思考停止

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「巨乳」のイマジネール――オタクの欲望の貧困

・「みんな巨乳が好き」か?

 オタクの男で、巨乳が好きではない場合があるとしたら――これは意外と語られてこなかった問いである。男はみんな巨乳が好き。老いも若きも揃って巨乳巨乳の大合唱。もちろん、「いや、俺は貧乳が好きだ。貧乳はステータスだ」と『SHUFFLE!』を引用してノンを突きつける男もいるにはいるだろう。しかし、欲望の最大公約数として「巨乳」という値が存在するということ、この事実をまずは受け止めるべきなのである。シャニマスの月岡恋鐘が大学の教室の隣に座っていたとして、胸元を見ない自信があると言って本当に見ない男が果たしてどれほどいるのか、はなはだ疑わしい。どんな偉大な哲学者や詩人だって、巨乳が好きだったはずなのだ。無論巨乳ならばなんでもよいという訳ではない。葛城ミサトが好きな人もいれば篠ノ之箒が好きという人もいるであろう。「幼馴染」「お姉さん」「ロリ」「ツンデレ」、これに「巨乳」が加わる事によって最強になるのだ。

 だが、ここで待ったをかけるのがこの論考の主な目的である。巨乳が好きであるということはただのネオテニー幼形成熟)であって、みんな15年前なら「〇〇は俺の嫁」だったのが「ママ」になり、男性性をもって女性を消費することにオタクは疲れてしまったのだろう。「養ってあげたい」という態度は確かに傲慢かもしれないが、家父長的男らしさのロジックとしてはそれなりに整合性が取れている。対して、「ママ」、「養われたい」という欲望は、よく言えば素直になったということであり、悪く言えば欲望が貧しくなったのである。つまり、我々は「巨乳の『ママ』」しか欲望できなくなった。養ってくれて、無条件に肯定してくれて、甘やかしてくれて、胸がめちゃめちゃデカいママ。そんなママを欲望することは確かに素直だ。だって、誰だって働きたくないし、認めてほしいし、癒されたい。「あなたが一番大切だよ」って誰かに言ってもらいたい。でも、「長門俺の嫁」と言い切った方が、素直じゃないけど欲望は倒錯していて豊かだ。長門を本当に養えるのかはともかくとして、ここには男としての矜持とプライドがある。制度化された「ママ」の欲望に抵抗するエネルギーのかろうじての残滓がある。そういった、「巨乳ママ制度」の欲望のカテゴライズに、オタクはもはや倦みはててしまったのかもしれない。ソーシャルゲームウマ娘 プリティーダービー』のライスシャワーに対して「お兄様」であろうとする体力は、もはや今のオタクには、はっきり言ってない。欲望のネットワークに抵抗しようとする革命の世紀は、もはや終わったのだ、とはっきり言っておこう。

 しかし、欲望は終わらない。人間が存在する限り、欲望のゲームにケリがつくことはないのである。僕は2019年6月(もうあれから2年も経っているのかとも思うが)に書いた御伽原江良論の冒頭で書いているように、既にオタクがオタクの欲望について書くことには限界があるのではないか、と思いながら文章を書いてきた。オタクはどうしても教条主義的で、権威主義的だ。『涼宮ハルヒの憂鬱』のラノベもアニメも読んでないし観てないし、『らき☆すた』も観てないし、そもそも『新世紀エヴァンゲリオン』も観てないけど、『インフィニット・ストラトス』論を書きたいですとかVtuber論を書きたいですと言ったら僕は正直張り倒すだろう(そもそもVtuberはともかくとしてISに関してはそんなオタクがいるのかどうか怪しいが)。僕だって『コードギアス』を観ていなくて『ハルヒ』はラノベしか読んでませんと言ったら先輩に張り倒された。そう、「オタク」とは、悪しき人文主義のような「教養」が求められる箇所がどうしても出てくる一つの関係性やネットワークのものなのだ。先輩に『ハルヒ』や『コードギアス』を観ていなかった青春を全否定されることがないと、そもそもこういう文章を書こうとすら思わないだろう。そして、そういうネットワークの結果として、欲望がコード化され、オチが分かっているゲームのようなものになる。異様に胸が誇張されたイラストで射精できるというのは、生得的なものではなくコード化された欲望に自らを馴化することによって可能となる行為であるのだ。

