸さである。核となる「マザーランド」で「ロンリーロンリー」「道化師」というセルフオマージュが散りばめられている通り(そして「ここは楽園ではない」というAdoの「始まり」を示す歌詞にあるように)、「既製品」や「ピエロ」といったイメージにAdoの「曲も書かないし詞も書かない、お仕着せの人形の仕組まれた自嘲」の演出があるのだろうが、これはコンセプチュアルな方向性の努力として評価したい一方でとりわけ「レディメイド」の凡庸さが際立つあまり仕掛けが鼻につく。ジャジーなトーンと音の質感のつるりとした無表情ぶりがなんとも退屈で、あまりに鮮やかすぎてアルバムの全体的なトーンを破壊しかねない「踊」との対比ももはや残酷に聴こえる。恐らくイヤホンで移動中に聴くことに特化している(高音域がのっぺりしていて立体感がなく、lowがカットされている)ためだと思われる。これはサブスクで聴いた方がいいかもしれない。一方で、ストレートなロック・チューンの「FREEDOM」はアルバムのコンセプトとは必ずしも一致しないもののブルージーで煙臭いギターとうねるベースが出色の出来で、東京事変椎名林檎も彷彿とさせる(Adoは椎名林檎倉橋ヨエコに影響を受けているらしい)瑞々しく張りのあるヴォーカルが聴いていて爽やかな一曲。

 色々な音が鳴っている割には存在感のない「ドメスティックでバイオレンス」、抒情的でミニマル、コンポーザーの作家性がよく出ている「花火」、鼻白むほどセルアウト寸前のところで切実さを歌い上げる(ヘッドホンで聴くとストリングスの雄大さが結構すごいのでミックスがいいんだと思う)「会いたくて」までがこのアルバムの第一部だとすれば――第一部は「陽」のAdoだろう――、「陰」のAdo、つまりAdoの本質である第二部の開始は「ラッキー・ブルート」だ。重く暗いベース、Adoの本領であるがなり、全体のナンセンスで狂暴なトーン、何を取っても100点満点。柊キライの仕事は「ボッカデラベリタ」などで知っていたが、人間が歌うための歌を作るとここまで柊キライは邪悪になれる。Adoの曲のみならずジャンルとしての「VOCALOID」の楽曲としてもこれ以上を望みうるだろうかというレベルで卓越しており、ここで強烈なボディブローを喰らったかと思えば「ギラギラ」のアッパーで宙にぶっ飛ばされる。もちろん「踊」のようなヴィルトゥオジティの極北のような楽曲を歌ってもサマになるのがAdoなのだが、「今に見てろこのluv」と歌って飛翔するAdoがやはり僕たちは見たい。無圧縮で「ラッキー・ブルート」と「ギラギラ」が聴けるだけでこのアルバムに金を払う価値あると思う(今Spotifyで聴きながらこの文章を書いてるけど、特に「ラッキー・ブルート」の陰惨な音響地獄は比べ物にならないぐらいCDの方が音が良い)。

 箸休め的な「阿修羅ちゃん」、まふまふのいやらしいぐらい巧いライティングの妙が光る「心という名の不可解」(これはアルバムで聴いた方がよく聴こえた。単体で聴くと薄味なようにも思えたが、「阿修羅ちゃん」と合わせてアルバム全体のバランサーになっている気がする)を経て、「うっせぇわ」~「過学習」のアルバムの核に辿り着く。「うっせぇわ」はなんだかんだ言われることも多いが、デビュー曲っていうのはやっぱりこれぐらい挑発的じゃないとね、という気分になる。この曲のポイントは「「ギザギザハートの子守歌」にさえなれなかった私たち」なのだが、その背後にあるのは意外にも怒りではなく諦めにも似た感情である。「うっせぇわ」と言いながらライフルで狙撃していたはずの「大人」たちに向けていた銃口を「アタシも大概だけど」と自分の喉元に突きつけるとき、ペルソナとしてのAdoは確実に何かを諦めている。それは恐らく、「何者でもないもの」になることを諦めたのだ。青いインナーカラーでロングヘア―、スーツ姿の「Ado」になることを、自らの喉元に銃口を突きつけて撃った瞬間宿命づけられていた。ハードコア(ATARI TEENAGE RIOTみたい)の曲調も何度聴いても素晴らしい。Adoと作曲陣はこれ以降「うっせぇわ」以上のものを出さねばならないという重圧と闘っていくことになるだろう(「ラッキー・ブルート」と「ギラギラ」あたりはかなりいい勝負だと思うが)。「マザーランド」はおいおいAdoについて書く機会があればまたそこで詳細に述べたいと思うが、「劣勢らにラブソングを」と自嘲的に歌う彼女は――「ギラギラ」にも通じる部分があるが――やはり逆説的ではあるが「わが身かわいさ」で音楽をやると宣言する覚悟がついていないのだと思う。特典のパンフレットで「自分のことが好きになることができたら引退する」と言っている一方で、「劣勢らにラブを」「おいで 私がMotherlandになるよ」と素朴に(与えられた歌詞を)歌ってしまう態度こそ彼女の空虚であり(悪い意味ではなく)、彼女が空虚を満たすことができるとしたら(それは彼女の宣言上あり得ないことなのかもしれないが)「わが身かわいさ」で音楽をできるようになったときなのではないかという気がする。「過学習」は楽曲の小手先が目立つが、「この歌詞書いたのは誰なんか」というAdoが歌うと意味が変わってしまうパンチラインを入れたことは評価できる。「夜のピエロ」は元からスルメ曲だが、アルバムの中だと埋もれてしまう(だからエンディングトラックなのだろうが)。

