思考停止

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御伽原江良について――虚構の臨界とペルソナの呪い

・はじめに――増えすぎた「サブカル」言説

 「サブカルチャー」の射程は、今や広くなりすぎてしまった。例えば……と列挙することもできないぐらい枝葉は分かれ、手の付けようがない。コンテンツがあればそれを語る言葉も増えるわけで、「サブカルチャー批評」と名のついた言説は細胞のように増殖し、文献渉猟や史料分析のハードルの低さ(これは決してサブカルチャー批評にあたって必要な作業が容易であると言いたいわけではない)から到底「批評」の名を冠するに値しないものも多く生まれた。というか、遠慮なく言ってしまえばゴミがほとんどである。私の愛するコンテンツであるアイドルやアニメ、そしてこの記事で言及するバーチャルYoutuberバーチャルライバー(以下Vtuber、ライバーと略記)をめぐる語りは、もう遍在しすぎて正直訳が分からなくなっている。私は、「批評」や「論考」によってそれらサブカルチャーを捕まえようとか輪郭を浮き彫りにしようとかという試みに、素朴に与しようとは思えなくなってきている。聞きかじりの哲学や精神分析の理論を組み合わせてそれっぽくしたからといって、何になるだろう。

 そのような無力感を覚えつつ、一方で何かを語りたいという欲求は、耐えがたく私の中にある。いっそのこと、「批評」とかいうものものしい大上段を捨ててしまえばいい。全部オタクの妄想、自分語り、自己言及と開き直ってしまいたい。そうしてできたそびえたつクソは、何やら「批評」の顔つきをしている。オタクとは、本当にめんどくさい人々だ。我ながら呆れてしまう。私は、こうして文章を書くことが楽しい以上、語ることの呪いから逃れられない。私が以下に書こうとしているあるVtuberも、そういう「呪い」から抜け出ようとしているが、上手く行っていない、ひとつのケースである。

 この宣言が失敗する前提で、ある宣言をしよう。以下の文章は批評でも、論考でも、ましてや論文のような何かでもない。オタクの独り言、便所の落書きである。でも、便所の落書きが用を足す人々の目に触れることがある可能性に、私は賭けようとも思う。

 

・助走

 Vtuberについての辞書的な定義をここでするつもりはない。が、御伽原江良というVtuberを語るにあたって、少し退屈な説明をしなければならないだろう。私の記憶では、キズナアイ、ミライアカリといったいわゆる「バーチャルYoutuber」が出てきたのは2017年あたりだった気がする。彼女らに共通していたのは「動画中心」であることで、大体5~10分程度に編集された動画を自分たちのチャンネルにアップロードしたものを皆が観るというのが意識されてもいない大前提だった。また、事務所にも所属しており、例に挙げたキズナアイはupd8、ミライアカリならENTUMと、YoutuberにおけるUUUMのような企業に属しているのが衆目に触れるVtuberの多くだ。もちろん忘れてはならないのが「個人勢」と言われる人々で、キャラクターメイク、プロデュース、動画編集などを個人(あるいはチーム)で行うVtuberもいる。これは後述するライバーも同様である。

 今回主題となるVtuberでありライバーである御伽原江良は、いちから株式会社の「にじさんじプロジェクト」に属するキャラクターだ。にじさんじの革新的だった点はキズナアイやミライアカリをはじめとする多くのVtuberが編集済の動画を活動の中心にしていたのに対し、ミラティブ、OPENREC、ツイキャスなどの配信プラットフォームをサブにしつつYoutubeliveで「生配信」をすることにこだわった点だ。動画勢も少ない頻度で生配信をすることはあったが、にじさんじというプロジェクトは現在70名以上を擁し、そのほとんどが配信中心の活動をするという一種の業界における革命は、無論個人活動のVtuberにも大きく影響を与えた。活動プラットフォームをYoutubeに限定しないという意味で、にじさんじのキャラクターは基本的に自らのことを「バーチャルライバー」と呼んでいる。

 

