思考停止

映画、本、音楽、など

女の頭に金属バット――Vtuberとリアリティショーの倫理、射精するオタク

 昨今、トレンディでTwitterをコロナ騒動をさておいて賑やかにさせた「テラスハウス」、並びに「リアリティショー」とSNSの問題を、僕などは「こんなもんヤコペッティの時代だったらなんでもなかっただろうが、あれはそういうもんでもないし、モキュメンタリー的表象を存外素朴に受け取ってしまう人たちが可視化されただけだなあ」程度に思っていた。僕は大昔にアダルトビデオの中で、虚構と現実のあわいがセックスシーン以外において強度を獲得してしまう事態がX監督、希志あいの主演『スキャンダル』(2015年、アイデアポケット)において生起しているが、そこで起こっている事態が虚構か現実なのかははっきり言ってどうでもよく、その「曖昧な虚構」が非常に審美的であるという文章を書いたことがある。というかアダルトビデオ自体がそういった曖昧さと厳密な意味でのドキュメンタリズムに裏打ちされていることについては映画学者の加藤幹郎も指摘している通りである(『日本映画論~』所収)し、その背景には日活ロマンポルノの戯画的なカラミのシーンから露悪的なリアリズム*1へと性表象自体が、それこそ「リアリティショー」的に審美的な感性を失っていったことと同義である。僕が「リアリティショー」において最も問題であるのは――ここでもっぱら問題にしているのはそのショー自体が観客の衆愚性によって成り立っている点であるが――観察者と実験体という、本来であればショーを見る側のテレビの前にいる我々が「観察者」としてシンプルな二項対立に落とし込むべきところを、「実験体」を見る「観察者」を代弁する存在(「テラスハウス」においては山里亮太やYOUがその位置を占めていると記憶している。「バチェラー」でも同様の構図があったと思われる)を我々の「メタにベタな」観察者としての性質をSNSという(イデオロギー的な)メディアが担保、ないし絶えず自己規定を繰り返すという構図によって現代的な意味での「リアリティショー」が孕む根源的な悪性を指摘することはできる。斎藤環が今回の件に関して言うような*2コロッセオにおける見世物のアレゴリーは現代的「リアリティショー」が根本的に含む衆愚の悪性とその可視化という点においてニアリーイコールであっても(鏡像的に)等価ではない。つまり、今回明らかになったことはこういうことだ。大衆は、「似非」リアリズム的表象の前において、みんなバカで救いようがないほど非倫理的である、と。

 

・今回の問題でVtuber(あるいは月ノ美兎の功罪)を巡る仮構されたリアリズム

 また前置きが長くなってしまった。僕はテラスハウスやバチェラーをまともに見たことはない(テラハは大学1年生のとき陽キャ集団に混じって見させられたが、その数日後に彼らとお茶を飲むことも飯を食うこともなくゴダールを観ている自分に悦に入っており、結果的に悦に入ってゴダールを観ていた僕が倫理的には正しいと後から正当性を持つわけだが、多分当時においては僕はただのイタいオタクだった)。何の話をしたいのか、そして僕は何に上の序文で書いたようなオタク早口で訳も分からずキレ散らかしているのかというと、僕の愛するコンテンツであるVtuberに対する言及において、例のテラハ事件から、Vオタクの態度を改めなければならないのではないか、リアリティショーと化したVtuberは衰退の一途を辿っている(リアリティショーとは全く関係ないが、Vtuberが「オワコン」なのはまさにそうで、後始末がもうすぐ来るかもう少ししたら来るかでしかないだろう)、そして何より、「バカな女を嘲笑ってコンテンツ化する」ような『ヘキサゴン』的な倫理観のなさの蔓延が……という意見を目にするようになったからだ。これは「正しい」のか、という自己欺瞞が反復されることなく、エラい美術学者の先生が「無料のものなんて悪質なので、お金を払いましょう」などとのたまう始末。たまたまTLに流れてきたが、以下の記事が「我々オタクはリアリティショー的な露悪趣味の倫理観を捨て、Vtuberなんかもうやめよう、これは彼/彼女らのためなんだ」的意見が読みやすくまとまっている。すごい雑な要約をしてしまったが、議論の飛躍はなく精密で、文脈を押さえた良い文章だと思う。

「リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん」

https://not-miso-inside.netlify.app/blog/better-stop-watching-vtuber/

 まずこのブログがとてもいいのは、Vtuberのオタクが一斉に「コケた」メルクマールが確実にある(これは『バーチャルさんはみている』というアニメを指す。ある程度のVtuberオタクであればこのアニメの名前が出てきた時点で察しがつく)と措定した後、記事の題名にある「リアリティショーを批判するオタクだってVtuber観てるじゃん」という人格の変容とショーの問題に我々のようなオタクが「観察者」として関わっていると指摘し、そのような非倫理によってショーが再生産され続けるととてもむごいことになるし、現状はむなしいものだ、と結論づける。運びとしては非常に鮮やかであり、彼の指摘は「虚構と現実を軽やかに行き来できる、ショーで承認欲求を満たさないようなVtuberには可能性があるが、それ以外に関してはもう後始末をするときが来たのではないか。その幕引きは、我々オタクの良心と倫理と知性にかかっている(が、オタクは基本バカ)」というものに見える。電脳少女シロやアイドル部に入れ込んだと思われる書き手の以下の段落は、愛するコンテンツに対してハードコアに絶望したくないからこその断末魔のように見える。

顧客が本当に求めていたものはなんだったのか? と私は考える。アニメから出てきたYouTuberだったのだろうか? 変なことを言って楽しませてくれる電脳世界のキャラだったのか? 最先端の技術と結びついた、リアルタイム3D技術だったのか? それとも、人-キャラ-設定の三つ組みが相互作用しながら発展していく、哲学的に深遠なところのある娯楽だったのか? それとも? それともなんだったのか?

  この叫びは悲痛だ。少なくとも僕にはそう見える。僕は2人のVtuberについて、一方ではこのブログに載せた御伽原江良のアンチ・ナンバユウキ、アンチ・ユリイカ的な批評や、一方で別のnoteには轟京子についてのある意味ベタベタなキャラクター読解*3を書いたりなど、彼の言うところで言えば「哲学的に深遠なところのある娯楽」として無邪気にVtuberを楽しんでいた。そして、多分そうではなくなってきていることは僕にだって分かっている。つらいところではある。では、Vtuberとはなんだったのか。

 そもそも、「キャラクター」とかいう概念は、Vに限らずアニメやアイドルにおいても存在しているし、件のナンバ論文はそこをキャラクタ・ペルソナ・パーソンと単純に図式化してしまっていたのだが、僕はそのあたりが癒着してどこからどこまで、と言えないのが「危うさ」であり魅力だとは御伽原江良のファンをやっていたときから思っていた。綾波レイは<母>であり『エヴァンゲリオン』はファルスの去勢?『まどマギ』『ピンドラ』も宗教思想やら精神分析やらの批評が横行していた。僕は日常系アニメが大好きで、『ゆゆ式』については「日常系アニメのノリが分からない」という知人に「いや、『ゆゆ式』は終わりなき日常の肯定でありつつ、5話でゆずこが現存在の死の固有な可能性に言及していたりしていますよ」*4などというアホ丸出しの寝言を言っていたこともある。もっと生臭い話をしよう。僕は生身のアイドルのオタクをなんやかんや10年ぐらいダラダラと続けていて今はK-POPに関心があるが、2011~2年は『アイドル領域』や『ソシゴト』などの同人誌に、哲学や社会学、宗教思想に関心のある気鋭のインテリ――概ね修士以上の研究者か駆け出しの批評家だった――が大喜びでAKB48論やももクロ論を書き、文フリのポップには宇野常寛や濱野智志といった批評家がコメントを寄せていた(今思うと下手にそっちに手を出さなかった東浩紀は興味があったにせよなかったにせよよかったのかも……と書いていて思ったが、彼はエロゲーに詳しかったのだった)。中学生ながらそっち界隈に知り合いの多かった僕はアイドル批評の同人誌を割引で買い、楽しく読んでいた。今ではその辺出身で商業ベースでアイドル批評を生業にしている人も知っている*5

