思考停止

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Vtuberで学ぶメンヘラ学概論~潤羽るしあの場合~

・メンヘラは状態ではなく、性質である

 「概論」と銘打っているが、本記事で取り上げるのはメンヘラと呼ばれる人々にいかに同化し、そして愛するようになるのかの応用的な話である。メンヘラという言葉の定義をするのは眠たい話なのでしないことにしよう。ただ、アニメやVtuberにおいて戯画的に描写されるメンヘラ像から意図的に捨象されているのは、依存の対象が別に一人でなくてもいいことである。彼/彼女らが性的に奔放である場合においても「私一人を見てくれなきゃイヤ」式の物言いの場合においても共通しているのは自分の存在意義の揺らぎ、もっと分かりやすく言えば「寄る辺なさ」のようなものをとりあえず糊塗してくれる相手がその場においているかどうかが重要となる。だから、もしあなたがメンヘラを好きになったとしよう。そして「あなただけを愛している」という字面上では陳腐でテンダーな言葉を囁かれたとしよう。その言葉は、断じて嘘ではない。その場限りにおいて。その人(メンヘラ)は、永遠があると信じている。場合によってはその永遠を自ら破壊する自己破砕性を持っていながらも、自覚的であれ無自覚的であれあなたと共に破滅することによって永遠に留まることを選ぼうとする。意外に思われるかもしれないが、メンヘラと付き合って最も望まれるハッピーエンディングは両方死ぬことである。Vtuberの叶は、メンヘラに振り回されることをよしとした時点で(メンヘラを「あしらう」余裕と選択を失った時点で)「君」もメンヘラなのだ、という旨の発言を天開司とのラジオで発言していた。メンヘラにかき乱され、振り回され、自分もメンヘラになり、そして二人一緒に死ぬ。メンヘラとは本来的に自己否定的なナルシシズムとロマンティシズムの陳腐化した謂であることに今更疑いを差しはさむ余地はないが、その否定性の昇華されるところ、それは死である。でなければ、ウェルテルも自死を選ぶことはなかったであろう。

 男女のいるところに恋愛あり、だとすれば、メンヘラのいるところに別のメンヘラあり。メンヘラとは、よく「ヘラる」という形で造語の動詞形で使われることが多いことから「状態」だと思われている。しかし、ヒモ野郎が何故か女に金を奢られる生き物であるのと同様に、メンヘラは「何故か」そうなっている、つまり素質と才能がなければメンヘラという生き物になること自体が不可能なのである。ここでメンヘラを手術台の上に載せ、解剖実験を行ってみたところで、それにはあまり意味がないと思われる。そう、今から潤羽るしあを例にとってメンヘラの素描をスケッチすることには、「何をメンヘラについて語るか」というより「何をメンヘラについて語らないでおくべきか」という意義がある。私がよく批評を書く際に大切にしている「秘められたもの」だ。承認欲求、自己肯定感の低さ、そういったキーワードだけ取り出して見れば至極簡単で単純に見えるこれらの要素だが、それではそのメンヘラ当人が「なぜ」承認に飢えてしまったのだろうか?「なぜ」自分で自分を愛することができなくなってしまったのか?BTSの「Answer:Love Myself」でRMがラップするように「自分を愛することは他人を愛することよりも難しい」。メンヘラが辿ってきた、辿っている道のりだって決してメンヘラ特有のものではないはずなのだ。しかし、固有なもの、特異なものの条件の下で、メンヘラは自分の腕を傷つけ、知らない誰かとセックスしまくり、精神薬を飲んで投与量を競い合い、場合によってはようやく見つけた自分を愛してくれる人を物理的にであれ精神的にズタズタにし、死へとチキンレースして場合によってはコースアウトする。かく言う私も立派なメンヘラであり、かつての恋人たちや友人たち、家族を過剰な負のエネルギーで引きずり回しては疲弊させてきた。そして恐るべき事実を目の前にして、私は私自身の(擬似)恋愛観というものにほとんど絶望しかけているのだ。それはつまり、私が他ならずメンヘラであるが故に、メンヘラの女の子にしか興味が持てなくなってしまった、と。

