思考停止

映画、本、音楽、など

われら主体を待ち望む――Vtuberとイデオロギー的再認、還元不能な場所で――

  本文は筆者の所属する哲学・批評研究会のサークル誌に寄稿した文章です。文フリでの頒布もないようなのでこちらに供養します。南無三。


Numero.0. 嘆きの壁

 ああ!今まさに私の愛していたインターネットが音を立てて崩れ去っていく。何がハーバーマスの公共性だ。それは間違った形での「グローバリゼーション」の逆張りを二回やって元に戻ってしまったようながんじがらめのタコ糸みたいな形で誤解に次ぐ誤解により、コロナウイルスがどうか[1]というより見えざる「アジール」の説得力そのものが目の前で蒸発していく。知らない人が知らないままに知り合う偶然性はまさに面白くもなんともない「相互フォロー」や「友だちリクエスト」によって必然化される。デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャル・ネットワーク』(2010)のラストシーンで元カノに「友だちリクエスト」を迷いながらクリックすることはジジェク風に言えば[2]ザッカーバーグは「落ちる」ことを拒否した結果なのだ(冒頭の口論のシーンで彼女に「あんたがモテないのは容姿でもオタクだからでもなく、気持ち悪いからよ」と言われて立ち去ってしまう彼/彼女らの関係性は、果たして「落ちた」結果として始まったのだろうか?)。『ソーシャル・ネットワーク』で扱われるFacebook、あるいはTwitter、各種ブログサービス、最近ではそれこそ注2のようなTinderやPairsなどといった「マッチングアプリ」をソーシャル・ネットワーク・サービス(以下SNSと略記)とひとまとめに言ってよいのであれば、「インターネット」と昔呼ばれていたものの範型はもはや適用できないし、のちほどこの紙上で言及するルイ・アルチュセールが哲学・精神分析・社会思想に基づいて練り上げた「イデオロギー(一般)」なる概念としてSNSを把握することは不可能寄りの困難であるとさえ言える。

先んじて言ってしまえば、Numero.1から展開する「バーチャルYoutuber」(以下Vtuberと略記)をほぼ絶望的な形で解釈可能であるという本稿の主題は、「Vtuber」の閉塞的な内宇宙(インナースペース)空間がアルチュセールイデオロギーによって解釈可能な部分と解釈不可能な部分(場合によってはこれを「還元不可能なもの」や「過剰なもの」と呼ぶ場合がある)に取り分けられるのではないか、という試論である。当然、「なぜVtuberなのか」という疑問は出て然るべきである。上に挙げたような各SNSは、「概ね」という枕詞が通用しない程度に一つのカルトといくつかのスラングに還元できなくなっているのが実情である。2000年代に流行したスラングの意味が変化したり、また新しいスラングが出てきては使い古される、快不快の如何関係なしにシニフィエなきシニフィアンが執拗に反復される事態[3]がインターネットという主体――この「主体」は無論アルチュセールにおける大文字の〈主体〉であるのだが――の内部でなされずに代謝運動されたりすることによって(文字面だけを借りる浅はかな引用を許してもらえるのであれば)手紙は必ず届かない[4]、とさえ言えてしまうだろう。あるいは届いた手紙は言葉をあなたは語義通りに読むことが難しくなっている可能性もあるので認識できたとして読めないとも言える。

