思考停止

映画、本、音楽、など

中庸への意志 2021年総括

 この総括を書き始めてからというもの、毎年毎年「今年は特別な一年だった/忘れられない一年だった」と言っている気がする。考えてみれば、その一年が自分にとって特別でかけがえのないものであることなんてその都度自明であるはずなのに、それを言表することによって事後的に特別だったよね、と確認してその一年の価値を相対化してしまう。大学院試験で書きたくもない書類を生成するのと最近の人文思想界隈のジャーゴン化に完全に辟易してしまい、気づけば僕も「思想」「批評」「哲学」に疲弊してしまっていた。大学院に受かるかどうかは分からないけれど、一つよかったこととしては自分が何をやりたいのかを分かっていなかったことが分かったことだ。フランス語でアブストラクトを書いたり、フォーマット通りに研究計画書を作成したりしてみて、つくづく自分が研究者向きじゃないことを思い知る。働いて、良い配偶者を見つけて、静かに暮らすためのリハビリだと思いながら、逆説的ではあるが、大学院試験の準備をしている。僕にはもう、文筆で身を立てていくヴァイタルもないし、鋼のメンタルも当然持ち合わせてないし、何より、自分の知っていることを個人的な意味以上で誰かに知らせたいという気持ちもほぼゼロに近い。今年の3月にいきなり目の前がクリアになるような感覚でもう文章は書かないと言ったのとはまた別の感覚で、これは僕には文章を書く才能が――これから書く2021年のいささか人とは違った経験を経てなお――なかったということなのだ。何もかも自分のペースでやりたいというたち(みんなで何かをやる楽しさというのは高校生までで充分やったと今なら思える)なので同人で予定通り原稿が上がってこないとそれに意識を持っていかれていつまでもイライラするし、文章を書くことだけならブログでやればいい。学位論文は自分が満足するものを書くことが目的だし、別に昔持っていた自分の本を出版することへの憧れももうない。ただただ中庸に、健やかに、生きられればそれで満足なのだ。

 僕は今年で24になって、障害者で、無職で、しかし東京郊外の閑静な住宅地にある小ぎれいなマンションで実家暮らしをして今のところ何にも困っていない。親は仮に僕が40まで定職に就かなくても一向に構わないと言っている。しかしそれでは自分が困る。年金暮らしから脱して、勉強して、働きたい。同じ哲学科の友人は4年鬱病で臥せっていたところから1年勉強して大学に入ったから、彼は今の僕と同い年のときに哲学科に入ったことになる。彼は今社労士事務所で働いている。彼を見ていると、僕の置かれている状況なんか大したことはないなと思えるし、今の自分以上に辛い人はいっぱいいるのだろうという気持ちに自然となる。「今の自分より辛い人がいるのは当たり前」、こう思うことは結構難しい。事実、少し前の僕は「自分が世界で一番辛い」と思っていたし、「苦しみは相対化できるものではない」という文句を間違えて受け取っていた。自分より辛い人はいっぱいいる、こう自然に思えるようになったのは今年の3月に激烈な躁状態から、大学の卒業式の日に紹興酒の瓶で騒いでいた集団のうちの一人を殴り飛ばしてしまって留置場に入った経験からだと思う。

 今年の1月は酷い鬱で何もできず、六畳間の窓のカーテンを全部閉め切って明かりを消し、ずっと真っ暗な状態で布団にくるまって朝5時に起き夕方17時に寝て、UberEatsで頼んだマックかケンタッキーを食べ、バーチャルYoutuberをぶっ続けで12時間見て気絶していた。卒論の口頭試問の前後は嘔吐が止まらず、前日に渋谷のバーでラムコークとパスタを全部吐いたのを覚えている。2月の終わり(ウマ娘のアプリリリースぐらい)に躁転、3日4日眠れず40時間ぶっ通しでウマ娘をプレイし、そのままの状態で観たシンエヴァのデカ綾波で号泣。眼精疲労がひどく一番高い目薬を差しながら当時アニメでも放映していたウマ娘2期で抱きしめた枕を濡らし、毎晩うどんともずく納豆を食べながら同じ回を何回も観た。やがて寛解のような「スカッとさわやか」な気分が訪れると共に躁は悪化し、詐欺出会い系サイトに3万をぶちこむなどいよいよ行動は支離滅裂になっていった。いつもの中華料理屋で酒瓶を握りしめ、目の前で血を流してうずくまる被害者、「お前何やったか分かってんのか」と僕に向かって言いながら腰が引けて手が震えている周りの人間、顔面が真っ青になっている就職が決まっている修士の先輩を見つめる僕は、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、「ついにやった」と思った。怒ると泣いてしまうためにいじめられてきた僕は、毎回気に食わないことがあると頭の中でそいつにどんな暴力を振るうか考えたものだ。正気の僕が振るえなかった一撃を、気に食わない、やかましいやつにぶちかました。そのことを、少なくともそのときは後悔しなかった。パトカーに乗ったときも、手錠をかけられたときも、足腰は真っ直ぐで、取り調べは朝の5時まで続いたがキマっていた僕は一切眠くならず警察に驚かれた。

 留置場で過ごした23日間は、忘れたくても忘れられないだろう。本当だったらウマ娘2期の最終話を観て、友達と上野から靖国を歩きながらビールを飲んで花見をして、新しく決まったバイトに出勤して……。結果論だが、僕は留置場と精神病院に入っていなかったら大学院(しかも、自分のレベルより遥か上の)にチャレンジするという選択を取らなかったことを考えると、「本当だったら」という仮定に大した意味はないように思われる。そこで出会った人たちは立場が様々だった。持続化給付金詐欺で逮捕、個々のケースのあまりの多さから再起訴と再逮捕を繰り返され半年以上留置場にいた10番さん。1500万会社の金を横領した(本人はしていないと言っていたが)5番さん。元いた会社にはめられ仕事をもらえなくなり路頭に迷い、住んでいたテナント下の飲食店からコーラやサイダーをパクって窃盗で留置場に来た3番さん。僕は4番だった。彼らは生活保護受給者だったり、やり手の営業マンだったり、オンラインカジノの元締めだったりした。彼らとは漫画の話で盛り上がったりする一方、僕が大学で何を勉強しているのかについて聞いてくると一様に首をひねった。「哲学を学んで、何になるの?」「何かの資格が取れるの?」、まあありふれた問いだと思う。人生を豊かにしたり、困難なときに考えるヒントをくれるので、意味はあると思いますと答えると、「お金稼げないじゃん」と言われた。しかし、留置場での過酷な日々(朝6時半起床、日中は取り調べか書類送検、夜は明日の調べや刑務所送りのことを考えて一睡もできない)は哲学を学んだ経験があったからこそどうにか乗り越えられたのだと思う。最初の書類送検のとき、護送車から靖国の桜を見た。本当だったら友人とはしゃぎながら見ていたであろう桜。僕の誕生日の訪れを知らせる桜。去年の春に元恋人と見た桜……。ことの重大さを今更知った僕は、護送車で手錠と結束ロープが繋がれたまま涙をこらえられなかった。もし相手が打ちどころが悪くて死んでしまったり、よしんば下半身不随だったりしたら、今僕はブログを書くことすらできていないだろう。担当の弁護士が有能で理解ある人だったこと、親の迅速な行動、そして奇跡的なことに検事と向こうの弁護士の仲が悪かったこと、様々な人たちの努力と運の甲斐あって僕は23日不起訴満期勾留で留置場をあとにした。23日の禁煙後に吸ったマルボロメンソールの肺に染みわたる煙と血中に浸透していくニコチン、香ばしく涼やかな味わいも留置場の思い出も相まって忘れることができない。僕が雑居房を出るときに5番さんが言った「こんなとこ、お前みたいなのは二度と来るもんじゃねえぞ。頑張れよ」という言葉も。

 見沢知廉が『囚人狂時代』で書いているが、常人であっても拘禁症状といって出所後に人ごみに出ると嘔吐したり錯乱状態になるが、精神異常者である僕がならない訳もなく、バイト先に挨拶と給料を受け取りに行った帰りに渋谷の地面がぐにゃりと歪むような錯覚、続いて自分が目の前の人を傘で殴る幻覚(ジョジョキング・クリムゾンを連想してもらうと分かりやすい)が見え、家まで50mのところで泣きわめいて友人に電話をかけたまま足がすくんでしまった。次にいつもかかっていたメンクリに行った足で入院が決まり、去年行ったところとは別の精神病院に入院することになった。コロナの関係で隔離室(ベッドとトイレしかなく、監視カメラつき)に1週間、普通の部屋に3日程度いた。スマホがいじれる分留置場よりマシだったが、電源はなく、毎日ナースに預けて充電してもらったものを朝もらうことになる。このとき僕が凝っていたのはタトゥーのデザインを考えること。カバンにたまたま入っていたノートとペンで色んなデザインを考えた。20の頃から精神状態が極限に達するとタトゥーを入れたくなるのだが、毎回親に止められていた。このときも親に止められて、もう親は僕がタトゥーのことなんかすっかり忘れていると思い込んでいるが、親の扶養を外れることができたらそのときは自分の生まれ年の梵字(丑年)とその菩薩様を背中に入れようと考えている。そのときに入れたくなくなったら、それはそのときで。このときに出会ったドクターとの相性が非常によく、エヴァVtuberの話でよく盛り上がっていた。病院を出たあとの初夏の日差し――結局僕は最も好きな季節の春を塀の中で過ごしていたことになる――が暑く、入院時に着ていたマックイーンのジャケットが汗ばんでいた。このあとの数日間が、僕の人生の中でもっとも死に近づいた瞬間であることを当時まだ僕は知らなかった。

 精神病患者でなくとも薬の飲み忘れは場合によっては致命的だが、僕は最も重要な薬(ロドピンベンザリン)を次のかかりつけ医の通院まで大体4日ほど飲んでいなかった。それを飲んでいなかった丸四日眠れず、ひたすらゲームをしたり音楽を聴いたりした。先輩に電話をかけていたら僕のあまりのマッドな様相を見た親が止めに入り、「寝ろ!」と言った父親に半狂乱になった僕を見て初めて父親が僕を恐れた。誰もいないリビングのソファに横たわって大好きなアイドルマスターシャイニーカラーズのメドレーを聴きながら5月の青白く燃える朝焼けを梟の鳴き声と共に迎えた不眠の3日目の朝、世界に神がいることの直観が降りてくるのが分かった。自分の行なってきたことどもの全てが有機的に意味付けされ、円環の全体として把握される瞬間が青空に飛ぶ鳥を見て理解された。4日目の朝、父親がトイレを使っていると思い込み(本当は明かりがついているだけで誰もいなかった)、マンションのトイレを使おうと思って外に出たらクライスラーの「愛の喜び」のビープ音とファミマの入店音が聴こえ、エレベーターに乗ると足がすくんだ。帰ってきたら起きていた父親に「色がある!色がある!」と絶叫、廊下に飾ってあるモンドリアンのレプリカにフルパワーのパンチを正確に四発叩き込んで倒れた。僕は「家族の肖像画を作る」と言って怯え切った母親をモンドリアンの絵の右に置き、父親を左に置こうとしたが、父親は僕のあまりのイカれ具合を理解せず(父親は狂気に憧れはすれど狂気を理解することはできない人だったし、また理解できないものとして理解しようとしなかった)、ひたすら自分が水を飲んだジョッキを洗っていた。その後、僕は飲みはぐっていた睡眠薬をようやく飲んでこんこんと眠った。起きた後、人生で経験した絶望が一挙に脳内に押し寄せるような感覚になり、頭が割れそうになった。泣き叫びながら母が昼飯にレンチンしていたチャーハンを手づかみで食べようとするも、顎が開かず固形物が喉を通らない。テレビのYoutubeエヴァの「甘き死よ来たれ」を嗚咽しながら再生し、僕はようやく息を整えた。というより、世界の辻褄が「甘き死よ来たれ」によってようやく合った、と言った方が正しいだろう。リハビリにはそんなに時間はかからなかった。駅前に一人で行けるようになるまで二週間。電車に乗れるようになるまで一か月。下宿との往復ができるようになるまで二か月。同人を発足するまで二か月。院試の勉強を始めるまで四か月。バイトできるようになるまで半年。そうやって、僕は今なんとかスタートラインに立てている。この騒擾の日々がなかったら、きっと僕は引き払っていない下宿にもそれなりに慣れて目標もなくフリーターをしているだろうし、だからこの2021年は僕にとってのリセットの年だったのだ。昔の恋人に会って話をした(院を受けようと思ったのは彼女の影響もある)。たくさん誰にも見せない文章を書いた。後輩と計何十時間も電話をした。一番尊敬している先輩に一番弱っているとき面倒を見てもらえた。これから先も友人でありたいと思うかけがえのない友人2人と出所後下宿でピザパーティーをした。そんな忘れがたい思い出ができたのも、今年の出来事である。

 

 締めくくる前に、自分の備忘録としてある出来事と自分がこれからやりたいことを書いておきたいと思う。精神病院から出た後の錯乱の最中、僕は大学時代のサークルの先輩とLINEのやり取りをしていた。彼は体躯が大きく筋骨隆々で(武道を修めている)、大学を中退しているが読書量は僕が会ったことのある人の中でも随一の教養人だった。アニメには一家言あり、所属していた別のサークルでは合評会などもしていたらしい。不安状態、あるいは錯乱状態にある人間を相手にして簡単でありながらなかなかできることではないのが「話を聞く」ことだ。同期は僕の電話攻撃に音を上げていたが、先輩は僕が電話をかけてもLINEをしても全く拒否を示さなかった。それどころか、僕の地元まで遊びに来てくれたのだった。もしかしたら、彼からしてみればなんということはなかったのかもしれないが(一緒にラーメンを食べて喫茶店と渓谷に行き、商店街をぶらぶらしただけ)、僕は恐らく生きてきて最も過酷なときに親身になってくれた先輩と一緒に遊んだその日のことをきっとずっと覚えているし感謝している。

