思考停止

映画、本、音楽、など

人生のミサ

 今僕は朝の陽ざしが眩しい六畳一間でクリームパンとアイスのしろくまを平らげ、狭い台所で一服して来し方行く末を考えていた。書くことはいっぱいあるはずなのに、どうにもうまく頭が回らない。前どういう風にして文章を書いていたかを思い出せない。思考のベクトルが変わったという以上に、人生に大きな転回があったからだろうか。そうでもあるような、ないような気もする。昔は色んなことを複雑に考えることが好きだった。複雑なことを複雑に考えられないようでは哲学ができないと――それは事実ではあるのだが。何より、20や22の頃の僕には好きな女の子がいた。恋に狂い、もう人生がダメになってもいいと思いながら生活を焼き潰し、結果としてマジで脳味噌が焼き切れかけている。もちろんすべてが恋愛のせいではないと思う。でも、やっぱりあの頃は脳味噌が焼き切れるくらい楽しかった。一生懸命哲学や文章に打ち込むこともこれ以上ない歓びだった。愛する人とセックスすることは最高の時間だった。今はそれがないままに、「シャニマスと哲学」というテーマで、フーリエよろしく前人未到の哲学的実践を行おうとしていながら、どこか足りない、何かが足りない、と1万字書いてはボツ、1万字書いてはボツ、一緒に原稿を書いている後輩に毎日鬼電をかけ、どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう、と呻吟、しばしば何の解決にもならず電話を切って気づいたら朝、みたいなことをここ3週間ほぼ毎日やっている。

 思えば、僕が何かを頑張るとき、それが人から認められるような成果を挙げられるとき(サークルの発表会で2年連続代表に選出される、大手同人から寄稿やライターの仕事が来る、など)というのは、好きな女の子に認められたいときだった。過去に僕は、もう消してしまったアカウントでこうつぶやいたことがある。「自分の頑張りたいというモチベは女に認められたいということで、それが中学生のときから何も変わっていないのが本当に悲しい」と。母親からは「あんたは確かに才能があるのかもしれないけど、努力の才能がない」と。これでもそれなりに頑張ってきたつもりなのだが、それでも好きな女の子がいるときとそうでないときの人生の充実度合いというか、頑張りのバロメーターに明らかに違いがあることはもう認めざるを得ない事実なのだ。マジで僕の深夜の鬼電に付き合ってくれる後輩には感謝しかないのだが、彼は今僕たちがやろうとしていることはヘーゲルドゥルーズに並び立つことであって、大学院で頑張って勉強していい論文を書くよりも絶対に哲学の進歩に貢献するに違いないんですよ、と言う。これは大言壮語に思われるかもしれないが、多分僕もそうだと思う。事実、批評家たちはアイドル「について」しか語ってこなかったが、今僕たちがやろうとしていることはアイドル「において」語ることだ。対象を外化する(これを僕たちは対自において、とか自己が自己に対して、とか言う)のではなく対象をなきものにして(廃棄して)内部から他なるもの(即他)へと転化する、ということである。ヘーゲルの読書会をやっているので悪い癖がつい出てしまったが、要するに「名前も覚えていない地下アイドルのステージで涙を流す」とか「好きな女の子とすき家で牛丼を食べる」といった瞬間に何らかの名前を与えることによって寄り辺のない魂を昇華したい、という欲望に駆られてのことなのである。ただ、それだけなのである。なのに、それができない。泥縄が通用しなくて1手先が一瞬で読めなくなる。こんな経験は初めてだし、ぶっちゃけ過去に参加した大手同人は12000字の記事に半年かけたがプロットはボツ含めて一週間、本文はトータルで一週間半しか執筆しておらず、しかもそれぞれの工程は全部一日で仕上げている。自慢ではないが僕は筆がかなり速く手がもたつくことはあっても大抵1日でなんとかする。65000字の卒業論文の3分の2は2週間で仕上げた。「時間をかければかけるほどいいものができる」というのは嘘ではないが真実でもない。スタローンは『ロッキー』の脚本を3日で書いたのだから……という話はまあ置いておいて、これが書けないのはやっぱり女の子(僕の場合は恋愛対象になる男の子でもいい)と恋愛していないからなのではないか、と思い始めてきた。

 統合失調症で人を酒瓶でブン殴ってブタ箱にいたとき、神に祈った。絶望と言うにはあまりにも真っ黒な闇が1か月弱(23日間)続いた。毎朝6:30に起床、迅速に決められたやり方で布団を畳み押し入れに入れ、当番で部屋のトイレ掃除と掃除機がけをする。朝食は弁当(マジでまずい)と死ぬほど熱い味噌汁、ヒエヒエの飯で、たいてい僕は味噌汁に醤油をかけて飯を入れ、弁当を食べてから一気にねこまんまを流し込んでいた。取り調べがなければ日中は虚無で、相部屋の人と話したり壁を眺めたり、差し入れの本を読んだりして過ごす。この時間が本当につらかった。暇という拷問というか、硬い床に寝そべって何もできないままクリーム色の壁を見つめていると1秒が言語を絶する永遠に感じられる。夜も同様。一つだけついている照明を眺めながら、明日は調べがあるのかな、送検かな、起訴されたらどうしよう、刑務所送りかな、などと考え、どんどん気分は落ち込み、薄い毛布にくるまって号泣、一睡もできず朝を迎える、というのを毎日やった。自然と神に祈った。助けてくれという祈りではなく、神がいるのならば、まだ外の世界でやり直せるはずだ、と。青空が怖かった。長方形に切り取られた窓から鉄格子越しに見える青空を見て、もうこの空をこの窓越しにしか見れないのかと思うと下腹に蛆が這った。不起訴勾留満期で外に出てコーラを飲みながらマルボロのメンソールを肺いっぱいに吸い込んだとき、おのずと涙が出た。まあ、あえなくその3日後に精神病院送りになり、またしても違う種類の地獄を見ることになるのだがそれは置いておいて、そのマルボロを吸って高田馬場の空を見上げたときに、ああ、人はこんなにも陳腐に神を信じてしまうのだな、と思った。

