思考停止

映画、本、音楽、など

Webマガジン「ラ・ショイア」について

 以下に述べるのは、自分が文章で関わったあるサイトの運営、あるいはそれにまつわるトラブルの事後処理について俺が思ったことであるが、そこにはいくらか強い表現が含まれることを先に言っておく。何故なら、本件で俺はかなりの不快感と怒り、呆れの感情を抱いたからであり、同時に「文章を書く」という行為について再度考える必要があると判断したからである。以上のことを理解した上で、本エントリは読まれるべき人に読んでもらいたい。

 

 2018年7月に大学生主体で立ち上げられたWebマガジン「ラ・ショイア」(名前を挙げる必要があるから挙げるだけで、当然のことながら本件に不快感を感じた俺はこのWebマガジンを宣伝しようという意図はないし、俺の書いた記事を読んでほしいとも思わないので、リンクも貼らない)に俺はある縁で寄稿の話をもらい、2本のコラムを書いた。クラシック音楽とアダルトビデオに関する文章であるが、まあ俺の書いた記事についてはどうでもよい。ただ、「学生主体で人文系批評のサイトを立ち上げる」という話をもらったとき、面白そうなことをやるんだろうな、と思ったのと、声をかけてくれた友人は高校時代からの付き合いだったというのもあり、喜んで俺は寄稿の話を承諾した。まあブログをやっている段階で分かると思うが、俺は文章を書くのが好きだ。趣味についてのアウトプットでもいいし、文献などをリサーチをした上でそれをまとめ、自分の考えを発表するという行為にはそれなりの苦労が伴うが、そういうのを差し置いても俺は「文章を書く」という行為に一定の価値を見出してきたし、またそれを楽しんでやっている節もある。そういうわけで、ブログという個人的な場所ではなく、Webマガジンという不特定多数に訴求するメディアに参加できることは素直に嬉しく思ったし、事実俺も楽しく記事を書かせてもらった。

 ところが、「ラ・ショイア」の「サーバー」は7月8日の公開直後、突如閉鎖。出だしからコケてんじゃねえよ、程度にしか思っていなかったのだが、その後の謝罪文で某サークルのドメインを無許可で使用していたことが分かった。少しWeb製作(もどきでもいい)をやったことがある人間なら分かると思うが、サーバーとドメインは無関係であるとは言わないが別物である。この時点でWeb運営のズサンさを見てしまった俺は、少し反応に困った。挙句、公式Twitterを見る限り、「サーバーに不具合が生じた」と言っておきながら実はドメインを無許可でパクってましたー、というだらしないオチ。現在Twitterを確認すると当初の謝罪文が消えているが、まあこのときまではだらしないけどまあしょうがないか、という程度の気持ちだった。

追記:当初の謝罪文は消えていなかった。Twitterの固定ツイートに新ドメインでのサイト公開と一緒に画像で謝罪文が掲載されている。こちらは比較的まともな内容。それだけに「声明文」を出した意味も分からないが。)

 で、新しいドメインを取得して「ラ・ショイア」は復活したのだが、ドメインが怪しい。なんだ、「http://goukaku.schoolbus.jp」って。このドメイン、検索すると分かるのだが、早〇田塾講師のブログが同じドメインでヒットする。要するに、「ラ・ショイア」の編集部は新しくドメインを作る事もせず(専用ドメイン作成なんて多少の知識があればできるはずだが)、恐らくフリードメインをそのままパクったのだろう。新しいドメインの説明については「ラ・ショイア」を見れば分かるが、正直こじつけが酷すぎる上に何が言いたいのか分からない。ここまでの顛末で既に胡散臭さ満載である。ここまでで分かるのは、まず「学生主体」をかさに着て専用ドメインを作るための予算も立てず、挙句関係のないサークルのドメインをパクり、そこから怒られた結果フリードメインで「復旧」を謳う乞食根性。さらにフリードメインについてくだらない言い訳のエントリを挙げる厚顔無恥ぶり。ぶっちゃけ新しいサイトを作っておいてこれはないだろう。「総合人文サイト」をテーマに掲げてるが、人文科学を学んでる端くれとしては、「人文」というワードを隠れ蓑にしないでほしいし(ただでさえ人文学のフィールドは縮小傾向にあるのに)、「ふ~ん、人文って便利な言葉だね」などとイヤミの一つでも言いたくなるものである。

