思考停止

映画、本、音楽、など

大森靖子、語りの未遂――ポップネス・悪徳・複雑なもの

はじめに
 現在精神病院に入院、静養と投薬治療で嘘みたいに頭の中がクリアになった。パソコンの持ち込みはできないようなので、ポメラからスマホに移してのブログ投稿になった。やっぱり人は簡単に絶望してはいけないと同時に、簡単に絶望させてもくれないのである。

 

・序:ポップネス、悪徳の栄えーー大森靖子批評
 音楽の「批評」といった場合、安直な形で「歌詞」あるいは「コード」の分析といった部分に論旨を帰する場合が多い。筆者は音楽理論に明るくはないのだが、例えば田中秀和の用いるオーギュメント・コードの進行が他のアニメソング・ポップスと差異化の一因であることを指摘したところで、何だ?例えばつんく♂の書いたハロー!プロジェクト(これは本稿で主題的に扱われる大森が「IDOL SONG」でオマージュしていることだが)の楽曲の歌詞がエリック・ロメールの映画のように女の子の心理を卓抜に描写していることを指摘したところで、何だ?
 要するに、従来の、とりわけポップ・ミュージック批評の面において、歌詞と曲をただそれのみとして取り上げる以外のことが、環境的にも文脈的にも難しかったのである(「恋するフォーチュンクッキー」がフィリーソウルなどという唾棄すべき言説はここでは俎上にも上がらない)。ここで取り上げる大森靖子という「超歌手」の生み出すポップ・ソングについても、事態は同じかそれ以上に困難である。何度もセルフ・リメイクされる「ミッドナイト清純異性交遊」「絶対彼女」の楽曲のあり方それ自体を「ポップ」だと言ってしまえばそれまでだが、大森の引用するハロー!プロジェクトに対する惜しみないリスペクトや以下に論じる銀杏BOYZからの影響などが大森自身を重層化し、また大森プロデュースで最近は戦慄かなのとの舌戦でまたトレンドに上ってきたアイドル、ZOCの掘り下げが音楽ライティングシーン全体で甘いことなど、様々な問題系が絡み合っている。この大森靖子というポップの「超歌手」を、一挙にまとめる批評的な論陣の仕掛け方を、今まさに問おう。
 大森靖子、それは最上の悪徳のポップス・クリエイターである。どういうことだろうか。
 この記事が大森に抗するものであるとして、この次の節で述べるパンク・ロックとポップスの違いがリフレインであり、リフを前提とした主張を許してもらえれば、大森は「 繰り返すこと」を拒否するが故に、ポップスのクリエイターとして一級なのだ。しかし、大きなテーマ、つまり「他者の承認によって担保された女の子の「かわいい」」像を大森の中で循環的にループし、反復を拒み、大森は進んで「アイコン」になった。もっとも、大森のアイコンは何をも代理=表象していない。大森のような欲望、ルサンチマン、さらにそれを戯画化し、あらゆる現実的事物の概念を「超出」した「歌手」として大森は自らを位置づける。
 さて、ここまでの読者でどれほどの人数が気づいているかは分からないが、これは大森靖子に関して毀誉褒貶のいずれかを与える訳でもなければ、「分析」する記事でもない。大森、ひいてはポップ/ロックに対する「批評」言説の一定の指針であり、その限りで価値判断のようなものは存在するだろう。しかし、大森が「すごい」と言われるとき、それはどの次元で「すごい」のか、という根拠を問わねばならず、それが音 楽批評であるのだが、音楽的文脈、コード、歌詞(歌詞は本稿でも触れる)の表面的な解釈で「すごい」と言えてしまってはダメなのだ。大森というシンガーソングライター、「超歌手」、そして何より悪徳のポップス・クリエイターについて「ただしく」何かを言うための手引きを、今こそ示さねばならない。

 

