思考停止

映画、本、音楽、など

日記、あるいはなんとはなしの彫琢

 僕は躁鬱病統合失調症である、みたいなことを書くのにもいい加減飽きたし、鬱状態とか幻視(夢幻様状態)の症状それ自体にも飽きた。正直いつからこうなっていたのかも覚えていないし、元からこんな感じだったような気もする。合唱コンクールの指揮者で一身に拍手を浴びていたとき、高校時代部活で部長を務めてミーティングで部員を鼓舞していたとき、あのときが輝かしい日々で「健常者」だったのかどうか、割とどうでもよくなってきた。まあ、たいていのことは、どうでもよいのだ。

 

 たぶん今僕は何度目かの鬱状態になっている。周りからしたら躁状態が迷惑で、自分からしたら鬱状態がつらい。「つらい」というか、これはあんまり言葉の射程として正しいわけではない感じがして、「体がデカくなる」とか「意識が自分の頭上にある」とか「特定の音楽が聴けなくなる」とか「本に線を引いて読めなくなる」みたいな一個一個の症状が積み重なっていくと当たり前に知覚や生活に支障をきたす、程度の話であって、つらいからつらい、みたいな話はケチをつけるわけではないけど別に何も言っていないと思う。僕は鬱になると音楽も本も映画も基本的にダメになってくる。おそらくだが、僕は何かデカい成果物を提出したときにSSR確定病気プラチナガシャが回されて躁か鬱か統合失調症がドロップされるのである。去年卒論を完成させたときは躁と統合失調症、卒論を提出した後は酷い鬱、今回は同人の原稿をアップしたら鬱である。同人をやっていて躁鬱の知人に「僕は文章を書くことがオナニーのようなものなのですが」と言ったら「それはよくないね」と言われたことがある。書き終えたあと決まって体調を崩すのではやはりよくないオナニーなのだろう。はて、オナニーではない文章とは、一体なんなのだろうか。現に鬱の真っ最中である中、やることがないからととりあえずパソコンで脈絡のない文章をブログに書いているときに(そしてこんなものは誰も読まないか読むとしても決まった人なのだから)ああようやく俺も生きているのだという実感があるのである。普通にこれは思うことなのだが、「つらい」じゃないけど「死にたい」も相当雑な言葉だと思う。死にたいけど死にたいわけないだろ、と思ってしまうのは自分が根本的には信心深いからだろうか。夢見りあむでさえ「やむ」と言って「死にたくない」と言うのである。何の話をしているのか分からなくなってきた。文章の構成を考えることがめんどくさいときはやはり鬱病なのである。

 鬱病のときはたいていのことがどうでもよくなる、というかたいていのことが苦痛なのだが、一個だけ苦痛ではないことがある。Vtuberを見ることである。感覚としてはラジオに近く、家長むぎみたいな萌え声生主みたいなのではなく舞元力一とか花畑チャイカのマイクラなどが落ち着く。なんで落ち着くのかはよく分からない。まあ鬱病のときにアニメも本も音楽もダメになって(デレステのMVなどは情報量が多すぎて完全にバッドトリップする)、何もできなくなったときウーバーのマックを食いながらVtuberを見ているときが唯一自分の意識が自分のものであることを確証できる時間なのだった。これを書いているときも舞元力一チャイカ回を聴いている。何も中身がないトークが弾んでケラケラ笑っているときがなんとなく救われる。本はまあ、ダンテは読める。哲学書は無理。

 

 文章を書くことは何に似ているだろうか、と思った時、よく言われていそうだが彫刻を彫る作業に似ていると思う。ミケランジェロだったかが彫刻は内部にあるものを彫り出すことであると言っていた気がするが、文章も似たようなものだろう。白紙のように見えるが、自分の考えが形になっていく瞬間は最初からそうだったかのように思える。なんとはなしに書くことがいつからかできなくなっていた。彫琢ではなく粘土細工のように自分の文章と意識が変容していく様はあんまりおもしろいとは思えないけど、書いておくことに意味はあると思う。いや、まあ意味なんてなくてもいいのだが。