思考停止

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新海誠『君の名は。』(2016) 感想文

Tumblrのパスワードを忘れてアカウントが死んだ(知能指数5)ので、はてなで長文を書くことにしました。誰が読むかも知らないのですが。

 

君の名は。』が、あたかも世間の一般論としてデート・ムービーであるかのように言及されるのは、なんとも違和感があります。いや、どんな映画をデート・ムービーにしようと個人的に知ったことではないのですが(もしかしたらミヒャエル・ハネケの映画をデート・ムービーにするカップルもいるかもしれないし)、新海誠がこの映画で提示したメジャーストリームと作家性の葛藤は、結果的にファミリー・ムービー的な暖かみをやや自己矛盾的にではありつつも結実させた作品であるように思うからです。

 

全体を通して、新海はこの作品において『秒速5センチメートル』(2007)のような振り切れた「男の惨めさ」を徹頭徹尾排除します。というより、彼の持ち味の一つであるアニメで行われるにはあまりにも内省的で湿った情感の発露は、ここでは全く見られません。むしろ、これまで新海が執着してきたウルトラミクロの一人称視点-しかも極めて大きなスパンでの時間的経過を伴う-そのものを否定することによって、『君の名は。』は恐らく意図せずして群像劇的なあり方を見ています。前回の『シン・ゴジラ』のエントリで群像劇における心理描写については触れたので特に掘り下げませんが、新海作品独特の時間経過の手法はこの群像劇的心理描写と相性が悪いのではないでしょうか。というのは、例えば『秒速5センチメートル』における「桜花抄」での列車内ショットにおける驚くべき静謐さと美しさは、上映時間の多くをかけて同一のシークエンスの描写を丹念に映し出すことによる時間の遅延によって生み出されているものです。一方で、「秒速5センチメートル」で山崎まさよしの主題歌をバックに繰り広げられる怒濤の回想シーンは、観客が彼ら自身のつじつまを合わせるがためだけに「観たい」と欲するシーンをストイックに切り捨てるかのような省略の技法です。新海作品において、キャメラは監督の自意識に呼応するかのように、徹底して「見たいものだけ」を異常なまでの執着で「見つめ」ます。一方で、「見たくないもの」は容赦なく切り捨てられます。この遅延と省略を象徴的に描き取るという意味で、まさしく『秒速5センチメートル』はそのタイトルにふさわしく、自意識の執着する一瞬のみに対して、惨めなほどにしがみつくからこそ抗い難い魅力を放っていると言えるでしょう。対して、『君の名は。』における遅延と省略は、それが一人称視点に寄り添うことなく可能になるのかという問いに対しては残念ながら否を突きつける形になっています。群像劇においては、繰り返しではありますがシチュエーションの構築が登場人物の行為によって外的に形作られるため、心情の掘り下げが極めて困難になります。新海の持ち味の一つは主人公に寄り添ったズブズブの心情描写であること、またその心情描写が偏執狂的な時間の遅延技法によって成立していることの二点は、結果的に相容れません。主人公二人の屈託のなさは、新海のキャメラを寄せ付けないことによって、行為するという行為によってしか担保されなくなってしまうので、粘り気のある新海誠の自意識はそこにおいて読み取れないのです。つまり、群像劇を自分の方法論でやろうとした結果、群像劇に方法論が敗北してしまっていると言えます。というより、あまりに素朴な形で心情描写を欠いているので、群像劇をするために心情描写を意図的に排除している、という風にしか見えません。

一方で、それでは新海誠製作委員会方式に全てを明け渡したのか、というと、どうやらそういう訳でもないと思います。そもそも、彼の得意とする「過度なまでに磨き込まれた美麗な映像+(自意識の)メロドラマ」という作風は、基本的にはメジャーストリームの方式と相性が悪い訳ではないです。三葉が彗星落下を見つめるシーンの息を呑む壮麗なショットは言うに及ばず、超絶的なスケールのロングショットはアニメの映像表現の極北を示すものでしょう。中でも最も新海の意地を感じるのは、やはり扉の開閉ショットの執拗な反復です。扉という存在は映画史においてそれのみにおいて重要な意味を持ってきました。成瀬巳喜男『乱れる』(1963)における加山雄三高峰秀子の対話シーンの襖の敷居を「越えてしまう」ショットの衝撃を挙げるまでもなく、扉は「あちら側/こちら側」を明確に規定する表象です。超ローアングルによってとらえられた扉の敷居(それは襖であったり、教室であったり、電車であったりします)の開閉が象徴的に用いられることによって深層的なイメージを形作り、それらは2つのショットによってそのイメージの回収を行います。一つは三葉と瀧がようやく邂逅を果たすシーンで落ちかける太陽の光線がその役目を負うショットであり、もう一つは成長した二人が電車の車窓からお互いを見つけ出すショットです。特に後者は扉/窓による空間の遊離と、もう一つ反復されている列車(ないし電車)による移動の時間の遅延(車内ショット)という二つの反復の要素が二人の再度の邂逅の表象に全て回帰してくる、これ以上ないほどに緻密に設計された映画的瞬間です。プロットとしては「時を越えて二人が出会う」という手あかのつきまくった恋愛映画(メロドラマではない)なのですが、このプロットをベタベタなまでの映画的手法(扉、光線、列車、反復)によって強引なまでにまとめあげてカタルシスを紡ぎ出すその完成度は、高いレベルという表現でははっきり言って追いつきません。むしろ、その映画的手法と群像劇的な物語設計の間に、新海ののたうちまわる屈折した自意識が介在する余裕などはなかったのかもしれません。プラスの言い方をすれば、手法と設計の巧みさがプロットそのものを完全に上回っているのです。

 

冒頭で、「この映画はデート・ムービーには向かない」と書きましたが、まさしく僕がこの映画はデート・ムービーでないと感じる理由はここにあります。つまり、デート・ムービーがすなわちメロドラマを時に含み得る恋愛映画であるとするならば、『君の名は。』は恋愛映画としてはエンターテインメントとしてあまりに緻密すぎ、かつ高度すぎます。これは恋愛映画がすべからくエンターテインメントとして稚拙だという訳ではなく、この映画に用いられている文法は恋愛映画において用いられる文法ではないということです。この映画は二人が出会ったことによって幕を下ろしますが、新海誠がストイックに自らの奥義であるウェッティな心情描写を禁じ手として封印し、引き出しの多さと劇設計の手つきのプロフェッショナリズムのみで戦った結果、そこで実現するエモーショナルな瞬間も含めて『君の名は。』は「精密な職人アニメ映画」の幕引きとして、それはこれ以上ないほどの幕引きではあるのです。新海流のメロドラマであれば、二人は確実に出会うことがないでしょうし、三葉は隕石が激突したまま死んでいるでしょうし、瀧は口噛み酒を飲んでもどうにもならなかったでしょう。が、彼らは「出会わなければならなかった」から出会ったのであり、それらは表象の連鎖によって引き起こされるべくして引き起こされる出会いだったと言えます。だからこそ、これは「恋愛映画」という意味におけるデート・ムービーではなく、そのような手練手管を必然のものとしてエンターテインメントに溶かし込むファミリー・ムービーであるように思いました。


「君の名は。」予告