Vtuberの病理が「見えなくなった」Vtuber、御伽原江良

 本題に入ろう。御伽原江良の詳細なプロフィール(設定)は非公式wikiが充実しているのでそちらを参照してもらうとして、今回問題にしたいのは彼女が「御伽原江良」であるという事実それ自体である。Vtuberという存在は、実のところかなりグロテスクであり、現代的かつ病的でさえある。他のサブカルチャーの消費の対象は、かなりおおざっぱに言って「物語」と「キャラクター」である。上述したようにもはやサブカルチャーという言葉は意味が分かれすぎていてそれ自体では何も指示しなくなっているが、苦し紛れにアイドルを例に取るとして、アイドルはデビュー以前、デビュー、CDの売り上げ(サブスク全盛の2019年においてアイドルがCDの売り上げにこだわるのは言うまでもない、握手券などの付録物に意味があるからである)、メンバーの脱退、そして解散と、アイドルの節目節目という「物語」に、オタクはアイドルのメンバーという「キャラクター」に、ときに喜び、ときに悲しみ、金を落とす。アニメに関してはより精緻な分析があると思うのでそちらに譲るが、インターネットが普及するかどうかの段階で『新世紀エヴァンゲリオン』という黙示録的な作品が多くの語りを生んだのは論を俟たない。この記事の本丸ではないのでかなり雑ではあるが、オタクは仮構された「物語」と仮構された「キャラクター」に金を落としていると言っていい。

 ひるがえって、Vtuberはどうだろう。切り取られた電脳世界の彼女(男性Vtuberもいるが、その辺は今回あえて捨象することにする)たちによる10分間弱の演出は、「物語」なき「キャラクター」が宙ぶらりんになっている事実の露呈である。それまでセットで消費されていたはずのものが、片方が失われ、片方が奇形的に肥大化していく。にじさんじは配信を中心にすることで、チャンネル登録者の数や「デビュー」の概念を生み出すことによってVtuberに「物語」を復権させたかのように見えたが、Vtuber業界全体が行き詰まりを起こし飽和している現在において、既に「物語」は失効している。Vtuberの現代性と病理は、つまるところ「キャラクター」の異常なまでの肥大化だ。二次元美少女の立ち絵がときおり動きながら配信者の声だけが響き、Vtuberのオタクはそれに対してスーパーチャット(投げ銭)をする。はっきり言って、かなり倒錯的な光景である(もちろんのこと私も倒錯的なVtuberオタクの一人だ)。

 御伽原は、その点についてかなり自覚的な配信者だった。「だった」と過去形にしているのは、今彼女は「チャンネル登録者数10万人」という、飽和しきり、オタクが食い飽きた故に放棄した「物語」の成就を盲目的に享受しようとしているからだ。私が好き好んでこんな記事を書いているのであえて書くまでもないが一応断っておくと、私は御伽原江良のファンだ。御伽原を代表する配信であり、尺も6時間半に及ぶリズム天国オールパーフェクト配信も、同じにじさんじ所属のVtuber花畑チャイカとのコラボ「ギバライカ」コラボも、雑談配信も、現行観れるものはほとんどリアルタイムで観ている。今これを書いている最中も配信をしているのを知っていて正直めちゃくちゃ観たいが、そのぐらい彼女をVtuberとして追っているからこそ、歯がゆかったりもどかしかったりする思いがあり、その一心でこれを書いている。というのはどうでもよくて、要するに私は御伽原のアンチをしようとか、攻撃しようという意図では全くないということが言いたいのである。それでも、最近の御伽原江良という配信者は、Vtuberの現代性と病理をある意味体現しすぎていて、観ていて気持ち悪いほどなのだ。肥大化しすぎたキャラクターを制御できなくなり、自らのペルソナが壊れかかっていながらも、そこから自由になれない配信者の苦しみ。そして、それを自覚し苦しんでいた御伽原はもういない。腐敗した「物語」を貪り、苦しみに無自覚なように見える奇形のペルソナ「御伽原江良」が高笑いを上げて、今日も、今も配信をしている。

 

・虚構(バーチャル)とリアルは自明か?