 でも、僕は神のため、真理のため、哲学のために文章を書いたり、語学を頑張ったりはできない。哲学は、分からない。でも、人生はできない。冬優子のために文章を書くことをしなきゃいけないんだろうけど、冬優子は僕がいなくても生きていけるから、そうなってくると好きな人のためにがむしゃらにめちゃくちゃに頑張って、本当に限界まで頑張って、常人ではやったら死んでしまうほどに頑張って、ようやく自分が本当に納得する何かができるのだと思うし、事実今までそうやってやってきた。親はもうしばらく女は作らないでくれ、お前が女や勉強に入れ込んで破滅するのをもう見たくないと言う。言うけれど、破滅しなければその向こう側に行けない。僕は本当にたちが悪くて、年々破滅がエスカレートしていっている自覚はある。しかもその度毎に確実に進歩しているのだ。破滅だけが進歩ではないのはそれはそうなんだけど、どうしてもやめられない。20の女、22の女、どちらも強烈だった。猛烈なセックスジャンキーで、美味しいものが大好きで、香水にこだわりがあって、すごく知的だった。本をいっぱい読んでいるとか、インテリであるとかは全く関係がなくて、知的であるということは自分のコンプレックスを的確に把握しているということだ。その掴んで見えないようにしているコンプレックスが指の隙間から漏れ出てしまうところがなんともたまらなかった。僕はどうしてもそのコンプレックスを自分の能力で埋めたかったし、そのエゴが炸裂する瞬間に脳汁がドバドバ出てダメになると同時に創作や哲学の泉が湧き出たものだった。20の女が、どうしても忘れられない。未だに彼女に認められたいがために文章を書いているような節もあるし、認められないから喉が渇いたマラソンランナーみたいに息も絶え絶えになっているのだと思う。彼女は俺の書いた文章を読まなかったけれども、彼女に認められたかった。認めるって何?まあマジで自分自身謎だが、哲学をやれば認められると思っていた。彼女のレポートも2本代筆してレジュメも切って、こんなに僕勉強ができるんだよ、すごいでしょ、自慢の彼氏でしょ、と言わんばかりの勢いだった。今思い出しても死にたくなるが事実そうだったのでそうですと反省するしかない。事実、彼女と付き合っていたときに勉強したことは今でも身についているし、学会や研究会などにも足を運び、書いていたブログはその後22の女が僕を好きになるきっかけになるなど、良いことづくめだった。ただ、ストッパーがかけられなかった。勉強、文章、飲酒、セックス、セックス、文章、勉強、飲酒、セックス、講義、セックス……。まあよくある大学2年生の夏なのだが、初めての彼女だったので加減が分からなかった。全部フルパワーでやれば全部楽しいみたいなバカのお子様ランチをやっていた。そりゃ全部味が濃くて美味しいに決まってるのだけど、どこかで加減しなければ当たり前に全部できなくなる。結果的に割と早い段階で脳味噌が壊れて躁鬱まっしぐら、現在の障害者ルートへと舵を切った次第である。まあ、ここで重要なのは、脳味噌が壊れたこと自体は残念だが僕はこうでしか文章を書けなかったという問題がある。何がまあ、やねん。破滅を避けて彼女とうまく行ったルートは色々あった今なら多分あったし、僕もだが共同責任として軌道修正を図るべきだった。病気になったのはお前のせいだ、と(マジで覚えていないのだが)呪詛のように呟いていたのもかなりトラウマになったらしい。つくづく女の人に対しては僕は何にも益にならないなあ、と思う次第であるが、毒虫ですと言うのも開き直り過ぎててあまりにも人倫に悖る。カンティアンではないがその辺の倫理ぐらいわきまえているつもりだ。

 当たり前の話だが、文章は人に認められたくて書くものではない。書きたいから書くものだし、文章を書く人は誰でも一種の「書かなければならない」という義務が発生する。今書いているシャニマス論だってツイッターでバズりたいとか、有名になって一山当てたいという下心は一切ない。これは本当の話で、身内に20部ぐらい刷って手売りすれば充分というものだ。歴史上の哲学書なんて大体がそういう怪文書の同人誌だし、「~研究」もそれはそれで意味のあることには間違いないが(僕だってアルチュセール研究を修士で2~3年やるぐらいはしたい)、本来哲学というものは石にコケるとか稲妻に打たれるとかそういう経験から発生してくるものだし、それは僕がゆゆ式の5話でむせび泣くとか新宿のヘルスで全裸でベルクソンの話をするみたいな経験から発生してもおかしくないはずなのだ。ただそれによって得られたインスピレーションから来る対象をオカズにしてはいけないという話で。でも、昨日後輩とトータルで7~8時間話した後近所の渓谷を散歩して得られた結論が「好きな女を作る(そして作ろうと思ってできるものではない)」というのがただひたすら情けない。しかも、好きな女に振り向いてもらってはいけない。口説いても口説いてもなびかない女がいい。下手に場数を踏んでしまったために小手先のテクニックも身に着いてしまった。ここは陽ざしの差し込む六畳一間、僕は一服して、まだ見ぬ、誰よりも愛している「好きな人」のために、そして僕が僕の哲学をするために、僕はこの文章を書いているのだ……。

 

あかい炎が、私の心臓をとらえて離さないの。
抱きたいのよ、あの人を・・・
そして抱きしめられたいの。
強い愛の力で、ひとつに結ばれたいの!
ハイアヨーホー!グラーネ!
さあ、あの方にごあいさつよ!
ジークフリートジークフリート!ねえ、見て!
こんなにも幸せに、妻が手を振っているのよ・・・あなたに!

