思考停止

映画、本、音楽、など

ミューザック評論の試みあるいは缶詰音楽の旨味:その1

 一人暮らしを始めると食生活が有意に荒れる。実家では料理の上手い母親が作る肉料理にホカホカの炊いたご飯、サラダには生ハムなんか入ってたりして、勿論味噌汁は赤味噌で、お腹いっぱい食えるわけだが、一人暮らしになると面倒なのでボウルにレトルトのポトフをぶち込んでチン、同じくレンジの飯をチンしたポトフの中に入れてかき込むとかそういうことになる。そして晩酌。実家では酒なんて飲まないが一人でいると音楽を聴きながら酒を飲むぐらいしか楽しいことがない。やきとり缶を開けて味の素と七味をドバドバかけたゴミのようなつまみで金麦を飲んでタバコを吸う。

 しかし、それではこれが惨めでまずい食事だろうか?私はそうは決して思わない。ANARCHY feat. KOHHの「Moonchild」でKOHHが蹴るバースに「お金持ちにカップラーメンのうまさ分からない 白いご飯に醤油かけて食べるのもうまい」とあるように、美食や金をかけた、手の込んだ食事だけをうまいと思う人生はある意味不幸である。缶詰に味の素をかけるような食事をうまいと思うこと、そのような感性を音楽に対して持っているかということを、これから私が紹介する音楽は問う。それが、「ミューザック Muzak」である。本記事は批評ではなく、評論なので私の美意識による価値判断が多分に含まれる。ミューザック自体が日本で未だ体系化されるに至っていないということは勿論あるし、作家性がないジャンルである以上作家主義的な差異づけというものがかなり困難であることも挙げられる。「その1」とあるように、この「ミューザック評論の試みあるいは缶詰音楽の旨味」はシリーズであり、手始めにMuzak Orchestraという団体(あるいはアーティスト?)のSpotify上にある10枚弱の音源について1枚ずつ、全ての盤について評論・吟味していくことが目論見となる。

 

・陳腐なロマンスに陶酔すること

 ミューザックとは1920年代に作られた、主にアメリカのスーパーで流すための「複製品」の音楽であり、粗製濫造が目的であるために全てが似たようなものになる。最近ではVaporwaveの潮流から「モールソフト」というジャンルでオーヴァーダブやイコライザー、エコーなどの加工をかけてズタズタに切り貼りしたものがごく一部で流行っている。とはいえ海外文献をあまりしっかり読み込んでおらず(海外文献でさえもあまりないが)、知識の浅い私がミューザックに関して言える客観的な情報はこの程度である。ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンド結成以前にミューザックを作曲する仕事をしていたというインタビューを読んだことはある。id:godsavequeen氏のブライアン・イーノとミューザックについて書かれた記事を参考にされたい。

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 さて、ミューザックの抗いがたい魅力とは何か。まず、スーパーで流れることを想定している=BGMを主体的に聴こうという我々の態度がおかしいしそれをアルバムにまとめる連中がいるというのも大分狂っているという前提を主張した上で、流血沙汰が起きる前の爛熟した、陳腐なロマンスの表象に陶酔する、あるいはその匂いを嗅ぎつける感性を持っているか否かでミューザックへの没入が可能かの如何が決まると言ってよい。例えば、デヴィッド・リンチブルー・ベルベット』の冒頭の白い柵、青い空、赤い花に陳腐なジャズ・ヴォーカルが重ねられるショットに得も言われぬ不穏さを感じ取るかどうか。あのシーンで既に心臓発作を起こす男が映されているが、そこにデニス・ホッパーの狂気を感じ取れるかどうか。あるいは意外な例かもしれないが、リンチ的な恐怖という意味で言うとAKB48の『ラブラドール・レトリバー』のミュージックビデオ。ボウルに犬のエサのシリアルを入れる間延びしたショットにタイトルバックが来るぎょっとする演出もさることながら、ナイアガラサウンドで歌い踊るアイドルの白飛び寸前のあまりにも明るい画面に甘美な死の匂いを感じたのなら、あなたはもうミューザックの入り口に立っている*1

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 ナット・キング・コールエラ・フィッツジェラルドの甘く蠱惑的なヴォーカルが音楽そのものとしてキッチュではなくポップであり、それ自体として美しい音楽であったのに対し、ミューザックはキッチュである。過剰な明晰さはときとして人を不安にさせる。陰影がなくのっぺりしている。ダイナミズムがない。引き伸ばされた陶酔で感覚がバカになる。人によってはうんざりだろう。しかし、ブロンや金パブのオーヴァードーズがデパスの強烈なそれよりも手軽でのっぺりした陶酔をもたらしてくれるが故に、デパスよりもブロンを大量に酒で流し込むことの方がよい(?)場合もあるのだ。「美は餌に過ぎない」とは指揮者のセルジュ・チェリビダッケの弁だが、ならば餌を大量に、たらふく食ってやろう。本質なき空虚で嘔吐寸前まで満腹になること、それがミューザックのアルバムを何回も聴きこむことである。

 

