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思考停止

映画、本、音楽、など

「ストリップ劇場」論序説

 サークルの読書会の帰りに、渋谷の百軒店の入口にある道頓堀劇場、というストリップ劇場に入った。たまたま2000円が手元にあって、学割でちょうど入場料が2000円だった。
 今自分はある神経症にかかっていて、音や光に敏感になってしまっているのだが、最近は復調の様子も見られてきている(まだ情報量の多い音楽を聴いたり、映画は観たりするとダメになってしまうのだが)。安定剤を2錠飲んでから、2000円を払って劇場に入った。なので、まあ軽いリハビリも兼ねて、という意味もある。それで選ぶのがストリップ劇場、というのはどうなんだという気もするのだが。
 渋谷の道頓堀劇場は6人の女の子が入れ替わり立ち替わり踊るのが一つのステージ、というシステムなのだが、途中で出てもいい。目当ての子を見終わったら帰るという人も多かったし、そもそも物見遊山なので長居する気もなかった。劇場の中に入ると、色白でさわやかな見た目の女の子がまだ写真撮影タイム(というのがある)でステージに居たので、この子のステージを観て帰ろう、と思った。六花ましろという踊り子で、人気も高いらしい。写真撮影タイムが終わると、今日3回目になるショーが始まった。観たのは3人の踊り子で、美月春、愛野いづみ、そして目当ての六花ましろだった。そして、それぞれに特徴があった。
 
 
・「ストリップ・ショー」の特異性
 
 総体的な、というか概念的な話をすると、ストリップ・ショーというのは極めて特異なショーの形態である。浅学にしてストリップ論のようなものがあるのかどうかは知らないのだが、高校時代に卒業論文を映画学の分野で書いた、つまり表象文化論を少しだけではあるがかじった身からすると、興味深い、というのも胡散臭いが、積極的に語られるべき分野ではないだろうか、という気さえしてしまうのである。というのも、そのショーの構造は「語りの欠落」と「運動の過剰」という意味で、演劇や映画など、他のいかなる批評対象とも構造を異にしているとさえ言えるからだ。
 当たり前だが、ストリップに台詞はない。踊り子が与えられた3〜4曲(実はこれも構造があるらしいのだが)に合わせて、一人あたり凡そ20分程度のステージを演ずる。彼女らはそれぞれに任意の服装のモチーフ(それはレイヤーされている)があり、それらが曲の進行と共に、注意深く脱ぎ捨てられる。その「脱ぎ捨てる」という運動そのものによって、ストリップ・ショーはショーとしての強度を保っていると言ってもよいのだろう。つまり、レイヤードされたヴェールの「脱ぎ捨て」(特にロラン・バルトを意識している訳ではないが)という運動の連鎖によって、というよりもほぼそれのみによってストリップ・ショーはショー足り得ている、と言ってもよいのである。彼女らの衣服はなんらかの「帯」によって固着され、それらが剥ぎ取られてゆく。そしてそれらはある種の連続的な性格を持って、ショーは進行する。これは、例えば演劇であるならば空間における人物の配置とスクリプト(台本)、それに加えて演者の「発話」という行為によってドラマトゥルギーが構築されるのだし、映画に至ってはそこにデクパージュ(カット割り)とモンタージュ(編集)という、言わば輪切りにされたような空間と時間の交錯によって物語の構造を形作っていく。アイドルのライブなどを引き合いに出すのもよいだろう。そこには「歌」と「踊り」があり、一つ一つの楽曲の繋がりが総体として意味を持ったり持たなかったりする。しかし、ストリップはそうではない。ヴェールの「脱ぎ捨て」という、言わばひとつの運動が動因となってショーが進行「してしまう」、それがストリップの特異性とも言えるだろう。
 だが、ショーとしてのストリップを語るべきはそこに留まらない。「語りの欠落」、つまり一つの運動がある種の欠落を伴った形でドラマトゥルグされていくという点は上に述べた。では、「運動の過剰」とは何か。ここで言う「過剰」とは、言わば他のショー形態には見ることができないものであり、ストリップ・ショーではその「過剰」が重要な意味を持つ。道頓堀劇場のステージはT字型で、張り出しの先は円形になっていて、上下し、また回転する。ステージそのものが運動するという事実は現代演劇においては当たり前のことではあるだろうが、問題はステージの運動が「上下」と「回転」であり、そこにさらに踊り子の「踊り」という運動が加わるということである。ここにおいて、演者(踊り子)とステージは、運動という概念において共犯関係を結ぶといってもいいだろう。ここに、語ることの「欠落」に対する共犯関係としての二重の相を持つ「運動」の概念が「過剰」される。
 
