思考停止

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ミューザック評論の試みあるいは缶詰音楽の旨味:その1

 一人暮らしを始めると食生活が有意に荒れる。実家では料理の上手い母親が作る肉料理にホカホカの炊いたご飯、サラダには生ハムなんか入ってたりして、勿論味噌汁は赤味噌で、お腹いっぱい食えるわけだが、一人暮らしになると面倒なのでボウルにレトルトのポトフをぶち込んでチン、同じくレンジの飯をチンしたポトフの中に入れてかき込むとかそういうことになる。そして晩酌。実家では酒なんて飲まないが一人でいると音楽を聴きながら酒を飲むぐらいしか楽しいことがない。やきとり缶を開けて味の素と七味をドバドバかけたゴミのようなつまみで金麦を飲んでタバコを吸う。

 しかし、それではこれが惨めでまずい食事だろうか?私はそうは決して思わない。ANARCHY feat. KOHHの「Moonchild」でKOHHが蹴るバースに「お金持ちにカップラーメンのうまさ分からない 白いご飯に醤油かけて食べるのもうまい」とあるように、美食や金をかけた、手の込んだ食事だけをうまいと思う人生はある意味不幸である。缶詰に味の素をかけるような食事をうまいと思うこと、そのような感性を音楽に対して持っているかということを、これから私が紹介する音楽は問う。それが、「ミューザック Muzak」である。本記事は批評ではなく、評論なので私の美意識による価値判断が多分に含まれる。ミューザック自体が日本で未だ体系化されるに至っていないということは勿論あるし、作家性がないジャンルである以上作家主義的な差異づけというものがかなり困難であることも挙げられる。「その1」とあるように、この「ミューザック評論の試みあるいは缶詰音楽の旨味」はシリーズであり、手始めにMuzak Orchestraという団体(あるいはアーティスト?)のSpotify上にある10枚弱の音源について1枚ずつ、全ての盤について評論・吟味していくことが目論見となる。

 

・陳腐なロマンスに陶酔すること

 ミューザックとは1920年代に作られた、主にアメリカのスーパーで流すための「複製品」の音楽であり、粗製濫造が目的であるために全てが似たようなものになる。最近ではVaporwaveの潮流から「モールソフト」というジャンルでオーヴァーダブやイコライザー、エコーなどの加工をかけてズタズタに切り貼りしたものがごく一部で流行っている。とはいえ海外文献をあまりしっかり読み込んでおらず(海外文献でさえもあまりないが)、知識の浅い私がミューザックに関して言える客観的な情報はこの程度である。ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンド結成以前にミューザックを作曲する仕事をしていたというインタビューを読んだことはある。id:godsavequeen氏のブライアン・イーノとミューザックについて書かれた記事を参考にされたい。

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 さて、ミューザックの抗いがたい魅力とは何か。まず、スーパーで流れることを想定している=BGMを主体的に聴こうという我々の態度がおかしいしそれをアルバムにまとめる連中がいるというのも大分狂っているという前提を主張した上で、流血沙汰が起きる前の爛熟した、陳腐なロマンスの表象に陶酔する、あるいはその匂いを嗅ぎつける感性を持っているか否かでミューザックへの没入が可能かの如何が決まると言ってよい。例えば、デヴィッド・リンチブルー・ベルベット』の冒頭の白い柵、青い空、赤い花に陳腐なジャズ・ヴォーカルが重ねられるショットに得も言われぬ不穏さを感じ取るかどうか。あのシーンで既に心臓発作を起こす男が映されているが、そこにデニス・ホッパーの狂気を感じ取れるかどうか。あるいは意外な例かもしれないが、リンチ的な恐怖という意味で言うとAKB48の『ラブラドール・レトリバー』のミュージックビデオ。ボウルに犬のエサのシリアルを入れる間延びしたショットにタイトルバックが来るぎょっとする演出もさることながら、ナイアガラサウンドで歌い踊るアイドルの白飛び寸前のあまりにも明るい画面に甘美な死の匂いを感じたのなら、あなたはもうミューザックの入り口に立っている*1

