思考停止

映画、本、音楽、など

われら主体を待ち望む――Vtuberとイデオロギー的再認、還元不能な場所で――

  本文は筆者の所属する哲学・批評研究会のサークル誌に寄稿した文章です。文フリでの頒布もないようなのでこちらに供養します。南無三。


Numero.0. 嘆きの壁

 ああ!今まさに私の愛していたインターネットが音を立てて崩れ去っていく。何がハーバーマスの公共性だ。それは間違った形での「グローバリゼーション」の逆張りを二回やって元に戻ってしまったようながんじがらめのタコ糸みたいな形で誤解に次ぐ誤解により、コロナウイルスがどうか[1]というより見えざる「アジール」の説得力そのものが目の前で蒸発していく。知らない人が知らないままに知り合う偶然性はまさに面白くもなんともない「相互フォロー」や「友だちリクエスト」によって必然化される。デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャル・ネットワーク』(2010)のラストシーンで元カノに「友だちリクエスト」を迷いながらクリックすることはジジェク風に言えば[2]ザッカーバーグは「落ちる」ことを拒否した結果なのだ(冒頭の口論のシーンで彼女に「あんたがモテないのは容姿でもオタクだからでもなく、気持ち悪いからよ」と言われて立ち去ってしまう彼/彼女らの関係性は、果たして「落ちた」結果として始まったのだろうか?)。『ソーシャル・ネットワーク』で扱われるFacebook、あるいはTwitter、各種ブログサービス、最近ではそれこそ注2のようなTinderやPairsなどといった「マッチングアプリ」をソーシャル・ネットワーク・サービス(以下SNSと略記)とひとまとめに言ってよいのであれば、「インターネット」と昔呼ばれていたものの範型はもはや適用できないし、のちほどこの紙上で言及するルイ・アルチュセールが哲学・精神分析・社会思想に基づいて練り上げた「イデオロギー(一般)」なる概念としてSNSを把握することは不可能寄りの困難であるとさえ言える。

先んじて言ってしまえば、Numero.1から展開する「バーチャルYoutuber」(以下Vtuberと略記)をほぼ絶望的な形で解釈可能であるという本稿の主題は、「Vtuber」の閉塞的な内宇宙(インナースペース)空間がアルチュセールイデオロギーによって解釈可能な部分と解釈不可能な部分(場合によってはこれを「還元不可能なもの」や「過剰なもの」と呼ぶ場合がある)に取り分けられるのではないか、という試論である。当然、「なぜVtuberなのか」という疑問は出て然るべきである。上に挙げたような各SNSは、「概ね」という枕詞が通用しない程度に一つのカルトといくつかのスラングに還元できなくなっているのが実情である。2000年代に流行したスラングの意味が変化したり、また新しいスラングが出てきては使い古される、快不快の如何関係なしにシニフィエなきシニフィアンが執拗に反復される事態[3]がインターネットという主体――この「主体」は無論アルチュセールにおける大文字の〈主体〉であるのだが――の内部でなされずに代謝運動されたりすることによって(文字面だけを借りる浅はかな引用を許してもらえるのであれば)手紙は必ず届かない[4]、とさえ言えてしまうだろう。あるいは届いた手紙は言葉をあなたは語義通りに読むことが難しくなっている可能性もあるので認識できたとして読めないとも言える。

 Vtuberという存在自体が、2017年の勃興期から2020年において3年強で目覚ましい進化を遂げたことに異論はない。と同時に、「誰でも」Vtuberになれる時代になった――2018年時点のAnimoji、ミラティブ、など――機材など揃えなくても、アプリでアバターを作って配信ボタンを押せばよい。今後名前を出すことになるいちから株式会社の「にじさんじ」、カバー株式会社の「ホロライブ」のオーディションに受かればブーム次第で半年で五千万以上の稼ぎを得ることもできる。「キズナアイ」(upd8)や「ミライアカリ」(元ENTUM)が動画によって、言わばキャラクターのロールプレイ(以下RPと略記)と「Youtuber」のロールプレイを二重で行うことが一つの起算点であったと言えるが、それではにじさんじ台頭以後の「生配信」による「Vtuber」とは一体何だったのか?キャラクターのRPを放棄し、キャラクターの絵はときおり動かず、やっていることは大抵雑談かゲーム配信である。何がこれをよしとしているのか?陳腐かつ説得力に乏しいVtuberに関する言説は大雑把に分けて二つほど存在する。一つは「偶然性(必然性)による擬似的な恋愛関係(異性・同性関わらず)のほのめかしを眺めて満足する『オタク』に欠落した経験の穴埋め」であり、もう一つは「Vtuberの延命として学問を適用する手段」である。前者は被害を人に与えなければ無害である一方、過剰なキャラクターへの転移[5]が引き起こす感情の反転は直接的に有害である可能性がある。後者は2018年7月号『ユリイカ』でVtuber特集が組まれて以降、難波優樹(分析美学/倫理学)や服部恵介(社会学)などの研究者がこぞって自らの学問分野からVtuberを批評対象とすることに屈託がなかった。さて、彼らの議論が果たして「Vtuberに」というより「Vtuberを観る人に」どれだけ影響があっただろうか?「なぜ」批評対象がVtuberでなければならかったのか?その必然性の提示なしになされる議論は、空転するばかりである。

 ああ!私のインターネットが音を立てて崩れ去っていく――その大きい壁がなすすべもなく崩れ落ちるとき、ギリギリで踏ん張る「Vtuber」は我々の青春の蜃気楼か、もしくは汗びっしょりで目覚める寸前の悪夢の断末魔か。本論はあくまでもVtuber論であり、必要に応じてアルチュセールイデオロギー概念を適用し、形而上的なものやアクチュアルなもののどちらかに過剰に肩入れすることなくVtuberイデオロギーの「なかにいる」のではなくイデオロギーそのものであるということを示す。そして、これはアルチュセールにせよVtuberにせよ、適用不可能な事象や示し得なかった何かが最も重要であることを銘記しておく。

 

Numero.1 かつてインターネットが「きみ」と「ぼく」だったころ

 アラン・バディウ『愛の世紀』にでかでかと掲げられている「愛とは最小単位のコミュニズムである」という、いくら小さい本とはいえあまりにも雑な要約と惹句は、しかし「コミューン」――それはシャルル・フーリエの「ファランジュ」よりもいくばくか経済的(エコノミック)な概念――のあり方として、非常に現代的でロマンティックな言い回しである。モノガミーを前提とするならば、愛のあり方においては「二人であること」、すなわち「きみ」と「ぼく」以外が世界から消えてなくなってしまうことが条件である。具体的な作品を取り上げるならば、何度も批評の対象として、あるいは決して牽強付会ではない精神分析的読解を可能にした作品として『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』(庵野英明、1997)が挙げられる。『エヴァ』批評ではないので詳細な言及は避けるが、二つのシーンだけ取り上げよう。そしてこのシーンはコミューンの二つのあり方の存在可能性を示唆している。そして、どちらかがどちらかに接続してしまうことでコミューンが失墜してしまうことは、世紀末において想定されていなかったことでもある。

 逆行しよう。第26話「まごころを、君に」の最終場面で、碇シンジ惣流・アスカ・ラングレーの首を絞め、アスカに頬を撫でられ落涙しているところを「気持ち悪い」と言われ映画が終わる有名なシーンである。補足的な物語の説明をすると、「人類補完計画」で目論まれていた人類の統一(いささか性急なアレゴリーだが、世界精神/絶対精神が歴史の終わりにおいて実現されるヘーゲル全体主義[6]、あるいは結末におけるその否定としても考えられる)において鍵となっていた碇シンジの「きみ」の希求である。精神分析における〈他者〉Autreとしての機能をアスカに指摘する前に、「セカイ系」――文芸評論家の前島賢[7]によれば「主人公とその恋愛相手とのあいだの小さな人間関係が、社会や国家のような中間項を挟むことなく、「世界の危機」、「この世の終わり」といった大きな問題と直結するような想像力」といったような――特有の「ぼく」内部で生起する自己同一性の反復が破壊されていること、つまり「主体」と呼ばれるべきものがあらかじめブッ壊れているという事実は、『エヴァ』批評の中でも等閑視されてきた(アスカの「絶対的他者性」ばかりが言及されている)。次章で詳細に検討するところのVtuberアルチュセールの交錯点は、この「壊れた主体未満の主体」碇シンジを前提としなければ乗り越えられないものとしてある。先んじて述べるのであれば、経済(プロレタリアでもブルジョワジーでも構わない)を担う主体は、生産様式とは別のところで主体が主体を基礎づける――再認を反復する。そういった意味で、碇シンジには承認があっても自己再認がないため、「ある条件のもとで」主体として成り立っていない。その「ある条件」とは、アルチュセールが定義するところの「イデオロギー一般」であるが、それは後回しにしておこう。であるが故に、再認なき承認の主体碇シンジに対してアスカが完全に他者であることもまたない。「首を絞めて嗚咽する」、再認の反復が主体の中で起こっていないが故に承認を欲求する形がいびつなシンジの頬を撫でながら「気持ち悪い」と呟くアスカは、分析主体と分析家のような断絶はなく、まさに上に挙げたような「転移」が「きみ」と「ぼく」という最小単位のコミューンのうちで起こってしまっているのだ。そこには前島的な「セカイ系」定義の「コミューンから世界、世界からコミューン」のような反復は存在しない[8]

 これの拡張した形、ある種の「人類補完計画」のアレゴリーでもあり、また絶対的な差異を伴う範型としてその前の実写パートで匿名掲示板に「庵野死ね」の書き込みが映されるショットが一瞬挟まれる。『エヴァ』の監督に対する誹謗中傷であるが、ここでは「庵野死ね」という内容が重要なのではない。異なったユーザーが一斉に同じ書き込みをしている様が映画の中でショットとして組み込まれていること、これがこのシーンの最も大事な部分であり、なおかつ配信型Vtuberとリスナーの関係性を示唆する、即ちアルチュセールイデオロギー範型の応用がインターネットにおいて示されていることを早い段階から映像作品で示したという点に大きな意義がある。つまり、「アスカとシンジ」=「きみとぼく」の関係性はここで既に壊れている。映画におけるキャメラは常に単数である。ブライアン・デ・パルマピーター・グリーナウェイが映像をレイヤードしたところで、そのキャメラの絶対的単数性=一人の語り手、ここにおいて「ぼく」の担い手であることには代わりがない。しかし、その被写体、つまり無数の「庵野死ね」は「一見」複数だ。それぞれ違うユーザーが違う時間に、「同じ」書き込みをする。それでは、この書き込み自体に、人称性、「あなた」、「きみ」、「彼」、「彼女」、といった形で「呼びかけ」ることが一体どの程度まで可能だろうか?それは絶対に不可能であることこそ、「インターネットが「きみ」と「ぼく」だったころ」なのだ。この夥しい罵詈雑言は実際にあるものではなく撮影用に作られたものだが、書き込みを見ている「ぼく」、そして書き込みをしている「きみ」。「きみたち」ではない、何故なら「名前を呼ぶ」ことによって呼びかけられないから。名前による責任から「きみ」も「ぼく」も逃れ出ているから。匿名の掲示板における「アンカー」でさえも、その限りではない。もちろん書き込みをする「ぼく」はかけがえがなくても、それを見ている「きみ」である「ぼく」にとって書き込みをする「ぼく」は「きみ」でしかありえない。そこには特異な主体形成もなく、言葉(=シニフィアン未満のレットル)だけが人称性を外れてどこか誰かの「きみ」に届く。だから、末尾のシンジとアスカの関係性は、この「ぼく」だけに対して(キャメラによって保証された人称性)無数にして単一の「きみ」を映す一方的「断罪」、即ち否認による自己同一性の再認の主体を示すではなく、自己なき承認の主体未満の主体がアスカという「きみ」ではない「誰か」を担保するという形となっている。前者はイデオロギーであり、後者はコミューンでもアジールでもない。しかし、Vtuberイデオロギーは、無数の主体を絶えず再生産し続けるという意味において、いまや最も恐ろしくグロテスクなプラットフォームと成り果てている。

 

Numero.2 置いてきた感傷とイデオロギー:Case. Vtuber、卯月コウ

 Vtuberについて深く掘り下げる前に、ここで用いるアルチュセールイデオロギー概念[9]の性質と機能をごく簡潔に瞥見しておこう。いわゆる「集団的無意識」(ユング)のようなものとは決定的に異なり、「イデオロギー内部/外部」が存在する。「外部」は下部構造、即ち経済に基づいている。そこでは財の交換、あるいは資本主義社会においては労働力の搾取が行われる。「内部」においてイデオロギーが事後的に言及可能となるのはそれを可能にする装置――国家、学校、教会、メディア、などなど――において身体的儀礼(例えば教育イデオロギー装置である学校での「起立、気を付け、礼」などがそれにあたる)によって儀礼を可能にする〈主体〉の機能から自らを諸主体として再認する。この後議論を深めていくにあたって重要となるのは、権力の所在が少なくともイデオロギーの問題においては二次的である、ということである。権力は主に〈国家〉に代表される上部構造に属し、アルチュセールはかなり俗なフーコー理解で言うところの「パノプティコン的規律権力」のような相互規定的権力作用を想定していない。〈国家の抑圧装置〉が〈イデオロギー装置〉を上部構造から規定し、利用する場合もあるが、必ずしもそうではない。最も重要であるのは、イデオロギー内部では主体が二重化されているという事実である。諸主体sujetsと〈主体〉«Sujet»の二つである。生産様式における労働から教会(宗教イデオロギーの内部)に移ったとき、生産様式である個人はイデオロギーによって主体となり、それを可能ならしめるのは〈主体〉である。分かりやすく言えば、個人=潜在的主体であり、なおかつその潜在性を現働化しイデオロギー装置内での身体的儀礼を可能にする機能を〈主体〉が負うという形になっている[10]。今後繰り返し言及する「再認」、あるいはその反復という主体自身が意図的でない形で発動する無意識[11]な機能がアルチュセールイデオロギーの最も重要な例である。

 Numero.1では『エヴァ』における「きみ」と「ぼく」の関係性のアンビヴァレント、アスカとシンジ/匿名掲示板とキャメラの関係性から二人称的コミュニズムが成り立つことの困難(注8において言及した舞城もそこに含まれるのであれば)を示した。では、もうインターネットにおいて特権的な場所、即ち無意識的で限りなく想像的イデオロギーアジールが生起することはないのだろうか?

 ここで、一人のVtuberを取り上げよう。2018年6月、「にじさんじSEEDs」の一期生としてデビューした、「卯月コウ」というVtuberである。公式説明文には以下のようにある。

 

「有名企業のCEOを父に持つ育ちの良いお坊ちゃん。イギリスと日本のハーフで近寄りがたく思われることを気にしている。無愛想でツンとした印象だが、心を開くと年相応の男子中学生。」[12]

 

 完全に嘘である。卯月はVtuberにおいてはときとしてセールスポイントであるロールプレイを完全に放棄して、「納豆ASMR」と題した配信[13]ではバイノーラルマイクで無言で納豆を食べ、「バズる」(TwitterYoutubeで話題になる)ことを全部やればバズるのかという企画では激辛ペヤングを食べて米津玄師の「シャルル」を歌いながらPUBGをやる[14]、または「男性ライバー配信終わったら全員これやってるからな」「疲れてなくてもASMR聴いてもいいだろ!パトラ!」という名言を頻発しながら違う事務所のVtuberのASMRを聴きながら奇声を上げる[15]、麻薬や覚せい剤の隠語を連呼して絶叫する「鍋ラップ」[16]など、かなり尖った芸風で爆発的な視聴者の伸びはないものの、根強くカルト的な人気があるVtuberである。本稿は卯月コウの面白さを伝える意図では書かれていないが、この後に集中的に紹介する配信にも通底するものとして「劣等感の情緒的(あるいはエキセントリック)な発露」が彼の場合問題となる。「ペヤングシャルルPUBG配信」などはそのエキセントリックな面が分かりやすく出た配信ではあるが、当時激辛ペヤングを食べてリアクションすることや「シャルル」の「歌ってみた」(これは実況者含む)がVtuberの間で流行っていたこと、PUBGは本人がのちに語っていたが「陽キャしかやらないゲームだと思っていたので組み合わせることで馬鹿にする意図があった(が、今はそうではない)」など、逆張りのみでは済まない卯月コウ本人が持つひねくれたコンプレックスというものがある。

 何故卯月コウがイデオロギー的存在と言えるのか?答えは単純で、Youtubeliveのチャット欄やコメント欄を巻き込む形で[17]、彼自身が配信を行うことによって――逆張りの炎上にとどまらず――「卯月コウ」の再認の反復を行っているからである。しかも、Youtubeというプラットフォームでしかできない形で、リアルタイムでもアーカイブでも可能な形で行い、卯月の再認による主体の反復というものが視聴者においても起こっていること。卯月コウが行う反復に、一元的なジャンル(オタク、陰キャ、キョロ充、本好き、など)に回収しえない人々がなんらかのものを喚起させられてしまい、卯月コウに同化すると共にリスナー「とは違った」主体である自らを発見し、再認し、反復すること。それは卯月コウそれ自体が〈イデオロギー装置〉なのではなく、Youtubeの〈装置〉性(必ずしもイデオロギー装置ではないが、その要素はある)から事後的にプラットフォームを純粋〈装置〉化し、イデオロギーの「内部」における共同体でも連帯でもない主体の一つ一つの集まりを可能にしている、ということである。

 一つ、卯月コウの配信で本稿で彼がなぜイデオロギー的存在であるかについて取り上げなければならないものがある。2018年7月26日に配信された「ネットに本名と顔と恋愛を晒し秒速で全てを失った中学生の配信」[18]である。これだけ見ても意味が分からないのだが、要約すると数日間かけて個人Vtuber「神楽めあ」と付き合って別れる一連のコントの末尾に当たる配信である。注に付した「ラジコン」「スパナ」で意図的に「きみ」と「ぼく」の関係性を演出する卯月コウはクレバーではあれど、イデオロギー的存在と必ずしも言えるわけではない(インタラクティブであることが必ずしもイデオロギーの一様態に含まれているわけではない)。しかし、一連の流れが単なるコントであったとしても、この配信の卯月コウには明確に「内部」がある。