 Vtuberという存在自体が、2017年の勃興期から2020年において3年強で目覚ましい進化を遂げたことに異論はない。と同時に、「誰でも」Vtuberになれる時代になった――2018年時点のAnimoji、ミラティブ、など――機材など揃えなくても、アプリでアバターを作って配信ボタンを押せばよい。今後名前を出すことになるいちから株式会社の「にじさんじ」、カバー株式会社の「ホロライブ」のオーディションに受かればブーム次第で半年で五千万以上の稼ぎを得ることもできる。「キズナアイ」(upd8)や「ミライアカリ」(元ENTUM)が動画によって、言わばキャラクターのロールプレイ(以下RPと略記)と「Youtuber」のロールプレイを二重で行うことが一つの起算点であったと言えるが、それではにじさんじ台頭以後の「生配信」による「Vtuber」とは一体何だったのか?キャラクターのRPを放棄し、キャラクターの絵はときおり動かず、やっていることは大抵雑談かゲーム配信である。何がこれをよしとしているのか?陳腐かつ説得力に乏しいVtuberに関する言説は大雑把に分けて二つほど存在する。一つは「偶然性(必然性)による擬似的な恋愛関係(異性・同性関わらず)のほのめかしを眺めて満足する『オタク』に欠落した経験の穴埋め」であり、もう一つは「Vtuberの延命として学問を適用する手段」である。前者は被害を人に与えなければ無害である一方、過剰なキャラクターへの転移[5]が引き起こす感情の反転は直接的に有害である可能性がある。後者は2018年7月号『ユリイカ』でVtuber特集が組まれて以降、難波優樹(分析美学/倫理学)や服部恵介(社会学)などの研究者がこぞって自らの学問分野からVtuberを批評対象とすることに屈託がなかった。さて、彼らの議論が果たして「Vtuberに」というより「Vtuberを観る人に」どれだけ影響があっただろうか?「なぜ」批評対象がVtuberでなければならかったのか?その必然性の提示なしになされる議論は、空転するばかりである。

 ああ!私のインターネットが音を立てて崩れ去っていく――その大きい壁がなすすべもなく崩れ落ちるとき、ギリギリで踏ん張る「Vtuber」は我々の青春の蜃気楼か、もしくは汗びっしょりで目覚める寸前の悪夢の断末魔か。本論はあくまでもVtuber論であり、必要に応じてアルチュセールイデオロギー概念を適用し、形而上的なものやアクチュアルなもののどちらかに過剰に肩入れすることなくVtuberイデオロギーの「なかにいる」のではなくイデオロギーそのものであるということを示す。そして、これはアルチュセールにせよVtuberにせよ、適用不可能な事象や示し得なかった何かが最も重要であることを銘記しておく。

 

Numero.1 かつてインターネットが「きみ」と「ぼく」だったころ

 アラン・バディウ『愛の世紀』にでかでかと掲げられている「愛とは最小単位のコミュニズムである」という、いくら小さい本とはいえあまりにも雑な要約と惹句は、しかし「コミューン」――それはシャルル・フーリエの「ファランジュ」よりもいくばくか経済的(エコノミック)な概念――のあり方として、非常に現代的でロマンティックな言い回しである。モノガミーを前提とするならば、愛のあり方においては「二人であること」、すなわち「きみ」と「ぼく」以外が世界から消えてなくなってしまうことが条件である。具体的な作品を取り上げるならば、何度も批評の対象として、あるいは決して牽強付会ではない精神分析的読解を可能にした作品として『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』(庵野英明、1997)が挙げられる。『エヴァ』批評ではないので詳細な言及は避けるが、二つのシーンだけ取り上げよう。そしてこのシーンはコミューンの二つのあり方の存在可能性を示唆している。そして、どちらかがどちらかに接続してしまうことでコミューンが失墜してしまうことは、世紀末において想定されていなかったことでもある。

 逆行しよう。第26話「まごころを、君に」の最終場面で、碇シンジ惣流・アスカ・ラングレーの首を絞め、アスカに頬を撫でられ落涙しているところを「気持ち悪い」と言われ映画が終わる有名なシーンである。補足的な物語の説明をすると、「人類補完計画」で目論まれていた人類の統一(いささか性急なアレゴリーだが、世界精神/絶対精神が歴史の終わりにおいて実現されるヘーゲル全体主義[6]、あるいは結末におけるその否定としても考えられる)において鍵となっていた碇シンジの「きみ」の希求である。精神分析における〈他者〉Autreとしての機能をアスカに指摘する前に、「セカイ系」――文芸評論家の前島賢[7]によれば「主人公とその恋愛相手とのあいだの小さな人間関係が、社会や国家のような中間項を挟むことなく、「世界の危機」、「この世の終わり」といった大きな問題と直結するような想像力」といったような――特有の「ぼく」内部で生起する自己同一性の反復が破壊されていること、つまり「主体」と呼ばれるべきものがあらかじめブッ壊れているという事実は、『エヴァ』批評の中でも等閑視されてきた(アスカの「絶対的他者性」ばかりが言及されている)。次章で詳細に検討するところのVtuberアルチュセールの交錯点は、この「壊れた主体未満の主体」碇シンジを前提としなければ乗り越えられないものとしてある。先んじて述べるのであれば、経済(プロレタリアでもブルジョワジーでも構わない)を担う主体は、生産様式とは別のところで主体が主体を基礎づける――再認を反復する。そういった意味で、碇シンジには承認があっても自己再認がないため、「ある条件のもとで」主体として成り立っていない。その「ある条件」とは、アルチュセールが定義するところの「イデオロギー一般」であるが、それは後回しにしておこう。であるが故に、再認なき承認の主体碇シンジに対してアスカが完全に他者であることもまたない。「首を絞めて嗚咽する」、再認の反復が主体の中で起こっていないが故に承認を欲求する形がいびつなシンジの頬を撫でながら「気持ち悪い」と呟くアスカは、分析主体と分析家のような断絶はなく、まさに上に挙げたような「転移」が「きみ」と「ぼく」という最小単位のコミューンのうちで起こってしまっているのだ。そこには前島的な「セカイ系」定義の「コミューンから世界、世界からコミューン」のような反復は存在しない[8]