 御伽原の動画を具体的に観る前に、この文章の前提となっている文章がある。

 メルクマ氏は、Vtuberというコンテンツに対してあまりに楽観的であるように見え、「バーチャル」と「リアル」という区分が自明に存在すると素朴に信じてしまっているかのようだ。曰く、御伽原江良は、「バーチャル」なのに「リアル」な存在だ。ロールプレイを放棄し、コラボ配信で成果らしい成果を残せなかった自分を責め立て、赤裸々に心境を語る御伽原江良は、御伽原江良である以前に、虚飾なき一人の女性配信者である、と。雑な要約だが、大体このような具合である。しかし、果たしてそうだろうか?ロールプレイをやめて、自分の心境を吐露する配信を乗せることが、「自分をさらけ出す」、「バーチャル」から「リアル」へと踏み越えることになるのだろうか?恐らく、というか、私の主張ではそれは絶対にありえない。御伽原江良に私がこだわるのは、「バーチャル」、虚構の臨界点にまで迫りはすれど自らが「御伽原江良」であるが故に「リアル」に接続することが初めから失敗していること、そして自らに課した「御伽原江良」のペルソナ(あえて「キャラクター」という言葉は避けている)を抜け出ようとしながらペルソナ自身の持つ呪いが暴走し、それを制御することをあきらめてしまっていること、この二点が故である。具体例から、「物語」ではない、彼女の虚構(バーチャル)を見ていきたい。なお、御伽原江良のモノグラフィーを作ることが目的ではない(にじさんじライバーのアーカイブは膨大なので私が作るまでもない)し、「御伽原江良ガイド」でもないので、ここでは三つの動画を参照する。

 

・ロールプレイと脱臼――「清楚」セオリーのテンプレート的実践

 「初配信」は、キャラクターの持つ個性や特徴、設定、それらを「あたかも『中の人』がいないかのように」思わせる演出である「ロールプレイ」の披露、そして何より重要なフェティシズムである「声」を初めて公にする、一回きりの機会である。「初めて」は全てのライバーに存在するが、御伽原は自分の初配信で露悪的なまでにロールプレイを遂行しようとする。作られた声で「シンデレラ城でイベント」「神戸屋でバイトしたい」など、今の彼女にとってはどうでもいいことを、もっともらしく言っている。そしてにじさんじのひねくれたオタクは、こんなことを思う。「これは、『本当の』彼女、御伽原江良なのだろうか?」と。料理上手で家庭的、夢見る女の子、あからさまな萌え声。正直、童貞の中学生が考えた方がマシなレベルであまりにカリカチュアライズされた二次元の女性像だ。それでも、少なくともこの配信での御伽原は、この無理ある設定を懸命にロールプレイしようとする。

 で、案の定このロールプレイはあっという間に破綻し、ロリコン、メンヘラ、奇声、などなど、「素」のような何かが出てくるというのが流れなのだが、特ににじさんじ的セオリーで重要なのはここまででワンセットであるということだ。にじさんじの抱える怪物であるVtuber月ノ美兎は「清楚なツンデレ学級委員長」という体でデビューしたが、初回配信でエログロ映画の話をして自らロールプレイを脱臼させるというところに端を発し、にじさんじ内では「キャラクター上(設定上)は社会通念上の『清楚』だが実はアングラな嗜好やギャップがある」というハイコンテクストな事実を示す鍵括弧付きの「清楚」概念というものがある。月ノ美兎はいざ知らず、御伽原は恐らく意図せずしてロールプレイを脱臼し、にじさんじ的「清楚」のテンプレート的実践を行った。皮肉なもので、Twitterのメンヘラアピールや配信での失言、歯に衣着せぬ物言いという当初は意図されていなかったロールプレイ脱臼のギャップの効果、ガワ(立ち絵)のキュートな見た目から着実にファンを獲得し、デビューから一か月を待たずに大規模コラボへの参加が決まる快挙を成し遂げた。しかし……。

 

・ 「素の私」、虚構(バーチャル)への抵抗

【御伽原江良】地声を晒しRP崩壊 大量の低評価をくらう - YouTube

 この配信は、2019年4月8日ににじさんじ公式チャンネルにて配信された「にじさんじ MIX UP!」というコラボの後、4月13日に御伽原の個人チャンネルにて配信され、現在アーカイブは非公開になっており閲覧は不可能になっている。当配信はこの切り抜き以外にも他の箇所を抜粋した切り抜きもあるが、これが一番分かりやすいだろう。御伽原江良の一ファンとして、この切り抜きは観ていてかなり痛々しい。ニコニコ動画からの転載なのでコメントが流れているが、ほとんどが御伽原を攻撃するコメントである。本人が自虐ネタで「にじさんじの癌」と発言するシーンが今でもたまに見受けられるが、この配信が良くも悪くも現在の「御伽原江良」のイメージを決定づけた。