 書き口が荒くなってきた。まあ、ドメインの件に関しては百歩譲ろう。俺がキレたのはここではない。「ラ・ショイア」のTwitterに挙げられた「声明文」を読んだとき、俺は絶句したというか、呆れて物も言えなかった。まあ、とりあえず読んでみてほしい。Twitterには画像で文章が発表されているのでコピペが出来ないので、苛立ちながら手打ちすることにする。こんなしょうもない文章に反応している俺も俺だが、こんなズサンな運営体制に乗っかって寄稿したのは俺なのだし、反応する責任もあるだろう。なお、特定のサークル名に関しては伏字で表記する。

〇〇大学〇〇さま 

この度は、U22による総合人文サイト「La Shoire」(ラショイア)において無断で〇〇様のサーバーを使用し、自由奔放かつ創造性と批評性に富んだ記事を掲載してしまい、誠に申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げます。

本稿では、以下に各編集部員よりの謝罪コメントを掲載したうえで、「La Shoire」全体としての本件に関する見解と、今後の対応策について詳細に述べようと思います。まずは各編集部員のコメントを掲載いたしますが、個人情報流出による報復攻撃等を未然に防止するために名前などは伏せてありますが、どうぞご了承ください。

A:そこにサーバーがあったから……、ほんの出来心でした……、大変申し訳ありません

B:姉に勝手に投稿された

C:〇〇の「覆い」を取り払うことにしました。(以下しょうもないので割愛)

D:むしゃくしゃしてやった、何のサーバーでもよかった、今は反省している

などと各々に供述しています。

(以下中略)

まずサーバーを〇〇さまからお借りして無断で使用してしまう形になってしまったことについては編集部内で認識の齟齬が存在していたことを認めねばなりません。このような食い違いからサイト公開までだれ一人としてこのドメインの存在様態の不可思議さについて疑問を呈する人間が現れなかったのです。しかし一方で本当に人間はそのような齟齬無くしてコミュニケーションをすることができるのか?そもそも齟齬が無い状態とは何なのか?私たちは会合の途中でそのような大いなる疑問にぶち当たってしまいました。本当に私たちにとってコミュニケーションが必要のない状態というのはいかなるものなのか。

例えばこれを『新世紀エヴァンゲリヲン』で例えるとこのようになるでしょう。つまり心の壁=ATフィールドがない、人類すべてが溶け合い、人類の相即即入の海のようなものが出来る状態である、と。しかしこんなことは可能なのでしょうか?人と人とが本当の意味でATフィールドを取り払うということは現実的に不可能でしょう。しかし私たちはそれをも超えてコミュニケーションをしようとする。

奇しくも私たちのウェブサイト「La Shoire」のテーマの一つは「覆い」を取り去る、ということです。しかしこれは一種暴力的でさえある。現在の文脈に入れ込むならば人と人との心の壁を取り除こうとするのは、ある人にとっては苦痛でさえあるでしょう。なぜならば人は自分自身という(実体がないかもしれない)なにかを支えにして生きているのですから、それが壊されるというのは恐ろしいことでもあり、しかし同時に他者との何の障壁もないコミュニケーションを取れるという点で人類がまだ体感したことのない快楽にもなり得るでしょう。

したがって私たちは本件を「La Shoire」のプロジェクトにおける暴力性の表れの一つなのである、と解釈することにしました。ですから〇〇の方々がお怒りになられる事情も大変よく理解できますし、それはもっともなことだと思います。しかし一方で言論活動をするということは常にそのような危ういラインを踏んでいるということではないでしょうか?(しょうもないので中略)「La Shoire」としてはそのようなディスコミュニケーションをあえて表に出すということによって真の意味での言論の在り方を考えさせられる一つのきっかけとなりました。

