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思考停止

映画、本、音楽、など

アンリ・ベルクソン『時間と自由』第一章についての覚え書き

 エクスキューズもなしにいきなりベルクソンの話を始めるのも気が引けるので、とりあえず簡単な前置きをしよう。自分は哲学批評研究会というサークルに所属していて、なんというか適宜哲学書を選んで輪読して解釈する読書会サークルなのだが、そこでは今ベルクソンの『時間と自由』(中村文郎訳、岩波文庫、2003年)を扱っている(白水社から出ている竹内訳の『意識に直接与えられたものについての試論』もあるが、この訳の評判が高いのと文庫なので手に入りやすいという理由でこの版を使っている)。同じ著者の『物質と記憶』ほどには難物ではないものの、彼独特の言い回しがあるのでそこに慣れるのになかなか苦労したが、ハマるとこれが存外にメチャクチャ面白いのだ。で、自分の担当範囲は第一章「心理的諸状態の強さについて」の後半部分で、レジュメを作っているうちにある疑問が残った。その手だてのようなものがなんとなく、極めてなんとなくではあるが見えてきたような気がするので、備忘的に書いておきたい。レジュメにもまとめる予定だ。多分前日に急いで作る予感がするのだが…。

 

 第二章まで行っていない(まあ勝手に読み進めてはいるのだが)のだが、副読本などで参照した『時間と自由』における問題意識を超簡単に要約すると、ベルクソンが言うにはモノ(ここで言うモノとは世界-それは観念や「心的事象」も含む-において起こる事実総体を指す)には「量la quantité」と「質la qualité」の問題があり、それの取り違えによって自然科学と哲学はひとつの誤謬を起こしている。で、とりあえずはそれを丁寧に取り分けた後、取り分けた結果「何かよくわからんもの」が残る。その「よくわからんもの」がベルクソン哲学において極めて重要な鍵語である「純粋持続」という概念なのだが、とりあえずそれは放っておくことにする。

 一章において重要なのは、「量」と「質」の区別だ。ベルクソンにおける「量」の概念はとりあえずはっきり示されていて、

量というものはそのこと自体からまさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっているものだということになる。(p.14.以下特別な注釈を設けない限り引用は全て岩波の中村訳からの引用とする)

 つまり、あんまり難しいことを考える必要はなく、要するに「測定可能(分割しうる)」であるモノが量的である、とベルクソンは言う。これに対して「質」の問題は何度も何度もベルクソンが繰り返し説明しているのだがうまい引用部分が見つからないのでこちらもまとめると、質は測定できず、分割可能な連続性を持つ量に対して質は「純粋な異質性」(p.126)であり、それは差異を持って増減するのではなく「移行passage」するものである。すげえ簡単に言うと、量は数えられるけど、質は数えらんねえよ、だって差異があるかも分からんし数の間隔があるかも分からんからな、ということである。

 しかし、そこに当たって前回の読書会で議論になった部分がある。二つのセンテンスを引用しよう。

(…)しかし、これらの感情の強さは、表面のものであれ深いものであれ、激しいものであれ反省されたものであれ、意識がそこに見分ける単純な諸状態の数の多さから常に成り立つのである。(p.45) 

 ここでまた一つ留保をしておくと、ベルクソンが使用する「強さ」という概念は質についてしか用いず、対して量については「大きさ」という概念で表現する。ここで「ん?」と読書会のメンバーがなったのは、「強さ」と「数の多さ」という矛盾である。質に対してしか用いられない「強さ」の概念に「数」を当てはめてよいのだろうか…?という疑問に、我々は頭をひねった(そして結論は得られなかった)。

 さらにもう一つ見てみよう。

(…)強さと呼ばれるのは、根底的状態の内部に見分けられる単純な心的諸事実の多様性(多い少ないの違いはあれ)であるが、これはもはや後天的知覚といったものではなく、混雑した知覚である。(p.90) 

 後半部分は無視してほしい(確かに知覚の問題に関してはカントを引き合いに出して二章以降で云々しているのだが)。ここで問題にしたいのは、「単純な諸状態の数の多さ」と「単純な心的諸事実の多様性」の問題で、いずれも意識la conscienceが問題になっているのにも関わらず、「数の多さ」と「多様性」という形で訳し分けられている点である。後者の場合、それが「多様」な性質を持つということであるから、「なんかよく分からんけどいっぱいある」というイメージは質の非連続的なあり方と一致する。対して「数の多さ」は納得が行かない。質は差異を持って増減するのでなく、移行し変容するものであるから「数」という概念そのものをここに持ってくるのはアヤしいのだ(事実、第二章の冒頭で数と空間性についての議論は行われているものの、それらは純粋持続と空間を持った持続の区別の前提となる議論であるため、ここでその議論を持ち出すことはできない)。また、上で多少触れた白水社の『試論』(竹内信夫訳、2010年)においても前者が「多様性」、後者が「多様体」と訳されている。

 となるならばもうベルクソン自身が書いたエクリチュールを辿るよりないため、わざわざ地下の図書館で本書の原版(中村も底本に用いたPUF-Presses Universitaires de France版の1958年に出版されたもの)を用いて検討することにした。はっきり言ってこれの原書(Essai sur les données immédiates de la conscience-以下Edicと略)は劣化が酷く、日に焼けてるわ紙はパリパリでめくる度に破けるわでベルクソンに大変申し訳ない気持ちになったのだが、まあそれは置いておこう。問題はベルクソンが上で訳されている質に関しての「多」の問題で語を使い分けているかというと、実は使い分けておらず、multiplicitéで完全に統一されているのである。とするともうこれはmultiplicitéの問題ではなく、日本語で言うと助詞で繋がれているそれ以前の用語の問題になってくるだろう。

