思考停止

映画、本、音楽、など

祖父を悼む――作家Feについての試論:『草葬』、デュシャン、ウエルベック

序 今にも落ちてきそうな空の下で

 祖父が亡くなった。死因は誤嚥性肺炎。元より摂生も運動もしない性質で、僕が知っている祖父の姿は埼玉にある集団住宅で正月に帰省してはエロビデオの話か過去の知人の悪口、時折母に小言を言って場をピリつかせて父と大ゲンカ、亡くなって言っちゃあなんだがクソジジイの水準を十分以上に超えていたと言えるだろう。僕が訃報を知ったのはバイト先で、終業時に店に流れていたグールド最後のゴルトベルク変奏曲がレクイエムのようだった。帰ってきたら父親の目が赤く腫れていた。父親が僕の目の前で泣いたことは僕が物心ついてからただの一度もない。初めて父が小さく見えた。

 祖父は酒乱で、父親を幼い頃から酒に酔っては馬乗りになってボコボコに殴り倒したり、祖母の頭を灰皿でカチ割ったりしていたらしい。挙句の果てには母の実家に行ったときに出てきた料理に文句を言ったとかなんとかで、母は未だにそのことを根に持っている。友人らしい友人は僕の知る限りでは絶無で、実の兄とは事実上絶縁していて葬式にも出なかった。若い頃は全共闘や労働闘争に熱を上げ、革命なら家族を犠牲にしても構わないと言っていた、と父から聞いている。アルチュセリアンの僕は、思わないところがないと言えばウソになるけれど。ともあれ、とんでもないクソオヤジ、クソジジイであったのは確かだ。孫で長男(で、マルクス主義者)の僕には優しくて、『日本共産党史』などの本をご機嫌でくれたこともある。あと吉沢明歩のAV。クソジジイであると同時にエロジジイでもあったので、無駄にハイテクでツタヤディスカスFANZAの会員登録の解約は勿論、多分AVの処分もしなきゃいけない。去年の9月に大動脈瘤破裂で担ぎ込まれてカウントダウンが始まる前でさえ足腰が弱って近所のスーパーにも行けなかったのに(ヘルパーが出入りしていた)、なんというか最後まで変な根性があった人である。

 祖父が住んでいた埼玉の空はいつも曇天模様で、手で掴めそうなぐらい雲が近くて、風が冷たくて、湿っていた。デカめのスーパーが駅と直結してズドンとそびえたっているぐらいで、あとはなんにもなかった。見かけるのは大体老人か、大宮か浦和で遊んで帰ってきて行く末のないギャルが駅前のファミマで喋ってるぐらいだった。上野東京ライン高崎線)で帰省する正月のムードはいつも重々しく、特に父親は毎回決死の闘いを挑みに行くかのような顔で恵比寿から乗り換えていた。帰りは疲労困憊で、場をやり過ごすためにおせちとお寿司を食いすぎ、親は日本酒の飲みすぎで泥になっていた。今日の渋谷の空は薄く雲がかかっていたけれど、最後に祖父が病室から見た埼玉の田園風景の空はどうだっただろう。多分、『ジョジョ』じゃないけれど、今にも落ちてきそうな空だったんじゃないだろうか。祖父は最後まで自分のやったことを省みることができなかった。父親にしたことも、祖母にしたことも、母親にしたことも、僕や弟にできなかったことも、周りの人にしたことも。最後に会ったとき、ぽつりと放った「俺、何か悪いことしたかなあ」という一言が、今も脳裏に焼きついている。

 ここに、一篇の短編小説がある。祖父は生前ある文学賞を受賞し、僅かな部数ながら本も出した小説家(本業は教師だったが、父から聞くところによると同人誌に小説を書くことに熱心で、それが高じて文学賞を受賞したという次第らしい)だった。僕はかねがね祖父の小説について何かを書こうと思っていたが、ついに本人に見せることはかなわぬものとなってしまった――往々にして肉親でなくとも生きている作家の「〇〇論」というのは書きづらいものだそうだが(文学研究のことはよく知らない)。仮に、祖父がよく手紙にサインするとき、面映ゆそうに用いていたイニシャルから取ってきて彼を作家Feと略すことにしよう。彼が最も精魂込めて書いた作品に、同人誌ではなく個人的なブログという形で試論を付すことによって弔いとすることにしよう。元より嫌味で、他責的で、恨まれがちで、暴力的だった祖父がその性格によって成し遂げた、生の証を誰か一人でも伝える人間がいなければ、いくらなんでもかわいそうだろうと孫心ながら、そして同じく文章を書く人間ながら感じるのは不自然だろうか。人間は必ず死ぬが、紙になって残された作品は伝わり続ける。この『草葬』という、30頁ほどの渾身の掌編に、病室で死の瞬間彼の瞼に映った冷たく暗い死の岸辺を思う。

 

1 This is the End, Mother? I want to…――『草葬』

 作家Feによる『草葬』は、沖積舎から1989年に発表された短編小説集『影追い』に収録された掌編である。そのあまりに陰惨かつネクロフィリア的、かつインセスト・タブーを赤裸々に扱った内容から「気持ちが悪い」と評されたとは作者自身の弁だが(「あとがき」より)、解説の松本鶴雄による「挫折シンドローム」、すなわち落伍の瞬間のドラマトゥルギーを炸裂的に切り取るというよりは崩れ落ちてしまったあとの嘆くべくもない遅滞した時間性をえぐるところにFeの筆致がある。松本は『草葬』を同作者の『落日』と一緒にして「これ等の主人公たちはすでに挫折したあとの時間を生き、空無な気分を持てあまして、のた打っている」(334頁)と評しているが、決して多くはないであろうこの作家Feの読者、特に『草葬』の読者からすればこれはあまりにも雑駁な見解であると言うに如かない。

 主人公である好夫は、母の綾子と二人暮らしである。好夫は怠惰で、大学を四年で卒業できる目処すら立っていない。なおかつ自立できないでいて、家を出てアルバイトに就業したと思ってもすぐに綾子の元に帰ってくる羽目になる。それは好夫にとって「不可思議な宿命」に違いなく、単なる茫漠とした時間への耽溺ではなく、絶えざる不条理な苦痛の連続に違いなかった。綾子との二人暮らしに、奇妙な磁場めいたものが生じているのである。

数年間がこの部屋で消え去り、天井や襖や畳や窓の桟に、その分だけ自分たちの奇妙な体臭が染み込んでいるような思いも湧く。一時は綾子から離れ、大学近くの古びた四畳半のアパートに一人住んでみたことはあるものの、自分から言い出した家賃稼ぎのアルバイトが煩わしく、その上にどうしても学校や友人にも馴染めず、結局は綾子の部屋に舞戻ってくるしかなかった。他人は母離れもできない意気地のない変人と思っているのにちがいないが、好夫には好夫なりの不可思議な宿命があるのだと思った。(『草葬』、31頁)

 この好夫と綾子の磁場は、「体臭」というキーワードを軸に、エロスとタナトスの回転運動を始める。「染みついた体臭が好夫自身から遊離し、熟れた母の綾子の体臭と勝手に絡み合っているような思いも湧く」(28頁)という描写で生きた肉の臭いにフォーカスが当たったかと思えば、不条理に襲い掛かる綾子の死の後で「綾子の裸体は一度ならず何度も目にしたことがあるが、その部分だけは独立してまだ生き続けているかのように、十分に湿り気を帯び、生臭く息付いているように思われる」(35頁)という死臭とはまた別の臭いがここで明確に描写されている(それが陰部というのも好夫の欲情の焦点を示すようで象徴的である)。好夫の綾子に対する感情、しかも「やはり綾子は死んだのに違いなかった」(33頁)という不条理な一文によって入る亀裂の後でその死体の香りを肺一杯に嗅ぎ回る好夫の感情を、一口に母親に対する色情であるとか、はたまた松本流に言えば挫折/落伍シンドロームによる激情の一種であるとかなどと一蹴してよいものなのだろうか、という疑念にまず私たちは駆られなければならない。「死んだ母親を犯したい」という欲望は、フロイトでさえまず言わなかったであろうグロテスクな欲望である。しかし、作家Feにフロイトを振りかざすことはやめよう――恐らく彼は梶井基次郎の『交尾』や中島敦の『かめれおん日記』を読んではいても『快感原則の彼岸』を読んでいるなどということはなかったからである。しかし、これは奇しくも(奇しくも?)フロイト的なテクストであることには違いない。ここに第一の仕掛けがある。即ち、主体と主体の欲望を可能にする〈主体〉の転倒関係を疑わねばならない。

 三島由紀夫『春の雪』での清顕と聡子の初めての交合が室内の湿気で描写されていたのに対して、「一人自分の蒲団に横になった好夫の全身には、綾子の皮膚と肉体そのものの感触が染みついている。綾子の体臭とも違う異様な臭気も染み込んでいて(…)」(38頁)とやはり「臭い」で好夫と綾子の磁場は描写されている。この磁場、好夫と綾子の「体臭」の磁場には、「他者」が存在しない。『草葬』の中で綾子は死んでいるので、事実上三人称で語られるこの小説は好夫の自意識の屍者を相手にしたモノローグでしかない。ぼやけた電話越しのホステスの声も、死体を運んでいく好夫の側を通り過ぎて急ブレーキをかけるタクシーも、自意識、自我-意識の中で展開する絵巻であると言える。「体臭」は、自らと世界を隔てる境界線であり、綾子とのネクロフィリア的近親相姦は好夫の自意識を壊す突破口となり得たのだった。好夫は思わずこぼす。「けれども、それを人々は言い訳や言い逃れと決めつけ、それなりの器用さで乗り超えていく。他人を非難する気持はなかったものの、自分だけ不当に取り残されて行くようで、好夫は歯がゆいような、それでいてとてつもなく不安な憤怒のようなものに日夜さいなまれていたのである」(46頁)。こうした「とてつもなく不安な憤怒」は、綾子との磁場によるものではなかったか。お互いのむせ返るような「体臭」が、好夫を自閉的にさせ、「他者」を剥奪したのではなかったか。このことに、他ならぬ好夫が気づいていなかった。綾子が死に、その死体を犯すことによって、初めて彼は自意識の牢獄、まさに肉の牢獄から解放される。それは綾子を土手の叢に葬るときに成就する。好夫は綾子の死体を背負って土手に倒れ、「自分の気持が軽い気球のように遠く高く漂って行くように思われた」(52頁)と解放感を覚える。死臭と体臭が交じり合うマンションの一室に二日間こもり、飲まず食わずで犯した母の死体を運ぶ好夫は、もはや内奥からこみ上げる鬱屈した憤怒を抱え込む落伍者ではなく、何もかもを失ったが故に何もかもを為すことができる可能性に充ちた青年である。しかし、この小説はそこまで書いてくれるほど親切ではない。というよりむしろ、そのように自意識の分析を終えた好夫にライドしていった読み手は、最後に土手の叢に消えていく綾子の死体こそがこの物語の主体だった、と感じる。つまり、「他者」なき主体(好夫)ではなく、主体を可能にする絶対的(=主体的に主体に介入することのない)「他者」(綾子の死体)が好夫の自意識を自らが放つ「臭い」と情欲、そして「葬る(葬られる)」という運動によって「解除」していく物語であると読むことが可能なのだ。故に、この物語の主人公はディスクール上は好夫ではあるが、陰に潜み物語を駆動させる真の黒幕は綾子の死体である。「好夫が乱れる足で数歩離れると、水滴の光る草の葉の狭間に、綾子の肉体の一部が、浮き出るように仄白く輝き、声もなく静かに息づいているのが見えた」(54頁)。「体臭」をめぐる自意識の内破と描写の力点の鮮やかな交代という点で、「挫折シンドローム」の彼方で薄暗く輝く「他者」への無限の開かれの可能性をこの短編は示している。

 

2 疎外、水の冷たさ――デュシャン『遺作』とウエルベック『闘争領域の拡大』

 ところで、『草葬』は私たちにある美術作品を想起させる。マルセル・デュシャンの『遺作/(1)落下する水(2)照明用ガスが与えられたとせよ』(1966)である。

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 窃視がモチーフとなるこの作品は、フィラデルフィア美術館にそれとは気づかない形で展示されている。叢の陰に打ち捨てられた女性の裸体とおぼしきトルソーは、『草葬』のラストシーンで波打つ草原に煌めく綾子の死体とそっくりである。勿論これを以てしてFeがデュシャンを知っていたと言うつもりはないが、奇妙な類縁性を感じさせることは確かである。打ち捨てられた、犯された、女の死体。それはある種の疎外であり、主体性を剥奪されたオートノミーなき「他者」の存在――それは正しくハイデガー的な意味での、存在者なき「存在」がただ現前する現象としての存在である――がコミュニケーション不能なものとして、一方的に「臭って」くるとき、その疎外は「他者」を拒絶し自閉する主体(好夫)にとって不愉快である以上に身体の訓練を促す。その訓練とは、死臭を嗅ぐ、死体を抱きしめる、死体を犯す、という「極めて悪魔的な行為」であるにせよ、好夫の自閉を外に開くものであることには変わりがない。デュシャンの『遺作』で裸の女性の死体を穴から覗き見るとき、私たちはその死体に疎外された身体と疎外によって反照的に可能になる主体の認識作用を確認することになる。一方的に死体を「見る」ことの猥褻さと暴力性を暴き出してみせたデュシャンのタブローに、全く国も時代も異なるFeのネクロフィリア的イマージュが重なる。言ってみれば、デュシャンは疎外をテーマにし続けた作家でもあった。レディメイドという彼の打ち出した作品の方法論は、具象的なモチーフを押し殺し、トイレにサインを書いたりする暴挙を「作品」に仕立て上げたのだった。もっとも、そのレディメイドという方策の最も重要な点は、ステートメント(作品の注釈)にある。「なぜその素材(トイレや一輪車)が既存の文脈から切り離されて(疎外されて)作品として成立しなければならなかったのか」という必然性を示すことに、美術史的にもダダイズム運動のマニフェストとしても意義があったと言うべきだろう。しかし、『遺作』でデュシャンは奇妙にも具象的なタブローを描いている――ステートメントはない。私たちはここで、デュシャンとFeに単純な類似を見出そうとしているのではない。草に女の死体を葬るということがもたらす自由連想的なイマージュの連鎖の中に潜んでいる、自意識と「疎外」という文学的に極めて重要なテーマを抽出してみたいのである。

 ここで、全く関係のないと思われるテクストを取り出してみよう。ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』(1994)は、疎外から始まり、疎外に終わるテクストである。ウエルベックのあらすじについては今更ここで書くことでもないと思われるので省くが、主人公である「僕」も、ナイフで誰も殺すことができないままトラックに轢殺されるティスランも、誰も自分の物語の主人公にはなれなかった。好夫と「僕」が対照的なのは、好夫の苦痛は自分の世界に自分と綾子しかいないことだった、というより綾子さえおらず、自分自身で世界の充溢に耐えきることができないことだったのに対し、ウエルベックの「僕」は世界に自分がいない。その空隙に耐えきれない。性関係の中に介入していくことができず、そのことで自分を無価値だと断罪してしまう。いつか付き合った恋人との思い出も郷愁の対象にすらならず、干からびた記憶の残骸である。ウエルベックの愛は、持続できなかった愛、一度終わってしまった愛を取り戻そうとする愛である。ウエルベックにあってFeになかったもの、それは愛である。好夫は自意識の中で窒息しかけ、綾子の死体を(デュシャンよろしく)叢に打ち捨てることによって解放される。これは綾子の死体によって仕組まれていたとはいえ、好夫という人間が愛によって救われず、愛で誰かを救うこともなかったこと、つまり主体と「他者」とのあらかじめ不可能なコミュニケーションでズレてしまった関係を絶えず修復しようとする希望が初めから絶たれていたのではないか。「体臭」によって紐帯されていたかのように見える綾子の死体という「他者」と好夫という主体の奇妙な主従の逆転関係は、「他者」によってがんじがらめにされていた主体とそこからの解放のプロセスに親子とも恋人とも取れない愛の形が存在しない。しかしウエルベックは言う。「性的行動はひとつの社会階級システムである」(『闘争領域の拡大』、116頁)。愛は「結果が観察できるので、存在する」が、セックスは市場原理に基づくというのである。いわば死姦という非経済的(過剰経済的)活動はもはや言及の射程に入っていない。「何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である」(126頁)という原理の乾いた説明は、まるで愛の存在など鼻で笑うかのようだ。死体とセックスする好夫の方がよっぽど愛を知っているかのように見える――死体とセックスする人間は、全体の何割なのだろう?

