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思考停止

映画、本、音楽、など

『ライク・サムワン・イン・ラブ』、あるいは愛の予感

アッバス・キアロスタミという映画監督の名前は知っていたけれど、その映画は観たことがなかった。音楽も映画も文章で興味が沸くタイプの人間なので、キアロスタミへのまとまった言及にもあまり触れてこなかったというのもある。去る7月に逝去し、追悼特集が組まれたということだったのでまあ不謹慎だとは思いながらもまとめて観れる機会だと思ってユーロスペースに足を運んで『ライク・サムワン・イン・ラブ』と『シーリーン』を観た。

 

ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)は端的に要約すれば「引退した84歳の大学教授(奥野匡)が風俗で初めて女(高梨臨)を買って調子に乗るものの嬢の彼氏(加瀬亮)にカチこまれる」という話で、後味もよくはない。ミヒャエル・ハネケの作品もそうなのだが人と人とのコミュニケーションの間に横たわるイヤな瞬間とか気まずい瞬間とかを切り取るのがキアロスタミは異常にうまくて、上映中何度も勘弁してくれと思ったし、特に主人公のタカシというジジイがチンピラじみた嬢の彼氏に彼女のおじいさんだと思われてウソをつくシーンの白々しさは本当にキツい。あと一番しんどかったのは嬢はさっさとセックスを済ませて寝たいのにタカシが必死にワインやスープでもてなそうとするところ。一生懸命若い女の機嫌を取ろうとしているジジイのむずがゆさが乾いた長回しと抑揚のない台詞回し(小津っぽいなー、と思って観ていて後で調べたら小津のドキュメンタリーを撮っていたりしたので、そういうことかとなった)が遅効的にコミュニケーションの上滑りによる不快感を演出していた。そこで流れるのがエラ・フィッツジェラルドの「Like Someone in Love」で、陶酔的なフィッツジェラルドの声とは裏腹にどこまでもドラスティックなキャメラの動き、という相反する音と画面の効果はハネケには見られないし、逆に言えばハネケにはこういうひからびたロマンティシズムみたいなものはないなとも思った(『愛、アムール』はロマンティックな映画だったけれども、あの映画には痛いくらいの真摯さがあったし、キアロスタミのこの映画のような老いてなおセックスしたがることの皮相さがハネケにおいては生きることの肯定のように、間接的にではあるが切実なものとして描かれていた)。

そういうわけで上映中はひたすらしんどくて、下手するとすさまじい暴力描写とかよりもそういう「コミュニケーションの上滑り」がもたらす不快感に耐え切れず映画としてのクオリティを認めながらも陶酔しきれずに終わったのだが、いざ終わってみると妙に心に残るシーンが多いことに気づく。例えばタカシの隣に住む世話焼きのおばさんが彼に恋をしていた話を窓から語るシーンとか、東京に来た嬢のおばあちゃんからの留守電を流しながら(嬢はおばあちゃんを無視しまくっている)新宿のネオンをタクシーの窓から眺めるシーンの高梨の横顔の美しさとか、他のシーンが酷薄すぎるが故に間歇的に挿入されるシークエンスが、不思議なほどファンタジックに思える。口に入れてる間は苦いんだけど、後味にかすかに甘みが残るような飲み物を嚥下する感覚とでも言えばよいだろうか。愛は成就せず、ただそれを予感し続けるよりないのだというテーマを老いぼれが風俗嬢を買うという身も蓋もないプロットで行うことの生臭さを引き受け、それを生臭いものとして提示しながらも、どこか幻想的にそれを語ってしまう手法がこのキアロスタミという監督なのかもしれないと思った。「84歳、かりそめの恋を夢みた」というこの映画のキャッチコピーはいささかキレイに過ぎるけれども、映画によって愛を予感し、そのバカバカしさと痛々しさと、しかし後味に残る奇妙なときめきを巧み過ぎるほどに切り取ったという意味で、『ライク・サムワン・イン・ラブ』は忘れ難い映画となっている。本当は文章を書くつもりもなかったのだが、この映画を思い出すと何故か落ち着かない気分にさせられるし、実際今も心のどこかが熱いような、おかしな気持ちになってしまっているのである…。


映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編