 僕は、また別の先輩に言われたことで強く印象に残っていることがある。「人間は体を動かさなきゃダメ」。要するに、机に向かって勉強するのも大事だが、体で応用しなければいけないということである(と勝手に解釈している)。その意味で言うと、僕は教育の現場に将来的には身を置きたいなと思っている。しかも、発達障害や引きこもり、不登校児が学校に行かずとも親とは別の仕方で学び、また教師も教わることができるようなフォーマットの開発をこれまで自分が携わってきたことが活きるような形でできれば、それに越したことはない。具体的には、「良心の陶冶・知性の涵養・精神の倫理」の原則が個別~少人数の幅で「臨床的に」かつ「装置における暴力性が最小限において」実現できること。本当は、というか僕はシュルレアリスム文学とかを読んでいたわけだから、そんな人間が「良心の陶冶」とか言い出してもプププーみたいな感じかもしれない。

 しかし、僕にはこの2021年を通じて「善く生きる」義務が生まれたと思っている。留置場の2番部屋の天井を眺めながら、「もし外に出れる/出れないとしたら、それはどういう意味なのだろう?」と考えていた。「まだ外でやるべきことがある」、という声を聞いたとするならば、それは何をやるべきなのだろう?と。まだ何が「善い」ことなのかは分からないが、僕は「善さ」について、これからの人生で考えることが、僕に与えられた哲学からの課題なのだと思っている。

 

 来年は穏やかに、変化のある1年にしたいですね。皆様におかれましては、よいお年を。

Spotifyの今年聴いた曲ベスト5にレビューをつけてみる

 院試対策と同人誌の準備を同時進行、なおかつ季節性の鬱病に臥せりがちな12月の幕開けにこんな現実逃避のエントリをしたためている場合ではないのであるが、どうせひっくり返ったところでいきなりフランス語ができるようになるわけではない。今日も過去問の単語が両手で数えるぐらいしか分からず喫茶店で冷や汗をかきながらタバコを吸った。ナット・キング・コールを聴きながら帰り道に飲んだファミマのコーヒー(バニラシュガーマシマシ)の味に、5年前初めて躁鬱を発症した冬を思い出し、もうそんな季節かと感慨深くなると同時にそろそろ時計の針を進めなければならないのを身に染みて感じる。

 

 エモめに書き出した冒頭はさておいて、サブスクの年間ベストや総再生時間がまとめて表示される季節が今年もやってきた。音楽の趣味までスマホに管理されてたまったもんじゃないわい、ワシは汗臭いディスクユニオンタワーレコードで誰も聴いていないレア音源と新譜をディグして無圧縮でPCにインポート、俺だけのディスコグラフィを作り上げるんじゃい!と気炎を上げる向きもあるかとは思いますが、利便性には逆らえないのが世の常。ワタクシもクラシック音楽オタクでクラスの皆がポケモンをやり攻略本を読み込んでいる間血眼で父親のコレクションをiPodに入れては評論本を読み漁っていた頃から15年余りの時が過ぎ、今ではコンビニのイヤホンでSpotifyからシャッフルでアニソンしか聴いていません。それでも僕が高校生のときはいわゆる「楽曲派」オタク達がその年の新譜ランキングをPitchforkよろしく発表したりしていて、結構自分の聴く音楽に自分を代弁させることのキモさが浄化されないままエグみと共に面白味として昇華されていたものだ。僕も真似でランキングを作ってみたりはしたものの、新譜がほとんどないというところに自分のアンテナの感度の低さが露呈するようで恥ずかしくなってやめた。今年聴いたものも新しいものづくめではないので、結局なんやかんや言いつつも古いものが好きなのだな、と思う。

 しかし、何故こんな切羽詰まった状況に、しかも随分前に擦られ過ぎて擦り切れた年末楽曲レビューをやろうと思うに至ったかには理由がある。どちらも共通の知人を介しての繋がりがあるのだが、ご両名ともすばるクリティーク賞を獲得されている赤井浩太氏と西村沙知氏(西村氏に関してはTwitterでの繋がりしかないが、いずれお話してみたい)の書く文章に、久々にブッ飛んでしまったのだ。赤井氏に関しては、既に2019年受賞作「日本語ラップ feat.平岡正明」(こちらは未読)がデビュー作だが、先日発売された同人誌『ラッキーストライク』におけるK DUB SHINE論は鮮烈だった。ヒップホップにおけるポリティカル・アイデンティティをあらかじめ喪われた「父」の問題をレフティに簒奪されるべく用意されたライトウィングの根城(フッド)の存在論に読み替える批評が、かつてあっただろうか?そしてその実際的な問題設定が、押韻にまで連結される手つきたるや見事である。西村氏に関しては2021年度受賞作「椎名林檎における母性の問題」をまだ読めていないが、クラシック音楽批評webマガジン『メルキュール・デザール』掲載の文章を数本読んで、思わず唸ってしまった。例えば、リゲティグリッサンドに対する「鋭角的」という表現やマーラー大地の歌』を「壊れ」とする表現自体には何の目新しさもないのに、西村氏がリゲティマーラーを語るときに思わずこぼす「間奏」、「内声」、「ドローン」といういわば「下部構造」への鋭い視線が、クラシック音楽を深く知る人間であればあるほど腹の底がひんやりするような納得感をもたらす。思うに、音楽批評とはボキャブラリの豊かさではないのだ。赤井氏がヒップホップのライミングの必然性はフッドをめぐる階級闘争の必然性であると語る切り口や、西村氏が現代音楽を快楽という視点を保ちながら自由になりつつ――それこそ「江藤淳蓮實重彦東浩紀」の磁場から遠く離れて――おそろしい響きに対して「この響きは、こわい」、面白くない響きに対して「この響きは、つまらない」と書きつけるデリカシー(注に付するまでもないと思いますが、このデリカシーとは極限的に肯定的な意味です)を、僕はまさに批評のコンテンポラリーであると思う。しかも、二人ともすばるクリティーク出身で、二人とも音楽批評であるという点に、共時性のようなものがある気がしてならない。そんなわけで刺激を得たものだから、僕も見様見真似をやってみようと思った。とはいえ、別に賞に出すわけでもないしブログで年間ベストにキャプションをつけるだけだから、「批評」になるわけでもなし、ただの感想文ですが、一応音楽評論は僕のルーツでもあったりするので、勉強の息抜きに書いてみます。

 

5位 グッドラックライラックGATALIS


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 この後に続く名取さな「アマカミサマ」も田中秀和、1位の月ノ美兎「ウラノミト」は広川恵一なので、「結局お前MONACAが好きなだけじゃん」と言われればそれまでなのですが、まあ数字上で実際聴いてると出ているわけですからね……。正直僕は吹奏楽部出身の割に和声の知識や音感の類が一切なく、オーギュメントがどうのこうのとか言われてもさっぱりで、「なんかエモい」「半音上がった」以外の感想が出力しづらいのだが、この曲はホーンをブリブリ鳴らしたり(Happy CloverPUNCH☆MIND☆HAPPINESS」)、変拍子を入れてみたり(灼熱の卓球娘「灼熱スイッチ」)という奇策に打って出ることはないものの、確実に田中秀和の手触りを感じる。田中秀和といえばオーギュメント(どうやらサビ頭でトニックとかいうので解決する拍にオーギュメントを持ってくるのが独特とからしい。なんも分からん)みたいなイメージがあるが、田中の強みは上に挙げた2曲の例に顕著だがオーケストレーションの妙にある。しかも、単純にコード上でぶつかる音を違う楽器で鳴らすとかいうレベルではなく、音選びが常に生々しく、厚みのある編曲で複雑な進行でも見通しがいいのがやはり圧倒的な才覚である(これは広川恵一にも言えるが、田中の編曲が往々にして音選びがグロテスクになるのに対して広川はつややかで艶めかしい印象を与える。「ウラノミト」でも言及するが、『アイドルマスターシンデレラガールズ』収録の「オウムアムアに幸運を」でも顕著なようにシンセサイザーの音の重ね方に広川は執心しているように思える)。「グッドラックライラック」は音像がグロくなることがなく、どこかはかなげな抒情美を湛えて「愛が咲き乱れてる」と歌いあげる美しさにおいて比類がない。留置所と精神病院から出てきてほぼ再起不能になっていたとき、どんなに実現不可能な夢でも、続きを聞かせてほしいんだと遠くから呼びかけてくれたこの曲への感謝は尽きない。ちなみに少しネタバレをすると来年5月に出る同人誌の僕の原稿のエピグラフはこの曲です。

 

4位 アマカミサマ/名取さな


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 「グッドラックライラック」が必要最低限の音数で構成されていたのに対し、ブリブリ鳴るベース、うねる電子音、多用されるキモいコードなど、「秀和劇場」ここに極まれりといった観がある。田中秀和の話は大分上でしたのでもういいとして、折角名取さなの曲なのだから名取さなの話をしよう。このランキングでも5曲中3曲がVtuber僕は本当に恥ずかしい人間です)であることからも分かる通り、Vtuberが歌ったり歌手デビューしたりすることはごくごく一般的な事例となっている。そういう意味で、2021年はVtuberの歌シーンに動きが出た一年だった。何よりも月ノ美兎がメジャーデビューし、普段の配信からも見え隠れしていた蠱惑的でエロティック(が、決してうまくはない)なヴォーカルが「ぼくのかんがえたさいきょうのさっきょくじん」によって魔改造され、彼女のファーストアルバムがドロップされたかと思えば、星街すいせいが『Still Still Stellar』、あるいはTAKU INOUEとがっぷり四つに組んだ「3時12分」でソウルフルなディーヴァとしての地位を確立し、そんなに話題にはならなかったが事情通の間で宝鐘マリンは「Unison」でフライング・ロータスやジェイムズ・ブレイクと肩を並べたとまことしやかに囁かれていた(嘘です)。翻って、名取さなである。彼女の声の強みは、「何もない」ことにある。月ノ美兎のエロティシズムも、星街すいせいのブラックな力強さも、宝鐘マリンのオーヴァーダブによる酩酊的な声の連鎖もここにはない。いつかオタク君が幻視したであろう、隣の席のやたらとインターネットに詳しい女子のファンタスムが「アマカミサマ」に浮かんでは消える。田中秀和のクセの強い編曲に対して「あ、秀和だ」と思わせる以上の感情を抱かせないという意味で、名取のヴォーカルの零度は極限に達している(褒めてます)。かの「さなのおうた」が感動的たりえたのは、名取が「普通に『いそう』な女の子」であることに徹していたからである。「アマカミサマ」は、プロが調理した虚無である。良い意味で。

 

3位 GOD SAVE THE わーるど/銀杏BOYZ


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 死ぬまで銀杏BOYZを聴き続けるのかという問いは誰しも(誰しも?)あるところだが、僕は少なくとも10年間銀杏を聴き続けている。親の声より峯田の声を聴いているし、ライブにも2回行った(ライブに行ったロックバンドは銀杏とキング・クリムゾンだけである)。峯田にはもう昔のような破れかぶれさはない。体力もない。ライブの最後の方は明らかにバテている。それでもマイクに食らいつくのが滑稽ですらある。それでも銀杏が好きなのは、峯田の内面が成熟していることが分かるからだ。「国道沿いのホテル/硝子のテーブル/ふたりで聴こっか/あのバンドのアルバム」という一行に喚起させられるイメージの豊かさは、アコギ一本で「朝立ち」を歌って「朝の光にあなたの顔が沈みゆく/まるで僕をゆるしてくれそうな/朝の光にたばこの煙が溶けてゆく/まるで僕の葬式みたいだな」と表現した若い峯田の感性から変わっていないどころか、いつか聴いたロックバンドのアルバムをかけるノスタルジーへと峯田は成熟していることの証左なのだ。「GOD SAVE THE わーるど」は祈りの曲である。「すべてのことが起こりますように」と願う彼は、「世界がひとつになりませんように」と願った彼でもある。銀杏を聴かない日が来るとしたら、僕が峯田の背中を追い越してしまった日だろう。メロディラインのリリカルな美しさは『ねえみんな大好きだよ』の中でも白眉である。

 

2位 Starry Jet/星街すいせい


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 宝鐘マリンがポリリズムのラフロードをガタピシ言いながら走る沈没寸前のレーシング・カーとするならば、星街すいせいは21世紀令和の日本に突如として現れたグランド・ファンク・クイーンである。……などという世迷い言を吐いては正気を疑われるかもしれないが、本当なのだからしょうがない。星街すいせいの配信には触れないことにして(というのも配信者としての彼女のことは僕は嫌いなので)、ここでうねるベースや炸裂するホーン、急き立てるようなスリリングなギターのカッティングを切り分けて登場する彼女のヴォーカルは異常な熱気とヴィヴィッドさである。清竜人25岡村靖幸の再解釈をいささか突飛な形で成就させてしまった後、J-POPにおけるファンクはKing GnuOfficial髭男dismにメジャーストリームでは吸収され、海の遥か向こうではThe 1975が「白人ロックにおけるダブとファンク」の再構築に四苦八苦している最中に、Vtuberがいともたやすく現代ファンクの再解釈を成し遂げてしまった。「3時12分」では「ポップス」という表現が持つ前衛の極北みたいなことをやっておりこれもこれでかなりビックリするのだが、「Starry Jet」はかつて東京女子流が『Limited Addiction』までやろうとしていた「アイドルファンク」(なんじゃそりゃ)を2011年から10年の時を経て推し進めた風さえあり、アイドルポップスのみならずポップスを聴く者は『Still Still Stellar』は必聴。「Je t'aime」「Blue rose」も逸品(一方でただのアニソンみたいな曲はあるが)。そもそもファンクとはなんなのか、バーケイズやJackson 5まで遡らなければいけないのか、みたいな議論は置いといて、夜空を駆けるストリームに思いを馳せよう。

