思考停止

映画、本、音楽、など

沈黙と雄弁

 先日、アイドルでオナニーすることについて少し長めの文章を書いた。あの文章を書いたことがきっかけになってかそうではないのか、私は推しのパク・ジヒョで初めてオナニーをした。終わったあと、私はしばらく動くことができず、気づいたら涙が出ていた。タバコを持つ手が震えた。なぜそうなったのかを逐一言葉にすることに、私はあまり興味がない。一人のオタクがアイドルでオナニーしただけだ。それ以上でも以下でもない。私の欲望のあり方や、私の欲望の根源が何かを問い、それを言葉にすることには、少なくとも私にとっては意味がある。言葉にすることによってしか分からない私の欲望は恐らく、必ずあるからだ。でも、欲望をどう発露するかは、ただ発露すればよい。すべてを語る必要はない。何もかもが語れないのではなく、語ることに価値がないことについては、おのおのの仕方でそれを解消し、おのおのの仕方で沈黙すればよい。

 

 昨日、私の推しであるTWICEのパク・ジヒョが熱愛報道された。サバイバル番組で期間限定で結成され、先日1年半の活動期間を終えて伝説となった男性グループ・Wanna Oneの絶対的エース、カン・ダニエルとパク・ジヒョの交際のニュースは、瞬く間にSNSを駆け巡り、今日なんかはワイドショーでも取り上げられていた。私のオナニーと交際報道には何の関係もない。しかし、ガチ恋でもプラトニックな応援でもない仕方でジヒョを「推して」いる私は、「推しシコ」と推しの交際報道に何の根拠も符牒もない勝手なめぐりあわせを感じて、胸がざわついた。友人と浴びるほど酒を飲みながらゲームをしていても、ずっと私の脳内にはジヒョの顔がちらついていた。

 

 「恋愛禁止」を掲げておきながら恋愛を歌うアイドルがいびつであるように感じたのは、いつからだっただろう。少なくとも私は、多少なりともそういうアイドルの振る舞い(無理やりな言い回しをすれば「振る舞わさせられ」)に欺瞞的なものを感じていたから、アイドルのスキャンダルが出るたびに、アイドルのスキャンダルに失望するというよりは、それを巡るオタクたちの失望の言説に失望していた。私がアイドルが原理的にミソジニー的なものだと考えているのは、ひとえに「処女信仰」である。彼氏がいない、セックスやキスをしたことがない、そういうことが「商品」のひとつの価値決定になってしまうアイドルと、何より価値を作り出しているオタクの空気感に嫌気が差した結果、私は一度アイドルオタクをやめた。TWICEに出会ったのは、アイドルオタクを一回やめてから3年後のことだった。

 

 「推し」が異性と浅からぬ関係を持っているという事実に対して、オタクの取りうる態度に「正しい」や「悪い」はない。ジヒョとダニエルの関係は互いの事務所(ダニエルの事務所はダニエル一人だけなので事実確認も何もないと思うのだが)が公に認め、「K-POPビッグカップルの誕生」と盛んに言われている。いきなり子供ができたとかではないし、コソコソやっているわけでもないので、見る限りの範囲内では「祝福しよう」というムードが支配的だ。その一方で、「やっぱり彼氏がいてほしくはなかった」とか(ネタ化している「カップリング」のコミュニケーション内で)「ノンケだったのか」などのコメントもまた、見られる。日本と韓国ではアイドルのあり方も微妙に異なるので、単純に比較することはできないが、「スキャンダル(醜聞)」ではない公的なお付き合いということに関しても、ジヒョに失望したり、ある種の希望や夢みたいなものが終わったと捉えるオタクがいることは、日本も韓国も同じだ。そういうコミュニケーションによってオタクコミュニティの強度が保証されていることを、私は否定しない。私のTwitterの600人ほどいるフォローでTWICEのファンがほとんど女性であるにしても、アイドルに注がれるミソジニーの欲望は、実のところ日本アイドルの男性ファンと構造をほとんど違えていない。それは、アイドルオタクのあり方が、男性にしろ女性にしろ処女信仰的な(あるいは「百合」的コミュニケーション――アイドルとアイドルの関係性を同性愛的な文脈で読むということ)、人口に膾炙した意味での(厳密でない)ミソジニー的価値観に収斂しているということの何よりの証左だろう。

 

 さも私がアイドルオタクではないかのような書き方になってしまった。何よりの前提として、私はTWICEのオタクであり、ジヒョのオタクである。ジヒョを目の前で見たいあまり、『HAPPY HAPPY』と『Breakthrough』をハイタッチ券目当てで合計で22枚買ってジヒョのハイタッチ券を当てたときは渋谷のタワーレコードで喜びのあまり過呼吸になりかけたし、まだTWICEを追い出して1年も経っていないが、私が今までで最も色んなリソースを割いて応援しているアイドルであることは確かだ(次点は多分predia)。私がジヒョとダニエルの交際報道を見た時の感情を一言で言い表すことはできない。「私のもの」だったジヒョが同じK-POPのスーパースターと交際していることのショック?「アイドル処女至上主義」をまっとうな形で推しが否定してくれたことに対する快哉?もしくは他の何か?恐らく、その全てだろう。それでも、一番強かった感情は、「ジヒョを推していて、本当に良かった」だった。その感情を、1から100まで説明することに、私は価値も必要も感じない。

 

 何かを言葉にすることの意義は、言葉にできないことの臨界にまで迫ることだ。何かを語ることによって語れないことを、語ること以外の方法で浮かび上がらせることだ。「推す」ことの欲望、「推し」が自分の思い通りにならないことに対する感情、それらに対して私たちは努めて雄弁であるべきだと思う。なぜなら、人が人の欲望や感情を「読む」ことによって人は自らの気づいてもいなかった欲望に気付くことができる可能性があるからだ。しかし、全てを語らなくともよい。語れないことが最も重要なわけではない。語ることによって気づけることと、語らない、語れないことによって気づけることの位相が異なる、という話である。アイドルオタクがTwitterやブログをやること、何の肩書もない人々の「便所の落書き」を残すことに私が意味を見出すのはそこである。ジヒョという私の推しについて、私はときに語り、ときに押し黙るのである。