・破ーーあいどんきるゆー/あいどんわなだい ZOC「ちゅーぷり」

https://youtu.be/WWIYBv3mYio
 恋人同士がキスすること、それは果たして均等な欲望の交換となるかーー否、である。セックスも同様である。欲望が均等に交換されることなどあるのかーーそれもまた否。この絶えざる欲望の不均等(それが欲望の肯定である)はさながらジャック・ラカン「アンコール」のようだが、大森楽曲においてはこのいかようにもしがたい欲望の交換関係の破調をほとんど神経症的にループする。「愛してる」「はじめてを全部あげる」と歌う初期の「愛してる.com」は能動的な大森的恋愛を示す一方で、作詞作曲、ディレクションのZOC初期の「ちゅーぷり」では「ねえ、ちゅーして」と扇情的で受動的な愛の欲求の呼びかけから始まる。肝要であることは、愛においてはもらう方もあげる方もそれが空虚であることである。「ちゅーぷり」の特殊性、つまりアイドルがファンに会いたくて愛している、という一般的で陳腐な見方はその空虚さをどうにかねじ曲げようとしている、大森のアイドルグループだからこそ見れる精神分析的真理における自己分析の姿であろう。大森は「激情派」(筆者は浅学なのでこれにどういう体系だった見通しがついた呼称なのか知らないし、多分そういう見通しはない)と呼ばれるシンガーソングライターであるが、この屈折なきままに「沈没」し、その激情に一定の価値があるのは毛皮のマリーズの「愛する or die」の「俺だけ愛してくださいよ」という不可能な雄叫びが対比的に挙げられる一方で、大森は愛について志摩よりいささかクレバーであり、そして絶望している。
 「ちゅーぷり」が屈折しているのは、この楽曲は愛の挫折であり、生の肯定が予示的であれ示されている(のちに示す楽曲で回収されている)という事実である。「会いに来て会いたい」とサビで言っているにも関わらず、「ちゅー」がファンにバレたらまずい、という曲の冒頭での「恋愛禁止」という陳腐なタブーに対するアンチテーゼがそのまま歌われている。さて、では、「ちゅーぷり」という曲は「アイドルになって都合よく愛されたい」という曲を意図しているだろうか。おそらくではあるが、大森でなければそのような単なる露悪的なーー「悪徳」ですらないーー曲というのは多分実のところいくらでもあるだろう。大森の構造がポップのループだとして、本文がパンクのリフであるとすれば、大森は「悪徳」のポップネスである。悪徳とはどういうことかーー悪において審美的であることである、マルキ・ド・サドの示したそれのように。大森は優れて審美的に悪であろうとする、あるいは悪とされている部分に審美的な部分や人間的な部分を見いだす。そしてそれは、「大森靖子」であり、大森靖子ではないのである。
 話を戻そう。多くのアイドルソングがそうであるように、ファンと思しき二人称単数がここでも用いられている。また、「あ」という連続しづらい母音の連打は「アイドルになって」に繋ぐためである……か?そうではないだろう。最も重要な歌詞、「あいどんきるゆー」というひらがなの英語がここで出てくる。先の節でも示した通り、大森ポップスの究極的な理念は「他者」(きみ)がいないと「自分」(わたし)がいない、という構造に基づいている。他律的でありながら自己中心的であり、この「女の子」の生き方について大森は一貫して擁護もしていなければ否定もしていない。ただ、肯定している。そう生きることによって生きられる人々は、切羽詰まっている。その切羽詰まりとして出てくるのが 、「あいどんきるゆー」なのだ。I don't kill youであり、「きみ(たち)」を殺してしまっては「わたし」は生きられない。だから、「ちゅー」できるかどうかではない。「ちゅーして」「ちゅーさせて」と、「きみ」がいなければ言えない台詞を言わなければならない、神経症的に、という話である。簡単な連想を許してもらえるのであれば、直感的に峯田和伸の詞である「あいどんわなだい」が対で思い浮かぶ。峯田は銀杏BOYZにおいて、徹底的に押し進めたのは「ぼく」の内宇宙(インナースペース)の無限性であった。峯田には「きみ」が実はいなかったが故に、「駆け抜けて性春」でYUKIをキリングパートで起用せざるを得なかったのである。代わりに、無限の「自分語り」にポエジーがあった。それはのちほど述べるとして、あいどんわなだいである。死にたくない。殺したくない。「ない」、と言うことでしか、生を言祝ぐことができない。この消極的な生への祝福こそ、大森が峯田から引き継いだものであり、そしてまた峯田のリビドーの逆流を抱えきれなくなった大森の峯田に対する断罪が、この後述べるイコノグラフィックな大森と峯田の詞の比較論、そしてまたZOCに戻り、「ヒアルロンリーガール」でのエディプス的なものとの決裂を胚胎的に示すのである。