 

1位 月ノ美兎/ウラノミト


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 ポップスにおけるエロスとは何かを知りたければ月ノ美兎のヴォーカルを聴けばよい、とはele-kingにも書いてあることですが(書いてません)、名取さなの朴訥さ、星街すいせいのねっとりと伸びて黒光りする声質とも違って、月ノ美兎の「声」は淫靡としか言いようがない。メロディラインがエロティックだとかいう話とは違って、物質としての「声」の現前がたまらなく性的だということである。配信中にくだらない下ネタでけらけらと笑う彼女も、「どっちを選んでも ひとりの女 ひとつのカオス」と歌い上げる彼女も、その「声」の磁場に囚われ、そしてこちらを捉え返そうとしてくる。一度月ノ美兎の「声」に魅入られた者はその磁場から離れることが困難になり、「ウラノミト」全体を支えるバカテクベースやクリーミィなシンセサイザー、丁々発止のドラムが作り上げる艶やかで色彩的な音空間から逃れることはできない。この記事を書いている丁度今日(日付変わって昨日)、キズナアイの無期限休止が発表された。Vtuber界「第一の」パイオニアが事実上の引退を告げ、5年の歴史に新たなピリオドが打ち込まれる。ここからは月ノ美兎の世紀が始まる。月ノ美兎は、そのトーク内容や企画の目新しさによって上り詰めたのではなく、「声」によって上り詰めた。「ウラノミト」は月ノ美兎の持つ「声」の特性を活かすべく、広川恵一の偏愛的なまでにジャジーで陶酔的なサウンドメイキングがなされている。「オウムアムアに幸運を」で女性ユニゾンに対するシンセサイザーのぶつけ方はELO的なそれであったが、「ウラノミト」は面ではなく線の絡まり合いによって音が立ち上がっている(これで言えば宝鐘マリン「Unison」は完全に点である)。『月の兎はヴァーチュアルの夢をみる』は、アルバムとしては正直いまひとつである。それぞれのクリエイター陣がそれぞれに個性を出しているので、アルバムとしてのコンセプチュアルな統一感には欠ける。しかし、表題曲からの「ウラノミト」の流れは、ほとんど奇跡的なまでの10分間であることを約束しよう――ヴァーチュアルが見せる、ひとときの淫らな夢の奇跡。

 

 なんだか結局散漫になってしまった……。思うに、音楽批評というものは、音楽を批評するのではなく、音楽に反照する意識を相対化することであり、その相対化の手段に政治や歴史が絡んでくるのだろう。「ベスト〇〇」では趣味の偏りが出るのは当然だし(一時期映画を年100本以上観るのをノルマにしていたことがあるが、そういうのは別)、結果的に田中秀和Vtuberの曲が多くなってしまうのは致し方ない。西村氏が批評を書くということについて「経験が言葉に落ちてくる」と表現していたが、僕は比較的経験が言葉に落ちてくるのが早いというよりかは、経験を言葉にするのに慣れてしまった。それはあまりよくないことだと思うし、言葉ありきで経験があるのではない。思わず涙してしまうとか、鳥肌が立つほどかっこいいとか、そういうのの方がよほど重要だとさえ思う。

 音楽批評が何故今ホットなのか――これは私見だが、音楽は一定の圏域で共有可能なグランドセオリーなのだ。人文・社会系の学問を例に取れば、「プルーストが専門です」「ハイデガーの現存在を研究しています」が「オシャレ」で「カッコいい」時代というのがあって、それは僕より少し下の世代で最後だと思う。さらに下の世代になると、ケアの倫理やジェンダー論、セクシュアリティをやるのが「オシャレ」で「カッコいい」という風潮になる。何も「オシャレ」で「カッコいい」から学問をやるのが悪いわけではミリもなくて、僕だってアルチュセールやルソーを読むのが「オシャレ」で「カッコいい」と思っている。その美意識や価値観というのは、小さい頃にポケモンやモンハンを輪の中に入ってやっていたかとか、電車に乗れば渋谷や新宿に出ることができて最新型のゲーム機を買ってもらえてたかとか、それこそCDを必死こいてiPodに入れる必要もなくサブスクで音楽が聴けてしまうとか、そういうのだと思う。だから、今の19~20歳ぐらい(「Z世代」?)は速度という点でダントツである。共有していたグランドセオリーがない子たちなのだ。だから、彼ら彼女らは速度を求める。「初音ミクの消失」よりも速いBPMで、音ゲーの鍵盤を無表情で叩きまくる。僕らや僕の少し上の世代はギリギリレディオヘッドを皆(皆?)聴いていたし、ビートルズを聴いていなかったらバカにされたし、学校の放送で銀杏BOYZを流した。大して好きでもないRADWIMPSの曲は24の今でも大体口ずさめる。音楽は郷愁であり、未来である。菊地成孔が『粋な夜電波』で「音楽には過去の時空と未来の時空が同時に流れ込んでいる」と言ったが、まさにそういったわけで音楽はひとつの背景なのだ。Z世代の彼らは、ボーカロイドを聴き、煙草が吸えなくて当たり前のファミレスでミラノ風ドリアを平らげ、Vtuberに恋をする。別に僕はそれでいいと思う。いつしか我々も淘汰される日が来たならば、老人ホームで爆音でAC/DCを聴きながら踊り狂って失禁するまでのことである。「批評」は、死にゆくもの、既に死んだものを取り返す作業でありながら、その作業自体がつねにすでに過去のものになることに自覚的であることを強いる。音楽批評は、来たるべき我々の葬礼への序曲なのだ。いずれはZ世代や後の世代に葬られると知りながら、自らの体験や現象に意味や形を与えること。そしてこれはちょっとした僕の希望なのだが、未来にある「現在」に、そっと「過去」を忍ばせるような形で我々から彼らに手土産を渡せたら、秘伝のタレみたいに継ぎ足し継ぎ足しで音楽に限らず批評の「伝統」というものができるのではないだろうか。結局、草の根の我々にできることは「現在」を記述することである。その年の再生数が多かった曲に簡単なコメントをつけるぐらいの簡単なことから、何事も始まるものだ。

祖父を悼む――作家Feについての試論:『草葬』、デュシャン、ウエルベック

序 今にも落ちてきそうな空の下で

 祖父が亡くなった。死因は誤嚥性肺炎。元より摂生も運動もしない性質で、僕が知っている祖父の姿は埼玉にある集団住宅で正月に帰省してはエロビデオの話か過去の知人の悪口、時折母に小言を言って場をピリつかせて父と大ゲンカ、亡くなって言っちゃあなんだがクソジジイの水準を十分以上に超えていたと言えるだろう。僕が訃報を知ったのはバイト先で、終業時に店に流れていたグールド最後のゴルトベルク変奏曲がレクイエムのようだった。帰ってきたら父親の目が赤く腫れていた。父親が僕の目の前で泣いたことは僕が物心ついてからただの一度もない。初めて父が小さく見えた。

 祖父は酒乱で、父親を幼い頃から酒に酔っては馬乗りになってボコボコに殴り倒したり、祖母の頭を灰皿でカチ割ったりしていたらしい。挙句の果てには母の実家に行ったときに出てきた料理に文句を言ったとかなんとかで、母は未だにそのことを根に持っている。友人らしい友人は僕の知る限りでは絶無で、実の兄とは事実上絶縁していて葬式にも出なかった。若い頃は全共闘や労働闘争に熱を上げ、革命なら家族を犠牲にしても構わないと言っていた、と父から聞いている。アルチュセリアンの僕は、思わないところがないと言えばウソになるけれど。ともあれ、とんでもないクソオヤジ、クソジジイであったのは確かだ。孫で長男(で、マルクス主義者)の僕には優しくて、『日本共産党史』などの本をご機嫌でくれたこともある。あと吉沢明歩のAV。クソジジイであると同時にエロジジイでもあったので、無駄にハイテクでツタヤディスカスFANZAの会員登録の解約は勿論、多分AVの処分もしなきゃいけない。去年の9月に大動脈瘤破裂で担ぎ込まれてカウントダウンが始まる前でさえ足腰が弱って近所のスーパーにも行けなかったのに(ヘルパーが出入りしていた)、なんというか最後まで変な根性があった人である。

 祖父が住んでいた埼玉の空はいつも曇天模様で、手で掴めそうなぐらい雲が近くて、風が冷たくて、湿っていた。デカめのスーパーが駅と直結してズドンとそびえたっているぐらいで、あとはなんにもなかった。見かけるのは大体老人か、大宮か浦和で遊んで帰ってきて行く末のないギャルが駅前のファミマで喋ってるぐらいだった。上野東京ライン高崎線)で帰省する正月のムードはいつも重々しく、特に父親は毎回決死の闘いを挑みに行くかのような顔で恵比寿から乗り換えていた。帰りは疲労困憊で、場をやり過ごすためにおせちとお寿司を食いすぎ、親は日本酒の飲みすぎで泥になっていた。今日の渋谷の空は薄く雲がかかっていたけれど、最後に祖父が病室から見た埼玉の田園風景の空はどうだっただろう。多分、『ジョジョ』じゃないけれど、今にも落ちてきそうな空だったんじゃないだろうか。祖父は最後まで自分のやったことを省みることができなかった。父親にしたことも、祖母にしたことも、母親にしたことも、僕や弟にできなかったことも、周りの人にしたことも。最後に会ったとき、ぽつりと放った「俺、何か悪いことしたかなあ」という一言が、今も脳裏に焼きついている。

 ここに、一篇の短編小説がある。祖父は生前ある文学賞を受賞し、僅かな部数ながら本も出した小説家(本業は教師だったが、父から聞くところによると同人誌に小説を書くことに熱心で、それが高じて文学賞を受賞したという次第らしい)だった。僕はかねがね祖父の小説について何かを書こうと思っていたが、ついに本人に見せることはかなわぬものとなってしまった――往々にして肉親でなくとも生きている作家の「〇〇論」というのは書きづらいものだそうだが(文学研究のことはよく知らない)。仮に、祖父がよく手紙にサインするとき、面映ゆそうに用いていたイニシャルから取ってきて彼を作家Feと略すことにしよう。彼が最も精魂込めて書いた作品に、同人誌ではなく個人的なブログという形で試論を付すことによって弔いとすることにしよう。元より嫌味で、他責的で、恨まれがちで、暴力的だった祖父がその性格によって成し遂げた、生の証を誰か一人でも伝える人間がいなければ、いくらなんでもかわいそうだろうと孫心ながら、そして同じく文章を書く人間ながら感じるのは不自然だろうか。人間は必ず死ぬが、紙になって残された作品は伝わり続ける。この『草葬』という、30頁ほどの渾身の掌編に、病室で死の瞬間彼の瞼に映った冷たく暗い死の岸辺を思う。

 

1 This is the End, Mother? I want to…――『草葬』

 作家Feによる『草葬』は、沖積舎から1989年に発表された短編小説集『影追い』に収録された掌編である。そのあまりに陰惨かつネクロフィリア的、かつインセスト・タブーを赤裸々に扱った内容から「気持ちが悪い」と評されたとは作者自身の弁だが(「あとがき」より)、解説の松本鶴雄による「挫折シンドローム」、すなわち落伍の瞬間のドラマトゥルギーを炸裂的に切り取るというよりは崩れ落ちてしまったあとの嘆くべくもない遅滞した時間性をえぐるところにFeの筆致がある。松本は『草葬』を同作者の『落日』と一緒にして「これ等の主人公たちはすでに挫折したあとの時間を生き、空無な気分を持てあまして、のた打っている」(334頁)と評しているが、決して多くはないであろうこの作家Feの読者、特に『草葬』の読者からすればこれはあまりにも雑駁な見解であると言うに如かない。

 主人公である好夫は、母の綾子と二人暮らしである。好夫は怠惰で、大学を四年で卒業できる目処すら立っていない。なおかつ自立できないでいて、家を出てアルバイトに就業したと思ってもすぐに綾子の元に帰ってくる羽目になる。それは好夫にとって「不可思議な宿命」に違いなく、単なる茫漠とした時間への耽溺ではなく、絶えざる不条理な苦痛の連続に違いなかった。綾子との二人暮らしに、奇妙な磁場めいたものが生じているのである。

数年間がこの部屋で消え去り、天井や襖や畳や窓の桟に、その分だけ自分たちの奇妙な体臭が染み込んでいるような思いも湧く。一時は綾子から離れ、大学近くの古びた四畳半のアパートに一人住んでみたことはあるものの、自分から言い出した家賃稼ぎのアルバイトが煩わしく、その上にどうしても学校や友人にも馴染めず、結局は綾子の部屋に舞戻ってくるしかなかった。他人は母離れもできない意気地のない変人と思っているのにちがいないが、好夫には好夫なりの不可思議な宿命があるのだと思った。(『草葬』、31頁)

