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思考停止

映画、本、音楽、など

庵野英明/樋口真嗣『シン・ゴジラ』(2016) 感想文


『シン・ゴジラ』予告2

TOHOシネマズ渋谷に『シン・ゴジラ』を観に行ってきました。僕はろくろく封切り直後のロードショーを観に行くことがなく、いや厳密に言えばあるのですが直近で封切り直後に観に行った映画館はイメージフォーラムという全方位的にサブカルクソ野郎と断定されても仕方がないようなところに行っているので、シネコンに封切り新作を観に行くのは実に今年の3月に観に行ったクエンティン・タランティーノヘイトフル・エイト』以来の営みということになります。ちなみにTOHOシネマズ渋谷は2年半前のHKT48のライブビューイングぶりですから(まあバイト面接に行って落とされたのは半年前ですが…)、なんかもう映画が好きとか言わない方が良い気がしてきました。

 

何故シネコンにあまり行かない僕が『シン・ゴジラ』を観ようという気になったのかというと、まず僕はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のファンだからです。テレビ版、旧劇、新劇はもちろん全部観ましたしサントラも買いましたし、何故か家に式波・アスカ・ラングレーのフィギュアもあります(一番くじで当たった、綾波派なのに)。普段アニメとかあんまり観ないのですが、エヴァンゲリオンだけは割とちゃんと観ていたと思います。『シン・ゴジラ』の実質的な監督である庵野秀明は『エヴァンゲリオン』の製作総指揮でもあり、興味をそそられました。

 

もう一つは口コミです。『エヴァンゲリオン』が東宝最後の黄金時代(1960年代)を支えた映画監督・岡本喜八の影響を色濃く受けている(極太明朝体によるテロップのカット・イン前に数フレームの間隔を空けるのは岡本の影響だと言われています)という指摘は『シン・ゴジラ』以前からありましたが、そういったいささか露悪的に言えばシネフィル的な物言いの中に『シン・ゴジラ』は岡本喜八というよりも増村保造的だというものがありました。増村保造は個人的に非常に思い入れが強い監督で大好きな監督なので、昔の日本映画のレトロスペクティヴな要素をいずれにせよ強く持つ映画であるならば、これは見逃したくはないと思った次第です。

 

 

初めにエクスキューズしておきたいのですが、僕は岡本喜八も観ていなければ本多猪四郎も観ていません。なので、『シン・ゴジラ』を観た多くのシネフィル(要するに気持ち悪いオタク)が言うような会議シーンにおけるキャメラの位置であるとか、冒頭の「東宝映画製作」テロップがブルーバックに表示されるとかといったような部分を指摘してどうの、というようなオタクっぽい高度な遊びはできません。

 

しかし、やはり庵野秀明が作った作品だなというか、『エヴァンゲリオン』もそうなのですが彼の作品は常に言説への強烈な引力があります。平たく言えば、観た者に何か批評、分析、あるいは深読みを言わせずにはおかない奇妙な磁場のようなものが発生しているということです。そして言うまでもなく、我々の言葉というものは常に映画に対して敗北するわけですし、さらに言えば庵野秀明のレトリックは「何かを言っているようで何も言っていないかもしれない(が何かを言っているのかもしれない)」という、彼の膨大すぎるオタク的知識の「ひけらかし」の記号が作品中に過剰に表象されるために、いくらでも(誰でも)そこに恣意的なアナロジーを無限後退的に読み取り得てしまうという罠があります。さらにたちが悪いことに、その読み取った(というより勝手に意味付けた)不確実なアナロジーを誰かに語りたくなってしまうという庵野作品の語りの誘惑から逃れることは、オタクであればあるほど困難でしょう。事実、僕もこうして庵野の思惑通り『シン・ゴジラ』にいっちょ噛みしてしまっている以上、所詮はウルトラ・オタクである庵野の術中にハマったしがないオタクに過ぎないのですが…。

 