 

「二次面接落ちた?いいねぇ!幸せの中にエモ[19]はねえよ、言っとくけど」

「いっぞ[20]……いっぞ……俺は陽キャ……」

「俺には……泣きつくしか、泣きつくしか残されてなかったんだ」

 

この言葉でファン(リスナー)が要求されていることは、果たして連帯感だろうか?陰キャ同士が肩を組むホモソーシャルだろうか?はたまた演出された(?)卯月コウの悲哀だろうか?恐らく、そのどれもが間違っている。「二次面接落ちた」というリスナーの言葉に「幸せの中にエモはない」と言った後に、恐らく「キッチュな」幸せ像として軽蔑しながらもたどり着けない「陽キャ」に憧れ、最後は(コントだが)同期に泣きつく、この卯月コウは、「卯月コウ」であって、「誰か」ではない。空虚なシニフィアンである。であるにも関わらず、この一連の流れを「理解できるもの/できないもの」、つまり内部と外部に分けて内部の無産性を強調する卯月コウというVtuberは、アルチュセールの字義通りに、「イデオロギー」を体現してやまない。卯月コウのリスナー「コウボーイ/コウガール」が無意識に卯月コウに埋没し、卯月コウが自らを再認する様をさらけ出す「内部」に触発されて彼/女らもまた自己反復的に卯月コウのもとで主体を反復する。卯月コウは〈主体〉ではなく、リスナーも諸主体ではない。そこに〈主体〉=神はいない、か、むしろすべての人々において二重化されている。その反復にこそ、Vtuber、少なくとも卯月コウがイデオロギー的存在である所以がある。

 

Final. 「黙ったままでいるんだ」の重みのもとで

 さて、本稿を締めくくるに当たって、語り得ないことがある。アルチュセールイデオロギー的主体の可能性、あるいはその範型は、卯月コウにのみ適用可能というわけではない。例えば、女性Vtuberの圏域における経済的問題においては下部構造、つまり男性のそれにおいては曖昧なままにされていた問題が露見することになる。そこにおいては卯月コウ以上に虚しいシニフィアンと化し、反復なき自己承認もまた、見て取れるだろう。それは「きみ」と「ぼく」の破綻以上に、インターネットのプラットフォーム全体の領域において二人称的なものの崩壊が間近であることの証左に他ならない。一は常に「ぼく」であり、全は常に「きみ」足り得た。この事実は今や覆しようのないところまで来ている。アルチュセールイデオロギーにおいて上部構造である〈国家〉さえもイデオロギーであるが故に、〈国家〉転覆から生産様式(外部)を変革すること、つまり革命は可能であると述べた。しかし、外部に出たところでイデオロギー内部における階級闘争――「きみ」と「ぼく」の――は免れ得ないし、「絶対的外部」などというものは存在しない。昔のインターネットはそうだったのかもしれない。しかし、出口(イグジット)はない。今や外部という内部がマトリョーシカのように無限に包摂され続ける。ああ、今や我々の望むインターネットなど、ありはしないのだ。

 だが、悲観的になる前に、少し待とう。即ち、来たるべき主体。到来する主体。相互=自己再認を促し、我々をもう一度奮い立たせ、外部なき外部においての負け戦に勝つための武器を与えてくれる主体を。Vtuberには、一縷の望みがある。彼、彼女らは、思考するかのように話す存在だ。昨日食べたご飯の話から、「私たち哲学的な話してるね」という内実はあまり哲学的でないがハイデガー的に言えばまだましな巷談まで、とにかく何でも喋る。喋る喋る喋る。その「おしゃべり」こそに価値がある。そしてそのおしゃべりにおいて彼/彼女らが沈黙したことに、外部なき外部で、Vtuberを消費する/したことに意味を持つ輝かしき瞬間が訪れるのを我々は待たなければならない。その輝かしき瞬間は秘められている。理論の範型の外の、配信が終わった後の、ひそやかなものを待ち望みながら。

 

[1] ミシェル・ウエルベックコロナウイルスに対して表明した見解(https://www.francetvinfo.fr/sante/maladie/coronavirus/coronavirus-pour-michel-houellebecq-le-monde-d-apres-sera-le-meme-en-un-peu-pire_3948117.html)はこの公共性とやらが消失「してしまった」のではなく最初から「そんなものはなかった(あったとしても同じようなものが少し悪くなるだけ:sera le même, en un peu pire)」と主張するものであった。確かにそうかもしれない。問題は――ウエルベックも指摘していることだが――「少しずつ悪化していく世界」は悪意あるイデオロギーの分断によってなされているということである。グローバリズムが息絶えても新たなグローバリズムが資本主義の再生産によって行われるように。

[2] 哲学者のスラヴォイ・ジジェクは10年以上前から(なぜか)Youtubeで短めの動画を上げており、彼が重要視する愛のテーマについては(ひどい訛りの英語なので字幕をつけないと何を言っているか分からないが)彼の得意とするネオマルキシズムラカン精神分析の換骨奪胎的な手法を使わず、「偶然的かつ必然的な出来事(the love event)」であって「出来事に落ちること(falling)」は「今の状況ではより難しい(more and more rare)」と認めている(「恋に落ちること」URL先1:30前後)。これは別の動画「愛について」でマッチングアプリによる恋愛という出来事の必然化を否定すること(ジジェクは愛とは「あなたの人生を誰かのために性的自由などを捨てて全て捧げること」と言っている――この点がジジェク精神分析解釈に多くのフロイディアンやラカニアンが疑義を呈する箇所でもあり、「古風なロマンチスト」ジジェクの葛藤でもある)という発言とのオーヴァーラップも見られ、親交のあるアラン・バディウが『愛の世紀』で「ミーティック」批判(当時欧米で流行ったマッチングアプリ)をしている点からもジジェクバディウは恋愛を「出来事(événement)」という形で倫理の彼岸において生起するものと捉えているという点で柿並亮佑「非恋愛論」で確認できるナンシーやレヴィナスの愛の存在論的挫折と決定的に異なる点である。柿並(2017)は以下による。『人文学報 首都大学東京人文科学研究科 特集:ジャン=リュック・ナンシーの哲学の拍動』、人文学報編集委員会編、2017年、121-151頁。

ジジェクの動画:https://www.youtube.com/watch?v=rrxk2WzrE14「恋に落ちることの我々の恐れ」/https://twitter.com/jo2geor2/status/1272174485077028864「愛について」

[3] 厳密にはフロイトの「反復強迫 Wiederholungszwang」概念をシニフィアンの領域における反復として把握するラカンの「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(『エクリ』)冒頭の言い回しをもじっており、主体の想像界から象徴界への介入において無意識の外在性を担保するのはシニフィアンであるので「シニフィエなき~」という言い回しはバルトのそれに近いためラカン的には定義自体が違う。ただし、「シニフィアンの無意識下における執拗な反復」の最も重要な役割は言葉による主体自身の再認=承認(reconnaître)であるが、「反復だけがあって永遠に承認が先送りされるという事態」をSNS的な〈主体〉再認の欠落と指摘可能であると同時に、アルチュセール精神分析の応用で行った手立てがシニフィアンの反復とは違う再認ではないことが本稿でVtuberを考える上での指針となりうる。

[4] デリダラカン批判「真理の配達人」に同じ表現があるが、ここではデリダの言う存在論的誤配の意図はない。確かにSNSにおけるシニフィアン=レットルの誤配はあるものの、デリダの言うそれではない。

[5] フロイトの概念。転移(Übertragung)の説明は『精神分析学入門』では治療の過程で起こるのでどちらかと言えばアルチュセールフロイト博士の発見」による「二つの主体の特殊な関係」(220頁)の意義を負っている。

[6] これは『精神現象学』より『歴史哲学講義』の方がヘーゲル全体主義を明確に示している。

[7] 前島賢セカイ系とは何か』星海社文庫、2014年。

[8] 例えば、舞城王太郎の名前を出すことは適切であるか。『好き好き大好き超愛してる。』(講談社文庫)における「きみ」の複数性が単数性に帰着し、「きみ」と「ぼく」ではなく、「きみとぼく」という癒着した形で小説という「セカイ」を愛によって救済する、という試みはセカイ系の拡張として考えることもできる(そして『好き好き』の「きみ」と「ぼく」の関係性は全てのエピソードにおいて挫折している)。そして『好き好き』的な(比喩としての)コミュニズムもまた現代において破綻している(成立しえない)のだ、という点を指摘するにとどめておこう。

[9] アルチュセールは「イデオロギー」を「~一般」と「諸~」で使い分ける。基本的には前者がアルチュセールのものであり、後者はマルクスのそれを指す。本稿は『再生産について』(1969)12章のイデオロギー概念を軸とした解釈となっていることを念頭に置かれたい。

[10] 個人、諸主体、〈主体〉はアルチュセール研究の中でも議論が錯綜している。〈主体〉=神としたり個人と主体はオーヴァーラップしないとしたりする見方(野見2017, 2019)や〈主体〉を精神分析で言う大文字の〈他者〉とする見方(Butler1997)など。ここではどちらの立場も取らず、筆者の卒業論文における主張をまとめている。

[11] ここにおける「無意識」についてアルチュセールフロイトに言及している。しかし、本文では関係ない「無時間的」というイデオロギーの作用が並列的に述べられている。これはマルクスに対する「否定の否定」であると同時にハイデガーから影響を受けていたラカンが無意識に言及する際の「前存在論的」という形容から着想を得ていると思われる、という点のみ指摘するに留めておく。

[12] https://nijisanji.ichikara.co.jp/member/kou-uduki/

[13] https://www.youtube.com/watch?v=yh3mubptFIc&list=PLNaCJoxxu9qVpo16AIN78opR1KBivoygb&index=2

[14] https://www.youtube.com/watch?v=Zzo-JyG42EE

[15] https://www.youtube.com/watch?v=NV0BEFV9dNk

[16] https://www.youtube.com/watch?v=NwRkuDZmduM&list=PLNaCJoxxu9qVpo16AIN78opR1KBivoygb&index=4

[17] 紙幅の限界上紹介できなかったが、「スパナ雑談」や「ラジコンシャドウバース」などがある。

[18] https://www.youtube.com/watch?v=Sxi9orVEuHQ&feature=youtu.be&t=681

[19] 俗語なので定義不良だが、卯月コウが言う場合ネガティブな感情の中の情緒的な心の動き、という程度の意味で使うことが多い。

[20] 「いっぞ」は卯月コウ配信初期に言っていた言葉で、「行くぞ」の意。配信開始時にファンがコメントしたり本人が合言葉として使用したりするなどしてこの配信時点から今までほぼ無意味な言葉になっている。

精神疾患患者から見える世界――「わたし」を保証するものの失効

・はじめに:見えざる「欠落」の問題

 友人と楽しく酒を飲み、山手線の終電より1時間早い電車に乗る。携帯を見ながら、少し酔っ払った頭でTwitterの文字列を追う。乗り換えの駅が近づいてくる。ふと、「自分」と呼ばれている意識とは違う意識がどこかで作用しているような感覚に「落ちる」。「離人症」と呼ばれる現象である。動悸が激しくなり、暑い季節であるということを差っ引いても、冷や汗、脂汗が止まらない。乗り換えの駅に着いたときには手足の震えが止まらず、酒を飲むと離人感は比較的収まるため、手元のウイスキーの小瓶を直で呷る。動悸が鳴りやまず、息は胸元で圧迫されているようで、水に溺れているように苦しい。駅員に助けを求める。私は財布に保険証のコピーと親が書いた私が精神疾患者であることを示すメッセージカードを常に携帯している。意識の線が途切れそうになりながら、「私は精神障害で、障害者等級3級の障害者手帳を持っています……」以降は無意味な文字列である。駅員の返答は、「申し訳ありませんが、身体障害者以外の方は乗車に問題がないこと、またお酒を召されていますと救護室にもお通しできません」とのことだった。

 私は、自分の病と付き合って、今度の11月で丸4年になる。精神科にもほぼ毎月、酷い場合は毎週欠かさず行っているし、段々自分の病の輪郭が明らかにはなってきている。しかし、病名の判断には3年を要した。下った診断は、主な障害は双極性障害(ⅠかⅡは主治医に明言されていない)、副次的障害は自我障害、パニック障害発達障害ADHD)の三つ。3年を要したのは、双極性障害における躁鬱混合状態と自我障害による思考奔逸/途絶が統合失調症との判別を困難にしており、偽神経症統合失調症(汎神経症)あるいは非定型型精神障害(いわゆる「ゴミ箱診断」)として対症療法を行うよりなかったからだ。それぞれの固有名詞は各自で調べてもらうとして、問題は私が病気の後に「どのように」世界が見えていて、「どのように」見られ、「どのように」思考するか、ということの健常者による理解、または診断不能と現時点でされている人々がケーススタディ的に「ああ、分かる、こういうことあるよね」と当てはめていって、いくばくか気持ちが楽になればよいという思いに基づいている。また、差別・無理解がこのような病気は生じやすい。上で示した駅での対処はごく一例であり、家庭内で病気をめぐる軋轢が生じることは珍しくない。

 これらの根本的な原因は、「精神」という言葉が持つ意味の多様さによっている。例えば、生まれつき/後天的に右手を失っている人は身体障害者であるが、いくら義手などでそれを乗り越えようとしても自分の右手を持っている人々とは違う仕方で身体を扱わなければならない。それは、「欠落/欠損」というものが「ない」ことによって見えているからだ。対して、精神疾患はどうか。こと私のような患者は、悪性期に入ると行動が著しく逸脱的になる(浪費、性的過剰、会話)。そのように「見える」分まだましで、例えば専門的に言えば適応障害を伴う鬱病(これは「新型鬱病」などと呼ばれる)の場合は理解されがたい(仕事には行けないのに、なぜ旅行はできるのか、など)。こういった場合、あるいは明らかに逸脱的な行動を患者が取る場合、それは「欠落/欠損」と見なされず、「頭のおかしい人」として煙たがられる、あるいは「甘え」という形で健常者が可能である行為を努力によって解決可能であるとされる場合がある。それは精神疾患を患っている人間であれば、健常者とは異なった努力が必要である。しかし、世界の認識が過剰/不足していれば、当然可能/不可能な行為が存在することも、理解されなくてはならず、広い意味での「障害者」と「健常者」が正しい腑分けのもとに可能なことの分担がなされねばならない。それがなされない現象は、「差別」に他ならない。

 私は、カウンセリングと薬物療法を主にして自らの病を(あえて言えば)「先送りにする」という形を取っている。しかし、精神分析のキャビネで自由連想法による根本治療を試みたこともある(三か月で中断)。本記事では、簡潔に、理論や薬効、そもそも双極性障害や自我障害とはどのような疾患なのかを述べるものではない。むしろ、「精神疾患を患うと世界がこのように見える」という私の実体験に基づいて、自分の症例をもとに「これによって何ができる/できないのか」を述べることにある。なぜなら、自分でも病気のことが分からないからであり、現在私は悪性期の只中にいる。ならばせめて、今のこの病気の厄介な点を枚挙するに留めておくことで、なんらかの――自分や身内を苦しめるこの病気を患っている人々の救いになればと――益をもたらせれば幸いである。以下、下に向かって厄介な順番に3点ほどまとめていく。全ての症状に苦しめられているわけではないことを、この最初の節の最後に注記しておく。

 

・人に迷惑をかけること:観念奔逸と自生思考、アジテーション

 精神疾患の患者の多くは、良かれ悪しかれ、人に迷惑をかけざるを得ない。それは家族、恋人、友人、その他を巻き込む形で成り立っている。私の場合、この病気の最も厄介な点は自分が苦しむこともさることながら他人をかき乱して情緒不安定にすることである。上に挙げた三つの症状の名前の中で最も厄介なのは「自生思考」である(多くの場合観念奔逸と連動して発生する)。実感としては、頭の中にいくつかの声、あるいは文字が全く異なる形で平行的に思考されるのではなく、混線してしまうことにある。大抵自生思考が起こると回路がバチンとショートし、一度30分以上動けなくなる(これを亜昏迷という。統合失調症の場合は昏迷であり、意識が持続するにも関わらず2~3日指先を動かすことさえ不可能になる)。その後、双極性障害と併発する自生思考は攻撃性を主に抑鬱状態で伴うため、物、人を無差別に攻撃する(場合がある)。私の経験ではこの攻撃的な(正確な意味でない)「発作」は二回ほどあり、一度は20歳のとき亜昏迷から自生思考に回帰した際タクシーを降りて通行人に掴みかかろうとして、当時お付き合いしていた女性の家に帰ったときに本棚をむちゃくちゃに荒らしたこと、二度目は23歳のとき父親に掴みかかったことである。

 この際、頭の中で何が起こっているのか?作用機序としては科学的に説明が可能であるのだろうが、私は精神病理学精神分析のプロパーではないので、かくかくしかじかで自生思考が発生する、という風には言えない。ただ、人間は(少なくとも私は)書く際は書き言葉で、話す際は話し言葉で思考する。それぞれは外国語と言っても差し支えないレベルで意味の隔たりがある。書き言葉で話したり、話し言葉で書いたりすること。それらの回路が混ざり合うと、頭の中でいわゆる「ワードサラダ」(文法的には間違っていないが一文の意味が通じない文章のこと)が出来上がり、そうなるとワードサラダでしか思考不可能になる。すると、亜昏迷に通ずる呼吸困難、思考途絶、動悸が早くなるなどの機序がある。なお、この際幻覚が発生する場合がある。最近は自生思考こそ少なくなってきたものの虫の幻覚(蠅のようなもの。一時期飛蚊症だったがそれでもない)や存在しない気配を感じることがある(妄想)。これらは統合失調症の症状だが、かなり軽度ではある。自生思考の厄介さは、主に会話において起こる。過去に最も酷かった時期は、「三つの話題を全部平行して喋っていた」らしい。自分の中では筋が通っているつもりでも、会話が成り立っていないということ、そしてそれが自らの思考を蝕んでいること、それが誘因で攻撃的な発作(抑鬱を伴う)が発生する場合があるということである。

