思考停止

映画、本、音楽、など

祖父を悼む――作家Feについての試論:『草葬』、デュシャン、ウエルベック

序 今にも落ちてきそうな空の下で

 祖父が亡くなった。死因は誤嚥性肺炎。元より摂生も運動もしない性質で、僕が知っている祖父の姿は埼玉にある集団住宅で正月に帰省してはエロビデオの話か過去の知人の悪口、時折母に小言を言って場をピリつかせて父と大ゲンカ、亡くなって言っちゃあなんだがクソジジイの水準を十分以上に超えていたと言えるだろう。僕が訃報を知ったのはバイト先で、終業時に店に流れていたグールド最後のゴルトベルク変奏曲がレクイエムのようだった。帰ってきたら父親の目が赤く腫れていた。父親が僕の目の前で泣いたことは僕が物心ついてからただの一度もない。初めて父が小さく見えた。

 祖父は酒乱で、父親を幼い頃から酒に酔っては馬乗りになってボコボコに殴り倒したり、祖母の頭を灰皿でカチ割ったりしていたらしい。挙句の果てには母の実家に行ったときに出てきた料理に文句を言ったとかなんとかで、母は未だにそのことを根に持っている。友人らしい友人は僕の知る限りでは絶無で、実の兄とは事実上絶縁していて葬式にも出なかった。若い頃は全共闘や労働闘争に熱を上げ、革命なら家族を犠牲にしても構わないと言っていた、と父から聞いている。アルチュセリアンの僕は、思わないところがないと言えばウソになるけれど。ともあれ、とんでもないクソオヤジ、クソジジイであったのは確かだ。孫で長男(で、マルクス主義者)の僕には優しくて、『日本共産党史』などの本をご機嫌でくれたこともある。あと吉沢明歩のAV。クソジジイであると同時にエロジジイでもあったので、無駄にハイテクでツタヤディスカスFANZAの会員登録の解約は勿論、多分AVの処分もしなきゃいけない。去年の9月に大動脈瘤破裂で担ぎ込まれてカウントダウンが始まる前でさえ足腰が弱って近所のスーパーにも行けなかったのに(ヘルパーが出入りしていた)、なんというか最後まで変な根性があった人である。

 祖父が住んでいた埼玉の空はいつも曇天模様で、手で掴めそうなぐらい雲が近くて、風が冷たくて、湿っていた。デカめのスーパーが駅と直結してズドンとそびえたっているぐらいで、あとはなんにもなかった。見かけるのは大体老人か、大宮か浦和で遊んで帰ってきて行く末のないギャルが駅前のファミマで喋ってるぐらいだった。上野東京ライン高崎線)で帰省する正月のムードはいつも重々しく、特に父親は毎回決死の闘いを挑みに行くかのような顔で恵比寿から乗り換えていた。帰りは疲労困憊で、場をやり過ごすためにおせちとお寿司を食いすぎ、親は日本酒の飲みすぎで泥になっていた。今日の渋谷の空は薄く雲がかかっていたけれど、最後に祖父が病室から見た埼玉の田園風景の空はどうだっただろう。多分、『ジョジョ』じゃないけれど、今にも落ちてきそうな空だったんじゃないだろうか。祖父は最後まで自分のやったことを省みることができなかった。父親にしたことも、祖母にしたことも、母親にしたことも、僕や弟にできなかったことも、周りの人にしたことも。最後に会ったとき、ぽつりと放った「俺、何か悪いことしたかなあ」という一言が、今も脳裏に焼きついている。

 ここに、一篇の短編小説がある。祖父は生前ある文学賞を受賞し、僅かな部数ながら本も出した小説家(本業は教師だったが、父から聞くところによると同人誌に小説を書くことに熱心で、それが高じて文学賞を受賞したという次第らしい)だった。僕はかねがね祖父の小説について何かを書こうと思っていたが、ついに本人に見せることはかなわぬものとなってしまった――往々にして肉親でなくとも生きている作家の「〇〇論」というのは書きづらいものだそうだが(文学研究のことはよく知らない)。仮に、祖父がよく手紙にサインするとき、面映ゆそうに用いていたイニシャルから取ってきて彼を作家Feと略すことにしよう。彼が最も精魂込めて書いた作品に、同人誌ではなく個人的なブログという形で試論を付すことによって弔いとすることにしよう。元より嫌味で、他責的で、恨まれがちで、暴力的だった祖父がその性格によって成し遂げた、生の証を誰か一人でも伝える人間がいなければ、いくらなんでもかわいそうだろうと孫心ながら、そして同じく文章を書く人間ながら感じるのは不自然だろうか。人間は必ず死ぬが、紙になって残された作品は伝わり続ける。この『草葬』という、30頁ほどの渾身の掌編に、病室で死の瞬間彼の瞼に映った冷たく暗い死の岸辺を思う。