 これの拡張した形、ある種の「人類補完計画」のアレゴリーでもあり、また絶対的な差異を伴う範型としてその前の実写パートで匿名掲示板に「庵野死ね」の書き込みが映されるショットが一瞬挟まれる。『エヴァ』の監督に対する誹謗中傷であるが、ここでは「庵野死ね」という内容が重要なのではない。異なったユーザーが一斉に同じ書き込みをしている様が映画の中でショットとして組み込まれていること、これがこのシーンの最も大事な部分であり、なおかつ配信型Vtuberとリスナーの関係性を示唆する、即ちアルチュセールイデオロギー範型の応用がインターネットにおいて示されていることを早い段階から映像作品で示したという点に大きな意義がある。つまり、「アスカとシンジ」=「きみとぼく」の関係性はここで既に壊れている。映画におけるキャメラは常に単数である。ブライアン・デ・パルマピーター・グリーナウェイが映像をレイヤードしたところで、そのキャメラの絶対的単数性=一人の語り手、ここにおいて「ぼく」の担い手であることには代わりがない。しかし、その被写体、つまり無数の「庵野死ね」は「一見」複数だ。それぞれ違うユーザーが違う時間に、「同じ」書き込みをする。それでは、この書き込み自体に、人称性、「あなた」、「きみ」、「彼」、「彼女」、といった形で「呼びかけ」ることが一体どの程度まで可能だろうか?それは絶対に不可能であることこそ、「インターネットが「きみ」と「ぼく」だったころ」なのだ。この夥しい罵詈雑言は実際にあるものではなく撮影用に作られたものだが、書き込みを見ている「ぼく」、そして書き込みをしている「きみ」。「きみたち」ではない、何故なら「名前を呼ぶ」ことによって呼びかけられないから。名前による責任から「きみ」も「ぼく」も逃れ出ているから。匿名の掲示板における「アンカー」でさえも、その限りではない。もちろん書き込みをする「ぼく」はかけがえがなくても、それを見ている「きみ」である「ぼく」にとって書き込みをする「ぼく」は「きみ」でしかありえない。そこには特異な主体形成もなく、言葉(=シニフィアン未満のレットル)だけが人称性を外れてどこか誰かの「きみ」に届く。だから、末尾のシンジとアスカの関係性は、この「ぼく」だけに対して(キャメラによって保証された人称性)無数にして単一の「きみ」を映す一方的「断罪」、即ち否認による自己同一性の再認の主体を示すではなく、自己なき承認の主体未満の主体がアスカという「きみ」ではない「誰か」を担保するという形となっている。前者はイデオロギーであり、後者はコミューンでもアジールでもない。しかし、Vtuberイデオロギーは、無数の主体を絶えず再生産し続けるという意味において、いまや最も恐ろしくグロテスクなプラットフォームと成り果てている。

 

