思考停止

映画、本、音楽、など

Spotifyの今年聴いた曲ベスト5にレビューをつけてみる

 院試対策と同人誌の準備を同時進行、なおかつ季節性の鬱病に臥せりがちな12月の幕開けにこんな現実逃避のエントリをしたためている場合ではないのであるが、どうせひっくり返ったところでいきなりフランス語ができるようになるわけではない。今日も過去問の単語が両手で数えるぐらいしか分からず喫茶店で冷や汗をかきながらタバコを吸った。ナット・キング・コールを聴きながら帰り道に飲んだファミマのコーヒー(バニラシュガーマシマシ)の味に、5年前初めて躁鬱を発症した冬を思い出し、もうそんな季節かと感慨深くなると同時にそろそろ時計の針を進めなければならないのを身に染みて感じる。

 

 エモめに書き出した冒頭はさておいて、サブスクの年間ベストや総再生時間がまとめて表示される季節が今年もやってきた。音楽の趣味までスマホに管理されてたまったもんじゃないわい、ワシは汗臭いディスクユニオンタワーレコードで誰も聴いていないレア音源と新譜をディグして無圧縮でPCにインポート、俺だけのディスコグラフィを作り上げるんじゃい!と気炎を上げる向きもあるかとは思いますが、利便性には逆らえないのが世の常。ワタクシもクラシック音楽オタクでクラスの皆がポケモンをやり攻略本を読み込んでいる間血眼で父親のコレクションをiPodに入れては評論本を読み漁っていた頃から15年余りの時が過ぎ、今ではコンビニのイヤホンでSpotifyからシャッフルでアニソンしか聴いていません。それでも僕が高校生のときはいわゆる「楽曲派」オタク達がその年の新譜ランキングをPitchforkよろしく発表したりしていて、結構自分の聴く音楽に自分を代弁させることのキモさが浄化されないままエグみと共に面白味として昇華されていたものだ。僕も真似でランキングを作ってみたりはしたものの、新譜がほとんどないというところに自分のアンテナの感度の低さが露呈するようで恥ずかしくなってやめた。今年聴いたものも新しいものづくめではないので、結局なんやかんや言いつつも古いものが好きなのだな、と思う。

 しかし、何故こんな切羽詰まった状況に、しかも随分前に擦られ過ぎて擦り切れた年末楽曲レビューをやろうと思うに至ったかには理由がある。どちらも共通の知人を介しての繋がりがあるのだが、ご両名ともすばるクリティーク賞を獲得されている赤井浩太氏と西村沙知氏(西村氏に関してはTwitterでの繋がりしかないが、いずれお話してみたい)の書く文章に、久々にブッ飛んでしまったのだ。赤井氏に関しては、既に2019年受賞作「日本語ラップ feat.平岡正明」(こちらは未読)がデビュー作だが、先日発売された同人誌『ラッキーストライク』におけるK DUB SHINE論は鮮烈だった。ヒップホップにおけるポリティカル・アイデンティティをあらかじめ喪われた「父」の問題をレフティに簒奪されるべく用意されたライトウィングの根城(フッド)の存在論に読み替える批評が、かつてあっただろうか?そしてその実際的な問題設定が、押韻にまで連結される手つきたるや見事である。西村氏に関しては2021年度受賞作「椎名林檎における母性の問題」をまだ読めていないが、クラシック音楽批評webマガジン『メルキュール・デザール』掲載の文章を数本読んで、思わず唸ってしまった。例えば、リゲティグリッサンドに対する「鋭角的」という表現やマーラー大地の歌』を「壊れ」とする表現自体には何の目新しさもないのに、西村氏がリゲティマーラーを語るときに思わずこぼす「間奏」、「内声」、「ドローン」といういわば「下部構造」への鋭い視線が、クラシック音楽を深く知る人間であればあるほど腹の底がひんやりするような納得感をもたらす。思うに、音楽批評とはボキャブラリの豊かさではないのだ。赤井氏がヒップホップのライミングの必然性はフッドをめぐる階級闘争の必然性であると語る切り口や、西村氏が現代音楽を快楽という視点を保ちながら自由になりつつ――それこそ「江藤淳蓮實重彦東浩紀」の磁場から遠く離れて――おそろしい響きに対して「この響きは、こわい」、面白くない響きに対して「この響きは、つまらない」と書きつけるデリカシー(注に付するまでもないと思いますが、このデリカシーとは極限的に肯定的な意味です)を、僕はまさに批評のコンテンポラリーであると思う。しかも、二人ともすばるクリティーク出身で、二人とも音楽批評であるという点に、共時性のようなものがある気がしてならない。そんなわけで刺激を得たものだから、僕も見様見真似をやってみようと思った。とはいえ、別に賞に出すわけでもないしブログで年間ベストにキャプションをつけるだけだから、「批評」になるわけでもなし、ただの感想文ですが、一応音楽評論は僕のルーツでもあったりするので、勉強の息抜きに書いてみます。