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 ナット・キング・コールエラ・フィッツジェラルドの甘く蠱惑的なヴォーカルが音楽そのものとしてキッチュではなくポップであり、それ自体として美しい音楽であったのに対し、ミューザックはキッチュである。過剰な明晰さはときとして人を不安にさせる。陰影がなくのっぺりしている。ダイナミズムがない。引き伸ばされた陶酔で感覚がバカになる。人によってはうんざりだろう。しかし、ブロンや金パブのオーヴァードーズがデパスの強烈なそれよりも手軽でのっぺりした陶酔をもたらしてくれるが故に、デパスよりもブロンを大量に酒で流し込むことの方がよい(?)場合もあるのだ。「美は餌に過ぎない」とは指揮者のセルジュ・チェリビダッケの弁だが、ならば餌を大量に、たらふく食ってやろう。本質なき空虚で嘔吐寸前まで満腹になること、それがミューザックのアルバムを何回も聴きこむことである。

 

・その1:『Muzak Stimulus Progression 1974』

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 最初に紹介するのは私が勝手に「青盤」と呼んでいる『Muzak Stimulus Progression 1974』。何故「青盤」かというと、「Muzak」の後に「:」がついている以外タイトルに違いがなく収録曲が全く異なる黒いジャケットのものがあるためで、差別化するためにこう呼んでいる。こうした雑さも、またミューザックの一興である(これをややこしいと思ってディグをやめてしまう人はミューザックに向いていないだろう)。Muzak Orchestraの作品の中では最も特徴的で、ひっかかりやすいアルバムである。ソフトロック的な『Number One』辺りと比べると艶っぽくジャジーな色が強い。また、モールソフトの大名盤であるMall Music Muzakの『Mall of 1974』のサンプリングの元ネタでもあり、私はミューザックをVaporwaveの流れでこのアナログのYoutube音源から知った。これもid:godsavequeen氏が主題的に取り上げている。ちなみにInternet Archiveから全曲落とせるが、私はヴァイナルで買おうと思っている(金がない)。

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 Muzak Orchestraからのリリースが1970年代に集中していたり、またKmartシリーズ(と言っても伝わらないので、イリノイ州にあるKmartという大型スーパーで流れていた音源が何故か月単位で残っており、その300を超えるアーカイブのことを便宜的にKmartシリーズと呼んでいる)の名盤『Reel to Reel』が1973年だったりなど、70年代はMuzakにおいて傑作の森だったのだろう。ジャズ要素が強い、あるいは讃美歌などのアレンジといったスキモノにはたまらない要素が盛り込んであるのも70年代だ(90年代のKmartとかだと割とショボい打ち込みやシンセなどが入っていたりする)。という訳で、紹介していく。

 

1.Star Eyes

 名曲。と言ってしまえばそれまでなのだが、その一言で片づけてしまいたくなるほどに素晴らしい。劇的なストリングスの開始で一気に幻想の世界に連れ込まれ、安いシンセサイザーの多重録音がめまいを引き起こす。ホルンとトランペットのソロがこの曲の目玉となるが、特筆するべきはホルンの甘い音色だろう。私は元ホルン奏者なのだが、明晰で出音がスパーン!と鳴るいかにもアメリカな音色のトランペットに比べてこのホルンの艶やかで色っぽいハイノートはアメリカやドイツのそれではなく、イギリスのパックスマンあたりに近い印象を受ける(ホルンオタク語り)。過剰なルバートをかけないのも、またなんというかいやらしさがある。勿論、ブリッジでフルートとグロッケンを重ねるラヴェル的なんだかよく分からない絶妙に下手なオーケストレーションもたまらないポイントの一つだ。必聴。

 

2.Lady Blue

 陶酔的な「Star Eyes」から打って変わってバッキングのクラシックギターとワウをかけたエレキギターが軽快な一曲。ストリングスとギター、ホーンセクションの妙に気を取られるが、この曲で聴くべきは全くルートを弾いておらず別の旋律を弾いているエレキベースである。どことなくファンキーな印象もあり、はっきり言ってバッキングが退屈なミューザックにおいては珍しい曲でもある。ただ、電子楽器が結構元気な曲なのでミューザックの中では聴いていてやや耳が疲れる感じもする。ちなみにSpotifyのMuzak Orchestraの中では最も再生回数が多い。

 