 

・急ーーぐじゅぐじゅなもの、文、単語 大森靖子「みっくしゅじゅーちゅ」「ミッドナイト清純異性交遊」銀杏BOYZ「ぽあだむ」「あの娘は綾波レイが好き」

https://youtu.be/TFAJssLruSU

https://youtu.be/aT2B-MEAMLA
 完全に当たり前の話をすると、ソングライティングにおいて性的なものを喚起する場合は液体のイメージが用いられることが多い。精液、血、唾液、汗、などがある。性=生をテーマにする大森も峯田もその点においては通じている。では、どのような仕方で現れているのか?この現れ方は、二人の歌詞がもたらすイメージの差異、あるいはパンクとポップの違いにも結びついている。
 峯田は、歌詞の中で決定的に性的なものが問題となる場合、名詞を伏せる(例:愛液「僕のチン毛は べっとりあの娘で濡れている」)か代名詞で置き換える(例:精液「いっぱいあれ 出しちゃいそうなの」)傾向にある。この後述べる決定的なパンクとポップの差異、即ちリフレインかループあるいはその複雑化という部分にすでに触れてしまうのであれば、峯田の「決定的な箇所を言わない」(あるいは言う:cf.「べろちゅー」など)という方法はパンクの方法論に則っている。どういうことかというと、パンク・ロックはリフレイン(リフ)の原則であって、ギターやリズム隊が四小節、あるいは八小節、四分の四拍子の中で決まったリズムパターンやコードパターンを繰り返すこと(反復すること)に一定の美学が存在する。原義的なパンク・ロックにおいて「スリーコード」(三つコードが押さえられればよい)の原則が様式美となり、以上の形になった。当然乗せられる言葉も限定され、あまり高度な比喩表現ができない(「ふいていいよ 潮」などもこれに当てはまる)。この意味で言えば、ファンク・カッティングのリフとシンセによるメロディが魅力的な反復を見せる「ぽあだむ」の原曲とクボタタケシがリミックスした同じ曲ではまさにパンクとポップの差異があると言ってよい。
 さて、大森の「みっくしゅじゅーちゅ」の検討に入る前に、簡単に上で触れた峯田の「イメージの羅列から来る〔…〕二重化されたポエジー」とは、いったいなんなのか。峯田の 歌唱、あるいは銀杏BOYZの歌詞を見てもらえば分かるが、主語がなく述語だけがある、目的語がない、などの日本語になっていない歌詞がかなりある。「白い塩素ナトリウム 水色の水着を溶かすなよ」という「夢で逢えたら」の歌詞は完全に意味不明である。しかし、ライブでは「白い塩素ナトリウム」を歌った後、「水、水」と叫んで「白い塩素ナトリウム」をリフレインするなど、要するに「夢」が喚起するリアリティとは独立した"ポエジ ー"を峯田は描いている。
 それに対して、大森は峯田からの影響を隠しておらず、「Re:Re:Love」(これは両者ともに失敗作で、どちらの良いところも出ず、手癖だけのどうしようもない曲だが)で念願のコラボを果たすなど、様々な点で大森にとって峯田が特権的な位置を占めていることが確実である。しかし、2013年に「大森靖子と来来来チーム」がプレスしたアルバム『ポイドル』の頭を飾る「ミッドナイト清純異性交遊」ーー大森が同年リリースした『絶対彼女』のジャーマン・テクノポップ的アレンジとは異なったピーキーパンク・ロックで、恐らく大森が「ピンクトカレフ」以上に「ロック・バンド」だった証拠としての「ミッドナイト」ーーでの有名なライン「春を殺して夢はひかっている」に峯田に対する「父殺し」を見ることが可能だ。そもそもこの文章の主語は「夢」、述語は二重で「殺して」「ひかっている」、目的語は「春を」できれいな日本語である。