 

1 This is the End, Mother? I want to…――『草葬』

 作家Feによる『草葬』は、沖積舎から1989年に発表された短編小説集『影追い』に収録された掌編である。そのあまりに陰惨かつネクロフィリア的、かつインセスト・タブーを赤裸々に扱った内容から「気持ちが悪い」と評されたとは作者自身の弁だが(「あとがき」より)、解説の松本鶴雄による「挫折シンドローム」、すなわち落伍の瞬間のドラマトゥルギーを炸裂的に切り取るというよりは崩れ落ちてしまったあとの嘆くべくもない遅滞した時間性をえぐるところにFeの筆致がある。松本は『草葬』を同作者の『落日』と一緒にして「これ等の主人公たちはすでに挫折したあとの時間を生き、空無な気分を持てあまして、のた打っている」(334頁)と評しているが、決して多くはないであろうこの作家Feの読者、特に『草葬』の読者からすればこれはあまりにも雑駁な見解であると言うに如かない。

 主人公である好夫は、母の綾子と二人暮らしである。好夫は怠惰で、大学を四年で卒業できる目処すら立っていない。なおかつ自立できないでいて、家を出てアルバイトに就業したと思ってもすぐに綾子の元に帰ってくる羽目になる。それは好夫にとって「不可思議な宿命」に違いなく、単なる茫漠とした時間への耽溺ではなく、絶えざる不条理な苦痛の連続に違いなかった。綾子との二人暮らしに、奇妙な磁場めいたものが生じているのである。

数年間がこの部屋で消え去り、天井や襖や畳や窓の桟に、その分だけ自分たちの奇妙な体臭が染み込んでいるような思いも湧く。一時は綾子から離れ、大学近くの古びた四畳半のアパートに一人住んでみたことはあるものの、自分から言い出した家賃稼ぎのアルバイトが煩わしく、その上にどうしても学校や友人にも馴染めず、結局は綾子の部屋に舞戻ってくるしかなかった。他人は母離れもできない意気地のない変人と思っているのにちがいないが、好夫には好夫なりの不可思議な宿命があるのだと思った。(『草葬』、31頁)

 この好夫と綾子の磁場は、「体臭」というキーワードを軸に、エロスとタナトスの回転運動を始める。「染みついた体臭が好夫自身から遊離し、熟れた母の綾子の体臭と勝手に絡み合っているような思いも湧く」(28頁)という描写で生きた肉の臭いにフォーカスが当たったかと思えば、不条理に襲い掛かる綾子の死の後で「綾子の裸体は一度ならず何度も目にしたことがあるが、その部分だけは独立してまだ生き続けているかのように、十分に湿り気を帯び、生臭く息付いているように思われる」(35頁)という死臭とはまた別の臭いがここで明確に描写されている(それが陰部というのも好夫の欲情の焦点を示すようで象徴的である)。好夫の綾子に対する感情、しかも「やはり綾子は死んだのに違いなかった」(33頁)という不条理な一文によって入る亀裂の後でその死体の香りを肺一杯に嗅ぎ回る好夫の感情を、一口に母親に対する色情であるとか、はたまた松本流に言えば挫折/落伍シンドロームによる激情の一種であるとかなどと一蹴してよいものなのだろうか、という疑念にまず私たちは駆られなければならない。「死んだ母親を犯したい」という欲望は、フロイトでさえまず言わなかったであろうグロテスクな欲望である。しかし、作家Feにフロイトを振りかざすことはやめよう――恐らく彼は梶井基次郎の『交尾』や中島敦の『かめれおん日記』を読んではいても『快感原則の彼岸』を読んでいるなどということはなかったからである。しかし、これは奇しくも(奇しくも?)フロイト的なテクストであることには違いない。ここに第一の仕掛けがある。即ち、主体と主体の欲望を可能にする〈主体〉の転倒関係を疑わねばならない。

