思考停止

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「アイドルでオナニーしていいんですか?」――私とTWICEの場合

 男性のオナニーは倫理的か?という問いがもしあったとして、そこで言われている「倫理」とはなんだろう。その営みが他者を傷つけていないことから、オナニーは倫理的に正しい、と言えるだろうか。オナニーが限りなく一人でする行為であるのに対して(この場合の「一人でする」とはペニスを手や任意のジョークグッズなどで刺激して快感を得ることである)、セックスは少なくとも二人以上ですることであるから、傷つけ傷つけられるセックスというのは容易に想像がつくにしても、オナニーで傷つく主体や、傷つけられる主体がいるかどうかというのはかなり微妙な話になってくる。

 人は、性について話すとき、恥じらうか、開き直るか、格好をつけるか、何にせよなんらかのポーズを取らざるを得ない。フーコーではないが、それは性について話す人が意図的にポーズを取るのではなく、「性について話す」ということが人にそのようなポーズを取らせているのである。SNSで、居酒屋で、性は色んな形で発話される。これを書いている私は、もっと注意深くならなければならない。こんな前置きをしたところで、「フラットに」性を語ったり話したりすることは不可能だからだ。だから、ケースを限りなく絞ろう。セックスではなく、オナニーについて。しかも、男性の。「男性のするオナニー」ではまだ広すぎる。アダルトビデオや成人向け漫画などのポルノグラフィを用いることなく、ステージ上で輝いている(あるいはステージを降りた)アイドルでオナニーをするということ。大分怪しくなってきた。もう少し。日本のアイドルではなく、K-POPの場合は事情が違うだろうか?ここで私は、日韓台合同のK-POPガールズグループ、TWICEを扱おう。

 オナニーは倫理的か?その問いに答えることはできない。私は、「私のオナニー」、つまり「TWICEというアイドルを見ながら行われる男性のオナニー」についてしか語ることができないからだ。性はフラットに語れない。ざっくばらんに言ってしまえば、性とは当事者の問題であることで、万人に開かれているようで個人に閉じている。ジェンダーセクシュアリティが異なれば当然語られる性のあり方も異なってくる。これは、オナニー、アイドル、TWICEについての、私のごく個人的な覚書であり、断章である。

 

・事後的なポルノグラフィ――「オカズ」になるアイドルのポートレート

 なぜ冒頭でこんなにもったい回った書き方をしたかというと、もはや「アイドル」が誰でそれを見ているのは誰なのかが多様化しすぎているからである。日本のアイドルに限って言えば、AKB48も、嵐も、ももいろクローバーZも、超特急も、みんなアイドルだし、女の子がAKBに憧れたりジャニーズになりたい男の子がいたりするように、全てのアイドルがヘテロセクシュアル異性愛によってまなざされているわけではもはやない。私がここで扱うのは、「女性に性的志向を持つ男性が」見る「女性の」アイドルである。アイドル自身のセクシュアリティについては、問う必要もないだろう。流行りのポリティカル・コレクトネスを全部無視する言い方をすれば、ここにおける女性アイドルは「見られる」ためにしか存在していないからだ。「そんなことはない、女性のために立ち上がる女性のアイドルはいる」、「男性が女性のアイドルをプラトニックに応援することはないのか」、大いにある。そのすべての物言いは正しい。ただ、私は正しい話をしたいのではない。「女性アイドルをオカズにする男性ファンはいる」「女性アイドルは男性ファンのオカズになってきた」という話をしている。アイドルの見方が多様化している現在、何のエクスキューズもなしに女性アイドルは男性にオカズにされるために存在している、なんて言った日には四方八方から袋叩きにされてもおかしくない。

 

 2012年、ごくごく狭いコミュニティで、「ベスシコ」という言葉が(なぜか)突発的にバズった(詳しくは以下のtogetterリンクを参照:https://togetter.com/li/432618)。私は当時中学3年生で、リアルタイムでこのバズを見ていたが、率直に楽しかった。「アイドルでオナニーする」ことはごく自然なことのように思われたし、ホモソーシャル内でよくある「クラスの女子の誰が一番可愛いか」の延長線上でしかないように思われたからだ。かれこれあれから7年ほど時が経っても飽きもせずアイドルファンをやっている私は、今これを見ても(昔ほどは乗れないものの)異様な光景だとは思わない(とても雑な意味での倫理においては何もかもが間違っているが)。