・その1:『Muzak Stimulus Progression 1974』

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 最初に紹介するのは私が勝手に「青盤」と呼んでいる『Muzak Stimulus Progression 1974』。何故「青盤」かというと、「Muzak」の後に「:」がついている以外タイトルに違いがなく収録曲が全く異なる黒いジャケットのものがあるためで、差別化するためにこう呼んでいる。こうした雑さも、またミューザックの一興である(これをややこしいと思ってディグをやめてしまう人はミューザックに向いていないだろう)。Muzak Orchestraの作品の中では最も特徴的で、ひっかかりやすいアルバムである。ソフトロック的な『Number One』辺りと比べると艶っぽくジャジーな色が強い。また、モールソフトの大名盤であるMall Music Muzakの『Mall of 1974』のサンプリングの元ネタでもあり、私はミューザックをVaporwaveの流れでこのアナログのYoutube音源から知った。これもid:godsavequeen氏が主題的に取り上げている。ちなみにInternet Archiveから全曲落とせるが、私はヴァイナルで買おうと思っている(金がない)。

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 Muzak Orchestraからのリリースが1970年代に集中していたり、またKmartシリーズ(と言っても伝わらないので、イリノイ州にあるKmartという大型スーパーで流れていた音源が何故か月単位で残っており、その300を超えるアーカイブのことを便宜的にKmartシリーズと呼んでいる)の名盤『Reel to Reel』が1973年だったりなど、70年代はMuzakにおいて傑作の森だったのだろう。ジャズ要素が強い、あるいは讃美歌などのアレンジといったスキモノにはたまらない要素が盛り込んであるのも70年代だ(90年代のKmartとかだと割とショボい打ち込みやシンセなどが入っていたりする)。という訳で、紹介していく。

 

1.Star Eyes

 名曲。と言ってしまえばそれまでなのだが、その一言で片づけてしまいたくなるほどに素晴らしい。劇的なストリングスの開始で一気に幻想の世界に連れ込まれ、安いシンセサイザーの多重録音がめまいを引き起こす。ホルンとトランペットのソロがこの曲の目玉となるが、特筆するべきはホルンの甘い音色だろう。私は元ホルン奏者なのだが、明晰で出音がスパーン!と鳴るいかにもアメリカな音色のトランペットに比べてこのホルンの艶やかで色っぽいハイノートはアメリカやドイツのそれではなく、イギリスのパックスマンあたりに近い印象を受ける(ホルンオタク語り)。過剰なルバートをかけないのも、またなんというかいやらしさがある。勿論、ブリッジでフルートとグロッケンを重ねるラヴェル的なんだかよく分からない絶妙に下手なオーケストレーションもたまらないポイントの一つだ。必聴。

 

2.Lady Blue

 陶酔的な「Star Eyes」から打って変わってバッキングのクラシックギターとワウをかけたエレキギターが軽快な一曲。ストリングスとギター、ホーンセクションの妙に気を取られるが、この曲で聴くべきは全くルートを弾いておらず別の旋律を弾いているエレキベースである。どことなくファンキーな印象もあり、はっきり言ってバッキングが退屈なミューザックにおいては珍しい曲でもある。ただ、電子楽器が結構元気な曲なのでミューザックの中では聴いていてやや耳が疲れる感じもする。ちなみにSpotifyのMuzak Orchestraの中では最も再生回数が多い。

 

3.Kate McShane

 軽快で能天気なホーンセクションとファンキーなバッキング、グロッケンのループが印象的な一曲。トロンボーンの朗々としたテーマの歌い上げの後にエモーショナルなストリングスが入って一気に曲が締めに入っていくのが唐突で面白い。『Mall Of 1974』に明確に引用されており、同作は「青盤」とKmart『Reel To Reel』の組み合わせ(サンプリング)によるものだと思われる。短い曲だが耳に残りやすく、山椒は小粒でピリリと辛いといったところか。

 

4.Vorale

 いわゆるKmart的(日本で言えば「ジャスコでかかってそうな曲」)な陳腐さと安っぽさが顕著。ホーンセクションのクソダサいブレイク、合いの手のピーキーなシンセの音、サビの流麗だが中身が無さすぎるストリングスなど、「Star Eyes」の深みのあるしっとりした味わいからかけ離れすぎていて「Kate McShane」よりもズッコケ感がすさまじい。誤解のないように書いておくと、私はめちゃくちゃ褒めている。聴きどころは二回目のブレイク前のギターソロだろうか。三連符で割ればカッコいいのかというとそういう訳でもないということを身をもって示している。こういう曲を聴くとミューザックとはどの程度真剣なのかが全く分からなくなってくる。

 

5.This is my country

 ベースがウッドベース的にルートを大人しく弾いているが、「Lady Blue」が異常なだけであってこのベースはミューザック的には普通である。イントロやブレイクでストリングスが入るが、大変失礼なのは承知の上で基本的にはカウント・ベイシー的なビッグバンドのビートとホーンセクションで展開していく。何気に聴き逃されがちなのがミューザックにおけるフルートの立ち回りで、グロッケンやストリングスの音の厚みを増すためにオーケストレーションされがちなので、よく聴くとフルートが重ねられていたりする。これはどちらかというとクラシックからの影響と言うべきだろうか。

 