 注目したいのは、動画前半部で「私の素を出し切る」と強調していることだ。私は後追いなのでこの配信の全部は観れていないし、分からない部分もあるが、他の切り抜きや上のメルクマ氏の記事から得られる情報を要約すると「ミックスアップコラボで思うような振る舞いができなかった自分を責める」という内容だった(らしい)。初配信はおろか、その後のゲーム実況や雑談配信ですら声を作っていたことを打ち明け、恣意的なロールプレイ脱臼すら飛び越えて、ここでは「御伽原江良」である必然性がなくなっている。「東京からの帰りの新幹線で泣いていた」と述べる別の切り抜きでは、実際の動きと同期する立ち絵(トラッキング)すら放棄してpngの立ち絵が貼りついている。個人的な感情を述べるならば、あまりファンとしては直視したくない姿である。なぜなら、オタクが期待しているはずの「御伽原江良」がいないように見えるからだ。

 しかし、「御伽原江良」は本当にいないのか?「地声」「素の私」と、御伽原はいかにも私は普段「御伽原江良」を演じていますよ、今は虚構(バーチャル)じゃない、「本当の私」なんですよと主張している。実のところ、御伽原がVtuberというジャンルに対して(意図せずも)批判的で、クレバーになりきれないながらも虚構に抗おうとしていたのはここまでである。上に載せた動画のタイトルには「RP崩壊」と銘打ってあるが、そもそも御伽原のロールプレイは早いうちから失敗しているし、ロールプレイの脱臼が半ばお家芸のようになっているにじさんじにおいてロールプレイがぐちゃぐちゃになることは大したダメージではない。彼女が問題となったのは、立ち絵もキャラクターも含めた「ガワ」を攻撃したからだ。これは御伽原個人の問題ではなく、Vtuber全体を攻撃することになりかねない。上で指摘した通り、Vtuberは奇形的に肥大化した「キャラクター」を倒錯的に楽しむコンテンツである。本記事で「キャラクター」と「ペルソナ」を意図的に使い分けているのは、御伽原がこの配信によって解き放たれたのは「キャラクター」からであって、「ペルソナ」からは自由になっていないという事実を指し示すためである。もっと言うと、(脱臼を含めた)ロールプレイは「キャラクター」の要素だが、「素の私」と本人が言及しても脱することのできない、あらかじめ脱臼不可能なロールプレイの剰余部分が「ペルソナ」である。御伽原は、「素の私」と語ることによってキャラクターに自覚的なVtuberになることができたが、剰余部分であるペルソナにアクセスすることはできなかった。

 わかりやすく言えば、ペルソナと術語的な意味を与えてわざとらしくこの言葉を使っているのは、彼女が虚構(バーチャル)を踏み越えようとしていたからだ。そのためには、キャラクターという言葉では言葉自体の持つ虚構の意味合いが強すぎ、どうも彼女が越えかけた虚構とリアルの臨界が曖昧になってしまう。御伽原はまったく意図しない形で、Vtuberがアクセスできるギリギリの虚構の臨界を明らかにし、かつリアルへの接続不可能という無力を露呈した。「素の私」は、「御伽原江良」のキャラクターから逸脱してはいても、ロールプレイ脱臼でも炎上覚悟のメンヘラ自分語りでも相対化不可能な「御伽原江良」のペルソナの一部でしかない。我々は「御伽原江良」のキャラクターについて知ってはいても、「御伽原江良」のペルソナについては何も知ることができない。これが、御伽原江良というVtuberの限界であり、同時にVtuberの限界でもある。そして、ほとんどのVtuberはこの問題について素朴かつ無邪気で、無批判である。それが悪いというつもりはない。しかし、御伽原江良について語ることの誘惑から逃れられないのは、まさにこの点によってである。この後も度重なる失言、炎上を繰り返し、問題を起こす御伽原だが、持ち前の鈍感さと根気、根強いファンのおかげで登録者数は9万人を突破する。

 

・抵抗の終わり――「御伽原江良」の(自己)承認

記念枠も雑談も全部一緒にしちゃおう。そんなことより私と将来について語りたくない?【御伽原江良/にじさんじ】 - YouTube

 標題に掲げた副題である「虚構の臨界とペルソナの呪い」については、上の節で述べた通りだ。この節で紹介する配信は、自己のペルソナに抗うことをやめ、ファンに恵まれた御伽原の告白であり、この文章全体のある意味不幸なエピローグである。