 ただ、注意しなければいけないのは、「シコ」(オナニー)の対象となるべきそのアイドルの画像群は、乳房を乳首まで露出しているわけでも、女性器をあらわにしているわけでもないことだ。もちろん扇情的な(局部以外の露出が激しかったり隠すことによって局部を強調するような)水着やその他の衣装で撮影されたグラビアも画像グリッドに上がってはいるが、メンバー自身が何気なく携帯で撮ったセルフィーや他撮りが、なんなら「一番シコれる」とまで言われているわけだ。極めて危うい言い方をすれば、ポルノグラフィがポルノグラフィであるという事実はその消費者によって事後的に形成される。初めから男性のオナニーを意図して作られるアダルトビデオや成人漫画は、ほとんどの場合「男性の視点」で切り取られている(AVにおける「開き」と呼ばれる正常位で女優の体が顔から股間(挿入部)まで画面上で対角線になるように撮られたショット、「主観モノ」、成人漫画でペニス以外の体が透明になることによって女性の表情や身体が見えるようになる演出など、挙げれば枚挙に暇がない)。が、「アイドルでオナニーする」ことは、どうやら「男性の視点」は「あると良いけどなくても構わない」ものらしい。

 いや、他人事のように書いてしまったが、私も当然アイドルでオナニーしていたし、そこにおいて「男性の視点」は確かに必要がなかった。私を含めたアイドルでオナニーをする男たちは、メンバーの日常を切り取ったポートレートを、何の疑問もなくオカズにする。もしかしたら、ステージ上で歌い踊ったりする姿より、ブログに何気なく載せたセルフィーから繰り広げられる行き場のない「オタク」の妄想の中で、アイドルは奇妙な輝きを見せていたかもしれない。「かもしれない」ではない、そうなのである。男性ファンにとって、肌の露出はさほど重要ではない。「使えた」という結果しか残らない。お菓子を食べていたり、ジュースを飲んでいたり、日頃のプレッシャーから解放されている「かのように見える」オフショットのアイドルは、何かが間違っていたら自分の隣にいたかもしれないと思わせる。ここにおいて、何をもってポルノグラフィとするかという客観的な尺度などは存在しない。「オタク」個々人の「使える」「使えた」事後的で恣意的なポルノグラフィが「オタク」の精液にまみれて無造作に散らばるのみである(自分で書いておいてなんだが、ここまでアイドルのポートレートを露悪的に言ったことはない)。

 

・「推しでシコっていいのか」「いい」「ダメ」

 ここまで、私は意図的に男性ファンのアイドルでするオナニーについて避けているタームがある。「推しシコ」だ。アイドルを「推す」というのは付帯する色々な意味を退けて言えば「お気に入り」だが、オタクの間ではそこに付帯する意味にこそ意味がある。ガチ恋もいれば、単純にアイドルの夢を応援したいという人もいるし、性的対象であったりと、「推し」の形はさまざまだし、アイドルのファンをやることの醍醐味は「推す」ことによって推しのアイドルの物語なりキャラクターなりを、推し以外のメンバーとは違う形で(ある種特権的に)消費することにある。

 「推しシコ」の問題は女性アイドルの男性ファンにとっては単純だが根深く、それはひとえにオタク自身の倫理の問題だからだ。プラトニックでなければ、「純粋な気持ちで」推していることにはならないのではないかという人もいるし、全く逆に、推しでオナニーしなければ推していることにはならないという人もいる。本題のTWICEに早く入るためにもあまり深入りできない(深入りしすぎるとそれだけで一本エントリになるし、事実かなり偏った見方ではあるものの推しシコについての文章は存在する。以下を参照:http://blog.livedoor.jp/a_waltz_of_ducks/archives/51854489.html)が、さりとて無視できる問題でもない。ただ、これは「女性をどのように見ているか」というファン個人の女性観に依存する部分も多いため、やはり断定調で書くことは些末だが個人にとっては重要な問題を捨象することにもなる。