察しの良い銀杏リスナーならおわかりの通り、ここで出てくる「春」(「青春時代」、「駆け抜けて性春」など)や「夢」(「夢で逢えたら」、「人間」など)は峯田が殆ど強迫的に単語のみで反復して使うことが多い。"ポエジー"の鍵であり、言葉が単独であること(単語)に峯田の場合意味を持つ。ところが、大森は文章にすることによりそれらの単語に複数性と意味の固有な連関を発生させ、単独的"ポエジー"だったものが複数の"イメージ"  へと解体される。既に峯田の方法論は乗り越えられ、大森はデビューにおいて単独なものの否定、即ちロックでなくポップへと向かっていくのが「ミッドナイト清純異性交遊」の段階で分かるのだ。
 「みっくしゅじゅーちゅ」は、まず曲の異様な複雑さを正しく分割できる人間が音楽の教育を受けていない者に果たしてどれほど正しく理解されるだろうかーーポップ・アナリーゼ以下の、「Aメロの前半と後半の性格の違いはBメロではない」レベルの。とはいえ、「サビの導入が正確に前の小節に八分音符分食って入っていて、サビのシンコペーションも帳尻合わせの十六分音符もなしにBメロが作られている」という驚くべき事態(驚くべき、というほどでもないのだが)には、当たり前に驚いてしまう人がいても自然かもしれない。なぜなら、これが「ポップ」であるから。ポップであるとは字義通り目の前で何かが炸裂することで、あらゆる予定調和を大森は軽やかに、歌謡曲も歌うかのように「超出」してみせる。「絶望がサマになる 恋の季節SUMMERになる」と「しょーもない」駄洒落を踏んでみたところで、パンクならキメのリフになるところを大森のポップスでは箸にも棒にもかからない。驚異的な歌詞がある。「この夏 君と私は二人きり みっくしゅじゅーちゅになろうね って言った」の箇所であるが、このように予定調和を破られ複雑化したポップスにおいては「君と私」は「みっくしゅじゅーちゅ」という「ミックスジュース」を越えた「ぐじゅぐじゅ」の何かがそれまでの歌詞の連繋=複雑化した"イメージ"と結びついて性=生を表象している。さらには、「って言った」のは、「きみ」なのか、「わたし」なのか、分からないのだ。『MUTEKI』時の大森が意図していたのかは分からないが、ここに、小さな交換=交歓の成就を見ることができるだろう。逆行するようだが、「ちゅーぷり」(無理があるなら「絶対彼女」や「愛してる.com」でもよい)におけるような挫折が発話の責任の所在の宙づりによって「みっくしゅじゅーちゅ」になってしまうのだ。そしてまさに現在を単独なものとして捉えない、まさに引き裂かれた言葉の「悪徳」の頂点にいる大森は、こう言うのだ。「幸せのイメージは 捉えた瞬間過去になる」-ーと。

 

・未遂ーーも~っとヒワイな自己肯定! ZOC「ヒアルロンリーガール」

https://youtu.be/YUGOXBgl87I
 さて、ここまで、大森ワークスを峯田和伸との影響からも「概観」できずに「つまみ食い」に留まってしまったわけだが、音楽批評の可能性と困難とは、特にポップネスにおいてなんであったか?それは、「好き/嫌い」の価値判断を下さずに「批評」しなければならないからだ。むろん、このブログでも言っているように批評対象に「転移」することは、とても、とても大事だ。私が大森靖子という「超歌手」のどこに何を見いだして、どこが優れていると思ったのか、それは読み手のみなさまに委ねられる。
 しかし、この楽曲、ZOCの「ヒアルロンリーガール」、「君を注入してかわいくなりたい」、そして「死にたい言わない主義」という歌詞が示す一連のイメージの解釈、また本記事で唯一言及するZOCメンバーの巫まろの歌い出しの異様な感じの私が唯一できるリズム・アナリーゼがまだできていないなど、課題含め、本記事は、私の、そして今後のアマチュア音楽批評の未だ「未遂」に留まっている。