 人を振り回す上で厄介なのはアジテーションである。厳密に言えばAgitated Depressionという言葉があり、日本で研究が進んでいないので私訳で言えば「煽動的抑鬱」という形になる。いわゆる双極性障害における抑鬱の非常に珍しいパターンだが、「Agitated」とある通り抑鬱なのに興奮状態にある現象を指す。これは統合失調症との区別が難しく、私がゴミ箱診断を受けた一つの理由でもある。のちほど述べる「抑鬱」と「アジテーション」が別々に発生する場合もあれば同時に起こる場合もあり、合わせて起こると「とにかく外に出たい」「じっとしていられない」「人と話したい」という、いわゆる鬱病(ここは注記しておくが、双極性障害抑鬱鬱病は発生メカニズムが異なっている)の「接続の切断」ではなく「過剰接続」の欲求が非常に高い状態にあり、いざ会うと寛解期とは全く違う風にしか喋れない。というのは、喋りたいことはいっぱいあるのだが、トピックの選択が難しいということであり、結果的に人を呼んでおいてろくに喋れないという事態もある。

 簡単に観念奔逸に触れておく。自生思考の混線が起こっていない状態と考えればよい。統合失調症の陽性症状か双極性障害躁状態において現れる。アイデアが次々と生まれ、創作などで迷惑をかけなければ非常によい状態だが、自生思考と結びつくため注意が必要である。

 

・自分が辛いとき:抑鬱希死念慮

 双極性障害を抱えている、あるいは双極性障害なのではないかと考えている人々には非常にむごい話で、主治医からも聞いたときかなり絶望的になったが、抑鬱であれ双極性障害には抗鬱剤(多くはSSRI)は禁忌(処方してはいけない・悪化する可能性がある)である。なので、ミシェル・ウエルベックセロトニン』冒頭のキャプトリクス錠のような薬は抑鬱において存在しない、という前提だけ言っておこう。主に気分安定剤のリチウムやデパケンジプレキサなどが用いられる。

 酷い抑鬱において最も本人がしんどいのは「何に対してしんどいのかが分からないのがしんどい」という事実である。「純粋な絶望」と呼べばいいのだろうか、ストレス因の除去と言ってもそのストレス因が存在しているのかが分からない。「分からない」というのが重要で、ある可能性もあるのだが抑鬱状態においては判断能力が著しく鈍るために判明しない場合が大きい。私がよく使う例えとして、「親しい友人が死んだような感覚」というのが適切だと思う。しかもそれが悪い場合は延々と一か月や二か月続く場合もあり、その後の激しい躁転でまた人に迷惑をかける可能性があることにまた憂鬱になる、という次第である。最も厄介なのは以下に述べる「躁鬱混合状態」だが、これが激しい人には一日おきで起こる場合もある。さて、まとめて話してしまえば希死念慮だが、抑鬱と関係があるようでなかったり、ないようであったりする。というのは「今のこの絶望から楽になりたい→死のう」という機序で希死念慮は働かない。むしろ、双極性障害鬱病においてよく言われているように、「上がってくる」過程で発生しやすい。その過程で発生する機序については不勉強なので無闇な説明を控えるが、実感としては躁転がいきなりではなく徐々に回復していくときに唐突に「あ、死のうかな」といった感じで訪れる。そこには覚悟や、恐怖といったものが存在しないが故に、危ない症状である。もしこのエントリを読んでいる人で身内にそれに類する人がいた場合、動向をくまなくチェックする必要がある。ちなみに私は自殺未遂を厳密に言えば二回やらかしており、マンションのベランダを上って飛び降りようとしたところ(3階なのでせいぜい脚の骨が砕けて半身不随が関の山だろうが)に親が帰宅して思いとどまる、駅のホームドアを乗り越えようとして客から引きずり降ろされるの二つだが、大事にならなくてよかったと思う。

 

・俺は誰だっけ?:躁鬱混合エピソードと離人症

 双極性障害Wikipediaを読んでもらえば分かるが、双極性障害は三つの「エピソード」と「寛解期」のサイクルで患者に様々な症状をもたらす。寛解期は普通の状態なので特に言うべきことはないが、肝心なのは「躁」と「鬱」のエピソードだけでは双極性障害は成り立っていないことだ。「躁鬱混合エピソード」というものがある。例えば、私は主に起きたときの身体の具合で「今日は調子がいい/悪いな」という判断をする。眠れても抑鬱気味だと(ほぼ寛解しているパニック障害の発作か自生思考の発作の影響があるのか)体がバキバキになっている場合がある(そういう場合は簡単なストレッチと晴れていれば散歩して太陽光を浴びている。薬以外にもこういうことは大事)。20歳の頃の恋人の家に一か月弱程度居候していたことがあったが、当時は毎朝バキバキだった。一日中抑鬱のときもありベッドから動けないこともあれば、友人を呼び出して遊びに行ったり電話をかけまくったり当時所属していたサークルの原稿を半日かけて書くなど、行動に全く一貫性がなかった。これをもって私は「ゴミ箱診断」を食らうわけだが、その二年後に「あれは躁鬱混合だね」と主治医に言われた。

 躁鬱混合自体は珍しいものではなく、大体エピソード間の過渡期に短期的に発生するとは主治医の弁だが、私の症状が珍しいのは統合失調症の症状と結びついて躁鬱混合がメインとなっていることである。「統合失調症」は最近できた言葉で、昔の言葉では「早発性痴呆」などがあるが、実感としては「精神分裂病」というのがしっかりしていた。というのは、明らかに体が動かないのに、飯も食えないのに、とにかく頭の中にアイデアが浮かぶ(観念奔逸)、当時はパチンコ中毒だったのでルノアールでモーニングを食べてパチンコ屋の開店10時に並んで、勝った金で友人と酒を胃袋が口から出そうになるまで飲んだりしても途中から無言になり、死にたくなって彼女の家に帰ったりなど、どっちが本当の「俺」として行動を定義づけているのかが一切分からないこと、それ自体が恐怖であり焦燥感を募らせた。また、自分の意識が内側ではなく外側にボーッと遠ざかっていき、「そこ」で思考している(かなり伝えるのが難しい表現だ)という気味の悪さは自我障害による離人症という見立てを主治医はしている。そして私は今も、離人症躁鬱混合、その他もろもろの病に侵されている。自分を「自分」であると言葉でなく定義できなくなる瞬間の恐怖は尋常ではない。

 

・終わりに:すべてうまくはいかなくても

 「じゃあ、死んでいいのか?」「怖かったら、楽になればいいじゃん」。そういう声も聞こえる。誰かからではない、自分の中のかろうじて生き残っている「自分」が、そう囁く。上のWikiにもあるが、双極性障害は「難治性」であり、90%以上が治らない病気である。病気において意志がほぼ無力であることを私は知っている。意志を決定する根本的な何かを脅かすもの、それが精神疾患というものだからだ。「だから」、健常者と同じやり方で人生を歩むことはできない。左脚のない人が義足をつけたとしても普通の左足で歩いている人のように歩くことはできないように、精神疾患患者もそれは同様なのだ。

 だが、義足で歩く人々のように、私たち精神疾患患者もそれなりの生きるモデルというものはあり、それをその人それぞれが違った仕方で選び取ることが一番大事なことなのだ。すごく貧乏で、障害のせいで働き口がなくて、どうしようもなかったり、あるいは食うには困っていないけども人生が病気によって無価値に思えるから生きている意味がよく分からなかったり、それは経済的な問題や自分そのものの根本的な問題で「病気によって」そう思ってしまう人は、いる。それを私は甘えだとは思わない。病気のせいにしているとも思わない。「健常者と同じやり方で」やることに無理がある。

 我々は、我々にできることでやるしかない。すべてうまくはいかなくても、活路はあるはずである、必ず。

『Fate/stay night[Heaven's Feel]』、オタクは語りに溺死する

・オタクあるいは仮死の祭典:今更フェイトの話をするな

 新型コロナウイルスで劇場公開の作品が次々と先送りにされる中、『Fate/stay night[Heaven's Feel]』(以下HFと略)三部作の最終章に当たる「spring song」が本年8月15日に無事映画館で公開された(本来は3月末公開予定だった)。TYPE-MOON作品、ないしは奈須きのこによるライティングは「そういう風に」できていることが同人時代から現在に至るまでの会社自体のビッグバジェット化に戦略的な意味で買っているわけで、ソーシャルゲームFate/Grand Order」のシナリオによってはある意味冗長とも言える文字数の多さ(18禁ノベルゲーム『Fate/stay night』の「桜ルート」(Heaven's Feel)における異常なテキスト量にも通じている)にも関わらず揶揄の意味で「FGOキッズ」とも呼ばれるカジュアル/ライトな「オタク」層の生産にも成功していることは事実である。その一方で、括弧つきで「そういう風に」Fateシリーズや奈須のライティングがあらかじめ「仕向けられている」という言い回しは、多分にコンテンツの消費者層の割合がソーシャルゲームの登場以前と以後で変わっている可能性があるという留保である。当たり前だが、2020年にもなってオタクコンテンツの「批評」を素朴に一発カマすことができるのは恥知らず以外の何ものでもなく、しかし恥知らずであるが故の能力であると言うことはできる。ちなみにこれを書いている私、並びにこういう迂遠な言い回しから何かを言いたがるオタクは恥ずかしがりながら局部を露出している存在自体が矛盾した露出狂のような存在であり、見ようによっては素朴に「批評」する恥知らずなオタクよりもタチが悪い可能性がある。だが一歩立ち止まって、そういう私のような同人批評畑の(半?)アマチュアのような人種がオタクコンテンツをみんなで言葉によって再定義したり、否定したり、発展の形を提示しようとしたりする姿勢がコンテンツそのものに一役買う可能性はあることはある。それは現在進行形、発展途上のコンテンツに対する言葉としては有効打となる場合もある(故に本ブログの2020年6月5日のエントリ「女の頭に金属バット」は議論的な性格を持ってはいるものの、エントリ単体としても素朴かつコンテンツそのものへの肯定的な賭けとして読める文章という意味で同じオタクコンテンツでもこの文章とはスタンスが異なる)。

 要するにこのガムは味がするので噛む、という話で、そういう発達しきっていないコンテンツを「こういう噛み方をするともっと美味しい」とか「意外と飲み物と一緒に口に含んでもイケる」という形で楽しむ余地が残されているからオタクは何かを言う(というより言いたいことを言った結果としてコンテンツ自体に与することもあるだけとも言える)。大抵の人は味がしなくなったガムは捨てる一方、しかし味のしないガムを延々と噛む人々もいる。噛んでいる当人もなんで噛んでいるのか分からない、だが噛んでいるガムがガムかどうかに関わらずそれ自体に「このガムを噛んでいる俺」という――できる限りこういうエントリで使いたくない語彙をここだけにおいて使うことを許してもらえるのであれば――「ガム」(コンテンツ)に対する「俺」(オタク)の特殊な対象への転移が生じる*1。映画や文学とオタクコンテンツが決して同じ土俵で言及できないように(なぜなら当たり前にオタクコンテンツは下賤で品のない悪質なポップネスの濫費であって文化ではないから)、オタクのコンテンツへの転移によって語られる言葉は説得力や強度を持たない。ふた昔前の「萌え」とか「www」もそうだし、なんJ板の「草」、オタク女子の「待って」、最近のユニセックスな語彙であれば「尊い(てぇてぇ)」など、それ自体を完全に無意味な記号として連発することで一般的なオタクは対象から距離を取っている。無意識に転移を拒否できていると言ってもいい*2。しかし、2ch(5ch)の「長文レス」やTwitterの140文字ではなく、もう完全に味のしないガムを謎の執念で噛み続ける様を長文で見せつけるオタクは手の打ちようがない。そろそろ『Fate』に話を戻そう。2020年になって「鉄心ルートは……」などと「考察」をぶつオタクもいないだろう。いたらそれはバカを通り越してオーパーツの類である。もう『Fate』は味のするコンテンツではない。『エヴァ』と同様にDLCのような何かでごまかされ続け*3、原作ゲームが好きな人は無限に原作ゲームの「考察」や「批評」をするし、原理主義者は『月姫』リメイクの放置に怒り狂い、パロディやオマージュでオナニーする人々は一日中『カニファン』を観る。リメイクはリモデルではなく、コスりにコスられた残骸のような「本編」が残る。

 上の「バカとも呼べないオーパーツ」であるオタクは、この延々と映画の話をしない他ならぬ私のような人種である。「おもろい」「つまらん」では我慢ならない、『Fate』作品への転移の一症例を、『Heaven's Feel』三部作を例に取って(DEENFate/stay night』、UFOtableUBW』、同『Fate/Zero』が引き合いに出るだろうが、包括的な話ではなくあくまで映画の「感想」であって、原理的型月ファンのゲームと比較してどうのとかhollow世界線の考察が抜けてるみたいな臭い指摘は甘んじて受けるつもりである)、必ずしもシリーズの順を追わず、なおかつファジーな形で個人的に言及する。

 

・文字の経験/映画の経験、それぞれの時間(もはや語る言葉なし)

 いきなり身も蓋もない話になるが、『HF』とは別に「桜ルート」の一番の持ち味は他のルート(セイバー/凛ルート)にはない、奈須の『月姫』以来得意とする伝奇的なストーリーテリングと桜を中心とした人間関係の屈折(特に士郎と桜のセックスが他のルートにおけるそれと意味合いが異なり、セイバールートでは自己犠牲サイコ野郎だった士郎が結果的に「正義」の意味を自らに問う間接的な契機でもある)が重ねられ、嫌味とすら言える描写と遅延的な筆致により『Fate/stay night』が「桜ルート」において(他のルート込みで)ゼロ年代エロゲの「鬱」「抜き」「泣き」に一元的に回収されない一つの「作品」として変化球でありながらも金字塔を打ち立てた点にある、ととりあえず言っていいだろう。後追いというかリアルタイムでは当たり前に原作ゲームをプレイできる年齢ではなかったが当時から「Fateは文学」(「CLANNADは人生」)というネットミーム2chで流行っていたのは知っていた。これを「所詮オタクコンテンツのくせにな~にが文学じゃ」と一蹴できない(ミーム発祥元は知らないが多分言った本人はなんとなくだったと思う)のはちゃんと「三つのルートをクリアしないとゲームを理解できない(「ギャルゲー」ではない)」「世界線ごとの繋がり」「バッドエンド(士郎が死ぬ)をプレイヤーが経験することに意味がある」というノベルゲームのインタラクティブな性格を2004年というかなり早い段階で、かつ商業ベースで示したこと、『月姫』『空の境界』との世界観の一貫性、後述するが善悪の観念(倫理)と生きることが必然的に結びつくかどうかの問いというかなり重厚で哲学的なテーマ、何より圧倒的な文字数など、作品として決して「文学」の名前が不適格なものではない。アメリカ発のド級の傑作ノベルゲーム(無料)『Doki Doki Literature Club!』の製作者、Dan Salvatoは最も影響を受けたノベルゲームに『月姫』『Fate』を挙げており、演出の参考にしたと色んなインタビューで答えている*4。武内によるイラストが決して上手くはない(というか実用はかなり厳しい)ことも結果的にゲームの雰囲気に功を奏したように思える(これは主観)。無論Fateもどきみたいな泡沫エロゲも雨後の筍のごとくは出てまんだらけの中古品で叩き売られていたりそうじゃなかったりする。この辺はあまり知らない。

 アニメの話になるが、一介のエロゲだった作品が一連のプロジェクトとしてセイバー、凛ルートが製作会社をそれぞれ変えて2クールでアニメ化された……というモノグラフィはwikipediaを読んでもらうとして、重要なのはアニメの原作がエロゲだということである。OVAならまだしも、ローカル局とはいえ(DEEN版はTBSが製作に参加してはいる)地上波での2クールオンエアでセイバールートの風呂のシーンなどはごまかすしかない。うろ覚えだし比較記事を参照するのも面倒なので記憶違いはご寛恕願いたいが、バーサーカーから逃げる最中士郎、凛、セイバーで森の中の小屋で休息するシーンで原作だと魔力供給=セックスなので3PのCGが入る(ググれば出てくる)のに対してアニメでは謎の儀式でセイバーが悶絶するという有り様で、これは原作再現の忠実さがどうとかではなく仕方がない措置であることに文句はない(DEEN版は最初ゲームをやってない状態で観て作画に???となったが、原作のセイバールートのCG再現が非常に忠実なのをプレイ後に知った)。アニメ化に当たって奈須の要求するコンセプトが「ボーイ・ミーツ・ガール」だったセイバールートに対して、UFOtable製作の『UBW』は士郎のビルドゥングスロマン的な要素が強く、また美しい作画による凛やセイバーのオタク受けもあいまって個人的に同世代で(FGO以前の)『Fate』と言えばこちらを指すことの方が多かった。

 少しというかかなりクサい話をすると、上で「Fateは文学」というミームに「文学」という言葉の一定の正当性と適合を認めているが、「Fate」「UBW」までの「衛宮士郎」像は奈須が「異常者」として描いていると認める一方、まだオタクコンテンツに味がした時代の批評家たち(今彼らの書いたものを読めば分かるが、転移の執拗な拒否がかえって今のオタクについての言葉をバカバカしく、無意味なものとしてしまっている点で2020年の頭でっかちなオタクは彼らに怒っていいとさえ思う)は『エヴァ』的な自意識の葛藤や噴出に拘泥した結果「HF」まで含めた世界観の一貫性を否認しており、そういう意味で逆張りかました『ゼロ想』の宇野常寛も乱暴に言えば大体同じである*5。セイバーとのイチャラブ、大いに結構。士郎対ギルガメッシュの「贋作」の超克、大いに結構。ただ、この作品はアニメの2クール×2も、原作のテキスト量も、そういったある種のっぺりしていて退屈な時間も含めて「大いに結構」として経験する必要がある(もっと言うと小説原作スピンオフの『Fate/Zero』も押さえなければならないが、『Zero』に関してはこれだけでいいというぐらい面白いので別に後回しでもいい)。もう6000字書いてるのに一切映画の話をしていないが、この『Fate』という作品の持つ異常な冗長さにこそ、「これ、本当に3部作の映画でよかったの?」という疑問が浮上してくるわけだ。