 チャンネル登録者数9万人突破の記念として行われたこの配信で、御伽原は王子様候補(彼女のファンの通称)に素朴な感謝を述べる。大学を辞めていたこと、両親に恩返しができていること、自分の暮らしが目に見えて良くなっていること、にじさんじの他のライバーやにじさんじ以外の企業のライバーと仲良くなれたこと。ここまで読んだ根気強い読み手の方ならお分かりかと思うが、前節のキャラクターとペルソナの問題が反転しているだけで、彼女は退行も進歩もしていない。それどころか「御伽原江良」のペルソナに、御伽原自身が抵抗することをやめたのである。恐らく、抵抗を抵抗とも気づかず、抵抗をやめたことにも気づかないまま、静かなBGMに乗せて、ときに嗚咽を交えながら、粛々と配信は進む。

 乗りこなしきれない「御伽原江良」のペルソナは、配信というプラットフォームにおいて醜く暴走することによってあらかじめ不可能な抵抗を自己自身に対して行った。その事実は、自らが虚構の臨界にどれだけ迫ろうともそこから脱出することはできないという無情な、しかし「御伽原江良」がバーチャルの存在であるが故に宿命として引き受けなければならない、我々コンテンツの消費者とは別のリアルを突き付けた。御伽原は、バーチャルにおいてのリアルに疲弊して抵抗をあきらめたのだろうか?そういう風に言えなくもないだろう。が、この配信の御伽原江良は、疲弊したようには見えない。むしろ、生き生きとしていて、にじさんじに入って、Vtuberになってよかったと、本心から言っているように見える。それは、彼女のファンが、そして何より「御伽原江良」が、チャンネル登録者数9万人という、陳腐で、どこにでもある、食い尽くされた「物語」によって「御伽原江良」に承認されたという、やりきれないひとつの成就なのである。承認によってしか、自分を(キャラクターもペルソナもひっくるめて)愛することができないという不能を示す御伽原は、とても幸福そうだ。ロールプレイも抵抗も暴走もしなくなったペルソナの呪いは、彼女が「御伽原江良」である以上、終わらないのだ。

 

・終わりに――すべてのオタク的言説は無力である

 ここまで難しいことを書いてきてアレだが、ひねった話をせず、一ファンとして御伽原江良について言うことがあるとすれば、彼女はシンプルにたちの悪いメンヘラのバカである。キャラクターやペルソナのくだりなんか、書いてて若干アホらしかった。問題になった配信の実際のところは単にコラボで喋れず気落ちして(私は女性の使う「病む」という表現を蛇蝎のごとく嫌っている)、やけくそになっただけというのが関の山だろう。

 でも、例えば他の好きなにじさんじライバーである鈴鹿詩子や、竜胆尊や、鷹宮リオンなどについて、これだけのことを書くことができただろうか。多分できなかったと思う。御伽原江良は、その点で極めて独特の魅力がある。そのすべてが無力であり、何の意味もなさないと知っていても、何かを言わせずにはおかない不思議な力がある。ガワ?父性本能?自分の好み?端的に言ってしまえば、それで終わりだ。私はメンヘラバカをかわいいと思う凡庸な感性の持ち主です、で話は初めから終了している。

 繰り返すが、サブカルチャーをめぐるほとんどの語り(この文章もそうだ)はゴミだ。頭でっかちな議論は、コンテンツの趨勢に何も寄与しない。どれだけ金を落とすかにコンテンツの延命はかかっている。特にバーチャルYoutuberは、先行きも見えず、業界自体が不安定なのでいつ終わってもおかしくない。でも、オタクは語りたがる。何も寄与せず、何も正当化できず、すべては無力だと知っていながら、語る。

 

 

 最後に。御伽原江良というライバーはコンテンツへの依存度がめちゃくちゃ高いパーソナリティを持っているので好き嫌いは分かれるし結構ボロクソ書いてしまったが、本当に好きなライバーの一人であることは明記しておく。センスが光るリズム天国実況、ギバライカコラボのスーパーバニーマンはクソガキの御伽原をチャイカがいなすにじさんじきっての名配信だと断言する。