同じ映画オタクの作った映画であっても、例えばクエンティン・タランティーノ等が作ったそれと明確に違うのは、そのオタク的修辞が作り手自身の強烈な自意識と結びついているという点です。タランティーノが自らの映画の中で香港映画やマカロニ・ウエスタンをオマージュするとき、それらは彼の映画を駆動させる「装置」に変換されます。そして、卓越した映像と音響センスによりその「装置」を映画内に導入せしめた際に起こる彼自身のオタクの体臭を見事に脱臭します。タランティーノは、あくまでも自らの映画をよりスタイリッシュにするためにオマージュを補助線として用いているに過ぎません。対して庵野は、そもそも『シン・ゴジラ』というコンセプトそのものがノスタルジックで倒錯的である上に、そこにおいて行う手法はパロディと呼ぶにはあまりにも泥臭く、あまりにも「元ネタ」に対して歪んだ愛情を発露し過ぎています。彼が現行の東宝の配給会社ロゴ映像の後にもう一度60年代に使われていたカラー初期のロゴ映像をわざわざ映し出したり、また最後のスタッフロール後にわざとらしい書体で「終」のテロップを表示したりする際の極めてマニエリスティックな意匠にとどまらず、僕が岡本喜八を未だ観れていないという映画的記憶の欠損(蓮實重彦風の言い回し)が欠損であるという事実を思い知らせるようなシークエンスが何度も登場します。タランティーノは、元ネタを知らない観客が観たとしても、それとは分からないようなスマートさで元ネタを処理しているので、それはオマージュと言えるでしょう。対して庵野の異常なまでの細部執着とある意味スノッブな元ネタの発露は、映画全体を大きく歪めています。それはオマージュやパロディというよりも、硬直したパスティーシュであるような気がします。「ゴジラ」をリビルドするという、それ自体が極めて倒錯的な行為であると同時に、「ゴジラ」に直接は関わっていなかったであろう岡本喜八本多猪四郎に師事していたという事実はあるようですが)への敬意というにはあまりにいびつな愛情をその中で表現する庵野は、それ自体としてやはり硬直したパスティーシュ、と表現するのがもっとも適切なのではないでしょうか。

 

 

ただ、だから『シン・ゴジラ』はダメだ、と僕が言いたいのかというと、全くそういう訳ではありません。ただし、その(ネット上で見る限りにおいての)褒められ方に対して若干の違和感があるので、それらに対する一つの反論、ないしは僕なりの『シン・ゴジラ』定義をしたいと思っています。

これは、完全なるオタクの、オタクによる、オタクのための映画であり、その意味において異常なまでの完成度を保っていると言えます。僕もオタクの端くれという自負はあるので、観ていて興奮するシーンはたくさんありました。ネット上にあった増村保造的という指摘は極めて鋭いというか、言いたかったことを言われてしまったなという感じがします。増村保造は当時映画にあっても一般的だった女性ジェンダーがあらかじめ持つ構造的な弱さを逆手に取って、女性が情念において男性を押しつぶすというような作風が持ち味の映画監督ですが、その一方で群像劇にも秀でていました。『青空娘』(1957)や『最高殊勲夫人』(1959)に代表されるように、増村の群像劇は喜劇であることが多い訳ですが、彼の群像劇の特徴として登場人物の心理描写を極力排し、絶えず誰かが誰かに向かって喋りまくることによって人物間の構図や関係、つまりシチュエーションを外側から形作っていくというような点が挙げられます。登場人物が少ない映画では過剰なほどにエモーショナルになる増村の人物像ですが、群像劇における増村の人物像は、その結果どうしても深彫りされません。彼らはひたすら喋り、動くことによってしかキャメラに切り取られないのですから、立ち止まって思考したり愛し合ったりということができないのです。

 

翻って、群像劇である『シン・ゴジラ』にも全く同じことが起きています。この映画の登場人物は、常に早口で喋りまくります。執拗にカットは切り返され、喋りの文字数は加速度的に増えます。そうなると自然とそれぞれの人物やそれぞれの発言の意味性はカットや文字数の多さに反比例して減じていき、結果的にシチュエーションが心理描写といった内省的な要素でなく、人物の動きから構造的に形作られるという様相を呈します。そして、現在の映画が往々にして情緒過多であると言われがち(あえて「言われがち」という表現を使ったのは僕がそういう映画を観ていないからです)である以上、この手法はひとつのカウンターパートとして大きな説得力を持つことには何の疑問もありません。また、過度な説明がなされずにひたすら人物がゴジラに向かって「動き続ける」ということが一定のエモーショナルな説得力を持つことは、前のエントリで拙いながら論じたので、あえて繰り返す必要もないかと思います。

 

 

一方で、この映画の動因は「ゴジラを倒す」こと、それのみです。いや、「倒す」ことさえ庵野には蛇足であるかのようにも思われます。巨大というより時代錯誤的にまで仰々しく拡大されたバロック音楽調のBGMに乗せてゴジラが夜の東京を灼き尽くすシーンの暴力性は正直ひとたまりもないというか、スペース・オペラものにおける戦闘シーンなんかよりも遥かに恐ろしく、実感に迫ってくる恐怖と無力感がありました。このリアルな無力感が恐らく特撮ファンにとってはたまらない部分なんだろうなと思いますし、『巨神兵東京に現る』(2012)は完全にこの『シン・ゴジラ』のプロトタイプだったんだなと納得も行きました(事実『巨神兵』で見たショットが何度か出てきたので)。

