思考停止

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エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』(1991) 感想


映画 『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』 予告編

 感想を書く前に、苦言めいたものをひとつ。自分はこの映画をアップリンクで観たのだが、(まあ分かってるならユジク阿佐ヶ谷で観ればよかったじゃねえかという批判は置いておいて)アップリンクという映画館はあまりにも音が悪過ぎると思う。劇伴はもちろんのこと、効果音も映画を構成する極めて重要な要素である訳で、前回アップリンクで観た『少女椿』(これは映画もちょっとどうしようもない程の駄作だったのでどうでもいいのだが)でも思ったことだが音が全体的にこもっていて鮮明さに欠ける。イメージフォーラムの1Fも大概ではあるが、あんなしょぼい音では映画も報われないだろうという気がしてしまう。それがこの『クーリンチェ』のような作品ならなおさら感じられてしまい、つくづく公開時の角川シネマ等で観なかったことを後悔した。上映前の機材トラブルのせいではないでしょうよ。

 

 フランス文学家(この肩書きは重要である)の蓮實重彦は、自らが映画を論じることは「運動の擁護」であると言った。スクリーンに光を「投じる」という運動によって映画が始まるその事実が示す通り、映画が映画として立ち上がるそれ以前から運動は映画の宿命として背負われるべきものだろう。況やスクリーンの中についてをや、である。そして、それを語ることによって「擁護する」ということ。世界の耐えられないほどの醜悪さによって、ひとつの夢の装置であり、現実から飛び立つ契機であり、またもう一つの「現実」である映画が傷つけられてしまうことを言葉によって守り抜く行為こそが、「運動の擁護」なのではないか。そして、『クーリンチェ少年殺人事件』は、どのような人々によってであれ、擁護されねばならない運動である。

 権利関係など様々な事情によって日の目を見ることが他のヤン作品に比べて大きく遅れをとったこの作品は、昨年の東京国際映画祭でようやく数多の問題をクリアして公開された。観客たちは口を揃えてこの作品を絶賛した。実際、自分の身の回りの映画オタクに聞いても、一切の否定的な言辞がないことには驚いた。しかし、その鳴り物っぷりに対する畏怖なのかどうかは知らないが、ここまで絶賛されている映画にしては妙な違和感があった。Twitterを始めとするSNSや、雑誌などのあらゆる媒体を見ても、この映画は語られようとしないのだ。初めは「言葉が出ないくらいめちゃくちゃにスゴい映画なんだろうな」という程度の考えだったのだが、それにしても気持ちが悪いほどに、この映画について語られることは、少なくとも自分の目にする範囲では無かった。長尺で情報量があり過ぎる上にソフト化されていないから?(見るに耐えない画質のVHS版はあるものの)いや、それでは濱口竜介の『ハッピーアワー』やパトリシオ・グスマンの『チリの闘い』についての説明がつかない。『シン・ゴジラ』のエントリにおいて、庵野秀明の作品には何かを語らせずにはおかない磁場が発生していると述べたが、『クーリンチェ少年殺人事件』においては、何も語らせない磁場が映画そのものから発生しているのではないか。であるならば、『シン・ゴジラ』の磁場に従順であったこととは逆に、『クーリンチェ』の磁場にはしばし抗ってみようと思う。

 

 この映画は、我々の目の前で2回変貌する。1回目は画面構造において、2回目はドラマトゥルギーにおいてである。全体を通して、ヤンのキャメラは違和感を覚えるほどに均質かつ完璧だと言える。光と闇をここまで符牒的に用いた作家はかつていなかっただろうし、クロースアップを用いずにひたすらミディアム/ロングショットのみで、かつ一つ一つのショットが審美的でありショット間の結びつきはこれ以外の組み合わせが考えられないというレベルで緊密だ。その極度に緻密な映画的空間では、映画自身が遂げる2度の「変貌」すらもその緻密さのうちの一つであるかのように思えてくるのが恐ろしい。

 

