思考停止

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「ストリップ劇場」論序説に対するごく短い補説

lesamantsdutokyo.hatenablog.com

 上記のエントリでは書き切ることが出来なかった(そもそも「序説」であるのだから)が、ある興味深い指摘があったのでここでわずかばかりながらその指摘について触れてみたい。すなわち、「劇場」という場の生起である。

 演者を括弧に括った上で、ストリップ劇場という「場」は明らかに他の「劇場」と比べて異質である。いや、異質、というのはやや違うかもしれない。それは例えば、アイドルのライブなどと近いものがあるからだ。それらを紐帯するものは観客間で行われるコミュニケーションである、とひとまずは言うことができるだろう。

 しかしアイドルのライブにおいて起こるコミュニケーションが極めて内輪(「ヲタク」同士のもの)であることに加え、そのコミュニティ外で行われるコミュニケーションは事務的とさえ言えるからだ(この子の握手列はどこでしょうか、など)。アイドルのライブに行かなくなって久しいが、それは皮膚感覚として、確かに横たわっている(語弊を恐れず言うならば)「よそよそしさ」だ。

 ストリップ劇場において生起するコミュニケーションは、無論「ヲタク」同士のコミュニティも存在していない訳ではないが、劇場外のロビーで行われる「見知らぬ人同士の」コミュニケーションが極めて活発であるということだ。例えば、こんな風に。

 

―今日は混んでいますね。公演時間も45分近く押しているんじゃないですか。

―今日の○○さんは道劇(道頓堀劇場)出身でねえ、今日が引退公演なんですよ。目当ての子はいますか?

―ええ、六花ましろさんです。撮影時間のときに見て、とてもいいなと思いました。

―ましろさんですか、目の付け所がいいですねえ。さわやかで、よく鍛えられていて……。でも、彼女は厳しいんですよ、礼儀に。

―そうなんですか。とてもそうは見えませんが。

―それはもう。私も何度か怒られてしまいましたよ。彼女は女性にも人気があるんですけどね。ちなみに、ここは今日が初めてですか?

―ええ。ふらっと入ったんですが、作法が分からなくて……。

―(他の人が入ってきて)大変な日に来ちゃいましたねえ。でも、ましろさんならこの後もたくさん観る機会がありますから、是非他の日も来てください。

―ええ、ありがとうございます。

 

……といったような具合だ。こういう会話が、ロビーの至るところで行われている。劇場の中では、女性客も多い(3割程度が女性だったと思う)。その間でも、このような会話が繰り広げられている。

 つまり、ストリップ劇場という「場」は、観客同士においてもコミュニケーションという手段によって入り乱れ、「客」と「客」というような個人の関係性を持たず、「観客」という集合の中で共振するといってもいいだろう。この点も、映画や演劇における「場」(映画館や劇場など)では見ることのできない光景だろう。

 

 他にも、女「性」の消費など、弱者としての女性がフェティシズムの「見世物」として提供されていることのジェンダーの倫理(ポリティカル・コレクトネス)などは語るに及ぶべくもないが、それは他のアダルトコンテンツにも言える問題であり、ここでは語る必然性がないと思われる。「ストリップ劇場」という「場」の生起は、ステージ上で、ロビーの待合室で、至る所で起こっているのであり、その構造こそが問題化されるべきなのではないか。そしてそれは日本の文化史、いや風俗史という歴史の層としての「史」―アーカイブ(アルシーブ)として語られる必然性を感じる。現在、有意な文献と考えられるのは『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』(イースト・プレス 2014年)所収の藤木TDC「昭和娯楽王 ストリップ史」だが、現在は入手不可能となってしまっている。

 「語りえぬもの」を「ことあらわす」ことの可能性は、「ストリップ・ショー」を見つめなおすことによって開かれるのではないか、という問題提起で前エントリの補説としたい。