思考停止

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アイドルマスターシャイニーカラーズに捧げる讃歌 断章1

 「それ」は始動する。静かに、しかし確実に、唸る重低音を上げながら、動き出す。我々は再び書き出さねばならない。黛冬優子の言う「バカバカしい世界」を真面目な顔して生き延び続けるためには、書き続けなければならない。充溢したパロールエクリチュールの連鎖もない地点で、「生きざま」として我々は讃歌を謳い上げる――命尽き果てるその瞬間まで、「われわれ」はサヴァイブせねばならない。「私」の単数ではない。皆でゴールテープを切らなければ意味がないから。走れ、走れ、もっと先まで、終わらない、夢のなかを――気高き馬のように。

 

 ソーシャルゲームアイドルマスターシャイニーカラーズ』のシナリオのクオリティには目を見張るものがある、という言葉では失礼なほどに練り上げられている。「醜悪なほどに洗練されている」と言った方がより正確かもしれない。私はシャニマスに文字通りぶちのめされた。稲妻と言ってもいいかもしれない。去年始めたゲームが異常なほどの鮮やかさをもって立ち現れる瞬間に戦慄することさえも許されなかった。それは13歳の頃に、ミュージックステーションを晩飯を食べながら見ていたらAKB48が「ポニーテールとシュシュ」で登場したのを目撃したときと似た、いや全く同じレベルの衝撃と言って差し支えない。前田敦子を筆頭とする「華の91年組」が19歳で、「ヘビーローテーション」でメガヒットを飛ばすまさに前夜の彼女たちは、蒼くて、煌めいていて、透き通っていた。それまで貴族趣味どっぷりだった私は一挙に沼に叩き落されることになり、来る日も来る日も同じ番組をHDDが壊れる勢いで見続けた。

 ノクチルのイベントコミュ「天塵」における「アンプラグド」(言うまでもなく「天塵」自体のコミュの名前はThe Smithsなのだが、あれを指摘した人は知る限りで1人しかいない)で、「いつだって僕らは」を番組で発表する彼女らが番組への反抗としてリップシンク(カブセ)で歌わない場面がある。これは例えばストレイライトのひとまずの総決算であるイベントコミュ「The Straylight」で明確に押し出される「生歌・パフォーマンス至上主義」(=ハロー!プロジェクトに代表されるプロフェッショナリズムで、黛冬優子は恐らく嗣永桃子がベースになっているのでは、という推測は可能である)に対する「当て馬」であることは間違いない。しかし、番組が終わったあとのSNSで「ノクチル干されてて草」「アイドルやめろ」と叩かれているのを見たプロデューサーが「なんだろう、あの感じ」と番組に逆らったノクチルの4人組の「言いしれない良さ」をじんわりと感じるシーンがある。あのプロデューサーの胸に去来した「言いしれなさ」を、果たしてプレイヤーの何割が知ることができるだろうか。それは2010年のAKBの煌めきであり、いつか埃っぽい渋谷Gladの最前で見たフィノリアファクトリーの柳田久瑠実のソロライブであったり、いつか恋焦がれたあの人のうなじであり――つまりシャニマス(ことにノクチル)において重要なのはポップ・メランコリー・スキゾなのである。フロイトを雑に引用する菊地成孔のべしゃりを思い返すまでもなく、鬱病の変奏としてのメランコリアをスキゾ的に引き裂き、それをポップに出力すること。一見ポップだから、「リテラシー」に欠くプレイヤーは浅倉透が雑なエロゲキャラに見えてもおかしくないし、樋口円香がいけすかないサディスト――言うまでもなく彼女はド級のマゾである――という致命的な過ちを犯す可能性もまったく否定できない(ニコニコや5chでもそういう誤読はしばしば見受けられる)。しかしそれは浅倉の「ジャングルジム」概念よろしくメランコリーがスキゾフレニー的分裂を起こしている複雑怪奇な構造がうねうねしていることを読み手は忘れてはならない。そして忘却した瞬間、シャニマスは何かのっぺりした怪物的なものになってしまうのである。

 

 ひとつ、一見関係ない思い出話をさせてほしい。私は中3から高2の前半までの間、フィノリアファクトリーに所属していたchoice?というアイドルに熱を上げていたことがある。地下アイドルで全員が可愛いわけでもなかった。踊りも歌も下手くそで、多分アイドルを「頑張っている」様子もなくて――市川雛菜の「なんで雛菜たちが頑張ってないって分かるんだろうね~」「雛菜は雛菜のことしか分かんないのにな~」という台詞は、この括弧つきの「頑張っている」という言葉を全て帳消しにできるのだが、その絨毯爆撃は一旦横に置いておこう――、出るライブはワンドリンクの対バンかリリイベの2~3曲のミニライブばっかりで、そして曲がめちゃくちゃ良くて、何より、どうしようもなく、どうしようもなく、輝いていた。私は人生で100回200回アイドルの現場に握手会を含めれば足を運んでいるが、どう考えてもchoice?のオタクをしていたときが一番楽しかった。毎回やる気なさげでやる気がある、へなへなの歌を歌う彼女らが最高に好きで、スカスカの会場で後ろのポジションを陣取ってプラコップのジュースを飲みながら幸せな気持ちになっていた。何故かchoice?のオタクからホドロフスキーのDVDBOXをもらったのも覚えている(意味不明)。