 しかし、飢えを知らない者よりも、飢えている者の方が不幸である。「僕」もティスランも、愛されたかった。好夫が綾子に生前愛されていたかどうかは描写の限りでは定かではないが、愛と呼ぶべき感情があったかどうかは疑わしい。「女子大生に限らず、若い女の腰や胸には誰かれの区別なく欲情した」が、「自分と他人との間に肉体を超えた観念としての関係が生み出せないとすれば、自分の日常はどのような生活として成り立つのだろうか。好夫はただの繰り返しにすぎない自問に耽りながら、綾子の巣窟にひたすらへばりついているのにちがいなかった」(『草葬』、32頁)という自意識とマザコンじみた綾子への執着は、愛と呼ぶには澱んでいて、死体を犯すには十分だろう。翻って「僕」とティスランは、何か一撃で世界を変える愛を欲していた。そんなものはないと知っていながら。モーリス・ブランショ存在論的な言明を借りて曰く、「理解という作用が要請する同質性——自同者の宣明――の中に異質なものが、それとのあらゆる関係が関係なしを意味するような絶対的に他なるものが、立ち現れなければならない、意志とおそらくは欲望さえもが、法をかすめる突然の(時間の外の)出会いの中で、越えがたいものを越えるというその不可能性〔ありえないこと〕が出現しなければならない、ということである」(『明かしえぬ共同体』、86頁)という不可能的な世界の亀裂を飛び越える瞬間を、「僕」は待ち望んでいる。別れてしまったヴェロニクも、パーティーで勃起しながら眺める若い娘も、いつか殺せるはずだったあの二人組も、何かのきっかけで全部「元通り」になるはずだ、と。そこにはブランショの「絶対的に他なるもの」の介入が必要だった。母親の死体という血の同質性と死者の軀という異質性のアンビヴァレントではなく、「何者か」になるべくしてかます世界への叛逆の一撃が。「僕」はティスランに言う。

「美しさ、とか?」彼は言ってみた。

「いや、美しさじゃない。それは間違いだってことを、はっきり言っておく。ついでにヴァギナでもないし、愛でもない。だってそんなものはみんな、死んだら終わりだ。要するに君は、今すぐにでも、連中の命を自分のものにすることができるんだ。今夜から、人殺しになれ。いいか、ラファエル、これは君に残された最後のチャンスだぞ。君にナイフを突きつけられ、女たちが震え、命と引き換えにその若さを差し出してきたら、その時こそ、君は本当の支配者になる。その時こそ、連中はすっかり君のものになるんだ。もしかしたら犠牲になる前に、連中は君に美味しいお菓子までくれるかもしれない。ナイフ一本だよ、ラファエル、それがものすごい味方になる」(『闘争領域の拡大』、150頁)

愛でもヴァギナでも美しさでもなく、今俺たちに必要なのはナイフ一本とあいつらの命だ、と強弁する「僕」の発言は、虚しいかな、ティスランの未遂によって本懐が成し遂げられることはなかった。ティスランは殺すことができなかった。好夫が不明の死因によっていともたやすく母の死体を凌辱することができたのに対して、「僕」とティスランはナイフを持っていたのにも関わらずパーティーカップルの命を奪うことがかなわなかった。「僕」とティスランは、初めから世界に疎外されていたのだ。クソつまらないプログラマーの仕事をして、週末は気晴らしにもならないバカンスに出かけたり、ルサンチマンではちきれそうになるパーティーに出席しては鬱病になる。「他者」なき主体の鬱屈ではなく、主体なき「他者」のネットワークに絡めとられて息もできない。ウエルベックと作家Feが対照的なのは、主体の疎外という点においてである。好夫は、自らが自らを疎外し、それが「体臭」という形で自意識の圏域を形成する。その解除は、母の死体を犯し、叢に葬るという形で成し遂げられる。それはグロテスクではあれど、一種の分析完了とも言えるかもしれない。精神分析は分析主体が存在する限り終わることがないが、最終場面において死体は消滅してしまう。「好夫は何度も返り見しながら、しかし、今度はしっかりと土手の草道を踏んだ。ふと風の冷たさに気付くと、綾子の姿はいつの間にか消え、淡い月の光に、濡れた河原の草の葉先が、ゆるやかに、一面、ただ波打っているのが見えた」(『草葬』、54頁)。綾子の死体が消滅したとき、好夫の窒息した自意識の堂々巡りも終わりを迎える。生きた「他者」に向けて主体がようやく開かれるのである。ウエルベックの「僕」の分析は、幾度も挫折し、ついに成功することはない。一人称のモノローグという形はいかにも主体を語っているように見えるが、その実ディスクールの主導権は「僕」にはなく、それを書かしめている疎外装置にある――つまり、闘争領域。

 しかし作家Feにも、ウエルベックにも、救いがないわけではない。「僕」が自意識と自慰で息が詰まっても、どこにも「僕」がいなくても、この残酷なゲームを私たちと一緒に耐え抜いてほしい。「あの時の水の冷たさ」を思い出しながら、溺れ死ぬ寸前でもがき苦しむ受苦としての生を生き抜いてほしい。人は死ぬまで生きなければならない。ウエルベックは呼びかけている。

 いまや岸はすっかり遠くなった。そう!岸は本当に遠い!あなたは長いこと向こう岸があると信じていた。いまや事情が違う。それでもあなたは泳ぎ続ける。そしてひと掻きごとに、溺死に近づいている。息が詰まる。肺が燃えそうだ。水が冷たくなってきた。なにより苦くなってきた。あなたはもうあまり若くはない。いまや死にかかっている。大丈夫。僕がいる。あなたを見殺しにはしない。続きを読んでくれ。

 今一度、思い出してみてほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだときのことを。(『闘争領域の拡大』、18-19頁)

 

結 Entrata

 今、これを書いているのは葬式の前だ。昨日の晩、訃報が入ってからの家族の食事も、故人を偲ぶような話題はほとんど出なかった。父親が僕に向かって「ほっとしたような気持ちもあるんだけどね」と言ったとき、父の祖父に対する愛憎を思った。僕は子どもの頃から父親の祖父に対する葛藤を見てきたし、僕が5歳ぐらいの頃に弟が麻疹にかかって入院した際祖父母の家に預けられたときに祖父の粗暴ぶりは恐怖の対象でしかなかった。最後に交わした会話は、僕の名前に対する難癖。僕の名前は難読かつ珍しい名前なのだが、生まれる前に命名をめぐって両親と祖父母の間でひと悶着あったらしい。病室で祖父は「なんだよ、〇〇(僕の名前)って……」と吐き捨てるように言った。死ぬまでクソジジイだったが、実の息子である父や当たり前だが祖父とは血の繋がっていない母、正月に帰省しては申し訳なさそうに部屋の片隅で寿司を食いながらモンハンをしているだけだった弟に比べて、どうしても僕は最後まで作家Feとしても、血の繋がったクソジジイとしての祖父も憎み切ることができなかった。最後まで誰かのせいにすることでしか生きることの意味を見出せなかった人だったとしても、作家として生み出した作品(もちろんこの記事で取り上げた『草葬』以外にも『影追い』にはいい作品がいっぱいある)は確実に残っていいと孫心ではなく一読者として思うから、せめて一人でも偲ぶ意味合いを込めてこの記事を書いた。

 昨日のバイトからの帰り道、Spotifyでオルフの「エントラータ」を聴きながら散歩していた。ウィリアム・バードの「鐘」を編曲したもので、知る限りではシェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管の演奏しかない。バイトの先輩が辞める前に最後にかけた曲で、なんだか泣けたのを覚えている。雲がかかり、月の光の輪郭がぼやけた夜空とドブ川を眺めながら、しめやかなアダージョを聴いて煙草を吸った。祖父は生前ヘビースモーカーだったが、いつだったか肺がんで死ぬと言われてやめたのだった。銘柄はチェリーからメビウスだったかセブンスターだったか。どんどん顔つきが祖父に似てきている。せめて僕の最期は一人でも多く家族や友人に惜しまれながら死にたいものだと思いながら、吸い殻を祖父の形見になった携帯灰皿に押し込んでコーラを一気飲みした。金木犀が香る急速に冷えた10月の夜空に、祖父が虹の河を渡るのが見えた気がした。気がしただけ。


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個人的シャニマスシナリオランキングレビュー・部門別ベスト――すべてが焦土になる前に

1.日陰の花

 オタクは臭くてキモいです。リピートアフターミー。オタクは臭くてキモいです。オーケー、ヴェリ・グッド。この文章は、三峰結華役の声優・成海瑠奈の一連の騒動を受けて書かれている(無論、紫月や田鶯のそれも問題含みである)。なぜ、声豚に限らず、オタクは脆弱で、自己弁護的で、臭くて、気持ち悪いのだろうか――いや、この問いから始めることは避けておこう。それは「臭いから、臭い」以上の同一律を導き出すことはないからだ。オタクコンテンツ、即ちアニメやソシャゲ、アイドルといった文化(これについてはエクスキューズを付するに留めておこう)が人口に膾炙してしばらく経つが、僕たちオタクの最も濃い部分を啜り食って生きながらえている蛆虫は決して自分たちが蛆虫であることを忘れてはいけない。そしてオタクコンテンツにおける美少女、あるいはステージの上で輝かしい汗と涙を流す実在する少女たちは、あくまで日陰の花なのだ。かつて僕は、あるアイドルグループのメンバーの熱愛が発覚したとき、風呂場で彼女を想いながら射精したあと涙が止まらず全裸の浴室で30分泣きはらした。宇佐見りんが『推し、燃ゆ』でファイルやルーズリーフに推しの情報をドキュメントしていった蓄積が最後のインスタライブの「コーラのラベルの下半分まで残った内容物を推しが飲み干すまでの時間」に何も比肩するところがなかったように、僕たちオタクの生はそれがそのままオブセッションであり、あかりのように綿棒のケースを擲って「お骨=綿棒」を拾って四つん這いで生きようと決められるならまだしも、僕たちは自分で自分の骨を拾えるほど自分に落とし前をつけられないから、オタクをやっている。大学院受験の願書が届き、フランス語の勉強を丸二日サボってこんなブログを書いてシャニマスをやっているのだから、つくづく僕はオタクがやめられない。もはや楽しくてオタクをやっているのかどうかさえ分からない。年季の入ったオタクに「アニメ/アイドル好きですよね?」と聞くと、「う~ん……」という答えが返ってくるのは、そういうことなのだろう。なぜ自分がそれを欲望しているのかも分からず、中毒を起こしつつ脳に安いシャブを打つ。そうやってしか生きられない生を、僕は言祝ぎたいと思う。すべてが焼け野原になってしまう前に、僕は一篇のテクストを個人的なブログという形で編もうと思う。

 『アイドルマスターシャイニーカラーズ』は、往々にして「批評」「考察」の眼差しに晒されてきた。しかも、その多くは読むに値しないほど稚拙で、「~である」「~といえよう」を乱用する大学1年生のレポートのような文体でスクリーンショットを貼り付けただけのものか、あるいは極端に自家撞着的なヘタクソな詩のようなものか。実際、このブログに載せた(寄稿した同人誌は今どうなっているのかさっぱり分からないが)「鮮烈――すべて名もなき少女たちのための詩篇」は、あれがフィクションとしてリアリティを持つべく書かれたものとして書いた意図があるにせよ、「樋口円香と昔の彼女は同じ位置に泣きぼくろがある」などと書いては正気を疑われても仕方がない。あれはあれで書いてよかったと思うようにはしているが、それでも出来の悪いポエムですねと言われてしまったら、多分僕は逆切れもできないだろうなと思う(付言しておくと、「鮮烈」は統合失調症の症状のさなかに書かれた文章である。シュレーバー的と言えばそうなのかもしれないが)。だからと言って、私はシャニマスをどうしても、どうしても茶化せない。ポップな文体でシャニマスについて書くことを僕のオタクとしてのみみっちい矜持が拒絶する。この盲目さ、ある種の語りを平板化させるゲームの強度は、一体何から来ているのだろうか、と仮に問うてみよう。問うたところで答えが出ないのは目に見えているが、それは例えば哲学者であり美学者であるルカーチ・ジェルジ(ジェルジ・ルカーチ)が美学についての浩瀚な書物を書きあげようとしてついにその人生で美学についての一大プロジェクトを成し遂げることはできず、過剰な観念派(ヘーゲル青年派)のマルクス主義に転向したあの過ちを僕たちシャニマス語りたがりオタクたちは犯しているのではないか。美そのものをつらまえようとして、言葉の不能に行き当たり、結果的にスクショを貼って「この窓から差し込む光はアイドルとプロデューサーの間に隔たる「距離」なのである」とかいうクソつまらない文章を書いてしまうのではないか。美が痙攣的なものであると書いたブルトンや肘から美が流れ込んでくるとものしたダリの方がよっぽど美の感官において鋭敏だったように(哲学者が美について無能で、シュルレアリストたちが美を最もよく理解していたと一概に言うつもりはないが、それはこの記事の本題とは逸れるので脇に置いておこう)、僕たちはシャニマスのテクスト――それはときにバルトやカント、あるいはThe Smithsメンデルスゾーンが登場するディレッタントの馥郁たる香りが立ち込めるテクスト群――について直接的に迂回する必要があるのではないか、ということを言いたいのである。それは、道端に雨にずぶぬれになって何故か落ちているビートルズの詳細なムック本にバイオグラフィやディスコグラフィという点による語りの集積が結果として読み手にビートルズの全体像を想起させ、もしかしたらビートルズの音楽を聴くのと同じくらい豊かな経験をもたらすように、シャニマスというゲーム(テクスト)総体をヘタクソなポエジーや事実の羅列によって語った気になるのではなくて、自分の好きなものから丁寧に一つずつ拾い上げてそのコミュの何のどこがいいのかを逐一説明してみせること、これをやってみたいのである。無論、その全てを僕は読破していないし(今回このエントリを書くに当たって後に取り上げる【ロー・ポジション】杜野凛世のTrueEndもまだ観れていないし、あるいは時事ネタ的にホットかつ名作と名高い【≠EQUAL】三峰結華も未入手である)、ソーシャルゲームの性質上網羅ということは難しいだろう。しかし、好きなものを点描的に取り上げてみることによって、そのテクストに込められた内容や受け取ったものの一部でも言葉にできるのならば、シャニマスに限らずオタクコンテンツ全体においてわずかではあるが一歩を踏み出したことにはなるだろう。それは、「において」語ることなどできない、という事実から出発する。すべては「~について/~のための」であり、内奥より言葉が出てくることは決してない。僕はかつて冬優子を冬優子「において」語ろうとした文章を3万字書いて、全部ボツにした。それぐらいやらないと、「~において」という美学的に不細工な態度を諦められなかったのだ。