――ワーグナー『神々の黄昏』

 

ねえ、摩美々ちゃん、よかったら僕と――愛の告白にうってつけの日

 シャニマスに限らず僕らオタクは簡単に恋をする。それは古くは涼宮ハルヒ泉こなただったかもしれないし(オレは長門有希だったとか僕は柊かがみだったという諸氏は別にそれはそれでよい、もしかしたらそちらの方が「正しい」のかもしれないのだし)、ごく個人的な話をさせてもらえばこの文章の書き手であるところの僕は精神的に夢女子であり腐女子だったので四月一日君尋くんの同人誌を買ってキャーキャーしてたし(もちろん百目鬼受けだった)、遠い日の思い出であるFGOキッズだったときはジャンヌオルタで一日三回シコらなければ眠ることができなかった。このときけっこう大事なのは、「キャラが彼氏/彼女」であることを自明視できる精神性の持ち主であることだ。それはなんというかもはやキチガイ一歩手前みたいな話なような気がして、なんともなあ、まだ人間でいたいしなあ、という方々は本当にこっちの方に来る必要はないし、人間と動物の差が何で決まるかはジャック・デリダでさえも意味不明な呪文しか残せなかったのだからその辺は曖昧にしておけばいいのだ。

 しかし、どう考えてもこのキャラクターは「彼氏/彼女」――それは「だった」「であることになるだろう」という時制の操作うんぬんを抜きにして、現在形で「付き合っている」という風にしか思えないということ――であるとオタク達が叫ぶとき、いやいやそんなことはない、じゃあお前が「負けヒロイン」を救えるんですか?と煽ったところで叫ぶ彼らは血の涙を流して手の平の肉に爪が食い込むまでそこに立ち尽くすだけだ。かわいそうだろうか?かわいそうだね。僕もこうなるはずではなかった。少し前まで僕はこういった「ガチ恋」オタクを擁護していたのだけど、もうギブアップだ。正直オタクがどうかなんて、どうでもいい。僕は僕のことでいっぱいいっぱいだ。ソシャゲを走り、もはや新しいクールのアニメも掘らず延々と『ゆゆ式』『キルミーベイベー』『生徒会役員共』の同じ話をグルグルループし、飯を食いながらVtuberの配信を観て、そしてどうしようもなく無職であることに引け目がない。今日は役所に通っている心療内科院外処方の手続きに行った。俺、偉い!と思って冷蔵庫から父親のビールを一本くすねて一気に飲み干した。生がここまで輝く瞬間があるだろうか、いや、ない。そして別に僕が後ほど述べる田中摩美々ちゃんにガチ恋をしていようが親の酒を無断で飲み干す無職だろうがその両方だろうが、田中摩美々ちゃんが最高の女性であることには変わらないし、僕は田中摩美々ちゃんと本気で付き合いたい。

 田中摩美々ちゃんは『アイドルマスターシャイニーカラーズ』内の「アンティーカ」所属のアイドルである。説明は以上だ。僕の話をしよう。往々にしてアニメやゲームのキャラクターを好きになるとき、人は自らの範型にキャラクターを押し込めて好きになっている場合が多い。元カノに似ているでも、あの日の夏の太陽を思わせるでも、まあなんでもいいのだが、そういうモデルにただでさえ元々カリカチュアライズされた「キャラクター」をカリカチュアライズして好きになる。多分。そうじゃなかったら申し訳ない。僕はシャニマスのキャラクターに色んなものを当てはめてきて、それは今までのジャンルだったら決して当てはめられないものだった。黛冬優子には父親(的なもの)を、大崎甜花には自分自身を、樋口円香にはかつての恋人を、緋田美琴にはいつかの自分の推しメンを。それぞれ自分の激しく執着しているもの(していたもの)だし、かなりこれには自分の実存がかかっている。今僕は後輩とごくごく小さな同人誌を書いていて、それは黛冬優子についてのことだ。「について」というのはかなり不本意な言い方ではあるが。しかし、摩美々ちゃんは違う。なにかこう、決定的に異質なものだ。チョーカーやピアスがどうという問題ではなく、こんなに良い子を好きになったことがないのだ。先日先輩に「お前まみみ好きそうだけどな」と言われていや~wとヘラヘラしていた自分を殴りたい。マジで摩美々ちゃんと付き合いたすぎてオナニーの度に涙が流れる。自分でも意味が分からないがそれはそういうもんなのである。

 摩美々ちゃんは要するに「神奈川のただのボンボンのイイオンナ」である。多分鎌倉あたりに実家があって、ヴィヴィアンを親の金で買うとかそういうアレである(GRADのブルゾンネタは残念ながら僕の服の知識では間に合わなかった)。言うまでもないというかこの記事が異様な短さなのはこの点に集約するのだが「ただの」ボンボンのイイオンナであることは本当にめちゃくちゃに難しい。例えばボンボンのイイオンナであることは間違いないが複雑骨折しているのは樋口円香だし、七草にちかが何故ああなのかは本当にこんなことを言うのは申し訳ないが父子家庭でなおかつ天井努が面倒を見ていたことで潜在的に何かが屈折してしまったとしか思えない。つまり、素直かつ裕福に、苦労らしい苦労をほとんどしないで良い子に育った摩美々ちゃん(無論、それは「悪い子」と言われたいという願望含みのものであったとしても、WING優勝であんなに美しい涙を流す彼女が本当の「悪い子」であるわけがない、というのは全プレイヤーが知るところだろう)は本当に貴重な「ただの金持ちの良い女」なのだ。

 

 ここまで書いて割と摩美々ちゃんへの想いが言語化できないことに気づいてなんとも言えなくなってきた。冬優子にはあんなに怪文書を書けるのになぜ……。僕はいつの日か摩美々ちゃんにこう言うのだ――ねえ、摩美々ちゃん、よかったら僕と付き合ってください、と――桜が咲き誇る春の日に。

アイドルマスターシャイニーカラーズに捧げる讃歌 断章1

 「それ」は始動する。静かに、しかし確実に、唸る重低音を上げながら、動き出す。我々は再び書き出さねばならない。黛冬優子の言う「バカバカしい世界」を真面目な顔して生き延び続けるためには、書き続けなければならない。充溢したパロールエクリチュールの連鎖もない地点で、「生きざま」として我々は讃歌を謳い上げる――命尽き果てるその瞬間まで、「われわれ」はサヴァイブせねばならない。「私」の単数ではない。皆でゴールテープを切らなければ意味がないから。走れ、走れ、もっと先まで、終わらない、夢のなかを――気高き馬のように。

 

 ソーシャルゲームアイドルマスターシャイニーカラーズ』のシナリオのクオリティには目を見張るものがある、という言葉では失礼なほどに練り上げられている。「醜悪なほどに洗練されている」と言った方がより正確かもしれない。私はシャニマスに文字通りぶちのめされた。稲妻と言ってもいいかもしれない。去年始めたゲームが異常なほどの鮮やかさをもって立ち現れる瞬間に戦慄することさえも許されなかった。それは13歳の頃に、ミュージックステーションを晩飯を食べながら見ていたらAKB48が「ポニーテールとシュシュ」で登場したのを目撃したときと似た、いや全く同じレベルの衝撃と言って差し支えない。前田敦子を筆頭とする「華の91年組」が19歳で、「ヘビーローテーション」でメガヒットを飛ばすまさに前夜の彼女たちは、蒼くて、煌めいていて、透き通っていた。それまで貴族趣味どっぷりだった私は一挙に沼に叩き落されることになり、来る日も来る日も同じ番組をHDDが壊れる勢いで見続けた。