 一つずつ検討してみる。まず前者のセンテンスから。

 単純な諸状態の数の多さ(p.45)

la multiplicité des états simples que la conscience(Edic,出典失念)

 出典がなくなると一気に信憑性がなくなるなと書いてて思った。すいません。明日また再検討します(「激しい情動」のラストの方だったので多分p.20のあたりな気がするのだが…メモっておくべきだった…)。さらにもう一個。

単純な心的諸事実の多様性(p.90)

(la) multiplicité de faits phychiques simples(Edic,出典失念)

 「出典失念」の文字を書く度に申し訳なさで書くのをやめたくなるがここはレポートではなくブログなのでどうかご寛恕願いたい。絶対に確認して追記してやるからな。あと、名詞であるはずのmultiplicitéにメモだと冠詞が抜け落ちていたのでとりあえず補ったという意味で(la)とした。 

 問題なのは、de(des)-ドイツ語におけるvonや英語におけるofに当たる-の後ろにある言葉の違いである。即ち、états(諸状態)とfaits(諸事実)の問題であるが、ここがどうしても分からなかった。étatsfaitsの違いについては「感情的感覚」以降のセグメントでは具体的に説明されない上に、最終セグメントの「強さと多様性」に至ってはセグメントの名前になっているにも関わらず具体的な説明がなされない。しかしベルクソンの最も重要な概念である「純粋持続durée pure」に質的変容の問題は大きく関わってくるため、なんとしてもここは解決できないにせよ糸口を見出したい。

 すると、意外なところを細かく読むと、何気なくその端緒が書いてある。岩波版で言うところのp.18から始まる「深い感情Les Sentiments Profonds」、Edic版で言うところのp.6以降に当たる。そもそも、faitsについての言及はEdicにおいてp.7から始まるが、étatsについて述べる箇所はそれ以前にあって然るべきというか、読み手からするとそうあってほしいところではある(ベルクソンは最初にこれ違う、あれ違う、これが正解っぽいかも、でも断定できない、みたいな書き方をする人なので一概には言えないのだが)。そもそも一章の題名がDe l'intensite des états psychologiquesなのだし。ベルクソンは以下のように述べる。

(…)意識の深いところに降りていけばいくほど、心的諸事実を事物の並列として扱うわけにはいかないのである。/(中略)そのイメージが無数の知覚やイメージのニュアンスを変形してしまったということ、(中略)知覚や思い出のなかに(イメージが-括弧内引用者による-)浸透してしまっているのだ。(p.20) 

C'est que, plus on descend dans les profondeurs de la conscience, moins on a le droit de traiter les faits psychologiques comme des chose qui se juixtaposent./…on doit simplement entendre par là que son image a modifié la nuance de mille perceptions ou souvenirs, et qu'en ce sens elle les pénetrè…(Edic,p.6~7)

 フランス語キーボード打ちづれえなブチ殺すぞ以外の感想がない。まあともかくベルクソンがここで言っているのは、決してfaitsを事物の並列des chose qui se juixtaposentとしては扱ってはいけないものとして位置づけている、つまりfaitsにおけるmultiplicitéを「多様性」と訳すこと(ないし「多様体」)には何の問題もないのである。さらに言えば、それらのイメージは知覚や思い出(souvenirをあえて「思い出」と訳す所に中村の執念を感じる)に「浸透pénetrè」するのであるから、変容する「何か」であるところの質的問題に「心的諸事実(la) multiplicité de faits phychiques simples」は合致するのだと言える。

 とするならば、étatsの問題はどうすればよいのだろう?ここから先はあくまでも仮説でしかないが、「浸透pénetrè」に着目して読み込むのであれば、次のセンテンスに目が止まるだろう。

(おそらくは心的諸事実が)より大きな数の心的要素のうちに浸透しはじめ(…)(p.19)

 ここにおいて言われている「心的要素d'éléments psychiques」とは何だろうか?これは「光の感覚」(p.66)においてベルクソンが指摘したデルブーフの著作であるEleménts de psychophysiqueに似た言い回しが認められるものの、あくまで「psychiques(心的)」であり「psychophysique(精神物理学)」ではないことは一目瞭然である。多分だが、ベルクソンが用いる、「大きな数」の知覚や思い出を変形させられ、またやがて「浸透」していくものとしての「心的要素」が、限りなくétatsに近いのではないか。とするならば、faitsétatsmultiplicitéについての議論も納得がいく。「無数」の、しかし数としてあるétatsの集合体がやがて「意識の深いところ」に降りていき、それらが知覚や思い出に浸透することによってfaitsへと変容していく、それこそが「質的変容」であり、このプロセスが彼の本丸である「純粋持続」の概念へと接続されていくような気がする(実際、p.121〜126の「等質的時間と具体的持続」のセグメントにおいては、その「浸透」に加えて時間の概念が投げかけられ、空間がそれに対して×の捉え方をされる。ベルクソンの「空間」は我々が使うところの「空間」とは若干違う意味を持つので、より細かい読みが必要なのだが…)。

 

というわけで、講義中ずっと『時間と自由』を読んでいたら思いついたことをつらつらと書いてみた。自分にフランス語の知見は一切ないので文法制やアクサンテギュに間違いがあれば指摘してほしいし重大な誤謬を犯している危険性もある。が、ある一つのセンテンスに対してあくまでもテクストに乗っ取って這いずり回るように読むことの快楽は何にも代え難いし、ベルクソンはその意味で最高度の快楽を提供してくれる哲学者だ。という訳で、皆さん哲批研に入ろう!ランシエールの読書会してんじゃ!(泣)(もちろんランシエール以外でも可!)