 さて、本題のシナリオレビューは、カードコミュ(SR以上)編、WING編、GRAD編から3つ(WINGとGRADからは2つ)ずつを選んだもので成る。僕の担当は浅倉透と黛冬優子だが、担当を織り交ぜつつなるべく主観を排してクオリティが高いと思われるシナリオをピックアップした(完全に主観を排することはできないので個人的という留保をつけた)。限定SSRのカードも含まれるので必ずしもこれからシャニマスを始めたいという人の指針にはならないが、WING編、GRAD編は共通コミュのみなので、シナリオさえクリアすれば僕の言いたいことは分かってもらえるだろう。

 最後に、僕は13歳の頃にAKB48にハマって、今年で24歳になる。もう数えて11年オタクをやっているわけだ。必ずしもアイドルも、アニメも、ソシャゲも、Vtuberも、僕の味方でいてくれるわけではなかった。アイドルは中絶もするし、ピルを彼氏に肩代わりさせてセフレと4発生でセックスする。グループ内いじめでレイプ教唆があって、それをグループ丸ごともみ消したりする。どんどんオタクは鈍感になっていって、露悪でしか自分の心を守れなくなっていく。オタクをやらなければ生きられなかったのかと、今日例の一件で沸くTwitterを見ながら考えた。多分、ダラダラ生きてるのと同じように、ダラダラオタクをやるのだと思う。それでも、惰性の永劫の中に一瞬の閃光が放たれるのを心のどこかで信じているから、文章を書くのだろう。あんまりポジティブなことは言えないけれども、それでは以下レビューです。どうぞ。

 

2.カードコミュ編:「可視化された行間」としての「アイドルイベント」

 カードコミュは、当たり前だが闇鍋ガシャで誰を引けるか分からない中、担当ではないSSRが出たりSRでも思わぬ掘り下げがあったりする。シナリオの役割を果たす「プロデュースイベント」がそのキャラクターのベースにあるのに対して、SR以上の「アイドルイベント」はそのキャラクター造形を一層深いものにする「可視化された行間」である。「読む」行為には常にある種の罪が付きまとうと言ったのはルイ・アルチュセールだが、女の子のセリフをテクストとして解体し、再構築する営みはそれ自体が罪深い行為であるのは承知の上で、その「行間」について触れてみたい。

1位 【ロー・ポジション】杜野凛世

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 凛世は【杜野凛世の印象派】でプレイしたが、あまり印象に残らなかった。凛世のジレンマは、プロデュースイベントで見られる通り、「プロデューサーに仕える」以外の目的がなく(「運命の出会い」を果たした相手と凛世が見込んだから故なのか、極端な例で言えば樋口やにちかのような人間関係においてはむしろそちらの方が自然なコンフリクトというものが不自然なまでに存在しない)、それが凛世の足枷となっていた。結果的に本筋のプロデュースイベント内でそれは解決されたかのように見えるのだが、【ロー・ポジション】ではプロデューサーへのこみ上げる凛世の想いがこれ以上ないほどの詩情で描かれる。特筆すべきはやはりムービーつきの「春雪」。早春の早朝、味噌汁を作る凛世と凛世を迎えに行くプロデューサーのモノローグとダイアローグがスタティックに描かれる。「まっ白な時間」に「大根が透き通る」と味噌汁を作る過程に夜明け前を形容する凛世の感性が、プロデューサーへの「こぼれそうな心」に重ね合わされる。とはいえ、凛世についてはGRADでも言及するので、ここまでにしておく。

2位 【まわるものについて】浅倉透

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 浅倉もGRADで言及するので短めに。浅倉については何度も文章を書きボツにしてきた。なぜって、「美しい」、「心が震える」、「世界の全てだ」以外に言葉を失ってしまうからだ。何かとネタにされがちな浅倉だが、SSRの【10個、光】Trueの公園から一望する景色を「世界」と表現するくだりや、サポートSSR【ハウ・アー・UFO】の「めが やける ぐらいの 光が あるぐらいだから」など、彼女の表現の奥行はどれほど言葉を尽くしても尽くすことがない。【まわるものについて】では、メリーゴーランドとCDプレーヤーの回転運動に焦点が当てられる。「追ってるかもしれないじゃん……!私が……!」と絞り出す浅倉は、なんというか、痛々しい。同じく、浅倉に消えないでくれと頼むプロデューサーも。浅倉はことプロデューサーとの関係性が特殊だが、お互いがお互いにふといなくなってしまう瞬間を恐れている。例えば夏葉であればよきパートナーとして次第に全幅の信頼をプロデューサーに置くことになるし(Landing Pointではそれが顕著だった)、冬優子であればバディと言うのが適切だろうか。しかし、浅倉は(イチャついているときも含めて)お互いがいつの間にか姿を消してしまうことを恐れているような危ういロマンスを香らせる瞬間がある。「CD見てた」と「追って、追われる」回転の運動を見やる浅倉は、プロデューサーにも回転運動を見ていたのだろうか。

3位 【starring F】黛冬優子

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 冬優子ははっきり言って単細胞である。自己反省の仕方も自尊心ありきだし(Landing Point参照)、自分の行動原理が傲慢さから来るものでしかない。彼女の「分裂」も、その傲慢さを傲慢さによって覆い隠している気になっているだけである。WING編(プロデュースイベント)でカメラマンに逆切れし、その後事務所に戻ってきて「もう一度、アイドル、やりたい!」と言って号泣する姿は醜悪でさえある――そのあまりにもカリカチュアライズされた「プライドの高いオンナノコ存在」という意味において。その戯画は例えば惣流・アスカ・ラングレーであっただろうし、例えば柊かがみであっただろう。彼女らはみな、その愛すべき醜悪さにおいて現実存在のミメーシスでしかなかった。パラフレーズすれば、「こんな女、おらん」というモデルケースとして分かりやすく説得力を持ったのである。【starring F】は、冬優子がなぜ醜悪なのかのルーツを辿るという意味合いを持っている。猫かぶりで小中学生のとき角が立ったこと、「ふゆ」と「冬優子」のどちらもプロデューサーが肯定することによって「ありがと、バーカ」という紋切型のまさしく単細胞なセリフしか出てこないということ。シャニマス運営は、冬優子の存在をどんどん悪辣なものにしている。【ONSTAGE?】のTrueは、醜悪でしかなかった。プロデューサーにやり込められてむくれる冬優子を「尊い」「かわいい」と神輿で祭り上げるオタクたちは、蛆虫以下の存在である。

 

3.WING編:誰から始めても正解ではない

 シャニマスを始める者は誰しも、WINGから入る。気になった子を選んで、チュートリアルをプレイする。難易度の高さに投げる。テクスト量の多さに辟易する。正直シャニマスを人に薦めづらいのは時間効率が悪すぎるからというのもある。かくいう僕も去年の四月にあさひで始めて、そこから2~3か月おきぐらいにやって今年の4月にやっとWINGをクリアできた(これは僕がゲームが下手なだけ)。シャニマスは誰から始めてもいいが、誰から始めても正解ではない。魂のアイドルが決まるのはずっと後のことだ。WINGを負け続け、周回した人間しか見れない景色がある。

 と同時に、従来的な根性論とか「努力は必ず報われる」のアイドル価値観をちゃぶ台返しするのもシャニマスの特徴である。以下に示す3人は、脚本が良く出来ているのと同時にシャニマスの旨味である苦みを示してくれるアイドルをチョイスしてみた。

1位 七草にちか

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 にちかの登場は個人的にゲームに限らず二次元アイドルにおけるメルクマールだったと思う。島村卯月が「ガンバリマスロボ」と言われて揶揄されていたように、アイドル表象における「普通の女の子」は大体異常者だった。にちかも異常者であることには違いないのだが(真に凡庸なのは甘奈とか)、凡庸であることのコンプレックスをここまで深掘りしてえぐり抜いて見せたのは(手放しで褒めるのは気が引けるが)見事としか言いようがない。「もう、ラッキーの時間は終わりですよね……」とプロデュースイベントでも『ノー・カラット』でも呟くにちかに、どれだけの消費者コンプレックス(cf.卯月コウ)を抱えた人間の心がズタズタになってしまっただろうか。僕は初見プレイではあまりダメージを受けなかったものの、同人誌を一緒に運営していた友人が鬱で倒れてタスクがかさんだり大学院の過去問のフランス語がさっぱり分からなかったりするまま何の気なしににちかをプレイしたらマジのゲロが出た。凡庸、無能であることに気づかないことは、最大の幸福である。自分が凡庸で200%を出さなければ周囲の人間と同じ土俵にも立てないと知った瞬間、そこが地獄の入り口なのだということを、七草にちかシナリオは下手な小説よりも切迫した表現で伝えてくれる。初心者に二人目にオススメしたいキャラ。

2位 樋口円香

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 樋口の愛情表現は愛くるしい。もはやこの「愛くるしい」という一言で全てを終わらせてしまいたい。微笑みながら彼女が「大嫌いです」と言うとき、何故だか分からないが涙が出てくる。それは、何度もこのネタを擦るようだが、自分が人生で一度だけ本気で恋をした女性に樋口が似ているからかもしれない。樋口は分かりやすいツンデレだし、皮肉や悪態は信頼の表れだし、そしてそういうことを言ってしまう自分のことが世界で一番嫌いである。本当は一生懸命になりたいし、頑張りたいし、もがき苦しみたいのに、「心臓を握る」で「怖い……」と本音を漏らしてしまう。「勝算のない賭け」に打って出ることを「ミスタークレイジー」と言う割には、自分が壊れて気が狂いたいと思っている。いわば、こういった手垢のついた俗っぽい表現をするならば、ドマゾなのだ。彼女がめちゃくちゃにされたいと思っているのはプロデューサーにではない、世界にである。この点で浅倉と樋口は対照的で、浅倉は「世界」を「誰のものでもないものならいいな」と言っておきながら世界は彼女のものだし、浅倉は世界を蹂躙することができるし、蹂躙している。樋口は「あなたの夢を見た。最悪」と自分の無意識=裏返った世界に蹂躙されることでイッている。このように、僕が樋口のことを語るとき、どうしても文章のストロークが短くならざるを得ない。それは、樋口が僕の個人的なところに深く根を下ろしているからなのである。

 

4.GRAD編:「重み」を引き受けられない――アイドルである前に

 GRADはあまり量を読めない。True石が掘れるわけでもないし、シナリオが単純に長い。GRADを読むたび痛感するのは、僕たちが仮構されたアイドルの「手前」を目の前にしてその重みを引き受けることができないという事実である――舞台を降りたアイドルたち、あるいはまた別の舞台に上がるアイドルたちの姿が、ときにあまりにも痛々しく、切実で、命の叫びのように見える瞬間がある。GRADでシャニマスが見せるアイドルの諸相は、例えばにちかのWINGのような露骨なグロテスクではなく、むきだしの生傷のような、切れば血の出る動脈のような、生命の胎動である。たかがソシャゲで何を、と言う向きもあるかもしれない。しかし、たかが、されど、である。GRADこそ、何も語らせない磁場が働いている、と言うべきかもしれない。僕はGRADについて語れるか分からない。しかし、やってみよう。ディスコグラフィを作ってみよう。

1位 浅倉透

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 この記事を書こうと思ったきっかけが、この「浅倉GRADを少しでも言語化したい」という思いだった。書いてみたら長くはならなかったが、格別の思い入れがある。

 「ラムサール条約では……」という湿地についての朗読から始まる浅倉GRADは、その謎めいたテクストの錯綜によって恣意的に「読む」ということを拒絶している。要するに、浅倉とプロデューサーの関係が「Pラブ」だとか、浅倉が尊いとかかわいいとか顔がいいとか、そういうオタクの思考停止の語りを無化してしまう作用がある。湿地についての朗読、河原100周、委員長とのダイアローグ、それらすべてが並行して最後にミジンコと「捕食者」に収斂していく様が、一つのテクストの織物として驚嘆すべき美しさを保っている。この記事は「考察」を目的としていないし、ましてや「批評」などという恐れ多い文句を持ち出すつもりはないのだが、浅倉がカメラに意識を向けた途端カメラが「食われる」ことを意識せざるを得ないあまり「呼吸」してしまう、という浅倉の暴力性=捕食者たる所以がここにある、などという陳腐な文言さえ飛び出してしまいそうになる。かつて蓮實重彦は『クーリンチェ少年殺人事件』について「問答は無用だ。今すぐ劇場に駆け付け、画面に打ちのめされるがよい」と言ったが、蓮實の言う映画批評の「運動の擁護」をさえエドワード・ヤンが放棄させたとしたら、浅倉はテクストの擁護を放棄させるのである。まあ、四の五の言うのはどうでもいい。黙ってスマートフォンシャニマスをインストールし、今すぐアプリを開いて、浅倉に打ちのめされるがよい。

2位 杜野凛世

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 カードコミュ編でも書いたが、凛世は完全にノーマークだった。原因の一つに、感情表現の乏しさが挙げられる。「プロデューサーさま……凛世を……お導きください……」という独特のセリフ回しがどうにもかったるく感じられてしまった。GRADの凛世は、血を滲ませていた。「あ」しかない少女αと「あ」以外しかない少女βの狭間で、凛世は「……いたい……いたかった……」と海辺に向かって叫ぶのである。そこに、かつて自分が感じていたかったるく重いだけののっぺりした杜野凛世はいなかった。人間になりたい、人間でありたいと魂で訴える彼女の姿に、嘔吐せんばかりに泣いた。心を動かすにはどうすればよいかともがく彼女の姿が、実際の人間以上に生々しく、血の通ったものとして見えた。

 

5.おわりに――数行のエクスキューズ、ないしはギブアップ

 本当は全部にベスト3をつけようとしたんだけど無理だった。汲み尽くすことのない鉱脈で、腐泥の蛆虫である僕たちはうねうねと語る対象を探し続ける。シャニマスじゃなくてもいいのかもしれない。それでも、色々あっても、今の僕のよすがは、シャニマスだから。

NO FUN(息抜き)

 久々に個人的な話をしよう。とはいえ、俺は文章を書くときはいつだって個人的な話しかしていないのだが。

 

 なんで公に文章を発信できる場所を別に持ってるのにこのはてなブログアカウントを大学1年生のときから使い続けるかといえば、ここはいわば痰壺だからだ。こことは違う痰壺をおととしまで持っていたのだけど、くだらなくてつまらない理由から捨ててしまった。なぜかそっちの痰壺の方に人が吸い寄せられるのは、俺が元々持っていたくだらなくてつまらない自意識が人によっては魅力的に見えるからだろう。文章がその人の内面を綺麗に映し出す鏡なのかと言われたら、かならずしもそうじゃない。邪悪で濁った心を持った人間の書く文章が清明で美しい場合だってあるだろうし、清らかな内面なのに破綻した文章しか書けない人だっているだろう。