 ノクチルのイベントコミュ「天塵」における「アンプラグド」(言うまでもなく「天塵」自体のコミュの名前はThe Smithsなのだが、あれを指摘した人は知る限りで1人しかいない)で、「いつだって僕らは」を番組で発表する彼女らが番組への反抗としてリップシンク(カブセ)で歌わない場面がある。これは例えばストレイライトのひとまずの総決算であるイベントコミュ「The Straylight」で明確に押し出される「生歌・パフォーマンス至上主義」(=ハロー!プロジェクトに代表されるプロフェッショナリズムで、黛冬優子は恐らく嗣永桃子がベースになっているのでは、という推測は可能である)に対する「当て馬」であることは間違いない。しかし、番組が終わったあとのSNSで「ノクチル干されてて草」「アイドルやめろ」と叩かれているのを見たプロデューサーが「なんだろう、あの感じ」と番組に逆らったノクチルの4人組の「言いしれない良さ」をじんわりと感じるシーンがある。あのプロデューサーの胸に去来した「言いしれなさ」を、果たしてプレイヤーの何割が知ることができるだろうか。それは2010年のAKBの煌めきであり、いつか埃っぽい渋谷Gladの最前で見たフィノリアファクトリーの柳田久瑠実のソロライブであったり、いつか恋焦がれたあの人のうなじであり――つまりシャニマス(ことにノクチル)において重要なのはポップ・メランコリー・スキゾなのである。フロイトを雑に引用する菊地成孔のべしゃりを思い返すまでもなく、鬱病の変奏としてのメランコリアをスキゾ的に引き裂き、それをポップに出力すること。一見ポップだから、「リテラシー」に欠くプレイヤーは浅倉透が雑なエロゲキャラに見えてもおかしくないし、樋口円香がいけすかないサディスト――言うまでもなく彼女はド級のマゾである――という致命的な過ちを犯す可能性もまったく否定できない(ニコニコや5chでもそういう誤読はしばしば見受けられる)。しかしそれは浅倉の「ジャングルジム」概念よろしくメランコリーがスキゾフレニー的分裂を起こしている複雑怪奇な構造がうねうねしていることを読み手は忘れてはならない。そして忘却した瞬間、シャニマスは何かのっぺりした怪物的なものになってしまうのである。

 

 ひとつ、一見関係ない思い出話をさせてほしい。私は中3から高2の前半までの間、フィノリアファクトリーに所属していたchoice?というアイドルに熱を上げていたことがある。地下アイドルで全員が可愛いわけでもなかった。踊りも歌も下手くそで、多分アイドルを「頑張っている」様子もなくて――市川雛菜の「なんで雛菜たちが頑張ってないって分かるんだろうね~」「雛菜は雛菜のことしか分かんないのにな~」という台詞は、この括弧つきの「頑張っている」という言葉を全て帳消しにできるのだが、その絨毯爆撃は一旦横に置いておこう――、出るライブはワンドリンクの対バンかリリイベの2~3曲のミニライブばっかりで、そして曲がめちゃくちゃ良くて、何より、どうしようもなく、どうしようもなく、輝いていた。私は人生で100回200回アイドルの現場に握手会を含めれば足を運んでいるが、どう考えてもchoice?のオタクをしていたときが一番楽しかった。毎回やる気なさげでやる気がある、へなへなの歌を歌う彼女らが最高に好きで、スカスカの会場で後ろのポジションを陣取ってプラコップのジュースを飲みながら幸せな気持ちになっていた。何故かchoice?のオタクからホドロフスキーのDVDBOXをもらったのも覚えている(意味不明)。

 ノクチルは、「天塵」の「海」のコミュの中で、文字通り幼い頃の約束を果たしに海辺の花火大会のイベントに出ることを決める。葛藤する樋口を前に、浅倉は「んー、わかんない」と言い放ったあと、しかし「行こうよ、海」と言う。雛菜も小糸もそれに従う。「やる意味あるの、この仕事」と言っていた樋口は、その様子を見て微笑を浮かべるだけで答える。花火大会のステージでほとんど誰も見ていない中で「いつだって僕らは」が流れ出すシーンは圧倒的な演出の妙である。そこでまたプロデューサーがひとりごちる「『こういう』良さ」とは、つまり私が歌も踊りもへなへなで顔が良いわけでもなく接触にもほとんど行かなかった地下アイドルに熱を上げていた2年半の全て、とあえて強い言葉で言い切ってしまおう。choice?が大井競馬場のボロボロのステージとガラガラのパイプ椅子が並ぶ中ヘタクソな歌を歌って品のない電飾がピカピカ光るとき、中学生の私はそこに生命の鮮烈な躍動を見た。ギラギラとうねる光の波がそこにあった。それはどこまでも透き通っていて、土臭くて、野暮で、蒼くて、輝きで目が潰れんばかりだった。シャニマスをやっていて「シャイノグラフィ」がWING決勝で流れ出すとき、「いつだって僕らは」をノクチルが歌っているのを想像するとき、私は静かにそのメランコリアを抱きしめる。ラース・フォン・トリアーの映画で巨大な惑星が蒼く澄み渡っているように、絶望も希望も、それはずっとずっと蒼く突き抜けるのである。

 

