思考停止

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アルチュセールとデリダにおける法概念についての覚え書き①

 ルイ・アルチュセールジャック・デリダ、この二人を並べて論じることは少ないかもしれない。アルチュセールが生涯徹底してマルクスマキャヴェリモンテスキュー等を扱いながら彼独特の理論を徹底していったのに対して、デリダ現象学とそこにおける脱構築フッサールハイデガーに基づきながら分析していった哲学者であるからだ。

 しかし、マイケル・スプリンカーとデリダとの対談「政治と友情」において、デリダアルチュセールの教師性に触れながらエコル・ノルマルでのアルチュセールとの関係や思想的差異に触れている。また、『マルクスの亡霊たち』が1993年、アルチュセールの没後僅か3年後に書かれているという事実にも注目すべきだろう。アルチュセールデリダ、この両者を近づけるさらなる視座として、ここでは「法」の概念に注目していきたい。

 

 アルチュセールは、比較的早い時期から法を問題化していた。その萌芽は、1959年の論文「モンテスキュー」に見て取ることができる。ここにおけるアルチュセールの眼目は、モンテスキューの著書『法の精神の擁護』を引き合いに出しつつ、法なるものがいかにして認められるのかということである。アルチュセールは、のちに『再生産について』で述べられ、またのちに触れることになる重要な概念を(モンテスキューをかさに着ながら)ここで提出している。モンテスキューの言葉を引いて彼が主張するのは、「法はまさしく関係である」という事実である。*1ここで彼が述べる事実は、アルチュセールの根本的な法概念と結びつくものである(どう結びつくかは以下を参照)。単なる「命令」であり神的なものでさえあった法は、存在相互間の関係として読み直される。アルチュセールはこのモンテスキューの慧眼をいち早く察知していた。とはいえ、「モンテスキュー」は法の構造やシステム、作用について触れることはなく、あくまで近代法とそれ以前の法の概念を比較検討するに留まっている。ここで強調しておきたいのは、法が「存在相互間の関係」として解釈されており、この規定性が70年代以降のアルチュセールにおける法論の下地となっているという点だ。つまり、神的なもの(それはとりもなおさず一者である)としての「命令」によって存在諸項が関係づけられるのではなく、存在諸項の相互的な規定がそのまま法になるという構造をアルチュセールは既にモンテスキューの中に見て取っていたのである。

 その約10年後、アルチュセールの代表的な仕事の一つでありながら未完に終わってしまった著作『再生産について』が発表されるに至る。また、「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」はこの『再生産について』のイデオロギー論を抜粋しリライトを加えたものである。ところで、『再生産について』と「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」には明確な違いがある。アルチュセールは後者を論文としてリライトする際に、法に関する言及(5章、11章)を削除しているのである。この事実を鑑みても、アルチュセールにとって法という概念が特権的とは言わないまでもある種特殊な位置を占めていたのは明らかであろう。

 アルチュセールは、執行されるところの<法>と「法的イデオロギー」を明確に区別する。<法>がひとつの抑圧装置として機能するのに対して、法的イデオロギーはあくまでもイデオロギーであるが故に<法>に対して従属的な関係を持つ。では、アルチュセールの述べる<法>とはいかなるものなのか。

1/<法>は、現存する生産諸関係との関連でしか存在しない。

2/<法>は、それに関連して存在する生産諸関係が、<法>そのものには完全に欠けているという条件においてしか、<法>の形式、つまり<法>の形式的な体系性をもつことはない。*2

 まず、1に上に挙げた「モンテスキュー」のうちで展開されたテーゼ、「法は存在相互間の関係である」の影響を色濃く認めることが出来るだろう。アルチュセールはこのテーゼをさらに敷衍させ、「現存する生産諸関係」、つまり社会構成体として機能している生産のあらゆる関係との関連においてのみ<法>は成り立ち得るのである。これこそがアルチュセールの法概念のまずもっての基礎であり、その源流はモンテスキュー論において認められるという事実が一層明らかになるものである。2に掲げられているテーゼはやや難解ではあるが、<法>は生産諸関係との関連でしか存在しないが、<法>そのものに生産諸関係は一切内在せず、その限りにおいて<法>は形式的な体系性をうることができる、ということでひとまずは良いだろう。つまり、<法>は生産諸関係と関連しながら、生産諸関係の完全な外部においてその形式を獲得することができるということである。