 俺は、もう既になんとなく疲れて倦んでいる。もちろん文章を書くことにではない。文章を書くことはとても楽しい――場合によっては自慰以上に。そうではなくて、文章に自分の気持ちや想いを乗せて誰かに力強くぶつける、分かりやすく言えば「誰か僕の気持ちを分かって!」というスタンスで文章を書くことがとっくに困難なのだ。かつては、それがなくなった自分の文章など書く意味も読まれる意味もないのではないか、と思っていたのだが、別に意味なんて元々なかった。書きたいから書き、読みたいから読む、それまでの話であって、意味付けが恣意的なものに過ぎないことに気付くのに随分とかかってしまった。

 文章と自慰行為をうっかりなぞらえてしまったが、文章にしても創作行為の第一歩はそれがまず自慰であることにある。俺はなんで文章を書いているんだっけ?とたまに考えることがある。何か切迫した伝えたいものがある。何か俺にしか語れないことがある。村上龍が『13歳のハローワーク』の「作家」の欄で、何も捨てるものがなくなり、そういった伝えたくて俺にしか語れないものだけが残ったとき、作家を目指しなさいと書いていた。俺はずっと、小学生のときからずっと、誰かに自分の知っていることや学んだことを自分の思い描く言葉で伝えることが好きだった。もっと厳密に言えば、そうやって誰かに何かを伝える自分の言葉を読みたいと熱望したのがまず自分だった。だから、自慰は自慰なのかもしれないけど、それはよくないのかもしれないけど、やっぱり人に伝える歓びの手法を工夫しながら試行錯誤していくプロセスが自己目的的に楽しくなるのに越したことはないんじゃない?と俺は考える。まあ、書くスタイルが変わるのは、致し方のないことだけれども(それが観念的で抽象的になればなるほどに)。

 かつて交際していた女性は、俺の文章が好きだった。当時何かに切迫していて自意識が膨れ上がった俺と俺の文章、つまり痰壺のうちの一個ないしは両方を彼女はとても褒めてくれた。俺は何のために文章を書いていたのかと言えば、まず自分のため、そして彼女のように自分の文章を特別に読んでくれる特別な誰かのためなのだったと気づくのに、俺はいたく遠回りをしてしまったなと思う。断筆しようと思ってできなかったのは、彼女の――あえてこういう言い方をすれば――「おかげ」だった。文章は俺を救ってくれない。しかし、文章によって俺は俺自身を救い出すことができると気づいたのは、このブログに断筆宣言をした直後に俺が傷害事件を起こしたときだった。アマチュアの同人ゴロのくせに何が断筆じゃボケというそしりはまあ置いておいて、現行犯逮捕されパトカーに乗り、警察署のエレベータ内で手錠をかけられたとき、俺はまた何かを書かなければならないと思った。迷惑をかけた友人や家族の顔が脳裏に過ぎる中、俺に何かを賭けてくれていた女性の存在がその中にいた。結果、俺は同人を立ち上げ、ブログを書き、何かを発信している。輪郭を捉えたり捉えられなかったりしつつ、Twitterの140字に収まらないものをどこか遠くに向かって投げかけている。

 

 「初めて会ったときのこと、おぼえてる?」と峯田は歌ったが、別れ際については志摩遼平が「さらば青春の光」と歌っている。綺麗に男女関係の始まりと終わりをメルクマールとして位置付けることのできるアベックが果たしてどの程度いるのかということについてはついぞ謎のテーマだが、俺は人生で女性と計3度破局している。1度目は静かに、2度目は泥沼で、3度目はいつの間にか(これは含まれないかもしれない)、といった具合で、いつまで経っても反省できない。ところが永遠の反逆児であることにも才能が必要で、俺はもはや現段階ではそういう色恋沙汰に頭から突っ込んでいくのが億劫になってしまった。かつては文学部のキャンパスで歩くペニスと言えば俺とまでの二つ名を恣にしていたはずが今では一日一回の義務のオナニー(これを友人は義務ニーと呼んでいる)をこなすことさえかなり困難になっており、自分のペニスが勃起することさえ神に祈る日々である。

 そんな折、上に書いた泥沼破局劇を演じた女性からいきなり連絡が来て、いきなり会うことになった。話した内容は書くようなものでもないのでいいとして、久しぶりに元カノに会うとか以前に女性と喋る機会自体が母親以外で最近なかったので最初死ぬほど緊張した。緊張をほぐすためにイヤホンで爆音でFlying Lotusの『You're Dead!』を聴いていたら突然目の前に彼女が現れて震える手でイヤホンを取り外し「ヒ……ヒサシブリ……」と蚊の鳴くような声で言うことしかできなかった。彼女は付き合っていたときとそう印象は変わらなかった。強いて言えば髪が伸びたなぐらい。本当に『シティーハンター』にそういう台詞があるのか知らないが「男子三日合わざれば刮目して見よなんて言うが、女の三年はその比じゃあない」と冴羽潦が言っていたのを真に受けるとするならば(そもそも別れたのは去年の6月だが)、顔つきが良くなっていた。もちろん彼女も体調が万全というわけではなさそうだったが、こうして見ると別れ際の顔つきは多分お互いよくない感じだったのだろうなと思った。

 彼女と埠頭で話し込みつつ、なおかつ昔の話は触れたり触れなかったりしたりして、最後辺りに異性との別れ際の話になった。静かに、激しく、いつの間にか。マーラーの楽譜の指示じゃないんだし、と思いつつ、俺はなぜか俺の最初の交際相手のことを喋っていた。高円寺のシーシャ屋で、当時煮詰まりに煮詰まっていた関係性に限界を感じていたのと彼女に対する依存から来る試し行為で「もう無理かなあ」と俺が言ったら、彼女も「そうかもね」と返したこと。二人で家に帰っていつものコンビニのざるそばを一緒に啜って寝て、朝髭剃りや歯磨きを処分して実家に帰ったこと。話しながら、この埠頭の夜は4年前の高円寺の夜に似ているなと思った。静かに何かが終わっていく感覚があった。ワヤクチャのまま場当たり的についてもいない決着をついたことにした1年前から今にかけて、目の前にいる彼女にも俺にも色々なことがある中で、折り合いをつけたりつけられなかったりしつつ、まあ、どうでもいいよね、の一言に泡沫と帰す瞬間が訪れているのが分かった。お互いの非を認め、再会に至るまでにも犯した過ちを数えつつ、結局俺も、折り合いがつけられていなさそうな彼女も、断片的にお互いのことを忘れていく。まあ、それでいいかなと思った。俺も彼女に黒歴史みたいな文章送り付けてるし、その前の彼女には怪文書LINEで会ってくれえ~と泣きついてフイにされてるし、そういうことを忘れていかないと人間どこかでバグってしまう。皆さんはそういう経験、ありませんか?空を見てください。あの星の数が私の残した黒歴史怪文書の数です。

 まあそれはともかくとして、一つの「終わり」が見えてくる瞬間というのは、なんとなく寂しいような、爽やかなような、不思議な気持ちになる。しがみついていた何かから解き放たれる瞬間は、それは足場でもあったわけだから、やっぱり不安になる。人は過去によって生きるとどこかの小説家も言っていたと友人の受け売りで聞いた。でも、忘れる、忘れてしまうことによって、そこにいつかまた会えることの可能性が託されていたりもする。同人がんばんなきゃなー、と黒に呑まれた東京湾に向かってぼやいた。今隣にいる人がかつて隣にいたときに、彼女が俺に見せてくれるかもしれないと期待してくれた景色の先っちょを来年には実現しなければならないという使命感に似た感情が奮い立つのを感じた。何より、今同人を頑張れているのは、彼女のおかげなのである。帰りに乗る電車が分かれたとき、彼女は「もう会うことはないと思いますが」と言ったのに対し、「じゃあ、また」と俺は反射で返してしまった。まあ、多分もう会うことはない。ただ、生きていれば可能性はゼロではない。また、いつかどこかで。

 

 この文章は特定の誰かに宛てられている。NO FUN!

日記、あるいはなんとはなしの彫琢

 僕は躁鬱病統合失調症である、みたいなことを書くのにもいい加減飽きたし、鬱状態とか幻視(夢幻様状態)の症状それ自体にも飽きた。正直いつからこうなっていたのかも覚えていないし、元からこんな感じだったような気もする。合唱コンクールの指揮者で一身に拍手を浴びていたとき、高校時代部活で部長を務めてミーティングで部員を鼓舞していたとき、あのときが輝かしい日々で「健常者」だったのかどうか、割とどうでもよくなってきた。まあ、たいていのことは、どうでもよいのだ。

 

 たぶん今僕は何度目かの鬱状態になっている。周りからしたら躁状態が迷惑で、自分からしたら鬱状態がつらい。「つらい」というか、これはあんまり言葉の射程として正しいわけではない感じがして、「体がデカくなる」とか「意識が自分の頭上にある」とか「特定の音楽が聴けなくなる」とか「本に線を引いて読めなくなる」みたいな一個一個の症状が積み重なっていくと当たり前に知覚や生活に支障をきたす、程度の話であって、つらいからつらい、みたいな話はケチをつけるわけではないけど別に何も言っていないと思う。僕は鬱になると音楽も本も映画も基本的にダメになってくる。おそらくだが、僕は何かデカい成果物を提出したときにSSR確定病気プラチナガシャが回されて躁か鬱か統合失調症がドロップされるのである。去年卒論を完成させたときは躁と統合失調症、卒論を提出した後は酷い鬱、今回は同人の原稿をアップしたら鬱である。同人をやっていて躁鬱の知人に「僕は文章を書くことがオナニーのようなものなのですが」と言ったら「それはよくないね」と言われたことがある。書き終えたあと決まって体調を崩すのではやはりよくないオナニーなのだろう。はて、オナニーではない文章とは、一体なんなのだろうか。現に鬱の真っ最中である中、やることがないからととりあえずパソコンで脈絡のない文章をブログに書いているときに(そしてこんなものは誰も読まないか読むとしても決まった人なのだから)ああようやく俺も生きているのだという実感があるのである。普通にこれは思うことなのだが、「つらい」じゃないけど「死にたい」も相当雑な言葉だと思う。死にたいけど死にたいわけないだろ、と思ってしまうのは自分が根本的には信心深いからだろうか。夢見りあむでさえ「やむ」と言って「死にたくない」と言うのである。何の話をしているのか分からなくなってきた。文章の構成を考えることがめんどくさいときはやはり鬱病なのである。

 鬱病のときはたいていのことがどうでもよくなる、というかたいていのことが苦痛なのだが、一個だけ苦痛ではないことがある。Vtuberを見ることである。感覚としてはラジオに近く、家長むぎみたいな萌え声生主みたいなのではなく舞元力一とか花畑チャイカのマイクラなどが落ち着く。なんで落ち着くのかはよく分からない。まあ鬱病のときにアニメも本も音楽もダメになって(デレステのMVなどは情報量が多すぎて完全にバッドトリップする)、何もできなくなったときウーバーのマックを食いながらVtuberを見ているときが唯一自分の意識が自分のものであることを確証できる時間なのだった。これを書いているときも舞元力一チャイカ回を聴いている。何も中身がないトークが弾んでケラケラ笑っているときがなんとなく救われる。本はまあ、ダンテは読める。哲学書は無理。

 

 文章を書くことは何に似ているだろうか、と思った時、よく言われていそうだが彫刻を彫る作業に似ていると思う。ミケランジェロだったかが彫刻は内部にあるものを彫り出すことであると言っていた気がするが、文章も似たようなものだろう。白紙のように見えるが、自分の考えが形になっていく瞬間は最初からそうだったかのように思える。なんとはなしに書くことがいつからかできなくなっていた。彫琢ではなく粘土細工のように自分の文章と意識が変容していく様はあんまりおもしろいとは思えないけど、書いておくことに意味はあると思う。いや、まあ意味なんてなくてもいいのだが。

ノクチルとシーズについて:アイドルを観念論のおもちゃにしないためのエッセイ

 本文は、当初の構想段階では三部構成として「無軌道――ノクチル」の後に文章を統合する章が来るはずだった。が、僕の体力不足と、テーマ的に無理があるということで、それはナシにした。全ボツにするには割とおもしろいなと思っているので、載せておく。『OO ct.――ノー・カラット』と『天塵』のネタバレがあります。

 

 

「思弁と言語と世界が虚無になって直列している世界では、とりかえしということがついてしまってはならない。考えてみれば俺は人生のいろんな局面でこここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていた。ところがそんなことは全然なく、いまから考えるとあれらの地点は楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということがいま俺をこの状況に追い込んだ。つまりあれらが本当に引き返し不能の地点であれば俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。ということはこんなことをしないですんだということで、俺は今正義を行っているがこの正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない」

 熊太郎はそう言って刀を、生後四十日のはる江に突きたてた。

――町田康『告白』

 

・縊死――シーズ

 すべてははじまりである、とあるフランスの哲学者は言った。それはその通りで、序論なき結論もなければ、オープニングなきエンドロールもない。しかし、はじまりがあれば終わりがあるのかという問いについては、歴史はどうやら答えてくれないようだ。空の青さを「青い」と言うその日本語の三文字以上に、空の青さを「解析」することなどできるだろうか(別に「青い」は青についての解析でもなんでもないのであるが)。20世紀以降の人間は、「なぜ青と認識するか」「青を欲望すること」みたいにして、どうにかその内在性を突き止めようとしてきた。ところが、賽の河原よろしく、積み上げていけば積み上げていくほどにその対象との隔たりは絶望的になる。じゃあ、青いね、でいいじゃん、だったらどれほどよかっただろう。泥水を啜った後に見上げる青空の不気味で巨大な美しさの正体を、人は突き止めずにはいられない。いや、いられなかった。歴史がそうと言っているのだ。青い空がなぜ青く美しいのかということを問う問いは、世界に出口があるのかどうかを問う議論にも通ずるものがある。僕は、出口はあったりなかったりすると思う。正確には、出口は見えるだけなのだが、世界の認識として「出口があると思い込まないとやってられない」とか、「来たるべきものを待ち望みたい」という態度は、はっきり言って向こう岸が見えないプールで延々とクロールをするみたいなもので、あまりにも苦しい。ていうか、どうせ人生なんてゴミだし苦しいが、クロールしたあとにマラソンするとか、その後は滝に打たれるとか、そういう風に苦しみを切り替えていかないと縊れ死ぬ。そう、僕たちはまず、ノクチルとシーズという二つのユニットを扱うにあたって、世界の苦しさに縊れ死ぬ、ということを回避する手立てから「逆算して」出発しなければならない。

 6/30に発表されたシーズの初イベントシナリオ『OO.ct――ノー・カラット』は、最後まで読めば分かる通り、七草にちかと緋田美琴が別々の仕方で首を吊る話だった。ふと縄が下りてきて、気づいたら首を通していたということではない。にちかは最初から首が通っていて、目の前に時計があってゼロになった瞬間下に落ちる。美琴は縄が首にかかっている状態じゃないと生きた心地がせず、いつ足元が開いて落ちるか分からない。『ノー・カラット』は、舞台装置から来るメタファーの「奈落」(ちなみに、事務所によってはこれを「ドン底」と呼んだりする)から這い上がる話ではない。首を吊られた二人が、縊れ死ぬまでの話、見上げていた「奈落」の「上に」落ちるという話なのだ。