 オタクの想像力と欲望の貧困は今に始まった話ではない。『ハルヒ』や『エヴァンゲリオン』を観ることによってしか得られないいい意味での「教養」というのも確かにあった。しかし、もはや限界に達しつつあるオタク的エクリチュールの貧しさの鍵は、「巨乳」というコードにあるのではないか。なぜ正面切ってアニメやアイドルの話をするのがこんなに恥ずかしいのかということについて、オタクは自らにストイックに問うてみたことが果たしてあっただろうか。精神分析や哲学などの語彙を適当に散りばめてジャーゴン的に扱うことによってしか、我々は愛するキャラクターを愛することができなかったことをまずは深く恥じ入らねばならない。その恥から、我々はようやく凝り固まったオタクの欲望について、正確とは言えないまでも誠実に語ることができる。

 

・「ツンデレツインテール」ヒロインはなぜ後ろめたいのか

 おい、ちょっと待て、お前今巨乳キャラの話をしていただろ、というご指摘はもっともである。しかしそれは主題としてひとまず置いておいて、「ツンデレツインテール」キャラというものがかくも魅力的で、「後ろめたい」存在であるのかについて語っておかなければならない。

 ここで要素ごとの分解をして分析をしたところで意味がないので、「ツンデレツインテール」キャラクターの例を二つほど取り上げてみたい。余談ではあるが、「オタク批評」と呼ばれるものの限界はここにある。つまり、要素分析をすれば「分かる」とか、そもそも分析が「できる」という認識が大きな間違いであるのだ。結果的に、キャラクター分析となって「しまって」いるという事態については確かに魅力的であるのだが、それ以前に我々は我々の欲望について語らなければならない、という歴然たる事実をいともたやすく無視してことは進んでいる(かのように見えている)。それはともかくとして、ここで取り上げるのは『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーと『らき☆すた』の柊かがみである。この二人にどのような共通項があるのか、と疑う向きもあるかもしれない。しかし、アスカもかがみも広義での「ツンデレツインテール」であり、その魅力と後ろめたさには相通ずるものがあるのだ。

 かがみの場合は作中に男性がほとんど登場しないのですぐ分かる事だが、じつはアスカにもシンジという男性がいながら実のところ男性がいない。両者の第一の共通項は、「欲望されない」というコンプレックスである。『らき☆すた』の場合は、こなた、つかさ、みゆき、そしてかがみで物語(物語と言うべきダイナミズムが欠落しているのもこの作品の特徴である)がほとんど完結しているが、頻繁に彼女ら四人の中で話題に上がるのは「異性にモテない」という話題である。そもそも、彼女らは本当に美少女だったのだろうか?共学で女友達四人で弁当と購買で買ってきたパンを食べながら他愛のない会話をし、海に行ったら「生理がヤバかった」という話で盛り上がり、かがみに至っては同じクラスに友達と呼べるべき存在が(一応)日下部と峰岸しかいない。実は、彼女たちは、ものすごくイケていないのではないか?ハルヒの場合、彼女は相当な奇人だがキョンの口から「相当な美人」と言われている。かがみはシリーズ後半の修学旅行の際、同じクラスの男子から告白されることを期待して肩透かしを食らう場面があるが、あれは彼女の人間性を示すに足る部分である。彼女は、欲望されたい=モテたいのだ。しかも、後述するアスカより下品な形で――つまりもはや「誰でもよい」のである。「誰でもいいからモテたい」という欲望の発露は、あまりになりふり構っておらず、見るに耐えない。2ch時代の有名なスレッド「木冬かがみが大学でぼっちになっているようです」に見られる「オタク共のいじめのオモチャ」的な露悪をここで看過するわけにはいかないだろう。モテなくて、女友達とも「他のクラス」という疎外感を味わい、「優等生」(これは「ツンデレツインテール」概念に共通する特徴でもある)で、何より重要なことに――貧乳である。この「貧乳」であるというポイントは後述するキャラクターにとっても極めて重要である。