 

・ホロライブファンタジー、子どもから大人まで

 さて、ようやくVtuberの話である。企業勢Vtuberの常として、「〇期生」というものが存在し、一緒に入った仲間たちは「同期」と呼び合ってあるときは配信内で仲睦まじい様子を我々に見せてくれたり、あるときは配信外で実際に会って遊びに行ったりする。実は、今回取り上げるホロライブのカバー株式会社、にじさんじのいちから株式会社はVtuberを「所属タレント」として扱い「社員」としては扱っていない(なので福利厚生が受けられるわけではない)。扱いはあくまでも個人事業主であり、配信の匙加減というものは(概ね)各Vtuberに委ねられている部分がある(未成年の赤井はあとや紫咲シオンなどがどういうことになっているのかは不明)。

 個人的な話をさせてもらうと、男子校出身者である私はホモソーシャルでしか連帯や一体感を感じたことがなく、大学に入ってから女子は「同期」ではなく「獲物」となっていた(最低)。しかし、男女共学の連中が不思議と醸し出す「男も女も、同期の仲間だよね」という雰囲気がうらやましかった。いや、めちゃくちゃうらやましかった。そんなわけで、ない青春を追い求めるという意味でVtuberを追ってからしばらくして私はにじさんじSEEDs一期生を最も観るようになっていた。社築と轟京子のチャージマン研イクラに腹を抱えて笑い、OTN組を観ながら寝落ち、花畑チャイカにはスパチャも投げた。卯月コウへの屈折した感情は本ブログの過去エントリを見ていただければ分かる通りである。

 ホロライブは男性タレントが「ホロスターズ」となっており住み分けがなされているのでそういった男女のわちゃわちゃしたやり取りというのは見れないのだが、潤羽るしあも所属する「ホロライブファンタジー(三期生)」はホロライブ全体の中でも特に仲がいい世代として受容され、人気も高い。その人気の一要因として、幅広い年齢層が観るYoutubeで各々の世代に合ったキャラクターを選べてなおかつどれを選んでも面白いというものが挙げられる。先日チャンネル登録者数100万人を達成した兎田ぺこらは独特の声質、特徴的な「ぺこ」語尾もさることながらゲームのチョイスや高速回転するトーク、観ているこちらも楽しくなるようなゲラ笑いで視聴者をあまり選ばない。良い意味で大衆向けコンテンツである。逆に、宝鐘マリンなどは圧倒的なトークセンスで群を抜いているものの話題が昔のアニメだったり、やるゲームが東方STGだったりとコアなオタク層を的確に狙い撃っているように見える。

 潤羽るしあは見た目は16歳ぐらいの緑かピンク色の髪をした少女で、彼女の最も分かりやすい魅力を説明するとしたら普段の瀟洒な声でまったりと喋るいわゆる「清楚」な一面と、ゲームで負けたときや大詰めの勝負所で発せられるマイク許容音量無視の叫び声のギャップである(エヴァンゲリオン初号機の咆哮に似ていることから「初号機ボイス」などと言われることがある)。王道のぺこら、豪速球の変化球のマリンとはまた違い、トークの上手さで見せるタイプのVtuberではない。また同期の白銀ノエルと不知火フレアは「ノエフレ」と呼ばれる公式カップリングが存在するが、るしあは初期こそマリンとのカップリングがあったものの現在は事実上消滅状態にある。そんな訳で、ホロライブファンタジー全体を推し、特にるしあとマリンを応援している私でさえ、るしあの魅力を言語化しづらいところがある。いや、ないわけではない。確実にある。それが、るしあにしかない芸風、メンヘラ芸である。

