思考停止

映画、本、音楽、など

精神疾患患者から見える世界――「わたし」を保証するものの失効

・はじめに:見えざる「欠落」の問題

 友人と楽しく酒を飲み、山手線の終電より1時間早い電車に乗る。携帯を見ながら、少し酔っ払った頭でTwitterの文字列を追う。乗り換えの駅が近づいてくる。ふと、「自分」と呼ばれている意識とは違う意識がどこかで作用しているような感覚に「落ちる」。「離人症」と呼ばれる現象である。動悸が激しくなり、暑い季節であるということを差っ引いても、冷や汗、脂汗が止まらない。乗り換えの駅に着いたときには手足の震えが止まらず、酒を飲むと離人感は比較的収まるため、手元のウイスキーの小瓶を直で呷る。動悸が鳴りやまず、息は胸元で圧迫されているようで、水に溺れているように苦しい。駅員に助けを求める。私は財布に保険証のコピーと親が書いた私が精神疾患者であることを示すメッセージカードを常に携帯している。意識の線が途切れそうになりながら、「私は精神障害で、障害者等級3級の障害者手帳を持っています……」以降は無意味な文字列である。駅員の返答は、「申し訳ありませんが、身体障害者以外の方は乗車に問題がないこと、またお酒を召されていますと救護室にもお通しできません」とのことだった。

 私は、自分の病と付き合って、今度の11月で丸4年になる。精神科にもほぼ毎月、酷い場合は毎週欠かさず行っているし、段々自分の病の輪郭が明らかにはなってきている。しかし、病名の判断には3年を要した。下った診断は、主な障害は双極性障害(ⅠかⅡは主治医に明言されていない)、副次的障害は自我障害、パニック障害発達障害ADHD)の三つ。3年を要したのは、双極性障害における躁鬱混合状態と自我障害による思考奔逸/途絶が統合失調症との判別を困難にしており、偽神経症統合失調症(汎神経症)あるいは非定型型精神障害(いわゆる「ゴミ箱診断」)として対症療法を行うよりなかったからだ。それぞれの固有名詞は各自で調べてもらうとして、問題は私が病気の後に「どのように」世界が見えていて、「どのように」見られ、「どのように」思考するか、ということの健常者による理解、または診断不能と現時点でされている人々がケーススタディ的に「ああ、分かる、こういうことあるよね」と当てはめていって、いくばくか気持ちが楽になればよいという思いに基づいている。また、差別・無理解がこのような病気は生じやすい。上で示した駅での対処はごく一例であり、家庭内で病気をめぐる軋轢が生じることは珍しくない。

 これらの根本的な原因は、「精神」という言葉が持つ意味の多様さによっている。例えば、生まれつき/後天的に右手を失っている人は身体障害者であるが、いくら義手などでそれを乗り越えようとしても自分の右手を持っている人々とは違う仕方で身体を扱わなければならない。それは、「欠落/欠損」というものが「ない」ことによって見えているからだ。対して、精神疾患はどうか。こと私のような患者は、悪性期に入ると行動が著しく逸脱的になる(浪費、性的過剰、会話)。そのように「見える」分まだましで、例えば専門的に言えば適応障害を伴う鬱病(これは「新型鬱病」などと呼ばれる)の場合は理解されがたい(仕事には行けないのに、なぜ旅行はできるのか、など)。こういった場合、あるいは明らかに逸脱的な行動を患者が取る場合、それは「欠落/欠損」と見なされず、「頭のおかしい人」として煙たがられる、あるいは「甘え」という形で健常者が可能である行為を努力によって解決可能であるとされる場合がある。それは精神疾患を患っている人間であれば、健常者とは異なった努力が必要である。しかし、世界の認識が過剰/不足していれば、当然可能/不可能な行為が存在することも、理解されなくてはならず、広い意味での「障害者」と「健常者」が正しい腑分けのもとに可能なことの分担がなされねばならない。それがなされない現象は、「差別」に他ならない。