 「presage flower」の冒頭、士郎と桜のいる弓道部の練習を青空からキャメラを下にパンするショットの開始は「spring song」の最後で反復される、といった指摘は確かに可能であって、桜の抱えるものが最初と最後で異なっていることが同一のショットで示される手法は映画として限りなく正しい。あくまでも「それ自体として見れば」ではあるのだが。ランサー対アサシンやセイバーオルタ対ライダーの戦闘シーンも息を呑むものがあるし、テレビサイズでは難しい大きい資金で製作されていることも分かる。だが、製作委員会の批判をこんなところでしたくないのだが(自明だし)、2×2×2では原作のイヤ~な暗くてねっとりした雰囲気を「冗長さ」として経験することができないのは致命的なように思える。2017年から公開の度にしっかり観に行っているが、正直「presage flower」のランサー対アサシンの格闘シーンが浮いてしまっているばかりで、セイバーや桜の日常が「不穏さ」として示されるのは続き物前提であっても「続きが気になる」云々ではなく何も起きなくていいので「つまらなさ」を用意するべきだったのではないか、とさえ思う。当たり前に(というかこれを描かないと桜ルートの意味がないのでテレビアニメでやらなかった)PG-12、該当箇所だけで言えばR15レベルで杉山紀彰下屋則子の大迫真の演技でお腹いっぱいになる「lost butterfly」は桜のジェノサイドが独特な映像で展開されるなど見どころも多く、レーティングのおかげかこのルートの中で一番湿っぽく陰惨なシークエンスを描き切ったという点でこれ自体として面白かったと素朴に言える。原作のシーンが2時間の都合上バスバスカットされているのはしょうがないとして、上映形態の致命的な欠陥を示しているのはギルガメッシュ死亡シーンではないだろうか。そもそも「ルートごとに慢心度が上がるシステム」がギルガメッシュには搭載されているので、原作でも必然的に死ぬのだが、観客の「あの強いギルガメッシュが流石に死なないだろう」という思い込みから「えっ!?」と落とすというより、割と死亡フラグをきっちり立ててちゃんと死ぬ見せ場がある(「presage」からフラグを立てまくっている)。勿論戦う前に死ぬのは前提として、「あの」ギルガメッシュがいきなり死ぬ衝撃はそれまでの時間の積み重ねがあってこそである。なんとなく不穏というよりじっとりした死の臭いが香る『HF』前半部分において、急激な緩急があることは「spring song」最後の士郎と言峰の肉弾戦における対話、そして士郎が聖杯に向かって放つ(イリヤの願いでもあった)「生きたい」の意味合いを観客に解釈させ、咀嚼させることを結果的に難しくしている。「spring song」は劇場版『HF』の面白さがなんなのかとりあえず分かりたければ1,2章のあらすじを読んでこれを観ればとりあえずよろしい、というレベルで単純によくできたアニメ映画なのだが、最後に士郎が認める「正義」の形は切嗣の正義(「鉄心」的)ではなく言峰の矛盾を受け入れる形で成り立っている……という最もアニメの『Fate』シリーズにおいて人間賛歌的なテーマのカタルシスは観ている最中に台詞をよく聞いて考え、思い出したりして得られるものであり、これはテキストを読めばよいのでは?とも思ってしまう。

 映画はもちろん時間芸術であり、週のアニメもそういうものだ。本や文字情報も時間的経験によるところが大きい。劇場版『HF』(一応言っておくと、桜ルートの分岐を全て知っているわけではないがこの終わり方は相当好きなのでUFOtableを叩こうとはあまり思わない)は、長大なテキストの経験の連続性というものを商業映画の形でぶった切ってしまったことが問題だということであり、これはもっとどうでもいいシーンを挟みつつ6~7時間ぶっ続けで原作とは別の形で(テレビアニメのクール制に縛られないのであればなおのこと)『Fate』の映像体験が可能だったのではないか、と三部作を観終わった今思わざるを得ない。なぜ冒頭であのようなめんどくさい話をしたのか?それはオタクそのものが必ずめんどくさいからでも、『Fate』作品がめんどくさいからでもない。『Fate』のある層のオタクが必ずめんどくさいからだ。逆に言えば、『Fate』のその層のオタクはめんどくさくないものに口を濁してしまう。「解釈」し、「分析」し、「語り」たいのに、直接的にテーマを打ち出されると、作品に立ち入る余地がない。「批評家たち」を素人のワンパンでリングに沈めることもできない。

 

 本文を読めばお分かりかと思うが、ほとんど映画の話をしていない。『Fate』シリーズ、ならびに『月姫』や『空の境界』などについて、批評じみたことをあれこれ友人と話していた頃はそんなに昔ではなかったはずなのだが、「spring song」を昨日観て、このシリーズに何かを言いたいという欲望を覚えるのが懐かしく、恥ずかしい気持ちになった。私のような「何かを言いたい」というオタクはこの三部作を観て、奈須きのこに「お前らはもう何も言わなくてよい」と言われたのち、悄然と映画館を立ち去ることだ。無論FGOの最終ログインが1年以上前になっている私は、立ち去らねばならない側のオタクである。

*1:本文で映画や文学を持ち上げてオタクコンテンツをボロクソに言っているが批評(言語)における転移は蓮實重彦の映画批評がそうであるように現代的なテーマ/表層批評の持つ宿命でもある。白江幸司「蓮實重彦について2」http://survival-as-heritage.blogspot.com/2013/では好きな映画をけなされるとブチ切れる蓮實について以下のように言及している。「リシャールや詩学では起きなかった経験の激しい転移がなぜ蓮實の場合起きたかというと、テキストとちがって眼前に存在しない映画を想起や想像的なものを経由して個々人において立ち上がらせる段取りだったためでもあるんでしょうね。精神分析で言われる転移の局面は映画批評のみならず批評ではしばしば生じることなんですが、蓮實圏域では特徴的な現れ方をしていたわけです。」オタクにおける「経験」の有無が転移の強度=批評へと向かわせる力動を裏付けると言えるのであれば、蓮實的な「テキストの不在による想像的なものの喚起」の読み手・書き手双方の欲望は言わずもがなオタク言説においてはポルノグラフィのそれと同じ抗いがたさと下世話さでかき立てられる。

*2:本文ではこれらを「無意味な記号」として捉え、胡散臭い語り=批評を転移と呼んでいるが、この無意味さが対象との癒着であり批評なき磁場で力を持つ可能性があるとする立場の実質的なオタク批評(筆者は「批評」的な物言いを拒絶しているように一見読めるが、ツァラランボーの引用は極めてオールドスタイルな批評ではある)もある:rnya「ケツからブラックホールhttp://rnya.hatenablog.com/entry/2016/12/15/040841?_ga=2.82815263.884818016.1598325284-1649871377.1564492629。言葉の一撃の重さに賭けて対象の愛を叫ぶことは無意味ではないが、既に色んな場所で同じ言葉が氾濫してしまっている2020年現在においてもはや「吠えろ」が「黙示録のラッパ」として機能しなくなっているのではないかという懸念はある。私は文学畑ではないので、この辺の議論は参照と留保に留めておきたい

*3:なお株式会社カラー、ないしTV版~旧劇場版映像ソフトの著作権のクレジットにある「Project Eva」と池袋などに存在するポップアップストアで展開される商品の販売を一括で管理するEVA STOREは権利の帰属先と売り上げの還元率が一元的ではないという事情があり、ガイナックス庵野が認めるようにTV版の製作時点で事実上の資本ではなく現在のガイナックスは運営形態そのものが庵野が所属していたときとは別物である。こうして見ると同人スタートの性質上中心人物の武内と奈須が権利を一括管理し、外伝作品のノベライズやコミカライズ、ソーシャルゲームのアーケード化に至るまでTYPE-MOONのクレジットを入れる商売の狡猾さという意味で性質は全く異なるものの『Fate』シリーズの「DLC化」は異常とすら言える

*4:DDLCで私は確実に人生が狂っている

*5:高学歴・あるいは大学教授の知識人らによるオタク「カルチャー」への言及は確かに一時期盛り上がり、彼らに「転移」的な批評対象への癒着した語りが認められないわけではなかった。東ならセカイ系――私は結局このジャンルに「葉鍵とか……?」レベルでしか興味が持てなかったが――だったし宇野なら仮面ライダーだった。しかし彼らの基本である『エヴァ』は既に当時擦り切れてしまっているにも関わらず「批評家」自身がオタクネタを擦ることのバカバカしさに気づくことができず、後追いで『動ポモ』や『ゼロ想』を読むとなんとも言えないいたたまれなさだけがそこに残っているのはそのせいでもある

女の頭に金属バット――Vtuberとリアリティショーの倫理、射精するオタク

 昨今、トレンディでTwitterをコロナ騒動をさておいて賑やかにさせた「テラスハウス」、並びに「リアリティショー」とSNSの問題を、僕などは「こんなもんヤコペッティの時代だったらなんでもなかっただろうが、あれはそういうもんでもないし、モキュメンタリー的表象を存外素朴に受け取ってしまう人たちが可視化されただけだなあ」程度に思っていた。僕は大昔にアダルトビデオの中で、虚構と現実のあわいがセックスシーン以外において強度を獲得してしまう事態がX監督、希志あいの主演『スキャンダル』(2015年、アイデアポケット)において生起しているが、そこで起こっている事態が虚構か現実なのかははっきり言ってどうでもよく、その「曖昧な虚構」が非常に審美的であるという文章を書いたことがある。というかアダルトビデオ自体がそういった曖昧さと厳密な意味でのドキュメンタリズムに裏打ちされていることについては映画学者の加藤幹郎も指摘している通りである(『日本映画論~』所収)し、その背景には日活ロマンポルノの戯画的なカラミのシーンから露悪的なリアリズム*1へと性表象自体が、それこそ「リアリティショー」的に審美的な感性を失っていったことと同義である。僕が「リアリティショー」において最も問題であるのは――ここでもっぱら問題にしているのはそのショー自体が観客の衆愚性によって成り立っている点であるが――観察者と実験体という、本来であればショーを見る側のテレビの前にいる我々が「観察者」としてシンプルな二項対立に落とし込むべきところを、「実験体」を見る「観察者」を代弁する存在(「テラスハウス」においては山里亮太やYOUがその位置を占めていると記憶している。「バチェラー」でも同様の構図があったと思われる)を我々の「メタにベタな」観察者としての性質をSNSという(イデオロギー的な)メディアが担保、ないし絶えず自己規定を繰り返すという構図によって現代的な意味での「リアリティショー」が孕む根源的な悪性を指摘することはできる。斎藤環が今回の件に関して言うような*2コロッセオにおける見世物のアレゴリーは現代的「リアリティショー」が根本的に含む衆愚の悪性とその可視化という点においてニアリーイコールであっても(鏡像的に)等価ではない。つまり、今回明らかになったことはこういうことだ。大衆は、「似非」リアリズム的表象の前において、みんなバカで救いようがないほど非倫理的である、と。

 

・今回の問題でVtuber(あるいは月ノ美兎の功罪)を巡る仮構されたリアリズム

 また前置きが長くなってしまった。僕はテラスハウスやバチェラーをまともに見たことはない(テラハは大学1年生のとき陽キャ集団に混じって見させられたが、その数日後に彼らとお茶を飲むことも飯を食うこともなくゴダールを観ている自分に悦に入っており、結果的に悦に入ってゴダールを観ていた僕が倫理的には正しいと後から正当性を持つわけだが、多分当時においては僕はただのイタいオタクだった)。何の話をしたいのか、そして僕は何に上の序文で書いたようなオタク早口で訳も分からずキレ散らかしているのかというと、僕の愛するコンテンツであるVtuberに対する言及において、例のテラハ事件から、Vオタクの態度を改めなければならないのではないか、リアリティショーと化したVtuberは衰退の一途を辿っている(リアリティショーとは全く関係ないが、Vtuberが「オワコン」なのはまさにそうで、後始末がもうすぐ来るかもう少ししたら来るかでしかないだろう)、そして何より、「バカな女を嘲笑ってコンテンツ化する」ような『ヘキサゴン』的な倫理観のなさの蔓延が……という意見を目にするようになったからだ。これは「正しい」のか、という自己欺瞞が反復されることなく、エラい美術学者の先生が「無料のものなんて悪質なので、お金を払いましょう」などとのたまう始末。たまたまTLに流れてきたが、以下の記事が「我々オタクはリアリティショー的な露悪趣味の倫理観を捨て、Vtuberなんかもうやめよう、これは彼/彼女らのためなんだ」的意見が読みやすくまとまっている。すごい雑な要約をしてしまったが、議論の飛躍はなく精密で、文脈を押さえた良い文章だと思う。

「リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん」

https://not-miso-inside.netlify.app/blog/better-stop-watching-vtuber/

 まずこのブログがとてもいいのは、Vtuberのオタクが一斉に「コケた」メルクマールが確実にある(これは『バーチャルさんはみている』というアニメを指す。ある程度のVtuberオタクであればこのアニメの名前が出てきた時点で察しがつく)と措定した後、記事の題名にある「リアリティショーを批判するオタクだってVtuber観てるじゃん」という人格の変容とショーの問題に我々のようなオタクが「観察者」として関わっていると指摘し、そのような非倫理によってショーが再生産され続けるととてもむごいことになるし、現状はむなしいものだ、と結論づける。運びとしては非常に鮮やかであり、彼の指摘は「虚構と現実を軽やかに行き来できる、ショーで承認欲求を満たさないようなVtuberには可能性があるが、それ以外に関してはもう後始末をするときが来たのではないか。その幕引きは、我々オタクの良心と倫理と知性にかかっている(が、オタクは基本バカ)」というものに見える。電脳少女シロやアイドル部に入れ込んだと思われる書き手の以下の段落は、愛するコンテンツに対してハードコアに絶望したくないからこその断末魔のように見える。

顧客が本当に求めていたものはなんだったのか? と私は考える。アニメから出てきたYouTuberだったのだろうか? 変なことを言って楽しませてくれる電脳世界のキャラだったのか? 最先端の技術と結びついた、リアルタイム3D技術だったのか? それとも、人-キャラ-設定の三つ組みが相互作用しながら発展していく、哲学的に深遠なところのある娯楽だったのか? それとも? それともなんだったのか?

  この叫びは悲痛だ。少なくとも僕にはそう見える。僕は2人のVtuberについて、一方ではこのブログに載せた御伽原江良のアンチ・ナンバユウキ、アンチ・ユリイカ的な批評や、一方で別のnoteには轟京子についてのある意味ベタベタなキャラクター読解*3を書いたりなど、彼の言うところで言えば「哲学的に深遠なところのある娯楽」として無邪気にVtuberを楽しんでいた。そして、多分そうではなくなってきていることは僕にだって分かっている。つらいところではある。では、Vtuberとはなんだったのか。

 そもそも、「キャラクター」とかいう概念は、Vに限らずアニメやアイドルにおいても存在しているし、件のナンバ論文はそこをキャラクタ・ペルソナ・パーソンと単純に図式化してしまっていたのだが、僕はそのあたりが癒着してどこからどこまで、と言えないのが「危うさ」であり魅力だとは御伽原江良のファンをやっていたときから思っていた。綾波レイは<母>であり『エヴァンゲリオン』はファルスの去勢?『まどマギ』『ピンドラ』も宗教思想やら精神分析やらの批評が横行していた。僕は日常系アニメが大好きで、『ゆゆ式』については「日常系アニメのノリが分からない」という知人に「いや、『ゆゆ式』は終わりなき日常の肯定でありつつ、5話でゆずこが現存在の死の固有な可能性に言及していたりしていますよ」*4などというアホ丸出しの寝言を言っていたこともある。もっと生臭い話をしよう。僕は生身のアイドルのオタクをなんやかんや10年ぐらいダラダラと続けていて今はK-POPに関心があるが、2011~2年は『アイドル領域』や『ソシゴト』などの同人誌に、哲学や社会学、宗教思想に関心のある気鋭のインテリ――概ね修士以上の研究者か駆け出しの批評家だった――が大喜びでAKB48論やももクロ論を書き、文フリのポップには宇野常寛や濱野智志といった批評家がコメントを寄せていた(今思うと下手にそっちに手を出さなかった東浩紀は興味があったにせよなかったにせよよかったのかも……と書いていて思ったが、彼はエロゲーに詳しかったのだった)。中学生ながらそっち界隈に知り合いの多かった僕はアイドル批評の同人誌を割引で買い、楽しく読んでいた。今ではその辺出身で商業ベースでアイドル批評を生業にしている人も知っている*5

