思考停止

映画、本、音楽、など

NO FUN(息抜き)

 久々に個人的な話をしよう。とはいえ、俺は文章を書くときはいつだって個人的な話しかしていないのだが。

 

 なんで公に文章を発信できる場所を別に持ってるのにこのはてなブログアカウントを大学1年生のときから使い続けるかといえば、ここはいわば痰壺だからだ。こことは違う痰壺をおととしまで持っていたのだけど、くだらなくてつまらない理由から捨ててしまった。なぜかそっちの痰壺の方に人が吸い寄せられるのは、俺が元々持っていたくだらなくてつまらない自意識が人によっては魅力的に見えるからだろう。文章がその人の内面を綺麗に映し出す鏡なのかと言われたら、かならずしもそうじゃない。邪悪で濁った心を持った人間の書く文章が清明で美しい場合だってあるだろうし、清らかな内面なのに破綻した文章しか書けない人だっているだろう。

 俺は、もう既になんとなく疲れて倦んでいる。もちろん文章を書くことにではない。文章を書くことはとても楽しい――場合によっては自慰以上に。そうではなくて、文章に自分の気持ちや想いを乗せて誰かに力強くぶつける、分かりやすく言えば「誰か僕の気持ちを分かって!」というスタンスで文章を書くことがとっくに困難なのだ。かつては、それがなくなった自分の文章など書く意味も読まれる意味もないのではないか、と思っていたのだが、別に意味なんて元々なかった。書きたいから書き、読みたいから読む、それまでの話であって、意味付けが恣意的なものに過ぎないことに気付くのに随分とかかってしまった。

 文章と自慰行為をうっかりなぞらえてしまったが、文章にしても創作行為の第一歩はそれがまず自慰であることにある。俺はなんで文章を書いているんだっけ?とたまに考えることがある。何か切迫した伝えたいものがある。何か俺にしか語れないことがある。村上龍が『13歳のハローワーク』の「作家」の欄で、何も捨てるものがなくなり、そういった伝えたくて俺にしか語れないものだけが残ったとき、作家を目指しなさいと書いていた。俺はずっと、小学生のときからずっと、誰かに自分の知っていることや学んだことを自分の思い描く言葉で伝えることが好きだった。もっと厳密に言えば、そうやって誰かに何かを伝える自分の言葉を読みたいと熱望したのがまず自分だった。だから、自慰は自慰なのかもしれないけど、それはよくないのかもしれないけど、やっぱり人に伝える歓びの手法を工夫しながら試行錯誤していくプロセスが自己目的的に楽しくなるのに越したことはないんじゃない?と俺は考える。まあ、書くスタイルが変わるのは、致し方のないことだけれども(それが観念的で抽象的になればなるほどに)。

 かつて交際していた女性は、俺の文章が好きだった。当時何かに切迫していて自意識が膨れ上がった俺と俺の文章、つまり痰壺のうちの一個ないしは両方を彼女はとても褒めてくれた。俺は何のために文章を書いていたのかと言えば、まず自分のため、そして彼女のように自分の文章を特別に読んでくれる特別な誰かのためなのだったと気づくのに、俺はいたく遠回りをしてしまったなと思う。断筆しようと思ってできなかったのは、彼女の――あえてこういう言い方をすれば――「おかげ」だった。文章は俺を救ってくれない。しかし、文章によって俺は俺自身を救い出すことができると気づいたのは、このブログに断筆宣言をした直後に俺が傷害事件を起こしたときだった。アマチュアの同人ゴロのくせに何が断筆じゃボケというそしりはまあ置いておいて、現行犯逮捕されパトカーに乗り、警察署のエレベータ内で手錠をかけられたとき、俺はまた何かを書かなければならないと思った。迷惑をかけた友人や家族の顔が脳裏に過ぎる中、俺に何かを賭けてくれていた女性の存在がその中にいた。結果、俺は同人を立ち上げ、ブログを書き、何かを発信している。輪郭を捉えたり捉えられなかったりしつつ、Twitterの140字に収まらないものをどこか遠くに向かって投げかけている。

 