 何が言いたいのかというと、声優を前提としているアニメなどでさえもが、文脈や発言、見た目など、その他もろもろによってときに全く無意識な形で、「キャラクター=テキスト」として立ち現れ、「読解」や「解釈」、「批評」の対象となってきたことを(主に「オタク文化サブカルチャー」において)否定はさせない。そういう文献が山ほどあるのだし、そしてこれはVtuber論を一円の利益もないにも関わらず何万字とか書いてきて、勿論アイドル批評というものも書いてきて最近強く感じていることがある。「もしかして、僕は、全くの白紙、あるいはヴォイニッチ手稿のような読解不能なものへの認識を捻じ曲げることによって、全く別の文脈を引き入れて「読解」ではなく「創作」をやっていたのではないか……?」と。というか、これは事実である。自己弁護をすると、スノッブゼロ年代オタクの「フーコードゥルーズの語彙で深夜アニメを解説する」的なクリシェはずっと前からあるわけで、僕はいくらかマシ(と思いたい)ではあるものの、そういうオタク文化のオーセンティックな部分を悪い意味で継いでいる。そして段落を変えないまま具体的なVtuberの話をすることにする。にじさんじに所属し、またブランドの象徴的存在でもある月ノ美兎は上のブログ記事にも登場するし、『バチャみて』でもにじさんじからの唯一の出演(これは名誉ではない)ということで引き合いに出されるが、彼女は初期の「ムカデ人間」発言や「みとらじ」の気の利いた発言で一躍エースに躍り出るものの、セルフプロデュースが上手いというより「なんとなく面白い、頭の回転が速くて喋りがうまい、古いインターネットの人」止まりだった。しかし、彼女が精神分析やらなんやらのキャラクター解釈のスノッブな元ネタを知っているとは思えないが、恐らく本人が「インターネット」の持つ時代区分や、知的オタク層にウケのいいネタ*6に興味があったりして、エピソードトーク(ダッチワイフ風俗、クリオネ食、競馬など。当たり前だが、メタ演出以上に上の書き手で言えば「エゴの切り売り」がウケることの証明になってしまい、悪い意味での彼女のリアリズムが非倫理的な見世物としての「リアリティショー」的Vtuberの振る舞いを基礎づけた面がある)なども含め、配信型Vtuberのある種のフォーマットの決定は彼女が行って「しまった」と言ってもいい。もう分かるか。Vtuberというコンテンツがあらかじめリアリティショー的衆愚だったのではない。「配信型Vtuberのリアリティショー化は、要領の良い人が行った結果真似するバカが量産されて、配信者もオタクもバカは死んでいく。そしてバカが支えるコンテンツでバカが死に、コンテンツが死ぬ」のだ。そういった意味で、「四天王」や初期アイドル部、「Ctuber」前のゲーム部プロジェクトにおいて生じていたが見えづらくなっていた、Youtubeというプラットフォーム上自然発生する衆愚的な面、あるいはコンテンツの提供者と消費者間の関与可能性と微妙な軋轢を可視化したのは、上の書き手が言うようににじさんじ~ときのそら以降のホロライブといった生配信Vtuberの方法論のフォーマット化のある種の「失敗」――インターネット的露悪を意図的に巻き込める存在がスタンダードになってしまったという意味で――だったという指摘は可能であり、なので上の記事の主張と僕の主張はそんなにずれていないはずだ。元々、キャラクターは空洞で何もない(ウゲーという言葉を使うと、シニフィアンでしかない)。意味付けできるのは「ペルソナ」、つまり虚構と中の人の距離感によって生じるフワッとした人格である。「四天王」的キャラクターへのベタベタな癒着のカウンターに、月ノ美兎という奇妙なペルソナがいたことはVtuberにとって、本当に幸福なことだったのだろうか。だからVtuberとは何か?という上の問いには、こう答えよう。そして次のセグメントに接続する。コンテンツ、商品、消費の対象、「かわいい」表象のゼロ、そしてオタクのオカズだ、と。

 

・全部一回忘れてもろて

 上の記事で、書き手は今のVtuber界はむなしい、文化の成熟だろうが、市場の拡大だろうが、それでもやっぱりむごすぎないか、と言っている。変な言葉遣いだが、お気持ちも論理も文脈も、よーく分かる。シロちゃんとアイドル部好きだったらやっぱり毎週ガリベンガーを観たりしていただろうし*7、バチャみてで苦痛を感じたりするのも分かる。ケリンの地上波のザマは僕も思い出したくない。ただ、だ。「むごくないか」、と彼は言う。最後に、「倫理的なものにお金を出そう」と。以下の引用は、「リアリティショー」が露悪的で非倫理的な概念であるという前提があると思われる。