 何が言いたいのかというと、声優を前提としているアニメなどでさえもが、文脈や発言、見た目など、その他もろもろによってときに全く無意識な形で、「キャラクター=テキスト」として立ち現れ、「読解」や「解釈」、「批評」の対象となってきたことを(主に「オタク文化サブカルチャー」において)否定はさせない。そういう文献が山ほどあるのだし、そしてこれはVtuber論を一円の利益もないにも関わらず何万字とか書いてきて、勿論アイドル批評というものも書いてきて最近強く感じていることがある。「もしかして、僕は、全くの白紙、あるいはヴォイニッチ手稿のような読解不能なものへの認識を捻じ曲げることによって、全く別の文脈を引き入れて「読解」ではなく「創作」をやっていたのではないか……?」と。というか、これは事実である。自己弁護をすると、スノッブゼロ年代オタクの「フーコードゥルーズの語彙で深夜アニメを解説する」的なクリシェはずっと前からあるわけで、僕はいくらかマシ(と思いたい)ではあるものの、そういうオタク文化のオーセンティックな部分を悪い意味で継いでいる。そして段落を変えないまま具体的なVtuberの話をすることにする。にじさんじに所属し、またブランドの象徴的存在でもある月ノ美兎は上のブログ記事にも登場するし、『バチャみて』でもにじさんじからの唯一の出演(これは名誉ではない)ということで引き合いに出されるが、彼女は初期の「ムカデ人間」発言や「みとらじ」の気の利いた発言で一躍エースに躍り出るものの、セルフプロデュースが上手いというより「なんとなく面白い、頭の回転が速くて喋りがうまい、古いインターネットの人」止まりだった。しかし、彼女が精神分析やらなんやらのキャラクター解釈のスノッブな元ネタを知っているとは思えないが、恐らく本人が「インターネット」の持つ時代区分や、知的オタク層にウケのいいネタ*6に興味があったりして、エピソードトーク(ダッチワイフ風俗、クリオネ食、競馬など。当たり前だが、メタ演出以上に上の書き手で言えば「エゴの切り売り」がウケることの証明になってしまい、悪い意味での彼女のリアリズムが非倫理的な見世物としての「リアリティショー」的Vtuberの振る舞いを基礎づけた面がある)なども含め、配信型Vtuberのある種のフォーマットの決定は彼女が行って「しまった」と言ってもいい。もう分かるか。Vtuberというコンテンツがあらかじめリアリティショー的衆愚だったのではない。「配信型Vtuberのリアリティショー化は、要領の良い人が行った結果真似するバカが量産されて、配信者もオタクもバカは死んでいく。そしてバカが支えるコンテンツでバカが死に、コンテンツが死ぬ」のだ。そういった意味で、「四天王」や初期アイドル部、「Ctuber」前のゲーム部プロジェクトにおいて生じていたが見えづらくなっていた、Youtubeというプラットフォーム上自然発生する衆愚的な面、あるいはコンテンツの提供者と消費者間の関与可能性と微妙な軋轢を可視化したのは、上の書き手が言うようににじさんじ~ときのそら以降のホロライブといった生配信Vtuberの方法論のフォーマット化のある種の「失敗」――インターネット的露悪を意図的に巻き込める存在がスタンダードになってしまったという意味で――だったという指摘は可能であり、なので上の記事の主張と僕の主張はそんなにずれていないはずだ。元々、キャラクターは空洞で何もない(ウゲーという言葉を使うと、シニフィアンでしかない)。意味付けできるのは「ペルソナ」、つまり虚構と中の人の距離感によって生じるフワッとした人格である。「四天王」的キャラクターへのベタベタな癒着のカウンターに、月ノ美兎という奇妙なペルソナがいたことはVtuberにとって、本当に幸福なことだったのだろうか。だからVtuberとは何か?という上の問いには、こう答えよう。そして次のセグメントに接続する。コンテンツ、商品、消費の対象、「かわいい」表象のゼロ、そしてオタクのオカズだ、と。

 

・全部一回忘れてもろて

 上の記事で、書き手は今のVtuber界はむなしい、文化の成熟だろうが、市場の拡大だろうが、それでもやっぱりむごすぎないか、と言っている。変な言葉遣いだが、お気持ちも論理も文脈も、よーく分かる。シロちゃんとアイドル部好きだったらやっぱり毎週ガリベンガーを観たりしていただろうし*7、バチャみてで苦痛を感じたりするのも分かる。ケリンの地上波のザマは僕も思い出したくない。ただ、だ。「むごくないか」、と彼は言う。最後に、「倫理的なものにお金を出そう」と。以下の引用は、「リアリティショー」が露悪的で非倫理的な概念であるという前提があると思われる。

視聴者は過激なものを求め続ける。女性同士が話し合ったらやれレズビアンだ米を炊け金をまけと大騒ぎする。オフコラボでもしようものなら、性交の隠喩や、もっとどぎつい修飾語が飛んでくる。対人関係は戯画化され続ける。それも、あなたの現実世界の対人関係がだ。あなたがうっかり話したバイト先の先輩はレズビアンにされ、あなたと毎晩、黒光りする双頭ディルドでハメ合っていることにされる。あなたを守るキャラクターの壁はない。顔だけが美しくなったおまえが、インターネットの祭壇にあげられる。おまえの日常は、おまえが話すほど、徹底的におもちゃにされる。それに耐えられるだろうか? そして、これと『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?

もし、ここには善意があるから大丈夫だ、というなら、それは間違えている。視聴者は暗に陽にキャラクターを勝手にインポーズして、再解釈して、生身の人間に押しつける。「デビューから一年たってついに同期のことを呼び捨てになるのが尊いんだよな」。「XXに告白され限界オタクになってしまうYYYの絵です」。1000人以上の人から、週三回、「エッチだ……」とリアルタイムで言われて、精神的に健全でいられるというなら、あなたはおそらくすでに狂っている。

  「『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?」――この発言が、書き手に則って言うのであれば、倫理的に妥当である場合は一つしかない。アニメキャラ、アイドル、声優、なんでもいい、その類のものに関して、一度たりとも対象となる存在の尊厳を侮辱、蹂躙することによって快楽を覚えたことがない、つまり本来的な意味で男根主義ミソジニーを持った「オタク」でない場合のみ、倫理的に妥当である。彼は「バイト先の先輩と双頭ディルドでハメ合い」、「日常が徹底的におもちゃにされる」場合の「おまえ」に呼びかけている。それは、どこの誰に対して言っているのか、正直全く分からない。何故か。女性キャラクターの男性オタクに必要な素質は、女性に対する想像力の一部あるいは完全なる欠落によるものだからだ。というか、僕は男のオタクなのでこう書いてしまったが、女オタクについても同じことが言える。つまり、先ほど上でも書いたし、僕がかつて異常な熱量でハマっていたTWICEの推しであるパク・ジヒョでオナニーするかどうかにおいては、「リアリティショーは残酷である」と発言可能な倫理と「ジヒョでオナニーする」ことが正当化できる倫理というものが別の論理で同時に成り立つかどうか、という話をかつてこのブログでしたことがある。結論から言えばそんな二つの倫理は二律背反を起こすに決まっているので、どちらの生き方を選ぶかなのだが、僕は「ジヒョでオナニーする」(アイドルでシコる)と、言わなければ生きられない生を生きているのだという形でその倫理を背負っている。

 だから、この書き手は「正常な人間ならすべてがコンテンツ化しショーになるような状況に追い込むのは非人間的であり、その観点から見てVtuberは悪質なリアリティショーである」と主張するとき、僕はそこに書き手の中に欺瞞が存在していないかと考えてしまうし、そもそもニコ生、あるいは中堅Youtuberとしてのマネタイズ(もっとも、ニコ生の収益還元率から「生主」で生計は立てられないが)においてセミプロからの引き抜き、そして美少女/美少年のガワがくっついている(例外はある)「配信型Vtuber」の消費のされ方、「てえてえ」「ホモ営業」「えっち」「センシティブ」を求めるオタクのあり方について、色々と問題系がごっちゃになってしまっていて収拾がついていない。もし書き手の中にアニメキャラやアイドルを巡って、性的なものでなくても、なんらかの形で欲望を抱いてしまったとするならば、僕はその欲望を肯定する倫理があると思っている。よく最近男オタクのミソジニーや、ポリコレがTwitterで散見され、こっちにもヤキが回ってきたかという気分ではある。が、オタク各位は、社会的尊厳、視線、そういったものから「キモい」とレッテルを貼られ続け、それを僕はキモくない!と言ったところで完全に無駄であることを知っているはずだ。その「キモい」というレッテルは、コンプレックスによる他者への想像力の欠如から来ているオタク自身がよく知っているからこそ、剥がしたり正当化できない。部屋の隅で好きなキャラクターでオナニーするオタクは、キャラクターを蹂躙し、独占している。無論、これは人として正しいかと聞かれたら、全く正しくない。だが、「顔に袋をかぶせて女を犯した」りするような表象や、「馬鹿な女を嘲笑す」る、本当に一般的な倫理においては甚だしく逸脱しているようなむごい表象について、正しいだの正しくないだのという話でも、正当化でもなく、そういう表現について一定の価値判断(「抜ける」でも「醜い」でもいい)を下すことのできる審級にいる人々は、オタクと呼ばれる人々である。そして、リアリティショーの倫理云々以前に、キャラクターという空洞に欲情し、その空洞を蹂躙できる――『闇金ウシジマくん』の、「人の頭に躊躇なく金属バットをフルスイングできる人間」がどれほどいるかというように――かどうかで、倫理の此岸/彼岸は決まる。そして彼岸に行ってしまったら、もう戻ってこれないことを、僕はよく分かっているつもりである。

 

・自分語りと、今のVtuberシーンで僕は何に絶望しているかというオマケ

 僕はVtuberのオタクになってしばらく経つ。輝夜月のおっぱいでシコり、血眼でiwaraをディグってキズナアイのエロMMDを観ながら「ダンスのシーンいる……?」などと思っていたので、比較的初期から追ってはいて(エロ目線で)、そのうちにじさんじが出てきて、本格的にハマったのは2019年の始まりぐらいに月ノ美兎のまとめ動画とか鈴鹿詩子のネコトモ配信を追い出してからだったと思う。なので、ユリイカバーチャルYoutuber特集とかは後追いで読んだ。御伽原江良にガチ恋して原稿用紙10枚の手紙を送ったり、OTNから轟京子にハマって誕生日メッセージを書いたりした(デビュー2周年のメッセージはサボってしまったが……)。両国は行けなかったけど幕張で椎名と一緒に動き回るチャイカの3Dに普通に感動した。ホロライブにもハマってからは宝鐘マリンをよく見ている。寝るときは周防パトラのASMRを聴きながらじゃないと眠れない。特ににじさんじにはめちゃくちゃ思い入れがある。去年の僕は諸事情で留年が決まって卒論の文献も読む気がせずかといって専門書以外の小説とかも読めず、映画も観てないし音楽も聴いてない、僕の好きなTWICEはメンバーの1人が精神的な不調で休んでいたので、マジでVtuberしか観てなかった。それで書いたのが御伽原江良論で、派生的にTWICEの文章などをブログに書き散らかしていたら、今僕の人生は去年の今頃からは考えられないぐらい私生活や文筆に影響が出ているのはVtuberのおかげだと思う。マジで。コロナの自粛生活もVtuberを知らなかったらかなりキツかった。だから、このVtuberシーンの現状を、認めたくはない。

  つまり何が言いたいのかというと、このシーンには理念がない。同じようなゲーム配信と同じような雑談配信が「好き勝手やっていい」の名のもとに複製され続け、それでもバカなオタクは金を落とし、商売のシステムがつまらない形で再生産され続ける。で、別にこのことは全然いいと思っている。そもそもオタク文化を含むポップネスは大量生産であり、その結果似たようなものの差異を選び取ることが基本的なキャラクター商売だ。しかし、理念が何によって生まれるかというと、ちょっと前の僕は批評にあると思っていた。10年近くアイドルやアニメ、Vtuberのオタクをやってきた。その過程で、中学時代はアマプロ問わずアイドル批評を読み漁って思想家や哲学者を知り、高校時代は人文思想にどっぷり浸かりながらTwitterで知り合ったインテリのアイドルオタク達と居酒屋(僕はコーラを飲んでいたが)で、かたやルーマンやゴッフマン、かたやハイデガー、かたやウィトゲンシュタインなどの話で各々のこじつけアイドル理論を熱弁していた(当時は乃木坂46にみんなハマっていた)。結果的に僕は文学部で哲学を専攻して同人に参加し批評を書いている。つまり、「オタク文化にこじつけて人文に興味を持ったら人文が専門になったオタク」が僕であり、そしてそういうオタクの絶対数は決して少なくないはずだ。僕もこの10年でときに拙く、徐々にテクニックを身につけながら、女性キャラクターについていっぱしの「批評」をかませるようにはなった。なったら分かったのだが、これは、マジで何にもならない。上で、僕は「女性キャラクターなぞ蹂躙してシコるものだ」などというすごい暴論をぶっている。キモいオタクがいきなりナイーブになる方がよっぽどキモい。だが、そのメンタリティのオタクはこんな文章など読まない。分かりきっているからだ。僕がシャニマスの黛冬優子で射精しまくりながらこのような文章を書いている間、オタクは意に介さずチンポをしごく。文章など書かない。オタクは倫理を持たざる衆愚であることは知っているし、そして僕もそのうちの一人だ。オタクにも響かなければ、批評対象になんらかの影響をもたらすこともない。それは、「アイドル批評」全盛期に、知性と言説でポップカルチャーをアップデートしよう!という動きに目をキラキラさせて乗っかっていた少年時代の僕と、その後の「アイドル批評」の体たらくを間近で見てきて、疲弊しているというのもある。くたびれた全共闘時代のオッサンと大して精神性は変わらない。AKBはガラパゴス化してスキャンダルはほぼ無意味化し、地下アイドルの対バンはホモソーシャルを強め、批評的と言われていたももクロイデオロギーの解体すらなくよく分かんなくなっている。言説によるアップデートなどが可能なのかという問いに、僕はVtuberに限らずポジティブな答えを与えられなくなっている。

 「Vtuberのリアリティショー的批判」の正当化は、倫理の問題ではなくインタラクティブの醜悪さにある。美意識と理念がないことが問題なのだ。「後始末」を見据えつつ、撤退戦をしながら、審美的なインタラクティブの可能性を模索し続けることは、Vtuberというコンテンツにおいて不可能ではないと信じている。今のところは、「彼岸」のVtuberオタクとして、その可能性にすがりつくよりはない。倫理ではなく、美意識、金、人の数が、結局コンテンツを動かすのである。

*1:露悪的なリアリズムという言葉遣い自体の意図としては、例えばフローベール的なそれではなく、どちらかというと映画史における古典ハリウッドからネオ・レアリズモへと至る「もっともらしさ」(=現実との整合性)ではなく、表象それ自体が持つ現実とは別次元の説得力、という意味合いで使っている。露悪的な、という言葉遣いは表象の説得力が一般的な倫理観から外れている程度の意味合いで、ここで問題になっているのは表象だということに注意してほしい

*2:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72994

*3:https://note.com/anusexmachina/n/nc3bc30b89129

*4:『キルミーベイベー』もめちゃくちゃ好きだが、あれは割とアニメ自体が脱文脈的だったのでそういう物言いを作品自体が拒否していたような感覚がある。他のきららアニメに関しては普通に消費してた

*5:この辺の界隈の話をするとマジで生臭いし今でも関わってる人がいるのでやめておくが、何故かクラシック音楽評論のプロの人たちとコネがあったりして、「アイドル批評」があえて雑な物言いをすれば「サブカル」しぐさであるかのように見せかけてインテリのハイカルチャー業界が癒着していたという事例がままあるなど、10年代初頭はその辺が曖昧で、僕は振り返ってもこの現象がダメだったとはあまり思っていない。特にお世話になった方はアマチュア「アイドル批評」に身を沈めて音信不通になってしまったという心が痛むこともあった。多分よくある話だと思う

*6:百物語の「中の人」をいじるメタ演出など。あれは月ノ美兎の想定通りnoteのVtuberタグが月ノ美兎一色になり各々の批評もどきを嬉々としてオタクが量産していたが、あまりにもメタがベタだったので、恐らく意図して自らを「テキスト化」できるほどの能力が本人になかったし、また視聴者のオタクにもなかった。何よりどこかで指摘されていたが、メタのネタが売りだった月ノ美兎が中の人とガワの単純な二項対立に自分のアイデンティティを還元するのはあまりにも凡庸なのではないかという部分があり、プラットフォームの劇場化については同じブランドであれば雨森小夜が抜きんでているのでは……など。この辺りはnoteの「Virtual Life」というマガジンに有象無象が載っている

*7:ちなみにYoutube板のヲチが日課だった僕はガリベンガーに月ノ美兎や本間ひまわりが出演したときドル部とにじさんじアンチスレを交互に見てお互いのオタクが双方のVtuberをボコボコに叩くのを見て爆笑していた

ONCEになれなかったヲタクの嘆き、あるいは生き恥

 僕はTWICEが好きだ。Twitterでもこのブログでも、ことあるごとにTWICEのことを書いている。去年のMステで「BDZ」を観て衝撃を受け、MVを舐めるようにディグり、東京ドームのライブに足を運び、ハイタッチ会で推しのジヒョに会うために3万円分CDを積んだ。13歳でAKB48でアイドルのヲタクになってから随分経つが、こんなに金と時間をかけて応援しているアイドルは、多分TWICEが初めてだと思う。

 ちょっと迂遠な書き出しになるが、最近の「正直に言って」という枕詞は、露悪的な言い回しに対するうしろめたさや罪悪感をごまかすために機能してしまっているような気がする。正直であることは良いことであるはずで、わざわざ「正直に言って」などというエクスキューズは本当に言葉通りの意味で正直であるはずならいらないものなのだ。というエクスキューズにエクスキューズを重ねて言うならば、最近Twitterで見るONCE(TWICEの公式ファン名)を見ていると、「正直に言って」、気疲れすることが多くなった。こんなことを言うと人格を疑われるが(そして僕の人格は客観的に見て相当終わっている)、僕が10年近く女性アイドルのヲタクをやっているのは実生活で関わる女性が大嫌いだからだ。だから、ミソジニストと言われても、そうですね、という言葉しか出てこない。小学生のときからバスケ部の女子に集団リンチに遭い、女子ばかりの吹奏楽部に入って部長候補にまで上り詰めたにもかかわらず「キモいから」という理由で部長を下ろされ、今はバイト先の後輩女子にタメ口を利かれて完全に舐められている。やっとの思いでできた彼女とは本当にしょうもない喧嘩別れで関係が終わった。もう、こりごりなのである。そんな中で、女性アイドルは救いだった。散々自分をバカにしてくるリアルの女性とは違って、画面の向こうのアイドルは(ヲタクの薄汚い欲望にまみれて)キラキラと輝いていた。「都合が良い偶像でオナニーしてるだけ」、まさにその通りなのである。僕は、女性のことが大嫌いで、女性アイドルのことが大好きで、この二つは矛盾しない。もう変なおためごかしで格好をつける気力もなくなった。僕がアイドルを、TWICEを愛するのは、女性への私怨と憎悪の裏返しであることをいい加減認めなければならない段階に来ている。