6.Dance With Me~12.Tower of Strength

 ここまで1曲ずつレビューしてきたが、これ以降はある1曲を除いてほとんど変わり映えがしない。サルサボサノヴァのリズムを取り入れたジャズ・オーケストラ……と言えば聞こえはいいのだが、上にも書いたようにジャスコのBGMを1曲ずつレビューするという狂った営みをやっているわけで、ジャスコのBGMばかり聴いていたら頭がおかしくなる。しかしここがミューザックのミソで、人畜無害な音楽、あるいは美しい音楽であるかのように見せかけて根本的な不安をどこかで煽ってくるような、そういう音楽なのである。「これ以上聴いていたら頭がおかしくなる」と思わせるそれは、いわゆるカールマイヤー的なそれというよりも、ポケモンのシオンタウンのBGMにどこか近いかもしれない。同じ音楽が目の前で複製され続け、もはや何の曲を聴いているのかさえ分からないという……モールソフトは、その「不安」を作品の要素として還元した一ジャンルである。ガビガビのVHS録画の日本の昔のCMが不安をかき立てつつも美しいように。

 「Teach Me Tonight」は、その中でも「Star Eyes」と並んで、いや別次元でエロティックでしめやかな一曲だ。ゆったりしたスウィングのリズムに乗って、ギターのオクターブ奏法(二本のギターである可能性もある)はウェス・モンゴメリーのそれを思い起こさせる。イントロが終わると、最も官能的な楽器ことアルト・サキソフォンの旋律が顔を出してはシンセサイザーやギターの寄せては返す波の中に沈んで浮かんで、消えていく。これはジャスコではかからないだろう。過剰な明晰さの中に、秘められたものがある。その秘められたものは、どこか猥褻かもしれない。猥褻で卑猥なキッチュさ、それこそがミューザックの「密かな愉しみ」なのである。

 

・次回予告

 今回は『Muzak Stimulus Progression 1974』を紹介した。「:」の「黒盤」も勿論紹介していくつもりだが、次回はMuzak Orchestraのアルバムの中でも体系的な1977年のアルバム『Joy and Peace to You』を紹介したい。ミューザックにおける「クリスマス・オラトリオ」であり、1曲ずつというよりはアルバムの特性を腑分けして紹介することになるかもしれない。更新は一応2週間後を予定している。缶詰音楽の旨味、化学調味料をドカ食いすること、それを健康ではなく快楽のために摂取すること、これすなわちミューザックを聴きまくることの愉悦である。

*1:AKB48的なアイドルポップスの良い意味での陳腐さがそもそもミューザック的であるという言い方は可能ではある。裏付けがないが。

(性的)不能者の仮想転移(杏子昆布/@ans_combe氏への応答=責任)

   先日、杏子昆布(@/id:ans_combe)氏にマシュマロを飛ばし、興味深い返答を頂いたので本来であればツイートにて応答するべきことであるが(議論がオープンになり見えやすい為)、環境により付すことがあらかじめ不可能な脚注をそれぞれのツイートに対する応答に無理矢理つけてブログのエントリとする。
 決して長くはならないものの、この主張をまずは宣言しておきたい。私は実質的な不能者である。射精に快感を覚えなくなった。生理現象の中途半端な勃起しかしなくなった。異性との繋がりを保つためのマッチングアプリで連絡をまめに取るのが億劫になり、多少のことで異性に苛立つようになった。そして美少女Vtuberを溺愛し、ついには仮であれアバターを作って毎日ニコ生で配信するようになった。視聴者はいなくても(それでもたまに同時接続30人でびっくりしたりする)、この生き方はとても楽しい。私は「女の頭に金属バット」を本当にフルスイングできるようになった、つまり対象を語る転移とその転移に敗北することを運命づけられた抵抗が語りに表面化しやすくなった。例えばid:turnx氏のような倒錯への耽溺でもなく、「他人事ではないかのように」その対象を語ることは、恋愛、憐憫、共感、同情などの感情に限らず、理論的モデルや概念からの逸脱に向ける視線が不自然に肥大化するといった場合もある。
 杏子昆布氏への手紙(マシュマロ)は無事届いた。ならば、手紙を出した者として「不能者の転移」をときに長い注釈ーーナルシシズム的なーーを付しつつ、文字と欲望の往復を示してみよう。

 

・「僕は転移を起こさないよう注意して書いています。そもそも、病者(書かれる客体)-治療者(書く主体)の構図にならないようにも注意しているつもりです(できているかは微妙)。(後略)」
フロイト精神分析入門』第27講「感情転移」における「転移」は一義的には分析家と分析主体の間の特殊な関係(L.アルチュセールフロイト博士の発見」1976も参照)を指すので、治療者と患者という関係性は間違ってはいないと思いますが、転移概念(あるいは私が批評において使う「転移」)はその一方向的な関係性が揺らいでしまうところに分析の「裂け目」(これはJ.ラカン精神分析の四基本概念』1967の「無意識」の節冒頭を参照)があります。また、あまり批評において精神分析の用語を不用意に使いたくないという気持ちは私にもありますが、何かの対象という「分析主体」を「書く」という行為自体が「分析家」の役目であり、多かれ少なかれの倒錯や不能の露出というのは書くこと=転移の宿命であり、その意味では杏子氏は書くことの営みに存する倒錯的な面を見落としています(私がなぜあのマシュマロを送ったかというと、転移の抑制に失敗していると思ったからです)。

 