 アスカは東浩紀などが執着して論じてきたキャラクターであるためあまり字数を割くことにはしないが、彼女もまた「欲望されたい」ことに関して惨めな女である。後半に行くにしたがって壊れて行ってしまう彼女の最後の支えは「いざというときにはシンジが助けに来てくれる」だったのだが、旧劇場版では助けられないまま凄絶な最期を迎える。彼女はかがみと違ってトウジやケンスケも驚くほどに絶世の美少女であり、であるが故にシンジの皮を被った朴念仁ぶりに業を煮やすことになるのだが、アスカを魅力たらしめているのはその暗い過去である。発狂して自殺した母親の死体を目の前にしたトラウマが歪んだプライドと直結し、「エヴァパイロット」でしか自らの存在理由を示せない。これが惨めでなくしてなんであろうか?『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がエヴァに乗らない人生=大人になることの映画(そしてそれは甚だしく欺瞞的というか、オタクに対して「マニアである自分を肯定しようよ」と言うようなもので、はっきり言って庵野秀明は自分のスタンスを示したという点では誠実だが作品としてはあまりにも屈託がなくグロテスクだったと思う)だったとすれば、旧劇場版は「みんなモテたいけど、みんなそれぞれでモテない」という葛藤がデストルドーとなって噴出するような映画だったと言える、そこでアスカの結末が首を絞められるか現実に独りぼっちで放逐されるかであれば、シンジに首を絞められた方が遥かにマシなのだ。シンジがアスカの裸体を見てオナニーするシーンで、アスカの胸元があらわになるが、あの揺れはするけれども小ぶりな胸に、「惣流・アスカ・ラングレー」という14歳の女の子の劣等感が詰まってはいないだろうか。シンジは、アスカの肉体そのものではなく、アスカの劣等感に欲情したのだ。それは2chのオタクがかがみを自殺させるように、シンジもアスカをある意味殺したのだ。その「殺害」行為は、なんと後ろめたくて、ステキなことだろう!

 上で述べたある種の「後ろめたさ」を定式化することは難しい。しかしあえて言うのであれば、「いじめがいがある」ことの肯定である。倫理に悖ることであると分かっていながら、表面上は気の強そうな、ツインテールの女をダメダメにしたい……こんな後ろ暗い欲望を現実世界の女性に持つことはもちろん場合によっては罪に問われる。しかし、二次元の「ツンデレツインテール」が、そういう潜勢力を持っていることは決して否定できない。そして、重要なことは彼女らが巨乳ではないことだ。巨乳は、自信や天真爛漫さに繋がる。朝比奈みくるが貧乳であったら、キャラ造形はかなり変わっていただろう。もちろん母性の象徴にもなる。「ママ」と呼ばれるキャラクターがたいてい巨乳であるのは、欲望するママが「貧乳だから」自信なさげだったり「貧乳の埋め合わせをするために」「女」であったりすることに生理的拒否感を覚えるから、という推測は間違ってはいまい。この意味で、やや胡散臭い話を挟むならば、エディプス・コンプレックスの「母親とセックスする」ことの後ろめたさが必ずしも父親を殺害したことによるものではないということは自明だろう。母親が「最初の他人」であり女であることを否認しつつ受け入れる構造に人間の(女性でさえもが持つ――エレクトラ・コンプレックス)欲望の原初があるという発見に20世紀の恐ろしさがあるのだが、我々は21世紀の今フロイトからドゥルーズ=ガタリを経由して、フロイト以前へと退行してしまっているのだ。欲望のコードが一本化し、我々は屈託なく「ママ」を「女」なき女として欲望する。「貧乳ツンデレツインテール」に行われる「いじめ」というねっとりした暴力の快楽を享楽することなくしては、我々は成長できない。暴力は人をときに成長させる。つまり、やや大仰に言えば、21世紀の欲望の回路をアップデートするために、我々は90年代やゼロ年代の産物をコード化せずに(「俺の嫁」「ママ」化せずに)享楽する必然性が出てきているのではないか、ということだ。