・ショーの構造と「視点」の問題
 
 ストリップ・ショーの一つのステージの構造は以下のようになっている。
①踊り子が登場し、厚いレイヤーを着て踊る。この段階でカチューシャやガーターなど、小道具的なレイヤーは取り外される(ことがある)。
②ここで踊り子は①の段階からやや飛び跳ねる形で一気にレイヤーが外される。しかし、この段階では張り出しに出ることはない。出たとしても、それは次の動作への予兆である。
③②において外されているレイヤーの「脱ぎ捨て」の運動は、この③の段階で一気にスローモーになる(BGMも遅いBPMのものになる)。薄いヴェールを外し、ブラジャーを外し、パンティーが脱ぎ捨てられる。ストリップにおいて最も重要なのはこの箇所である。つまり、乳房や陰部といった「覆われていたもの」が露わになるのがこの瞬間であり、また張り出しが「上下」し「回転」するのも③の段階においてである。
④幕が下ろされ、速いBPMの曲に合わせて張り出しで踊り子が踊る。既に陰部は露わになった状態であり、いわばアンコールのようなものと言える。
 この4つの運動の中で最も重視すべきなのはやはり③である。3人の演技を鑑賞したが、いずれにおいても共通しているのは「垂直」の運動、つまり張り出しの床に寝そべって脚を床に対して垂直に伸ばすという運動である。これは張り出しが回転しつつ行われるので、有り体に言ってしまえば陰部を全員の客に見せる(ステージを半円状に取り囲むような席の配置となっている)というサービスなのだろうが、ここで客は決まって拍手をする。つまり、一つのステージのクライマックスがこの「回転しつつ垂直」な運動であることが観客にも暗黙の了解として認知されているということだ。それは文化であり、「踊り」というノンバーバルコミュニケーション(そもそも踊り-ダンスという運動がセックスの薄められたものであるという事実をここで忘れるわけにはいかないだろう)が「欠落」と「過剰」によってドラマが構築されていることの歴史の重層性と言えるのではないか。このことについて考えれば考えるほど、ストリップは文化でこそあれ批評的な言説を免れてしまったことの負の意義は大きいと言わざるを得ない。無論「風俗業」であるというタブーに触れることに間違いはないが、例えばピンクサロンやヘルスなどと言ったそれとは全く違う、あらゆる劇的構造から自由である「ショー」としてのストリップを批評せずに消費することは、ストリップ・「ショー」の衰退にも繋がってしまうのではないか、という危惧さえ抱いてしまうほどである。
 ここにおいて実現される「運動」、即ち「踊り」が「薄められたセックス」であるという事実に関しても、もう少し言及しておきたい。例えば映画においては、観客は「視点」に対して何ら能動性を持つことができない。何故ならば、それはキャメラという意識の所在によって映画という事態が生起しているからであり、映画における「視点」の問題はつまりキャメラというインターフェースを通して見られた「創られた視点」について言及することになる。また、演劇ではそのキャメラの役割を「幕」という存在が担うことになるだろう。客席と舞台は分けられ、極めて古めかしい言い回しをするならばそれは「第四の壁」によって観客は「視点」をあらかじめ支配される。ストリップ・ショーは、その「視点」を掻き乱すような形で運動する。それは舞台(張り出し)そのものが運動し、踊り子が運動するという二重の相の運動によって観客の視点は撹乱される。さらに言えば、踊り子が「演技」-「踊り」として「ウイスキーをグラスに注ぐ」という運動があったが、踊り子はそれを客席の客に振る舞い、飲み干し、そのグラスにいわゆる「おひねり」を入れるという一連の動作、というか作法が存在している。ここでも、演者たる踊り子と観客の関係性はもはや入り乱れてしまっているだろう。それがあたかも「作法」のように振る舞われてしまっている、という重層性を持っている以上、「視点」を基礎付ける「壁」や「キャメラ」という観客の意識の所在は、そこにあって(いささか雑駁な言い回しをするならば)能動的であるとすら言えてしまうからである。だからこそ、希釈されたセックスとしての「踊り」は、「視点」を媒介するメディアを決定付ける諸要因が外部に存在しないが故に、限りなくセックスという運動と踊りという運動が近くなってゆく。しかも、演者の運動は常に二重の相を持つために、その漸近性は永遠にぶら下がってしまう。ここに、ストリップ・ショーの言表しがたい構造の鍵がある気がするが、ここでその点を深彫りすることはやめておきたい。
 