・「理由としては、転移する文章が私的言語に近づき、意味が分からなくなる(検証ができなくなる)という問題点があるからです。外部との関係を制限してしまう文章/考え方に対する、違和感が強くあるのです。」
→これについてはよく分かりませんでした。批評には常に「私的言語」が潜んでおり、「私的言語」であるから意味が分からないということにはなりません(テクニカルタームジャーゴンの濫用という意味であれば全面的に同意しますが、どちらにせよ批評言説は常に私的です)。むしろ、「読んで全員が分かる文章」になど何の価値もありません(それは「開かれ」ではない)。検証可能性という意味で言うと、Vtuberを概念工学として捉えるか、哲学・文学として捉えるかの差異でしょう。私はナンバユウキ氏の文章に大変反感があります。なぜなら、彼の文章は「何かを語っている」ように見えて私がVtuberに見ているものを何も明らかにはしてくれないからです。しかしこれは見方の問題でもあるので、わざわざ取り上げる必要もない以下のツイートで言及されている杏子氏にとっての中沢新一アガンベン(なぜ中沢のようなペテンをここで挙げるのかーー柄谷や蓮實ではなくーー理解に苦しみますが。アガンベンは不勉強につき言及しません)と似たようなものなのでしょう。これは相対化でなくVtuber言説の棲み分けが不十分であることに由来すると考えられます。

 

・「転移する文章をVtuberで考えれば「ガチ恋」の対象について書く、というのがあり得ます。(中略)このメンバーについて今のところ書こうとは思っていません。」「(前略)他の人が散々やっているかなあ、という感じや、あまりにもポエムみたいになってしまうという危惧から避けています。(後略)」
→私はガチ恋だった御伽原江良論からVtuber批評を始めたのであまり分からないのですが、「俺にしかこの子の良さは分からないが、なんとしてでも俺だけが分かるこの子の良さを言語化したい」というモチベーションがないのだとしたらあまり言うべきことがありません。「他の人がやっている」かどうかは私にはあまり関係がないので(過去に書いた轟京子論は「Vtuberの人格」論としては凡庸だったと思いますが、気に入っています)。ポエムはポエムで否定されるべきものではありませんが、技術と才能が必要で、これは私にもありません。あえてハイパーリンクを貼りませんが、八神きみどり氏の「Yellow Green Mechanical」というはてなブログの「2019年4月1日(水)の、僕のガチ恋」というエントリは「Vtuberガチ恋するオタクはどんな言葉を紡げばもっとも美しいのか」を示しています。

 

・私は杏子氏の読んだエントリの中で神楽めあ論が最も優れていると思います。倒錯的ではない愛情の眼差しがあるからです。

 

 以上、一部反論、一部賛同を示し、私なりの回答を行った。ところで、なぜ私は杏子氏のブログを読み、マシュマロを飛ばし、このような記事を書いているのか。そこには生が賭けられていたからである。私と違った形で何かこれによってVtuberの言葉を変えられるのではないかという賭けがあるからである。無論、私も。

早良香月Vtuber批評まとめ

   Vtuber批評がまた盛り上がっている。よいことだと思う。私は今まで4つのVtuber論を書いてきた。それぞれに簡単なコメントを付し、改めて挙げておきたいと思う。この全てに、私は私のVtuberについての何かを賭けていることが読み手に伝われば幸いである。

 

・2019年

「御伽原江良について――虚構の臨海とペルソナの呪い」

https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2019/06/24/033706

初めて書いたVtuber批評。ナンバユウキ的工学/美学による三層構造ではなく構造から逸脱する文学をVtuberに見いだす試み。当時5chに貼られて「キチガイギバラヲタク」と言われた。

Vtuber・轟京子という人格――凡庸なろきぺによる一考察」

https://note.com/anusexmachina/n/nc3bc30b89129

三層構造の限界から「人格」という現在の他の分野の批評まで通低するテーマで轟京子について。「ガワ」や「プラットフォーム」というインターフェースは人格を左右するかの問い。

 

・2020年

「女の頭に金属バット――Vtuberとリアリティショーの倫理、射精するオタク」

https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2020/06/05/025022

生配信Vtuberには倫理がないとする「みそは入ってませんけど。」に対する応答。Vtuber論というよりオタク論。何をもってオタクがオタクの判断を下すかは倫理の彼岸にある。

「われら主体を待ち望む――Vtuberイデオロギー的再認、還元不能な場所で――」

https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2020/09/09/164421

サークル誌に載せる原稿の初稿(なお「もっと簡単にしてくれ」と編集から差し戻された)。Vtuberの定義を工学/美学に求めるのではなく、哲学/社会思想の分野から基礎づけ、卯月コウに応用する批評的試み。轟京子の記事に次いで伸びた。

大森靖子、語りの未遂――ポップネス・悪徳・複雑なもの

はじめに
 現在精神病院に入院、静養と投薬治療で嘘みたいに頭の中がクリアになった。パソコンの持ち込みはできないようなので、ポメラからスマホに移してのブログ投稿になった。やっぱり人は簡単に絶望してはいけないと同時に、簡単に絶望させてもくれないのである。

 