視聴者は過激なものを求め続ける。女性同士が話し合ったらやれレズビアンだ米を炊け金をまけと大騒ぎする。オフコラボでもしようものなら、性交の隠喩や、もっとどぎつい修飾語が飛んでくる。対人関係は戯画化され続ける。それも、あなたの現実世界の対人関係がだ。あなたがうっかり話したバイト先の先輩はレズビアンにされ、あなたと毎晩、黒光りする双頭ディルドでハメ合っていることにされる。あなたを守るキャラクターの壁はない。顔だけが美しくなったおまえが、インターネットの祭壇にあげられる。おまえの日常は、おまえが話すほど、徹底的におもちゃにされる。それに耐えられるだろうか? そして、これと『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?

もし、ここには善意があるから大丈夫だ、というなら、それは間違えている。視聴者は暗に陽にキャラクターを勝手にインポーズして、再解釈して、生身の人間に押しつける。「デビューから一年たってついに同期のことを呼び捨てになるのが尊いんだよな」。「XXに告白され限界オタクになってしまうYYYの絵です」。1000人以上の人から、週三回、「エッチだ……」とリアルタイムで言われて、精神的に健全でいられるというなら、あなたはおそらくすでに狂っている。

  「『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?」――この発言が、書き手に則って言うのであれば、倫理的に妥当である場合は一つしかない。アニメキャラ、アイドル、声優、なんでもいい、その類のものに関して、一度たりとも対象となる存在の尊厳を侮辱、蹂躙することによって快楽を覚えたことがない、つまり本来的な意味で男根主義ミソジニーを持った「オタク」でない場合のみ、倫理的に妥当である。彼は「バイト先の先輩と双頭ディルドでハメ合い」、「日常が徹底的におもちゃにされる」場合の「おまえ」に呼びかけている。それは、どこの誰に対して言っているのか、正直全く分からない。何故か。女性キャラクターの男性オタクに必要な素質は、女性に対する想像力の一部あるいは完全なる欠落によるものだからだ。というか、僕は男のオタクなのでこう書いてしまったが、女オタクについても同じことが言える。つまり、先ほど上でも書いたし、僕がかつて異常な熱量でハマっていたTWICEの推しであるパク・ジヒョでオナニーするかどうかにおいては、「リアリティショーは残酷である」と発言可能な倫理と「ジヒョでオナニーする」ことが正当化できる倫理というものが別の論理で同時に成り立つかどうか、という話をかつてこのブログでしたことがある。結論から言えばそんな二つの倫理は二律背反を起こすに決まっているので、どちらの生き方を選ぶかなのだが、僕は「ジヒョでオナニーする」(アイドルでシコる)と、言わなければ生きられない生を生きているのだという形でその倫理を背負っている。

 だから、この書き手は「正常な人間ならすべてがコンテンツ化しショーになるような状況に追い込むのは非人間的であり、その観点から見てVtuberは悪質なリアリティショーである」と主張するとき、僕はそこに書き手の中に欺瞞が存在していないかと考えてしまうし、そもそもニコ生、あるいは中堅Youtuberとしてのマネタイズ(もっとも、ニコ生の収益還元率から「生主」で生計は立てられないが)においてセミプロからの引き抜き、そして美少女/美少年のガワがくっついている(例外はある)「配信型Vtuber」の消費のされ方、「てえてえ」「ホモ営業」「えっち」「センシティブ」を求めるオタクのあり方について、色々と問題系がごっちゃになってしまっていて収拾がついていない。もし書き手の中にアニメキャラやアイドルを巡って、性的なものでなくても、なんらかの形で欲望を抱いてしまったとするならば、僕はその欲望を肯定する倫理があると思っている。よく最近男オタクのミソジニーや、ポリコレがTwitterで散見され、こっちにもヤキが回ってきたかという気分ではある。が、オタク各位は、社会的尊厳、視線、そういったものから「キモい」とレッテルを貼られ続け、それを僕はキモくない!と言ったところで完全に無駄であることを知っているはずだ。その「キモい」というレッテルは、コンプレックスによる他者への想像力の欠如から来ているオタク自身がよく知っているからこそ、剥がしたり正当化できない。部屋の隅で好きなキャラクターでオナニーするオタクは、キャラクターを蹂躙し、独占している。無論、これは人として正しいかと聞かれたら、全く正しくない。だが、「顔に袋をかぶせて女を犯した」りするような表象や、「馬鹿な女を嘲笑す」る、本当に一般的な倫理においては甚だしく逸脱しているようなむごい表象について、正しいだの正しくないだのという話でも、正当化でもなく、そういう表現について一定の価値判断(「抜ける」でも「醜い」でもいい)を下すことのできる審級にいる人々は、オタクと呼ばれる人々である。そして、リアリティショーの倫理云々以前に、キャラクターという空洞に欲情し、その空洞を蹂躙できる――『闇金ウシジマくん』の、「人の頭に躊躇なく金属バットをフルスイングできる人間」がどれほどいるかというように――かどうかで、倫理の此岸/彼岸は決まる。そして彼岸に行ってしまったら、もう戻ってこれないことを、僕はよく分かっているつもりである。