 しかし、思わぬところからカウンターパンチが飛んでくることになる。ここで、我々は、ダイワスカーレットと黛冬優子をいかにするべきか?と。

 

・「巨乳」のイマジネール、回路の複雑化

 『ウマ娘 プリティーダービー』のダイワスカーレットは、「ツンデレツインテール」が持っていた陰惨な暴力の潜勢力を一挙に無効化してしまった。彼女は誰が見ても疑いようがなく巨乳であり、勝負服のミニスカ軍服はゼロ年代のエロゲに出てきそうなテンプレートに理想化された「アニメの美少女」である。アスカ、かがみと、ツンデレツインテールが持っていた自信のなさやプライドの根本的な低さを、彼女は一挙に粉砕してしまったのである。それは「ママ」幻想でも「不憫な女の子」幻想でもなく、新たな幻想の到来、すなわち「陽キャオタクが神輿を担げる女の子」の到来だった。ダイワスカーレットは分かりやすくかわいく、走ることに屈託がなくて、巨乳である。しかし、なぜ我々のような――アスカを汚したりかがみを自殺させるような――惨めなオタクがダイワスカーレットのようなキャラクターを見て、レースで転ばせてやろう、とか、予後不良のSSを書いてやろう、といった嫌味な享楽に耽溺しようとしないのかについて、巨乳だから、の一言で終わらせてしまうのはあまりに短絡的なように思える。そもそも、『ウマ娘』はCygames発のコンテンツで、アニメ展開もされていた。その中では、チーム「スピカ」でウオッカとライバル関係にあることから彼女としばしばキャットファイトをするシーンもちらほら見受けられた。ここまで書けばお分かりの諸氏もいることとは思うが、二次創作でも圧倒的に多いのはウオッカとの百合である。ダイワスカーレットには、「欲望されたい」という葛藤がない。ゲームではトリプルティアラと有馬記念を優勝する圧倒的な強さを持ち、ウオッカに闘志を燃やす。ただ、「後ろめたさ」がないわけではなく、ダイワスカーレットウオッカを強く意識しているのに対して(特にゲームでは)ウオッカはいきなり日本ダービーに出たり海外に行ったりすることにダイワスカーレットが寂しさを感じているような描写がある。ただし、それ以上のものではなく、基本的にダイワスカーレットは「1番はアタシのもの」であり、結果的にそれを達成してしまうところに彼女というキャラクターの「神輿」性がある。

 多くの場合(と雑に言い切ってしまうが)、キャラクターは「僕/私のもの」であることに意味がある。みんなで担げる神輿から一人はぐれて偏愛すること、これがオタクの感性だった。「俺の嫁」「いいや俺の嫁だ」という論争があったのはそのためである。しかしダイワスカーレットのように「トップを目指す巨乳ツインテール」という存在になってしまうと、もはや欲望は特異化されない。みんなで萌えの大合唱、担げや担げの大騒ぎで、「僕だけの愛し方」をすることが難しくなってしまう。「21世紀の欲望の回路」に陰惨な暴力の享楽を導入することは間違ってはいないが、ダイワスカーレットの登場はあまりにも「倫理的に正しい」。「ツンデレ」も「ツインテール」も、それだけで惨めさや後ろめたさを表す記号ではない。ただそれがたまたまかみ合ったとき、むごい欲望を示すことがある。しかし、ダイワスカーレットの巨乳は、「こんなもん、おらん」と言う態度すら取れず、乳が揺れるのを見て大満足する「陽キャオタク」—―語の定義は他に譲るが、「萌え」「尊い」で全てを終わらせられるオタクである—―の欲望以下の欲望に絡めとられ、「21世紀日本のオタク的欲望」が全てダイワスカーレットに収斂してしまう危うさがある。そうなってしまうのは、柊かがみをリンチするより不健全ではないだろうか?