 三島由紀夫『春の雪』での清顕と聡子の初めての交合が室内の湿気で描写されていたのに対して、「一人自分の蒲団に横になった好夫の全身には、綾子の皮膚と肉体そのものの感触が染みついている。綾子の体臭とも違う異様な臭気も染み込んでいて(…)」(38頁)とやはり「臭い」で好夫と綾子の磁場は描写されている。この磁場、好夫と綾子の「体臭」の磁場には、「他者」が存在しない。『草葬』の中で綾子は死んでいるので、事実上三人称で語られるこの小説は好夫の自意識の屍者を相手にしたモノローグでしかない。ぼやけた電話越しのホステスの声も、死体を運んでいく好夫の側を通り過ぎて急ブレーキをかけるタクシーも、自意識、自我-意識の中で展開する絵巻であると言える。「体臭」は、自らと世界を隔てる境界線であり、綾子とのネクロフィリア的近親相姦は好夫の自意識を壊す突破口となり得たのだった。好夫は思わずこぼす。「けれども、それを人々は言い訳や言い逃れと決めつけ、それなりの器用さで乗り超えていく。他人を非難する気持はなかったものの、自分だけ不当に取り残されて行くようで、好夫は歯がゆいような、それでいてとてつもなく不安な憤怒のようなものに日夜さいなまれていたのである」(46頁)。こうした「とてつもなく不安な憤怒」は、綾子との磁場によるものではなかったか。お互いのむせ返るような「体臭」が、好夫を自閉的にさせ、「他者」を剥奪したのではなかったか。このことに、他ならぬ好夫が気づいていなかった。綾子が死に、その死体を犯すことによって、初めて彼は自意識の牢獄、まさに肉の牢獄から解放される。それは綾子を土手の叢に葬るときに成就する。好夫は綾子の死体を背負って土手に倒れ、「自分の気持が軽い気球のように遠く高く漂って行くように思われた」(52頁)と解放感を覚える。死臭と体臭が交じり合うマンションの一室に二日間こもり、飲まず食わずで犯した母の死体を運ぶ好夫は、もはや内奥からこみ上げる鬱屈した憤怒を抱え込む落伍者ではなく、何もかもを失ったが故に何もかもを為すことができる可能性に充ちた青年である。しかし、この小説はそこまで書いてくれるほど親切ではない。というよりむしろ、そのように自意識の分析を終えた好夫にライドしていった読み手は、最後に土手の叢に消えていく綾子の死体こそがこの物語の主体だった、と感じる。つまり、「他者」なき主体(好夫)ではなく、主体を可能にする絶対的(=主体的に主体に介入することのない)「他者」(綾子の死体)が好夫の自意識を自らが放つ「臭い」と情欲、そして「葬る(葬られる)」という運動によって「解除」していく物語であると読むことが可能なのだ。故に、この物語の主人公はディスクール上は好夫ではあるが、陰に潜み物語を駆動させる真の黒幕は綾子の死体である。「好夫が乱れる足で数歩離れると、水滴の光る草の葉の狭間に、綾子の肉体の一部が、浮き出るように仄白く輝き、声もなく静かに息づいているのが見えた」(54頁)。「体臭」をめぐる自意識の内破と描写の力点の鮮やかな交代という点で、「挫折シンドローム」の彼方で薄暗く輝く「他者」への無限の開かれの可能性をこの短編は示している。

 