 この好夫と綾子の磁場は、「体臭」というキーワードを軸に、エロスとタナトスの回転運動を始める。「染みついた体臭が好夫自身から遊離し、熟れた母の綾子の体臭と勝手に絡み合っているような思いも湧く」(28頁)という描写で生きた肉の臭いにフォーカスが当たったかと思えば、不条理に襲い掛かる綾子の死の後で「綾子の裸体は一度ならず何度も目にしたことがあるが、その部分だけは独立してまだ生き続けているかのように、十分に湿り気を帯び、生臭く息付いているように思われる」(35頁)という死臭とはまた別の臭いがここで明確に描写されている(それが陰部というのも好夫の欲情の焦点を示すようで象徴的である)。好夫の綾子に対する感情、しかも「やはり綾子は死んだのに違いなかった」(33頁)という不条理な一文によって入る亀裂の後でその死体の香りを肺一杯に嗅ぎ回る好夫の感情を、一口に母親に対する色情であるとか、はたまた松本流に言えば挫折/落伍シンドロームによる激情の一種であるとかなどと一蹴してよいものなのだろうか、という疑念にまず私たちは駆られなければならない。「死んだ母親を犯したい」という欲望は、フロイトでさえまず言わなかったであろうグロテスクな欲望である。しかし、作家Feにフロイトを振りかざすことはやめよう――恐らく彼は梶井基次郎の『交尾』や中島敦の『かめれおん日記』を読んではいても『快感原則の彼岸』を読んでいるなどということはなかったからである。しかし、これは奇しくも(奇しくも?)フロイト的なテクストであることには違いない。ここに第一の仕掛けがある。即ち、主体と主体の欲望を可能にする〈主体〉の転倒関係を疑わねばならない。

 三島由紀夫『春の雪』での清顕と聡子の初めての交合が室内の湿気で描写されていたのに対して、「一人自分の蒲団に横になった好夫の全身には、綾子の皮膚と肉体そのものの感触が染みついている。綾子の体臭とも違う異様な臭気も染み込んでいて(…)」(38頁)とやはり「臭い」で好夫と綾子の磁場は描写されている。この磁場、好夫と綾子の「体臭」の磁場には、「他者」が存在しない。『草葬』の中で綾子は死んでいるので、事実上三人称で語られるこの小説は好夫の自意識の屍者を相手にしたモノローグでしかない。ぼやけた電話越しのホステスの声も、死体を運んでいく好夫の側を通り過ぎて急ブレーキをかけるタクシーも、自意識、自我-意識の中で展開する絵巻であると言える。「体臭」は、自らと世界を隔てる境界線であり、綾子とのネクロフィリア的近親相姦は好夫の自意識を壊す突破口となり得たのだった。好夫は思わずこぼす。「けれども、それを人々は言い訳や言い逃れと決めつけ、それなりの器用さで乗り超えていく。他人を非難する気持はなかったものの、自分だけ不当に取り残されて行くようで、好夫は歯がゆいような、それでいてとてつもなく不安な憤怒のようなものに日夜さいなまれていたのである」(46頁)。こうした「とてつもなく不安な憤怒」は、綾子との磁場によるものではなかったか。お互いのむせ返るような「体臭」が、好夫を自閉的にさせ、「他者」を剥奪したのではなかったか。このことに、他ならぬ好夫が気づいていなかった。綾子が死に、その死体を犯すことによって、初めて彼は自意識の牢獄、まさに肉の牢獄から解放される。それは綾子を土手の叢に葬るときに成就する。好夫は綾子の死体を背負って土手に倒れ、「自分の気持が軽い気球のように遠く高く漂って行くように思われた」(52頁)と解放感を覚える。死臭と体臭が交じり合うマンションの一室に二日間こもり、飲まず食わずで犯した母の死体を運ぶ好夫は、もはや内奥からこみ上げる鬱屈した憤怒を抱え込む落伍者ではなく、何もかもを失ったが故に何もかもを為すことができる可能性に充ちた青年である。しかし、この小説はそこまで書いてくれるほど親切ではない。というよりむしろ、そのように自意識の分析を終えた好夫にライドしていった読み手は、最後に土手の叢に消えていく綾子の死体こそがこの物語の主体だった、と感じる。つまり、「他者」なき主体(好夫)ではなく、主体を可能にする絶対的(=主体的に主体に介入することのない)「他者」(綾子の死体)が好夫の自意識を自らが放つ「臭い」と情欲、そして「葬る(葬られる)」という運動によって「解除」していく物語であると読むことが可能なのだ。故に、この物語の主人公はディスクール上は好夫ではあるが、陰に潜み物語を駆動させる真の黒幕は綾子の死体である。「好夫が乱れる足で数歩離れると、水滴の光る草の葉の狭間に、綾子の肉体の一部が、浮き出るように仄白く輝き、声もなく静かに息づいているのが見えた」(54頁)。「体臭」をめぐる自意識の内破と描写の力点の鮮やかな交代という点で、「挫折シンドローム」の彼方で薄暗く輝く「他者」への無限の開かれの可能性をこの短編は示している。

 

2 疎外、水の冷たさ――デュシャン『遺作』とウエルベック『闘争領域の拡大』

 ところで、『草葬』は私たちにある美術作品を想起させる。マルセル・デュシャンの『遺作/(1)落下する水(2)照明用ガスが与えられたとせよ』(1966)である。

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 窃視がモチーフとなるこの作品は、フィラデルフィア美術館にそれとは気づかない形で展示されている。叢の陰に打ち捨てられた女性の裸体とおぼしきトルソーは、『草葬』のラストシーンで波打つ草原に煌めく綾子の死体とそっくりである。勿論これを以てしてFeがデュシャンを知っていたと言うつもりはないが、奇妙な類縁性を感じさせることは確かである。打ち捨てられた、犯された、女の死体。それはある種の疎外であり、主体性を剥奪されたオートノミーなき「他者」の存在――それは正しくハイデガー的な意味での、存在者なき「存在」がただ現前する現象としての存在である――がコミュニケーション不能なものとして、一方的に「臭って」くるとき、その疎外は「他者」を拒絶し自閉する主体(好夫)にとって不愉快である以上に身体の訓練を促す。その訓練とは、死臭を嗅ぐ、死体を抱きしめる、死体を犯す、という「極めて悪魔的な行為」であるにせよ、好夫の自閉を外に開くものであることには変わりがない。デュシャンの『遺作』で裸の女性の死体を穴から覗き見るとき、私たちはその死体に疎外された身体と疎外によって反照的に可能になる主体の認識作用を確認することになる。一方的に死体を「見る」ことの猥褻さと暴力性を暴き出してみせたデュシャンのタブローに、全く国も時代も異なるFeのネクロフィリア的イマージュが重なる。言ってみれば、デュシャンは疎外をテーマにし続けた作家でもあった。レディメイドという彼の打ち出した作品の方法論は、具象的なモチーフを押し殺し、トイレにサインを書いたりする暴挙を「作品」に仕立て上げたのだった。もっとも、そのレディメイドという方策の最も重要な点は、ステートメント(作品の注釈)にある。「なぜその素材(トイレや一輪車)が既存の文脈から切り離されて(疎外されて)作品として成立しなければならなかったのか」という必然性を示すことに、美術史的にもダダイズム運動のマニフェストとしても意義があったと言うべきだろう。しかし、『遺作』でデュシャンは奇妙にも具象的なタブローを描いている――ステートメントはない。私たちはここで、デュシャンとFeに単純な類似を見出そうとしているのではない。草に女の死体を葬るということがもたらす自由連想的なイマージュの連鎖の中に潜んでいる、自意識と「疎外」という文学的に極めて重要なテーマを抽出してみたいのである。

 ここで、全く関係のないと思われるテクストを取り出してみよう。ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』(1994)は、疎外から始まり、疎外に終わるテクストである。ウエルベックのあらすじについては今更ここで書くことでもないと思われるので省くが、主人公である「僕」も、ナイフで誰も殺すことができないままトラックに轢殺されるティスランも、誰も自分の物語の主人公にはなれなかった。好夫と「僕」が対照的なのは、好夫の苦痛は自分の世界に自分と綾子しかいないことだった、というより綾子さえおらず、自分自身で世界の充溢に耐えきることができないことだったのに対し、ウエルベックの「僕」は世界に自分がいない。その空隙に耐えきれない。性関係の中に介入していくことができず、そのことで自分を無価値だと断罪してしまう。いつか付き合った恋人との思い出も郷愁の対象にすらならず、干からびた記憶の残骸である。ウエルベックの愛は、持続できなかった愛、一度終わってしまった愛を取り戻そうとする愛である。ウエルベックにあってFeになかったもの、それは愛である。好夫は自意識の中で窒息しかけ、綾子の死体を(デュシャンよろしく)叢に打ち捨てることによって解放される。これは綾子の死体によって仕組まれていたとはいえ、好夫という人間が愛によって救われず、愛で誰かを救うこともなかったこと、つまり主体と「他者」とのあらかじめ不可能なコミュニケーションでズレてしまった関係を絶えず修復しようとする希望が初めから絶たれていたのではないか。「体臭」によって紐帯されていたかのように見える綾子の死体という「他者」と好夫という主体の奇妙な主従の逆転関係は、「他者」によってがんじがらめにされていた主体とそこからの解放のプロセスに親子とも恋人とも取れない愛の形が存在しない。しかしウエルベックは言う。「性的行動はひとつの社会階級システムである」(『闘争領域の拡大』、116頁)。愛は「結果が観察できるので、存在する」が、セックスは市場原理に基づくというのである。いわば死姦という非経済的(過剰経済的)活動はもはや言及の射程に入っていない。「何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である」(126頁)という原理の乾いた説明は、まるで愛の存在など鼻で笑うかのようだ。死体とセックスする好夫の方がよっぽど愛を知っているかのように見える――死体とセックスする人間は、全体の何割なのだろう?

 しかし、飢えを知らない者よりも、飢えている者の方が不幸である。「僕」もティスランも、愛されたかった。好夫が綾子に生前愛されていたかどうかは描写の限りでは定かではないが、愛と呼ぶべき感情があったかどうかは疑わしい。「女子大生に限らず、若い女の腰や胸には誰かれの区別なく欲情した」が、「自分と他人との間に肉体を超えた観念としての関係が生み出せないとすれば、自分の日常はどのような生活として成り立つのだろうか。好夫はただの繰り返しにすぎない自問に耽りながら、綾子の巣窟にひたすらへばりついているのにちがいなかった」(『草葬』、32頁)という自意識とマザコンじみた綾子への執着は、愛と呼ぶには澱んでいて、死体を犯すには十分だろう。翻って「僕」とティスランは、何か一撃で世界を変える愛を欲していた。そんなものはないと知っていながら。モーリス・ブランショ存在論的な言明を借りて曰く、「理解という作用が要請する同質性——自同者の宣明――の中に異質なものが、それとのあらゆる関係が関係なしを意味するような絶対的に他なるものが、立ち現れなければならない、意志とおそらくは欲望さえもが、法をかすめる突然の(時間の外の)出会いの中で、越えがたいものを越えるというその不可能性〔ありえないこと〕が出現しなければならない、ということである」(『明かしえぬ共同体』、86頁)という不可能的な世界の亀裂を飛び越える瞬間を、「僕」は待ち望んでいる。別れてしまったヴェロニクも、パーティーで勃起しながら眺める若い娘も、いつか殺せるはずだったあの二人組も、何かのきっかけで全部「元通り」になるはずだ、と。そこにはブランショの「絶対的に他なるもの」の介入が必要だった。母親の死体という血の同質性と死者の軀という異質性のアンビヴァレントではなく、「何者か」になるべくしてかます世界への叛逆の一撃が。「僕」はティスランに言う。

「美しさ、とか?」彼は言ってみた。

「いや、美しさじゃない。それは間違いだってことを、はっきり言っておく。ついでにヴァギナでもないし、愛でもない。だってそんなものはみんな、死んだら終わりだ。要するに君は、今すぐにでも、連中の命を自分のものにすることができるんだ。今夜から、人殺しになれ。いいか、ラファエル、これは君に残された最後のチャンスだぞ。君にナイフを突きつけられ、女たちが震え、命と引き換えにその若さを差し出してきたら、その時こそ、君は本当の支配者になる。その時こそ、連中はすっかり君のものになるんだ。もしかしたら犠牲になる前に、連中は君に美味しいお菓子までくれるかもしれない。ナイフ一本だよ、ラファエル、それがものすごい味方になる」(『闘争領域の拡大』、150頁)

愛でもヴァギナでも美しさでもなく、今俺たちに必要なのはナイフ一本とあいつらの命だ、と強弁する「僕」の発言は、虚しいかな、ティスランの未遂によって本懐が成し遂げられることはなかった。ティスランは殺すことができなかった。好夫が不明の死因によっていともたやすく母の死体を凌辱することができたのに対して、「僕」とティスランはナイフを持っていたのにも関わらずパーティーカップルの命を奪うことがかなわなかった。「僕」とティスランは、初めから世界に疎外されていたのだ。クソつまらないプログラマーの仕事をして、週末は気晴らしにもならないバカンスに出かけたり、ルサンチマンではちきれそうになるパーティーに出席しては鬱病になる。「他者」なき主体の鬱屈ではなく、主体なき「他者」のネットワークに絡めとられて息もできない。ウエルベックと作家Feが対照的なのは、主体の疎外という点においてである。好夫は、自らが自らを疎外し、それが「体臭」という形で自意識の圏域を形成する。その解除は、母の死体を犯し、叢に葬るという形で成し遂げられる。それはグロテスクではあれど、一種の分析完了とも言えるかもしれない。精神分析は分析主体が存在する限り終わることがないが、最終場面において死体は消滅してしまう。「好夫は何度も返り見しながら、しかし、今度はしっかりと土手の草道を踏んだ。ふと風の冷たさに気付くと、綾子の姿はいつの間にか消え、淡い月の光に、濡れた河原の草の葉先が、ゆるやかに、一面、ただ波打っているのが見えた」(『草葬』、54頁)。綾子の死体が消滅したとき、好夫の窒息した自意識の堂々巡りも終わりを迎える。生きた「他者」に向けて主体がようやく開かれるのである。ウエルベックの「僕」の分析は、幾度も挫折し、ついに成功することはない。一人称のモノローグという形はいかにも主体を語っているように見えるが、その実ディスクールの主導権は「僕」にはなく、それを書かしめている疎外装置にある――つまり、闘争領域。