 一つ、アモルフな欲望を喚起するキャラクターについて述べてこのいささか長すぎる貧しいオタクの想像力に対する慨嘆を終えることにしよう。『アイドルマスターシャイニーカラーズ』の黛冬優子は、倒錯的なキャラクターだ。というのはキャラクターが倒錯しているのではなく、彼女の体形についてである。まずはpixiv百科事典からの引用。

プロフィールが初公開された際、身長・体重・3サイズが『ディアリースターズ』での秋月涼の数値とほぼ同じ(B78/W59/H81)であったために、一部では「男の娘説」が流れていた。ちなみに両者を比較すると、冬優子の方が身長が1cm高く、バストが2cm小さく、1kg重い。またスタイルの割になぜか体重が重く、283プロの中でも白瀬咲耶・月岡恋鐘に次いで3番目に重い(ほかのアイドルが軽すぎるともいえる)ため、「サイズ鯖読み説」「実は隠れマッチョ説」などが想像されている。

黛冬優子 (まゆずみふゆこ)とは【ピクシブ百科事典】

  見ての通り、スリーサイズが男性とほぼ一緒なのである。シャニマスのスリーサイズ・体重表記は桑山千雪などの例があるとは言え、バストがディアステの秋月涼より2cm小さいというのはいくら何でも……という感じである。であるならば、貧乳でないとおかしい。カップ数はアンダーとトップの差で決まるものの、バスト78は芹沢あさひと同じである。以下の画像を見てみよう。

 

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 おかしくないか?

 もちろん、見えている乳だけが乳ではない。あるオタクは盛っているだけだと言うし(僕のことだ)、そもそもスリーサイズを逆鯖読みしている可能性だってある。冬優子は、プライドが高く、傷つくことを恐れない。間違いを認めて泣くこともある。そういう意味で、確かに「ツンデレツインテール」ではあるものの、かがみやアスカ、あるいはダイワスカーレットのように欲望の回路を辻褄を合わせるようにして上手いこと成り立たせるような、そういう存在ではないのだ。まんまとバンダイナムコエンターテインメントのやり口に乗せられていると知りながら、自らの欲望の回路を書き換えられる。「ツンデレツインテールはいじめがいがあるから貧乳であるべきだ/ハンバーグカレーが美味しいんだから巨乳にツンデレツインテールが組み合わさったらいいに決まってる」、そういった論争は絶えない。僕は、どちらかと言えば女の子をいじめる方が、健全だと思っている。なぜなら、報復ではなく、いじめられる快楽を知る者のみが最も快楽的に女の子をいじめることができるからだ。エディプス・コンプレックスの反転を、我々は確かに行わなければならない。しかし、反転は反転にすぎないし、肝心なことは欲望を絶えず書き換え、更新し、何ものかと定義できないものへと練り直していくことだ。僕は以前、このブログで「推しのアイドルでオナニーすることが是となったとき、僕の倫理は書き換えられるだろう」と書いた。推しのアイドルでオナニー、大いに結構。倫理の書き換え、大いに結構。でも、我々はもっと欲望に素直になるべきなんじゃないだろうか。「これを欲さなければならない」、と。「巨乳/貧乳が好きなはずだ」、と。オタク、自分たちの欲望がそんなに管理されてて、楽しいか?「ママ」、「嫁」と当てはめるゲームは、もうやめにしないか?そんなの、『ファイト・クラブ』以下だよ。

 我々の「想像力」(Imaginaire)は、そんなに貧しいものじゃないはずだ。「巨乳」を欲望の末に選び取ることは、悪い事じゃない。サジェストで選び取るな。欲望と想像力を攪乱しろ。じゃなきゃ、生きるためにオタクをやっているのか、オタクをやるために生きているのか、分からなくなってしまうから。オタクも、人生も、ゲームではないのだ。