・序:ポップネス、悪徳の栄えーー大森靖子批評
 音楽の「批評」といった場合、安直な形で「歌詞」あるいは「コード」の分析といった部分に論旨を帰する場合が多い。筆者は音楽理論に明るくはないのだが、例えば田中秀和の用いるオーギュメント・コードの進行が他のアニメソング・ポップスと差異化の一因であることを指摘したところで、何だ?例えばつんく♂の書いたハロー!プロジェクト(これは本稿で主題的に扱われる大森が「IDOL SONG」でオマージュしていることだが)の楽曲の歌詞がエリック・ロメールの映画のように女の子の心理を卓抜に描写していることを指摘したところで、何だ?
 要するに、従来の、とりわけポップ・ミュージック批評の面において、歌詞と曲をただそれのみとして取り上げる以外のことが、環境的にも文脈的にも難しかったのである(「恋するフォーチュンクッキー」がフィリーソウルなどという唾棄すべき言説はここでは俎上にも上がらない)。ここで取り上げる大森靖子という「超歌手」の生み出すポップ・ソングについても、事態は同じかそれ以上に困難である。何度もセルフ・リメイクされる「ミッドナイト清純異性交遊」「絶対彼女」の楽曲のあり方それ自体を「ポップ」だと言ってしまえばそれまでだが、大森の引用するハロー!プロジェクトに対する惜しみないリスペクトや以下に論じる銀杏BOYZからの影響などが大森自身を重層化し、また大森プロデュースで最近は戦慄かなのとの舌戦でまたトレンドに上ってきたアイドル、ZOCの掘り下げが音楽ライティングシーン全体で甘いことなど、様々な問題系が絡み合っている。この大森靖子というポップの「超歌手」を、一挙にまとめる批評的な論陣の仕掛け方を、今まさに問おう。
 大森靖子、それは最上の悪徳のポップス・クリエイターである。どういうことだろうか。
 この記事が大森に抗するものであるとして、この次の節で述べるパンク・ロックとポップスの違いがリフレインであり、リフを前提とした主張を許してもらえれば、大森は「 繰り返すこと」を拒否するが故に、ポップスのクリエイターとして一級なのだ。しかし、大きなテーマ、つまり「他者の承認によって担保された女の子の「かわいい」」像を大森の中で循環的にループし、反復を拒み、大森は進んで「アイコン」になった。もっとも、大森のアイコンは何をも代理=表象していない。大森のような欲望、ルサンチマン、さらにそれを戯画化し、あらゆる現実的事物の概念を「超出」した「歌手」として大森は自らを位置づける。
 さて、ここまでの読者でどれほどの人数が気づいているかは分からないが、これは大森靖子に関して毀誉褒貶のいずれかを与える訳でもなければ、「分析」する記事でもない。大森、ひいてはポップ/ロックに対する「批評」言説の一定の指針であり、その限りで価値判断のようなものは存在するだろう。しかし、大森が「すごい」と言われるとき、それはどの次元で「すごい」のか、という根拠を問わねばならず、それが音 楽批評であるのだが、音楽的文脈、コード、歌詞(歌詞は本稿でも触れる)の表面的な解釈で「すごい」と言えてしまってはダメなのだ。大森というシンガーソングライター、「超歌手」、そして何より悪徳のポップス・クリエイターについて「ただしく」何かを言うための手引きを、今こそ示さねばならない。

 