 ここで注意しておきたいのは、上にも述べたが<法>と法的イデオロギーは違うという点である。そもそも、イデオロギーは完全に質料的である。それに対して<法>は、「形式的な体系性」であり、<法>がマテリアリテを獲得することはついぞない。法的イデオロギーについてのアルチュセールの記述を参照しよう。

(前略)法的イデオロギーが、まさに自由、平等、義務の観念を再びとりあげるとき、法的イデオロギーはこれらの観念を、<法>の外に、ゆえに<法>の諸規則の体系の外とその限界の外に、すなわち全く違う諸観念によって構造化されたあるイデオロギー的言説のなかに刻み込むのである。*3

 ここでアルチュセールが主張しているのは、法的イデオロギーは自由、平等、義務といった観念を<法>の外に追いやり、任意のイデオロギー(的言説)にそういった観念を書き込むというその機能である。だから、<法>と法的イデオロギーを截然と分けるものは、以下のように言うことが出来るだろう。即ち、<法>は生産諸関係との関連で存在し、また内容を持たない形式的な体系である。それに対して、法的イデオロギーは<法>のもとにありながら、<法>にまつわる諸観念をまた違ったイデオロギーの中に書き込むものである。この両者の機能をまとめて、アルチュセールは以下のように述べる。

したがって、われわれは<法>の実践は圧倒的に多くの場合「法的-道徳的イデオロギーによって」「機能する」と言おう。*4

 ここでさらに論を敷衍させてみたい。イデオロギーは完全に質料的である、と上に述べたが、それはどのような意味においてであろうか。アルチュセールイデオロギーのマテリアリテについて言及する際に、意図しているであろうものは恐らく「個人」である。この個人は、それだけでは社会構成体に組み込まれることができない。何故ならば、イデオロギーを内面化していないからである。さらに言えば、イデオロギーは「身体的儀礼」によって内面化される。<法>が必然的に抑圧的である*5以上、<法>の執行は懲罰的であれ潜在的であれ、あらゆる個人に亘って「呼びかけ」られるものである。*6そこでイデオロギーに「呼びかけ」られた個人はいやがおうにも「振り向く」。法的イデオロギーになぞらえていえば、法的イデオロギーの作用によって<法>が諸個人に対して規定性を与える。その規定性—「呼びかけ」に対する「振り向き」—を諸個人が実践する(身体的儀礼)ことによって、初めて個人は社会構成体における主体となる。そして、主体化が行われると同時に、主体はイデオロギーに対して服従化assujettisementするのである。これについては、ジュディス・バトラーの記述が参考となる。

振り向きは、言わば、法の「声」と、法によって呼びかけられた者の応答の双方によって条件付けられた行為である。*7

 雑駁ではあるが、ここで一つのまとめを行うことにしたい。アルチュセールにおいて、「法」は抑圧装置であると共に生産諸関係の関連によって存在するものであり、法的イデオロギーはその執行を可能にするものである。そして個人は、<法>の法的イデオロギーによって可能となった「呼びかけ」と個人の「振り向き」によって、個人は主体化=服従化される。以上が、アルチュセールにおける「法」概念である。(続く)

*1:ルイ・アルチュセール/西川長夫・阪上孝訳『政治と歴史』、紀伊国屋書店、1974年、p. 34.

*2:ルイ・アルチュセール/西川長夫・伊吹浩一・大中一爾・今野晃・山家歩訳『再生産について 上』、平凡社ライブラリー、2010年、p. 142.

*3:『再生産について 上』、p. 156.

*4:『再生産について 上』、p. 159.

*5:『再生産について 上』、p. 150.

*6:ここで注意しておきたいのは、<法>に「呼びかけ」る機能はない。「呼びかけ」を可能にするのは、あくまでも法的イデオロギーの作用によるものである。

*7:ジュディス・バトラー/佐藤嘉幸・清水知子訳『権力の心的な生』、月曜社、2012年、p. 134.