 「アルバム」は曲を詰め込めばいいというものではない。Adoはその要請に対して「売れ線」のシンガーとしてできることをほぼ全てやったと思う(tofubeatsとか大森靖子とコラボしてほしいという気持ちは正直あるけど、まあ無理でしょう)。しかし、特にアルバム前半の退屈さ――Adoというシンガーに対するプロデュースのパースペクティブの平板さ――は後半「ラッキー・ブルート」や「うっせぇわ」の狂暴さに比べるとほとんど「飼い殺し」である。メジャーストリームであることを言い訳にすることはもはやできない。比較することもどうかと思うが、現在進行形でも宇多田ヒカルが『BADモード』でほとんど超絶的な音楽をメジャーシーンで展開したことを思えばAdoのコンポーザー陣が「この程度だろう」と高を括ることはあってはならない(高を括るというか、「ボーカロイド」の曲はこういう感じだろうと作曲陣がジャンルを規定してしまうこと)。Adoは未だ「飼い殺しの狂犬」だ。ボーカロイドのコンポーザーがジャンルを踏み越えてAdo自身でさえ気づかなかったエネルギーを引き出すことを期待する。

 

・終わりに――俺は、何なんだ?

 2万字近い記事を書いて思ったことがある。俺はAdoのなんなんだ?「オタク」なのか?「ファン」にしてはこんなキモい記事を書くぐらいだからちょっとファンにしてはキモすぎるし、オタクというのもAdoにオタクっているのか?例えば、僕は銀杏BOYZのファンである。クイーンのファンである。ホロライブとにじさんじのオタクである。元アイドルオタクである。そんな風にして、自分の人生を「ファン」「オタク」「それ以外」にちょっとずつ切り分けることで、僕は自分の趣味の自己同一性を保とうとしてきた。それが今、Adoによって突き崩されようとしている。Adoは「歌い手」であり、ファンはファンでしかない。このファンというのはつまり、Youtubeでコメントして、配信を観て、ツイッターにリプを飛ばして、サブスクで音源を聴いて、フィジカルは買ったり買わなかったりする、そういう層である。アイドルオタクをやっていたときはこういう気持ち悪い長文を書くオタクは結構(いや、本当に結構いた)いたものだが、Ado界隈(Ado界隈?)ではまあ見ない。僕はYoutubeのコメントも書かないし、ツイッターにリプも飛ばさないし、フィジカルを買ってCDで2~3周聴いてこういう気持ち悪いブログを書く。僕のAdoへのまなざしを、ひとつこれこれこういうものだと言うことはできない。

 ただ、「うっせぇわ」では「なんや、またこういうシャバい歌い手が出たんか。まあろくに聴きゃせんし、ほっとこ」ぐらいにしか思っていなかったのだが、「ギラギラ」をたまたまYoutubeで聴いたとき首根っこを鷲掴みにされるような感覚になった。虚ろなのに魂が燃えていて、暗い炎がゆらめくような歌声に耳を疑った。「うっせぇわ」も聴き直して、表面的な挑発に引っかかっていたのはこちらの方だったと身の上を恥じた。こうしてDVD書籍付のフィジカルが手元にあり、部屋のコンポで久しぶりにCDを買って聴く楽しみをよもやAdoで再確認させられるとは思ってもみなかった。俺は、Adoが好きだ。二周回った逆張りと言われようが、周りの音楽好きにバカにされようが、低く人間離れした声でがなるAdoが、透明な声でラヴ・ソングを囁くAdoが、俺は好きだ。だからまあ、オタクなのかもしれない。新時代のロックンローラー、抹消するモード、飼い殺しの狂犬、どんなに言葉を尽くしても、Adoの歌声を初めてまともに聴いた強烈な印象に届かない。届かないこと前提で、僕は言葉を尽くしてみた。喪失の時代を生きるディーヴァに、愛を込めて。