思考停止

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A.P.D.マンディアルグについて

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、という作家がいる。20世紀フランス文学において、主にシュルレアリスムという文学の潮流において活躍した作家、と言われている。アンドレ・ブルトンロートレアモン(「手術台の上でのこうもり傘とミシンの出会い」は有名だろう)、トリスタン・ツァラといった面々と比べると、少々マンディアルグの知名度は落ちるかもしれない。

 

自分語りになってしまうのを承知の上で書くが、シュルレアリスムとの付き合いは個人的に長い。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』という作品に出会ってからというもの、マンディアルグはもちろん、アルトーアラゴン、上に挙げたような作家の作品は比較的好んで読んできた。彼らの作品に通底するのは、「タブー」とされているもの―糞便、性行為、血液など―を「語りなおす」という試みだ。しかも、それらは多様な概念とまとわりついている。例えば上のバタイユ眼球譚』ではそのようなモチーフが幾度となく反復されるし、それに加えて「目」、つまり意識の所在というテーマが通底しており、そこに更に「父親」や「教会」といった権力の表象がいずれも象徴化され、それらが上に挙げたような「タブー」によって壊乱される。これは同じくバタイユの『空の青み』でも「教会」のモチーフは登場するし、そこにフランスの政治の歴史(アンシャン・レジームなど)が絡んでくる。重要なのは、いずれもそれらが「タブー」のモチーフを伴って繰り返されている(あらゆる文学者たちによって)、ということだ。アントナン・アルトーヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』はその顕著な例(古代ローマにおける属州シリアの太陽信仰と「血と糞便と精液の中で死んだ」ヘリオガバルスについての語りが交錯しながら進行する書物だ)と言えるし、ルイ・アラゴンの『イレーヌ』は原題のLe con d'Irene(生田耕作が訳すところによれば「イレーヌのおまんこ」とのこと)から分かるように、まあシュルレアリスムの「タブー」とそれにまつわる多様な「既成の」概念の壊乱、という文学的実践はいたるところでなされていた、ということだ。

 

マンディアルグにも、その例外でない小説がある。『城の中のイギリス人』という作品で、まあこれがとにかく酷い(ほめ言葉)。エロ、グロ、ナンセンス、その他もろもろの酸鼻極まりないSM描写や性的倒錯の表現の満漢全席で、バタイユを読んだ後にこれを読んだものだからマンディアルグ=シュルレアリスム文学の中でもひときわ頭がおかしい奴、という印象だったのだ。マンディアルグの文体は独特で、例えばブルトンはイメージの変容とそれを言語化する際の心的過程を詳細に記述していくし(『狂気の愛』における3~4章が好例だろう)、バタイユは過激な描写においてそれが現出する「場」、つまり教会であったり家庭であったり「路地」(シュルレアリスム文学において「路地」という場が「隠される空間」として機能しているのはロートレアモンの詩を見れば明らかだし、マンディアルグにも『ポムレー路地』という散文詩がある)であったりして、それを壊乱する装置として「タブー」、つまりエログロナンセンスといったような要素が周到な計算によって挿入されるのだが、マンディアルグの場合はそうではない。彼の場合は空間の描写の連鎖、つまりその環境がどのような色彩と形を持っているのか、という部分に焦点を絞って、きわめてそれが遅延的な筆致によって描かれる。そして、『城の中のイギリス人』はその「色彩と形(イメージ)によって<それ自体として描かれる>エログロナンセンス」の書物である。つまり、壊乱されるべくして壊乱される桎梏がこの本の中には存在していない。というより、壊乱のみがそこに在る、と言ってもいい。だからこそ、この『城の中のイギリス人』はシュルレアリスム文学の中でも屈指の異形な光を放つ奇書である、と言われて然るべきなのだろう。

ところが、先ほど読み終えたマンディアルグ『海の百合』は、そのような「壊乱のための壊乱」はない。それどころか、ポール・ヴァレリーステファヌ・マラルメといった先人の詩人たちの実験性や意欲的な実践を引き受けつつ、シドニーコレットの『青い麦』(というよりも『海の百合』と『青い麦』は「貞淑の喪失」という意味で反転の関係にあると言ってもいいぐらいだ)的な、むしろ『ダフニスとクロエ』的なアルカイズムさえ漂わせるような、いかにも「フランス文学」の知性と詩情を持った作品なのだ。しかも、主人公であるヴァニーナの処女を奪う「若者」の名前が最後まで分からず、しかしそのことはヴァニーナにとって意味を持たない(<ただひとりのアノニマス>を愛するという神秘)という事実は、何やらかのワーグナーのオペラ『ローエングリン』を想起させるところもある。訳者の品田一良も言及しているが、ここにはドイツ・ロマン主義的なイメージも確かに存在しているのである。

この二面性が、恐らく20世紀の終わりまで生き、シュルレアリスムという文学的実践に身を投じたマンディアルグという作家の「謎」であるのだろう。 つまり壊乱を壊乱として、一種の文学的暴力を発動するマンディアルグと、文学の持つ歴史性に目を向けながら、詩情と言葉による知性をイメージの連鎖によって紡いでいくマンディアルグ。この感想文に特にオチはないし、そもそも自分は哲学科に進学する予定なのでマンディアルグについて専門的な知識を深掘りしていくつもりもないが、恐らく『城の中のイギリス人』の冒頭に掲げられた一文が、そのままこのマンディアルグという作家の運動について言及されているように、『海の百合』を読んだ今、そう感じざるを得ないのである。

 

この書物は闘牛の一種と思っていただきたい。(アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』)