・六花ましろの見せた運動がもたらす夢と詩
 
 「ショー」としてのストリップの抽象概念は既に述べた。ここでは、六花ましろの演技について具体的に触れることで、その構造性と、もう一つある詩性について述べておきたい。彼女の演技は、というか表情は、豊かな、暖かみのあるそれではない。その前に観た愛野いづみの演技が非常にエモーショナルで色彩的なものだったというのもあるが、愛野の色彩性はその「まなざし」にある。ウイスキーのコミュニケーションを取り入れていたのも彼女だったが、愛野は観客に対して真摯にまなざす。その交換の豊穣さが、彼女の演技の色彩性であるとも言える。しかし、六花は、明らかに、どこも見ていない。①の段階における演技で、彼女は「まなざさない」ことによって、ひとつの冷たいポエジーを紡ごうとしているのだ、ということは既に明らかであった。③のスローモーな動きに至って、六花は「まなざさず」、よく鍛えられたしなやかな裸体を惜しげもなく張り出しの上で運動させていた。張り出しの回転に対して垂直である彼女のすらりと伸びた(文字通り)真っ白な脚は、ストリップ劇場という、こういってよければいささか下卑た場において披露されるには、あまりに詩的でないかとすら思えた。陰部を見せるためのサービスとしてその運動が提供されるということは、ある意味その「陰部」という要素が我々の「視点」を決定するのかもしれないが、少なくとも彼女の運動は「陰部」が「視点」の中心として機能するように運動してはいなかったのだ。それは、森崎東が1975年に撮った映画『喜劇 特出しヒモ天国』において芹明香が葬式という「場」でストリップ・ダンスをするあの異形の特権性を、「視点」の自由が留保された形で立ち会うことができる体験、とさえ言えるかも知れない。それは、間違いなく構造による詩性であり、踊りという詩による構造性である。六花はそんなことを意識していないのかもしれないが、張り出しの上で垂直に回転する彼女は、(森崎の)映画的な可能性を越えてファンタジックな瞬間をもたらしてくれたと言わざるを得ない。無論、森崎は別の方法論で映画と踊りとファンタスムについて上記の映画で回答をしているのだが、それについては詳述しない。ともかく、六花の「二重の相のもとにある」運動は、自分にとってある種の夢を見させてくれた運動であったのである。それが「まなざし」という色彩性を失うことによって実現されていた、ということも付言しておきたい。
 
・夢の予感、あるいはヴァレリー言表による序説の終わり
 
 自分は果たして再度ストリップ劇場に足を運ぶだろうか?と問われれば、間違いなく首を縦に振ってしまうだろう。薄汚れてタバコの煙で靄がかかったロビーで自分も同じくタバコをふかしながら、その煙の中に六花の見せてくれた「踊り」による夢と詩をなぞっていたのだ。ロマンティックに過ぎるだろうか?頭でっかちな解釈だろうか?そうかもしれない。だが、事実として、自分は彼女のステージを観た後にその後の演者のステージを観る気には到底なれなかったし、手元のスマートフォンで時間を確認しようとも思わなかったのである。ただ、手元のタバコと、口から出る煙に、彼女の幻影を描きながら呆然とする。あの心持ちを、自分は追いかけてしまうような、そんな予感がするのである。
 

エリュクシマコス これからまさに起ころうとしていること、これくらいわたしの好きなものはない。恋愛においてさえも、ごくはじまりの感情ほど、官能の悦びにおいてまさるものはない。一日のあらゆる時間の中で、曙がわたしのもっとも好む時間です。だからこそわたしは、 この生きた女の上で、聖なる動きが現れ出てくるところを、愛情のこもった感動とともに見届けたいのです。ご覧なさい!…その動きは生まれ出てくる、優しい鼻孔の、あの頭を、光に明るく照らしだされた肩のほうへと抗いがたく結びつける、あの滑るような眼差から…… そして、彼女の輪郭のくっきりした身体の、美しい繊維のすべてが、うなじからはじまって踵に至るまで、はっきりと現れてはつぎつぎと捩れてゆく。そして、全身が震える…… ひとつの跳躍の誕生をゆるやかに描いてゆく…… 彼女はわたしたちに息もつかせない、つんざくようなシンバルの、待ち受けてはいても意表をつく轟きに不意の動作で反応して、宙に身を躍らせるその日まで。(ポール・ヴァレリー清水徹訳「魂と舞踏」、『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』岩波文庫、2008年、p. 151)