 いくつか印象深いシーンがあるが、二つのシーンに論点を絞ろう。

 一つはライブハウスのシーンだが、ここにおいて全てのことは起こるべくして起こる。にちかも美琴もそれぞれのシナリオのグロテスクさは後述するノクチルをはるかに凌いでいるが、ほぼ嫌味としか言えないにちかの調子に乗り方を、「ああ、よくいる調子に乗ったイタい普通の女子高生でしょ」で片づけることはできない――事実これを読んだ者がそのような結論に至るとは思えない。「シーズに、かんぱーい!」とはしゃぐにちかも、美琴が指導するダンスチームの輪の中に入れないにちかも(決してそれは疎外を意味しない)、そして、「もうこんなラッキーの時間は終わり」とするにちかも、等しく醜い。にちかの凡庸はシャニマスにおいてほとんど「悪」として表れる。そもそも、レコード屋の裏に嘘をついてプロデューサーを連れ込み、カメラで脅迫してデビューを迫るという手段を取っている時点でアイドルマスター的世界観が提示する「アイドル」像からしてみれば醜悪以外の何物でもない。それはにちか自身が自らのことを「踊れないし歌えないし使えない最低の」アイドルと言ってしまうことが何よりも示している。つまらない芸人ワナビーを軽蔑するにちか。仲良しアイドル――例えばノクチルは、果たして「仲良しアイドル」と言えるのかどうか――を嘲笑するにちか。「家族のアイドル」だったにちかが、「だった」と美琴の前で口にして、美琴に「そんな人と、私は組めない」と言われたとき、彼女の首にかかった縄はぎゅうと締まる。ライブハウスでは、まさしく、にちかに対する「死刑執行」が行われる。レッスンで明らかに「使えない奴」の烙印を自罰的に押され、浮かない顔(この「顔」もまた、醜いものとして表象されている)をしているにちかを励まそうとバイトの先輩が連れて行くクラブのデイイベントで、にちかは「シーズのメンバーだから」とちやほやされる。美琴の部分の台詞回しにしてもそうだが、ライブハウスにおける中身のない会話が、総体としてシーズそのものを描写する。そして調子の乗りぶりが頂点に達したにちかは、こう叫んでしまう――「シーズに、かんぱーい!」と。彼女の「ラッキーの時間」は居合わせた美琴に見られずに見られることで、終わる。死刑は執行される。にちかはいつも死にぞこないで、役立たずの愚図である。死にぞこないの歌としての「ホーム・スイート・ホーム」は感動的なカタルシスのはずなのに、二人が別々の台詞を言うエンディングを踏まえると何ももたらすものではない。しどけなく美琴にすがりつくルカのような気高さもなく、ただ二人がそのままそこにいるというだけの「上に落ちる」リフター=死刑装置が上昇、ないしは下降する。

 もう一つは、美琴のピアノである。メンデルスゾーンの無言歌作品38第5番が、美琴のテーマのごとく延々と鳴り渡る。「自動演奏」のメンデルスゾーンとにちかの下手な「ホーム・スイート・ホーム」がコマのドキュメンタリーと対比されているが、しかし果たして本当にそれは対立構造であるのか、つまりシナリオライティングの外で「美琴のピアノ」は意味を持ってしまっているのではないか?「メンデルスゾーンの無言歌」について、作中では何の解説もなかったが、メンデルスゾーンの無言歌は技巧的な作品ではないが「難しい」作品である。というのは、交響曲やオーケストラ作品、弦楽八重奏曲では優美で爽やか、であるが故にワーグナーをして「風景画」という揶揄を免れなかった。しかし、無言歌はメンデルスゾーンの内省的な部分を反映しており、単に音符を並べればよいという作品ではない。美琴は――カット画とともに――見事にメンデルスゾーンや「ホーム・スイート・ホーム」の連弾でにちかをアシストしてみせる(全く関係ないだろうが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を思い出した)。しかし、彼女はメンデルスゾーンチャイコフスキー(「四季」か?)を自動演奏のピアノ以上に弾けていなかったということが、メンデルスゾーンであるということにおいて示されているのである(重厚なシューマンブラームスは論外として、ショパンドビュッシーではないところが偶然なのか恣意的なのか測りかねるところである)。美琴は言う。「これ弾ける人、他にいっぱいいるよ」。「ミャオちゃん」に負けた美琴は、どのようにピアノを弾くのだろうか。楽理を学んでおり作曲も行い、ピアノを弾く美琴から見えるペンシルターンの中からの回転運動は、恐らく灰色だろう。青くない空が、美琴の目の前に広がっている。

 出口がない世界で、美琴は踊り続ける。

 出口がない世界で、にちかは踊り続ける。

 

・無軌道――ノクチル

 手に負えぬもの。怪物的なもの。いやあ、お前さっきの空の青さの話から何にも学んでないじゃん。べつにほっときゃいいの、そんなもの。雛菜に「しあわせ~?」って言われながら抱きつかれたり、円香に「あなたのことなんて、大嫌い」と言われたりして、二次創作のR-18絵でシコろうよ。冬優子のパンパンの太ももで窒息死したいのと同じようにさ。浅倉はかわいい。円香はかわいい。雛菜はかわいい。小糸もかわいい。かわいいものはかわいいんだよ。それが誰にとっても自明じゃないことぐらい、それは自明なんだから。

 はてさて、しかし、現実の酷薄さに引き戻されざるを得ない僕たちは、そのような態度決定を一元的にしていいものなのだろうか?いや、こう言い換えよう。虚構が現実よりも酷薄であることを忘れていないだろうか?と。現実の――唯物論的物質性と言えばよいだろうか――悪意は、神の意志を信じるか信じないかはイワシの頭なので置いておいて、とりあえずは偶然で決定されている。道に飛び出す子どもがトラックに突っ込む。男女の袖が触れ合う。まあ、そういう風にして、賽子の目は毎秒振り直される。しかし、それはある意味では良心的なのだ。胴元がいないギャンブルは誰が取るか分からないから面白い。物の次元がランダムに配置されることに不平等はない。しかし、虚構の現実、二次元ののっぺりした世界で「きみ」や「ぼく」に起こる「事故」は悪意だ。書き手という名の神は世界を作りたもうた、火の七日間はいつか「わざと」訪れる。ノクチルの四人が出会ったことが幸福でないこと。「プロデューサー」としてすべてを焼き尽す浅倉透を、浅倉に縋りつきながらも地獄でゲロを吐く円香を、なんでもできてなんでもできない雛菜を、もはや何を目標に頑張っているのか見失いかける小糸も、虚構という偶然の中で彼女らを見つめ続けるしかない。夜光虫の描く軌跡のように、それは無軌道で、残酷で、美しい。それを見つめてなお、ノクチルを「オタクのおもちゃ」として無批判に消費する*1ことに無条件の価値を見出してしまったら、先も見たようにファンタスムの中で縊死してしまうだろう。

 卓越したシナリオイベント『天塵』では、あらかじめ出目の決まった「偶然」で集まった四人のもつれあいが描かれる。長らくのこと僕は、浅倉透のことを言葉にしたいと思っていた。あまりにも残酷な完成度を誇る彼女のG.R.A.Dシナリオや、『天塵』でどこか遠巻きに描かれる浅倉透を、どのようにこういった論調で描き出せるだろうか。例えば、「アンプラグド」(メンデルスゾーンに触れたから触れておくと、「ハウ・ス→ン・イズ・ナウ」や「ハング・ザ・ノクチル!」はThe Smithのパロディである。まあ、浅倉がジョニー・マーだとかいうのは、飲み会の酒のアテにはなっても有力な議論にはならないのでしないが……)におけるリップシンク拒否を率先してやったのは浅倉である。あれを「ただの17歳の女の子の反抗」というにちか的な生意気さの発露であると捉える向きはさすがにないだろうが、印象的な当該シーンはアイドルオタクとしても色々思うものがある。リップシンク(口パク)文化の台頭はAKB48からとするのが一般的なアイドル史観であろうが、それならばハロー!プロジェクトの生歌主義が単なるヴィルトゥオジティであったのかと言われればそれもまた否であろう(このあたりの「アイドルとして生歌にこだわる理由とプライド」については一連のストレイライトイベントシナリオを参照のこと。ちなみに個人的にはストレイライトのモデルは曲調こそ違えどBuono!ではないかと思っている)。浅倉のリップシンク拒否は、AKB以降の「素人の偶像化」としてのアイドル像を拒否し、「ただの顔のいい素人」が真顔でヘタクソな踊りを踊っている、という「よく分からない事態」を引き起こしている点でノクチル以前のアイドル*2の特徴を浅倉透という存在そのものが戯画化している、と見る向きも可能であろう。無論、ここで重要となるのは「小糸だけが頑張って歌う」ということなのだが、浅倉のリップシンク拒否はシャニマスだけでなく「アイドルの歌」を問い直すという意味で重要である。

 もう一つは花火大会のシーン(チャプター「海」)におけるプロデューサーである。ボロボロの舞台セットで歌うノクチルを見て、プロデューサーは「なんか良いんだよな」と言う。実は、プロデューサーは、例えば月岡恋鐘に「ドジでも頑張ってる姿がいいんだ」、とか、黛冬優子の逆上に「その目を見て冬優子の良さが分かったよ」と言うように実はアイドルにその持ち味を明確に都度伝えているのだが、ノクチルに関しては仕事が取れなかったときも「なんか、良いんだよな……」と何も言っていない同然の「良い」を吐く。花火大会のノクチルは、画面で描写されることこそないが、生命力にあふれ、「アンプラグド」の様ではない形でステージを遂行する。きらめく画面のバックで「いつだって僕らは」が流れる中、プロデューサーは「なんか」、と言う。この「なんか」の正体を、僕たちは証明することができない。何故ならノクチルのステージは、「無軌道な現実」そのものだからだ。もちろん、このシナリオの演出そのものが客観的に美しいということを言っているのではない。人は、現実に打ちのめされたとき言葉を失う。注1でも書いたことだが、僕たちの生きている「現実」はそう単純ではなくて――当たり前にフロイトマルクスで説明できるものではなくて――ファンタスムと物質性がかち合ったり重なったり他の視角が参入してくることによって無軌道かつ不定形に僕たちの目の前に現れる。普段僕たちは色眼鏡をかけているから、外れたネジをドライバーでもとに戻したり、いない美少女を目の前に登場させたりできる。しかし、「なんか、良い/悪い」という現象が目の前に現れるとき、n番目の視野が入ってきて見てる世界が見ているままに留まらずに生のままで襲い掛かってくる。ノクチルのステージをもっとも「近い」位置で見ているはずのプロデューサーが言葉を失うのは、決してそれが美しかったからではない。無軌道な――生とは本来的に無軌道であるのだから――夜光虫が本当に目の前を通り過ぎて行った、ただそれだけなのである。

 

 救いがあるかどうかは人生において重要ではない。トリュフォーの『アメリカの夜』のように途中で人が死んだりセットが壊れたりしながら進んでいって最後は映画が完成する。シャニマスをやっていて事故でシーズン1とか2で育成失敗したりすると、大体のアイドルは自暴自棄になるか落ち込んでそのままになる。多くの人はそのようにしてリタイアし、「現実」に打ちのめされる。別にそれはそういうものだと思うし、僕は全員が救われればいいとは思っていない(僕も含めて)。ヘタクソな絵コンテのように人生は進むし、人生は物語であると言っている人も物語でないと言っている人も無責任で生きる気力を失っている。僕は黛冬優子が好きだし冬優子でオナニーするけど冬優子は僕の目の前には現れないし、『ノー・カラット』のはづきさんが「夢が終わっても、人生は続きますからね~」と言って七草家の貧困を語るリアリティを前にして二次元の女の子に救ってほしいという奴がいたらだいぶクルクルパーである(当たり前だが、現実を見ろと言って張り手を飛ばしているのではない。どのみち生きるのは厳しいという話だ)。

 学問でも音楽でも二次元でもなんでもいいが、別にお前を救うためにあるのではない。学問も音楽も二次元も、ただそこにあるからあるのである。

 

 ノクチルやシーズのすさまじさとは、美しさにあるのではなく、ただそこにあることである。

*1:ここで僕は「とおまど」や「ひなまど」、以下略を批判したいのではない。僕もそういう二次創作は全然いいと思っている。しかしここで僕が指摘したいのは、二次元還元主義や三次元還元主義の「あれか、これか」の二択のどちらかを選択しどちらかに耽溺することは怠慢であるとかではなく、極めて危険であるということである。還るべきは円香の胸の中でもなければミラーボール輝くピンサロのフラットシートの上でもなく、その二つあるいはより多くの視野の重なり合いがもたらすカレイドスコープである

*2:雑ではあるが、イルミネーションスターズ~アルストロメリアがあくまで二次元アイドルのリアリティを追求していった結果のパーソナリティなのに対して(もちろんそこには様々なアイドルイデオロギー流入しているわけだが)、ストレイライト以降はハロプロ、AKB/地下アイドル、K-POPと三次元アイドルの粘っこい雰囲気を描くことになっているのは20年代を前に生まれたアイドルコンテンツであるシャニマスの宿命とも言える

「巨乳」のイマジネール――オタクの欲望の貧困

・「みんな巨乳が好き」か?

 オタクの男で、巨乳が好きではない場合があるとしたら――これは意外と語られてこなかった問いである。男はみんな巨乳が好き。老いも若きも揃って巨乳巨乳の大合唱。もちろん、「いや、俺は貧乳が好きだ。貧乳はステータスだ」と『SHUFFLE!』を引用してノンを突きつける男もいるにはいるだろう。しかし、欲望の最大公約数として「巨乳」という値が存在するということ、この事実をまずは受け止めるべきなのである。シャニマスの月岡恋鐘が大学の教室の隣に座っていたとして、胸元を見ない自信があると言って本当に見ない男が果たしてどれほどいるのか、はなはだ疑わしい。どんな偉大な哲学者や詩人だって、巨乳が好きだったはずなのだ。無論巨乳ならばなんでもよいという訳ではない。葛城ミサトが好きな人もいれば篠ノ之箒が好きという人もいるであろう。「幼馴染」「お姉さん」「ロリ」「ツンデレ」、これに「巨乳」が加わる事によって最強になるのだ。

 だが、ここで待ったをかけるのがこの論考の主な目的である。巨乳が好きであるということはただのネオテニー幼形成熟)であって、みんな15年前なら「〇〇は俺の嫁」だったのが「ママ」になり、男性性をもって女性を消費することにオタクは疲れてしまったのだろう。「養ってあげたい」という態度は確かに傲慢かもしれないが、家父長的男らしさのロジックとしてはそれなりに整合性が取れている。対して、「ママ」、「養われたい」という欲望は、よく言えば素直になったということであり、悪く言えば欲望が貧しくなったのである。つまり、我々は「巨乳の『ママ』」しか欲望できなくなった。養ってくれて、無条件に肯定してくれて、甘やかしてくれて、胸がめちゃめちゃデカいママ。そんなママを欲望することは確かに素直だ。だって、誰だって働きたくないし、認めてほしいし、癒されたい。「あなたが一番大切だよ」って誰かに言ってもらいたい。でも、「長門俺の嫁」と言い切った方が、素直じゃないけど欲望は倒錯していて豊かだ。長門を本当に養えるのかはともかくとして、ここには男としての矜持とプライドがある。制度化された「ママ」の欲望に抵抗するエネルギーのかろうじての残滓がある。そういった、「巨乳ママ制度」の欲望のカテゴライズに、オタクはもはや倦みはててしまったのかもしれない。ソーシャルゲームウマ娘 プリティーダービー』のライスシャワーに対して「お兄様」であろうとする体力は、もはや今のオタクには、はっきり言ってない。欲望のネットワークに抵抗しようとする革命の世紀は、もはや終わったのだ、とはっきり言っておこう。