 しかし作家Feにも、ウエルベックにも、救いがないわけではない。「僕」が自意識と自慰で息が詰まっても、どこにも「僕」がいなくても、この残酷なゲームを私たちと一緒に耐え抜いてほしい。「あの時の水の冷たさ」を思い出しながら、溺れ死ぬ寸前でもがき苦しむ受苦としての生を生き抜いてほしい。人は死ぬまで生きなければならない。ウエルベックは呼びかけている。

 いまや岸はすっかり遠くなった。そう!岸は本当に遠い!あなたは長いこと向こう岸があると信じていた。いまや事情が違う。それでもあなたは泳ぎ続ける。そしてひと掻きごとに、溺死に近づいている。息が詰まる。肺が燃えそうだ。水が冷たくなってきた。なにより苦くなってきた。あなたはもうあまり若くはない。いまや死にかかっている。大丈夫。僕がいる。あなたを見殺しにはしない。続きを読んでくれ。

 今一度、思い出してみてほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだときのことを。(『闘争領域の拡大』、18-19頁)

 

結 Entrata

 今、これを書いているのは葬式の前だ。昨日の晩、訃報が入ってからの家族の食事も、故人を偲ぶような話題はほとんど出なかった。父親が僕に向かって「ほっとしたような気持ちもあるんだけどね」と言ったとき、父の祖父に対する愛憎を思った。僕は子どもの頃から父親の祖父に対する葛藤を見てきたし、僕が5歳ぐらいの頃に弟が麻疹にかかって入院した際祖父母の家に預けられたときに祖父の粗暴ぶりは恐怖の対象でしかなかった。最後に交わした会話は、僕の名前に対する難癖。僕の名前は難読かつ珍しい名前なのだが、生まれる前に命名をめぐって両親と祖父母の間でひと悶着あったらしい。病室で祖父は「なんだよ、〇〇(僕の名前)って……」と吐き捨てるように言った。死ぬまでクソジジイだったが、実の息子である父や当たり前だが祖父とは血の繋がっていない母、正月に帰省しては申し訳なさそうに部屋の片隅で寿司を食いながらモンハンをしているだけだった弟に比べて、どうしても僕は最後まで作家Feとしても、血の繋がったクソジジイとしての祖父も憎み切ることができなかった。最後まで誰かのせいにすることでしか生きることの意味を見出せなかった人だったとしても、作家として生み出した作品(もちろんこの記事で取り上げた『草葬』以外にも『影追い』にはいい作品がいっぱいある)は確実に残っていいと孫心ではなく一読者として思うから、せめて一人でも偲ぶ意味合いを込めてこの記事を書いた。

 昨日のバイトからの帰り道、Spotifyでオルフの「エントラータ」を聴きながら散歩していた。ウィリアム・バードの「鐘」を編曲したもので、知る限りではシェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管の演奏しかない。バイトの先輩が辞める前に最後にかけた曲で、なんだか泣けたのを覚えている。雲がかかり、月の光の輪郭がぼやけた夜空とドブ川を眺めながら、しめやかなアダージョを聴いて煙草を吸った。祖父は生前ヘビースモーカーだったが、いつだったか肺がんで死ぬと言われてやめたのだった。銘柄はチェリーからメビウスだったかセブンスターだったか。どんどん顔つきが祖父に似てきている。せめて僕の最期は一人でも多く家族や友人に惜しまれながら死にたいものだと思いながら、吸い殻を祖父の形見になった携帯灰皿に押し込んでコーラを一気飲みした。金木犀が香る急速に冷えた10月の夜空に、祖父が虹の河を渡るのが見えた気がした。気がしただけ。


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個人的シャニマスシナリオランキングレビュー・部門別ベスト――すべてが焦土になる前に

1.日陰の花

 オタクは臭くてキモいです。リピートアフターミー。オタクは臭くてキモいです。オーケー、ヴェリ・グッド。この文章は、三峰結華役の声優・成海瑠奈の一連の騒動を受けて書かれている(無論、紫月や田鶯のそれも問題含みである)。なぜ、声豚に限らず、オタクは脆弱で、自己弁護的で、臭くて、気持ち悪いのだろうか――いや、この問いから始めることは避けておこう。それは「臭いから、臭い」以上の同一律を導き出すことはないからだ。オタクコンテンツ、即ちアニメやソシャゲ、アイドルといった文化(これについてはエクスキューズを付するに留めておこう)が人口に膾炙してしばらく経つが、僕たちオタクの最も濃い部分を啜り食って生きながらえている蛆虫は決して自分たちが蛆虫であることを忘れてはいけない。そしてオタクコンテンツにおける美少女、あるいはステージの上で輝かしい汗と涙を流す実在する少女たちは、あくまで日陰の花なのだ。かつて僕は、あるアイドルグループのメンバーの熱愛が発覚したとき、風呂場で彼女を想いながら射精したあと涙が止まらず全裸の浴室で30分泣きはらした。宇佐見りんが『推し、燃ゆ』でファイルやルーズリーフに推しの情報をドキュメントしていった蓄積が最後のインスタライブの「コーラのラベルの下半分まで残った内容物を推しが飲み干すまでの時間」に何も比肩するところがなかったように、僕たちオタクの生はそれがそのままオブセッションであり、あかりのように綿棒のケースを擲って「お骨=綿棒」を拾って四つん這いで生きようと決められるならまだしも、僕たちは自分で自分の骨を拾えるほど自分に落とし前をつけられないから、オタクをやっている。大学院受験の願書が届き、フランス語の勉強を丸二日サボってこんなブログを書いてシャニマスをやっているのだから、つくづく僕はオタクがやめられない。もはや楽しくてオタクをやっているのかどうかさえ分からない。年季の入ったオタクに「アニメ/アイドル好きですよね?」と聞くと、「う~ん……」という答えが返ってくるのは、そういうことなのだろう。なぜ自分がそれを欲望しているのかも分からず、中毒を起こしつつ脳に安いシャブを打つ。そうやってしか生きられない生を、僕は言祝ぎたいと思う。すべてが焼け野原になってしまう前に、僕は一篇のテクストを個人的なブログという形で編もうと思う。

 『アイドルマスターシャイニーカラーズ』は、往々にして「批評」「考察」の眼差しに晒されてきた。しかも、その多くは読むに値しないほど稚拙で、「~である」「~といえよう」を乱用する大学1年生のレポートのような文体でスクリーンショットを貼り付けただけのものか、あるいは極端に自家撞着的なヘタクソな詩のようなものか。実際、このブログに載せた(寄稿した同人誌は今どうなっているのかさっぱり分からないが)「鮮烈――すべて名もなき少女たちのための詩篇」は、あれがフィクションとしてリアリティを持つべく書かれたものとして書いた意図があるにせよ、「樋口円香と昔の彼女は同じ位置に泣きぼくろがある」などと書いては正気を疑われても仕方がない。あれはあれで書いてよかったと思うようにはしているが、それでも出来の悪いポエムですねと言われてしまったら、多分僕は逆切れもできないだろうなと思う(付言しておくと、「鮮烈」は統合失調症の症状のさなかに書かれた文章である。シュレーバー的と言えばそうなのかもしれないが)。だからと言って、私はシャニマスをどうしても、どうしても茶化せない。ポップな文体でシャニマスについて書くことを僕のオタクとしてのみみっちい矜持が拒絶する。この盲目さ、ある種の語りを平板化させるゲームの強度は、一体何から来ているのだろうか、と仮に問うてみよう。問うたところで答えが出ないのは目に見えているが、それは例えば哲学者であり美学者であるルカーチ・ジェルジ(ジェルジ・ルカーチ)が美学についての浩瀚な書物を書きあげようとしてついにその人生で美学についての一大プロジェクトを成し遂げることはできず、過剰な観念派(ヘーゲル青年派)のマルクス主義に転向したあの過ちを僕たちシャニマス語りたがりオタクたちは犯しているのではないか。美そのものをつらまえようとして、言葉の不能に行き当たり、結果的にスクショを貼って「この窓から差し込む光はアイドルとプロデューサーの間に隔たる「距離」なのである」とかいうクソつまらない文章を書いてしまうのではないか。美が痙攣的なものであると書いたブルトンや肘から美が流れ込んでくるとものしたダリの方がよっぽど美の感官において鋭敏だったように(哲学者が美について無能で、シュルレアリストたちが美を最もよく理解していたと一概に言うつもりはないが、それはこの記事の本題とは逸れるので脇に置いておこう)、僕たちはシャニマスのテクスト――それはときにバルトやカント、あるいはThe Smithsメンデルスゾーンが登場するディレッタントの馥郁たる香りが立ち込めるテクスト群――について直接的に迂回する必要があるのではないか、ということを言いたいのである。それは、道端に雨にずぶぬれになって何故か落ちているビートルズの詳細なムック本にバイオグラフィやディスコグラフィという点による語りの集積が結果として読み手にビートルズの全体像を想起させ、もしかしたらビートルズの音楽を聴くのと同じくらい豊かな経験をもたらすように、シャニマスというゲーム(テクスト)総体をヘタクソなポエジーや事実の羅列によって語った気になるのではなくて、自分の好きなものから丁寧に一つずつ拾い上げてそのコミュの何のどこがいいのかを逐一説明してみせること、これをやってみたいのである。無論、その全てを僕は読破していないし(今回このエントリを書くに当たって後に取り上げる【ロー・ポジション】杜野凛世のTrueEndもまだ観れていないし、あるいは時事ネタ的にホットかつ名作と名高い【≠EQUAL】三峰結華も未入手である)、ソーシャルゲームの性質上網羅ということは難しいだろう。しかし、好きなものを点描的に取り上げてみることによって、そのテクストに込められた内容や受け取ったものの一部でも言葉にできるのならば、シャニマスに限らずオタクコンテンツ全体においてわずかではあるが一歩を踏み出したことにはなるだろう。それは、「において」語ることなどできない、という事実から出発する。すべては「~について/~のための」であり、内奥より言葉が出てくることは決してない。僕はかつて冬優子を冬優子「において」語ろうとした文章を3万字書いて、全部ボツにした。それぐらいやらないと、「~において」という美学的に不細工な態度を諦められなかったのだ。

 さて、本題のシナリオレビューは、カードコミュ(SR以上)編、WING編、GRAD編から3つ(WINGとGRADからは2つ)ずつを選んだもので成る。僕の担当は浅倉透と黛冬優子だが、担当を織り交ぜつつなるべく主観を排してクオリティが高いと思われるシナリオをピックアップした(完全に主観を排することはできないので個人的という留保をつけた)。限定SSRのカードも含まれるので必ずしもこれからシャニマスを始めたいという人の指針にはならないが、WING編、GRAD編は共通コミュのみなので、シナリオさえクリアすれば僕の言いたいことは分かってもらえるだろう。

 最後に、僕は13歳の頃にAKB48にハマって、今年で24歳になる。もう数えて11年オタクをやっているわけだ。必ずしもアイドルも、アニメも、ソシャゲも、Vtuberも、僕の味方でいてくれるわけではなかった。アイドルは中絶もするし、ピルを彼氏に肩代わりさせてセフレと4発生でセックスする。グループ内いじめでレイプ教唆があって、それをグループ丸ごともみ消したりする。どんどんオタクは鈍感になっていって、露悪でしか自分の心を守れなくなっていく。オタクをやらなければ生きられなかったのかと、今日例の一件で沸くTwitterを見ながら考えた。多分、ダラダラ生きてるのと同じように、ダラダラオタクをやるのだと思う。それでも、惰性の永劫の中に一瞬の閃光が放たれるのを心のどこかで信じているから、文章を書くのだろう。あんまりポジティブなことは言えないけれども、それでは以下レビューです。どうぞ。

 

2.カードコミュ編:「可視化された行間」としての「アイドルイベント」

 カードコミュは、当たり前だが闇鍋ガシャで誰を引けるか分からない中、担当ではないSSRが出たりSRでも思わぬ掘り下げがあったりする。シナリオの役割を果たす「プロデュースイベント」がそのキャラクターのベースにあるのに対して、SR以上の「アイドルイベント」はそのキャラクター造形を一層深いものにする「可視化された行間」である。「読む」行為には常にある種の罪が付きまとうと言ったのはルイ・アルチュセールだが、女の子のセリフをテクストとして解体し、再構築する営みはそれ自体が罪深い行為であるのは承知の上で、その「行間」について触れてみたい。