2 疎外、水の冷たさ――デュシャン『遺作』とウエルベック『闘争領域の拡大』

 ところで、『草葬』は私たちにある美術作品を想起させる。マルセル・デュシャンの『遺作/(1)落下する水(2)照明用ガスが与えられたとせよ』(1966)である。

f:id:lesamantsdutokyo:20211022080044j:plain

 窃視がモチーフとなるこの作品は、フィラデルフィア美術館にそれとは気づかない形で展示されている。叢の陰に打ち捨てられた女性の裸体とおぼしきトルソーは、『草葬』のラストシーンで波打つ草原に煌めく綾子の死体とそっくりである。勿論これを以てしてFeがデュシャンを知っていたと言うつもりはないが、奇妙な類縁性を感じさせることは確かである。打ち捨てられた、犯された、女の死体。それはある種の疎外であり、主体性を剥奪されたオートノミーなき「他者」の存在――それは正しくハイデガー的な意味での、存在者なき「存在」がただ現前する現象としての存在である――がコミュニケーション不能なものとして、一方的に「臭って」くるとき、その疎外は「他者」を拒絶し自閉する主体(好夫)にとって不愉快である以上に身体の訓練を促す。その訓練とは、死臭を嗅ぐ、死体を抱きしめる、死体を犯す、という「極めて悪魔的な行為」であるにせよ、好夫の自閉を外に開くものであることには変わりがない。デュシャンの『遺作』で裸の女性の死体を穴から覗き見るとき、私たちはその死体に疎外された身体と疎外によって反照的に可能になる主体の認識作用を確認することになる。一方的に死体を「見る」ことの猥褻さと暴力性を暴き出してみせたデュシャンのタブローに、全く国も時代も異なるFeのネクロフィリア的イマージュが重なる。言ってみれば、デュシャンは疎外をテーマにし続けた作家でもあった。レディメイドという彼の打ち出した作品の方法論は、具象的なモチーフを押し殺し、トイレにサインを書いたりする暴挙を「作品」に仕立て上げたのだった。もっとも、そのレディメイドという方策の最も重要な点は、ステートメント(作品の注釈)にある。「なぜその素材(トイレや一輪車)が既存の文脈から切り離されて(疎外されて)作品として成立しなければならなかったのか」という必然性を示すことに、美術史的にもダダイズム運動のマニフェストとしても意義があったと言うべきだろう。しかし、『遺作』でデュシャンは奇妙にも具象的なタブローを描いている――ステートメントはない。私たちはここで、デュシャンとFeに単純な類似を見出そうとしているのではない。草に女の死体を葬るということがもたらす自由連想的なイマージュの連鎖の中に潜んでいる、自意識と「疎外」という文学的に極めて重要なテーマを抽出してみたいのである。

 ここで、全く関係のないと思われるテクストを取り出してみよう。ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』(1994)は、疎外から始まり、疎外に終わるテクストである。ウエルベックのあらすじについては今更ここで書くことでもないと思われるので省くが、主人公である「僕」も、ナイフで誰も殺すことができないままトラックに轢殺されるティスランも、誰も自分の物語の主人公にはなれなかった。好夫と「僕」が対照的なのは、好夫の苦痛は自分の世界に自分と綾子しかいないことだった、というより綾子さえおらず、自分自身で世界の充溢に耐えきることができないことだったのに対し、ウエルベックの「僕」は世界に自分がいない。その空隙に耐えきれない。性関係の中に介入していくことができず、そのことで自分を無価値だと断罪してしまう。いつか付き合った恋人との思い出も郷愁の対象にすらならず、干からびた記憶の残骸である。ウエルベックの愛は、持続できなかった愛、一度終わってしまった愛を取り戻そうとする愛である。ウエルベックにあってFeになかったもの、それは愛である。好夫は自意識の中で窒息しかけ、綾子の死体を(デュシャンよろしく)叢に打ち捨てることによって解放される。これは綾子の死体によって仕組まれていたとはいえ、好夫という人間が愛によって救われず、愛で誰かを救うこともなかったこと、つまり主体と「他者」とのあらかじめ不可能なコミュニケーションでズレてしまった関係を絶えず修復しようとする希望が初めから絶たれていたのではないか。「体臭」によって紐帯されていたかのように見える綾子の死体という「他者」と好夫という主体の奇妙な主従の逆転関係は、「他者」によってがんじがらめにされていた主体とそこからの解放のプロセスに親子とも恋人とも取れない愛の形が存在しない。しかしウエルベックは言う。「性的行動はひとつの社会階級システムである」(『闘争領域の拡大』、116頁)。愛は「結果が観察できるので、存在する」が、セックスは市場原理に基づくというのである。いわば死姦という非経済的(過剰経済的)活動はもはや言及の射程に入っていない。「何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である」(126頁)という原理の乾いた説明は、まるで愛の存在など鼻で笑うかのようだ。死体とセックスする好夫の方がよっぽど愛を知っているかのように見える――死体とセックスする人間は、全体の何割なのだろう?

