思考停止

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ノクチルとシーズについて:アイドルを観念論のおもちゃにしないためのエッセイ

 本文は、当初の構想段階では三部構成として「無軌道――ノクチル」の後に文章を統合する章が来るはずだった。が、僕の体力不足と、テーマ的に無理があるということで、それはナシにした。全ボツにするには割とおもしろいなと思っているので、載せておく。『OO ct.――ノー・カラット』と『天塵』のネタバレがあります。

 

 

「思弁と言語と世界が虚無になって直列している世界では、とりかえしということがついてしまってはならない。考えてみれば俺は人生のいろんな局面でこここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていた。ところがそんなことは全然なく、いまから考えるとあれらの地点は楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということがいま俺をこの状況に追い込んだ。つまりあれらが本当に引き返し不能の地点であれば俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。ということはこんなことをしないですんだということで、俺は今正義を行っているがこの正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない」

 熊太郎はそう言って刀を、生後四十日のはる江に突きたてた。

――町田康『告白』

 

・縊死――シーズ

 すべてははじまりである、とあるフランスの哲学者は言った。それはその通りで、序論なき結論もなければ、オープニングなきエンドロールもない。しかし、はじまりがあれば終わりがあるのかという問いについては、歴史はどうやら答えてくれないようだ。空の青さを「青い」と言うその日本語の三文字以上に、空の青さを「解析」することなどできるだろうか(別に「青い」は青についての解析でもなんでもないのであるが)。20世紀以降の人間は、「なぜ青と認識するか」「青を欲望すること」みたいにして、どうにかその内在性を突き止めようとしてきた。ところが、賽の河原よろしく、積み上げていけば積み上げていくほどにその対象との隔たりは絶望的になる。じゃあ、青いね、でいいじゃん、だったらどれほどよかっただろう。泥水を啜った後に見上げる青空の不気味で巨大な美しさの正体を、人は突き止めずにはいられない。いや、いられなかった。歴史がそうと言っているのだ。青い空がなぜ青く美しいのかということを問う問いは、世界に出口があるのかどうかを問う議論にも通ずるものがある。僕は、出口はあったりなかったりすると思う。正確には、出口は見えるだけなのだが、世界の認識として「出口があると思い込まないとやってられない」とか、「来たるべきものを待ち望みたい」という態度は、はっきり言って向こう岸が見えないプールで延々とクロールをするみたいなもので、あまりにも苦しい。ていうか、どうせ人生なんてゴミだし苦しいが、クロールしたあとにマラソンするとか、その後は滝に打たれるとか、そういう風に苦しみを切り替えていかないと縊れ死ぬ。そう、僕たちはまず、ノクチルとシーズという二つのユニットを扱うにあたって、世界の苦しさに縊れ死ぬ、ということを回避する手立てから「逆算して」出発しなければならない。

 6/30に発表されたシーズの初イベントシナリオ『OO.ct――ノー・カラット』は、最後まで読めば分かる通り、七草にちかと緋田美琴が別々の仕方で首を吊る話だった。ふと縄が下りてきて、気づいたら首を通していたということではない。にちかは最初から首が通っていて、目の前に時計があってゼロになった瞬間下に落ちる。美琴は縄が首にかかっている状態じゃないと生きた心地がせず、いつ足元が開いて落ちるか分からない。『ノー・カラット』は、舞台装置から来るメタファーの「奈落」(ちなみに、事務所によってはこれを「ドン底」と呼んだりする)から這い上がる話ではない。首を吊られた二人が、縊れ死ぬまでの話、見上げていた「奈落」の「上に」落ちるという話なのだ。