 1回目の変貌は、不良グループ・小公園の縄張りに小四と小明が二人で入ってしまうところにおいて起こる。その箇所に至るまで、ショットの焦点は決して中心に合うことがない。冒頭、暗闇の中で白熱灯が煌々と灯され、真っ赤に画面が染まっていく衝撃的なタイトルバックでこの映画は幕を開けるが、その白熱灯は寄る辺無くブラブラと吊るされていることをはっきりと我々は覚えてしまう。冒頭からその訓練場のシークエンスまで、独特の焦点のズレがもたらす奇妙な感覚を我々は味わい続けることになる。というのは、スクリーンの中央付近に物体があれば、観客の視線はそこに行くことになるし、事実その無意識の視線の動きを利用してショットは構成されることが多い(シンメトリーの構図は中央から左右対称であるが故に審美的である)。しかし、観客の生理に反するように、ヤンの取る構図は中心を奪われているが故に奥行きを持たず、結果的にショットはタブロー的な平面さに支配される。小四と小猫王が教室で隣同士に座っているショットは何度か出てくるが、この物語の主人公である小四が「中心にいない」という(こういってよければ)ある種の欠如は象徴的である。また、主人公が中心から「いなくなっている」、というよりは予め中心という「場所そのものが欠如している」という事実を上記のショット以上に端的に示すのは集合写真のシークエンスであろう。あのショットが持つ不穏な感覚と奇妙なすわりの悪さは、全員がキャメラの方を向いているのにも関わらず観客がどこを観ればよいのかが分からない(=中心が欠如している)という事態に依っている。その結果観客はスクリーン全体を観るように誘導されるが、そうやって見られる「全体」の感覚は視線の仮託先を失っているが故に常に浮遊感を伴う。

 しかし、その欠如として予感されていた視線の中心は、訓練場のシークエンスにおいて適切な形で獲得される。その地点に至るまでいわば「目を慣らされていた」観客は、ロングショットで捉えられた兵士(?)たちが点々と散っているショットを目にしても驚かないが、彼らが画面の中央に向かってぎっしりと集合していく運動には目を見張ってしまう。左側から自転車を押す小四と小明がカットインしてきて、中心には辿り着かないだろうと思いながら観ているとあっさり中心に辿り着いてしまってぎょっとする。ミディアム/ロングショットの両方において決して視点が定位することがなかったこの映画は、当場面において同じく両方のスケールのショットが徐々に中心を獲得することによってじわじわと「変貌」する。これ以降、構図は中心を失ったり取り戻したりしながら、映画全体の緩やかなダイナミズムを構築していくことになる。小四が暴力を行使するのもこのシーンが初めてであるが、この中心の獲得による変貌を小四の「世界」の変貌だと言っては穿ち過ぎだろうか?だが、この映画のテーマが「世界の持つ不条理はとりもなおさず愛が挫折することの不条理」ということである以上、小四の「世界」はここで中心を獲得する=小明と本当の意味において出会う(正しくは本当の意味で出会い損ねているのだが)と言ってもよいのではないか。

 

 第1の変貌、即ちこの映画が中心を獲得して以降、完璧な精密さによって映画は進行する。特に、山東のアジトが停電した際に灯される蝋燭の光の透明感であり、また同じ場所で山東によるハニー殺害後の討ち入りが行われた際の暴れ回る懐中電灯の光線の鮮やかさは多くの人の心を掴むに足る部分だろう。この光の精密な操作は多くの映画的記憶を喚起してやまないが、とりわけスタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を観たことがある人ならば誰でも、あの映画における蝋燭の光を『クーリンチェ』に思い出させられるに違いない。と同時に、この若干異常な尺を持つ映画の均質なまでの完璧さに、どこか違和感を感じたのは自分だけではないと思う。ドラマティックでない訳ではないし、さらに言えば間然とするところが一切ない。しかし、その穴のなさがどこか奇妙である…。この奇妙さについて思い起こされるのは、やはりキューブリックなのである。この映画におけるヤンのスタンスとキューブリックのそれに共通して言えるのは、観客に安易な感情移入を厳しく禁じている点である。観客がなぜ映画を観て涙したり楽しい気持ちになったりするのかというのは、つまるところ(主人公に)自らの気持ちを重ねられるようにその映画が出来ているからだ。かなり単純に言い切ってしまったが、その手法はさまざまである。視線の切り返し、劇伴音楽による感情の起伏、あるいはもっと直接的なものとしては台詞やナレーションなど、挙げ出したら切りがない。加藤幹郎風に言ってしまえば、観客は映画の中の主人公を「ファントム・ライド」(分かりやすい例で言えば東京ディズニーシートイストーリーマニアで皆が乗るアレ)として映画を(通俗的な次元において)疑似体験することができる。ヤンとキューブリックの共通点であり、彼らの映画が異質であるとするならばその部分である。つまり、彼らは決して観客を映画内の人物に引き込むことなく、しかし説話論的構造の明快さを失うことなく映画を完成させてしまっている。観客は彼らの映画の登場人物に完全に自分たちの感情のバイオリズムを一致させることがどうしてもできない。何故ならば、キャメラや音楽、台詞といった通常観客の感情のバイオリズムと映画のテンションを一致させるための装置が、意図的にそれらの役割を脱臼させられてしまっているからだ。さらにヤンはキューブリックよりも厳しい形で、つまりショットから自明のものとしてあったはずの「中心」を剥奪することによって一層観客を遠くへと突き放しているのである。もうひとつ言うならば、キューブリックの映画の中で登場人物たちのエネルギーが高まっている場合、キャメラの動きや音楽(効果音も含む)は比較的素直な形で比例してダイナミックになる。ところが、ヤンの場合はそれすらも均質である。この映画はハニーの死亡によって小明の感情の行き場がなくなるあたりから小四自身、また小四の家庭や小馬との関係が段々と狂っていくのだが、漫然と観ているとそのことにすら気づくことができないのではないか。明らかに狂っているはずなのに、何も起こっていないかのように見えるという気味が悪いほどのスタティックな感覚は、キューブリックにないと同時にヤンにのみ見られる作家性だろう。