・破ーーあいどんきるゆー/あいどんわなだい ZOC「ちゅーぷり」

https://youtu.be/WWIYBv3mYio
 恋人同士がキスすること、それは果たして均等な欲望の交換となるかーー否、である。セックスも同様である。欲望が均等に交換されることなどあるのかーーそれもまた否。この絶えざる欲望の不均等(それが欲望の肯定である)はさながらジャック・ラカン「アンコール」のようだが、大森楽曲においてはこのいかようにもしがたい欲望の交換関係の破調をほとんど神経症的にループする。「愛してる」「はじめてを全部あげる」と歌う初期の「愛してる.com」は能動的な大森的恋愛を示す一方で、作詞作曲、ディレクションのZOC初期の「ちゅーぷり」では「ねえ、ちゅーして」と扇情的で受動的な愛の欲求の呼びかけから始まる。肝要であることは、愛においてはもらう方もあげる方もそれが空虚であることである。「ちゅーぷり」の特殊性、つまりアイドルがファンに会いたくて愛している、という一般的で陳腐な見方はその空虚さをどうにかねじ曲げようとしている、大森のアイドルグループだからこそ見れる精神分析的真理における自己分析の姿であろう。大森は「激情派」(筆者は浅学なのでこれにどういう体系だった見通しがついた呼称なのか知らないし、多分そういう見通しはない)と呼ばれるシンガーソングライターであるが、この屈折なきままに「沈没」し、その激情に一定の価値があるのは毛皮のマリーズの「愛する or die」の「俺だけ愛してくださいよ」という不可能な雄叫びが対比的に挙げられる一方で、大森は愛について志摩よりいささかクレバーであり、そして絶望している。
 「ちゅーぷり」が屈折しているのは、この楽曲は愛の挫折であり、生の肯定が予示的であれ示されている(のちに示す楽曲で回収されている)という事実である。「会いに来て会いたい」とサビで言っているにも関わらず、「ちゅー」がファンにバレたらまずい、という曲の冒頭での「恋愛禁止」という陳腐なタブーに対するアンチテーゼがそのまま歌われている。さて、では、「ちゅーぷり」という曲は「アイドルになって都合よく愛されたい」という曲を意図しているだろうか。おそらくではあるが、大森でなければそのような単なる露悪的なーー「悪徳」ですらないーー曲というのは多分実のところいくらでもあるだろう。大森の構造がポップのループだとして、本文がパンクのリフであるとすれば、大森は「悪徳」のポップネスである。悪徳とはどういうことかーー悪において審美的であることである、マルキ・ド・サドの示したそれのように。大森は優れて審美的に悪であろうとする、あるいは悪とされている部分に審美的な部分や人間的な部分を見いだす。そしてそれは、「大森靖子」であり、大森靖子ではないのである。
 話を戻そう。多くのアイドルソングがそうであるように、ファンと思しき二人称単数がここでも用いられている。また、「あ」という連続しづらい母音の連打は「アイドルになって」に繋ぐためである……か?そうではないだろう。最も重要な歌詞、「あいどんきるゆー」というひらがなの英語がここで出てくる。先の節でも示した通り、大森ポップスの究極的な理念は「他者」(きみ)がいないと「自分」(わたし)がいない、という構造に基づいている。他律的でありながら自己中心的であり、この「女の子」の生き方について大森は一貫して擁護もしていなければ否定もしていない。ただ、肯定している。そう生きることによって生きられる人々は、切羽詰まっている。その切羽詰まりとして出てくるのが 、「あいどんきるゆー」なのだ。I don't kill youであり、「きみ(たち)」を殺してしまっては「わたし」は生きられない。だから、「ちゅー」できるかどうかではない。「ちゅーして」「ちゅーさせて」と、「きみ」がいなければ言えない台詞を言わなければならない、神経症的に、という話である。簡単な連想を許してもらえるのであれば、直感的に峯田和伸の詞である「あいどんわなだい」が対で思い浮かぶ。峯田は銀杏BOYZにおいて、徹底的に押し進めたのは「ぼく」の内宇宙(インナースペース)の無限性であった。峯田には「きみ」が実はいなかったが故に、「駆け抜けて性春」でYUKIをキリングパートで起用せざるを得なかったのである。代わりに、無限の「自分語り」にポエジーがあった。それはのちほど述べるとして、あいどんわなだいである。死にたくない。殺したくない。「ない」、と言うことでしか、生を言祝ぐことができない。この消極的な生への祝福こそ、大森が峯田から引き継いだものであり、そしてまた峯田のリビドーの逆流を抱えきれなくなった大森の峯田に対する断罪が、この後述べるイコノグラフィックな大森と峯田の詞の比較論、そしてまたZOCに戻り、「ヒアルロンリーガール」でのエディプス的なものとの決裂を胚胎的に示すのである。

 