1位 【ロー・ポジション】杜野凛世

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 凛世は【杜野凛世の印象派】でプレイしたが、あまり印象に残らなかった。凛世のジレンマは、プロデュースイベントで見られる通り、「プロデューサーに仕える」以外の目的がなく(「運命の出会い」を果たした相手と凛世が見込んだから故なのか、極端な例で言えば樋口やにちかのような人間関係においてはむしろそちらの方が自然なコンフリクトというものが不自然なまでに存在しない)、それが凛世の足枷となっていた。結果的に本筋のプロデュースイベント内でそれは解決されたかのように見えるのだが、【ロー・ポジション】ではプロデューサーへのこみ上げる凛世の想いがこれ以上ないほどの詩情で描かれる。特筆すべきはやはりムービーつきの「春雪」。早春の早朝、味噌汁を作る凛世と凛世を迎えに行くプロデューサーのモノローグとダイアローグがスタティックに描かれる。「まっ白な時間」に「大根が透き通る」と味噌汁を作る過程に夜明け前を形容する凛世の感性が、プロデューサーへの「こぼれそうな心」に重ね合わされる。とはいえ、凛世についてはGRADでも言及するので、ここまでにしておく。

2位 【まわるものについて】浅倉透

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 浅倉もGRADで言及するので短めに。浅倉については何度も文章を書きボツにしてきた。なぜって、「美しい」、「心が震える」、「世界の全てだ」以外に言葉を失ってしまうからだ。何かとネタにされがちな浅倉だが、SSRの【10個、光】Trueの公園から一望する景色を「世界」と表現するくだりや、サポートSSR【ハウ・アー・UFO】の「めが やける ぐらいの 光が あるぐらいだから」など、彼女の表現の奥行はどれほど言葉を尽くしても尽くすことがない。【まわるものについて】では、メリーゴーランドとCDプレーヤーの回転運動に焦点が当てられる。「追ってるかもしれないじゃん……!私が……!」と絞り出す浅倉は、なんというか、痛々しい。同じく、浅倉に消えないでくれと頼むプロデューサーも。浅倉はことプロデューサーとの関係性が特殊だが、お互いがお互いにふといなくなってしまう瞬間を恐れている。例えば夏葉であればよきパートナーとして次第に全幅の信頼をプロデューサーに置くことになるし(Landing Pointではそれが顕著だった)、冬優子であればバディと言うのが適切だろうか。しかし、浅倉は(イチャついているときも含めて)お互いがいつの間にか姿を消してしまうことを恐れているような危ういロマンスを香らせる瞬間がある。「CD見てた」と「追って、追われる」回転の運動を見やる浅倉は、プロデューサーにも回転運動を見ていたのだろうか。

3位 【starring F】黛冬優子

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 冬優子ははっきり言って単細胞である。自己反省の仕方も自尊心ありきだし(Landing Point参照)、自分の行動原理が傲慢さから来るものでしかない。彼女の「分裂」も、その傲慢さを傲慢さによって覆い隠している気になっているだけである。WING編(プロデュースイベント)でカメラマンに逆切れし、その後事務所に戻ってきて「もう一度、アイドル、やりたい!」と言って号泣する姿は醜悪でさえある――そのあまりにもカリカチュアライズされた「プライドの高いオンナノコ存在」という意味において。その戯画は例えば惣流・アスカ・ラングレーであっただろうし、例えば柊かがみであっただろう。彼女らはみな、その愛すべき醜悪さにおいて現実存在のミメーシスでしかなかった。パラフレーズすれば、「こんな女、おらん」というモデルケースとして分かりやすく説得力を持ったのである。【starring F】は、冬優子がなぜ醜悪なのかのルーツを辿るという意味合いを持っている。猫かぶりで小中学生のとき角が立ったこと、「ふゆ」と「冬優子」のどちらもプロデューサーが肯定することによって「ありがと、バーカ」という紋切型のまさしく単細胞なセリフしか出てこないということ。シャニマス運営は、冬優子の存在をどんどん悪辣なものにしている。【ONSTAGE?】のTrueは、醜悪でしかなかった。プロデューサーにやり込められてむくれる冬優子を「尊い」「かわいい」と神輿で祭り上げるオタクたちは、蛆虫以下の存在である。

 

3.WING編:誰から始めても正解ではない

 シャニマスを始める者は誰しも、WINGから入る。気になった子を選んで、チュートリアルをプレイする。難易度の高さに投げる。テクスト量の多さに辟易する。正直シャニマスを人に薦めづらいのは時間効率が悪すぎるからというのもある。かくいう僕も去年の四月にあさひで始めて、そこから2~3か月おきぐらいにやって今年の4月にやっとWINGをクリアできた(これは僕がゲームが下手なだけ)。シャニマスは誰から始めてもいいが、誰から始めても正解ではない。魂のアイドルが決まるのはずっと後のことだ。WINGを負け続け、周回した人間しか見れない景色がある。

 と同時に、従来的な根性論とか「努力は必ず報われる」のアイドル価値観をちゃぶ台返しするのもシャニマスの特徴である。以下に示す3人は、脚本が良く出来ているのと同時にシャニマスの旨味である苦みを示してくれるアイドルをチョイスしてみた。

1位 七草にちか

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 にちかの登場は個人的にゲームに限らず二次元アイドルにおけるメルクマールだったと思う。島村卯月が「ガンバリマスロボ」と言われて揶揄されていたように、アイドル表象における「普通の女の子」は大体異常者だった。にちかも異常者であることには違いないのだが(真に凡庸なのは甘奈とか)、凡庸であることのコンプレックスをここまで深掘りしてえぐり抜いて見せたのは(手放しで褒めるのは気が引けるが)見事としか言いようがない。「もう、ラッキーの時間は終わりですよね……」とプロデュースイベントでも『ノー・カラット』でも呟くにちかに、どれだけの消費者コンプレックス(cf.卯月コウ)を抱えた人間の心がズタズタになってしまっただろうか。僕は初見プレイではあまりダメージを受けなかったものの、同人誌を一緒に運営していた友人が鬱で倒れてタスクがかさんだり大学院の過去問のフランス語がさっぱり分からなかったりするまま何の気なしににちかをプレイしたらマジのゲロが出た。凡庸、無能であることに気づかないことは、最大の幸福である。自分が凡庸で200%を出さなければ周囲の人間と同じ土俵にも立てないと知った瞬間、そこが地獄の入り口なのだということを、七草にちかシナリオは下手な小説よりも切迫した表現で伝えてくれる。初心者に二人目にオススメしたいキャラ。

2位 樋口円香

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 樋口の愛情表現は愛くるしい。もはやこの「愛くるしい」という一言で全てを終わらせてしまいたい。微笑みながら彼女が「大嫌いです」と言うとき、何故だか分からないが涙が出てくる。それは、何度もこのネタを擦るようだが、自分が人生で一度だけ本気で恋をした女性に樋口が似ているからかもしれない。樋口は分かりやすいツンデレだし、皮肉や悪態は信頼の表れだし、そしてそういうことを言ってしまう自分のことが世界で一番嫌いである。本当は一生懸命になりたいし、頑張りたいし、もがき苦しみたいのに、「心臓を握る」で「怖い……」と本音を漏らしてしまう。「勝算のない賭け」に打って出ることを「ミスタークレイジー」と言う割には、自分が壊れて気が狂いたいと思っている。いわば、こういった手垢のついた俗っぽい表現をするならば、ドマゾなのだ。彼女がめちゃくちゃにされたいと思っているのはプロデューサーにではない、世界にである。この点で浅倉と樋口は対照的で、浅倉は「世界」を「誰のものでもないものならいいな」と言っておきながら世界は彼女のものだし、浅倉は世界を蹂躙することができるし、蹂躙している。樋口は「あなたの夢を見た。最悪」と自分の無意識=裏返った世界に蹂躙されることでイッている。このように、僕が樋口のことを語るとき、どうしても文章のストロークが短くならざるを得ない。それは、樋口が僕の個人的なところに深く根を下ろしているからなのである。

 

4.GRAD編:「重み」を引き受けられない――アイドルである前に

 GRADはあまり量を読めない。True石が掘れるわけでもないし、シナリオが単純に長い。GRADを読むたび痛感するのは、僕たちが仮構されたアイドルの「手前」を目の前にしてその重みを引き受けることができないという事実である――舞台を降りたアイドルたち、あるいはまた別の舞台に上がるアイドルたちの姿が、ときにあまりにも痛々しく、切実で、命の叫びのように見える瞬間がある。GRADでシャニマスが見せるアイドルの諸相は、例えばにちかのWINGのような露骨なグロテスクではなく、むきだしの生傷のような、切れば血の出る動脈のような、生命の胎動である。たかがソシャゲで何を、と言う向きもあるかもしれない。しかし、たかが、されど、である。GRADこそ、何も語らせない磁場が働いている、と言うべきかもしれない。僕はGRADについて語れるか分からない。しかし、やってみよう。ディスコグラフィを作ってみよう。

1位 浅倉透

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 この記事を書こうと思ったきっかけが、この「浅倉GRADを少しでも言語化したい」という思いだった。書いてみたら長くはならなかったが、格別の思い入れがある。

 「ラムサール条約では……」という湿地についての朗読から始まる浅倉GRADは、その謎めいたテクストの錯綜によって恣意的に「読む」ということを拒絶している。要するに、浅倉とプロデューサーの関係が「Pラブ」だとか、浅倉が尊いとかかわいいとか顔がいいとか、そういうオタクの思考停止の語りを無化してしまう作用がある。湿地についての朗読、河原100周、委員長とのダイアローグ、それらすべてが並行して最後にミジンコと「捕食者」に収斂していく様が、一つのテクストの織物として驚嘆すべき美しさを保っている。この記事は「考察」を目的としていないし、ましてや「批評」などという恐れ多い文句を持ち出すつもりはないのだが、浅倉がカメラに意識を向けた途端カメラが「食われる」ことを意識せざるを得ないあまり「呼吸」してしまう、という浅倉の暴力性=捕食者たる所以がここにある、などという陳腐な文言さえ飛び出してしまいそうになる。かつて蓮實重彦は『クーリンチェ少年殺人事件』について「問答は無用だ。今すぐ劇場に駆け付け、画面に打ちのめされるがよい」と言ったが、蓮實の言う映画批評の「運動の擁護」をさえエドワード・ヤンが放棄させたとしたら、浅倉はテクストの擁護を放棄させるのである。まあ、四の五の言うのはどうでもいい。黙ってスマートフォンシャニマスをインストールし、今すぐアプリを開いて、浅倉に打ちのめされるがよい。

2位 杜野凛世

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 カードコミュ編でも書いたが、凛世は完全にノーマークだった。原因の一つに、感情表現の乏しさが挙げられる。「プロデューサーさま……凛世を……お導きください……」という独特のセリフ回しがどうにもかったるく感じられてしまった。GRADの凛世は、血を滲ませていた。「あ」しかない少女αと「あ」以外しかない少女βの狭間で、凛世は「……いたい……いたかった……」と海辺に向かって叫ぶのである。そこに、かつて自分が感じていたかったるく重いだけののっぺりした杜野凛世はいなかった。人間になりたい、人間でありたいと魂で訴える彼女の姿に、嘔吐せんばかりに泣いた。心を動かすにはどうすればよいかともがく彼女の姿が、実際の人間以上に生々しく、血の通ったものとして見えた。

 

5.おわりに――数行のエクスキューズ、ないしはギブアップ

 本当は全部にベスト3をつけようとしたんだけど無理だった。汲み尽くすことのない鉱脈で、腐泥の蛆虫である僕たちはうねうねと語る対象を探し続ける。シャニマスじゃなくてもいいのかもしれない。それでも、色々あっても、今の僕のよすがは、シャニマスだから。

NO FUN(息抜き)

 久々に個人的な話をしよう。とはいえ、俺は文章を書くときはいつだって個人的な話しかしていないのだが。

 

 なんで公に文章を発信できる場所を別に持ってるのにこのはてなブログアカウントを大学1年生のときから使い続けるかといえば、ここはいわば痰壺だからだ。こことは違う痰壺をおととしまで持っていたのだけど、くだらなくてつまらない理由から捨ててしまった。なぜかそっちの痰壺の方に人が吸い寄せられるのは、俺が元々持っていたくだらなくてつまらない自意識が人によっては魅力的に見えるからだろう。文章がその人の内面を綺麗に映し出す鏡なのかと言われたら、かならずしもそうじゃない。邪悪で濁った心を持った人間の書く文章が清明で美しい場合だってあるだろうし、清らかな内面なのに破綻した文章しか書けない人だっているだろう。

 俺は、もう既になんとなく疲れて倦んでいる。もちろん文章を書くことにではない。文章を書くことはとても楽しい――場合によっては自慰以上に。そうではなくて、文章に自分の気持ちや想いを乗せて誰かに力強くぶつける、分かりやすく言えば「誰か僕の気持ちを分かって!」というスタンスで文章を書くことがとっくに困難なのだ。かつては、それがなくなった自分の文章など書く意味も読まれる意味もないのではないか、と思っていたのだが、別に意味なんて元々なかった。書きたいから書き、読みたいから読む、それまでの話であって、意味付けが恣意的なものに過ぎないことに気付くのに随分とかかってしまった。

 文章と自慰行為をうっかりなぞらえてしまったが、文章にしても創作行為の第一歩はそれがまず自慰であることにある。俺はなんで文章を書いているんだっけ?とたまに考えることがある。何か切迫した伝えたいものがある。何か俺にしか語れないことがある。村上龍が『13歳のハローワーク』の「作家」の欄で、何も捨てるものがなくなり、そういった伝えたくて俺にしか語れないものだけが残ったとき、作家を目指しなさいと書いていた。俺はずっと、小学生のときからずっと、誰かに自分の知っていることや学んだことを自分の思い描く言葉で伝えることが好きだった。もっと厳密に言えば、そうやって誰かに何かを伝える自分の言葉を読みたいと熱望したのがまず自分だった。だから、自慰は自慰なのかもしれないけど、それはよくないのかもしれないけど、やっぱり人に伝える歓びの手法を工夫しながら試行錯誤していくプロセスが自己目的的に楽しくなるのに越したことはないんじゃない?と俺は考える。まあ、書くスタイルが変わるのは、致し方のないことだけれども(それが観念的で抽象的になればなるほどに)。