 メンヘラ芸は諸刃の剣である。下手に乱用すればテンプレートと化して面白くなくなる。たまにしかやらないとマジになりすぎて着地点を見失う。るしあは才能と言うべきか、そこの押し引きに非常に長けたライバーである。犬山たまきとのコラボでこれでもかというぐらいメンヘラ芸で押するしあはたまきへの信頼故のことだろうが、ソロ配信でスパチャ読みをする際の駆け引きは、場合によっては本編以上にスリリングな局面を見せることもある。メンヘラ芸が「芸」として浮いた印象にならないのはもう少し理由があり、それは随所で見せる絶叫と相まってるしあのパーソナリティが極めてヒステリックなものとして我々の眼に映るからだ。無論、ここで言う「ヒステリック」はかならずしも悪い意味で使っているわけではなく、「潤羽るしあ」という人格を形成する一要因として然るべき機能を果たしているということである。Vtuberにおいて最も重要なこと、それは一貫した人格を持っているか、ということである。「中が生身の人間だからそこが乖離するなんてあり得ないのでは?」――あり得る。好例は過去にも取り上げた御伽原江良だが、彼女の場合ガチャ芸人、ヒステリー、普通の女の子、オタク、と人格が分裂しすぎており完全に「一見さんお断り」のライバーになってしまっている(普通の配信をメンバー限定配信にしているのも集金以外の目的がはっきり言って分からないが、普通の配信でスパチャで稼いだ方がメン限よりも稼げるように思えるのは私がYoutubeのシステムを理解していないだけだろうか?)。その意味で、もはや正確な配信タイトルを思い出すのも億劫だが2020誕生日配信は面白い試みだった。ヒステリックでも素でもない「御伽原江良」を20分やりきったあと、真っ黒い画面で猿の人形に「江良ちゃんお誕生日おめでとう」と言わせる御伽原は、私のような人種に何かを言わせないではおかない「人格」の問題に対する訴求力があった。るしあはその咆哮から「ホロライブのギバラ」と呼ばれることもあるが、この人格の保存の問題にその差異がかかっていると言ってよい。るしあは清楚、ヒステリー、そしてメンヘラを「潤羽るしあ」という人格の元に統合している(統合していない/できていない御伽原を否定したいわけではない)。もっと言えば、これはホロライブファンタジー全員に言えることでもあるのだが、ロールプレイ問題に関して最もゆるくなった結果キャラクターの人格と素の人格にあまり齟齬が出ていないのがるしあなのだ(マリンはRPを放棄しているが、素の人格があまりにもキャラクター的過ぎてキャラクターの「宝鐘マリン」を素の「宝鐘マリン」が食ってしまっているという力業の逆転現象が起きている)。スパチャ読みの清楚でゆったりしたるしあも、机を叩いて絶叫するるしあも、どれも我々の愛するるしあであることには変わりない。そして無論、メンヘラのるしあも。

 

・何故私はかくもメンヘラを愛するようになったのか

 よりメンヘラの深奥に迫っていくことにしよう。るしあは、メンヘラ芸である決定的な一点を持って本来のメンヘラが持つヒリつくような感覚を忘却の彼方に葬り去ってしまっている。それは、「愛されたい」と口に出して言うことだ。「私だけを見ていて」、「他の女に目移りするなんて許せない」、本当のメンヘラはそんなことを言わないのである(恐らくこれはオタク達もよく分かっていないが故の誤謬だと思われるが、いわゆる「ヤンデレ」の方が近似概念である。メンヘラは「誰でもいい」のに対して、ヤンデレは「あなただけ」であることを求めるという点で異なっている)。このメンヘラ像の誤謬と見落としは何もるしあに限った話ではなく、多くのオタクコンテンツにおいて見られる現象である。