 

5位 グッドラックライラックGATALIS


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 この後に続く名取さな「アマカミサマ」も田中秀和、1位の月ノ美兎「ウラノミト」は広川恵一なので、「結局お前MONACAが好きなだけじゃん」と言われればそれまでなのですが、まあ数字上で実際聴いてると出ているわけですからね……。正直僕は吹奏楽部出身の割に和声の知識や音感の類が一切なく、オーギュメントがどうのこうのとか言われてもさっぱりで、「なんかエモい」「半音上がった」以外の感想が出力しづらいのだが、この曲はホーンをブリブリ鳴らしたり(Happy CloverPUNCH☆MIND☆HAPPINESS」)、変拍子を入れてみたり(灼熱の卓球娘「灼熱スイッチ」)という奇策に打って出ることはないものの、確実に田中秀和の手触りを感じる。田中秀和といえばオーギュメント(どうやらサビ頭でトニックとかいうので解決する拍にオーギュメントを持ってくるのが独特とからしい。なんも分からん)みたいなイメージがあるが、田中の強みは上に挙げた2曲の例に顕著だがオーケストレーションの妙にある。しかも、単純にコード上でぶつかる音を違う楽器で鳴らすとかいうレベルではなく、音選びが常に生々しく、厚みのある編曲で複雑な進行でも見通しがいいのがやはり圧倒的な才覚である(これは広川恵一にも言えるが、田中の編曲が往々にして音選びがグロテスクになるのに対して広川はつややかで艶めかしい印象を与える。「ウラノミト」でも言及するが、『アイドルマスターシンデレラガールズ』収録の「オウムアムアに幸運を」でも顕著なようにシンセサイザーの音の重ね方に広川は執心しているように思える)。「グッドラックライラック」は音像がグロくなることがなく、どこかはかなげな抒情美を湛えて「愛が咲き乱れてる」と歌いあげる美しさにおいて比類がない。留置所と精神病院から出てきてほぼ再起不能になっていたとき、どんなに実現不可能な夢でも、続きを聞かせてほしいんだと遠くから呼びかけてくれたこの曲への感謝は尽きない。ちなみに少しネタバレをすると来年5月に出る同人誌の僕の原稿のエピグラフはこの曲です。

 

4位 アマカミサマ/名取さな


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 「グッドラックライラック」が必要最低限の音数で構成されていたのに対し、ブリブリ鳴るベース、うねる電子音、多用されるキモいコードなど、「秀和劇場」ここに極まれりといった観がある。田中秀和の話は大分上でしたのでもういいとして、折角名取さなの曲なのだから名取さなの話をしよう。このランキングでも5曲中3曲がVtuber僕は本当に恥ずかしい人間です)であることからも分かる通り、Vtuberが歌ったり歌手デビューしたりすることはごくごく一般的な事例となっている。そういう意味で、2021年はVtuberの歌シーンに動きが出た一年だった。何よりも月ノ美兎がメジャーデビューし、普段の配信からも見え隠れしていた蠱惑的でエロティック(が、決してうまくはない)なヴォーカルが「ぼくのかんがえたさいきょうのさっきょくじん」によって魔改造され、彼女のファーストアルバムがドロップされたかと思えば、星街すいせいが『Still Still Stellar』、あるいはTAKU INOUEとがっぷり四つに組んだ「3時12分」でソウルフルなディーヴァとしての地位を確立し、そんなに話題にはならなかったが事情通の間で宝鐘マリンは「Unison」でフライング・ロータスやジェイムズ・ブレイクと肩を並べたとまことしやかに囁かれていた(嘘です)。翻って、名取さなである。彼女の声の強みは、「何もない」ことにある。月ノ美兎のエロティシズムも、星街すいせいのブラックな力強さも、宝鐘マリンのオーヴァーダブによる酩酊的な声の連鎖もここにはない。いつかオタク君が幻視したであろう、隣の席のやたらとインターネットに詳しい女子のファンタスムが「アマカミサマ」に浮かんでは消える。田中秀和のクセの強い編曲に対して「あ、秀和だ」と思わせる以上の感情を抱かせないという意味で、名取のヴォーカルの零度は極限に達している(褒めてます)。かの「さなのおうた」が感動的たりえたのは、名取が「普通に『いそう』な女の子」であることに徹していたからである。「アマカミサマ」は、プロが調理した虚無である。良い意味で。

 