 かつて交際していた女性は、俺の文章が好きだった。当時何かに切迫していて自意識が膨れ上がった俺と俺の文章、つまり痰壺のうちの一個ないしは両方を彼女はとても褒めてくれた。俺は何のために文章を書いていたのかと言えば、まず自分のため、そして彼女のように自分の文章を特別に読んでくれる特別な誰かのためなのだったと気づくのに、俺はいたく遠回りをしてしまったなと思う。断筆しようと思ってできなかったのは、彼女の――あえてこういう言い方をすれば――「おかげ」だった。文章は俺を救ってくれない。しかし、文章によって俺は俺自身を救い出すことができると気づいたのは、このブログに断筆宣言をした直後に俺が傷害事件を起こしたときだった。アマチュアの同人ゴロのくせに何が断筆じゃボケというそしりはまあ置いておいて、現行犯逮捕されパトカーに乗り、警察署のエレベータ内で手錠をかけられたとき、俺はまた何かを書かなければならないと思った。迷惑をかけた友人や家族の顔が脳裏に過ぎる中、俺に何かを賭けてくれていた女性の存在がその中にいた。結果、俺は同人を立ち上げ、ブログを書き、何かを発信している。輪郭を捉えたり捉えられなかったりしつつ、Twitterの140字に収まらないものをどこか遠くに向かって投げかけている。

 

 「初めて会ったときのこと、おぼえてる?」と峯田は歌ったが、別れ際については志摩遼平が「さらば青春の光」と歌っている。綺麗に男女関係の始まりと終わりをメルクマールとして位置付けることのできるアベックが果たしてどの程度いるのかということについてはついぞ謎のテーマだが、俺は人生で女性と計3度破局している。1度目は静かに、2度目は泥沼で、3度目はいつの間にか(これは含まれないかもしれない)、といった具合で、いつまで経っても反省できない。ところが永遠の反逆児であることにも才能が必要で、俺はもはや現段階ではそういう色恋沙汰に頭から突っ込んでいくのが億劫になってしまった。かつては文学部のキャンパスで歩くペニスと言えば俺とまでの二つ名を恣にしていたはずが今では一日一回の義務のオナニー(これを友人は義務ニーと呼んでいる)をこなすことさえかなり困難になっており、自分のペニスが勃起することさえ神に祈る日々である。

 そんな折、上に書いた泥沼破局劇を演じた女性からいきなり連絡が来て、いきなり会うことになった。話した内容は書くようなものでもないのでいいとして、久しぶりに元カノに会うとか以前に女性と喋る機会自体が母親以外で最近なかったので最初死ぬほど緊張した。緊張をほぐすためにイヤホンで爆音でFlying Lotusの『You're Dead!』を聴いていたら突然目の前に彼女が現れて震える手でイヤホンを取り外し「ヒ……ヒサシブリ……」と蚊の鳴くような声で言うことしかできなかった。彼女は付き合っていたときとそう印象は変わらなかった。強いて言えば髪が伸びたなぐらい。本当に『シティーハンター』にそういう台詞があるのか知らないが「男子三日合わざれば刮目して見よなんて言うが、女の三年はその比じゃあない」と冴羽潦が言っていたのを真に受けるとするならば(そもそも別れたのは去年の6月だが)、顔つきが良くなっていた。もちろん彼女も体調が万全というわけではなさそうだったが、こうして見ると別れ際の顔つきは多分お互いよくない感じだったのだろうなと思った。

 彼女と埠頭で話し込みつつ、なおかつ昔の話は触れたり触れなかったりしたりして、最後辺りに異性との別れ際の話になった。静かに、激しく、いつの間にか。マーラーの楽譜の指示じゃないんだし、と思いつつ、俺はなぜか俺の最初の交際相手のことを喋っていた。高円寺のシーシャ屋で、当時煮詰まりに煮詰まっていた関係性に限界を感じていたのと彼女に対する依存から来る試し行為で「もう無理かなあ」と俺が言ったら、彼女も「そうかもね」と返したこと。二人で家に帰っていつものコンビニのざるそばを一緒に啜って寝て、朝髭剃りや歯磨きを処分して実家に帰ったこと。話しながら、この埠頭の夜は4年前の高円寺の夜に似ているなと思った。静かに何かが終わっていく感覚があった。ワヤクチャのまま場当たり的についてもいない決着をついたことにした1年前から今にかけて、目の前にいる彼女にも俺にも色々なことがある中で、折り合いをつけたりつけられなかったりしつつ、まあ、どうでもいいよね、の一言に泡沫と帰す瞬間が訪れているのが分かった。お互いの非を認め、再会に至るまでにも犯した過ちを数えつつ、結局俺も、折り合いがつけられていなさそうな彼女も、断片的にお互いのことを忘れていく。まあ、それでいいかなと思った。俺も彼女に黒歴史みたいな文章送り付けてるし、その前の彼女には怪文書LINEで会ってくれえ~と泣きついてフイにされてるし、そういうことを忘れていかないと人間どこかでバグってしまう。皆さんはそういう経験、ありませんか?空を見てください。あの星の数が私の残した黒歴史怪文書の数です。

 まあそれはともかくとして、一つの「終わり」が見えてくる瞬間というのは、なんとなく寂しいような、爽やかなような、不思議な気持ちになる。しがみついていた何かから解き放たれる瞬間は、それは足場でもあったわけだから、やっぱり不安になる。人は過去によって生きるとどこかの小説家も言っていたと友人の受け売りで聞いた。でも、忘れる、忘れてしまうことによって、そこにいつかまた会えることの可能性が託されていたりもする。同人がんばんなきゃなー、と黒に呑まれた東京湾に向かってぼやいた。今隣にいる人がかつて隣にいたときに、彼女が俺に見せてくれるかもしれないと期待してくれた景色の先っちょを来年には実現しなければならないという使命感に似た感情が奮い立つのを感じた。何より、今同人を頑張れているのは、彼女のおかげなのである。帰りに乗る電車が分かれたとき、彼女は「もう会うことはないと思いますが」と言ったのに対し、「じゃあ、また」と俺は反射で返してしまった。まあ、多分もう会うことはない。ただ、生きていれば可能性はゼロではない。また、いつかどこかで。

 

 この文章は特定の誰かに宛てられている。NO FUN!

日記、あるいはなんとはなしの彫琢

 僕は躁鬱病統合失調症である、みたいなことを書くのにもいい加減飽きたし、鬱状態とか幻視(夢幻様状態)の症状それ自体にも飽きた。正直いつからこうなっていたのかも覚えていないし、元からこんな感じだったような気もする。合唱コンクールの指揮者で一身に拍手を浴びていたとき、高校時代部活で部長を務めてミーティングで部員を鼓舞していたとき、あのときが輝かしい日々で「健常者」だったのかどうか、割とどうでもよくなってきた。まあ、たいていのことは、どうでもよいのだ。

 

 たぶん今僕は何度目かの鬱状態になっている。周りからしたら躁状態が迷惑で、自分からしたら鬱状態がつらい。「つらい」というか、これはあんまり言葉の射程として正しいわけではない感じがして、「体がデカくなる」とか「意識が自分の頭上にある」とか「特定の音楽が聴けなくなる」とか「本に線を引いて読めなくなる」みたいな一個一個の症状が積み重なっていくと当たり前に知覚や生活に支障をきたす、程度の話であって、つらいからつらい、みたいな話はケチをつけるわけではないけど別に何も言っていないと思う。僕は鬱になると音楽も本も映画も基本的にダメになってくる。おそらくだが、僕は何かデカい成果物を提出したときにSSR確定病気プラチナガシャが回されて躁か鬱か統合失調症がドロップされるのである。去年卒論を完成させたときは躁と統合失調症、卒論を提出した後は酷い鬱、今回は同人の原稿をアップしたら鬱である。同人をやっていて躁鬱の知人に「僕は文章を書くことがオナニーのようなものなのですが」と言ったら「それはよくないね」と言われたことがある。書き終えたあと決まって体調を崩すのではやはりよくないオナニーなのだろう。はて、オナニーではない文章とは、一体なんなのだろうか。現に鬱の真っ最中である中、やることがないからととりあえずパソコンで脈絡のない文章をブログに書いているときに(そしてこんなものは誰も読まないか読むとしても決まった人なのだから)ああようやく俺も生きているのだという実感があるのである。普通にこれは思うことなのだが、「つらい」じゃないけど「死にたい」も相当雑な言葉だと思う。死にたいけど死にたいわけないだろ、と思ってしまうのは自分が根本的には信心深いからだろうか。夢見りあむでさえ「やむ」と言って「死にたくない」と言うのである。何の話をしているのか分からなくなってきた。文章の構成を考えることがめんどくさいときはやはり鬱病なのである。

 鬱病のときはたいていのことがどうでもよくなる、というかたいていのことが苦痛なのだが、一個だけ苦痛ではないことがある。Vtuberを見ることである。感覚としてはラジオに近く、家長むぎみたいな萌え声生主みたいなのではなく舞元力一とか花畑チャイカのマイクラなどが落ち着く。なんで落ち着くのかはよく分からない。まあ鬱病のときにアニメも本も音楽もダメになって(デレステのMVなどは情報量が多すぎて完全にバッドトリップする)、何もできなくなったときウーバーのマックを食いながらVtuberを見ているときが唯一自分の意識が自分のものであることを確証できる時間なのだった。これを書いているときも舞元力一チャイカ回を聴いている。何も中身がないトークが弾んでケラケラ笑っているときがなんとなく救われる。本はまあ、ダンテは読める。哲学書は無理。

 

 文章を書くことは何に似ているだろうか、と思った時、よく言われていそうだが彫刻を彫る作業に似ていると思う。ミケランジェロだったかが彫刻は内部にあるものを彫り出すことであると言っていた気がするが、文章も似たようなものだろう。白紙のように見えるが、自分の考えが形になっていく瞬間は最初からそうだったかのように思える。なんとはなしに書くことがいつからかできなくなっていた。彫琢ではなく粘土細工のように自分の文章と意識が変容していく様はあんまりおもしろいとは思えないけど、書いておくことに意味はあると思う。いや、まあ意味なんてなくてもいいのだが。

ノクチルとシーズについて:アイドルを観念論のおもちゃにしないためのエッセイ

 本文は、当初の構想段階では三部構成として「無軌道――ノクチル」の後に文章を統合する章が来るはずだった。が、僕の体力不足と、テーマ的に無理があるということで、それはナシにした。全ボツにするには割とおもしろいなと思っているので、載せておく。『OO ct.――ノー・カラット』と『天塵』のネタバレがあります。

 

 

「思弁と言語と世界が虚無になって直列している世界では、とりかえしということがついてしまってはならない。考えてみれば俺は人生のいろんな局面でこここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていた。ところがそんなことは全然なく、いまから考えるとあれらの地点は楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということがいま俺をこの状況に追い込んだ。つまりあれらが本当に引き返し不能の地点であれば俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。ということはこんなことをしないですんだということで、俺は今正義を行っているがこの正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない」

 熊太郎はそう言って刀を、生後四十日のはる江に突きたてた。

――町田康『告白』

 

・縊死――シーズ

 すべてははじまりである、とあるフランスの哲学者は言った。それはその通りで、序論なき結論もなければ、オープニングなきエンドロールもない。しかし、はじまりがあれば終わりがあるのかという問いについては、歴史はどうやら答えてくれないようだ。空の青さを「青い」と言うその日本語の三文字以上に、空の青さを「解析」することなどできるだろうか(別に「青い」は青についての解析でもなんでもないのであるが)。20世紀以降の人間は、「なぜ青と認識するか」「青を欲望すること」みたいにして、どうにかその内在性を突き止めようとしてきた。ところが、賽の河原よろしく、積み上げていけば積み上げていくほどにその対象との隔たりは絶望的になる。じゃあ、青いね、でいいじゃん、だったらどれほどよかっただろう。泥水を啜った後に見上げる青空の不気味で巨大な美しさの正体を、人は突き止めずにはいられない。いや、いられなかった。歴史がそうと言っているのだ。青い空がなぜ青く美しいのかということを問う問いは、世界に出口があるのかどうかを問う議論にも通ずるものがある。僕は、出口はあったりなかったりすると思う。正確には、出口は見えるだけなのだが、世界の認識として「出口があると思い込まないとやってられない」とか、「来たるべきものを待ち望みたい」という態度は、はっきり言って向こう岸が見えないプールで延々とクロールをするみたいなもので、あまりにも苦しい。ていうか、どうせ人生なんてゴミだし苦しいが、クロールしたあとにマラソンするとか、その後は滝に打たれるとか、そういう風に苦しみを切り替えていかないと縊れ死ぬ。そう、僕たちはまず、ノクチルとシーズという二つのユニットを扱うにあたって、世界の苦しさに縊れ死ぬ、ということを回避する手立てから「逆算して」出発しなければならない。