 以下の文章は、TWICEとONCEを通じた、僕というアイドルヲタクの終わることのない自分語り、無間地獄である。「ONCE」でありたかった。そうなろうとした。でも、なれなかったし、もうなる気もない。しかし、こんな思いをしているTWICEのヲタクは、決して僕だけではないはずなのだ。というか、僕だけであってたまるかという気持ちがある。ONCEというファンコミュニティ以上に精神性を共有している共同体から爪弾きにされてしまったという疎外感を持つヲタクの立場に、僕は立っていたい。代弁しようとかそういう話ではなく、僕というはぐれ者を見つけて、似たようなはぐれ者の人が安心してほしいし、何より僕が安心したい。これは、コンプレックスまみれの一人のヲタクの、惨めなモノローグである。

 

・『Feel Special』と個人的TWICE観

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 つい先日の9月23日、TWICEはカムバックを果たした。今回のカムバックがただのカムバックではなかったことは、TWICEを追いかけているヲタクにとっては当然のことであった。『Feel Special』がスゴいというのは良い記事がインターネットで死ぬほど読めるから、このカムバック以前についての個人的TWICE観と僕にとっての『Feel Special』の話をすることにしよう。

 『FANCY』以前の、ティーンエイジャーの恋愛を「カラーポップ」という正直よく分からないジャンルに乗せて歌い踊るTWICEに、何の不満もなかったかというと、そういう訳ではなかった。あなたが好き、こっち向いて、という旨の歌詞を金のかかった分厚いポップサウンドに乗せて9人の可愛い女の子が歌って踊っていたら、それはまあ当然魅力的である。声も、低音が充実していて黒いグルーヴ感を演出できるジヒョ、歌い出しでグッと曲の世界観に引き込み、サビでもメインの音域を担当するナヨンのメインボーカルの2人を中心として9人それぞれに存在感があり、確かに他のK-POPのヨジャグループとは一線を画していた。ヴィジュアル面で文句のつけようがないのは今更僕が言うことでもないだろう。しかし、しかしである。僕はこれだけのポテンシャルを持った女の子が集まっておきながら、ポップに恋愛を歌うだけでいいのか?という思いを持つようになった。

 そもそも、TWICEに集まった9人の女の子は、全員は紹介できないが結構変な子たちである。とりあえずは動画を見てほしいのだが、例えば「SIXTEEN」のジョンヨンのLady Gaga「Applause」のパフォーマンス。

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化け物じみたスタイルの良さを持つジョンヨンだが、リュック・ベッソンフィフス・エレメント』を彷彿とさせる衣装を選び、目をひん剥いて棒立ちで歌うジョンヨンを観た時、「マジで変な人だな」と思った。まだ練習生なので歌が上手い訳では決してないのだが、表現力もある。

 あるいは、モモとミナのコンテンポラリーダンス

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モモは今年の初めの方に足の小指の骨を折った(何故かトイレで)のだが、V LIVEで「私は弱い人間ではないので足の骨を折った程度でダンスはやめない」と発言するという本気でアホなのかサイコパスなのかのどっちかとしか思えないエピソードもあり、このパフォーマンスで見ることのできるモモの表情は「妖しい」とか「猟奇的」とかの形容を越えて完全にイっている人間のそれである。ミナペンの人には申し訳ないが、モモが大変なことになっているのでミナを完全に食ってしまっている。

 全員の個別的なパフォーマンスは挙げられないが、要するにTWICEは「真面目で、誠実で、可愛いが、変な人」の集まりである。というのも当たり前で、プロデューサーのパク・ジニョンが現役歌手時代ピチピチのTシャツと短パンで踊り狂う変な人だからである。アイドルは、本質的にグロテスクなものだ。ソロではないのだからひとりひとりが何かいびつなものを持っているのは当然のことだし(僕はそれを「個性」で片づけたくはない)、いびつさをいびつさとして提示したときにアイドルは輝く。話がかなり長くなってしまったが、『TT』に代表されるTWICEポップスを、屈折したヲタクとしては無邪気に賛美する気にはあまりなれなかった(「TWICE的」とも言えるイメージ形成に間違いなく寄与した曲だし、『TT』が入り口になった人はもちろん多いにせよ、個人的にたくさん聴いた曲ではない)。『TT』があったからこそ『FANCY』や『Feel Special』が生まれたんだ、という意見もあり、それはそうなのだが、ジョンヨンやモモ(やそれ以外のメンバー)が持つ特異さを知っていればこそ、『Feel Special』は別として、『FANCY』が出たときはやっとか、という思いがあった。60年代的な意匠が凝らされたスタイリッシュなコスチュームに身をつつみ、ド派手な髪色(最近はタトゥーだらけになっている)のチェヨンに代表される『FANCY』のカムバックは、個人的な趣味もありとても嬉しかった。

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 で、『Feel Special』である。『FANCY』~『Feel Special』の間の半年については、これまた死ぬほど文章があるが、触れざるを得ないので簡単に触れよう。「サナの炎上」、「ミナの不安障害による活動休止」、「ジヒョの熱愛」、大体この三つである。どれも難しい問題だが、特にミナについては露悪的なヲタクである僕でさえかなり慎重に言葉を選ばなければならない。『Feel Special』でM COUNTDOWNに二回目の出演を果たしたとき、ジヒョは号泣していた。当たり前だったはずの「9人」が、当たり前ではなかった。今もミナは療養中であり、いつ復帰できるか分からない。8人での活動が、TWICEにとってどれだけ複雑な意味を持つかは、TWICEにとっても、ファンにとっても、違った形で重い問いである。『Feel Special』は、サナやミナ(ジヒョについては喜ぶべきことなのだが、ジヒョにもダニエルにもガチ恋ヲタクはいるわけで、実際カン・ダニエルの熱狂的なファンがハイタッチ会でジヒョに嫌がらせをしようとしているのでチケットの譲渡には注意してくださいといった旨の注意喚起もあったりした)に代表されるグループの困難を、下世話になることなく、しかし物語化を引き受けて、血の通った楽曲とパフォーマンスに変換して世に問うた。その内実は、『Feel Special』について様々な記事が書かれていることからも、改めて僕が書くことでもないだろう。

 僕はアイドルの曲への向き合い方として、アイドルの物語と歌詞を重ねる聴き方と、自分自身に重ねる聴き方の二つで向き合っている。「物語」としては、なるほど、100点満点だ。流石餅ゴリ。では、自分自身に重ねるとしたら、どうだっただろうか。TWICEの楽曲は、上にも書いたが『CHEER UP』や『TT』、『What is Love?』など、ティーン女子の恋愛を歌ったものが多い。22歳ヲタク男性がライドできるものではない。ところが、『Feel Special』は、より普遍的なことを歌っている。特に心に残ったのは、「みすぼらしいNobody」や「何でもない存在」、「いなくなっても分からない人」といったネガティブな言葉が散りばめられていることだった。『Feel Special』は、価値がない自分が特別な何か――それは自分自身であっても、恋人でも、友人でも、テレビの向こうの人でもいい――に出会うことで、自分を価値あるように思えるようになる、という自己肯定のプロセスの歌だ。そして僕は、TWICEに出会うことによって、みすぼらしく、価値がない自分を特別な自分として認める、まさに「Feel Special」だと思えるように…………ならなかった。ここがミソである。アイドルがどれだけ輝いていようが、自分が惨めで卑屈な性格なのはどうしようもない。大事なことは、向上心を持つことだ。このままじゃいけない、と思って、自分で自分を認めなければ、スタート地点にすら立てない。そして、僕は自己承認が本当に下手である。こういう文章を書いてTwitterの感想やブックマークをもらって、ようやくなんとなく自己肯定感を得ることができるが、ベースが卑屈でコンプレックスまみれなので、それも一瞬である。TWICEが何を歌おうが、僕がキモいヲタクという事実は変わらないし、特別とは言わなくとも自分で自分を認めることがどうしてもできない。

 TWICEは、自分が今まで通ってきたアイドルの中で、最も精神性を重んじるアイドルだと思う。JYP三訓「真実・誠実・謙虚」に始まり、TWICEが人間としてファンを裏切ったり姑息なことをしたりすることはなかった。実際、TWICEが心の助けになったことは何度もあった。大学3年の秋、持病の精神疾患の治療で飲んでいた薬を減らしたら、離脱症状希死念慮にかなり苦しめられ、大学に行けなくなった。「外に出たら死ぬ」どころか「リビングに出たら死ぬ」(包丁があったりリビングのすぐ外にはベランダがあったり、など)という観念に支配され、暗い自室で1日中布団にうずくまっていたときに、なんとか自分が死なないで済んだのはTWICEのおかげである。V LIVEに上がっているシンガポール旅行やスイス旅行の動画全部を何周も観て、ああよかった、今日は死なないで済んだ、という日々は確実にあった。しかし、だ。僕がTWICEを観ているのはひとえに(離脱症状のときに助けられたのも含めて)「逃避」である。現実から、病気から、女性から、どうにかして逃げたいという気持ちでTWICEを観ている。そんな気持ちで、向き合っているとは言えない仕方で向き合っているTWICEに「君は価値がないと自分で思っているかもしれないけど、何かのきっかけで自分を特別な存在だと思えるようになるかもしれない」と言われると、かなりうしろめたい気持ちになる。すいません、僕がTWICEのことを好きなのは逃げなんです、自分で自分を認められない=自分からさえも逃げたいからあなたたちのことを観てなんとかやっていってるんです、本当にすいません……。『Feel Special』のTWICEが提示する人間像は、本当に立派だ。じゃあ、立派じゃない人は、TWICEのこと好きでいちゃいけないんでしょうか……?

 

・「ONCE」からの落伍

 女性として、人として、言うこととやることが一致しているTWICEというアイドル。K-POPのそもそものファン層が女性が多いということを考慮に入れても、TWICEのファンは結構女性が多い。Twitterでもそうだし、東京ドームやハイタッチ会で見る光景も女性だらけだ。やっぱり、見た目が綺麗だという以上に、同じ女性として尊敬できるという部分もあるのだろう。BLACKPINKなどに代表される「ガールクラッシュ」表象が、「女性から見てカッコいい女性」像として打ち立てられているのもそうだが、TWICEにしろ、K-POPは女性アイドルの精神性が日本のそれとはかなり違うというのは色んなヨジャグループを見て思う。そして、女性観や人間観も含めた精神性の象徴として、TWICEに限らず他のグループもファンに「公式ファン名」を与える。TWICEであれば、「ONCE」だ。「ワンスサランヘ~」とダヒョンやサナなんかがよく言うが、TWICEもONCEというファン名をかなり好意的に用いる。そしてONCE達は、自らがONCEであることが誇りのようだ。ライブ・イベント会場でラブリーグッズを身に着け、キャンディーボンをぶら下げ、トートバッグには缶バッジがびっしり。AKBの握手会でそういうことをするのは認知のためみたいなところがあるが、TWICEの会場でそのように「武装」するのは訳が違う。TWICEが好きであること、「ONCE」という呼び名を各々が背負うことが、ファン一人一人にとってのアイデンティティとなっている。

 しかし、僕はと言えば「アケカス」(AKBヲタクが用いる自虐的な蔑称)育ちである。というか、Twitterでアイドルのヲタクをやっているというとき、僕が中高生の頃見ていたのは「ヲタクであることの卑屈さ」である。アケ「カス」、乃木「カス」、地下「豚」、プラチナム「奴隷」「豚」、ヲタクは、アイドルが好きであることを、根本的に恥じていた。僕の育ったインターネットでは「オタク」と言わず「『ヲ』タク」と表記を変えることによってジャーゴン的なヲタクの気持ち悪さを自分たちから表明していたのも事実である。これは憶測だし、「自分がそうだったし、今もそうだから」式の牽強付会になってしまうことは承知の上で述べると、その恥ずかしさの裏にあったのは、やはりアイドルが「逃避」だったからである。僕が高校生のときよくつるんでいたTwitterのヲタク集団に、女性は一人もいなかった。アイドル現場で輪になって騒ぎ、居酒屋でドルシコ(アイドルでオナニーすること)論争を繰り広げる空間は、100%ミソジニーホモソーシャルによって担保されていた。結局そのヲタク集団はサークルクラッシャーみたいな女ヲタが現れて童貞のヲタクを食い散らかして空中分解する、という最悪の結末を迎えたのだが、それは置いておこう。とにかく、アイドルが好きであることによって自分のことも好きになれる、なんてことはあり得なかったのである。

 ここから先はかなり誤解を招く書き口になるので、予防線を張っておこう。僕は、ONCEであると自認する人たちのことをバカにしたり、攻撃したりしたいのではない。というかむしろ、本当にうらやましい。僕もできることなら、そういうアイドルの好きになり方をしたかった。TwitterやブログでONCEの方の文章を読んだり、直接話したりしてよく出てくるのは、生き方の問題や、誠実さについてである。「たかが」アイドルなのにTWICEについて話していたら自然と倫理の話になるのだから、本当にTWICEはすごい。僕はそういう人たちの文章に接する度に、この人たちはアイドルが好きなことが恥ずかしくないんだな、と素朴に思ってきた。これは僕のアイドル観がめちゃくちゃに歪んでしまっているからなのだが、20歳を越えてまともに異性と向き合わず、どう考えても普通に生きてたら遭遇するはずもないヴィジュアルの女の子のケツを追っかけている男性、本当に恥ずかしくないですか?あまつさえその女の子たちでオナニーまでしている始末である。我ながら救いようがない。僕は、ここまでの文章でV LIVEについて触れたが、実は僕はV LIVEをあんまり観ない。メンバー同士で、ときにはおちゃらけて、ときには真面目に、TWICEが語るTWICE自身の「人間性」みたいなものを見るのがめんどくさいのだ。アイドルには、完全に「パッケージ」、「コンテンツ」でいてほしい。ライブや歌番組で見せるパフォーマンスの表情の機微や、バラエティ番組でどれだけ面白いことを言ったりやったりするかの方が興味がある(「アイドルルーム」や「amigo TV」は同じものを何回も見るぐらい好きだが)。本質的に異性が怖くて興味も持てないのだ。そんなわけで、僕はずっとアイドルが好きな自分が恥ずかしい。アイドルが、TWICEが好きだと表明することは、「僕は女性から逃げています」と表明するのと全く変わらないからだ(こんなことを言っているが、TWICEの黒と金のトートバッグは普段使いにしている。デザイン的に言わないと分からないから使いやすいというのはあるが、TWICE好きな人に反応されると普通に嬉しい。こういう矛盾があることにも自分で自分に呆れ返る)。

 Twitterで、「ONCE」、「誠実さ」、といった文字列が目に入るたびに、言いようのない罪悪感を覚えた。どうひっくり返ってもこのアイドルに対するコンプレックスは言い逃れできないし、何よりそれに乗っかってそれっぽいことを言うのは一番良くないことだ。だから、逆張りのように僕は推しのジヒョでオナニーするかどうかと、結局ジヒョでオナニーしましたという記事を合わせて1万字ぐらい書いたし、Twitterでもしょっちゅうネタにしている。しかし、TWICEで下ネタを言う、みたいな露悪的な素ぶりは所詮表面的なものだ。それとは違う、もっと澱のように沈殿してしまった、TWICEを好きでいる(と表明する)ことのうしろめたさ、具体的に言えば「ONCE」からはぐれてしまったことの所在なさについて、何か言い訳をしなければTWICE自体が好きじゃなくなってしまうかもしれないとさえ思った。それでひねり出した僕の一連のツイートがこれである。

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172546555343040512

「アイドルは全くの他人」というところからヲタクが始まっているので、既にだらしがない僕の人生をTWICEを観てしっかりしようという風には思えなくて、ヲタクってそういう矛盾をTwitterで茶化すもんだよなと思ってたら、意外とこう、TWICEで自分の人生を肯定しようみたいな人が多くて、おお、みたいな」

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172548247983816706

これマジでそういう人たちを否定したいんじゃなくて、僕の母はBTS好きなくせに韓国が嫌いみたいな人だし、僕はそういうのはないんだけど、TWICEを観て頑張ってこう生きようとは思えないというか、TWICETWICEだし僕が怠惰で擁護のしようがないカスなのを特にどうする気もないみたいな矛盾はあります」

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172728400890318848

というかTWICEを好きでいることによって私たちの人生色々あるけど頑張ろう!メンバーも頑張ってるし!みたいなワンスのあり方についていけなくなってる感がある、TWICEを観ても僕は頑張れないし頑張ろうとも思わないので」

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172730149093044226

「じゃあ何のためにTWICE観てんのって言われたら、まあ第一には単に好きだからですが、アイドルを僕が愛するのは女性や社会からの逃避としか言いようがなく、それで僕みたいなヲタクは決していない訳じゃないんだろうけど、TWICE愛する人の中ではあんまり見ないみたいな、そういう話です」

Twitterだと冷笑的な文面になってしまうのは僕のよくない癖だが、この文章で言いたいことはこの4つのツイートを引き伸ばしているだけである。というか、一番最初のツイートの「おお、みたいな」のところの説明がこの記事と言ってもいい。TWICEが立派だから、ONCEも立派にはなれなくても、誠実に生きよう。そういう姿勢にはなれなかった。もともと逃避だから、TWICEから何かを学ぼうという姿勢すらない。だからといって口を開けて消費するのは何か悔しいから、こうやって長い文章を書いたりTwitterでお気持ち表明してそれっぽいことを言いたい……もはや言うのも情けないが、これが僕というヲタクのTWICEへの向き合い方である。ONCEになれないのではない。なる資格がないのだ。僕はただただ、ONCEでも何でもない、「TWICEのヲタク」、こんな言葉はないがあえて言えば「トゥワカス」として、これからもTWICEを見続けるだろう。

 

・やっぱり、TWICEは大好き

 なんだか散々なことを書いてしまったが、冒頭に戻って言わせてもらえば僕は本当にTWICEのことが好きである。推しであるジヒョを始め、9人(あんまりこの数字を迂闊に使いたくはないが、それでも)が歌って踊る姿を観ると元気が出る。精神病で本気で死にかけた僕がなんとかこうして文章を書いていられるのはTWICEのおかげだ。でもやっぱり、つくづく僕は面倒なヲタクである。多分これからも女性を怖がって被害妄想を膨らませては勝手にキレて縁が終わる、みたいな失敗を繰り返すし、僕はそのたびにアイドルにすがるだろう。でも、そうやってしか生きられないのだ。生まれてこなければよかったとさえ思うこの人生を1秒でも肯定できる瞬間の一つがアイドルを観ているときであることを、今更変えることはできない。刻むような人生を、泥のように、生き恥を晒して、野垂れ生きるしかないのである。