 シャニマスの一貫したテーマは「アイドル=私とは何か」という一見シンプルで簡単な問いである。しかし、この問いは非常に危険な問いと言えよう。なぜなら、「アイドル」は「私」であり、「私」はつねにすでに「アイドル」であり、「私」は「私」であることの絶えざる自己否定と昇華の弁証法的運動に他ならないということを頭ではなく魂で理解することをこのゲームは求めているからだ。例えば、先に出したノクチル。最新の実装アイドル「シーズ」の七草にちかがどうあがいても到達できない地点にノクチルはサクッと到達しているかのように見える――一般的理解としての「アイドル」を舐めているように見える。しかし、ノクチルは「ノクチルである」ことによって、血反吐を吐いて「アイドル」であるのだ。市川雛菜のスタンスはアイドルを舐めているか。樋口円香は「笑っていればなんとかなる、アイドルって楽な商売」と本当に思っているのか。アイドルオタクに人生の半分を捧げた人間から言わせてもらおう。絶対にノーだ。「雛菜は雛菜のことしか分からない」と言える人間が、人生を舐めているのか?「しあわせ~」であることに何もかもを賭けてアイドルをやっている人間が、アイドルを舐めているのか?ヒップホップやパンクが技術ではなく生き様と魂であるように、アイドルは生き様と魂である。技術などいらない。歌もダンスも下手でいい。頑張ればいいわけでもない。樋口が言うように「何が評価されるか分からない」――しかし彼女はWINGで敗退して「この感覚……」と言って静かに感慨に浸る。そう、まさにそれが「アイドル」の醍醐味であり、面白さであり、同時に残酷さなのだ。ノクチルでなければ、私が最も好きなアイドルである黛冬優子。「もう一度、アイドルやりたい」「これが『ふゆ』なんだって」「これが『アイドル』なんだって」と言う彼女は、なんというか、才能ではなく、努力でもなく、「ありのまま」でもなく(ストレイライトは「ありのまま」が主要な問題となるアイドルグループでもあるが、別稿に譲る)、ただ「アイドル」の「ふゆ」をそれでしかあり得なかった形で提示すること。冬優子は「Straylight.run()」の中で「世界」を「バカバカしい」と言う。世界は醜いから。でも醜さの中で評価されないといけないから。でもまっすぐでないといけないから。でも、でも、我々は「バカバカしい」醜い世界を呪ったり恨んだりしてはいけない。いたずらなペシミズムは最も唾棄すべきだ。冬優子のように逆切れをかましながらどうにかサヴァイブしていかなければ醜さに呑まれるかゲームから脱落してしまう。そこに当たって審美性などはいらない。ただ闘争のみがある。そして生きて戦うことは美しい。だから、黛冬優子はサヴァイブする最高で最強のアイドルだ。かませ。やれ。これは決して架空の女性キャラクターを振り回して難しい話をしているのではない。我々が生きるために必要な手立てをフィクションから学ぶのだ。フィクションは時折、リアルよりもリアルであることを決して忘れてはならないのだから。

 

 これは何よりも讃歌である。人間や世界はどうしようもなく醜くて汚い。ノイローゼ寸前で立ち止まらなければ気を失う。しかし、ふと足元に咲いている花は美しい。人生に稲妻が走るのは「芸術」作品だけではない。バカにされるようなアイドルやゲームやアニメにそれは潜んでいる。歴史的堆積を無視してはならないし、万人にそれは開かれている。それに気づいた瞬間、世界が違う色に見える。これはあくまでフラグメントであり、今後も続く。「倫理の書き換え」があれば、「世界の書き換え」も可能だ。マルクスを引くまでもなく、「世界を変革せねばならない」。

 アイドルマスターシャイニーカラーズの本領を知らしめるためにも、私は立ちあがり、再度書くことを決めた。この讃歌は、まさしく「マイ・シャイノグラフィ」なのだから。

七草にちかについての注意喚起

 本記事は『アイドルマスターシャイニーカラーズ』というソーシャルゲームの「七草にちか」というキャラクターに関する言及を含みます(決定的にはネタバレしていません)。特にレトリカルな文章ではありません。

 

 管理人は紐づきのTwitterのパスワードを失念しています。半蟄居生活に入り体調を観察中です。記事は上げませんが生存報告くらいはするかと思います。あと書きます。

 

 シャニマスの七草にちかシナリオに人生を否定されてしまったような気がする人はいると思います。はっきり言ってあれは劇物です。読む人が読めば読んでいても血が出るのに読んだ後も血が止まりません。それでも読むことをやめることを許されないことも分かるわけです。死ぬ人がいても、人を死なせてもおかしくない何かやばいものです。実際Youtubeでにちかをモチーフにした作品がアップされていますがどれもなんというか才能の狂気というより人のヤケクソであり、そしてキチガイは割と簡単に刃物を振り回すので実は危なくないのですが(当たったらまずいから羽交い絞めにすればよいだけ)、普通の人が刃物を持って刺すときの意志の強さは正直狂人が振り回すそれとは別物であることをどうかあのシナリオを見てぐるぐるしてしまっている人は理解してください。人間は叩くと死にます。

 凡庸であることの呪いと祝福も不具の呪いと祝福もないものねだりにすぎません。にちかはGRADでさえTrueEndで報われることはあってはならないでしょう(これは人格者と狂人が両立するとかそういう話です)。でもにちかは死ねばよいという話にはならないのです。WING前で負けて終わったことを晴れやかに喜ぶ彼女は輝いています。八雲なみではなく七草にちかであることを早い段階で知れて彼女はまたタワレコでバイトして、そのときCDを取る手はきっと優しいはずです。あの新譜入荷のときのつるつるのビニールが~と楽しそうにしゃべるときの彼女は生意気でアイドルごっこをウキウキでやるただの女子高生ではなく音楽マニアのそれです。普通の会社に入り休日は音楽を聴いたりライブに行ったりする女性になることがにちかの幸せです。それを望むかではなくなるようにしかなりません。選ばれしものは自然と選ばれ、淘汰の原理は変わりません。基本的にアイドルなどなどは資本ではなくスタンスと存在の美なのでそれは才能の世界です。挫折を挫折を認めることができればOKです。周りでどんどん色んな人が潰れていきました。周りで残っている人はみなアレです。

 

 以上です。どんなに世界が憎くても一対一で生殺与奪の権をキャッチボールしてはいけません。凡庸と天才はそれぞれの呪いがありそれぞれの生があります。にちかシナリオはそれを猛毒でベタベタに塗りたくり、嫌味と悪意をバサバサにはたいたとっても甘くて美味しいスイーツです。当たれば死にますし人を殺します。耐性があれば極上の珍味です。にちかシナリオは子供は食べてはいけません。

 