Numero.2 置いてきた感傷とイデオロギー:Case. Vtuber、卯月コウ

 Vtuberについて深く掘り下げる前に、ここで用いるアルチュセールイデオロギー概念[9]の性質と機能をごく簡潔に瞥見しておこう。いわゆる「集団的無意識」(ユング)のようなものとは決定的に異なり、「イデオロギー内部/外部」が存在する。「外部」は下部構造、即ち経済に基づいている。そこでは財の交換、あるいは資本主義社会においては労働力の搾取が行われる。「内部」においてイデオロギーが事後的に言及可能となるのはそれを可能にする装置――国家、学校、教会、メディア、などなど――において身体的儀礼(例えば教育イデオロギー装置である学校での「起立、気を付け、礼」などがそれにあたる)によって儀礼を可能にする〈主体〉の機能から自らを諸主体として再認する。この後議論を深めていくにあたって重要となるのは、権力の所在が少なくともイデオロギーの問題においては二次的である、ということである。権力は主に〈国家〉に代表される上部構造に属し、アルチュセールはかなり俗なフーコー理解で言うところの「パノプティコン的規律権力」のような相互規定的権力作用を想定していない。〈国家の抑圧装置〉が〈イデオロギー装置〉を上部構造から規定し、利用する場合もあるが、必ずしもそうではない。最も重要であるのは、イデオロギー内部では主体が二重化されているという事実である。諸主体sujetsと〈主体〉«Sujet»の二つである。生産様式における労働から教会(宗教イデオロギーの内部)に移ったとき、生産様式である個人はイデオロギーによって主体となり、それを可能ならしめるのは〈主体〉である。分かりやすく言えば、個人=潜在的主体であり、なおかつその潜在性を現働化しイデオロギー装置内での身体的儀礼を可能にする機能を〈主体〉が負うという形になっている[10]。今後繰り返し言及する「再認」、あるいはその反復という主体自身が意図的でない形で発動する無意識[11]な機能がアルチュセールイデオロギーの最も重要な例である。

 Numero.1では『エヴァ』における「きみ」と「ぼく」の関係性のアンビヴァレント、アスカとシンジ/匿名掲示板とキャメラの関係性から二人称的コミュニズムが成り立つことの困難(注8において言及した舞城もそこに含まれるのであれば)を示した。では、もうインターネットにおいて特権的な場所、即ち無意識的で限りなく想像的イデオロギーアジールが生起することはないのだろうか?

 ここで、一人のVtuberを取り上げよう。2018年6月、「にじさんじSEEDs」の一期生としてデビューした、「卯月コウ」というVtuberである。公式説明文には以下のようにある。

 

「有名企業のCEOを父に持つ育ちの良いお坊ちゃん。イギリスと日本のハーフで近寄りがたく思われることを気にしている。無愛想でツンとした印象だが、心を開くと年相応の男子中学生。」[12]

 

 完全に嘘である。卯月はVtuberにおいてはときとしてセールスポイントであるロールプレイを完全に放棄して、「納豆ASMR」と題した配信[13]ではバイノーラルマイクで無言で納豆を食べ、「バズる」(TwitterYoutubeで話題になる)ことを全部やればバズるのかという企画では激辛ペヤングを食べて米津玄師の「シャルル」を歌いながらPUBGをやる[14]、または「男性ライバー配信終わったら全員これやってるからな」「疲れてなくてもASMR聴いてもいいだろ!パトラ!」という名言を頻発しながら違う事務所のVtuberのASMRを聴きながら奇声を上げる[15]、麻薬や覚せい剤の隠語を連呼して絶叫する「鍋ラップ」[16]など、かなり尖った芸風で爆発的な視聴者の伸びはないものの、根強くカルト的な人気があるVtuberである。本稿は卯月コウの面白さを伝える意図では書かれていないが、この後に集中的に紹介する配信にも通底するものとして「劣等感の情緒的(あるいはエキセントリック)な発露」が彼の場合問題となる。「ペヤングシャルルPUBG配信」などはそのエキセントリックな面が分かりやすく出た配信ではあるが、当時激辛ペヤングを食べてリアクションすることや「シャルル」の「歌ってみた」(これは実況者含む)がVtuberの間で流行っていたこと、PUBGは本人がのちに語っていたが「陽キャしかやらないゲームだと思っていたので組み合わせることで馬鹿にする意図があった(が、今はそうではない)」など、逆張りのみでは済まない卯月コウ本人が持つひねくれたコンプレックスというものがある。