3位 GOD SAVE THE わーるど/銀杏BOYZ


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 死ぬまで銀杏BOYZを聴き続けるのかという問いは誰しも(誰しも?)あるところだが、僕は少なくとも10年間銀杏を聴き続けている。親の声より峯田の声を聴いているし、ライブにも2回行った(ライブに行ったロックバンドは銀杏とキング・クリムゾンだけである)。峯田にはもう昔のような破れかぶれさはない。体力もない。ライブの最後の方は明らかにバテている。それでもマイクに食らいつくのが滑稽ですらある。それでも銀杏が好きなのは、峯田の内面が成熟していることが分かるからだ。「国道沿いのホテル/硝子のテーブル/ふたりで聴こっか/あのバンドのアルバム」という一行に喚起させられるイメージの豊かさは、アコギ一本で「朝立ち」を歌って「朝の光にあなたの顔が沈みゆく/まるで僕をゆるしてくれそうな/朝の光にたばこの煙が溶けてゆく/まるで僕の葬式みたいだな」と表現した若い峯田の感性から変わっていないどころか、いつか聴いたロックバンドのアルバムをかけるノスタルジーへと峯田は成熟していることの証左なのだ。「GOD SAVE THE わーるど」は祈りの曲である。「すべてのことが起こりますように」と願う彼は、「世界がひとつになりませんように」と願った彼でもある。銀杏を聴かない日が来るとしたら、僕が峯田の背中を追い越してしまった日だろう。メロディラインのリリカルな美しさは『ねえみんな大好きだよ』の中でも白眉である。

 

2位 Starry Jet/星街すいせい


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 宝鐘マリンがポリリズムのラフロードをガタピシ言いながら走る沈没寸前のレーシング・カーとするならば、星街すいせいは21世紀令和の日本に突如として現れたグランド・ファンク・クイーンである。……などという世迷い言を吐いては正気を疑われるかもしれないが、本当なのだからしょうがない。星街すいせいの配信には触れないことにして(というのも配信者としての彼女のことは僕は嫌いなので)、ここでうねるベースや炸裂するホーン、急き立てるようなスリリングなギターのカッティングを切り分けて登場する彼女のヴォーカルは異常な熱気とヴィヴィッドさである。清竜人25岡村靖幸の再解釈をいささか突飛な形で成就させてしまった後、J-POPにおけるファンクはKing GnuOfficial髭男dismにメジャーストリームでは吸収され、海の遥か向こうではThe 1975が「白人ロックにおけるダブとファンク」の再構築に四苦八苦している最中に、Vtuberがいともたやすく現代ファンクの再解釈を成し遂げてしまった。「3時12分」では「ポップス」という表現が持つ前衛の極北みたいなことをやっておりこれもこれでかなりビックリするのだが、「Starry Jet」はかつて東京女子流が『Limited Addiction』までやろうとしていた「アイドルファンク」(なんじゃそりゃ)を2011年から10年の時を経て推し進めた風さえあり、アイドルポップスのみならずポップスを聴く者は『Still Still Stellar』は必聴。「Je t'aime」「Blue rose」も逸品(一方でただのアニソンみたいな曲はあるが)。そもそもファンクとはなんなのか、バーケイズやJackson 5まで遡らなければいけないのか、みたいな議論は置いといて、夜空を駆けるストリームに思いを馳せよう。

 

1位 月ノ美兎/ウラノミト


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 ポップスにおけるエロスとは何かを知りたければ月ノ美兎のヴォーカルを聴けばよい、とはele-kingにも書いてあることですが(書いてません)、名取さなの朴訥さ、星街すいせいのねっとりと伸びて黒光りする声質とも違って、月ノ美兎の「声」は淫靡としか言いようがない。メロディラインがエロティックだとかいう話とは違って、物質としての「声」の現前がたまらなく性的だということである。配信中にくだらない下ネタでけらけらと笑う彼女も、「どっちを選んでも ひとりの女 ひとつのカオス」と歌い上げる彼女も、その「声」の磁場に囚われ、そしてこちらを捉え返そうとしてくる。一度月ノ美兎の「声」に魅入られた者はその磁場から離れることが困難になり、「ウラノミト」全体を支えるバカテクベースやクリーミィなシンセサイザー、丁々発止のドラムが作り上げる艶やかで色彩的な音空間から逃れることはできない。この記事を書いている丁度今日(日付変わって昨日)、キズナアイの無期限休止が発表された。Vtuber界「第一の」パイオニアが事実上の引退を告げ、5年の歴史に新たなピリオドが打ち込まれる。ここからは月ノ美兎の世紀が始まる。月ノ美兎は、そのトーク内容や企画の目新しさによって上り詰めたのではなく、「声」によって上り詰めた。「ウラノミト」は月ノ美兎の持つ「声」の特性を活かすべく、広川恵一の偏愛的なまでにジャジーで陶酔的なサウンドメイキングがなされている。「オウムアムアに幸運を」で女性ユニゾンに対するシンセサイザーのぶつけ方はELO的なそれであったが、「ウラノミト」は面ではなく線の絡まり合いによって音が立ち上がっている(これで言えば宝鐘マリン「Unison」は完全に点である)。『月の兎はヴァーチュアルの夢をみる』は、アルバムとしては正直いまひとつである。それぞれのクリエイター陣がそれぞれに個性を出しているので、アルバムとしてのコンセプチュアルな統一感には欠ける。しかし、表題曲からの「ウラノミト」の流れは、ほとんど奇跡的なまでの10分間であることを約束しよう――ヴァーチュアルが見せる、ひとときの淫らな夢の奇跡。