 私は、カウンセリングと薬物療法を主にして自らの病を(あえて言えば)「先送りにする」という形を取っている。しかし、精神分析のキャビネで自由連想法による根本治療を試みたこともある(三か月で中断)。本記事では、簡潔に、理論や薬効、そもそも双極性障害や自我障害とはどのような疾患なのかを述べるものではない。むしろ、「精神疾患を患うと世界がこのように見える」という私の実体験に基づいて、自分の症例をもとに「これによって何ができる/できないのか」を述べることにある。なぜなら、自分でも病気のことが分からないからであり、現在私は悪性期の只中にいる。ならばせめて、今のこの病気の厄介な点を枚挙するに留めておくことで、なんらかの――自分や身内を苦しめるこの病気を患っている人々の救いになればと――益をもたらせれば幸いである。以下、下に向かって厄介な順番に3点ほどまとめていく。全ての症状に苦しめられているわけではないことを、この最初の節の最後に注記しておく。

 

・人に迷惑をかけること:観念奔逸と自生思考、アジテーション

 精神疾患の患者の多くは、良かれ悪しかれ、人に迷惑をかけざるを得ない。それは家族、恋人、友人、その他を巻き込む形で成り立っている。私の場合、この病気の最も厄介な点は自分が苦しむこともさることながら他人をかき乱して情緒不安定にすることである。上に挙げた三つの症状の名前の中で最も厄介なのは「自生思考」である(多くの場合観念奔逸と連動して発生する)。実感としては、頭の中にいくつかの声、あるいは文字が全く異なる形で平行的に思考されるのではなく、混線してしまうことにある。大抵自生思考が起こると回路がバチンとショートし、一度30分以上動けなくなる(これを亜昏迷という。統合失調症の場合は昏迷であり、意識が持続するにも関わらず2~3日指先を動かすことさえ不可能になる)。その後、双極性障害と併発する自生思考は攻撃性を主に抑鬱状態で伴うため、物、人を無差別に攻撃する(場合がある)。私の経験ではこの攻撃的な(正確な意味でない)「発作」は二回ほどあり、一度は20歳のとき亜昏迷から自生思考に回帰した際タクシーを降りて通行人に掴みかかろうとして、当時お付き合いしていた女性の家に帰ったときに本棚をむちゃくちゃに荒らしたこと、二度目は23歳のとき父親に掴みかかったことである。

 この際、頭の中で何が起こっているのか?作用機序としては科学的に説明が可能であるのだろうが、私は精神病理学精神分析のプロパーではないので、かくかくしかじかで自生思考が発生する、という風には言えない。ただ、人間は(少なくとも私は)書く際は書き言葉で、話す際は話し言葉で思考する。それぞれは外国語と言っても差し支えないレベルで意味の隔たりがある。書き言葉で話したり、話し言葉で書いたりすること。それらの回路が混ざり合うと、頭の中でいわゆる「ワードサラダ」(文法的には間違っていないが一文の意味が通じない文章のこと)が出来上がり、そうなるとワードサラダでしか思考不可能になる。すると、亜昏迷に通ずる呼吸困難、思考途絶、動悸が早くなるなどの機序がある。なお、この際幻覚が発生する場合がある。最近は自生思考こそ少なくなってきたものの虫の幻覚(蠅のようなもの。一時期飛蚊症だったがそれでもない)や存在しない気配を感じることがある(妄想)。これらは統合失調症の症状だが、かなり軽度ではある。自生思考の厄介さは、主に会話において起こる。過去に最も酷かった時期は、「三つの話題を全部平行して喋っていた」らしい。自分の中では筋が通っているつもりでも、会話が成り立っていないということ、そしてそれが自らの思考を蝕んでいること、それが誘因で攻撃的な発作(抑鬱を伴う)が発生する場合があるということである。