 何故卯月コウがイデオロギー的存在と言えるのか?答えは単純で、Youtubeliveのチャット欄やコメント欄を巻き込む形で[17]、彼自身が配信を行うことによって――逆張りの炎上にとどまらず――「卯月コウ」の再認の反復を行っているからである。しかも、Youtubeというプラットフォームでしかできない形で、リアルタイムでもアーカイブでも可能な形で行い、卯月の再認による主体の反復というものが視聴者においても起こっていること。卯月コウが行う反復に、一元的なジャンル(オタク、陰キャ、キョロ充、本好き、など)に回収しえない人々がなんらかのものを喚起させられてしまい、卯月コウに同化すると共にリスナー「とは違った」主体である自らを発見し、再認し、反復すること。それは卯月コウそれ自体が〈イデオロギー装置〉なのではなく、Youtubeの〈装置〉性(必ずしもイデオロギー装置ではないが、その要素はある)から事後的にプラットフォームを純粋〈装置〉化し、イデオロギーの「内部」における共同体でも連帯でもない主体の一つ一つの集まりを可能にしている、ということである。

 一つ、卯月コウの配信で本稿で彼がなぜイデオロギー的存在であるかについて取り上げなければならないものがある。2018年7月26日に配信された「ネットに本名と顔と恋愛を晒し秒速で全てを失った中学生の配信」[18]である。これだけ見ても意味が分からないのだが、要約すると数日間かけて個人Vtuber「神楽めあ」と付き合って別れる一連のコントの末尾に当たる配信である。注に付した「ラジコン」「スパナ」で意図的に「きみ」と「ぼく」の関係性を演出する卯月コウはクレバーではあれど、イデオロギー的存在と必ずしも言えるわけではない(インタラクティブであることが必ずしもイデオロギーの一様態に含まれているわけではない)。しかし、一連の流れが単なるコントであったとしても、この配信の卯月コウには明確に「内部」がある。

 

「二次面接落ちた?いいねぇ!幸せの中にエモ[19]はねえよ、言っとくけど」

「いっぞ[20]……いっぞ……俺は陽キャ……」

「俺には……泣きつくしか、泣きつくしか残されてなかったんだ」

 

この言葉でファン(リスナー)が要求されていることは、果たして連帯感だろうか?陰キャ同士が肩を組むホモソーシャルだろうか?はたまた演出された(?)卯月コウの悲哀だろうか?恐らく、そのどれもが間違っている。「二次面接落ちた」というリスナーの言葉に「幸せの中にエモはない」と言った後に、恐らく「キッチュな」幸せ像として軽蔑しながらもたどり着けない「陽キャ」に憧れ、最後は(コントだが)同期に泣きつく、この卯月コウは、「卯月コウ」であって、「誰か」ではない。空虚なシニフィアンである。であるにも関わらず、この一連の流れを「理解できるもの/できないもの」、つまり内部と外部に分けて内部の無産性を強調する卯月コウというVtuberは、アルチュセールの字義通りに、「イデオロギー」を体現してやまない。卯月コウのリスナー「コウボーイ/コウガール」が無意識に卯月コウに埋没し、卯月コウが自らを再認する様をさらけ出す「内部」に触発されて彼/女らもまた自己反復的に卯月コウのもとで主体を反復する。卯月コウは〈主体〉ではなく、リスナーも諸主体ではない。そこに〈主体〉=神はいない、か、むしろすべての人々において二重化されている。その反復にこそ、Vtuber、少なくとも卯月コウがイデオロギー的存在である所以がある。

 

Final. 「黙ったままでいるんだ」の重みのもとで

 さて、本稿を締めくくるに当たって、語り得ないことがある。アルチュセールイデオロギー的主体の可能性、あるいはその範型は、卯月コウにのみ適用可能というわけではない。例えば、女性Vtuberの圏域における経済的問題においては下部構造、つまり男性のそれにおいては曖昧なままにされていた問題が露見することになる。そこにおいては卯月コウ以上に虚しいシニフィアンと化し、反復なき自己承認もまた、見て取れるだろう。それは「きみ」と「ぼく」の破綻以上に、インターネットのプラットフォーム全体の領域において二人称的なものの崩壊が間近であることの証左に他ならない。一は常に「ぼく」であり、全は常に「きみ」足り得た。この事実は今や覆しようのないところまで来ている。アルチュセールイデオロギーにおいて上部構造である〈国家〉さえもイデオロギーであるが故に、〈国家〉転覆から生産様式(外部)を変革すること、つまり革命は可能であると述べた。しかし、外部に出たところでイデオロギー内部における階級闘争――「きみ」と「ぼく」の――は免れ得ないし、「絶対的外部」などというものは存在しない。昔のインターネットはそうだったのかもしれない。しかし、出口(イグジット)はない。今や外部という内部がマトリョーシカのように無限に包摂され続ける。ああ、今や我々の望むインターネットなど、ありはしないのだ。