3.Kate McShane

 軽快で能天気なホーンセクションとファンキーなバッキング、グロッケンのループが印象的な一曲。トロンボーンの朗々としたテーマの歌い上げの後にエモーショナルなストリングスが入って一気に曲が締めに入っていくのが唐突で面白い。『Mall Of 1974』に明確に引用されており、同作は「青盤」とKmart『Reel To Reel』の組み合わせ(サンプリング)によるものだと思われる。短い曲だが耳に残りやすく、山椒は小粒でピリリと辛いといったところか。

 

4.Vorale

 いわゆるKmart的(日本で言えば「ジャスコでかかってそうな曲」)な陳腐さと安っぽさが顕著。ホーンセクションのクソダサいブレイク、合いの手のピーキーなシンセの音、サビの流麗だが中身が無さすぎるストリングスなど、「Star Eyes」の深みのあるしっとりした味わいからかけ離れすぎていて「Kate McShane」よりもズッコケ感がすさまじい。誤解のないように書いておくと、私はめちゃくちゃ褒めている。聴きどころは二回目のブレイク前のギターソロだろうか。三連符で割ればカッコいいのかというとそういう訳でもないということを身をもって示している。こういう曲を聴くとミューザックとはどの程度真剣なのかが全く分からなくなってくる。

 

5.This is my country

 ベースがウッドベース的にルートを大人しく弾いているが、「Lady Blue」が異常なだけであってこのベースはミューザック的には普通である。イントロやブレイクでストリングスが入るが、大変失礼なのは承知の上で基本的にはカウント・ベイシー的なビッグバンドのビートとホーンセクションで展開していく。何気に聴き逃されがちなのがミューザックにおけるフルートの立ち回りで、グロッケンやストリングスの音の厚みを増すためにオーケストレーションされがちなので、よく聴くとフルートが重ねられていたりする。これはどちらかというとクラシックからの影響と言うべきだろうか。

 

6.Dance With Me~12.Tower of Strength

 ここまで1曲ずつレビューしてきたが、これ以降はある1曲を除いてほとんど変わり映えがしない。サルサボサノヴァのリズムを取り入れたジャズ・オーケストラ……と言えば聞こえはいいのだが、上にも書いたようにジャスコのBGMを1曲ずつレビューするという狂った営みをやっているわけで、ジャスコのBGMばかり聴いていたら頭がおかしくなる。しかしここがミューザックのミソで、人畜無害な音楽、あるいは美しい音楽であるかのように見せかけて根本的な不安をどこかで煽ってくるような、そういう音楽なのである。「これ以上聴いていたら頭がおかしくなる」と思わせるそれは、いわゆるカールマイヤー的なそれというよりも、ポケモンのシオンタウンのBGMにどこか近いかもしれない。同じ音楽が目の前で複製され続け、もはや何の曲を聴いているのかさえ分からないという……モールソフトは、その「不安」を作品の要素として還元した一ジャンルである。ガビガビのVHS録画の日本の昔のCMが不安をかき立てつつも美しいように。

 「Teach Me Tonight」は、その中でも「Star Eyes」と並んで、いや別次元でエロティックでしめやかな一曲だ。ゆったりしたスウィングのリズムに乗って、ギターのオクターブ奏法(二本のギターである可能性もある)はウェス・モンゴメリーのそれを思い起こさせる。イントロが終わると、最も官能的な楽器ことアルト・サキソフォンの旋律が顔を出してはシンセサイザーやギターの寄せては返す波の中に沈んで浮かんで、消えていく。これはジャスコではかからないだろう。過剰な明晰さの中に、秘められたものがある。その秘められたものは、どこか猥褻かもしれない。猥褻で卑猥なキッチュさ、それこそがミューザックの「密かな愉しみ」なのである。

 

・次回予告

 今回は『Muzak Stimulus Progression 1974』を紹介した。「:」の「黒盤」も勿論紹介していくつもりだが、次回はMuzak Orchestraのアルバムの中でも体系的な1977年のアルバム『Joy and Peace to You』を紹介したい。ミューザックにおける「クリスマス・オラトリオ」であり、1曲ずつというよりはアルバムの特性を腑分けして紹介することになるかもしれない。更新は一応2週間後を予定している。缶詰音楽の旨味、化学調味料をドカ食いすること、それを健康ではなく快楽のために摂取すること、これすなわちミューザックを聴きまくることの愉悦である。

*1:AKB48的なアイドルポップスの良い意味での陳腐さがそもそもミューザック的であるという言い方は可能ではある。裏付けがないが。