・急ーーぐじゅぐじゅなもの、文、単語 大森靖子「みっくしゅじゅーちゅ」「ミッドナイト清純異性交遊」銀杏BOYZ「ぽあだむ」「あの娘は綾波レイが好き」

https://youtu.be/TFAJssLruSU

https://youtu.be/aT2B-MEAMLA
 完全に当たり前の話をすると、ソングライティングにおいて性的なものを喚起する場合は液体のイメージが用いられることが多い。精液、血、唾液、汗、などがある。性=生をテーマにする大森も峯田もその点においては通じている。では、どのような仕方で現れているのか?この現れ方は、二人の歌詞がもたらすイメージの差異、あるいはパンクとポップの違いにも結びついている。
 峯田は、歌詞の中で決定的に性的なものが問題となる場合、名詞を伏せる(例:愛液「僕のチン毛は べっとりあの娘で濡れている」)か代名詞で置き換える(例:精液「いっぱいあれ 出しちゃいそうなの」)傾向にある。この後述べる決定的なパンクとポップの差異、即ちリフレインかループあるいはその複雑化という部分にすでに触れてしまうのであれば、峯田の「決定的な箇所を言わない」(あるいは言う:cf.「べろちゅー」など)という方法はパンクの方法論に則っている。どういうことかというと、パンク・ロックはリフレイン(リフ)の原則であって、ギターやリズム隊が四小節、あるいは八小節、四分の四拍子の中で決まったリズムパターンやコードパターンを繰り返すこと(反復すること)に一定の美学が存在する。原義的なパンク・ロックにおいて「スリーコード」(三つコードが押さえられればよい)の原則が様式美となり、以上の形になった。当然乗せられる言葉も限定され、あまり高度な比喩表現ができない(「ふいていいよ 潮」などもこれに当てはまる)。この意味で言えば、ファンク・カッティングのリフとシンセによるメロディが魅力的な反復を見せる「ぽあだむ」の原曲とクボタタケシがリミックスした同じ曲ではまさにパンクとポップの差異があると言ってよい。
 さて、大森の「みっくしゅじゅーちゅ」の検討に入る前に、簡単に上で触れた峯田の「イメージの羅列から来る〔…〕二重化されたポエジー」とは、いったいなんなのか。峯田の 歌唱、あるいは銀杏BOYZの歌詞を見てもらえば分かるが、主語がなく述語だけがある、目的語がない、などの日本語になっていない歌詞がかなりある。「白い塩素ナトリウム 水色の水着を溶かすなよ」という「夢で逢えたら」の歌詞は完全に意味不明である。しかし、ライブでは「白い塩素ナトリウム」を歌った後、「水、水」と叫んで「白い塩素ナトリウム」をリフレインするなど、要するに「夢」が喚起するリアリティとは独立した"ポエジ ー"を峯田は描いている。
 それに対して、大森は峯田からの影響を隠しておらず、「Re:Re:Love」(これは両者ともに失敗作で、どちらの良いところも出ず、手癖だけのどうしようもない曲だが)で念願のコラボを果たすなど、様々な点で大森にとって峯田が特権的な位置を占めていることが確実である。しかし、2013年に「大森靖子と来来来チーム」がプレスしたアルバム『ポイドル』の頭を飾る「ミッドナイト清純異性交遊」ーー大森が同年リリースした『絶対彼女』のジャーマン・テクノポップ的アレンジとは異なったピーキーパンク・ロックで、恐らく大森が「ピンクトカレフ」以上に「ロック・バンド」だった証拠としての「ミッドナイト」ーーでの有名なライン「春を殺して夢はひかっている」に峯田に対する「父殺し」を見ることが可能だ。そもそもこの文章の主語は「夢」、述語は二重で「殺して」「ひかっている」、目的語は「春を」できれいな日本語である。察しの良い銀杏リスナーならおわかりの通り、ここで出てくる「春」(「青春時代」、「駆け抜けて性春」など)や「夢」(「夢で逢えたら」、「人間」など)は峯田が殆ど強迫的に単語のみで反復して使うことが多い。"ポエジー"の鍵であり、言葉が単独であること(単語)に峯田の場合意味を持つ。ところが、大森は文章にすることによりそれらの単語に複数性と意味の固有な連関を発生させ、単独的"ポエジー"だったものが複数の"イメージ"  へと解体される。既に峯田の方法論は乗り越えられ、大森はデビューにおいて単独なものの否定、即ちロックでなくポップへと向かっていくのが「ミッドナイト清純異性交遊」の段階で分かるのだ。
 「みっくしゅじゅーちゅ」は、まず曲の異様な複雑さを正しく分割できる人間が音楽の教育を受けていない者に果たしてどれほど正しく理解されるだろうかーーポップ・アナリーゼ以下の、「Aメロの前半と後半の性格の違いはBメロではない」レベルの。とはいえ、「サビの導入が正確に前の小節に八分音符分食って入っていて、サビのシンコペーションも帳尻合わせの十六分音符もなしにBメロが作られている」という驚くべき事態(驚くべき、というほどでもないのだが)には、当たり前に驚いてしまう人がいても自然かもしれない。なぜなら、これが「ポップ」であるから。ポップであるとは字義通り目の前で何かが炸裂することで、あらゆる予定調和を大森は軽やかに、歌謡曲も歌うかのように「超出」してみせる。「絶望がサマになる 恋の季節SUMMERになる」と「しょーもない」駄洒落を踏んでみたところで、パンクならキメのリフになるところを大森のポップスでは箸にも棒にもかからない。驚異的な歌詞がある。「この夏 君と私は二人きり みっくしゅじゅーちゅになろうね って言った」の箇所であるが、このように予定調和を破られ複雑化したポップスにおいては「君と私」は「みっくしゅじゅーちゅ」という「ミックスジュース」を越えた「ぐじゅぐじゅ」の何かがそれまでの歌詞の連繋=複雑化した"イメージ"と結びついて性=生を表象している。さらには、「って言った」のは、「きみ」なのか、「わたし」なのか、分からないのだ。『MUTEKI』時の大森が意図していたのかは分からないが、ここに、小さな交換=交歓の成就を見ることができるだろう。逆行するようだが、「ちゅーぷり」(無理があるなら「絶対彼女」や「愛してる.com」でもよい)におけるような挫折が発話の責任の所在の宙づりによって「みっくしゅじゅーちゅ」になってしまうのだ。そしてまさに現在を単独なものとして捉えない、まさに引き裂かれた言葉の「悪徳」の頂点にいる大森は、こう言うのだ。「幸せのイメージは 捉えた瞬間過去になる」-ーと。

 

・未遂ーーも~っとヒワイな自己肯定! ZOC「ヒアルロンリーガール」

https://youtu.be/YUGOXBgl87I
 さて、ここまで、大森ワークスを峯田和伸との影響からも「概観」できずに「つまみ食い」に留まってしまったわけだが、音楽批評の可能性と困難とは、特にポップネスにおいてなんであったか?それは、「好き/嫌い」の価値判断を下さずに「批評」しなければならないからだ。むろん、このブログでも言っているように批評対象に「転移」することは、とても、とても大事だ。私が大森靖子という「超歌手」のどこに何を見いだして、どこが優れていると思ったのか、それは読み手のみなさまに委ねられる。
 しかし、この楽曲、ZOCの「ヒアルロンリーガール」、「君を注入してかわいくなりたい」、そして「死にたい言わない主義」という歌詞が示す一連のイメージの解釈、また本記事で唯一言及するZOCメンバーの巫まろの歌い出しの異様な感じの私が唯一できるリズム・アナリーゼがまだできていないなど、課題含め、本記事は、私の、そして今後のアマチュア音楽批評の未だ「未遂」に留まっている。 

輝ける日々 その3

 幼い頃、周りから神童と言われた。実際自分のことを神童だと思っていた。11歳でブログを始め、小学生とは思えない音楽評論で、ツイッターなんかやらなくても一定の読者がついてコメント欄はすぐに埋まった。

 

 今が凡人だとは思わない。精神疾患を患ってなお文章を書き続けることは一つの才能だろう。だが、なんのために書いている?こうやって打ち込んでいるときも、普段の半分のスピードでしか打てない。打ち間違いも多い。俺は俺のためにしか書いていない。結果としてお金になったりならなかったりする。だが、結果論だ。リヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』に、こんな一節がある。

Es sind die mehreren Dinge auf der Welt, so daß sie ein’s nicht glauben tät’, wenn man sie möcht’ erzählen hör’n. Alleinig, wer’s erlebt der glaubt daran und weiß nicht wie….