 だが、悲観的になる前に、少し待とう。即ち、来たるべき主体。到来する主体。相互=自己再認を促し、我々をもう一度奮い立たせ、外部なき外部においての負け戦に勝つための武器を与えてくれる主体を。Vtuberには、一縷の望みがある。彼、彼女らは、思考するかのように話す存在だ。昨日食べたご飯の話から、「私たち哲学的な話してるね」という内実はあまり哲学的でないがハイデガー的に言えばまだましな巷談まで、とにかく何でも喋る。喋る喋る喋る。その「おしゃべり」こそに価値がある。そしてそのおしゃべりにおいて彼/彼女らが沈黙したことに、外部なき外部で、Vtuberを消費する/したことに意味を持つ輝かしき瞬間が訪れるのを我々は待たなければならない。その輝かしき瞬間は秘められている。理論の範型の外の、配信が終わった後の、ひそやかなものを待ち望みながら。

 

[1] ミシェル・ウエルベックコロナウイルスに対して表明した見解(https://www.francetvinfo.fr/sante/maladie/coronavirus/coronavirus-pour-michel-houellebecq-le-monde-d-apres-sera-le-meme-en-un-peu-pire_3948117.html)はこの公共性とやらが消失「してしまった」のではなく最初から「そんなものはなかった(あったとしても同じようなものが少し悪くなるだけ:sera le même, en un peu pire)」と主張するものであった。確かにそうかもしれない。問題は――ウエルベックも指摘していることだが――「少しずつ悪化していく世界」は悪意あるイデオロギーの分断によってなされているということである。グローバリズムが息絶えても新たなグローバリズムが資本主義の再生産によって行われるように。

[2] 哲学者のスラヴォイ・ジジェクは10年以上前から(なぜか)Youtubeで短めの動画を上げており、彼が重要視する愛のテーマについては(ひどい訛りの英語なので字幕をつけないと何を言っているか分からないが)彼の得意とするネオマルキシズムラカン精神分析の換骨奪胎的な手法を使わず、「偶然的かつ必然的な出来事(the love event)」であって「出来事に落ちること(falling)」は「今の状況ではより難しい(more and more rare)」と認めている(「恋に落ちること」URL先1:30前後)。これは別の動画「愛について」でマッチングアプリによる恋愛という出来事の必然化を否定すること(ジジェクは愛とは「あなたの人生を誰かのために性的自由などを捨てて全て捧げること」と言っている――この点がジジェク精神分析解釈に多くのフロイディアンやラカニアンが疑義を呈する箇所でもあり、「古風なロマンチスト」ジジェクの葛藤でもある)という発言とのオーヴァーラップも見られ、親交のあるアラン・バディウが『愛の世紀』で「ミーティック」批判(当時欧米で流行ったマッチングアプリ)をしている点からもジジェクバディウは恋愛を「出来事(événement)」という形で倫理の彼岸において生起するものと捉えているという点で柿並亮佑「非恋愛論」で確認できるナンシーやレヴィナスの愛の存在論的挫折と決定的に異なる点である。柿並(2017)は以下による。『人文学報 首都大学東京人文科学研究科 特集:ジャン=リュック・ナンシーの哲学の拍動』、人文学報編集委員会編、2017年、121-151頁。

ジジェクの動画:https://www.youtube.com/watch?v=rrxk2WzrE14「恋に落ちることの我々の恐れ」/https://twitter.com/jo2geor2/status/1272174485077028864「愛について」