 シャニマスバンナムのカルトとなるか、優れて人間的な二次元アイドルコンテンツとなるかはまだ結論を待つ必要がありますが、七草にちかによって悲しき怪物が現れないことを、シャニマスが尖ったエグい表現を今後していくためにも祈っています。

君の中に、君以上のものを

 やあ、きみはぼくが誰か分かるかな?そう、れんとぅむであり、ツァッキであり、早良香月であり、であり、であり、、、云々。まあ、誰でもない。本当のぼくなんて、ぼくにも分からない。だって、この20数年間、ぼくと思い込んでいたものが、ぼくじゃなかったのかもしれないと、2021年3月、5年いた大学を卒業をする段になって、その思いが確信に近づいているのだから。

 

 19歳の秋、パニック障害を発症。20歳の夏、躁鬱病を発症。22歳でADHDの診断、23歳の夏に精神病院に入院。障害者等級は3級。5年間の間、もしくはそれ以上、ぼくは自分の病気に振り回され、人を振り回し、疲弊し疲弊させ、自殺を図ったことも一度や二度ではない。それでもぼくの生きるよすがだったのは、文章を書くことだった。エッセイ、批評、小説、論文、色んな種類の文章を書いて書いて書きまくった。アイデアが次から次へと出てきた。ぼくは文章のプロになろうと決めた。それしかできなかったからだ。留年して就職活動もせず、流れるようにフリーター(半分無職)への道が決まった。将来への不安とか、成果を出さなければいけないという強迫観念とか、実家での父との確執とか、そういうものが頭でぐるぐるして不安感がこみあげてくる度に、ロラゼパムをガブ飲みし、寝る前に譫妄と言って幻覚が見えたり、要するに、こんな人生もうさっさとやめてしまいたい、と思っていた。

 

 どこから話すべきだろう?とりあえず、ここから先は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレを含むので、まだ観ていない人は留意してほしい。要はあの映画は、神経症者――パラノイアでありノイローゼ患者――が、権力と抑圧の対象である父(〈他者〉)を殺し、成熟していくことを優しく肯定する映画だ。無論、その神経症者の症状である『Air/まごころを、君に』を経由していなければ、「分析」「治療」=「成熟」のプロセスを辿ることはできない。ぼくは、『エヴァ』を初めて観た15歳のときから、「わかってほしい」「認めてほしい」「愛されたい」のノイローゼ患者だった。20のときに精神分析のキャビネに通っていたこともある。ずっとずっとずっとずっと、「誰か」の存在に飢え、確執があった父に認めてほしくて、もがいて、結果的に精神を壊した(この言い方が適切か分からないが)。碇シンジは、そのままぼくの引き写しのように見えた。新劇場版でも、『Q』の碇シンジは退行しているように見えた。いや、というより、式波・アスカが「バカ」から「ガキ」と言っているように、シンジは「父親に認められたい」という形で成熟を拒否する=ノイローゼに留まることをよしとしている(?)のだ。

 ぼくの話に移ろう。ぼくは、『シン』を観たとき、ちょうど投薬によって発達障害が軽減されてきたタイミングもあるだろうが(正直これはなんなのかよく分からない)、頭の中のモヤモヤがスカッと一気に晴れて、胸のつっかえがストンとなくなって、月並みでバカみたいな言葉で恐縮だがものすごくスカッとした。そして、「大人になるって、病気を治すって、すごく難しいことのように思えたけど、こんなに簡単に終わっちゃうのか」と思った。ぐちゃぐちゃだった部屋とリュックと冷蔵庫と財布の中身をいるもの以外全部捨て、掃除をして、枕カバーとかけ布団カバーを洗濯して、洗い物を溜めることもなくなり、バイトもなんでこれができなかったんだろうということがデカルト流に言えば「明晰判明に」できるようになった。新しいバイトを始めて一回の研修でほとんどの業務内容を覚えた(大したバイトじゃないが)。正直、ぼくが前思っていた「ぼく」とあまりにも違い過ぎて、これは果たして「ぼく」なのだろうか、という気さえする。卒業論文で主体のイデオロギーにおける同一性の研究をやっていた身からすると、やはりイデオロギー的主体を定立するに当たってアルチュセール精神分析を導入する必然性が確かにあったのだなあと今になって得心が行っている。やっててよかったね、哲学。

 

 ラストだ。これからの話をしよう。これは不確実な話だし、人間万事塞翁が馬、ここから先何が起こるか分からない。1日後にはひっくり返してるかもしれないし、20年後に再開してるかもしれないし、死ぬまでかもしれない。頭のモヤモヤとか鬱屈した感情とか、なんかそういうマイナスの情念みたいなものが吹っ飛んでいったら、書きたいものがなくなったというか、何も書けなくなってしまった。リハビリというかケアとしての書くことが必要なくなって、認められるための書くという行為についても承認がどうでもいいのでモチベがない。今後プロの文筆業は目指さないだろうし、趣味でぽつぽつ書くことはするだろうけれども、まあ、適当にやります。少しさみしいけれど。

 これは名著なので是非諸賢には読んで欲しいのだけど、大学の先輩の片岡一竹『疾風怒涛精神分析入門』の末尾に精神分析の最終的な目標とは「特異的な幸福」を見つけ出すための「倫理的」なケアのプロセスであると書いてあった。ぼくは分析を中断したり無意識に続行したりして、ひとまずの「治療」を終了した。しかし、分析に終わりはない。主体の変容、つまり「ぼく」がいい意味で「ぼく」だけの存在になることがないように、その都度主体=精神の分析というものは続いていくからだ。

 

 こんな書くつもりじゃなかったが、まあいいだろう。ぼくの中に、ぼくを越える何か――越え出ていく――があるということは、希望、すごくすごく強い希望であり、変わっていく「ぼく」を肯定し認めてあげることだ。ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』の最後の章の題名は、以下の通りである。祈りは届く。願いは叶う。信じ続けることが、かけがえのない人間という生き物の美しさであるとぼくは確信して、ひとまず筆を措こう。

 

 君の中に、君以上のものを En toi plus que toi.