 

 そのつるりとした完成度で淡々と進んできた映画は、小馬と小明の関係を小四が知るラスト20分において破調を迎える。この破調こそが、この映画の第2の変貌である。夜間学校を度重なる素行不良で退学となり、想いを寄せていた(ここはこの言葉では明らかに言葉足らずなのだが)小明にも裏切られ、小馬を殺害するべく短刀を持って待ち構える。そこに小明が意図せずして現れる。小四は言う。

「君の世界は僕が照らしてみせる」

ブラスバンドの練習中の教室で小四が小明の肩を掴んで絶叫した言葉を、もう一度静かに繰り返す。このどこまでも静かで満たされた映画において、本当に数少ない破れかぶれの言葉である。あなたの「世界」を、私の「世界」によって変えることができると信じること。別々の「世界」が、もしかしたら繋がるかもしれないとどこかで予感し続けること。それは、愛でなくてなんであろうか。愛するということの切実さを、青いままに小四は小明に繰り返す。しかし、小明はそのことを信じていなかった。

「言ったでしょう?社会は変わらないのよ。あなたも私を変えようとしていたのね。あなただけはそうじゃないと思っていたのに。」

この映画のテーマが「世界の持つ不条理はとりもなおさず愛が挫折することの不条理」であると上に書いたのは、この小明に集約される。小四にとって、照らされるべきは小明の世界ではなく、小四自身の世界であった。小四は小明に「出会う」ことによって、確かに彼の世界は照らされたのだった。しかし、その光源は自明なものではなかったし、小四は小明に出会っていたのではなく「出会い損ね」ていたのである。小四にとって世界が不条理であるのは、愛するという切実な世界の変容の可能性が常に挫折してしまうことだったという事実は、あまりにもドラスティックだった(「光源が失われる」という運動については蝋燭の火の吹き消しの反復、懐中電灯の明滅、そして教員室の白熱灯破壊によって象徴的に示されている)。その結果として、小四は小明を短刀で突き殺す。端正さを保っていたこの映画の最後の20分間は、そのエンドロールまでそれまで押さえていた感情が抑え切れず漏れ出すための20分間として用意されている。小四は暴れ、父はマスコミに揉みくちゃにされ、小馬は小四を「唯一の友達だった」と言って嗚咽する。そこで鳴り響く讃美歌は、なんと皮相で、なんと誠実に聴こえるだろうか。はっきり言って、その破調、感情によるドラマトゥルギーの大どんでん返しとして、わざとらしいほどに完璧な幕切れである。

 

 …と、この映画が見せる劇的な2つの「変貌」に的を絞ってこの映画がいかに「完全」であるかを強調してみせたものの、観終わったあとに疑問、あるいはわだかまりのようなものが残る。世界の可塑性を信じるという意味での愛(人を殺してしまうほどの!)という、焼き切れそうなほどに切実なテーマに対して、この映画は果たして「完全」であるのか?と。夢の装置としての、あるときは現実を越えるもう一つの「現実」としての映画は、ときには夢や現実以上にいびつでなければならないのではないか。その破調に至るまでが計算され尽くしている緻密さに舌を巻くことは映画的な快楽には違いないが、観る者の人生に食い込み、もしかしたら映画のせいで人生が台無しになってしまうかもしれないといったような、作り手の意志を越えて映画そのものが暴走してしまうような、そういう彼岸に連れ去られていくような感覚を、果たして『クーリンチェ少年殺人事件』という映画は持っていたのだろうか。この映画に対して語ることをやめるということは、そのような問いを提起せずに、『クーリンチェ』という映画の持つ可能性を封じることになってしまう恐れがある。この映画のある種の「語らせなさ」は、その完璧さ、完全さに多くを負うところがあるのだろう。しかし、しかし、映画とは、もっと狂おしいもので、もっといびつなものであってほしいのだ…と、声にならない声で映画(と世界)に渇望することが、恐らくこの伝説と化した映画の持つ重みを直接に引き受けることなのだ。それはちょうど、大人たちに羽交い締めにされながら映画から退場していってしまった、あの小四のような態度であるのかもしれない。