世の中にいくつかある、人が語っているのを聞いても信じることのできないことの一つなのね。ただそれを経験した者だけがわかること、そしてそれでもどうしたらいいかはわからない……。

 「ただそれを経験した者だけが分かること、そしてそれでもどうしたらいいか分からない」。しかし、マルシャリンは分からないものを分からないものとして選ぶことを受け入れる。オクタヴィアンとソフィーの幸せな結末(?)に向かって、マルシャリンは「ベタオリ」を選ぶのだ。

 

 薬で出た腹。うろんな視界。明日俺は精神病院にブチ込まれる。分からないものを、分からないものとして受け入れることができないまま。Sind halt aso, die jungen Leut’!に対して、Ja,jaと肯定できないのだ。「若い者はこんなもんですな!」。こんなもんなのか?

 そしてやはり、悲観せず、あえてこう言おう、これまでも、今も、そしてこれからも、輝ける日々は続く。未来がなくても、続いても、VIVA (NON/LONGTEMPS) AVENIR!(間違ってる?)と言ってしまおう!生きてて、よかった!

 

輝ける日々 その2

 朝6時に起きる。朝飯を食って色々やるものの意識の焦点が合わなくて呂律が回らない。ツイキャスを試みるが10分程度で喋ることが思いつかなくなる。ブログを書こうとするもののツイートすらままならないんで何回かボツにする。

 もう自分は文章が書けなくなるかもしれない。自分の唯一の誇れるものだったのに。今こうして書いていることも、指の間からすり抜けるような思考を繋ぎとめて書いている。「時々感じるんだ 昔みたいに戻れたらと」。戻れない人間のセリフだ。日に日に正気を失っていくのが分かる。このちょっと長いツイートのような文章を書くのでさえ、typoやその他で意味不明になっていく。覚えていることがなくなっていくことが怖い。入院で治るのかな。治ると良いな。

 

The rest of my life’s been – just a show.

残された人生は、ただの見世物。

輝ける日々 その1

 文章が書けない!っつったってはてなブログを開いて文字を書いているのだから、意味の連関が把握できないレベルではない。統合失調症ワードサラダは例としてよく『パプリカ』の「オセアニアじゃあ常識なんだよ」が持ち出されることがあるが、実際自生思考でワードサラダしか出てこなくなったときはあんなに意味不明にはならない。もう少し論理的な文章になる。狂人には論理がないなんて本当にバカげている話で、狂人ほど論理立った文章を書くものである。じゃあ僕が専門である以上に私淑しているルイ・アルチュセールはどうなんだという話になる。彼が双極性障害を発症したのは捕虜時代の1940~1945年のどこかとされているから、一番早ければ1918年生まれを考えて22~23歳?うわ、僕と同い年じゃん。高校時代の恩師に「アルチュセールを研究しています」って去年言ったら「ダメだよ。まともにアルチュセールなんか研究してたら気が狂うよ」と言われた。「研究対象と自分って似るからね。ミラーニューロンじゃないけど」もう似るとかそういう次元ではなくて僕はアルチュセールの伝記やもろもろを読むたびに他人事とは思えずに胸の下の方がギュッと締まってしまう。恋?いやそれは流石に……。

 火曜日に僕は精神病棟に入院することになった。場合によっては電気ショック(ECT)で断片的に記憶喪失を起こすこともあるらしい。じゃあせめてシャバの3日間ぐらいは何かを残しておこうということで1日1本ずつエントリを書いていく。前のVtuberのエントリは僕が辛うじて絞り出した論理であって、というかよく見ると若干トチ狂った文章なのだが、そういうものの方がウケは良いらしい。いや、別に皮肉でもなんでもなくウケることはいいことだ。精神病棟でVtuberは見れるのか?分からん。

 これは日記ではない。このブログの管理人の思考の爪跡だ。しばらくブログは書けない。今も頭がぐるぐるする。しかしそうでもしないと生きている心地がしない。さっきも左の壁にゴキブリの幻覚が見える(もう慣れた)。部屋に人が入ってきた気がして何度も振り返る。精神病棟で読む本は筑摩文学大全のマラルメヴェルレーヌランボーのぶっとい古い本、マキャヴェリの『世界の名著』、新潮文庫コクトー詩集。コクトーは昔読んでいたやつだが他の二冊はそう簡単に読み切らんだろう。少し哲学と批評から距離を置く。今聴いているのはジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団シューマン交響曲第2番、スイスのルガノ・ライブ。何度も聴いた演奏だが何度聴いてもいい。音楽もあまり聴けなくなる。いっぱい聴いておこう。今日はじりじりと嫌な感じがする。昨日は最悪だった。まあ、それでも、何があっても、輝ける日々は、いずれやってくる。それを信じられなくなった瞬間、ゲームは終わるのだ。明日も書こう。