 いくつか印象深いシーンがあるが、二つのシーンに論点を絞ろう。

 一つはライブハウスのシーンだが、ここにおいて全てのことは起こるべくして起こる。にちかも美琴もそれぞれのシナリオのグロテスクさは後述するノクチルをはるかに凌いでいるが、ほぼ嫌味としか言えないにちかの調子に乗り方を、「ああ、よくいる調子に乗ったイタい普通の女子高生でしょ」で片づけることはできない――事実これを読んだ者がそのような結論に至るとは思えない。「シーズに、かんぱーい!」とはしゃぐにちかも、美琴が指導するダンスチームの輪の中に入れないにちかも(決してそれは疎外を意味しない)、そして、「もうこんなラッキーの時間は終わり」とするにちかも、等しく醜い。にちかの凡庸はシャニマスにおいてほとんど「悪」として表れる。そもそも、レコード屋の裏に嘘をついてプロデューサーを連れ込み、カメラで脅迫してデビューを迫るという手段を取っている時点でアイドルマスター的世界観が提示する「アイドル」像からしてみれば醜悪以外の何物でもない。それはにちか自身が自らのことを「踊れないし歌えないし使えない最低の」アイドルと言ってしまうことが何よりも示している。つまらない芸人ワナビーを軽蔑するにちか。仲良しアイドル――例えばノクチルは、果たして「仲良しアイドル」と言えるのかどうか――を嘲笑するにちか。「家族のアイドル」だったにちかが、「だった」と美琴の前で口にして、美琴に「そんな人と、私は組めない」と言われたとき、彼女の首にかかった縄はぎゅうと締まる。ライブハウスでは、まさしく、にちかに対する「死刑執行」が行われる。レッスンで明らかに「使えない奴」の烙印を自罰的に押され、浮かない顔(この「顔」もまた、醜いものとして表象されている)をしているにちかを励まそうとバイトの先輩が連れて行くクラブのデイイベントで、にちかは「シーズのメンバーだから」とちやほやされる。美琴の部分の台詞回しにしてもそうだが、ライブハウスにおける中身のない会話が、総体としてシーズそのものを描写する。そして調子の乗りぶりが頂点に達したにちかは、こう叫んでしまう――「シーズに、かんぱーい!」と。彼女の「ラッキーの時間」は居合わせた美琴に見られずに見られることで、終わる。死刑は執行される。にちかはいつも死にぞこないで、役立たずの愚図である。死にぞこないの歌としての「ホーム・スイート・ホーム」は感動的なカタルシスのはずなのに、二人が別々の台詞を言うエンディングを踏まえると何ももたらすものではない。しどけなく美琴にすがりつくルカのような気高さもなく、ただ二人がそのままそこにいるというだけの「上に落ちる」リフター=死刑装置が上昇、ないしは下降する。

 もう一つは、美琴のピアノである。メンデルスゾーンの無言歌作品38第5番が、美琴のテーマのごとく延々と鳴り渡る。「自動演奏」のメンデルスゾーンとにちかの下手な「ホーム・スイート・ホーム」がコマのドキュメンタリーと対比されているが、しかし果たして本当にそれは対立構造であるのか、つまりシナリオライティングの外で「美琴のピアノ」は意味を持ってしまっているのではないか?「メンデルスゾーンの無言歌」について、作中では何の解説もなかったが、メンデルスゾーンの無言歌は技巧的な作品ではないが「難しい」作品である。というのは、交響曲やオーケストラ作品、弦楽八重奏曲では優美で爽やか、であるが故にワーグナーをして「風景画」という揶揄を免れなかった。しかし、無言歌はメンデルスゾーンの内省的な部分を反映しており、単に音符を並べればよいという作品ではない。美琴は――カット画とともに――見事にメンデルスゾーンや「ホーム・スイート・ホーム」の連弾でにちかをアシストしてみせる(全く関係ないだろうが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を思い出した)。しかし、彼女はメンデルスゾーンチャイコフスキー(「四季」か?)を自動演奏のピアノ以上に弾けていなかったということが、メンデルスゾーンであるということにおいて示されているのである(重厚なシューマンブラームスは論外として、ショパンドビュッシーではないところが偶然なのか恣意的なのか測りかねるところである)。美琴は言う。「これ弾ける人、他にいっぱいいるよ」。「ミャオちゃん」に負けた美琴は、どのようにピアノを弾くのだろうか。楽理を学んでおり作曲も行い、ピアノを弾く美琴から見えるペンシルターンの中からの回転運動は、恐らく灰色だろう。青くない空が、美琴の目の前に広がっている。

 出口がない世界で、美琴は踊り続ける。

 出口がない世界で、にちかは踊り続ける。

 

