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思考停止

映画、本、音楽、など

今年読んで面白かった本5選

初めに断っておくが、自分はそんなに読書家という訳ではない。どちらかといえば音楽や映画の方が好きだし、何より本を読むという行為には体力と余裕と時間がいる。…というのは読んでない人間の言い訳に過ぎず、いわゆる「本の虫」と言われる人たちというのはそういうのを度外視して(自分が音楽や映画を聴いたり観たりするように)本を読んでいるのだろう。多分。

しかし、まあ個人的には本を読む機会に恵まれた年だった。年間100冊(数字でマウンティングをするのは端的に言ってバカのすることだが)とか読んだわけではないにしろ、面白い本との出会いは多かった。あと偏りなく色々なジャンルの本を乱読できたというのもある。去年は西村賢太ミシェル・ウエルベックばっかり読んでいたので、今年は目についたものだったり、人に貸してもらったものだったり、古本屋で何気なく手に取った一冊だったり、そういうものを読むことによって視野が広がる(広がった気になっているだけかもしれないが)のは率直に良いことだと思いたい。という訳で、10冊も選べるほど読んでいないので、とりあえず5冊。なお順位付けはない。自分がその本を読んでいる過程で色々なことを考えたり、単純に感動したりしたものを適当にピックアップして、一応年度末っぽいまとめということにする。そう、既に今は年度末、年度末なのである…。

 

レイモンド・チャンドラー/清水俊二訳『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))
 

 いわゆるアメリカのハードボイルド小説と言われるジャンルの名作をこんなところで今更取り沙汰するのも気が引けるのだが、村上春樹の新訳も出てることだし、あえて清水訳のチャンドラーを挙げるのも別に不自然ではないだろう。硬質な文体とテクニカルな場面の移り変わりは職人芸だし、サスペンスのお膳立てはまあ予測がつくっちゃつくのだが、作品の美しさを損なうものでは全く無い(そもそもクリスティやカーのような「びっくり芸」をチャンドラーはしたい訳ではないのだし。「びっくり芸」を否定したい訳ではないが)。何よりフィリップ・マーロウという人物像への憧れを抱かない男がいるのかというぐらいにここで描かれるマーロウはカッコいい。ヤクザじみた探偵業をこなし、チンピラをボコボコにし、女を無碍にフるフィリップ・マーロウをときに冷徹な視点で見据えながらも、最後は男達の友情というやや前時代的なテーマに物語を着陸させてしまうチャンドラーは、今風な言い方で言えばポリティカリー・インコレクトなのかもしれない。でも、それがなんだと言うのだ、と言いたくなる力強さと瑞々しさが、この小説には漲っている。というかポリティカリー・コレクトな文学って文学なのかよという気がするのだが。今年出た蓮實重彦『伯爵夫人』だって極めて知的な語りの構造を持った「文学」でありながらも、表象的に依拠するテーマはシモだったり戦争だったりするのだ。『長いお別れ』は、そういう「正しくなさ」をある種のマッチョイズムと少しのリリシズムで、読み手を唸らさずにはいない傑作なのだ。

 

アンドレ・ブルトン狂気の愛』(光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

 