 ノクチルは、「天塵」の「海」のコミュの中で、文字通り幼い頃の約束を果たしに海辺の花火大会のイベントに出ることを決める。葛藤する樋口を前に、浅倉は「んー、わかんない」と言い放ったあと、しかし「行こうよ、海」と言う。雛菜も小糸もそれに従う。「やる意味あるの、この仕事」と言っていた樋口は、その様子を見て微笑を浮かべるだけで答える。花火大会のステージでほとんど誰も見ていない中で「いつだって僕らは」が流れ出すシーンは圧倒的な演出の妙である。そこでまたプロデューサーがひとりごちる「『こういう』良さ」とは、つまり私が歌も踊りもへなへなで顔が良いわけでもなく接触にもほとんど行かなかった地下アイドルに熱を上げていた2年半の全て、とあえて強い言葉で言い切ってしまおう。choice?が大井競馬場のボロボロのステージとガラガラのパイプ椅子が並ぶ中ヘタクソな歌を歌って品のない電飾がピカピカ光るとき、中学生の私はそこに生命の鮮烈な躍動を見た。ギラギラとうねる光の波がそこにあった。それはどこまでも透き通っていて、土臭くて、野暮で、蒼くて、輝きで目が潰れんばかりだった。シャニマスをやっていて「シャイノグラフィ」がWING決勝で流れ出すとき、「いつだって僕らは」をノクチルが歌っているのを想像するとき、私は静かにそのメランコリアを抱きしめる。ラース・フォン・トリアーの映画で巨大な惑星が蒼く澄み渡っているように、絶望も希望も、それはずっとずっと蒼く突き抜けるのである。

 

 シャニマスの一貫したテーマは「アイドル=私とは何か」という一見シンプルで簡単な問いである。しかし、この問いは非常に危険な問いと言えよう。なぜなら、「アイドル」は「私」であり、「私」はつねにすでに「アイドル」であり、「私」は「私」であることの絶えざる自己否定と昇華の弁証法的運動に他ならないということを頭ではなく魂で理解することをこのゲームは求めているからだ。例えば、先に出したノクチル。最新の実装アイドル「シーズ」の七草にちかがどうあがいても到達できない地点にノクチルはサクッと到達しているかのように見える――一般的理解としての「アイドル」を舐めているように見える。しかし、ノクチルは「ノクチルである」ことによって、血反吐を吐いて「アイドル」であるのだ。市川雛菜のスタンスはアイドルを舐めているか。樋口円香は「笑っていればなんとかなる、アイドルって楽な商売」と本当に思っているのか。アイドルオタクに人生の半分を捧げた人間から言わせてもらおう。絶対にノーだ。「雛菜は雛菜のことしか分からない」と言える人間が、人生を舐めているのか?「しあわせ~」であることに何もかもを賭けてアイドルをやっている人間が、アイドルを舐めているのか?ヒップホップやパンクが技術ではなく生き様と魂であるように、アイドルは生き様と魂である。技術などいらない。歌もダンスも下手でいい。頑張ればいいわけでもない。樋口が言うように「何が評価されるか分からない」――しかし彼女はWINGで敗退して「この感覚……」と言って静かに感慨に浸る。そう、まさにそれが「アイドル」の醍醐味であり、面白さであり、同時に残酷さなのだ。ノクチルでなければ、私が最も好きなアイドルである黛冬優子。「もう一度、アイドルやりたい」「これが『ふゆ』なんだって」「これが『アイドル』なんだって」と言う彼女は、なんというか、才能ではなく、努力でもなく、「ありのまま」でもなく(ストレイライトは「ありのまま」が主要な問題となるアイドルグループでもあるが、別稿に譲る)、ただ「アイドル」の「ふゆ」をそれでしかあり得なかった形で提示すること。冬優子は「Straylight.run()」の中で「世界」を「バカバカしい」と言う。世界は醜いから。でも醜さの中で評価されないといけないから。でもまっすぐでないといけないから。でも、でも、我々は「バカバカしい」醜い世界を呪ったり恨んだりしてはいけない。いたずらなペシミズムは最も唾棄すべきだ。冬優子のように逆切れをかましながらどうにかサヴァイブしていかなければ醜さに呑まれるかゲームから脱落してしまう。そこに当たって審美性などはいらない。ただ闘争のみがある。そして生きて戦うことは美しい。だから、黛冬優子はサヴァイブする最高で最強のアイドルだ。かませ。やれ。これは決して架空の女性キャラクターを振り回して難しい話をしているのではない。我々が生きるために必要な手立てをフィクションから学ぶのだ。フィクションは時折、リアルよりもリアルであることを決して忘れてはならないのだから。

 

 これは何よりも讃歌である。人間や世界はどうしようもなく醜くて汚い。ノイローゼ寸前で立ち止まらなければ気を失う。しかし、ふと足元に咲いている花は美しい。人生に稲妻が走るのは「芸術」作品だけではない。バカにされるようなアイドルやゲームやアニメにそれは潜んでいる。歴史的堆積を無視してはならないし、万人にそれは開かれている。それに気づいた瞬間、世界が違う色に見える。これはあくまでフラグメントであり、今後も続く。「倫理の書き換え」があれば、「世界の書き換え」も可能だ。マルクスを引くまでもなく、「世界を変革せねばならない」。

 アイドルマスターシャイニーカラーズの本領を知らしめるためにも、私は立ちあがり、再度書くことを決めた。この讃歌は、まさしく「マイ・シャイノグラフィ」なのだから。