 ……ごめん。もう無理だ。全文載せてやろうと思ったけどあまりにも酷い。酷いというか、文章のあまりのつまらなさと下手さと謝罪先への誠意のなさと寄稿者への失礼ぶりが見ていて耐えられない。エヴァのくだりもアレだが、「自由奔放で創造的かつ批評的な記事を掲載してしまい申し訳ございません」ってなんだよ。なんかぐちゃぐちゃ言ってるが、要するにドメインを無断使用してすいませんでした、で済む話なのである。最初の部分のおふざけ(コレをマジで面白いと思ってやってるんだったら逆にその貧相な感性に感心してしまう)もそうだし、エヴァのくだりも呆れて言葉が出てこない。コミュニケーションがうんたらというか、テメエらがだらしなかっただけだろ。何より俺の腹が立ったのは、これを「ラ・ショイア」に携わった人間の総意のように書いていること。俺だって寄稿者の一員な訳だが、こんな文章を書く人間のもとで俺は3000字の原稿を2本書いたのかと思うと涙がちょちょ切れる。ドメイン無断使用というくだらない案件からよくもここまでつまらない長文を書ける神経の図太さが信じられないし、マセた中学生が書いたみたいな文章でこのしょうもない案件を批評的(笑)に仕立て上げようという魂胆が見え見えなのも痛々しい。身内だけでやってるならまだしも、「総合人文サイト」(もうこの看板も降ろせよ。お前らのやってることは批評でもなんでもないんだし)という枠で外から寄稿者を募っておきながら、トップが取った行動がこれだ。俺はほとほと呆れ果て、俺が執筆予定だった不定期連載も降りた。コレだったらブログで好き勝手に文章を書いていた方がまだマシである。

 俺は人文科学を出来る限りマジメに学んでいるつもりだし、本もそれなりには読んできたが、「批評」という行為が簡単なことではないということぐらいは知っている。明確に当てこすってやろうか。ドン・キホーテ論だのなんだの、「〇〇論」って書けば「批評」になると思ってんのか?小林秀雄蓮實重彦柄谷行人らがどれだけ「批評」という文芸ジャンルに対してナイーヴに向き合ってきたか知ってるか?お前らが思ってるほど「批評」は簡単なことじゃねーんだよ。最近は批評〇生塾とかあるが、アレは本当に最悪だと思う。だって、こんな名前付けといていつだったかのテーマが「〇〇批評宣言を書こう!」だったんだぜ。蓮實のエピゴーネンの三番煎じみたいなのを量産してどうしたいのか分からないし、そもそも「批評」はそういう村社会的な仲良し共同体を破壊することに意義があるんじゃないのかよ。そしてそういうラディカルな視点がない限り、「批評」は死ぬ。それこそ、「ラ・ショイア」のようなタチの悪い(そして低品質な)自称「批評」が蔓延することになる。読み手と書き手の質はお互いに悪くなっていく。

 

 おっと、別に俺の「批評」論を披露する場ではなかった。ともかく、一文章書きの端くれ(と言えたほど俺も大した人間ではないが)としての俺は、文章を書くことが好きだ。自分の考えをまとめてアウトプットすることが好きだ。そういう純粋な書き手の気持ちを、「ラ・ショイア」は見事に踏みにじってくれたと言えよう。ズサンなサイト運営、書き手へのリスペクトの欠如、そして「声明文」の(あまりにもな)クオリティの低さとナルシスティックで傲慢な態度。俺は心から「ラ・ショイア」が自滅することを願っている。それは「人文」と「批評」の持つ意義と尊厳を守ることだ。書きたいならブログで書け。ブログが恥ずかしければチラシの裏にしろ。これは俺の完全なる「ラ・ショイア」へのビーフ(ヒップホップの用語でケンカを売る、の意)だ。どうせこのエントリも無視されるかつまらない「批評」(笑)のダシにされるのだから、別に俺にケンカを売ってこようがこなかろうが構わない。ただ、俺は書き手としての尊厳を侮辱された気分になって大いに腹が立った、それだけである。

 

 ビーフついでに書いてやるよ。Twitterのbioに「勉強家」とか書かない方がいいぞ。イテーから。村社会の批評〇生塾でつまんねードンキ論で何かを「批評」した気になってんだったらマスでもかいてた方がよっぽど「批評的」(笑)なんじゃない?ま、俺は知らねーけど(笑)。