 人を振り回す上で厄介なのはアジテーションである。厳密に言えばAgitated Depressionという言葉があり、日本で研究が進んでいないので私訳で言えば「煽動的抑鬱」という形になる。いわゆる双極性障害における抑鬱の非常に珍しいパターンだが、「Agitated」とある通り抑鬱なのに興奮状態にある現象を指す。これは統合失調症との区別が難しく、私がゴミ箱診断を受けた一つの理由でもある。のちほど述べる「抑鬱」と「アジテーション」が別々に発生する場合もあれば同時に起こる場合もあり、合わせて起こると「とにかく外に出たい」「じっとしていられない」「人と話したい」という、いわゆる鬱病(ここは注記しておくが、双極性障害抑鬱鬱病は発生メカニズムが異なっている)の「接続の切断」ではなく「過剰接続」の欲求が非常に高い状態にあり、いざ会うと寛解期とは全く違う風にしか喋れない。というのは、喋りたいことはいっぱいあるのだが、トピックの選択が難しいということであり、結果的に人を呼んでおいてろくに喋れないという事態もある。

 簡単に観念奔逸に触れておく。自生思考の混線が起こっていない状態と考えればよい。統合失調症の陽性症状か双極性障害躁状態において現れる。アイデアが次々と生まれ、創作などで迷惑をかけなければ非常によい状態だが、自生思考と結びつくため注意が必要である。

 

・自分が辛いとき:抑鬱希死念慮

 双極性障害を抱えている、あるいは双極性障害なのではないかと考えている人々には非常にむごい話で、主治医からも聞いたときかなり絶望的になったが、抑鬱であれ双極性障害には抗鬱剤(多くはSSRI)は禁忌(処方してはいけない・悪化する可能性がある)である。なので、ミシェル・ウエルベックセロトニン』冒頭のキャプトリクス錠のような薬は抑鬱において存在しない、という前提だけ言っておこう。主に気分安定剤のリチウムやデパケンジプレキサなどが用いられる。

 酷い抑鬱において最も本人がしんどいのは「何に対してしんどいのかが分からないのがしんどい」という事実である。「純粋な絶望」と呼べばいいのだろうか、ストレス因の除去と言ってもそのストレス因が存在しているのかが分からない。「分からない」というのが重要で、ある可能性もあるのだが抑鬱状態においては判断能力が著しく鈍るために判明しない場合が大きい。私がよく使う例えとして、「親しい友人が死んだような感覚」というのが適切だと思う。しかもそれが悪い場合は延々と一か月や二か月続く場合もあり、その後の激しい躁転でまた人に迷惑をかける可能性があることにまた憂鬱になる、という次第である。最も厄介なのは以下に述べる「躁鬱混合状態」だが、これが激しい人には一日おきで起こる場合もある。さて、まとめて話してしまえば希死念慮だが、抑鬱と関係があるようでなかったり、ないようであったりする。というのは「今のこの絶望から楽になりたい→死のう」という機序で希死念慮は働かない。むしろ、双極性障害鬱病においてよく言われているように、「上がってくる」過程で発生しやすい。その過程で発生する機序については不勉強なので無闇な説明を控えるが、実感としては躁転がいきなりではなく徐々に回復していくときに唐突に「あ、死のうかな」といった感じで訪れる。そこには覚悟や、恐怖といったものが存在しないが故に、危ない症状である。もしこのエントリを読んでいる人で身内にそれに類する人がいた場合、動向をくまなくチェックする必要がある。ちなみに私は自殺未遂を厳密に言えば二回やらかしており、マンションのベランダを上って飛び降りようとしたところ(3階なのでせいぜい脚の骨が砕けて半身不随が関の山だろうが)に親が帰宅して思いとどまる、駅のホームドアを乗り越えようとして客から引きずり降ろされるの二つだが、大事にならなくてよかったと思う。

 