 しかし、欲望は終わらない。人間が存在する限り、欲望のゲームにケリがつくことはないのである。僕は2019年6月(もうあれから2年も経っているのかとも思うが)に書いた御伽原江良論の冒頭で書いているように、既にオタクがオタクの欲望について書くことには限界があるのではないか、と思いながら文章を書いてきた。オタクはどうしても教条主義的で、権威主義的だ。『涼宮ハルヒの憂鬱』のラノベもアニメも読んでないし観てないし、『らき☆すた』も観てないし、そもそも『新世紀エヴァンゲリオン』も観てないけど、『インフィニット・ストラトス』論を書きたいですとかVtuber論を書きたいですと言ったら僕は正直張り倒すだろう(そもそもVtuberはともかくとしてISに関してはそんなオタクがいるのかどうか怪しいが)。僕だって『コードギアス』を観ていなくて『ハルヒ』はラノベしか読んでませんと言ったら先輩に張り倒された。そう、「オタク」とは、悪しき人文主義のような「教養」が求められる箇所がどうしても出てくる一つの関係性やネットワークのものなのだ。先輩に『ハルヒ』や『コードギアス』を観ていなかった青春を全否定されることがないと、そもそもこういう文章を書こうとすら思わないだろう。そして、そういうネットワークの結果として、欲望がコード化され、オチが分かっているゲームのようなものになる。異様に胸が誇張されたイラストで射精できるというのは、生得的なものではなくコード化された欲望に自らを馴化することによって可能となる行為であるのだ。

 オタクの想像力と欲望の貧困は今に始まった話ではない。『ハルヒ』や『エヴァンゲリオン』を観ることによってしか得られないいい意味での「教養」というのも確かにあった。しかし、もはや限界に達しつつあるオタク的エクリチュールの貧しさの鍵は、「巨乳」というコードにあるのではないか。なぜ正面切ってアニメやアイドルの話をするのがこんなに恥ずかしいのかということについて、オタクは自らにストイックに問うてみたことが果たしてあっただろうか。精神分析や哲学などの語彙を適当に散りばめてジャーゴン的に扱うことによってしか、我々は愛するキャラクターを愛することができなかったことをまずは深く恥じ入らねばならない。その恥から、我々はようやく凝り固まったオタクの欲望について、正確とは言えないまでも誠実に語ることができる。

 

・「ツンデレツインテール」ヒロインはなぜ後ろめたいのか

 おい、ちょっと待て、お前今巨乳キャラの話をしていただろ、というご指摘はもっともである。しかしそれは主題としてひとまず置いておいて、「ツンデレツインテール」キャラというものがかくも魅力的で、「後ろめたい」存在であるのかについて語っておかなければならない。

 ここで要素ごとの分解をして分析をしたところで意味がないので、「ツンデレツインテール」キャラクターの例を二つほど取り上げてみたい。余談ではあるが、「オタク批評」と呼ばれるものの限界はここにある。つまり、要素分析をすれば「分かる」とか、そもそも分析が「できる」という認識が大きな間違いであるのだ。結果的に、キャラクター分析となって「しまって」いるという事態については確かに魅力的であるのだが、それ以前に我々は我々の欲望について語らなければならない、という歴然たる事実をいともたやすく無視してことは進んでいる(かのように見えている)。それはともかくとして、ここで取り上げるのは『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーと『らき☆すた』の柊かがみである。この二人にどのような共通項があるのか、と疑う向きもあるかもしれない。しかし、アスカもかがみも広義での「ツンデレツインテール」であり、その魅力と後ろめたさには相通ずるものがあるのだ。

 かがみの場合は作中に男性がほとんど登場しないのですぐ分かる事だが、じつはアスカにもシンジという男性がいながら実のところ男性がいない。両者の第一の共通項は、「欲望されない」というコンプレックスである。『らき☆すた』の場合は、こなた、つかさ、みゆき、そしてかがみで物語(物語と言うべきダイナミズムが欠落しているのもこの作品の特徴である)がほとんど完結しているが、頻繁に彼女ら四人の中で話題に上がるのは「異性にモテない」という話題である。そもそも、彼女らは本当に美少女だったのだろうか?共学で女友達四人で弁当と購買で買ってきたパンを食べながら他愛のない会話をし、海に行ったら「生理がヤバかった」という話で盛り上がり、かがみに至っては同じクラスに友達と呼べるべき存在が(一応)日下部と峰岸しかいない。実は、彼女たちは、ものすごくイケていないのではないか?ハルヒの場合、彼女は相当な奇人だがキョンの口から「相当な美人」と言われている。かがみはシリーズ後半の修学旅行の際、同じクラスの男子から告白されることを期待して肩透かしを食らう場面があるが、あれは彼女の人間性を示すに足る部分である。彼女は、欲望されたい=モテたいのだ。しかも、後述するアスカより下品な形で――つまりもはや「誰でもよい」のである。「誰でもいいからモテたい」という欲望の発露は、あまりになりふり構っておらず、見るに耐えない。2ch時代の有名なスレッド「木冬かがみが大学でぼっちになっているようです」に見られる「オタク共のいじめのオモチャ」的な露悪をここで看過するわけにはいかないだろう。モテなくて、女友達とも「他のクラス」という疎外感を味わい、「優等生」(これは「ツンデレツインテール」概念に共通する特徴でもある)で、何より重要なことに――貧乳である。この「貧乳」であるというポイントは後述するキャラクターにとっても極めて重要である。

 アスカは東浩紀などが執着して論じてきたキャラクターであるためあまり字数を割くことにはしないが、彼女もまた「欲望されたい」ことに関して惨めな女である。後半に行くにしたがって壊れて行ってしまう彼女の最後の支えは「いざというときにはシンジが助けに来てくれる」だったのだが、旧劇場版では助けられないまま凄絶な最期を迎える。彼女はかがみと違ってトウジやケンスケも驚くほどに絶世の美少女であり、であるが故にシンジの皮を被った朴念仁ぶりに業を煮やすことになるのだが、アスカを魅力たらしめているのはその暗い過去である。発狂して自殺した母親の死体を目の前にしたトラウマが歪んだプライドと直結し、「エヴァパイロット」でしか自らの存在理由を示せない。これが惨めでなくしてなんであろうか?『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がエヴァに乗らない人生=大人になることの映画(そしてそれは甚だしく欺瞞的というか、オタクに対して「マニアである自分を肯定しようよ」と言うようなもので、はっきり言って庵野秀明は自分のスタンスを示したという点では誠実だが作品としてはあまりにも屈託がなくグロテスクだったと思う)だったとすれば、旧劇場版は「みんなモテたいけど、みんなそれぞれでモテない」という葛藤がデストルドーとなって噴出するような映画だったと言える、そこでアスカの結末が首を絞められるか現実に独りぼっちで放逐されるかであれば、シンジに首を絞められた方が遥かにマシなのだ。シンジがアスカの裸体を見てオナニーするシーンで、アスカの胸元があらわになるが、あの揺れはするけれども小ぶりな胸に、「惣流・アスカ・ラングレー」という14歳の女の子の劣等感が詰まってはいないだろうか。シンジは、アスカの肉体そのものではなく、アスカの劣等感に欲情したのだ。それは2chのオタクがかがみを自殺させるように、シンジもアスカをある意味殺したのだ。その「殺害」行為は、なんと後ろめたくて、ステキなことだろう!

 上で述べたある種の「後ろめたさ」を定式化することは難しい。しかしあえて言うのであれば、「いじめがいがある」ことの肯定である。倫理に悖ることであると分かっていながら、表面上は気の強そうな、ツインテールの女をダメダメにしたい……こんな後ろ暗い欲望を現実世界の女性に持つことはもちろん場合によっては罪に問われる。しかし、二次元の「ツンデレツインテール」が、そういう潜勢力を持っていることは決して否定できない。そして、重要なことは彼女らが巨乳ではないことだ。巨乳は、自信や天真爛漫さに繋がる。朝比奈みくるが貧乳であったら、キャラ造形はかなり変わっていただろう。もちろん母性の象徴にもなる。「ママ」と呼ばれるキャラクターがたいてい巨乳であるのは、欲望するママが「貧乳だから」自信なさげだったり「貧乳の埋め合わせをするために」「女」であったりすることに生理的拒否感を覚えるから、という推測は間違ってはいまい。この意味で、やや胡散臭い話を挟むならば、エディプス・コンプレックスの「母親とセックスする」ことの後ろめたさが必ずしも父親を殺害したことによるものではないということは自明だろう。母親が「最初の他人」であり女であることを否認しつつ受け入れる構造に人間の(女性でさえもが持つ――エレクトラ・コンプレックス)欲望の原初があるという発見に20世紀の恐ろしさがあるのだが、我々は21世紀の今フロイトからドゥルーズ=ガタリを経由して、フロイト以前へと退行してしまっているのだ。欲望のコードが一本化し、我々は屈託なく「ママ」を「女」なき女として欲望する。「貧乳ツンデレツインテール」に行われる「いじめ」というねっとりした暴力の快楽を享楽することなくしては、我々は成長できない。暴力は人をときに成長させる。つまり、やや大仰に言えば、21世紀の欲望の回路をアップデートするために、我々は90年代やゼロ年代の産物をコード化せずに(「俺の嫁」「ママ」化せずに)享楽する必然性が出てきているのではないか、ということだ。

 しかし、思わぬところからカウンターパンチが飛んでくることになる。ここで、我々は、ダイワスカーレットと黛冬優子をいかにするべきか?と。

 

・「巨乳」のイマジネール、回路の複雑化

 『ウマ娘 プリティーダービー』のダイワスカーレットは、「ツンデレツインテール」が持っていた陰惨な暴力の潜勢力を一挙に無効化してしまった。彼女は誰が見ても疑いようがなく巨乳であり、勝負服のミニスカ軍服はゼロ年代のエロゲに出てきそうなテンプレートに理想化された「アニメの美少女」である。アスカ、かがみと、ツンデレツインテールが持っていた自信のなさやプライドの根本的な低さを、彼女は一挙に粉砕してしまったのである。それは「ママ」幻想でも「不憫な女の子」幻想でもなく、新たな幻想の到来、すなわち「陽キャオタクが神輿を担げる女の子」の到来だった。ダイワスカーレットは分かりやすくかわいく、走ることに屈託がなくて、巨乳である。しかし、なぜ我々のような――アスカを汚したりかがみを自殺させるような――惨めなオタクがダイワスカーレットのようなキャラクターを見て、レースで転ばせてやろう、とか、予後不良のSSを書いてやろう、といった嫌味な享楽に耽溺しようとしないのかについて、巨乳だから、の一言で終わらせてしまうのはあまりに短絡的なように思える。そもそも、『ウマ娘』はCygames発のコンテンツで、アニメ展開もされていた。その中では、チーム「スピカ」でウオッカとライバル関係にあることから彼女としばしばキャットファイトをするシーンもちらほら見受けられた。ここまで書けばお分かりの諸氏もいることとは思うが、二次創作でも圧倒的に多いのはウオッカとの百合である。ダイワスカーレットには、「欲望されたい」という葛藤がない。ゲームではトリプルティアラと有馬記念を優勝する圧倒的な強さを持ち、ウオッカに闘志を燃やす。ただ、「後ろめたさ」がないわけではなく、ダイワスカーレットウオッカを強く意識しているのに対して(特にゲームでは)ウオッカはいきなり日本ダービーに出たり海外に行ったりすることにダイワスカーレットが寂しさを感じているような描写がある。ただし、それ以上のものではなく、基本的にダイワスカーレットは「1番はアタシのもの」であり、結果的にそれを達成してしまうところに彼女というキャラクターの「神輿」性がある。

 多くの場合(と雑に言い切ってしまうが)、キャラクターは「僕/私のもの」であることに意味がある。みんなで担げる神輿から一人はぐれて偏愛すること、これがオタクの感性だった。「俺の嫁」「いいや俺の嫁だ」という論争があったのはそのためである。しかしダイワスカーレットのように「トップを目指す巨乳ツインテール」という存在になってしまうと、もはや欲望は特異化されない。みんなで萌えの大合唱、担げや担げの大騒ぎで、「僕だけの愛し方」をすることが難しくなってしまう。「21世紀の欲望の回路」に陰惨な暴力の享楽を導入することは間違ってはいないが、ダイワスカーレットの登場はあまりにも「倫理的に正しい」。「ツンデレ」も「ツインテール」も、それだけで惨めさや後ろめたさを表す記号ではない。ただそれがたまたまかみ合ったとき、むごい欲望を示すことがある。しかし、ダイワスカーレットの巨乳は、「こんなもん、おらん」と言う態度すら取れず、乳が揺れるのを見て大満足する「陽キャオタク」—―語の定義は他に譲るが、「萌え」「尊い」で全てを終わらせられるオタクである—―の欲望以下の欲望に絡めとられ、「21世紀日本のオタク的欲望」が全てダイワスカーレットに収斂してしまう危うさがある。そうなってしまうのは、柊かがみをリンチするより不健全ではないだろうか?

 一つ、アモルフな欲望を喚起するキャラクターについて述べてこのいささか長すぎる貧しいオタクの想像力に対する慨嘆を終えることにしよう。『アイドルマスターシャイニーカラーズ』の黛冬優子は、倒錯的なキャラクターだ。というのはキャラクターが倒錯しているのではなく、彼女の体形についてである。まずはpixiv百科事典からの引用。

プロフィールが初公開された際、身長・体重・3サイズが『ディアリースターズ』での秋月涼の数値とほぼ同じ(B78/W59/H81)であったために、一部では「男の娘説」が流れていた。ちなみに両者を比較すると、冬優子の方が身長が1cm高く、バストが2cm小さく、1kg重い。またスタイルの割になぜか体重が重く、283プロの中でも白瀬咲耶・月岡恋鐘に次いで3番目に重い(ほかのアイドルが軽すぎるともいえる)ため、「サイズ鯖読み説」「実は隠れマッチョ説」などが想像されている。

黛冬優子 (まゆずみふゆこ)とは【ピクシブ百科事典】

  見ての通り、スリーサイズが男性とほぼ一緒なのである。シャニマスのスリーサイズ・体重表記は桑山千雪などの例があるとは言え、バストがディアステの秋月涼より2cm小さいというのはいくら何でも……という感じである。であるならば、貧乳でないとおかしい。カップ数はアンダーとトップの差で決まるものの、バスト78は芹沢あさひと同じである。以下の画像を見てみよう。

 

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 おかしくないか?