 白水社の『ナジャ・通低器(ブルトン全集1巻)』と迷ったが、こちらにした。ブルトンといえばシュルレアリスムの旗手として有名だが、初期バタイユマンディアルグアラゴンなどと決定的に違うのは、彼が文章を書く上でのテーゼは初期の『シュルレアリスム宣言』や『ナジャ』などから一貫して変わっておらず、それは「タブー」という既成概念の壊乱装置を用いることなしに、詩的言語や彼の豊かな知識によって「言語によるイメージ(非ベルクソン的意味合いでのイマージュと言った方が正しいかもしれない)の変容」を試みたという点だ。全7章からなるこの書物は、1〜6章まではその試行錯誤が行われる。特に第1章では「ベンチに並んだ7,9人の女たち」に「最後に愛した女」の顔を確かに書き手(≒ブルトン)は見るし、3章は「言語によるイメージの変容」が最も分かりやすい形で表れている。4章はこの書物の中核をなす章で、自身の詩である「ひまわり」をブルトンが愛したジャクリーヌとの出会いの予感として、過去時制的に自己解釈する手つきは白眉と言える。だが、『狂気の愛』がなぜ異形であり、この本が「小説」とか「思想書」とか「詩」とくくれず、「書物」と言うしかないのかという理由は、その最終章にある。即ち、ブルトンの娘であるエキュゼット・ド・ノワールに向けて書かれた「手紙」なのだ。ブルトンはその章を、そしてこの小さいながら恐るべき書物を、こう閉じる。「あなたが、狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」と。「愛する」ことについて試行錯誤を重ね、それを記述することに全精力を傾けてきたこの本は、最終章のあまりにしょうもなく、人間臭く、しかし切実な「願い」の告白によって突如終わってしまうのである。立木康介は『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(水声社、2016年)の中でラカンの読解をもとに、この『狂気の愛』のなかで起こるまさに「狂気の愛」は、対象(女たち)をブルトンの記述の中で<物>へと釣り上げることであり、その発想の根源をトルバドゥール的な「宮廷愛」に見出すという卓抜な分析を行っているが、ではなぜ最終章にこの手紙が置かれねばならなかったのか。なぜブルトンはこの本を『ナジャ』の挑戦的な変奏曲として締めくくることを許さなかったのか。その点については、少なくとも立木が述べる上でのラカンブルトン解釈は突っ込んでいない。自分は、やはりこの本が「狂気の愛」たり得ている所以は、まさにその愛についての詩的、文献的考察を経た上で「手紙」へと愛のエクリチュールが脱臼してしまう、その逸脱のプロセスにあると思うのだ。だからこそ『狂気の愛』は切実な「書物」となっているのだし、その点を踏まえてより深く読まれる必要があるとさえ思う。順位はつけないと言ったが、自分にとって2016年を代表する本を一冊挙げろ、と言われたら間違いなくこれにするだろうというレベルで面白かった一冊。

 

福永武彦『愛の試み愛の終り』(人文書院

愛の試み愛の終り (1958年)

愛の試み愛の終り (1958年)

 

 近代日本文学は太宰や三島、漱石など数え上げるまでもなくスターが目白押しであり、また私小説の分野でも梶井や中島など凄まじい筆力で自らの人生の軌跡を絞り出したような面々が勢揃いしている。その中で言うと、福永は少し分が悪いかもしれない。何せそんなに多くの小説を書いている訳ではないし、その筆の運びに上に書いたような人々の、ある種切羽詰まったような大文字の「文学」の息苦しさがあまり見られないような作家ではある。が、彼ほど愛についてリリシスティックな筆致で述べることのできる文学者、あるいは小説家はいないのではないかとさえ思う。自我について書くときでさえ、福永は抒情を忘れない。『草の花』における主人公、汐見茂思のモノローグは、そのテーマだけ見れば生臭く、自我と愛(自己撞着的な愛)について葛藤しているという意味でエキセントリックになってしまうかもしれないが、福永はそれを「主人公の遺書のノート」という形で語りを二重化した挙げ句、男と女の両方を愛して「しまう」という対象の二重化を行うことによって、ギリギリの線でリリシズムに留まる。それはロマンティシズムでもアルカイズムでもない。この本は、そのような形で物語を書いてきた福永の思想を述べたもので、自分の小説のネタバラしみたいな部分もある。ともかく福永は、愛は孤独なものだ、と繰り返す。互いが互いを浸食することは、愛ではない。孤独な魂が、出来るだけそのままに寄り添い合うことが愛なのだ、と。その静謐だが情感に満ちた愛の讃歌は、どこか上述のブルトンを思わせないでもない(これは余談だが、粟津則雄が福永にブルトン全集を献本していたという事実は見逃せないだろう)。「愛は決して終らないだらう」と、ある部分で福永は言う。「だらう」とあえて言い切らないところに、福永の抒情がある。しかし、「決して」なのだ。このことあらわしにこそ、福永武彦という人間が愛にどう向き合ってきたか、即ちそれは常に予感されながらも(疑いと言ってもいいかもしれない)、「決して終らない」と言いたいという願いが表れていると言ったら、言い過ぎだろうか。現在は『愛の試み』だけが抜粋されて文庫化されているが、人文書院のこの版は末尾に愛についての短編が収録されている。福永の思想の文学的実践を辿るにはもってこいだし、この短編があることによってより彼の思想の理解が深まる。まとめて文庫化されるべき一冊だと思う。

 

金森修バシュラール 科学と詩』(講談社現代新書

 

バシュラール―科学と詩 (現代思想の冒険者たち)

バシュラール―科学と詩 (現代思想の冒険者たち)

 