・俺は誰だっけ?:躁鬱混合エピソードと離人症

 双極性障害Wikipediaを読んでもらえば分かるが、双極性障害は三つの「エピソード」と「寛解期」のサイクルで患者に様々な症状をもたらす。寛解期は普通の状態なので特に言うべきことはないが、肝心なのは「躁」と「鬱」のエピソードだけでは双極性障害は成り立っていないことだ。「躁鬱混合エピソード」というものがある。例えば、私は主に起きたときの身体の具合で「今日は調子がいい/悪いな」という判断をする。眠れても抑鬱気味だと(ほぼ寛解しているパニック障害の発作か自生思考の発作の影響があるのか)体がバキバキになっている場合がある(そういう場合は簡単なストレッチと晴れていれば散歩して太陽光を浴びている。薬以外にもこういうことは大事)。20歳の頃の恋人の家に一か月弱程度居候していたことがあったが、当時は毎朝バキバキだった。一日中抑鬱のときもありベッドから動けないこともあれば、友人を呼び出して遊びに行ったり電話をかけまくったり当時所属していたサークルの原稿を半日かけて書くなど、行動に全く一貫性がなかった。これをもって私は「ゴミ箱診断」を食らうわけだが、その二年後に「あれは躁鬱混合だね」と主治医に言われた。

 躁鬱混合自体は珍しいものではなく、大体エピソード間の過渡期に短期的に発生するとは主治医の弁だが、私の症状が珍しいのは統合失調症の症状と結びついて躁鬱混合がメインとなっていることである。「統合失調症」は最近できた言葉で、昔の言葉では「早発性痴呆」などがあるが、実感としては「精神分裂病」というのがしっかりしていた。というのは、明らかに体が動かないのに、飯も食えないのに、とにかく頭の中にアイデアが浮かぶ(観念奔逸)、当時はパチンコ中毒だったのでルノアールでモーニングを食べてパチンコ屋の開店10時に並んで、勝った金で友人と酒を胃袋が口から出そうになるまで飲んだりしても途中から無言になり、死にたくなって彼女の家に帰ったりなど、どっちが本当の「俺」として行動を定義づけているのかが一切分からないこと、それ自体が恐怖であり焦燥感を募らせた。また、自分の意識が内側ではなく外側にボーッと遠ざかっていき、「そこ」で思考している(かなり伝えるのが難しい表現だ)という気味の悪さは自我障害による離人症という見立てを主治医はしている。そして私は今も、離人症躁鬱混合、その他もろもろの病に侵されている。自分を「自分」であると言葉でなく定義できなくなる瞬間の恐怖は尋常ではない。

 

・終わりに:すべてうまくはいかなくても

 「じゃあ、死んでいいのか?」「怖かったら、楽になればいいじゃん」。そういう声も聞こえる。誰かからではない、自分の中のかろうじて生き残っている「自分」が、そう囁く。上のWikiにもあるが、双極性障害は「難治性」であり、90%以上が治らない病気である。病気において意志がほぼ無力であることを私は知っている。意志を決定する根本的な何かを脅かすもの、それが精神疾患というものだからだ。「だから」、健常者と同じやり方で人生を歩むことはできない。左脚のない人が義足をつけたとしても普通の左足で歩いている人のように歩くことはできないように、精神疾患患者もそれは同様なのだ。

 だが、義足で歩く人々のように、私たち精神疾患患者もそれなりの生きるモデルというものはあり、それをその人それぞれが違った仕方で選び取ることが一番大事なことなのだ。すごく貧乏で、障害のせいで働き口がなくて、どうしようもなかったり、あるいは食うには困っていないけども人生が病気によって無価値に思えるから生きている意味がよく分からなかったり、それは経済的な問題や自分そのものの根本的な問題で「病気によって」そう思ってしまう人は、いる。それを私は甘えだとは思わない。病気のせいにしているとも思わない。「健常者と同じやり方で」やることに無理がある。

 我々は、我々にできることでやるしかない。すべてうまくはいかなくても、活路はあるはずである、必ず。