 しかし、飢えを知らない者よりも、飢えている者の方が不幸である。「僕」もティスランも、愛されたかった。好夫が綾子に生前愛されていたかどうかは描写の限りでは定かではないが、愛と呼ぶべき感情があったかどうかは疑わしい。「女子大生に限らず、若い女の腰や胸には誰かれの区別なく欲情した」が、「自分と他人との間に肉体を超えた観念としての関係が生み出せないとすれば、自分の日常はどのような生活として成り立つのだろうか。好夫はただの繰り返しにすぎない自問に耽りながら、綾子の巣窟にひたすらへばりついているのにちがいなかった」(『草葬』、32頁)という自意識とマザコンじみた綾子への執着は、愛と呼ぶには澱んでいて、死体を犯すには十分だろう。翻って「僕」とティスランは、何か一撃で世界を変える愛を欲していた。そんなものはないと知っていながら。モーリス・ブランショ存在論的な言明を借りて曰く、「理解という作用が要請する同質性——自同者の宣明――の中に異質なものが、それとのあらゆる関係が関係なしを意味するような絶対的に他なるものが、立ち現れなければならない、意志とおそらくは欲望さえもが、法をかすめる突然の(時間の外の)出会いの中で、越えがたいものを越えるというその不可能性〔ありえないこと〕が出現しなければならない、ということである」(『明かしえぬ共同体』、86頁)という不可能的な世界の亀裂を飛び越える瞬間を、「僕」は待ち望んでいる。別れてしまったヴェロニクも、パーティーで勃起しながら眺める若い娘も、いつか殺せるはずだったあの二人組も、何かのきっかけで全部「元通り」になるはずだ、と。そこにはブランショの「絶対的に他なるもの」の介入が必要だった。母親の死体という血の同質性と死者の軀という異質性のアンビヴァレントではなく、「何者か」になるべくしてかます世界への叛逆の一撃が。「僕」はティスランに言う。

「美しさ、とか?」彼は言ってみた。

「いや、美しさじゃない。それは間違いだってことを、はっきり言っておく。ついでにヴァギナでもないし、愛でもない。だってそんなものはみんな、死んだら終わりだ。要するに君は、今すぐにでも、連中の命を自分のものにすることができるんだ。今夜から、人殺しになれ。いいか、ラファエル、これは君に残された最後のチャンスだぞ。君にナイフを突きつけられ、女たちが震え、命と引き換えにその若さを差し出してきたら、その時こそ、君は本当の支配者になる。その時こそ、連中はすっかり君のものになるんだ。もしかしたら犠牲になる前に、連中は君に美味しいお菓子までくれるかもしれない。ナイフ一本だよ、ラファエル、それがものすごい味方になる」(『闘争領域の拡大』、150頁)

愛でもヴァギナでも美しさでもなく、今俺たちに必要なのはナイフ一本とあいつらの命だ、と強弁する「僕」の発言は、虚しいかな、ティスランの未遂によって本懐が成し遂げられることはなかった。ティスランは殺すことができなかった。好夫が不明の死因によっていともたやすく母の死体を凌辱することができたのに対して、「僕」とティスランはナイフを持っていたのにも関わらずパーティーカップルの命を奪うことがかなわなかった。「僕」とティスランは、初めから世界に疎外されていたのだ。クソつまらないプログラマーの仕事をして、週末は気晴らしにもならないバカンスに出かけたり、ルサンチマンではちきれそうになるパーティーに出席しては鬱病になる。「他者」なき主体の鬱屈ではなく、主体なき「他者」のネットワークに絡めとられて息もできない。ウエルベックと作家Feが対照的なのは、主体の疎外という点においてである。好夫は、自らが自らを疎外し、それが「体臭」という形で自意識の圏域を形成する。その解除は、母の死体を犯し、叢に葬るという形で成し遂げられる。それはグロテスクではあれど、一種の分析完了とも言えるかもしれない。精神分析は分析主体が存在する限り終わることがないが、最終場面において死体は消滅してしまう。「好夫は何度も返り見しながら、しかし、今度はしっかりと土手の草道を踏んだ。ふと風の冷たさに気付くと、綾子の姿はいつの間にか消え、淡い月の光に、濡れた河原の草の葉先が、ゆるやかに、一面、ただ波打っているのが見えた」(『草葬』、54頁)。綾子の死体が消滅したとき、好夫の窒息した自意識の堂々巡りも終わりを迎える。生きた「他者」に向けて主体がようやく開かれるのである。ウエルベックの「僕」の分析は、幾度も挫折し、ついに成功することはない。一人称のモノローグという形はいかにも主体を語っているように見えるが、その実ディスクールの主導権は「僕」にはなく、それを書かしめている疎外装置にある――つまり、闘争領域。