 

 あと、TWICELIGHTSは幕張3公演、静岡2公演申し込んで全部外れました。なんというか、日頃の言動のバチが当たった感じです。推しであるパク・ジヒョさんに最大限の愛を込めて。

愛がいつか終わっても――風俗黙示録

・2015年2月、五反田

 高校2年生の冬、私はどん詰まりになっていた。所属していた吹奏楽部が定期演奏会を前にして一切コンディションが仕上がらず(私も自分で出した曲の譜面がまともに演奏できない状態だった)、退部者が続出し、完全に空中分解していた。中、高とまともに授業を受けず部活に全てを捧げた学生生活だったので、部活イコール自分だった。あまつさえ、来年度は私が部長の責を負うことが決まっていて、つまりはこの崩壊したグループを立て直せるかどうかは私にかかっていたのだ。曲が吹けないプレッシャー、5年間ホルンを続けてきたプライド、「次期部長」の看板の重さ……今振り返ってみれば部活の問題なんて、という感じもするが、学校の授業をサボって昼まで寝ていて部活だけ行く、みたいな生活をして高校を留年しかけるような17歳にとって、部活は何よりも優先されるべきものだった。

 グダグダの合奏が終わり、今日もダメだった、明日もどうせダメだろう、などと思いながら当時の次期副部長であった友人と帰りの西武線で一緒になった日のことだった。彼は高校時代一番仲の良かった友人だったが、これからの部活の方向性で若干意見が食い違うこともあり、あまり雰囲気は良くなかった(この時期が一番関係が冷え込んでいた)。いつもなら好きなAV女優や映画の話で盛り上がる仲なのだが、二人の頭の片隅には常に「今の部活をどうするか」が重たく存在していて、話の途中途中はうすら寒い沈黙に支配された。

「なあ、もうさ、風俗行こうぜ」

 今思えば唐突も唐突である。友人が沈黙を破って言い放った一言がこれだ。しかし、当時の私はこの急な誘いに、「おう、行こうぜ」とも言わず、黙って首を縦に振った。そもそも童貞の17歳二人、金も度胸もないが性欲だけは持て余している存在がストレスを溜めたときにする行為はオナニーしかなかった。というか、ストレスがなくてもとりあえずオナニーしていた。部活や人間関係の閉塞は、いつものオナニーじゃなくて、もっとスリリングで、エキサイティングで、刹那的な、そういう性体験でなんとかごまかせるのではないか――そういう期待を持たなければ、明日からの部活をもうやっていけない。かくして私と友人は、スマホで全力で安いピンサロをこれまでにない結託で調べ上げ、週末に五反田で会うことになった。

 日曜朝10時半、冬の五反田の空は高かったのを覚えている。神妙な面持ちで駅で待ち合わせ。当然、私も友人も外出前に入念に体のチェックをした。シャンプーを二回、股間を特に力強く洗い、歯磨きは歯ぐきから出血するまで行った。別に不潔にしているわけではないが、友人と飲んだ帰りにフラッと風俗に行くようになった現在からしてみると、なんとも微笑ましい話である。目当ての店は11時開店だったから、慣れない五反田の街を暇つぶしにぐるぐる見て回って時間を潰した。

 開店と同時に入店。事前に見ていたホームページで目星をつけていた子を指名、二回転コース30分で大体8000円ぐらいだったと思う。当然法律(条例?)違反のことをしているので、小心者の私は心臓が炸裂しそうになりながらおばあちゃんからもらったお年玉の1万円をボーイに渡した。「ウーロン茶と緑茶、どちらになさいますか?300円でアルコール類のご注文も可能です」「え、あ、ウーロン茶で」などとギクシャクしたやり取りをボーイと交わす。友人の方を見たら、見たことがないぐらい真剣な表情でチューハイを買っていた。バカだと思った。

 結局、あとで書くことにはなるが、自分の中で「風俗=ピンサロ」という図式が出来上がっているのは、この体験のせいだと思う。爆音で流れるEDM、謎のミラーボールに緊張しながら席に案内され、着席して一緒にサーブされるウーロン茶をとりあえず飲む。外は寒いので冷えたウーロン茶で余計に体が冷える。まず一人目、やってきたのはちょっと年の行ったギャルだった。「何の仕事してるの?」「デザイン系です……」むちゃくちゃすぎる三味線であるが、初めて自分の顔が老け顔であることが功を奏した。もうどうでもいいから早くしゃぶってくれ、と思いながら虚ろな会話を交わす。ほどなくして、彼女は「ズボン脱いで」と私に促した。親の前以外で陰部を露出する初めての機会がこんなことになるとは思っていなかった。寒さで縮こまった私のものを入念にウェットティッシュで拭かれ、しこうしておもむろに咥えた。感触より何より、口にものを含むために私の太ももの上に彼女が覆いかぶさったとき、背中にゴリゴリの薔薇の刺青が施されていたのが衝撃的だった。肝心のテクニックの方は今思い返しても水準が高かったが、明らかに今出すわけにはいかなかった。何故なら、二回転の後の方に指名の子が控えていたからである。多少危なかったが、15分を耐えきり、お目当ての子を待った。ようやく出てきた女の子は、写真とは別人だった。ここで17歳の性欲お化け高校生は、初めてのピンサロ、初めてのパネマジ(パネルマジックの略。風俗用語で、入り口の写真をPhotoshopなどで美人に加工することによって実物と少し、あるいは全く違うものになっている状態を指す)を経験することになった。そのあとのことは、正直よく覚えていない。何をどう頑張っても、私のものはうんともすんとも言わなかったことだけが、心に刻み込まれている。自分が悪いのは分かってはいた。前日に高まりすぎて三回オナニーした私に全ての非があった。苦い気持ちを抱いて退店し、よく晴れて乾いた冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。涙は出なかった。これが、私の「はじまり」だった。17歳から今に至る5年間の私的風俗史の、いささか長すぎるプロローグである。

 

 私は、「書かずにはいられない」たちである。クラシック音楽や映画、アイドルやバーチャルYoutuberなど、ジャンルを問わずひたすらに自分の好きなものを書いてきた。それだけではない。Tumblrで好きになった人への想いや、はた目から見たらいわゆる「メンヘラ」のような自暴自棄じみた、今読み返すとかなり恥ずかしいものも、やはり文章として残っている。だが――今思うとなぜこれだけ書いてこなかったのかと不思議だが――私が偏愛を示す風俗については、まとまった文章を書かなかった。これは後付けであるが、風俗についての言説は、かなり差別化が図りにくい。なんでもいいが、「諭吉で風俗」などのレビューサイトを見ると、それがよく分かる。何分コースで、こんな嬢で、こんなプレイをして、星いくつで……ほとんどそんな感じである。その店に行くための参考にするものであるからそうなるのは自然なことだが、風俗については「誰が書いても同じ」ものになりやすい。中には素人童貞a.k.a素童氏や素股三四郎氏などの卓越したレビューもあるが、それもやはり「プレイ」がどういったものなのかを詳細に述べるもので、私が書きたいものではない(私が書きたいものではないというだけで、彼らの文章は読ませる力があり、非常に影響された)。私が書きたいのは、プレイがどう、嬢がどうというよりも、風俗という場において立ち上がる空気感や緊張感を切り取ったものである。だから、風俗それ自体についても、プレイの内容よりも「このお金を払って性的サービスやそれ以外の何かを受け取った」と思える何かの方が私にとってはよっぽど重要である。

 ここでは、特に思い出深かった(中には現在進行形のものもある)3つの風俗体験について、どれほどの長さになるか分からないが、書いてみようと思う。私にとって、性は宿命的なものであるが、特に風俗を巡る情念には、何か言葉にしづらいものがある。私は5年間、何かがあっても、何もなくても、ことあるごとに風俗に行った。童貞を捨てたあとも、風俗は変わらず私の欲望の対象であり続けた。初めての恋人ができても、金銭を伴わないセックスを経験しても、必ず風俗に行った。バイトができない体になり、親から外出時にもらった3000円のお小遣いをパチンコで5000円にして大塚の3000円20分のピンサロに毎週通うなどといったどうしようもない時期もあった。風俗について語るということは、私という人間のしどけなさについて語ることだ。そして、そのしどけなさは、10人いれば10人違った形でそれぞれの中にあり、それはもしかしたら、その人間の立派なところや誇れるところよりも、大事にしなければならない何かであることだって、大いにあることだ。ならば、そのほんの一端を、言葉にする努力をしてみたい。

 ちなみに、以下は具体的なエピソードになるが、「是非行ってみてほしい」という思いもあるものの、中には「ルール違反」を伴うものもあるので、店の名誉のためにも「地名・営業形態・イニシャル」で表記する。お前ばかり良い目見やがって、という向きもあるかもしれないが、風俗はびっくり箱のようなものなので、諸賢におかれては是非自分の足で店に赴き、自分だけの風俗の楽しみ方を見つけてほしい。

 

・1.新宿の店舗型ヘルス・C

 これはランキング付けではなく、あくまでも個人的に印象的だった3つのエピソードを選ぶというものだが、後程3つめの項目で挙げることになるピンサロにしてもこのヘルスにしても、新宿は極めてクオリティが高い印象がある。信用度とアクセスの良さから風俗に行くときは大体新宿で、価格帯は大塚や池袋よりは高めだが得られるものから考えれば抜群のコストパフォーマンスを誇る。私は行ったことがないのだが、ソープの老舗・Kグループやデリヘルも多く、私は風俗に行ったことがなくて行ってみたいという友人がいたらとりあえず新宿の無料案内所にブチ込んでいる。

 あまり辞書的な説明をすると長くなるので簡潔な前置きをすると、「ヘルス」という風俗の形態は大きく分けて三つある。ラブホテルや自宅から電話をかけて女の子を呼び出す「デリバリーヘルス」(デリヘル)、店舗で写真指名してから近くのレンタルルームや安ホテルでサービスを受ける「ホテルヘルス」(ホテヘル)、店舗とプレイルームが一体になっている「店舗型ヘルス」(箱ヘル)と大まかに分類できるが(これより細かい区分は浅学なのでよく知らない)、この中では私はデリヘルのみ使ったことがないためホテヘルとの厳密な区分がよく分かっていない節もある。私は箱ヘルが手軽でよく利用するが、箱ヘルは手軽な分ハズすときは結構ハズす。ここで取り上げるCというヘルスはチェーン店で、渋谷のCにも行ったことがあるが、「ワースト」で書こうかと思ったぐらいひどいサービスだった。ディープキスなし、フェラなし、素股は下手クソ、シャワータイムも無言で挙句に結構重量級の嬢だったので、終わったあとボーイに12000円返せと詰め寄ったことさえある。流石に返金はされなかったが、相当頭に来ていたのが伝わったようで、平謝りされた。こういう場合は嬢の責任ではなく、教育していない店側の責任なので、文句を言う筋としてはボーイに言う方が一応正しい(というか風俗で文句を言っている時点で相当終わっている人種だが、それはこの際考えない)。というのも、新宿のCは一回しか足を運んでいないものの、かなり心に残る経験だっただけに、期待値が高かったのである。

 その日、Cに行ったことによって、結果的に2日連続の風俗になった。前日は友人と徹夜で飲み明かした後動物園でゴリラを見てピンサロに行き、この日は確か当時やっていたバーのアルバイトに出勤する前にCに行った。歌舞伎町を少し奥に入ったところにあるこの店は、結構古めかしい佇まいをしている。電話で料金を確認し、初回45分8000円とのことだったので、受付で電話で話を伺った旨を言うと、快く待合室に案内してくれた。風俗においてかなり重要になるのはボーイの態度で、嬢がいくら良くてもボーイのせいで台無し、みたいなケースはしょっちゅうあるが、Cは抜群の対応の良さである。靴を脱いでスリッパに履き替えるときは靴を揃えて分かるように置いてくれる、待合室への動線、プレイルームに移動するとき他の客と鉢合わせにならないようにするなど、かなり行き届いていた。こう対応が良いと待合室での一服もリラックスできるものになる。

 フリーで入ったのでどんなのが出るかと思っていたが、アイドルオタクの例えで申し訳ないがLinQというグループの坂井朝香に似た、綺麗な人だった。これからバイトなんです、というと、初対面でタメ口が多い風俗嬢には珍しく、とても丁寧に、ではしっかり癒してあげますね、と返された。

 初めての箱ヘル体験は、結果的に素晴らしいものになった。シャワーのときから会話を切らさず、ベッドに移ってからは全てのプレイがスムーズで、全てを任せることができた。素股(挿入せずに手と股間の摩擦で疑似的に膣の感覚を演出するプレイ)をされたときは一瞬何をされたか本気で分からず、(確か)まだ童貞だった私はこれが噂の基盤(本番行為のこと。ピンサロ、ヘルスでは禁止行為だが、店や嬢次第では暗黙のうちにOKになっている場合もある)かと思ったが、後ろに手をあてがっているのを見て素股だと分かった。背中のマッサージもかなり入念に行ってくれた。

 プレイ終了後、シャワーを一緒に浴びながら、大学で何の勉強をしているのか聞かれた。学科振り分けが発表された後で哲学科に行くことが決まっていたので、一応哲学です、と答えた。普通の嬢なら、ここでへえ、そうなんだと言って終わらせるところなのだが、彼女は違った。何て言う哲学者?と切り返してきたので、若干ぎょっとしながら、当時よく読んでいたベルクソンの名前を挙げた。彼女は知的好奇心が旺盛で、私が少し読んだことがあるのはデカルトぐらいなんだけど、デカルトベルクソンはどういう違いがあるのかとか、ベルクソン哲学について説明してほしいとか、かなり突っ込んだ話をしてきた。私は残り時間の5分で、早口でそれらの質問に答えた。全裸で。風俗嬢にチンチン丸出しの状態でベルクソンの『時間と自由』の内容について喋らされたのは後にも先にもあれが最後である(大塚のピンサロで席に座ってウエルベックを読んでいたら『闘争領域の拡大』のあらすじを説明する羽目になったことはある)。彼女は、私の目を見て真剣に話を聞いたあと、お客さんはとても綺麗な敬語で喋りますね、と言った。なんでも、大学にいるときにヨーロッパ(具体的にどことは言わなかった覚えがある)に歴史の研究をするために留学をしたかったが金銭の問題で諦め、ここでお金を稼いでいつか海外に行く、という話だった。今書いても、かなり嘘みたいな話だが、こういう会話をしたことは事実である。留学云々は嘘なのかもしれないが、少なくとも私の哲学の話を聞き、私の言葉遣いを指摘する彼女の眼は、本物だった。このエピソードは3つの中では唯一プレイに関係しないところで、深く心に残っている。

 

・2.鶯谷のニューハーフヘルス・L

 小学生ぐらいのときから、私は同性に性的感情を抱くことに抵抗がなかったというか、自然なことだった。高校は男子校だったが、クラスメイトの男の子に恋をしたし(何度も口説いたが性的志向の壁はどうしようもなかった)、大学に入ってから男性と肉体関係を持ったこともある。そんなわけで、私は長らく自分のセクシュアリティバイセクシュアルだと思っていたのだが、ジェンダー社会学の授業を受けたりそういう本を何冊か読んで、完全にバイセクシュアルであると自分を定義するにはやや違和感を覚えるようになり、どちらかというとMSM(=Men who have Sex with Menの略、社会統計などで用いられる。セクシュアリティに関係なく男性とセックスする男性を指す)と言った方が近い気がするので、セクシュアリティを聞かれた場合はMSMの説明をするようにしておく。という御託は置いておいて、イケメンのチンポはしゃぶりたいものである。大きければ大きいほどよい。私も飲みの席で、酔った勢いで幾度となくイケメンの首筋を舐め上げ、チンポをまさぐった。普通にセクハラなのだが、酔いの勢いと「男同士の悪ノリ」という建前で許されてきてしまった。訴えられたらまず間違いなく負ける。

 女性同士のセックスコミュニティがどうなっているのかは知る由もないが、ハッテン場や二丁目に赴く勇気のない男性マイノリティが同性とのセックスにありつくのはかなり難しい。私が過去に関係を持った男性は高校の同期だったし、運と人脈でなんとか1人2人とセックスできるか、というところだ。そういう訳で、ニューハーフヘルスである。私の男性の好みが中性的な顔立ち(ゲイコミュニティの専門用語で言えば「ジャニ系」)で胸板が少し厚め、かつニューハーフではなくて無工事の「男の娘」やニュークオーターに限ると結構要求が多いのだが、Lにはかなり助けられている。他のニューハーフヘルスの口コミが「出てきたのがただのおっさんだった」みたいな話もあったりしてかなりリスキーなのだが、Lは(おおよそ)ハズレはない。3回利用したが、女の子かと見まがうレベルのイケメンが揃っている(本筋とは外れるのでこの話はあまり深入りしないことにするが、ニューハーフの子にフリーで当たったときに脱いだらリスカ・痣だらけの痛々しい裸で、とても対応が良く見た目のレベルも高い子だっただけに相当精神的に堪えた)。

 ニューハーフヘルス、という存在がどの程度まで風営法的にセーフなのかをしっかり勉強する必要があるが、これはルール違反でもなんでもなく(コンドーム付きで――ここが重要)挿入が可である。また、「逆アナ」といって、挿入「してもらう」のもOK。ただし、逆アナにはテクニックを要するので、できるスタッフ(嬢という言い方がこの場合適切でない気がするので、スタッフと呼んでおく)は限られている。注目すべきはその業務形態である。高田馬場店と鶯谷店に行ったことがあるが(というかここまで店舗を言っていてイニシャルがLのニューハーフヘルスは知る限り一つしかないので、何か問題が発生したらこの記事は消去することになる)、共通しているのは電話で指示を出され、その通りに道を進むと普通のワンルームマンションか大きい一軒家が現れ、中からスタッフが出迎えてくれる、という仕組みになっていることである。初めて行ったときは漫画『殺し屋1』に出てきそうなマンションを前にして、普通に漏らしかけた。ここで扱う鶯谷店はある文字列の看板が掲げられた一軒家だが、住宅街のド真ん中にあるのでこれも結構怖い。