ラグジュアリーへの羨望、あるいは擬似スキゾ:2020年総括

 22歳の秋、まさに恋燃ゆる季節、僕の前に服と本とセックスを愛する女性が現れた。「ねえ、私はどんなセックスをしそう?」そう言いながら鈴の音のようにころころと笑う彼女は花柄のブラウスを身に纏って、そのコケティッシュさで僕をコケにしているかのようにも思われた。今年の7月まで付き合った彼女は、僕にアレキサンダー・マックイーンを教えた。僕に古井由吉を教えた。僕は彼女にベートーヴェン弦楽四重奏レオス・カラックスを教えた。しかし教え教わることができなかったことがある。人を愛するということだ。彼女は依存することでしか僕への愛情表現を知らなくて、僕もまた彼女に依存することでしか彼女に愛を示せないと思っていた。僕は最後、他の男と寝た彼女に向かって「お前なんか、愛していなかった」と言った。本当は、愛し方が分からなかった。服を愛するように、映画を愛するように、音楽を愛するように、人を愛することができたならどれほどよかっただろう。いや、彼女にとっては、まさにメゾンの中の数着を取って試着するかのように男と寝ていたのだろう。まったくもって情けない話である。あの日見た埠頭からのどす黒い海と重く滴るような空、6月にしては冷たい風が吹く中、周りの視線など憚らずにキスをしあった記憶だけが、2020年という呪われた年に深く刻印を残している。

 

 ……という書き出しは半分マジで半分冗談です。毎年noteかTumblrにその年の振り返りを書くというのをかれこれ6年続けていて、プラットフォームをはてなに一本化したのでここで書きたいと思います。ちなみにバイトに行くまでのタイムアタックです。今年はコロナに始まり彼女に浮気されるわ精神病院にブチ込まれるわ一人暮らしが始まるわで揉みくちゃになった1年でしたが、卒業論文を書いていた躁状態の夏はめちゃくちゃ楽しかったり(躁なんだから当たり前か)、下半期に服を見る(というかファッションショーを観る)ことにハマってからは一日中VtuberとファッションショーをYoutubeで見ていたら朝の7時なんてこともザラで、唯一心残りはアルチュセールよろしく「常にセックスは身近でなければならない」ということにはならなかったことだけど、まあそれなりにやることはやっていたのでよかったのではないでしょうか。ちなみに2020年を語るに当たって元カノの存在は相当デカいのですが記述は冒頭の小説もどきに留めておきます。女に関して過度に湿っぽいことを書くとのちのち俺がつらい。というわけであんまり時間もないので、トピックスを絞ってなるべく簡潔に2020年を振り返っていこうかと思います。

 

卒業論文

 既に彼女との関係がギスつき始めており、フッたと思ったら既に他の男と寝ていたことが判明し(ちなみに当時性病の偽判定が出ていて彼女に「確定もしていないのに性病呼ばわりはヒドイ!しかも性病じゃないし!」とキレられたのですが、痛みが一ヶ月半続き明らかにおかしいと思って再検査したらマイコプラズマ尿道炎というれっきとした性病でした。バーカ!)完全に失意のズンドコにいた私ですが、夏の陽気に当てられたのか精神的ショックからなのか激烈な躁状態に突入、毎日3時間睡眠で朝の5時から3時間資料検討と執筆に当てる生活を1か月やり、6万5千字というコースの規定文字数を大幅に超過する代物が完成。毎日フルーツグラノーラと果物を食べて(モンスターなどには頼らずに)アルチュセールに向き合っていました。今後もアルチュセールの在野研究は続けていくつもりなので総括的なことはしたくないのですが、みんなアルチュセール思った以上に真面目に読んでないんだなということが分かっただけでも儲けものかなと思います。

 

・精神病院

 卒論を書き終えた後僕は無事発狂、双極Ⅰ特有の世界が目の前でドロドロに溶けていく感覚や幻覚症状に苦しむことになります。気が狂いすぎて渋谷のドゥマゴに入ってオムレツと白ワインをきこしめたのは今でも意味分かんないね。主治医から「この薬効かなかったら入院ね」と言われるものの2日を待たずに家を飛び出して深夜徘徊したり、「眠れない!眠れない!」と絶叫して母も半狂乱になるなど、完全に地獄の様相を呈していました。大学4年のとき恩師に専門を聞かれ「アルチュセールです」と答えると「ダメだよ、ミラーニューロンで気が狂っちゃうよ」と言われたが、完全に正しかったですね……。ちなみにアルチュセール双極性障害を発病したのは20歳のときなので僕と同じです。キモ。ほぼ埼玉の練馬の病院に担ぎ込まれ、1週間半ほど入院生活を送る。本当はもう少しいるはずだったんだけど統合失調症の人妻に貞操を狙われかけ逃げるようにして退院。病院自体はすこぶる快適でいくらでもいれるなという感じでした。喫煙所の利用時間が限られていて16時以降はタバコが吸えなかったのが唯一辛かった点でした。喫煙所で仲良くなった人たちは元気にしているだろうか。朝飯にクリームパン(おいしい)が出たとき、朝10時鍵開けの喫煙所で渋いおじさん二人が「クリームパン、うまかったな……」「ああ……」(大塚若林ボイス)という牧歌的な会話をしているぐらいなので精神病院って思われるほど殺伐としてないですよ。またこのとき暇すぎて病室で配信を始める。結構まともにテーマを設定して喋っていた、というかあまりにも暇なので本を読んで感想を喋ることぐらいしかストレス発散方法がなかった。なおこの時双極Ⅰに加えて重度の発達障害であることも判明。ADHD衝動型で我慢ができないらしい。長男なんですけどね。実家に適応障害もあることから主治医の勧めで一人暮らしを始めることになる。一人暮らしはまあ洗ってない炊飯器で米を炊いたり晩飯がもずく一パックと豆腐だけだったりそれなりに香ばしい生活を送っています。常に金がないので親に怒られまくっている。コンカフェ行きたいしね、しょうがないよね。

 

・服

 前々から興味はあったのだがどういう入り方が正しいのか分からず(何が自分に似合うのかとか、ブランドごとの違いとか)友人や元カノに色々聞いたりしていたのだが、結局ブランド物の古着から始めるのが手っ取り早そうなのでそうすることにした(「古着はモードじゃないから買わない」――友人談)。弟は古着が好きなのでよく買ってくるのだがブランドがよく分かっていないらしく、僕はセカストとかカインドオルを根気強く回るより自分で採寸してサイズの合うもの買った方がブランド物買うんだったらよくな~い?(ギャル)という人間なので、古着好きというわけではない。古着屋そのものが好きという人は当たり前にいっぱいいるからね。