・無軌道――ノクチル

 手に負えぬもの。怪物的なもの。いやあ、お前さっきの空の青さの話から何にも学んでないじゃん。べつにほっときゃいいの、そんなもの。雛菜に「しあわせ~?」って言われながら抱きつかれたり、円香に「あなたのことなんて、大嫌い」と言われたりして、二次創作のR-18絵でシコろうよ。冬優子のパンパンの太ももで窒息死したいのと同じようにさ。浅倉はかわいい。円香はかわいい。雛菜はかわいい。小糸もかわいい。かわいいものはかわいいんだよ。それが誰にとっても自明じゃないことぐらい、それは自明なんだから。

 はてさて、しかし、現実の酷薄さに引き戻されざるを得ない僕たちは、そのような態度決定を一元的にしていいものなのだろうか?いや、こう言い換えよう。虚構が現実よりも酷薄であることを忘れていないだろうか?と。現実の――唯物論的物質性と言えばよいだろうか――悪意は、神の意志を信じるか信じないかはイワシの頭なので置いておいて、とりあえずは偶然で決定されている。道に飛び出す子どもがトラックに突っ込む。男女の袖が触れ合う。まあ、そういう風にして、賽子の目は毎秒振り直される。しかし、それはある意味では良心的なのだ。胴元がいないギャンブルは誰が取るか分からないから面白い。物の次元がランダムに配置されることに不平等はない。しかし、虚構の現実、二次元ののっぺりした世界で「きみ」や「ぼく」に起こる「事故」は悪意だ。書き手という名の神は世界を作りたもうた、火の七日間はいつか「わざと」訪れる。ノクチルの四人が出会ったことが幸福でないこと。「プロデューサー」としてすべてを焼き尽す浅倉透を、浅倉に縋りつきながらも地獄でゲロを吐く円香を、なんでもできてなんでもできない雛菜を、もはや何を目標に頑張っているのか見失いかける小糸も、虚構という偶然の中で彼女らを見つめ続けるしかない。夜光虫の描く軌跡のように、それは無軌道で、残酷で、美しい。それを見つめてなお、ノクチルを「オタクのおもちゃ」として無批判に消費する*1ことに無条件の価値を見出してしまったら、先も見たようにファンタスムの中で縊死してしまうだろう。

 卓越したシナリオイベント『天塵』では、あらかじめ出目の決まった「偶然」で集まった四人のもつれあいが描かれる。長らくのこと僕は、浅倉透のことを言葉にしたいと思っていた。あまりにも残酷な完成度を誇る彼女のG.R.A.Dシナリオや、『天塵』でどこか遠巻きに描かれる浅倉透を、どのようにこういった論調で描き出せるだろうか。例えば、「アンプラグド」(メンデルスゾーンに触れたから触れておくと、「ハウ・ス→ン・イズ・ナウ」や「ハング・ザ・ノクチル!」はThe Smithのパロディである。まあ、浅倉がジョニー・マーだとかいうのは、飲み会の酒のアテにはなっても有力な議論にはならないのでしないが……)におけるリップシンク拒否を率先してやったのは浅倉である。あれを「ただの17歳の女の子の反抗」というにちか的な生意気さの発露であると捉える向きはさすがにないだろうが、印象的な当該シーンはアイドルオタクとしても色々思うものがある。リップシンク(口パク)文化の台頭はAKB48からとするのが一般的なアイドル史観であろうが、それならばハロー!プロジェクトの生歌主義が単なるヴィルトゥオジティであったのかと言われればそれもまた否であろう(このあたりの「アイドルとして生歌にこだわる理由とプライド」については一連のストレイライトイベントシナリオを参照のこと。ちなみに個人的にはストレイライトのモデルは曲調こそ違えどBuono!ではないかと思っている)。浅倉のリップシンク拒否は、AKB以降の「素人の偶像化」としてのアイドル像を拒否し、「ただの顔のいい素人」が真顔でヘタクソな踊りを踊っている、という「よく分からない事態」を引き起こしている点でノクチル以前のアイドル*2の特徴を浅倉透という存在そのものが戯画化している、と見る向きも可能であろう。無論、ここで重要となるのは「小糸だけが頑張って歌う」ということなのだが、浅倉のリップシンク拒否はシャニマスだけでなく「アイドルの歌」を問い直すという意味で重要である。