 「初めて会ったときのこと、おぼえてる?」と峯田は歌ったが、別れ際については志摩遼平が「さらば青春の光」と歌っている。綺麗に男女関係の始まりと終わりをメルクマールとして位置付けることのできるアベックが果たしてどの程度いるのかということについてはついぞ謎のテーマだが、俺は人生で女性と計3度破局している。1度目は静かに、2度目は泥沼で、3度目はいつの間にか(これは含まれないかもしれない)、といった具合で、いつまで経っても反省できない。ところが永遠の反逆児であることにも才能が必要で、俺はもはや現段階ではそういう色恋沙汰に頭から突っ込んでいくのが億劫になってしまった。かつては文学部のキャンパスで歩くペニスと言えば俺とまでの二つ名を恣にしていたはずが今では一日一回の義務のオナニー(これを友人は義務ニーと呼んでいる)をこなすことさえかなり困難になっており、自分のペニスが勃起することさえ神に祈る日々である。

 そんな折、上に書いた泥沼破局劇を演じた女性からいきなり連絡が来て、いきなり会うことになった。話した内容は書くようなものでもないのでいいとして、久しぶりに元カノに会うとか以前に女性と喋る機会自体が母親以外で最近なかったので最初死ぬほど緊張した。緊張をほぐすためにイヤホンで爆音でFlying Lotusの『You're Dead!』を聴いていたら突然目の前に彼女が現れて震える手でイヤホンを取り外し「ヒ……ヒサシブリ……」と蚊の鳴くような声で言うことしかできなかった。彼女は付き合っていたときとそう印象は変わらなかった。強いて言えば髪が伸びたなぐらい。本当に『シティーハンター』にそういう台詞があるのか知らないが「男子三日合わざれば刮目して見よなんて言うが、女の三年はその比じゃあない」と冴羽潦が言っていたのを真に受けるとするならば(そもそも別れたのは去年の6月だが)、顔つきが良くなっていた。もちろん彼女も体調が万全というわけではなさそうだったが、こうして見ると別れ際の顔つきは多分お互いよくない感じだったのだろうなと思った。

 彼女と埠頭で話し込みつつ、なおかつ昔の話は触れたり触れなかったりしたりして、最後辺りに異性との別れ際の話になった。静かに、激しく、いつの間にか。マーラーの楽譜の指示じゃないんだし、と思いつつ、俺はなぜか俺の最初の交際相手のことを喋っていた。高円寺のシーシャ屋で、当時煮詰まりに煮詰まっていた関係性に限界を感じていたのと彼女に対する依存から来る試し行為で「もう無理かなあ」と俺が言ったら、彼女も「そうかもね」と返したこと。二人で家に帰っていつものコンビニのざるそばを一緒に啜って寝て、朝髭剃りや歯磨きを処分して実家に帰ったこと。話しながら、この埠頭の夜は4年前の高円寺の夜に似ているなと思った。静かに何かが終わっていく感覚があった。ワヤクチャのまま場当たり的についてもいない決着をついたことにした1年前から今にかけて、目の前にいる彼女にも俺にも色々なことがある中で、折り合いをつけたりつけられなかったりしつつ、まあ、どうでもいいよね、の一言に泡沫と帰す瞬間が訪れているのが分かった。お互いの非を認め、再会に至るまでにも犯した過ちを数えつつ、結局俺も、折り合いがつけられていなさそうな彼女も、断片的にお互いのことを忘れていく。まあ、それでいいかなと思った。俺も彼女に黒歴史みたいな文章送り付けてるし、その前の彼女には怪文書LINEで会ってくれえ~と泣きついてフイにされてるし、そういうことを忘れていかないと人間どこかでバグってしまう。皆さんはそういう経験、ありませんか?空を見てください。あの星の数が私の残した黒歴史怪文書の数です。

 まあそれはともかくとして、一つの「終わり」が見えてくる瞬間というのは、なんとなく寂しいような、爽やかなような、不思議な気持ちになる。しがみついていた何かから解き放たれる瞬間は、それは足場でもあったわけだから、やっぱり不安になる。人は過去によって生きるとどこかの小説家も言っていたと友人の受け売りで聞いた。でも、忘れる、忘れてしまうことによって、そこにいつかまた会えることの可能性が託されていたりもする。同人がんばんなきゃなー、と黒に呑まれた東京湾に向かってぼやいた。今隣にいる人がかつて隣にいたときに、彼女が俺に見せてくれるかもしれないと期待してくれた景色の先っちょを来年には実現しなければならないという使命感に似た感情が奮い立つのを感じた。何より、今同人を頑張れているのは、彼女のおかげなのである。帰りに乗る電車が分かれたとき、彼女は「もう会うことはないと思いますが」と言ったのに対し、「じゃあ、また」と俺は反射で返してしまった。まあ、多分もう会うことはない。ただ、生きていれば可能性はゼロではない。また、いつかどこかで。

 

 この文章は特定の誰かに宛てられている。NO FUN!