 そういった意味で、限りなくその描き分けに成功していたのは日本のゲームではなく私が最も愛するノベルゲーム『Doki Doki Literature Club!』である。以下ネタバレとなるのでやっていない人は注意してほしいが、「あなたのためなら私もこんな世界も、もういらない(I leave you be)」と最後に言ってゲームを終えるモニカと、ある世界線ではMCに「愛している、ずっと一緒にいよう」と言われて抱きしめられていながら死を選んだサヨリ(例えそれがモニカの仕組んだものであったとしても)の、どちらがよりリアルな「メンヘラ」と言えるだろうか?モニカは、Act3のJust Monika.世界線から分かるようにMCから発言権を全面的に奪った上で自分のものにしようとした。chrファイルがなければ江戸川乱歩の『芋虫』状態である。このように相手の全てを奪ってでも相手を自分のものにしたい(最終的にモニカはその間違いに気づいたが)という欲望は、メンヘラではなくヤンデレの心理状態そのものである。では、サヨリは?モニカによるプログラム操作というDDLCで最も重要なギミックをあえて捨象して考えるなら、サヨリは「誰かに必要とされたいが、誰かから必要とされると途端に自分の無価値さに気づいてしまう」というメンヘラに特有の心性を持っている。私はメンヘラたるものサヨリ推しなので(?)『Doki Doki Rainclouds!』もプレイしたが、MCに抱きしめられている時点でサヨリは世界を正常に把握できていない。下校中の喫茶店でオレンジジュースの味からMCとの思い出がフラッシュバックして人目もはばからず泣く(プルーストかよと若干笑ってしまったが)シーンは、フロイトに言わせるまでもなくメランコリーである。ちなみにだが、ユリはモニカと別方向でヤンデレの「気質が」ある(Act2の異常行動はモニカの介入がなければ説明できない。ただ、自傷行為に性的快感を覚えるというくだりは自己損壊という意味でややメンヘラっぽいとも言える)。

 メンヘラの「愛されたい」という欲望は、発露されることによって初めてその意義がある。るしあのメンヘラ芸が「芸」としてある種様式美になるかならないかギリギリのところで良い意味で「オモシロ」に昇華できているのは、「愛されたい」という無人称の欲望の発露がないがために生々しくなく、何度もコスることができているのだ。同じようにリスナーを捕まえてヤンデレ的にイジる戌神ころねは、ある意味ヤンデレの表現という意味でるしあより生々しい。しかし、ころねについてはるしあほど観れていないので(そもそもアーカイブを消化することが難しい)、コメントはこれ以上は差し控えておこう。では、生々しかろうがそうでなかろうが、何故「我々」はこれほどまでにメンヘラを愛するようになったのか?ある種の「愛着」と言ってもいいかもしれないが、ここでメンヘラを愛する我々オタク達は、精神分析のうちにヒントを求めるのもよいかもしれない。そう、転移である。

無意識が特殊な状況のもとで表れ、意識ある二つの主体を関係づけるということをフロイトは示し、主張した。そしてフロイトはその特殊な状況を転移状況と名づけた。この状況においては、ある主体が他の主体にみずからの無意識的な幻想のいくつかのかたちを意識しないままに投射するし、また逆の場合もある。(中略)さらに転移の関係は、たとえ存在するときでもかならずしも相互的ではない。かなり一方的な場合もある。(ルイ・アルチュセールフロイト博士の発見」 

  肝心なのは、転移というのはフロイト精神分析入門』27講で言われているように、キャビネにおいて分析主体と分析家の間で分析主体が自らの無意識を分析家に投射する現象が原義的な定義であるということだ。しかし、アルチュセールはこれを拡大解釈し、二つの主体の無意識的投射と定義し直している。(精神分析においてはアルチュセールの知見にやや疑問が残るものの)アルチュセール流転移概念に従えば、メンヘラという主体に惹かれるのは自らの無意識――つまりメンヘラに呼応する部分――の投射、己の内なるメンヘラが別のメンヘラに呼応関係を持っているということが明らかになる、とまでは言わないまでも示唆されている。「一方的」であればこそ、戯画的なメンヘラ像を示してくれる(ホロライブファンタジーの中では異色とも言える存在の)潤羽るしあにも惹かれる。私はメンヘラが確かに好きだし、メンヘラから被った被害も多々ある。それでもメンヘラに惹かれ、架空の存在にまでメンヘラ性を求めてしまうことに、ロマン主義的な言い訳をするべきではないと考えている。己の中にメンヘラを飼ったとき、あなたは既に「こちら側」に来ているのだ。