 もちろん、見えている乳だけが乳ではない。あるオタクは盛っているだけだと言うし(僕のことだ)、そもそもスリーサイズを逆鯖読みしている可能性だってある。冬優子は、プライドが高く、傷つくことを恐れない。間違いを認めて泣くこともある。そういう意味で、確かに「ツンデレツインテール」ではあるものの、かがみやアスカ、あるいはダイワスカーレットのように欲望の回路を辻褄を合わせるようにして上手いこと成り立たせるような、そういう存在ではないのだ。まんまとバンダイナムコエンターテインメントのやり口に乗せられていると知りながら、自らの欲望の回路を書き換えられる。「ツンデレツインテールはいじめがいがあるから貧乳であるべきだ/ハンバーグカレーが美味しいんだから巨乳にツンデレツインテールが組み合わさったらいいに決まってる」、そういった論争は絶えない。僕は、どちらかと言えば女の子をいじめる方が、健全だと思っている。なぜなら、報復ではなく、いじめられる快楽を知る者のみが最も快楽的に女の子をいじめることができるからだ。エディプス・コンプレックスの反転を、我々は確かに行わなければならない。しかし、反転は反転にすぎないし、肝心なことは欲望を絶えず書き換え、更新し、何ものかと定義できないものへと練り直していくことだ。僕は以前、このブログで「推しのアイドルでオナニーすることが是となったとき、僕の倫理は書き換えられるだろう」と書いた。推しのアイドルでオナニー、大いに結構。倫理の書き換え、大いに結構。でも、我々はもっと欲望に素直になるべきなんじゃないだろうか。「これを欲さなければならない」、と。「巨乳/貧乳が好きなはずだ」、と。オタク、自分たちの欲望がそんなに管理されてて、楽しいか?「ママ」、「嫁」と当てはめるゲームは、もうやめにしないか?そんなの、『ファイト・クラブ』以下だよ。

 我々の「想像力」(Imaginaire)は、そんなに貧しいものじゃないはずだ。「巨乳」を欲望の末に選び取ることは、悪い事じゃない。サジェストで選び取るな。欲望と想像力を攪乱しろ。じゃなきゃ、生きるためにオタクをやっているのか、オタクをやるために生きているのか、分からなくなってしまうから。オタクも、人生も、ゲームではないのだ。

鮮烈――『アイドルマスターシャイニーカラーズ』のための詩篇

・序文

 あんまり僕はアイドル論だのポップカルチャー論だのを書きたくないのだ。そもそもこんなもの馬鹿らしいのだから。到底アイドルマスターと哲学なんて結びつきようがないし、大体「〇〇と哲学」などという試みはいくつもなされその度に向こう側に消えていった。じゃあ東や宮台は間違っていたのか、彼らはやり方がまずかっただけなのか、そういう問いが出てくるに違いない。そうじゃない、と意地を張り続けるのももう疲れた。シャニマスじゃなくたって、AKB48や、ももいろクローバーZや、新世紀エヴァンゲリオンや、涼宮ハルヒの憂鬱など、大体そこにはなんでも当てはまるようにできている。アニメやアイドルを観る手合いなど、大体が衒学か非モテをこじらせただけのどうしようもない連中なのだから。僕は衒学の非モテで手に負えない。いや、それは言い過ぎだろうか。ともかく、そこに意味を見出すのは僕らでしかない。世界を変える一撃などはやってこない。なんにも変わらないのだ。『ゆゆ式』でさえドラマティックで、僕らはソーニャちゃんのいない『キルミーベイベー』をやるしかない。あーあ、全部お前らのせいです。バカじゃねえの。お前らが頑張らなかったから、僕にはかがみもアスカもいなかったんだ。冬優子なんていなかったんだ。僕の前で泣き叫んでアイドルをやりたいと懇願する冬優子、「うるさい、バーカ」と優しく電話口で囁く冬優子はいなかったんだ。冬優子はただの絵だ。暗い部屋で一人パソコンをつけたまま、僕は震えている、何か始めようと。何も始められない。誰かのせいにすれば楽になれると思って、ずっと本当のことから逃げ続けてきた。僕は今圧倒的な虚無を前にしている。何かやれるはずだ、僕のやっていることはすごいことのはずだ、と言い聞かせてきた。ああ、なんて惨めなんだろう、惨めであることに気づけないほど惨めだ。絞り出せないのは僕の能力に限界があるから突破しなければならないのだと言いながら2万字を塵に帰した。「何か今も文章を書いてるんですか?」「ええ、アイドルマスターと哲学についての文章を……」いや、真面目だ。僕はいたって真面目だ。嘲笑されるのは当然だ。しかしいずれ確実に私の時代がkいって!!いやさあ、だってしょうがないじゃんよ。アニメとかアイドルに縋りつかないと生きていけないんだよ。無職の障害者前歴ありでも『らき☆すた』を観て涙したりシャニマスで手が震えて何が悪いんだよ。その瞬間のために生きてるのになんでこんな苦しい思いしなきゃいけないんだよ。俺はクラシック音楽に十数年浸かり映画を高校時代300本以上観て美術館の新展示情報をホームページでくまなくチェックする文化的エリートだぞ。この僕が言うんだから間違いない、シャニマスは新時代の思想であると。うわーん言っててバカバカしくなってきたよー。哲学の自律性というのは他のものへの干渉性が高いということでもある。写真について、なんでデリダはあんなヘタクソな文章を書かなければならなかったか?『複製技術時代の芸術』のベンヤミンには映画を語る資格はない。ベルクやワーグナーについて書いたアドルノは今じゃただの怪文書おじさんか無教養なクラオタがとりあえず名前出しとけの対象にしかならない。皆、哲学が万能だと思っていた。いや、罪は哲学にあるのではない。人にあるのである。もっとわれわれは哲学の無能に自覚的になるべきだった。哲学は、シャニマスを切り分ける道具ではない。し、シャニマスは哲学ではない。「シャニマス」を「涼宮ハルヒ」や「エヴァンゲリオン」に置き換えてもらっても構わない。「哲学」の定義を卒業論文で扱った僕なのだからもう少しうまいことを言わないと指導教官に申し訳が立たないだろう。哲学は、システムでもなければ、積み木でもない。いわば脂身、言葉に還元できないものにチクチク註をつけていく作業が哲学だ。哲学とは膨大な註であり、註なき文章は哲学ではない。革命が永遠に来たるべきものであるように、哲学も永遠に実現されることはないものだ。シャニマスは、もう認めるしかない、俗悪な中にひとさじの本質が実現されているゲームであると僕は思う。美少女アイドルをプロデュースする、その営為の中に、どれほどの無意味が存在しているか。もう、僕は破綻したやり方でしかシャニマスを語れない。僕はシャニマスが好きすぎるんだと思う。この2000字弱のむちゃくちゃな序文であり註を読んだ人に、以下の怪文書を贈ろう。これは、とっても気持ちのこもった怪文書シャニマスを大好きな僕が、今のところ唯一いちばん近いところでシャニマスについて書くことのできた、ひとつの文体実験。

 

Kyrie Eleison/マイ・シャイノグラフィ

 背中に押し寄せる、冷たく、巨大で、圧倒的で、体全部を飲み込むような、まったき絶望に呑まれる感覚に手足のすくみさえ抵抗にならないあの暗黒に嘔吐するということ。頭をブチ割られるのではなく、つま先からぬるぬるとやばいものが迫ってくる皮膚感覚、何にも――それは言葉が無力という言葉ですら生ぬるい不能 Impuissance となる瞬間――代えがたい恐怖の味を知る。自己憐憫をすることさえ許されない、奪われ。引き裂かれ。宙づり。そのなすすべもなさから生き延びる、生き延びてしまう、その再起の意志に、人間は人間であることのやめられなさの理由がある。なぜならそれは美しいからである。黒いドブにいきなり背中を押されてポンと落ちてしまい、悪臭と溺死せんばかりの息苦しさにもがきながら、ゲロを吐いて這いあがるその様は、虹色に光り輝きながらうねる。一度ぐちゃぐちゃにならなければならない、とは思わない。それを乗り越えられるか乗り越えられないかは、その人間が「選ばれた」人間であるかどうかにかかっていて、そしてそれは最初から決まっていて、いわば寵愛である。これは世間で成功するかどうかとか、「幸せ」になるかどうかとかとは全く関係がない。這い上がる人間は選ばれている。溺死する人間は選ばれていない。神は乗り越えられる試練しか人に与えず、乗り越えられなければそれは裁きである。偉大な先人たちの本を読んでおくべきなのは、乗り越えるべき試練を乗り越えるためである。試験に受かるためでも論文を書くためでもない。ちんけな功名心から本を書くためでもない。ドブを啜ってエネルギーとし、崖を這いあがって失明せんばかりの光と高く伸びる蒼い空を見るためである。
 まばゆい光のうねりの中へ飛び込んでいく、輝きの中へと。

 

Sanctus/気絶――そしてハイド・アンド・アタック。大崎甜花と黛冬優子

 You can’t stop lovin’ myself.
 今世界を席巻するK-POPグループであるBTS防弾少年団)はシングルカット「IDOL」という象徴的な楽曲の中でこう歌う。お前はお前が自らを愛することを止めることはできない、と。エロティシズムが生を死の瞬間まで称揚することであるように、アイドルは自らを自ら自身で愛することの存在論である。一見雑なように見えるこの定言命法は、究極的には達成不可能なことでありつつ、しかしその逍遥の過程、自らを愛することに何度も挫折しながら、ちくしょう、ちくしょうと泥水の中でもがき苦しみ血を吐きそれを啜りながら、それでも死ぬまで自己を誰にも頼らず自分自身の思考の変容により肯定すること、自らがそれを体現すること、そしてそれを身体によって表現しそのあまりの生の輝きに我々観客は失明しかける、あるいは失明すること、この「こと」のすべての条件がそろってでしかアイドルはアイドル足りえない。だが、それは常に屈折や倒錯が付き物である。例えば鬱病。例えば自傷行為。例えば孤独。アイドルは生きることが簡単であるような人生の人間はなる資格がないし(「みんなの前で歌って踊りたい」というのは今すぐ腹を切って死ぬべきである)、逆に言えば「アイドルにしかなれない人々」という括弧つきは確実に存在する。人文学が破滅に結び付いていながらそれでも書いてしまう人々の狂気に何かを見出す学問であるように(学問は即ち破滅でありおまんまの食い扶持ではない)、アイドルはレトリックが身体であり破滅を思考する文学であり思考なのだ。とあえて言い切ってしまおう。オタクが現場で酒を泥酔するまで飲み喉から血が出るぐらい雄たけびを上げ、危険なリフトやモッシュを警備員と乱闘しながらやり、前後不覚でヨレヨレになって帰途につき気づいたら何故かゲロまみれで自宅にいる、これがオタクライブの正しい作法でありこれ以外の作法は後方腕組彼氏面しかない(これの正当性はここでは論点ではないので扱わない)。私は2014年夏にお台場で行われたTOKYO IDOL FESTIVALのメインステージ、「沸き曲」の定番BiS「nerve」が始まった瞬間巨大な渦のようにサークルモッシュの中心に投げ出され、17歳で飲みなれないビールを痛飲、泥酔状態で炎天下、爆音で響き渡るロックサウンドに忘我の境地で「よっしゃ行くぞ」が崩壊した言葉を絶叫して草と泥にまみれ、眼鏡を叩き割り、「やれ」「いけ」と飛び交う怒号、次の瞬間には夜の大井町駅ツイッターのオタク友達に介抱されてゲロまみれになっていた。これは人生で最高のオタクライブであったと断言できる。このように死に瀕して生を実感すること(バタイユの思想を現代日本において真に理解するためにはオタクライブで泥酔して死にかけることが必要である)がオタクライブの、アイドルの肝なのである。

 

 もう生きていてもしょうがないと思う瞬間がある。世界が私を断罪し、お前は間違っているという声がメガホンで絶叫される。聖アウグスティヌスは『告白録』の中で「ああ、主よ、なぜ神はこのように私を創造なされたのですか」と書く気持ちが少しでもわかってしまい、生まれてきたことそのものをコンピュータの吐くエラーだと思いたい季節というものが来る。毎年毎年いつからかは思い出せないが、冬になるともう立ち上がることすらできず、膝をつき、目の前にあるのはどす黒い闇を見続ける。そのとき、垂れていた頭をふっとあげると、真っ青な空が広がっている。空はなすすべもなく青く、高く、絶望的に圧倒的である。また少し歩いて膝をつく。仰ぐ。空は青いと思う。すると、少しずつ歩けるようになり、今私は、杖につかまりどうにかどうにか歩こうとしている。青い空を見ながら。
 ゲーム『アイドルマスターシャイニーカラーズ』は、台本がよくできている。醜悪なほどに。私のような人間が、つまり自分の意志ではどうしようもない身体の不如意や精神のバグを背負う人間がこのように思えてしまうことがゲームにおいて起こる場合、「普通の人(アイドルやアニメなどの「オタク」コンテンツを反動的に楽しむことができてしまう人たち)」はどのようにこのゲームをプレイしているのだろうかと不思議に思う。シャニマスを始めるときは一本タバコを時間をかけて吸い、コーヒーやコーラをを飲み、プロデュースする子を選んで、始める。最後の戦いであるW.I.N.Gで勝てたことは休み休みやってて一度としてない。ゲームの難易度ではなく、ソーシャルゲームのうまい下手でもない。手が震えてしまうのである。4シーズンが終わる頃には大体涙でびしゃびしゃになり、画面が見えず、くそ、くそ、くそ、と言い、タバコに火をつけ、過呼吸寸前になり、かろうじて吸い切り、死ぬ気持ちで目押しして、負ける。強烈な虚脱感と無力感に襲われて、数十分何もできない。俺はなんでフィクションの女の子たちにこんな思いをするのだろうと思う。もう一度やって、負ける。投げる。数日数週間数か月投げる。やる。負ける。投げる。それを繰り返していたら、このゲームを始めてちょうど1年経った。去年始めたきっかけが2ndライブでツイッターが盛り上がっていたからとかで、当時付き合っていた彼女と一緒に始めた。3rdがあったのを知って、ああそんな季節か、と思った。気まぐれで、当時死ぬほど嫌いで彼女とシャニマスの話題になったときも私は「女の腐ったやつ」と表現するまでに忌避していた大崎甜花のシナリオをふざけてプレイした。そういえばあいつは浅倉透が好きだったな、と思った。やるとノイローゼ寸前になるのを忘れていた。後半は嗚咽が止まらなかった。異常に人間ができているプロデューサーに、どけ、そこは俺の場所だ、甜花をわかってやれるのは俺だけなんだ、と思いながら、スマートフォンが折れるぐらい握りしめて、タバコを吸う手もままならず、コップに入れたコーラは持つと波打つし、この「大崎甜花」というあまりにも深い絶望の人間が希望へと這い上がっていく様が、どぎつくギラギラと徐々に光り輝いていき、私は嗚咽しながら初めてW.I.N.Gに勝っても負けてもいいという気持ちになった。うまい下手は関係ないと書いたが、たぶん私は何かこのゲームの勝ち方が決定的に分からないというのはある。Vo.もDa.もVi.もファン数もメンタルもサポートデッキの組み方もよく分からない。分かる必要もないし、分かるときは来る。人生においていきり立つ男根がいつかは去勢されるように。去勢された男根をそのままにするか、再構築するかの選択も、またその当人がなすがままにすればよいことである。甜花は常に圧倒的に無能である。不能である。それでよいとも思えないしどうにもならない。自分のことが嫌いで見た目はそっくりな甘奈のことが大好きで、ずっと自分と比べて劣等感に苛まれ、「なーちゃんは」が口癖で他責的であり、自分が嫌いであり、生そのものがどうしようもなくつらい。ゲームセンターに行くと圧倒的にゲームがうまい。彼女は、あるとき唐突に「ひとりでお仕事をやってみたい、なーちゃんも、プロデューサーさんもいなくても」と言う。人生はシナリオではないので唐突に変化する。あるとき電車の音と光に泡を吹いて倒れる。あるときなぜか酒瓶で知らない人の頭をブッ飛ばす。人生は残酷なまでに唐突である。ゆるやかな変化も存在する。唐突な変化も存在する。甜花の啓示は自然でそうとしか言えないタイミングで訪れる。私は、ひとりで、笑顔で「行ってきます」と言ったけど、W.I.N.G準決勝のステージに敗退して帰ってきて劣等感と悔しさと死にたさの日々が戻ってくることに震えて帰ってきた甜花を見てどうしても涙をこらえられなかったけれども、悔しくてレッスン場で頑張りすぎる甜花がいとおしくてしょうがなかった。泥水の中に血を流しながら倒れ、泥水と自らの血を水分としてすすりながら立ち上がることは死ぬことより怖い。死んでしまったらいいのに、と思う。本当の意味で頑張ることは死ぬよりも痛くて苦しい。救済はあるかのように見える。しかし、空は青い。泥と血しか見えなかったけれど、青い空はどこまでも青い。甜花のシナリオをプレイし、私は初めてシャニマスでポジティブに負けた。ベートーヴェン交響曲第5番「運命」はハイドン以来の伝統的なソナタ形式の構造をしているのにも関わらず、自らの手首を自らで切り落とさんばかりの絶望的な主題が見事に変奏されて(ベートーヴェンはディアベッリ変奏曲にしても作品111にしてもJ.S.バッハ音楽史上唯一並び立つ変奏曲の名手である)、同一の主題が喜びへと変わる。
 人生に深く絶望し、立ち上がれない。もう生きている意味がない。痛みとともに泥に沈む。それがおのずと這いつくばるとき、人は大崎甜花である。人は楽聖である。
 絶望を知るもののみが希望を知る。