 6/30に発表されたシーズの初イベントシナリオ『OO.ct――ノー・カラット』は、最後まで読めば分かる通り、七草にちかと緋田美琴が別々の仕方で首を吊る話だった。ふと縄が下りてきて、気づいたら首を通していたということではない。にちかは最初から首が通っていて、目の前に時計があってゼロになった瞬間下に落ちる。美琴は縄が首にかかっている状態じゃないと生きた心地がせず、いつ足元が開いて落ちるか分からない。『ノー・カラット』は、舞台装置から来るメタファーの「奈落」(ちなみに、事務所によってはこれを「ドン底」と呼んだりする)から這い上がる話ではない。首を吊られた二人が、縊れ死ぬまでの話、見上げていた「奈落」の「上に」落ちるという話なのだ。

 いくつか印象深いシーンがあるが、二つのシーンに論点を絞ろう。

 一つはライブハウスのシーンだが、ここにおいて全てのことは起こるべくして起こる。にちかも美琴もそれぞれのシナリオのグロテスクさは後述するノクチルをはるかに凌いでいるが、ほぼ嫌味としか言えないにちかの調子に乗り方を、「ああ、よくいる調子に乗ったイタい普通の女子高生でしょ」で片づけることはできない――事実これを読んだ者がそのような結論に至るとは思えない。「シーズに、かんぱーい!」とはしゃぐにちかも、美琴が指導するダンスチームの輪の中に入れないにちかも(決してそれは疎外を意味しない)、そして、「もうこんなラッキーの時間は終わり」とするにちかも、等しく醜い。にちかの凡庸はシャニマスにおいてほとんど「悪」として表れる。そもそも、レコード屋の裏に嘘をついてプロデューサーを連れ込み、カメラで脅迫してデビューを迫るという手段を取っている時点でアイドルマスター的世界観が提示する「アイドル」像からしてみれば醜悪以外の何物でもない。それはにちか自身が自らのことを「踊れないし歌えないし使えない最低の」アイドルと言ってしまうことが何よりも示している。つまらない芸人ワナビーを軽蔑するにちか。仲良しアイドル――例えばノクチルは、果たして「仲良しアイドル」と言えるのかどうか――を嘲笑するにちか。「家族のアイドル」だったにちかが、「だった」と美琴の前で口にして、美琴に「そんな人と、私は組めない」と言われたとき、彼女の首にかかった縄はぎゅうと締まる。ライブハウスでは、まさしく、にちかに対する「死刑執行」が行われる。レッスンで明らかに「使えない奴」の烙印を自罰的に押され、浮かない顔(この「顔」もまた、醜いものとして表象されている)をしているにちかを励まそうとバイトの先輩が連れて行くクラブのデイイベントで、にちかは「シーズのメンバーだから」とちやほやされる。美琴の部分の台詞回しにしてもそうだが、ライブハウスにおける中身のない会話が、総体としてシーズそのものを描写する。そして調子の乗りぶりが頂点に達したにちかは、こう叫んでしまう――「シーズに、かんぱーい!」と。彼女の「ラッキーの時間」は居合わせた美琴に見られずに見られることで、終わる。死刑は執行される。にちかはいつも死にぞこないで、役立たずの愚図である。死にぞこないの歌としての「ホーム・スイート・ホーム」は感動的なカタルシスのはずなのに、二人が別々の台詞を言うエンディングを踏まえると何ももたらすものではない。しどけなく美琴にすがりつくルカのような気高さもなく、ただ二人がそのままそこにいるというだけの「上に落ちる」リフター=死刑装置が上昇、ないしは下降する。

 もう一つは、美琴のピアノである。メンデルスゾーンの無言歌作品38第5番が、美琴のテーマのごとく延々と鳴り渡る。「自動演奏」のメンデルスゾーンとにちかの下手な「ホーム・スイート・ホーム」がコマのドキュメンタリーと対比されているが、しかし果たして本当にそれは対立構造であるのか、つまりシナリオライティングの外で「美琴のピアノ」は意味を持ってしまっているのではないか?「メンデルスゾーンの無言歌」について、作中では何の解説もなかったが、メンデルスゾーンの無言歌は技巧的な作品ではないが「難しい」作品である。というのは、交響曲やオーケストラ作品、弦楽八重奏曲では優美で爽やか、であるが故にワーグナーをして「風景画」という揶揄を免れなかった。しかし、無言歌はメンデルスゾーンの内省的な部分を反映しており、単に音符を並べればよいという作品ではない。美琴は――カット画とともに――見事にメンデルスゾーンや「ホーム・スイート・ホーム」の連弾でにちかをアシストしてみせる(全く関係ないだろうが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を思い出した)。しかし、彼女はメンデルスゾーンチャイコフスキー(「四季」か?)を自動演奏のピアノ以上に弾けていなかったということが、メンデルスゾーンであるということにおいて示されているのである(重厚なシューマンブラームスは論外として、ショパンドビュッシーではないところが偶然なのか恣意的なのか測りかねるところである)。美琴は言う。「これ弾ける人、他にいっぱいいるよ」。「ミャオちゃん」に負けた美琴は、どのようにピアノを弾くのだろうか。楽理を学んでおり作曲も行い、ピアノを弾く美琴から見えるペンシルターンの中からの回転運動は、恐らく灰色だろう。青くない空が、美琴の目の前に広がっている。

 出口がない世界で、美琴は踊り続ける。

 出口がない世界で、にちかは踊り続ける。

 

・無軌道――ノクチル

 手に負えぬもの。怪物的なもの。いやあ、お前さっきの空の青さの話から何にも学んでないじゃん。べつにほっときゃいいの、そんなもの。雛菜に「しあわせ~?」って言われながら抱きつかれたり、円香に「あなたのことなんて、大嫌い」と言われたりして、二次創作のR-18絵でシコろうよ。冬優子のパンパンの太ももで窒息死したいのと同じようにさ。浅倉はかわいい。円香はかわいい。雛菜はかわいい。小糸もかわいい。かわいいものはかわいいんだよ。それが誰にとっても自明じゃないことぐらい、それは自明なんだから。

 はてさて、しかし、現実の酷薄さに引き戻されざるを得ない僕たちは、そのような態度決定を一元的にしていいものなのだろうか?いや、こう言い換えよう。虚構が現実よりも酷薄であることを忘れていないだろうか?と。現実の――唯物論的物質性と言えばよいだろうか――悪意は、神の意志を信じるか信じないかはイワシの頭なので置いておいて、とりあえずは偶然で決定されている。道に飛び出す子どもがトラックに突っ込む。男女の袖が触れ合う。まあ、そういう風にして、賽子の目は毎秒振り直される。しかし、それはある意味では良心的なのだ。胴元がいないギャンブルは誰が取るか分からないから面白い。物の次元がランダムに配置されることに不平等はない。しかし、虚構の現実、二次元ののっぺりした世界で「きみ」や「ぼく」に起こる「事故」は悪意だ。書き手という名の神は世界を作りたもうた、火の七日間はいつか「わざと」訪れる。ノクチルの四人が出会ったことが幸福でないこと。「プロデューサー」としてすべてを焼き尽す浅倉透を、浅倉に縋りつきながらも地獄でゲロを吐く円香を、なんでもできてなんでもできない雛菜を、もはや何を目標に頑張っているのか見失いかける小糸も、虚構という偶然の中で彼女らを見つめ続けるしかない。夜光虫の描く軌跡のように、それは無軌道で、残酷で、美しい。それを見つめてなお、ノクチルを「オタクのおもちゃ」として無批判に消費する*1ことに無条件の価値を見出してしまったら、先も見たようにファンタスムの中で縊死してしまうだろう。

 卓越したシナリオイベント『天塵』では、あらかじめ出目の決まった「偶然」で集まった四人のもつれあいが描かれる。長らくのこと僕は、浅倉透のことを言葉にしたいと思っていた。あまりにも残酷な完成度を誇る彼女のG.R.A.Dシナリオや、『天塵』でどこか遠巻きに描かれる浅倉透を、どのようにこういった論調で描き出せるだろうか。例えば、「アンプラグド」(メンデルスゾーンに触れたから触れておくと、「ハウ・ス→ン・イズ・ナウ」や「ハング・ザ・ノクチル!」はThe Smithのパロディである。まあ、浅倉がジョニー・マーだとかいうのは、飲み会の酒のアテにはなっても有力な議論にはならないのでしないが……)におけるリップシンク拒否を率先してやったのは浅倉である。あれを「ただの17歳の女の子の反抗」というにちか的な生意気さの発露であると捉える向きはさすがにないだろうが、印象的な当該シーンはアイドルオタクとしても色々思うものがある。リップシンク(口パク)文化の台頭はAKB48からとするのが一般的なアイドル史観であろうが、それならばハロー!プロジェクトの生歌主義が単なるヴィルトゥオジティであったのかと言われればそれもまた否であろう(このあたりの「アイドルとして生歌にこだわる理由とプライド」については一連のストレイライトイベントシナリオを参照のこと。ちなみに個人的にはストレイライトのモデルは曲調こそ違えどBuono!ではないかと思っている)。浅倉のリップシンク拒否は、AKB以降の「素人の偶像化」としてのアイドル像を拒否し、「ただの顔のいい素人」が真顔でヘタクソな踊りを踊っている、という「よく分からない事態」を引き起こしている点でノクチル以前のアイドル*2の特徴を浅倉透という存在そのものが戯画化している、と見る向きも可能であろう。無論、ここで重要となるのは「小糸だけが頑張って歌う」ということなのだが、浅倉のリップシンク拒否はシャニマスだけでなく「アイドルの歌」を問い直すという意味で重要である。

 もう一つは花火大会のシーン(チャプター「海」)におけるプロデューサーである。ボロボロの舞台セットで歌うノクチルを見て、プロデューサーは「なんか良いんだよな」と言う。実は、プロデューサーは、例えば月岡恋鐘に「ドジでも頑張ってる姿がいいんだ」、とか、黛冬優子の逆上に「その目を見て冬優子の良さが分かったよ」と言うように実はアイドルにその持ち味を明確に都度伝えているのだが、ノクチルに関しては仕事が取れなかったときも「なんか、良いんだよな……」と何も言っていない同然の「良い」を吐く。花火大会のノクチルは、画面で描写されることこそないが、生命力にあふれ、「アンプラグド」の様ではない形でステージを遂行する。きらめく画面のバックで「いつだって僕らは」が流れる中、プロデューサーは「なんか」、と言う。この「なんか」の正体を、僕たちは証明することができない。何故ならノクチルのステージは、「無軌道な現実」そのものだからだ。もちろん、このシナリオの演出そのものが客観的に美しいということを言っているのではない。人は、現実に打ちのめされたとき言葉を失う。注1でも書いたことだが、僕たちの生きている「現実」はそう単純ではなくて――当たり前にフロイトマルクスで説明できるものではなくて――ファンタスムと物質性がかち合ったり重なったり他の視角が参入してくることによって無軌道かつ不定形に僕たちの目の前に現れる。普段僕たちは色眼鏡をかけているから、外れたネジをドライバーでもとに戻したり、いない美少女を目の前に登場させたりできる。しかし、「なんか、良い/悪い」という現象が目の前に現れるとき、n番目の視野が入ってきて見てる世界が見ているままに留まらずに生のままで襲い掛かってくる。ノクチルのステージをもっとも「近い」位置で見ているはずのプロデューサーが言葉を失うのは、決してそれが美しかったからではない。無軌道な――生とは本来的に無軌道であるのだから――夜光虫が本当に目の前を通り過ぎて行った、ただそれだけなのである。

 

 救いがあるかどうかは人生において重要ではない。トリュフォーの『アメリカの夜』のように途中で人が死んだりセットが壊れたりしながら進んでいって最後は映画が完成する。シャニマスをやっていて事故でシーズン1とか2で育成失敗したりすると、大体のアイドルは自暴自棄になるか落ち込んでそのままになる。多くの人はそのようにしてリタイアし、「現実」に打ちのめされる。別にそれはそういうものだと思うし、僕は全員が救われればいいとは思っていない(僕も含めて)。ヘタクソな絵コンテのように人生は進むし、人生は物語であると言っている人も物語でないと言っている人も無責任で生きる気力を失っている。僕は黛冬優子が好きだし冬優子でオナニーするけど冬優子は僕の目の前には現れないし、『ノー・カラット』のはづきさんが「夢が終わっても、人生は続きますからね~」と言って七草家の貧困を語るリアリティを前にして二次元の女の子に救ってほしいという奴がいたらだいぶクルクルパーである(当たり前だが、現実を見ろと言って張り手を飛ばしているのではない。どのみち生きるのは厳しいという話だ)。

 学問でも音楽でも二次元でもなんでもいいが、別にお前を救うためにあるのではない。学問も音楽も二次元も、ただそこにあるからあるのである。

 

 ノクチルやシーズのすさまじさとは、美しさにあるのではなく、ただそこにあることである。

*1:ここで僕は「とおまど」や「ひなまど」、以下略を批判したいのではない。僕もそういう二次創作は全然いいと思っている。しかしここで僕が指摘したいのは、二次元還元主義や三次元還元主義の「あれか、これか」の二択のどちらかを選択しどちらかに耽溺することは怠慢であるとかではなく、極めて危険であるということである。還るべきは円香の胸の中でもなければミラーボール輝くピンサロのフラットシートの上でもなく、その二つあるいはより多くの視野の重なり合いがもたらすカレイドスコープである

*2:雑ではあるが、イルミネーションスターズ~アルストロメリアがあくまで二次元アイドルのリアリティを追求していった結果のパーソナリティなのに対して(もちろんそこには様々なアイドルイデオロギー流入しているわけだが)、ストレイライト以降はハロプロ、AKB/地下アイドル、K-POPと三次元アイドルの粘っこい雰囲気を描くことになっているのは20年代を前に生まれたアイドルコンテンツであるシャニマスの宿命とも言える