 私のケースに限って言えば、任意の人を好きであると思うことは性的な感情を持つことに直結していたので、推すからオナニーするのではなくオナニーするから推す、というかなりねじれたアイドルの見方をしていた。だから、推しシコは自分にとって非常に自然なことだった。推しでオナニーすることの倫理を問われたとき、私にとって「推す」という振る舞いは即ちそのメンバーでオナニーをすることでしかない。「純粋な気持ちで」?「歌って踊る彼女が好きだから」?私は、そういうプラトニックな言説が全て信用ならなかった。自分にとって性的な引力がない異性に興味を持つことの方が私にとっては異常で不自然なことのように思われた。

 

・TWICEでオナニーする――推しであるパク・ジヒョをどのように見るか

 先にも書いたように、性について話すことは個人的なことだが、「推しシコ」の話をしてしまった以上、私は私について話すしかない。

 私は13歳でAKB48に出会い柏木由紀推しになって以降、色々なアイドルを渡り歩き、全ての推しでオナニーをしてきた。何度も繰り返すが、推しでオナニーすることが自分なりの「推す」ことだったし、女性を性的に消費しているだとかアイドルはポルノではないとかの意見は所詮本当にアイドルを推したことがない、外野の人間のノイズとまで思っていた節がある。ただ、言い訳をさせてもらえば、私は日本以外のアイドルを知らなかった。AKS(厳密には異なるが坂道グループも含む)、ハロー!プロジェクト(私は見事にハロプロを通ってこなかったので、名前を出すに留めておく)といったビッグバジェットは勿論、グラビア(地下アイドルを除く)や画像付きブログ(地下アイドルを含む)といった「事後的なポルノグラフィ」を生み出さない日本のアイドルは、ほぼというか全くいないとまで言っていい。何より目で楽しませないことには始まらないアイドルというショービジネスにとって、画像メディアは命であるが、特に一番長くオタクをやっていた48&坂道グループは(事後的)ポルノということについて相当に露悪的な売り出し方をしていた。胸の谷間やヒップラインをことさらに強調するビキニ衣装を誰でも彼でも着せてグラビアにする過剰なビジュアル戦略は、当時中高生で性的消費が最も活発だった時期の私が見ても、グロテスクと言わないまでも(もちろんこれはファンのマイルドな言い方で、アイドルファン以外や女性ファンから見れば擁護のしようがないほどグロテスクである)、過剰供給の感はあった。1997年生まれの私が48グループの「同い年のメンバーでオナニーする」ことに倒錯的な悦びを覚えていた事実は倫理的に正当化できるものでは当然ない。それでも、そういった性的なビジュアル戦略=アイドルの戦略だと刷り込まれていた私は、アイドル(とその中の推し)でオナニーすることに疑問を抱いてはいなかった。

 しばらく諸事情でアイドルから離れてから、K-POPというフィールドを得てTWICEのオタクとして出戻った私は、かなり戸惑った。まずV LIVE(韓国アイドルの使う動画生配信サービス)やYoutubeに違法アップロードされているバラエティで彼女らが喋っている言語が分からない。日本のように雑誌にビキニ姿のグラビアが掲載されることもない。画像付きブログもモバイルメールもない。その代わり与えられているのは、どこか壊れた日本語字幕のついたV LIVEで垂れ流される配信、メンバー全員の共有アカウントのInstagram、あとはTwitterに流れてくる空港写真である。オナニーすることでしかアイドルを好きになってこなかった私は、ポルノグラフィに「する」にはかなり苦しい材料しかなかったにも関わらず、初めてオナニー(性的な目線)を介さずにTWICEというアイドルのことが好きになった。オーディション番組「SIXTEEN」や、「アイドルルーム」などのバラエティ番組を観て、TWICEのメンバー個々人のパーソナリティを知ったりプロデューサーのパク・ジニョンの思想や哲学を勉強したりして、TWICEや所属事務所のJYPがいかにクリーンで人間重視のアイドル教育をしているかを身に染みて感じた。これによって、今まで性的な目線が第一(性的な目線しかなかった訳ではない)だった私のアイドル観は徐々に変容していった、かのように思えた。