[3] 厳密にはフロイトの「反復強迫 Wiederholungszwang」概念をシニフィアンの領域における反復として把握するラカンの「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(『エクリ』)冒頭の言い回しをもじっており、主体の想像界から象徴界への介入において無意識の外在性を担保するのはシニフィアンであるので「シニフィエなき~」という言い回しはバルトのそれに近いためラカン的には定義自体が違う。ただし、「シニフィアンの無意識下における執拗な反復」の最も重要な役割は言葉による主体自身の再認=承認(reconnaître)であるが、「反復だけがあって永遠に承認が先送りされるという事態」をSNS的な〈主体〉再認の欠落と指摘可能であると同時に、アルチュセール精神分析の応用で行った手立てがシニフィアンの反復とは違う再認ではないことが本稿でVtuberを考える上での指針となりうる。

[4] デリダラカン批判「真理の配達人」に同じ表現があるが、ここではデリダの言う存在論的誤配の意図はない。確かにSNSにおけるシニフィアン=レットルの誤配はあるものの、デリダの言うそれではない。

[5] フロイトの概念。転移(Übertragung)の説明は『精神分析学入門』では治療の過程で起こるのでどちらかと言えばアルチュセールフロイト博士の発見」による「二つの主体の特殊な関係」(220頁)の意義を負っている。

[6] これは『精神現象学』より『歴史哲学講義』の方がヘーゲル全体主義を明確に示している。

[7] 前島賢セカイ系とは何か』星海社文庫、2014年。

[8] 例えば、舞城王太郎の名前を出すことは適切であるか。『好き好き大好き超愛してる。』(講談社文庫)における「きみ」の複数性が単数性に帰着し、「きみ」と「ぼく」ではなく、「きみとぼく」という癒着した形で小説という「セカイ」を愛によって救済する、という試みはセカイ系の拡張として考えることもできる(そして『好き好き』の「きみ」と「ぼく」の関係性は全てのエピソードにおいて挫折している)。そして『好き好き』的な(比喩としての)コミュニズムもまた現代において破綻している(成立しえない)のだ、という点を指摘するにとどめておこう。

[9] アルチュセールは「イデオロギー」を「~一般」と「諸~」で使い分ける。基本的には前者がアルチュセールのものであり、後者はマルクスのそれを指す。本稿は『再生産について』(1969)12章のイデオロギー概念を軸とした解釈となっていることを念頭に置かれたい。

[10] 個人、諸主体、〈主体〉はアルチュセール研究の中でも議論が錯綜している。〈主体〉=神としたり個人と主体はオーヴァーラップしないとしたりする見方(野見2017, 2019)や〈主体〉を精神分析で言う大文字の〈他者〉とする見方(Butler1997)など。ここではどちらの立場も取らず、筆者の卒業論文における主張をまとめている。

[11] ここにおける「無意識」についてアルチュセールフロイトに言及している。しかし、本文では関係ない「無時間的」というイデオロギーの作用が並列的に述べられている。これはマルクスに対する「否定の否定」であると同時にハイデガーから影響を受けていたラカンが無意識に言及する際の「前存在論的」という形容から着想を得ていると思われる、という点のみ指摘するに留めておく。

[12] https://nijisanji.ichikara.co.jp/member/kou-uduki/

[13] https://www.youtube.com/watch?v=yh3mubptFIc&list=PLNaCJoxxu9qVpo16AIN78opR1KBivoygb&index=2

[14] https://www.youtube.com/watch?v=Zzo-JyG42EE

[15] https://www.youtube.com/watch?v=NV0BEFV9dNk

[16] https://www.youtube.com/watch?v=NwRkuDZmduM&list=PLNaCJoxxu9qVpo16AIN78opR1KBivoygb&index=4

[17] 紙幅の限界上紹介できなかったが、「スパナ雑談」や「ラジコンシャドウバース」などがある。

[18] https://www.youtube.com/watch?v=Sxi9orVEuHQ&feature=youtu.be&t=681

[19] 俗語なので定義不良だが、卯月コウが言う場合ネガティブな感情の中の情緒的な心の動き、という程度の意味で使うことが多い。

[20] 「いっぞ」は卯月コウ配信初期に言っていた言葉で、「行くぞ」の意。配信開始時にファンがコメントしたり本人が合言葉として使用したりするなどしてこの配信時点から今までほぼ無意味な言葉になっている。