 

・自分語りと、今のVtuberシーンで僕は何に絶望しているかというオマケ

 僕はVtuberのオタクになってしばらく経つ。輝夜月のおっぱいでシコり、血眼でiwaraをディグってキズナアイのエロMMDを観ながら「ダンスのシーンいる……?」などと思っていたので、比較的初期から追ってはいて(エロ目線で)、そのうちにじさんじが出てきて、本格的にハマったのは2019年の始まりぐらいに月ノ美兎のまとめ動画とか鈴鹿詩子のネコトモ配信を追い出してからだったと思う。なので、ユリイカバーチャルYoutuber特集とかは後追いで読んだ。御伽原江良にガチ恋して原稿用紙10枚の手紙を送ったり、OTNから轟京子にハマって誕生日メッセージを書いたりした(デビュー2周年のメッセージはサボってしまったが……)。両国は行けなかったけど幕張で椎名と一緒に動き回るチャイカの3Dに普通に感動した。ホロライブにもハマってからは宝鐘マリンをよく見ている。寝るときは周防パトラのASMRを聴きながらじゃないと眠れない。特ににじさんじにはめちゃくちゃ思い入れがある。去年の僕は諸事情で留年が決まって卒論の文献も読む気がせずかといって専門書以外の小説とかも読めず、映画も観てないし音楽も聴いてない、僕の好きなTWICEはメンバーの1人が精神的な不調で休んでいたので、マジでVtuberしか観てなかった。それで書いたのが御伽原江良論で、派生的にTWICEの文章などをブログに書き散らかしていたら、今僕の人生は去年の今頃からは考えられないぐらい私生活や文筆に影響が出ているのはVtuberのおかげだと思う。マジで。コロナの自粛生活もVtuberを知らなかったらかなりキツかった。だから、このVtuberシーンの現状を、認めたくはない。

  つまり何が言いたいのかというと、このシーンには理念がない。同じようなゲーム配信と同じような雑談配信が「好き勝手やっていい」の名のもとに複製され続け、それでもバカなオタクは金を落とし、商売のシステムがつまらない形で再生産され続ける。で、別にこのことは全然いいと思っている。そもそもオタク文化を含むポップネスは大量生産であり、その結果似たようなものの差異を選び取ることが基本的なキャラクター商売だ。しかし、理念が何によって生まれるかというと、ちょっと前の僕は批評にあると思っていた。10年近くアイドルやアニメ、Vtuberのオタクをやってきた。その過程で、中学時代はアマプロ問わずアイドル批評を読み漁って思想家や哲学者を知り、高校時代は人文思想にどっぷり浸かりながらTwitterで知り合ったインテリのアイドルオタク達と居酒屋(僕はコーラを飲んでいたが)で、かたやルーマンやゴッフマン、かたやハイデガー、かたやウィトゲンシュタインなどの話で各々のこじつけアイドル理論を熱弁していた(当時は乃木坂46にみんなハマっていた)。結果的に僕は文学部で哲学を専攻して同人に参加し批評を書いている。つまり、「オタク文化にこじつけて人文に興味を持ったら人文が専門になったオタク」が僕であり、そしてそういうオタクの絶対数は決して少なくないはずだ。僕もこの10年でときに拙く、徐々にテクニックを身につけながら、女性キャラクターについていっぱしの「批評」をかませるようにはなった。なったら分かったのだが、これは、マジで何にもならない。上で、僕は「女性キャラクターなぞ蹂躙してシコるものだ」などというすごい暴論をぶっている。キモいオタクがいきなりナイーブになる方がよっぽどキモい。だが、そのメンタリティのオタクはこんな文章など読まない。分かりきっているからだ。僕がシャニマスの黛冬優子で射精しまくりながらこのような文章を書いている間、オタクは意に介さずチンポをしごく。文章など書かない。オタクは倫理を持たざる衆愚であることは知っているし、そして僕もそのうちの一人だ。オタクにも響かなければ、批評対象になんらかの影響をもたらすこともない。それは、「アイドル批評」全盛期に、知性と言説でポップカルチャーをアップデートしよう!という動きに目をキラキラさせて乗っかっていた少年時代の僕と、その後の「アイドル批評」の体たらくを間近で見てきて、疲弊しているというのもある。くたびれた全共闘時代のオッサンと大して精神性は変わらない。AKBはガラパゴス化してスキャンダルはほぼ無意味化し、地下アイドルの対バンはホモソーシャルを強め、批評的と言われていたももクロイデオロギーの解体すらなくよく分かんなくなっている。言説によるアップデートなどが可能なのかという問いに、僕はVtuberに限らずポジティブな答えを与えられなくなっている。