 ただ、正直な話をすれば、TWICE、そして私の推しであるパク・ジヒョを好きになったのは、間違いなく性的興味であったことは認めなければならない。2018年8月31日に放送された「ミュージックステーション」における「BDZ」のダンスで、ひときわ大きく揺れる彼女の胸を見ていなければ、ジヒョとTWICEを好きになってはいなかった。だが、彼女のことを深く知れば知るほどに、ジヒョでオナニーをしたり性的なことを言ったりすることは倫理に悖るのではないかという気持ちが頭をもたげる。その事実は、私が少なからず今までオナニーしてきたアイドルに対して「この子ならオカズにしてもいいだろう」というミソジニーと、オナニーという行為が持つ後ろ暗さを逆照射している。プロデューサーのパク・ジニョンは、日本における新プロジェクト「Nizi Project」始動の際のインタビューで、こんなことを言っている。

いくら歌やダンスのスキルがあったとしても、人間的に失望してしまう部分があった場合は、最初からその人をデビューさせません。例えデビューしていても、人間的にがっかりするようなことがあった場合は、事務所から出てもらうことも多かったです。(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20190224-00115829/

 「良い歌手である前に良い人間であれ」と何度も繰り返し、歌やダンスのスキル以上に人格者であることを求めるジニョンが選んだTWICEの中でリーダーを務めるジヒョを応援するにあたっては、私自身も清い人間にならなければならないのではないか……とまでに影響されたが故に、揺れる胸目当てでジヒョを推し始めた自分を恥じたりもした。

 だが、TwitterでTWICEのファンと知り合うようになって驚いたのは、(比率として圧倒的に多い女性ファンはこの場合考えない)「TWICEでオナニーする」と公言する人がおよそ見当たらないことだった。48でベスシコだの推しシコだので盛り上がっていたホモソーシャル空間はTWICEのファンコミュニティにおいては気味が悪いほどに見ることはなく、代わりに目にするようになったのはメンバー同士でレズセックスをさせる「カップリング」のコミュニケーションだった。その是非は本記事の眼目とは全くずれるので一切問わないが、アイドルの性的消費の形として「カップリング」のコミュニケーションに全く乗れなかった私は、やがてTWICEでオナニーをするようになったし、TwitterでもTWICEについての性的なジョークを言うようになった。モモやダヒョンに劣情を抱いた事実を言い訳するつもりはない。むしろ、今までの自分のオタクとしてのキャリアからすればこちらの方が正直なあり方だとさえ言える。

 それでも、性的興味から応援し始めたジヒョを「オカズ」にしたことは、ただの一度もない。これについての答えは、未だ得られない。今までの私のアティテュードから言えば、ジヒョでオナニーしていないのは推していないということであり、倫理に反することである。所詮露悪的なショービジネスであるアイドルに、安易に「尊敬」という言葉を使うのも、あまりに素朴で無垢すぎる態度だと思うし、実際私はそこまで誠実なTWICEのファンとは言えない。その一方で、今でも、Twitterや友人との会話の中でジヒョをオカズにすると言うことには気が引ける(エゴサーチを本人がするわけでもないのに!)し、ジヒョの画像をスマートフォンで表示しながら自分のペニスを愛撫しようという気には(罪悪感とも倫理観ともつかない何かが喉元に引っかかって)なれない。ジヒョでオナニーをしないことは、かなり過激なミソジニーを持つ私という人間の最後の「女性を信じていたい」という願望かもしれない。しかし、確信していることがある。いつか、何かのきっかけで、私は私に問いかけることになる。「僕は、ジヒョでオナニーしていいんですか?」と。「いいよ」、と私が私自身に答えたとき、私の「アイドルでオナニーすること」の倫理は、新たに書き換えられることになるだろう。