思考停止

映画、本、音楽、など

君の中に、君以上のものを

 やあ、きみはぼくが誰か分かるかな?そう、れんとぅむであり、ツァッキであり、早良香月であり、であり、であり、、、云々。まあ、誰でもない。本当のぼくなんて、ぼくにも分からない。だって、この20数年間、ぼくと思い込んでいたものが、ぼくじゃなかったのかもしれないと、2021年3月、5年いた大学を卒業をする段になって、その思いが確信に近づいているのだから。

 

 19歳の秋、パニック障害を発症。20歳の夏、躁鬱病を発症。22歳でADHDの診断、23歳の夏に精神病院に入院。障害者等級は3級。5年間の間、もしくはそれ以上、ぼくは自分の病気に振り回され、人を振り回し、疲弊し疲弊させ、自殺を図ったことも一度や二度ではない。それでもぼくの生きるよすがだったのは、文章を書くことだった。エッセイ、批評、小説、論文、色んな種類の文章を書いて書いて書きまくった。アイデアが次から次へと出てきた。ぼくは文章のプロになろうと決めた。それしかできなかったからだ。留年して就職活動もせず、流れるようにフリーター(半分無職)への道が決まった。将来への不安とか、成果を出さなければいけないという強迫観念とか、実家での父との確執とか、そういうものが頭でぐるぐるして不安感がこみあげてくる度に、ロラゼパムをガブ飲みし、寝る前に譫妄と言って幻覚が見えたり、要するに、こんな人生もうさっさとやめてしまいたい、と思っていた。

 

 どこから話すべきだろう?とりあえず、ここから先は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレを含むので、まだ観ていない人は留意してほしい。要はあの映画は、神経症者――パラノイアでありノイローゼ患者――が、権力と抑圧の対象である父(〈他者〉)を殺し、成熟していくことを優しく肯定する映画だ。無論、その神経症者の症状である『Air/まごころを、君に』を経由していなければ、「分析」「治療」=「成熟」のプロセスを辿ることはできない。ぼくは、『エヴァ』を初めて観た15歳のときから、「わかってほしい」「認めてほしい」「愛されたい」のノイローゼ患者だった。20のときに精神分析のキャビネに通っていたこともある。ずっとずっとずっとずっと、「誰か」の存在に飢え、確執があった父に認めてほしくて、もがいて、結果的に精神を壊した(この言い方が適切か分からないが)。碇シンジは、そのままぼくの引き写しのように見えた。新劇場版でも、『Q』の碇シンジは退行しているように見えた。いや、というより、式波・アスカが「バカ」から「ガキ」と言っているように、シンジは「父親に認められたい」という形で成熟を拒否する=ノイローゼに留まることをよしとしている(?)のだ。

 ぼくの話に移ろう。ぼくは、『シン』を観たとき、ちょうど投薬によって発達障害が軽減されてきたタイミングもあるだろうが(正直これはなんなのかよく分からない)、頭の中のモヤモヤがスカッと一気に晴れて、胸のつっかえがストンとなくなって、月並みでバカみたいな言葉で恐縮だがものすごくスカッとした。そして、「大人になるって、病気を治すって、すごく難しいことのように思えたけど、こんなに簡単に終わっちゃうのか」と思った。ぐちゃぐちゃだった部屋とリュックと冷蔵庫と財布の中身をいるもの以外全部捨て、掃除をして、枕カバーとかけ布団カバーを洗濯して、洗い物を溜めることもなくなり、バイトもなんでこれができなかったんだろうということがデカルト流に言えば「明晰判明に」できるようになった。新しいバイトを始めて一回の研修でほとんどの業務内容を覚えた(大したバイトじゃないが)。正直、ぼくが前思っていた「ぼく」とあまりにも違い過ぎて、これは果たして「ぼく」なのだろうか、という気さえする。卒業論文で主体のイデオロギーにおける同一性の研究をやっていた身からすると、やはりイデオロギー的主体を定立するに当たってアルチュセール精神分析を導入する必然性が確かにあったのだなあと今になって得心が行っている。やっててよかったね、哲学。

 

 ラストだ。これからの話をしよう。これは不確実な話だし、人間万事塞翁が馬、ここから先何が起こるか分からない。1日後にはひっくり返してるかもしれないし、20年後に再開してるかもしれないし、死ぬまでかもしれない。頭のモヤモヤとか鬱屈した感情とか、なんかそういうマイナスの情念みたいなものが吹っ飛んでいったら、書きたいものがなくなったというか、何も書けなくなってしまった。リハビリというかケアとしての書くことが必要なくなって、認められるための書くという行為についても承認がどうでもいいのでモチベがない。今後プロの文筆業は目指さないだろうし、趣味でぽつぽつ書くことはするだろうけれども、まあ、適当にやります。少しさみしいけれど。

 これは名著なので是非諸賢には読んで欲しいのだけど、大学の先輩の片岡一竹『疾風怒涛精神分析入門』の末尾に精神分析の最終的な目標とは「特異的な幸福」を見つけ出すための「倫理的」なケアのプロセスであると書いてあった。ぼくは分析を中断したり無意識に続行したりして、ひとまずの「治療」を終了した。しかし、分析に終わりはない。主体の変容、つまり「ぼく」がいい意味で「ぼく」だけの存在になることがないように、その都度主体=精神の分析というものは続いていくからだ。

 

 こんな書くつもりじゃなかったが、まあいいだろう。ぼくの中に、ぼくを越える何か――越え出ていく――があるということは、希望、すごくすごく強い希望であり、変わっていく「ぼく」を肯定し認めてあげることだ。ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』の最後の章の題名は、以下の通りである。祈りは届く。願いは叶う。信じ続けることが、かけがえのない人間という生き物の美しさであるとぼくは確信して、ひとまず筆を措こう。

 

 君の中に、君以上のものを En toi plus que toi.