 もう一つは花火大会のシーン(チャプター「海」)におけるプロデューサーである。ボロボロの舞台セットで歌うノクチルを見て、プロデューサーは「なんか良いんだよな」と言う。実は、プロデューサーは、例えば月岡恋鐘に「ドジでも頑張ってる姿がいいんだ」、とか、黛冬優子の逆上に「その目を見て冬優子の良さが分かったよ」と言うように実はアイドルにその持ち味を明確に都度伝えているのだが、ノクチルに関しては仕事が取れなかったときも「なんか、良いんだよな……」と何も言っていない同然の「良い」を吐く。花火大会のノクチルは、画面で描写されることこそないが、生命力にあふれ、「アンプラグド」の様ではない形でステージを遂行する。きらめく画面のバックで「いつだって僕らは」が流れる中、プロデューサーは「なんか」、と言う。この「なんか」の正体を、僕たちは証明することができない。何故ならノクチルのステージは、「無軌道な現実」そのものだからだ。もちろん、このシナリオの演出そのものが客観的に美しいということを言っているのではない。人は、現実に打ちのめされたとき言葉を失う。注1でも書いたことだが、僕たちの生きている「現実」はそう単純ではなくて――当たり前にフロイトマルクスで説明できるものではなくて――ファンタスムと物質性がかち合ったり重なったり他の視角が参入してくることによって無軌道かつ不定形に僕たちの目の前に現れる。普段僕たちは色眼鏡をかけているから、外れたネジをドライバーでもとに戻したり、いない美少女を目の前に登場させたりできる。しかし、「なんか、良い/悪い」という現象が目の前に現れるとき、n番目の視野が入ってきて見てる世界が見ているままに留まらずに生のままで襲い掛かってくる。ノクチルのステージをもっとも「近い」位置で見ているはずのプロデューサーが言葉を失うのは、決してそれが美しかったからではない。無軌道な――生とは本来的に無軌道であるのだから――夜光虫が本当に目の前を通り過ぎて行った、ただそれだけなのである。

 

 救いがあるかどうかは人生において重要ではない。トリュフォーの『アメリカの夜』のように途中で人が死んだりセットが壊れたりしながら進んでいって最後は映画が完成する。シャニマスをやっていて事故でシーズン1とか2で育成失敗したりすると、大体のアイドルは自暴自棄になるか落ち込んでそのままになる。多くの人はそのようにしてリタイアし、「現実」に打ちのめされる。別にそれはそういうものだと思うし、僕は全員が救われればいいとは思っていない(僕も含めて)。ヘタクソな絵コンテのように人生は進むし、人生は物語であると言っている人も物語でないと言っている人も無責任で生きる気力を失っている。僕は黛冬優子が好きだし冬優子でオナニーするけど冬優子は僕の目の前には現れないし、『ノー・カラット』のはづきさんが「夢が終わっても、人生は続きますからね~」と言って七草家の貧困を語るリアリティを前にして二次元の女の子に救ってほしいという奴がいたらだいぶクルクルパーである(当たり前だが、現実を見ろと言って張り手を飛ばしているのではない。どのみち生きるのは厳しいという話だ)。

 学問でも音楽でも二次元でもなんでもいいが、別にお前を救うためにあるのではない。学問も音楽も二次元も、ただそこにあるからあるのである。

 

 ノクチルやシーズのすさまじさとは、美しさにあるのではなく、ただそこにあることである。

*1:ここで僕は「とおまど」や「ひなまど」、以下略を批判したいのではない。僕もそういう二次創作は全然いいと思っている。しかしここで僕が指摘したいのは、二次元還元主義や三次元還元主義の「あれか、これか」の二択のどちらかを選択しどちらかに耽溺することは怠慢であるとかではなく、極めて危険であるということである。還るべきは円香の胸の中でもなければミラーボール輝くピンサロのフラットシートの上でもなく、その二つあるいはより多くの視野の重なり合いがもたらすカレイドスコープである

*2:雑ではあるが、イルミネーションスターズ~アルストロメリアがあくまで二次元アイドルのリアリティを追求していった結果のパーソナリティなのに対して(もちろんそこには様々なアイドルイデオロギー流入しているわけだが)、ストレイライト以降はハロプロ、AKB/地下アイドル、K-POPと三次元アイドルの粘っこい雰囲気を描くことになっているのは20年代を前に生まれたアイドルコンテンツであるシャニマスの宿命とも言える