思考停止

映画、本、音楽、など

自分語りは哲学に先立つか

言葉においては私たちは、私たちにとって重要なものを把握することができない。

…この困難に対して、大多数の人間は無関心だ。

生がそれ自体で問いになっている場合、この問いに答を出す必要はない。この問いを提起する必要さえない。

だが、一人の人間がこの問いに答を出さず、自分にこの問いを提起すらしないという事実は、この問いを排除するものではない。 (ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』)

 

 接客業のアルバイトをしていると、客に「大学で何の勉強をしているの?」と聞かれることがある。文学部で哲学をやっていますと答えると、「俺/私の哲学は…」と、いわゆる「オレ流」の「哲学」を開陳されることは多い。そういうときにいや哲学というのはですね、などと長演説を負けじとぶったところで、こちらが得るものはない。そもそもあちらは金を払って気持ちよく酒を飲みに来ているのだから、ああ生きることが楽そうで本当に羨ましいですね、などと思いながら相槌を打つ以上のリアクションはしなくてよいのである。

 しかし、まあ、だからといって哲学が何たるかを自分が分かっている訳ではない。真善美とは何か?人間の認識の限界は?なぜ存在するのか?…強いて言うのであれば、そのような「問い」の無限の反復が哲学なのだろうか。これもまた問いであるが故に、哲学と言えるのだろうか。終わりの見えない、異常に分厚い哲学書(これを僕はよく「殴ったら死ぬ本」とか「物理的に殺せる本」とか言うが)のページを四苦八苦しながら手繰っていると、よくそういうことを考える。

 

 バタイユが提示する言葉と生の関係性における「問い」のあり方は、少なくとも哲学書とやらを多少なりとも読む人間にとってはかなり生々しい。何が生々しいのか。それはつまり、自らの、他ならぬ(という言い回しを哲学ではよくする)生を語ることが、どこまで「問い」として普遍的に定立しうるのか、という可能性について、バタイユはっきりと言及しているからだ。というか、人間が生を語るとき、それはどこまで言っても「私」の生に他ならない。じゃあ、お前の生を語ることによって、何が普遍性を持って「問い」として現れるんだよ…?

 

 ここで、哲学を少なからず学ぼうとする学生は、ひとつの倫理的な葛藤を経験せざるを得ない。どこまでが「自分語り」で、どこまでが「哲学」なのか。もっと言えば、自らの生の実感と地続きで語ることと、エヴィデンシャルで教条主義的な学問として論じることの、どこにおいて「哲学」とやらが現れるのかという際限のない不安に駆られることになる。上にも書いたが、生きることそのものと生きることを語ることに、普遍性はないというか、普遍性を持つことができない。生の体験は、限りなく個人的なものとしてしか語ることができないからだ。だが、それでは哲学において立てられて来た問いなるものの意味が、もはやその個人性の前で脱臼され、なすすべもなく無力化されてしまうことは明らかだ。だからこそ、「私」や「僕」ではなく「われわれ」、そこにおいて個人性が開かれることはない論理的主体としての、いわば空虚としての1人称複数が、普遍性を保証するために立ち上がることになる。どこに立ち上がるのか?それは即ち、論証と文献学的なドグマに基づいた、researchとしての「学問」とやらのフィールドにおいてである。そこではあらゆる相対化された生の語りが、「われわれ」という、言ってしまえば奇妙な意志なき主体によって語り直される。そうなると、個としての「わたし」は迷子だ。かけがえのない生を生きて、それを語ろうとした「わたし」は、「われわれ」に押しつぶされそうになる。そして、そのギリギリの逼迫した戦いにおいて、ようやく(いつの日か)「オレ流」ではない哲学が姿を現すことになるのだろうか(ここでもエクスキューズをせざるを得ないところが難しいところだ)。

 

 言ってしまえば、19世紀末で主体の代替不可能性をベルクソンが強く主張することで、それまで哲学において支配的だった神の概念は事実上ほとんど解体され、ニーチェで神と主体としての人間の関わりのようなものはとりあえず消滅する。すると、今度はこの世界にいるこの私、みたいなものが問題化されてきて、私以外の何か、つまり他者とやらがそれはもうもの凄い脅威として立ち現れてくる。だって、私を確実に定義するよすががもはやないどころか、私を私でなくするような存在に気づいてしまったら、それは恐怖でなくてなんだろう。そこで、主体は主体を記述することで、哲学の問題は「われわれ」から「わたし」へと横滑りしてゆく。でも、それって学問としてアリなのだろうか。それは、お前の「ねえ聞いて!かくかくがしかじかでオレは生きづらくって…」という愚痴なのではないか。それを普遍的に思考する体系を、主体を語る主体はどこかで保証しなければいけない。その保証はドグマティッシュなものでしか為され得ない。しかしドグマティッシュであるあまり「わたし」がいなくなってしまうのは怖い…。こうして、主体を語る主体は、自分語りと学問のはざまにあるはずの「哲学」を獲得する強度を語りそのものが持たない限り、どこかで溺死するハメになる。だからこそ哲学は、おいそれと「オレ流」にしてはいけないのである…。

 

 何故突然こんなオチのないエントリを書いたのかというと、最近自分の問題意識と知的好奇心にズレが生じて来ているなと思った矢先に同じことを考えている人とこういうことを話したからだ。言ってしまえば、文学は(それこそバタイユも言う通り)悪さえも本質として孕み得る。しかし哲学は、善く生きようとする意志によって書かれ、また語られる。ではそこにおいて、生々しい生の実感とエヴィデンスによって保証された学問的論証は、果たして哲学においてどこまで可能になるのか?まあ、結局折り合いでしかないような気もするのだが。