 フランスの哲学というと、やはり今でもいわゆる「現代思想四天王」が幅を利かせている。即ちフーコードゥルーズデリダラカンの四人(今勝手に命名した)だが、どちらかというと自分はそれ以前のフランス思想史に惹かれる。デカルトはとりあえず置いておくとして、例えばドゥニ・ディドロの思想は18世紀という時代において少し拾い読みするだけでも明らかに異形かつ横断的だし、この本でも紹介されるオーギュスト・コントや、さらにはその後に出てくる(そして11月〜12月にかけて死ぬほど読み込んだ)アンリ・ベルクソンという巨人なしには、上に挙げたようないわゆる「ポスト構造主義」の人々はなかったし、彼らの思想は概観するだけでも(というか今は概観しか出来ていないが)面白い。そして、その丁度中間地点において、ある種奇形的とさえ言えるような思想を形成したのがガストン・バシュラールという科学哲学者である。金森の良いところは、バシュラールを専門にしていながらも肩入れし過ぎておらず、例えばあまり有名ではないこの思想家の唯一著名な(とはいえ哲学を少し齧っていないと名前も聞かないだろうが)「<現象学的転回>による詩学」(例えば『空間の詩学』)という晩年の試みははっきりと「失敗している」と言っているところだ。金森が自分は少なからず科学史家・科学哲学者である、という自分のポジショニングを明確にしてもいるのも好感度アップだ。バシュラールに話を限ることなく押さえておくべき(というかフランスの科学哲学史を少しでもやる上で)なのは、いわゆるカントに端を発するドイツ観念論における「認識論」とフランス科学哲学の分野において用いられる「認識論(エピステモロジー)」は全く違うということだ。エピステモロジーは(バシュラールが距離を取りながらも親近的な概念とした)数学的実在論に根ざしており、これは「現象学」というタームにおいても同じことが言える。バシュラールは、現象ないし存在を反実在(実存ではない)と位置づけ、その反実在から我々の「物質的想像力」というものが喚起される、と説いた(らしい)。それがもっともよく表れているのは『水と夢』とのことなので、年明けには読みたい。また、『瞬間と持続』というベルクソン的な表題の論考で思いっきしベルクソンを叩いているというのも興味深い。なんだかんだ一番がっつりこの一年で勉強したのはどういう巡り合わせかベルクソンだったので、ベルクソンに軸を取りつつバシュラールも勉強していければいいなと思う。唯物論的観点もあるのでディドロも読みたい。心配なのは弊学にフランスの科学哲学を専門としている人がいないことである…(分析哲学の教授につくしかない気がする)。

 

・三秋縋『恋する寄生虫』(メディアワークス文庫

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

 

 最後にこういう本を持ってきて「僕は文学も哲学も読むけどこういうの読むんでっせ、サブカルにも理解あるやろゲッヘッへ」という真似をしたいのではない。そもそも自分の初めての読書経験は『涼宮ハルヒの憂鬱』だし小学生のときは西尾維新を狂ったように読んでいたので全く不自然ではないのである。まあオタクということなのですが。三秋の文体は読みやすいが、ラノベにありがちな一人称視点による口語のイヤな感じはなく、三人称視点を取ることによって語りの美しさを損なわずに済んでいる。ラノベを真面目に考察するようなのは他の人がやっていると思うので改めて真面目にこの本を考察しようとは思わないが、この三秋縋という筆者が生半可な知識や薄い教養で本を書いているのではないということは切実に伝わってくる。寄生虫が宿り主に恋を「させる」と思わせておいて実は、とか、寄生虫がいるかどうかは恋をするということに関係するのかとかといった部分は寄生虫についてのリサーチもさることながら、何やらワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』における「媚薬」の役割をこの作品では「寄生虫」が担わされているかのように見えることで、そのような「厚み」があるからこそ、重くはない文体によって、しかし軽薄になることなくまとめあげた物語だと思った。

 

5冊取り上げるだけでも結構な量になったしもう大晦日になってしまった。他に迷った本としてはアンナ・カヴァン『氷』、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』、谷川俊太郎『私』、ヴィルヘルム・イェンゼン/ジークムント・フロイト『グラディーヴァ/妄想と夢』、などがある。来年はもっと本を読みたい、というか読みさしの本が何冊も積み上がっていて、手のつけようがない状態なのである…(勢いで買った筑摩の世界文学体系のマラルメランボーヴェルレーヌ選集とか読み切ろうという気すらないし)。恐らく今年の読み納めは立木の『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』の終章を読み切っておしまいだろう。明日(というか今日)はできればFate/GOの7章クリアに時間を当てて大晦日TVスペシャルに備えたいのですが…(オタク)。

何はともあれ、皆様におかれましては、よいお年を。