 仮に、そのスタッフのことをTと呼ぼう。彼は160cm前後で私より背が低かったが、体つきはがっしりとまではいかなくともしっかり筋肉がついていて、チンポが大きく、何よりかなりの美形だった。アイドルにばかり例えるようで申し訳ないが、乃木坂46鈴木絢音に似ていた。おっとりした口調で話しかけてくれ、大学で哲学を勉強しているという私に――大学生に何を勉強しているか聞くのは会話のとっかかりとして都合がいいのだろう――デカルトのコギト・エルゴ・スムは知ってる、みたいな適当な口ぶりで三味線を弾いた。

 ベッドに移動し、プレイが始まると、端正な顔立ちからは想像もできないぐらいの乱れぶりを見せた。美形はどんな顔をしても美形なのだなあという素朴な感想しか出てこないが、「男同士」という法の抜け穴を突いた挿入を前提としたプレイは、これに慣れてしまうと普通のヘルスだと物足りなくなってしまうかもしれない、というぐらいに濃厚である。あと、ありきたりな話ではあるが、愛撫のポイントを男性同士だからほぼ把握できるというのはかなり大きい。もちろんTの大きいものも存分に味わい、それじゃそろそろ……みたいなことを私が彼の耳元で囁くと、うん……と言いながら挿入。ん?おかしくないか?枕元にあるゴムは?え?これ、「ナマ」じゃん……。実は、初めてLを利用したときも、最中に耳元で「ナマでしていい?」と囁かれたことはある(自慢のようになってしまうが、大きいとゴムと直腸が摩擦するのでローションを使っても結構痛いらしい)。行き届いた店なので大丈夫なのは分かっているが、男性同士のセックスはやはりリスキーであるので、そのときは丁重にお断りしたが、今、目の前で確実に自分がコンドームをつけずにイケメンの直腸にチンポをブチ込んでいる事実は揺るぎないものとしてある。思考回路は既にマッハ、言うか?いやでも言わなければこの子に生中出しできるし――理性と獣がBPM250のワルツを踊り狂う。結果的に、理性は獣に負けた。恋人のように互いを貪り合い、そのまま中で達した。もう、どうでもいいかな、と。1年後、私は新宿の保健所で検査を受けた。結果はHIV陰性。本当によかった(色んな意味で)。

 余談だが、シャワーの後、思い切って「なんでナマオッケーだったんですか……?」と聞いてみた(ホームページに「コンドームを使用しないプレイは禁止」と明記してある)。「いや、オッケーな訳じゃなかったんだけどさ……」今でも、真相はよく分からない。分からない方がいいこともあるのである。

 

・3.新宿のピンサロ・N

 上で、風俗とはびっくり箱のようなものだ、と書いた。それは半分は合っていて、半分は間違っている。フリーで入り、色んな嬢と接してゆく過程は、「推し」に巡り合うための旅だ。もちろん、写真指名で惹かれた嬢やヒメ日記で人となりを見て決め打ちするのも一つの楽しみ方ではある。しかし、私が5年かけて色んな風俗に行ったのは、いずれ出会う推しを見つけるためだ。推しに会えば、元気が出てくる。このどうしようもない日々を、また推しに会うためにもう一日長く生きてみようと思うことだってある。だから、このNという店は、私にとって一つのスタートであると同時に、通過点としての風俗巡りのゴールの景色を見せてくれた場所だ。

 私とNの付き合いは長い。大学1年生のとき、新宿で手ごろなピンサロ(池袋は少し遠い)がないかなと探していて、ホームページが比較的新しいデザインで若い嬢が多いというのが決め手でNに通い始めた。Nは総じて女の子の水準が非常に高く、上野でボストロールみたいな歯がない嬢と御手合せ願った苦い経験もあったりすると、Nはまさにオアシスである。かれこれ3年通っていて、多分総額で言えば10万は行かなくとも7~8万はNに突っ込んでいる。私は、何かにつけてNに行った。友人と飲みの勢いで、親にしょうもないことで怒られて、パチンコで2万負けて、恋人にフラれて、給料日で金が入って……私の冴えないキャンパスライフを彩ったのは、間違いなくNだった。ボーイの態度が悪かったりした時期もあるが、今はみんな愛想がいい。私が通い出したのはまだオープンしてそんなに時間も経っていなかったから、ボーイにまで教育が行き届いていなかったのだろう。ハキハキとコミュニケーションを取る今のNのボーイと会話していると、なんだか3年前のぶっきらぼうだったボーイとの殺伐とした会話さえも、良い思い出である。色んな女の子と遊んだ。同じ吹奏楽部の女の子と部活トークで盛り上がったり、上京組の子には出身地のご当地グルメについて聞いたり、あるいは私の身の上話を聞いてもらったり。嬢によってテクニックにムラはあったが、射精できなくても、Nを出て今日はハズレだった、来なければよかったと思ったことは、本当にただの一度もない。友人にもおすすめしているが、みんな満足して帰ってくる。名店とはまさにこのことだろう。

 今年の3月、髪を切ったあと、いつものようにフリーで入った。Rという明るい女の子に出会った。この子が、まさに私の「推し」である。ピンサロの楽しみ方は人それぞれだが、30分という短い時間をどう配分するかは、嬢のセンスである。私は足を思いっきり伸ばしていないと射精できない(いわゆる「足ピン」)上に遅漏という厄介なたちで、このせいでNの他の子に当たったときフラットシートに足を思いっきり伸ばしていたらこむら返りを起こして嬢の前で痛みのあまり号泣するという情けなさすぎる一幕もあったり、実際のセックスでもできる体位がかなり限定されるなどこの癖のせいで色々な問題があるが、一度当時のNo.3の嬢と20分間雑談してしまったときはかなり焦った。トークが上手いのである。愛想がいいのに当てられたが多分延々とフェラをするのは疲れるからさっさと出して終わらせてしまおうという嬢の目論見を邪推した私は、プレイが始まった段階で射精は諦めていた。が、足ピンもせず、3分で射精。これはかなり強引で私の好まないパターンだが、これもこれでスタイルの一つである。否定されるものではない。翻って、Rは雑談をしない。ブースに来て、「来てくれてありがとー!」と言いながらハグをして、すぐにキスをする。これがかなりありがたかった。「今日はイケないかもしれない」という不安を胸にブースにずっといるのはかなり辛いし、嬢にも申し訳ない。その代わり、Rは早く終わったら時間いっぱいまで話をしたり、キスをしたりしてくれる。見た目や体つきもかなり満点に近く、実際初めて入ったときはフリーだったのに今や指名No.2で2時間待ちはザラという人気ぶりである。

 先日、意を決して19000円を払い、本指名で60分のロングコースに入った。人生で一番お金を使った風俗は2番目のLで17000円だったので、最高記録を更新したことになる。来て早々、「久しぶり~!」と親しげに声をかけてくれる。こちらは3月からで大体5~6回ぐらい指名しているから平均すれば月に1回は会っていることになるが、今回は2か月ぶりだった。会話もほどほどに、すぐにプレイに入った。ここでプレイの内容を事細かに書いてもしょうがないだろう。とにかく圧倒的に濃密な60分間だった。Rを抱いている間、かつて付き合っていた恋人のことを思い出した。あの人と愛し合うときも、確かにこんな感じだった気がする。正面切って愛し合うことは、年を追うごとに難しくなるし、多分これからもっと難しくなっていく。それでも、Rとの60分だったり、彼女と付き合った半年だったりというタイムリミット付きで、いつか、愛がいつか終わっても――このときだけは、確かに愛し合っていたという温もりが残ることが、大事なことだと思った。即尺(おしぼりなしのフェラ)をしてもらえたとかは、割とどうでもいい。Rと私が、生まれたままの姿で愛し合うということが、最も心に残ったし、これだったら19000円なんて屁でもない値段だ。一通り終わって、名刺を書きにRが席を立った後も、煙草を吸いながら心地よい疲れを感じた。Rは戻ってくるなり、「口開けて」と言い、飴を口移しでくれた。こんなに甘い飴は初めてだった。

 

 私は、多分これからも、風俗に行く。推しに会いに。あるいはまた新たな出会いを求めて。これは、愛がいつか終わっても、いつか愛が終わることの、私だけの、ひそやかな黙示録である。

 

・おまけ――出会い系でデブに20000円取られた

 いい話風に締めようと思ったが、女を買っている時点で男としてアウトで最低である。惨めなエピソードを1個だけ、極めて短く触れてこの記事を終えよう。私はかつて付き合っていた人に付き合う前は3回、付き合ってから2回フラれているのだが、2回目にフラれたときは完全にヤケクソだった。セックスできればなんでもいいと思って無料の出会い系アプリに登録し、5分でマッチングした相手とその日のうちに大塚で会うことになった。プロフィールは27歳人妻。メッセージではそんなことなかったのにメアドを交換して電話番号も教えてじゃあ会いましょう!となったときに相手は20000円を要求。とにかくセックスしたかったので二つ返事で了承、大塚に到着、待っていたのは関取。前頭ではない。ホテルに行き要求通りの金額を支払い、一回戦やって終了。風呂を入れてる最中に帰られた。ジャグジー風呂に一人で浸かりながら吸った煙草の味を、私は忘れることはないだろう。愛がいつか終わっても。

TWICEハイタッチ会 ごく個人的なレポート

チェヨン

 チェヨンはTWICEのメンバーの中で一番身長が小さい。客観的に彼女の体躯がどういう作りをしているかという問題は些細な問題のようで、実際に目の前にしたときの印象はそういう些細な印象の方に引っ張られてしまうが、「FANCY」活動時の髪の色をピンク色にし、刺激的なコスチュームに身を包んだチェヨンは体躯の小ささを気にさせず、文句なしにカッコよかった。最近は黒髪に戻したが、手首、耳の裏、腕、指にタトゥーを施した彼女の姿は、アイドルと一緒について回る「アーティスト」といういささか陳腐で奇妙な肩書を字義通りのもっともらしさで受け取らせるだけの説得力がある。

 消毒用アルコールを手にプッシュしてブースに入ると、上にも書いたが、座っていたというのもあり想像以上に小さく見えた。「赤ちゃん猛獣」という有名なチェヨンの二つ名はまさに言い得て妙で、リラックスしてブースで右手を差し出す彼女を見ると、今日ハイタッチする4人の中で一番最初にチェヨンを選んだことでこちらも肩の力を抜いてメンバーに会うことができる感じがして、安心感が心の底から湧いてきた。妙に媚びたりせず、自然体で、しかし本人の持つ愛らしさがよく伝わってくるハイタッチだった。私はチェヨンのハイタッチ券を2枚持っていたのでレーンを2周することになったが、2周目は私の前の番が小さい女の子だった。その女の子を見るチェヨンの視線が、とても暖かいものだったのをよく覚えている。

 

・ツウィ

 ツウィとハイタッチするのは2回目だった。今回は「Breakthrough」のハイタッチ会だったが、先月行われた「HAPPY HAPPY」で1枚だけ引けたのがツウィだった。それが初めて至近距離でTWICEのメンバーを見る体験になったわけだが、そこで私は、当たり前のことなのだが、ツウィを含めてTWICEというアイドルが「人間の顔」をしていたことに驚いた。顔が私の拳ほどしかないように思えるツウィが、つたない日本語で「ありがとうございます」と私に言ってくれたとき、テレビやスマートフォンで見ると彫刻のような顔立ちをしているように見えるツウィが、ちゃんと私と同じ人間の顔をしていることが嬉しい驚きだった。

 ツウィはごく最近髪の色と髪型を変えた。ずっと暗めの茶色か黒の髪色で、前髪を分けていた彼女が、青めのアッシュが入った金髪にして前髪を作った。もちろん前の髪色・髪型のツウィも好きだが、今のヴィジュアルのツウィは神話に出てくるお姫様のような趣さえある。チェヨンやツウィに限らず、K-POPアイドルは髪色の変化も楽しめる要素の一つだが、個人的にはツウィの変化はとても良い変化だと思った。ツウィを目の前にして、私は思わず息を呑んだ。とてつもない美形なのに、人間味があって、嫌みな感じが全くしない。前回のハイタッチとはまた変わった雰囲気のツウィのオーラに飲まれてしまい、すぐハイタッチしてブースを通り過ぎなくてはいけないのに1秒か2秒ほど足が止まり、スタッフに「立ち止まらないでください」と注意を受けた。美しいのに人間的なツウィの魅力を2度も味わうことができて、結構ラッキーだったと思う。

 

・サナ

 遡ること約半年、私は東京ドームで初めてTWICEを観た。豆粒のような本人たちの姿を3時間肉眼で凝視することはできなかったので、メインステージにある巨大なバックスクリーンに映った9人の姿に夢中になったのを、よく覚えている。コンサートの開始を飾る「One More Time」で、私は後述する推しのジヒョがどんな衣装で、どんな髪型で、どんな表情で登場するのかを今か今かと待っていた。ところが、ジヒョ以上に、というか9人の中でもずば抜けて存在感を放ち、目が釘付けになったのがサナだった。色白に金髪が映えるサナの圧倒的なオーラは、間違いなくスターそのものだった。サナ推しに怒られるかもしれないが、チッケムで見るとモモやジヒョに比べてサナのダンスはややぎこちなく見える。もちろん、アイドルのダンスがスキルや身体能力だけではないことは知っている。サナに目が行ってしまうのは、彼女の身振り手振り、佇まい、すべてに「選ばれしもの」のオーラがあるからだ。ツウィとはまた違ったオーラである。

 場内整理(迷子の呼び出しとメンバーの休憩)が1時間ほど続き、結構私は苛立っていた。サナのレーンで座り込み、暇つぶしでいじっていた携帯の充電も危うくなり、持ってきた本をパラパラとめくっていた。そんな訳で、チェヨンとツウィで勢いがついていた私の精神状態がみるみるトーンダウンしていたのも事実である。サナを目の前にした瞬間、私の抱えていたイライラや運営への不満はものの見事に吹き飛んだ。東京ドームで衝撃を受けたあのサナが、あのまま、はじけるような笑顔で私とハイタッチをしてくれた。今日のハイタッチで間違いなく一番楽しかったのはサナとのハイタッチだった。つやつやとしていて血色が良く、派手な金髪でありながらけばけばしい感じがなく、だからといってたとえ渋谷や新宿で1万人の女の子を一絡げにしたとしても全くかなわないと思わせるような、圧倒的なスター性を感じた。ツウィの人間的な美しさとはまた違った意味で、こんなに抜群のプロポーションを持ち、他の追随を許さないオーラをまとっていながら同時に庶民的な感じもするサナという存在は、9人それぞれがそれぞれの仕方で輝いているTWICEの中でも、ひときわヴァイタルである。

 

・ジヒョ

 ジヒョは私の推しなので、若干冗長になってしまう。

 ジヒョをめぐる私の情念や感情、欲望については、2つの記事を書いた今でも、やはりあまりうまく説明できる自信がない。歌番組でも、東京ドームでも、V LIVEでも、Instagramでも、いつも私はまず最初にジヒョを探す。もはや形骸化し、巷談の中で日常的に使われ、その特殊な意味を失いつつある「推し」という言葉の、最も真摯な意味で、私はジヒョを推し、欲望してきた。そこに理由がいるだろうか?1つ前のエントリで書いたことと重複するようだが、それを逐一言葉にすることに、私はあまり価値を見出していない。意味がないわけではないだろう。何事にも始まりはある。起点を明確にすることによって分かることはいっぱいあるだろう。でも、「好き」や、「かわいい」や、「美しい」といった形容を凡庸なものとし、特権的な情念の対象を形容する際に使われる「推し」という言葉自体に、我々アイドルファンは敏感にならなくてはならない。「なぜ」「どうして」推すのか、という問いではなく、「推し」とは何か、ということを、厳密に自分自身に問うてみるときがあってもいいし、それはアイドルファンに許された豊かな営みだ。「なんとなく」かわいいとか好きなのだったら、初めから推しを決める必要はない。私も9人のTWICEが全員好きだ。でも、均等に「好き」が割り振れるわけでもない。それどころか、「好き」という言葉には当てはまらない感情の機微を、ある一人のメンバーには揺さぶられてしまうことは、大いにあるだろう。長くなってしまったが、私にとってジヒョとはそういう人であり、「推し」であることは揺らがない。

 他のメンバーとは違った心境で消毒用アルコールを手にプッシュし、ブースに入った。私は、そこで目にしたジヒョの表情――つまり私の前の順番の人とハイタッチする彼女の表情――が、鮮明に脳裏に焼きついている。彼女の大きい瞳はどこも見ていなかった。口元は横に突っ張って歪んでいた。全体の印象として最も適している言葉は、「引き攣っている」というものだろう。その前にサナの躍動的な表情を見ていたというのもあるかもしれない。こわばった表情のまま、私はジヒョと、推しと、初めてのハイタッチをした。ジヒョは私の目を見なかった。ただでさえ短いハイタッチの時間が知覚できないほど一瞬に感じられて、ブースを出たあとは何が起きたのか分からなかった。塩対応、というものでもない。一瞬ではあったが、彼女の背筋は美しく伸びていたのを確認したし、やる気がないという感じでもなかった。幸い、私はジヒョの券を2枚持っていたから、急いでもう一度レーンに並んだ。2周目は、彼女は笑っていた。どうしようもなく引き攣っていて、目を合わせたけど私の遥か後ろを見ているようで、笑顔が貼りついていた。

 1周目と2周目との間に、場内整理がもう一度あった。1周目のどう見ても不自然な表情に心を乱されていたせいか、45分ほどだったがあっという間に感じた。スタッフから注意喚起があった。なんでも、ブース内でわざと手のひらにキスをしてからハイタッチをするファンが出たのだという。ジヒョがその嫌がらせを受けたのかどうかは、定かではない。しかし、言葉が出なかった。初めて至近距離で見た推しの表情は、正直言って自分の見たい表情ではなかったから。あんなにこわばって引き攣ったジヒョの表情を、私は見たことがなかったし、見たくもなかった。でも、推しに会えてよかったとは思った。私は煙草を一本吸って、幕張メッセを後にした。