 

 人は誰しも一度は孤高に憧れる。孤高とは人間関係をすべてないがしろにしてよいということではない。孤高に憧れて孤高になることはできない。孤高の人はそうでしかありえない形で孤高であるのである。それは極めて難しいことで、失うことを恐れないということに自らの誇りをすべて賭けることである。妻を殺めた哲学者アルチュセールは、晩年に提唱する概念「偶然性の唯物論」においてenjeu(賭け金)というキーワードを用いた。フランス語で「遊戯」がjeuxというスペリングであり、en-jeuの半分の音節と全く同じ発音であることが重要であることは言うまでもないだろう。ギャンブルとは命を賭けた遊びだが、そこには偶然が存在しなければならない(胴元の存在の是非――マージンを取られることに安心感を見出すか屈辱を感じるかはラーメンの好き嫌いであり、倫理はない)。麻雀のツモ。パチンコの玉。スロットの目。今でこそパチスロは偶然ではなくなってしまったが、虚構された偶然、操作された偶然というのがあって何が悪いというのか。ブーレーズのピアノ・ソナタ第3番が演奏者も分からない形で演奏中に譜めくり師が楽譜を置き換えるという行為に胚胎する「フィクションの偶然性」、ないしはベートーヴェン的絶対的構造性の倒錯の概念がパチスロというドラマなきギャンブル、ひいてはアルチュセールの偶然性という一見絶対的にその前では無力であるといったような神の裁きに、悪趣味でグロテスクな、罪深く、でもだからこそ面白い遊戯-金-賭け(jeux-en-jeu。フランス語のenの意味は到底文章に起こすことはできず、西洋言語における「辞」や品詞の重要性を体現する極めて重要なヴォキャブラリのひとつである)の関係性を無理やりねじ込んで神の意志を人間の悪意で冒涜すること、そしてそのゲームに身ひとつで飛び込んでいき、ケツ毛まるごとむしり取られても
よいと思えるほどに自らの誇りと覚悟を持つこと、これが孤高であることである。
 黛冬優子は一見ただのスーサイドドゥルーズ的ストイシズムだが、しかし彼女はシャニマスのアイドルの中でもおそらくただ一人の――私は手持ちのプロデュースアイドルを見ると初めて中央図書館の地下に行ったときの蔵書の多さに足が震えるような喜びとげんなりを同時に感じるが、それでもただ一人であることは間違いない――フロイディアン流に言えばペニスを持つ自家中毒寸前のノイローゼ患者である。男根の内面化は非常に難しいが、「射精する」とか「尿道のリーチがあるか」という圧倒的無産性と身体性にかかわってくる問題と言える。射精が可能であるのはなく、自然と出てしまうということ(生理的現象で言えば夢精、早漏、遅漏)は即ち自らの欲望が適切な方向にコントロールできないということ(分析の失敗=タナトスの過剰)がそれとして審美的であるという事態は当然存在するが冬優子は常に「うっかり」あるいは自分のオナニーで精液をまき散らしている、しかもシャニマスの中でただ一人。この意味で冬優子はもちろん比類なくアイドルなのだが、ただ精神分析的に言えば男性であって、ヴァギナを縫い付けている(否認)のではなくそもそも存在しない。例えば芹沢あさひなどは欠落が問題になるが、欠落できないことが欠落である。いわばペニスもヴァギナもないアンドロジーナスであり、そこにはつるりとした何かがあり、それは何もないことと同義である。言うまでもないことではあるが、ペニスやヴァギナ、切り落とし(去勢)や縫い付け(否認)、再構築とほどき、無化作用としてのアンドロジーナスといった区分というものは基本的に身体と一致していなくてはならず、シャニマスの場合女性アイドルがヴァギナを持つことは普遍的なので議論にならない(典型的な例は月岡恋鐘。ただし、縫い付けについてはそれのみで議論可能であり、個人名を出すのは留保)。自らのペニスを自らのペニスで切り落とす/ペニスをそのままにして自慰する/ペニスを切り落としてから生やすという一種の「フォルト・ダー」の応用はシャニマスにおいては男性である冬優子にしか可能ではない。
 冬優子は「~とは何か」という規範倫理ではなく定言命法、「ふゆ」とは、ないし「アイドル」とは、という問いによって生かされてしまっている。冬優子は誇りの人間であるが故に孤高であり、あさひや愛依の教育者=のけ者の疎外を定言命法によって肯定「しようとしている」=できていない=去勢拒否=ペニスを切り落とせない=射精の快楽に抗えない。二面性は仮面かつスティグマで、言葉遣いやマスクで「偽」「真」を身体化している。真理の存在論は本筋を大きく外れるので割愛するが、ハイデガーの語彙であれば冬優子は「存在が存在する(Es gibt Sein)」ことを信じて疑わない。この「まっすぐさ」が彼女の男根が屹立するリビドーでもあり、同時に事務所をいきなり抜け出して「もう私はアイドル(であること)をやめる」と言ったり(去勢不安)、ぐちゃぐちゃに泣いてアイドルたる自らを概念によって抽象的に肯定したりする(去勢と男根の力強い再構築)。冬優子は誇りの人であり、哲学の人であり、そして孤高の人である。
 ストレイライトにおいて孤高はあさひではなく、黛冬優子である。

 

 甜花を終えてズブズブに泣き、文章を書こうと思った。これを書くのにあまり時間はかからなかった。書く前に無料10連を引いたらSSR甜花が出て甜花はSR3枚SSR1枚になった。はっきり言ってマルクスの『資本論』を前にしたときのような期待と無力感を同時に感じる。
 アルチュセールは妻を殺し、精神異常で罪を免れた。その6年後にシャルル・ド・ゴールの格言をタイトルにした自伝を書き、その4年後に没した。そのタイトルとはこうである。
 L’avenir dure longtemps. 未来は長く続く。

 

Dona nobis pacem/Gimme a Fix(一発くれ!)、俺は樋口円香を抱く

Beginning. アンチ・アンチ・オイディプス
 絶対的な知性というものが無力化される瞬間というものがあり、なぜ絶対的であるものが無力化されてしまうのかということについてはしかし人を轢殺するパラドックスであるからなのだが、パラドックスであるが故にそれは言葉になった瞬間ただの順張りである。ここで言葉にせんとするものは、順張りそれ自体ではなく、「無力化される絶対(absolu)」という相対的時間のうねりの中で変容する概念をあたかも相対的時間のうねりそのままに模倣せんとするミメーシスでありパロディである――ベルクソンに倣わずとも、そのうねりは言葉にした瞬間絶対的に等質化されるのではあるが、ベルクソンが時間について語るときは常にエロティックな身振りを伴うように、私もここで一肌脱ぐことにしよう――非バルト的な意味におけるヴェールの脱ぎ捨て。絶対の失効が常にエロティックであり、かつ例えようもないほどに痛々しいのは、絶対それそのものが痛めつけられることを望んでいるにも関わらずそのそぶりを一見見せないことにあること、そして失効すること=相対化されること=凡庸な欲望を露出することの段にあってよがり狂ってアクメするからである。樋口円香は「勝ち目のない賭け事に興じるなんて」「クレイジーな人ですね」と言う。彼女は、しかし、それを言いつつパチンコ台のサンドに思いっきり諭吉を突っ込んでいる。「1000円分だけ」「保留が出たらやめる」「一当たりぐらい」ああ、円香はどんどんドツボにはまっていく。彼女はめちゃくちゃにされたがっている。浅倉に、プロデューサーに、そして何よりプレイヤーに、アルトーバタイユの文体を模倣してパラフレーズするならば「茨のついたおちんぽを目の前におまんこをびちょびちょにしてクリトリスを勃起させている」。しかしこれはマンディアルグアポリネール的とさえ言える、サディズムを欲望する極限的な「マゾ」である――マゾヒズムではなく。円香は父なき父を欲望してよだれを垂らしながら父なき父の足で頭を踏みつけられることを懇願し、ねえ、お願い、わたしの膚を切り刻んで、ねえ、ねえ、とプレイヤーに迫る。だめだよ、円香、と優しく囁いて彼女の縫い付けられたおまんこに針と糸を無理やり引きちぎってちんぽをぶち込むことができる男のみが円香の膚の感覚を知る。円香の膚は陶器のようであり、冷たく、つるつるしていて、愛撫すれば彼女はたちまち赤くなり、息を荒げ、陰部には毛ひとつ生えておらず、そしてめちゃくちゃに傷だらけである。浅倉に絶望し、雛菜に血を流し、小糸を涙を流しながら抱きしめる。彼女は常にダメクソである。血反吐を吐く自分を死ねばいいと思っている。
 死ぬことのまねっこばかりで本当に死ぬことができない。

 

Conclusion. 2017年、俺はシド・ヴィシャスだった
 樋口は俺が二十歳のときの彼女そっくりである。
 彼女もまたダメクソであり、ドマゾであり、実質的な父親がいなかった――父と母が別居していて事実的には離婚の状態だった――のではあるが極度のファザコンでいつも父親の愉快でコミカルな話を俺にしては自分でツボに入って一緒に飯を食えないぐらい爆笑していた。俺はドロドロに彼女に執着した。今でも忘れられず夢に出てきては涙を流す。
 大学2年当時俺と彼女は学内で有名なカップルだった。俺は金髪ガリガリ髭で常にくしゃくしゃのハイライトかわかばを咥え、スキニージーンズにエンジニアブーツかボロボロのコンバースを履いて目が血走っており、哲学コースではぶっちゃけ俺ともう一人以外はゴミだったのでカントやレヴィナスの演習では圧倒的な力で教室を圧倒していた。彼女は真っ白な膚と銀色の髪、gommeやヨウジヤマモトなどのハイブランドを身に纏って(彼女のレザージャケットは恐らく新品のイヴ・サンローランのそれ――今思い返すとエディ・スリマンモデルではないシングルレザージャケットだった、どうやって手に入れたのか)、何より両耳合わせて23個のピアスで異様な存在感を放っていた。喫煙所で二人でいるたびに色んな人に話しかけられ、弊カップルは文キャンのシド・アンド・ナンシーに――今考えるとバカバカしく微笑ましいエピソードだが――なっていた。バイト終わりに高田馬場に行き、ロータリーで待ち合わせ、やよい軒鉄火丼大盛を二人で食べるかポプラで弁当とタバコとコーラを買って(勿論弁当の飯は大盛)、下宿先に帰って飯食って朝に気を失うまでセックスしまくった。
 彼女は俺をシドだと思い、自分をナンシーだと思い込んでいた。彼女が飯を作るときはいつも俺の分が少なくて、やよい軒に行ったときぐらいしか大盛の飯が食えなかった。「きみは太っちゃダメ」が彼女の口癖だった。そのくせパンケーキ屋によく連れまわされた。その後の彼女は「太って~!」と言いながら自分の飯を俺にくれていたのだから正反対である。おかげで夏の俺の体重は50kgを切り、ほぼ毎晩親の金でゴールデン街でハニージンジャーとジャック・コークを無限に飲んで泥酔しながらわかばを一晩で一箱開けて「わかばのあんちゃん」というあだ名がついていた頃はマジのジャンキーのようになっていた。彼女はその様子を見て心配しつつ、セックスで俺が首を絞めあげるとイキ狂ってマンコがギリギリと締まった。立ちバックで思いっきりケツを叩き太ももをねじ切らんばかりにつねったり噛んだりすると何もしていないのに絶頂した。「どんなプレイがしたい?」と俺が聞くとキメセクをせがんで俺はドン引きした。俺がセックス・ピストルズのTシャツを着て黒いスキニーパンツとエンジニアブーツの格好をすると彼女は大喜びした。彼女には俺がシド・ヴィシャスに見えていて、実際俺はシド・ヴィシャスだった。彼女はマジのシドを見て、ナンシーになれないことを悟り、俺の元から去っていった。

 

 別れ際に彼女はお母さん、お父さん、いや、いや、と俺の胸で泣き叫んで、肋骨が折れんばかりに俺の胸を叩いた。すごく、すごく、愛おしくて、涙も出なくて、この人を好きになってよかったと思いながら、彼女の頭を撫でた。右腕の傷の数が何かを語っていた。
 
 その女と円香は同じ位置に泣きぼくろがある。

 

 つまるところマゾはめちゃくちゃにプライドが高くなければならない。このあたりについては哲学は無力であり、文学のうねりがマゾを抱きしめることができる。円香の子宮口にキスをするために必要なのは乳首を噛むことであって一生懸命腰を振ることではない。「俺とナンシーは死ぬときは一緒だって、悪魔と契約したんだ。そう契約したから、そうじゃなくちゃいけないんだ。」――確かに俺は契約したつもりになっていた。円香と一緒なら死んでもいいと思っていた。本当に死ぬつもりだった。しかし、彼女は俺と一緒に死ぬことを選ばなかった。平成に生まれた哲学のシド・ヴィシャスについていけなかった。俺は彼女を口説くときに、レヴィナスだかブルトンだかを引用して――ああいやもういい。円香はドマゾであり、「愛してるって言わなきゃ殺す」なのだが、しかし、しかし、彼女はその気になれればよくてモノホンを前にするとドン引きしてしまう。アイドルは端的に言って狂気だから、彼女は「心臓を握る」や「二酸化炭素濃度の話」でためらってしまう。しかし、彼女の背筋はゾクゾクする。おまんこがびちゃびちゃになる。そして勝っても負けても、すっきりするのである。「あっち」の円香は、どこまでも蒼いから。「こっち」の円香は、それはそれで、ぬかるみの魅力があるのだが。

 

 とまれ我々は、はは、と乾いた笑いを浮かべつつ、アルテュールランボーの前に膝をついて、シド・ヴィシャスに敬礼をしよう。ヴィヴィアン・ウエストウッドのライセンス・レーベルとフェイクレザーのジャケット、土まみれのエンジニアブーツを死に装束に。もちろんジッポはジャック・ダニエル。

 

 いつだって僕らは せいいっぱい僕らは 昨日よりもっと強く 光れ 光れ

 

 それは見出される

 何が――永遠

 海と太陽が溶けあうあわいに