 

 なんだか結局散漫になってしまった……。思うに、音楽批評というものは、音楽を批評するのではなく、音楽に反照する意識を相対化することであり、その相対化の手段に政治や歴史が絡んでくるのだろう。「ベスト〇〇」では趣味の偏りが出るのは当然だし(一時期映画を年100本以上観るのをノルマにしていたことがあるが、そういうのは別)、結果的に田中秀和Vtuberの曲が多くなってしまうのは致し方ない。西村氏が批評を書くということについて「経験が言葉に落ちてくる」と表現していたが、僕は比較的経験が言葉に落ちてくるのが早いというよりかは、経験を言葉にするのに慣れてしまった。それはあまりよくないことだと思うし、言葉ありきで経験があるのではない。思わず涙してしまうとか、鳥肌が立つほどかっこいいとか、そういうのの方がよほど重要だとさえ思う。

 音楽批評が何故今ホットなのか――これは私見だが、音楽は一定の圏域で共有可能なグランドセオリーなのだ。人文・社会系の学問を例に取れば、「プルーストが専門です」「ハイデガーの現存在を研究しています」が「オシャレ」で「カッコいい」時代というのがあって、それは僕より少し下の世代で最後だと思う。さらに下の世代になると、ケアの倫理やジェンダー論、セクシュアリティをやるのが「オシャレ」で「カッコいい」という風潮になる。何も「オシャレ」で「カッコいい」から学問をやるのが悪いわけではミリもなくて、僕だってアルチュセールやルソーを読むのが「オシャレ」で「カッコいい」と思っている。その美意識や価値観というのは、小さい頃にポケモンやモンハンを輪の中に入ってやっていたかとか、電車に乗れば渋谷や新宿に出ることができて最新型のゲーム機を買ってもらえてたかとか、それこそCDを必死こいてiPodに入れる必要もなくサブスクで音楽が聴けてしまうとか、そういうのだと思う。だから、今の19~20歳ぐらい(「Z世代」?)は速度という点でダントツである。共有していたグランドセオリーがない子たちなのだ。だから、彼ら彼女らは速度を求める。「初音ミクの消失」よりも速いBPMで、音ゲーの鍵盤を無表情で叩きまくる。僕らや僕の少し上の世代はギリギリレディオヘッドを皆(皆?)聴いていたし、ビートルズを聴いていなかったらバカにされたし、学校の放送で銀杏BOYZを流した。大して好きでもないRADWIMPSの曲は24の今でも大体口ずさめる。音楽は郷愁であり、未来である。菊地成孔が『粋な夜電波』で「音楽には過去の時空と未来の時空が同時に流れ込んでいる」と言ったが、まさにそういったわけで音楽はひとつの背景なのだ。Z世代の彼らは、ボーカロイドを聴き、煙草が吸えなくて当たり前のファミレスでミラノ風ドリアを平らげ、Vtuberに恋をする。別に僕はそれでいいと思う。いつしか我々も淘汰される日が来たならば、老人ホームで爆音でAC/DCを聴きながら踊り狂って失禁するまでのことである。「批評」は、死にゆくもの、既に死んだものを取り返す作業でありながら、その作業自体がつねにすでに過去のものになることに自覚的であることを強いる。音楽批評は、来たるべき我々の葬礼への序曲なのだ。いずれはZ世代や後の世代に葬られると知りながら、自らの体験や現象に意味や形を与えること。そしてこれはちょっとした僕の希望なのだが、未来にある「現在」に、そっと「過去」を忍ばせるような形で我々から彼らに手土産を渡せたら、秘伝のタレみたいに継ぎ足し継ぎ足しで音楽に限らず批評の「伝統」というものができるのではないだろうか。結局、草の根の我々にできることは「現在」を記述することである。その年の再生数が多かった曲に簡単なコメントをつけるぐらいの簡単なことから、何事も始まるものだ。