 「Vtuberのリアリティショー的批判」の正当化は、倫理の問題ではなくインタラクティブの醜悪さにある。美意識と理念がないことが問題なのだ。「後始末」を見据えつつ、撤退戦をしながら、審美的なインタラクティブの可能性を模索し続けることは、Vtuberというコンテンツにおいて不可能ではないと信じている。今のところは、「彼岸」のVtuberオタクとして、その可能性にすがりつくよりはない。倫理ではなく、美意識、金、人の数が、結局コンテンツを動かすのである。

*1:露悪的なリアリズムという言葉遣い自体の意図としては、例えばフローベール的なそれではなく、どちらかというと映画史における古典ハリウッドからネオ・レアリズモへと至る「もっともらしさ」(=現実との整合性)ではなく、表象それ自体が持つ現実とは別次元の説得力、という意味合いで使っている。露悪的な、という言葉遣いは表象の説得力が一般的な倫理観から外れている程度の意味合いで、ここで問題になっているのは表象だということに注意してほしい

*2:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72994

*3:https://note.com/anusexmachina/n/nc3bc30b89129

*4:『キルミーベイベー』もめちゃくちゃ好きだが、あれは割とアニメ自体が脱文脈的だったのでそういう物言いを作品自体が拒否していたような感覚がある。他のきららアニメに関しては普通に消費してた

*5:この辺の界隈の話をするとマジで生臭いし今でも関わってる人がいるのでやめておくが、何故かクラシック音楽評論のプロの人たちとコネがあったりして、「アイドル批評」があえて雑な物言いをすれば「サブカル」しぐさであるかのように見せかけてインテリのハイカルチャー業界が癒着していたという事例がままあるなど、10年代初頭はその辺が曖昧で、僕は振り返ってもこの現象がダメだったとはあまり思っていない。特にお世話になった方はアマチュア「アイドル批評」に身を沈めて音信不通になってしまったという心が痛むこともあった。多分よくある話だと思う

*6:百物語の「中の人」をいじるメタ演出など。あれは月ノ美兎の想定通りnoteのVtuberタグが月ノ美兎一色になり各々の批評もどきを嬉々としてオタクが量産していたが、あまりにもメタがベタだったので、恐らく意図して自らを「テキスト化」できるほどの能力が本人になかったし、また視聴者のオタクにもなかった。何よりどこかで指摘されていたが、メタのネタが売りだった月ノ美兎が中の人とガワの単純な二項対立に自分のアイデンティティを還元するのはあまりにも凡庸なのではないかという部分があり、プラットフォームの劇場化については同じブランドであれば雨森小夜が抜きんでているのでは……など。この辺りはnoteの「Virtual Life」というマガジンに有象無象が載っている

*7:ちなみにYoutube板のヲチが日課だった僕はガリベンガーに月ノ美兎や本間ひまわりが出演したときドル部とにじさんじアンチスレを交互に見てお互いのオタクが双方のVtuberをボコボコに叩くのを見て爆笑していた