 リアルクローズ(勿論、古着で)で今のところ気に入っているのはヴィヴィアン・ウエストウッドアレキサンダー・マックイーン。自分は黒スキニーに革ジャンみたいな恰好をよくするのだけど、ヴィヴィアンはパンツもタイトだしロンTもジャストサイズで若干袖が余る感じが気に入っている。今更70年代パンクスみたいな恰好するのもなんだけどエディ・スリマンよろしくたっけぇレザージャケットに白シャツ、黒パンツでキメキメというのも日本人のスタイルに合わないという場合はヴィヴィアンのゴールドラインではなくレッドラインやマンのライセンス品はかなり良い印象がある。マックイーンは何を隠そう元カノが好きだったブランドであり、菊地成孔大先生も好んでお召しになっているということで個人的には呪われた(?)ブランドである。パリ・モードとロンドン・モードの区別がマックイーンにおいてはもはやつかなくなっている、というのはN/K御大の『服は何故音楽を必要とするのか?』に書いてある通りだが、アシンメトリーのジャケットなどはともかくテーラードやスーツのセットアップは肩にパッドが入っていて(今自分が欲しいベルベットのテーラードはその限りではない)、キュッと胴回りが締まった、着た本人のスタイルが際立つどちらかと言えばロンドン・モード的な意匠である(もっとも、マックイーン存命時のメンズラインのコレクションを知らないので、サラ・バートンがこの辺りの意匠にかけては優れているという話ではあるが――ラルフ&ロッソ2020AWのゆる~いシルエットなどを見るとバートンのタイトなレザーやスーツが異質なオーセンティシティを放っているのが分かる)。という訳で、今年はお年玉代わりにマックイーンのテーラードとニットを買ってもらいます……。いつか青山の正規店のセールでジャケット買うんだ……。他にもサンローランのレザージャケットがかっこいいとかヴァレンティノのボンバージャケットがかわいいとか色々あるが、そんな金があるわけもない(リボ払いで親指を立てながら溶鉱炉に沈む選択肢はない)ので、ひとまずこの辺に焦点を絞って指を咥えています。本当はファッションショーについて一番書きたいんだけど、もうちょっと勉強します。

 

 2021年はもっと楽しくなるといいですね。よいお年を。

2020年12月11日の日記 副題:炭酸飲料

 「ツァッキ(元も子もないが、俺の昔のアカウント)さんの今の文体はマチュアな感じになりましたけど、しばらく前のブログは良い意味で粗削りでしたよね。だから女の子のファンとかいたんじゃないですかね」

 

 真っ白いWordの画面を開いて、タバコを吸ったりYoutubeを観たり過去の自分の文章を読んだりして、最初の一文字目を打ち始める。あるいはポメラDM100の新規ファイルに書き出すときでもいい。そのとき毎回思うのは、シーシュポスの神話よろしく上から降ってくる石をピラミッドの頂上に運ぶその一歩目である。終わりが見えない。一日に3行も進まなくてうなだれる。しかし書き出しが毎回難しい。書き出しとタイトルだけで二週間悩むことすらある。これは、何もない日でも書くと決めた、ごく短い日記。書き出しの難しさが変わるわけではない。人に比べて劇的な毎日を送っているわけでもない。ただ文章は筋トレのような部分がある。アイデアを普段から出すことを怠っている人間が蓮實重彦よろしく「向こうからやってくる」などということはありはしない。今年の夏に大作を書きあげて以来、小説が書けない。同じく批評だって切れ味が鈍るだろう。というわけで、しばしリハビリにお付き合いください。

 

 今日は16時前に起床。寝たのが多分朝の6時とかだったので、かなりよく眠れた。ストラテラを120mg飲んでいたときは壮絶な悪夢と不眠で泡を吹いていたので、80mgに戻したら随分調子がよくなった。ロドピンを半分にゴリッと削ったのも功を奏したのだろう。薬物の大量投与は対症療法的であまりよくないとされているが、主治医もお手上げで無闇に薬を増やすしかなかったらしい。薬が減って調子がよいのはたいへんよいことだなあ~と思いながら起き抜けに野菜ジュースを飲んでサラダチキンを布団の上で食う。これが漢の昼飯(カレーを作る元気がなかっただけです)。

 俺の家の間取りはかなり変で、部屋から共用廊下に出て風呂とトイレ、洗濯機がある部屋に行かなければならない(この構造のせいで夜な夜なさみしくて後輩や先輩と通話していることを怒られたりタバコの臭いが漏れていると苦情が来たりした)。洗濯機を回してシャワーを浴びる。ユニットバスなので冬は端的に言って地獄である。3日間ぐらい風呂に入らなくても、バレないよね。まあ髪が伸びると臭えオタクになるが今は刈り上げてるしあんまりシャンプーしすぎるとカラーが落ちるのが早くなるので洗わないという手入れ(菊地成孔もやっている湯シャンが最も色持ちするらしい)もあったりする。というわけで今日は体を洗って頭は湯シャンで済ます。ここ2年ぐらい夏は青色冬はピンク色に染めているが、オタクは髪を染めるぐらいしか威嚇方法がないのである。

 昨日親の金を使い込んでまで遊んだので今日は一歩も外に出ないと誓い、Youtubeでホロライブの切り抜き動画にハハハとウケたりTinderでガチンコファイトクラブをしたりしていた。マッチングアプリは射幸心を煽るようにできているのでマッチングして会話がちょろっと続けばまあいいのだが、今の彼女がおもんないにゃあ……となっているので面白いメンヘラはいないかな?と思っていたらインド哲学専攻でバタイユやジュネやユイスマンスが好きな彼氏持ちの女が引っかかった。ピピーッ!反則!!なおそれ以外は普通の子だった。マッチングしといて会話返さない奴なんなんだ?まあそれもああいうアプリの仕組か……。晩飯はもずくと豆腐2パックだが結局この後袋ラーメンを食っている。

 家のすぐ近くにコーラとドクターペッパーが売っている自販機がある。これはよくない。明け方に震えながら飲む缶コーラがまずいわけないだろ。今日はどっちも買ってしまった。俺の部屋にはコーラとドクターペッパーとモンスターの死骸が転がっている。

 

 また明日。