 

逆に言えば、それ以外で庵野が言いたいことは、多分、ありません。恋愛要素がそこでいらないのは当たり前なのですが、人間を描く映画ではない以上、それ以外の心理描写も必要ありません。この点が増村と決定的に違う点です。増村の群像劇が結果的に人間を描くことに主題が収斂していくために、映画の動因はある決定的なショットの反復になります。あるショットが起点として物語が発生し、そのショットが反復された際に、起点として示されるショットと反復されたショットで全く意味が異なる(反復されることによってあるショットが違った意味を持つ)という事態そのものに向かって映画はうねります。注意すべきは、ひとつの感情を描くために物語が生起するのではないということです。そもそも、ある感情を描く為に表層が要請された際に、その表層もろとも描かれる感情が陳腐になってしまうことは表層の性質上自明ですから(前エントリ参照)、そのような陳腐さに堕することはまず増村はありません。

 

その意味で言えば、『シン・ゴジラ』には描くべき感情はもちろんなければ、人間のさまざまな相を映し出そうという魂胆さえもないと来ています。描くのはただ「ゴジラ」だけであり、それを物語にするために、しょうがなく、「ゴジラを倒す」ことを動因としています。その動因に上に挙げたような「心理描写を排することによってシチュエーションを構造化する」という手法を組み合わせると、人物像は極めて戯画化され、複雑な相を持った人間像は立ち現れません。そうなると、悪人か善人か、というようなアホみたいな二項対立が出現してしまいます。そしてこの映画における「悪」はゴジラだけなので、登場する人間は全員めちゃくちゃ善人みたいな事態を免れないのですが、実際そうなっています。そしてそれが行き過ぎた結果、ド級のプロパガンダ映画に(恐らく図らずも)なっているというのが、この映画のもう一つのいびつさです。プロパガンダ映画にしようとしている訳ではないのは、長谷川博巳がヤシオリ作戦に向けて自衛隊員を鼓舞するシーンのヒロイズムに観客を純粋に没入させるだけのいかなるプロパガンダ的強度もそこにはないという事実で自明でしょう。

 

これは、かのポール・ヴァーホーヴェン監督が『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)において見せたいびつさと全く同種のもののように思えます。ヴァーホーヴェンはハリウッド的方法論のストーリーテリングを用いつつもときには悪趣味とまで形容される容赦のない暴力描写で有名な監督ですが、『スターシップ・トゥルーパーズ』は彼のフィルモグラフィの中でも残虐度トップクラスの暴力描写を誇ると言われています。軍隊の訓練中の実弾誤射でわざわざ吹っ飛ばされた脳味噌を丹念に映す必要はありませんし、モンスターの人間捕食シーンも四肢が引きちぎられて骨や筋がバッチリ見える物語的必然性もどこにもありません。ヴァーホーヴェンのこの映画における動因はただ一つで、「モンスターによる人体破壊」しかありません。効果的にモンスターを動かしてよりグロテスクな人体破壊をしたいというシンプルな欲求によって、この映画は人体破壊映画としての非常に強い強度を獲得しています。しかし、人物描写はチープであり、また国防軍対モンスターという構図を取っている以上、もっともそこにおいて「とりあえずの」物語性の付与に貢献しうるのは、やはりプロパガンダでしかないという事実を『スターシップ・トゥルーパーズ』は示しています。その点を履き違えると、その「とりあえずの」プロパガンダに呑まれてしまう危険性は、扱っている団体が一応実際のものであり、かつナショナリズムと密接に結びついている『シン・ゴジラ』の方が高いのではないでしょうか。物語が単純であるだけに、また「ゴジラ」という存在がどこまでも空洞でありながら記号性の高い存在であるだけに、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりも『シン・ゴジラ』がプロパガンダとアナロジーについての言説を誘引しうることは、容易に考え得ることです。

オタクが自分の部屋で自分の好きなフィギュアである「ゴジラ」をひたすら愛でる、こういってよければものすごく熱烈なマスターベーションの結実が『シン・ゴジラ』なのだと思います。そのマスターベーションは、ああ確かにマスカキだけど、でもなんかめちゃめちゃすげえマスカキだ、と受け取るべきなのでしょう。しかし、そこに意味やアナロジーを読み出すことは、やはりどうしたって徒労にしか思えないのです。ものすごく一生懸命なマスターベーションは、ものすごく一生懸命なことに感動するのであって、マスターベーションすることに意味がある訳ではありません。きっと庵野は、シコりたかったからシコった、撮りたかったから撮った、ただそれだけなのだと。