 しかし作家Feにも、ウエルベックにも、救いがないわけではない。「僕」が自意識と自慰で息が詰まっても、どこにも「僕」がいなくても、この残酷なゲームを私たちと一緒に耐え抜いてほしい。「あの時の水の冷たさ」を思い出しながら、溺れ死ぬ寸前でもがき苦しむ受苦としての生を生き抜いてほしい。人は死ぬまで生きなければならない。ウエルベックは呼びかけている。

 いまや岸はすっかり遠くなった。そう!岸は本当に遠い!あなたは長いこと向こう岸があると信じていた。いまや事情が違う。それでもあなたは泳ぎ続ける。そしてひと掻きごとに、溺死に近づいている。息が詰まる。肺が燃えそうだ。水が冷たくなってきた。なにより苦くなってきた。あなたはもうあまり若くはない。いまや死にかかっている。大丈夫。僕がいる。あなたを見殺しにはしない。続きを読んでくれ。

 今一度、思い出してみてほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだときのことを。(『闘争領域の拡大』、18-19頁)

 

結 Entrata

 今、これを書いているのは葬式の前だ。昨日の晩、訃報が入ってからの家族の食事も、故人を偲ぶような話題はほとんど出なかった。父親が僕に向かって「ほっとしたような気持ちもあるんだけどね」と言ったとき、父の祖父に対する愛憎を思った。僕は子どもの頃から父親の祖父に対する葛藤を見てきたし、僕が5歳ぐらいの頃に弟が麻疹にかかって入院した際祖父母の家に預けられたときに祖父の粗暴ぶりは恐怖の対象でしかなかった。最後に交わした会話は、僕の名前に対する難癖。僕の名前は難読かつ珍しい名前なのだが、生まれる前に命名をめぐって両親と祖父母の間でひと悶着あったらしい。病室で祖父は「なんだよ、〇〇(僕の名前)って……」と吐き捨てるように言った。死ぬまでクソジジイだったが、実の息子である父や当たり前だが祖父とは血の繋がっていない母、正月に帰省しては申し訳なさそうに部屋の片隅で寿司を食いながらモンハンをしているだけだった弟に比べて、どうしても僕は最後まで作家Feとしても、血の繋がったクソジジイとしての祖父も憎み切ることができなかった。最後まで誰かのせいにすることでしか生きることの意味を見出せなかった人だったとしても、作家として生み出した作品(もちろんこの記事で取り上げた『草葬』以外にも『影追い』にはいい作品がいっぱいある)は確実に残っていいと孫心ではなく一読者として思うから、せめて一人でも偲ぶ意味合いを込めてこの記事を書いた。

 昨日のバイトからの帰り道、Spotifyでオルフの「エントラータ」を聴きながら散歩していた。ウィリアム・バードの「鐘」を編曲したもので、知る限りではシェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管の演奏しかない。バイトの先輩が辞める前に最後にかけた曲で、なんだか泣けたのを覚えている。雲がかかり、月の光の輪郭がぼやけた夜空とドブ川を眺めながら、しめやかなアダージョを聴いて煙草を吸った。祖父は生前ヘビースモーカーだったが、いつだったか肺がんで死ぬと言われてやめたのだった。銘柄はチェリーからメビウスだったかセブンスターだったか。どんどん顔つきが祖父に似てきている。せめて僕の最期は一人でも多く家族や友人に惜しまれながら死にたいものだと思いながら、吸い殻を祖父の形見になった携帯灰皿に押し込んでコーラを一気飲みした。金木犀が香る急速に冷えた10月の夜空に、祖父が虹の河を渡るのが見えた気がした。気がしただけ。


www.youtube.com