思考停止

映画、本、音楽、など

「ストリップ劇場」論序説に対するごく短い補説

lesamantsdutokyo.hatenablog.com

 上記のエントリでは書き切ることが出来なかった(そもそも「序説」であるのだから)が、ある興味深い指摘があったのでここでわずかばかりながらその指摘について触れてみたい。すなわち、「劇場」という場の生起である。

 演者を括弧に括った上で、ストリップ劇場という「場」は明らかに他の「劇場」と比べて異質である。いや、異質、というのはやや違うかもしれない。それは例えば、アイドルのライブなどと近いものがあるからだ。それらを紐帯するものは観客間で行われるコミュニケーションである、とひとまずは言うことができるだろう。

 しかしアイドルのライブにおいて起こるコミュニケーションが極めて内輪(「ヲタク」同士のもの)であることに加え、そのコミュニティ外で行われるコミュニケーションは事務的とさえ言えるからだ(この子の握手列はどこでしょうか、など)。アイドルのライブに行かなくなって久しいが、それは皮膚感覚として、確かに横たわっている(語弊を恐れず言うならば)「よそよそしさ」だ。

 ストリップ劇場において生起するコミュニケーションは、無論「ヲタク」同士のコミュニティも存在していない訳ではないが、劇場外のロビーで行われる「見知らぬ人同士の」コミュニケーションが極めて活発であるということだ。例えば、こんな風に。

 

―今日は混んでいますね。公演時間も45分近く押しているんじゃないですか。

―今日の○○さんは道劇(道頓堀劇場)出身でねえ、今日が引退公演なんですよ。目当ての子はいますか?

―ええ、六花ましろさんです。撮影時間のときに見て、とてもいいなと思いました。

―ましろさんですか、目の付け所がいいですねえ。さわやかで、よく鍛えられていて……。でも、彼女は厳しいんですよ、礼儀に。

―そうなんですか。とてもそうは見えませんが。

―それはもう。私も何度か怒られてしまいましたよ。彼女は女性にも人気があるんですけどね。ちなみに、ここは今日が初めてですか?

―ええ。ふらっと入ったんですが、作法が分からなくて……。

―(他の人が入ってきて)大変な日に来ちゃいましたねえ。でも、ましろさんならこの後もたくさん観る機会がありますから、是非他の日も来てください。

―ええ、ありがとうございます。

 

……といったような具合だ。こういう会話が、ロビーの至るところで行われている。劇場の中では、女性客も多い(3割程度が女性だったと思う)。その間でも、このような会話が繰り広げられている。

 つまり、ストリップ劇場という「場」は、観客同士においてもコミュニケーションという手段によって入り乱れ、「客」と「客」というような個人の関係性を持たず、「観客」という集合の中で共振するといってもいいだろう。この点も、映画や演劇における「場」(映画館や劇場など)では見ることのできない光景だろう。

 

 他にも、女「性」の消費など、弱者としての女性がフェティシズムの「見世物」として提供されていることのジェンダーの倫理(ポリティカル・コレクトネス)などは語るに及ぶべくもないが、それは他のアダルトコンテンツにも言える問題であり、ここでは語る必然性がないと思われる。「ストリップ劇場」という「場」の生起は、ステージ上で、ロビーの待合室で、至る所で起こっているのであり、その構造こそが問題化されるべきなのではないか。そしてそれは日本の文化史、いや風俗史という歴史の層としての「史」―アーカイブ(アルシーブ)として語られる必然性を感じる。現在、有意な文献と考えられるのは『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』(イースト・プレス 2014年)所収の藤木TDC「昭和娯楽王 ストリップ史」だが、現在は入手不可能となってしまっている。

 「語りえぬもの」を「ことあらわす」ことの可能性は、「ストリップ・ショー」を見つめなおすことによって開かれるのではないか、という問題提起で前エントリの補説としたい。

「ストリップ劇場」論序説

 サークルの読書会の帰りに、渋谷の百軒店の入口にある道頓堀劇場、というストリップ劇場に入った。たまたま2000円が手元にあって、学割でちょうど入場料が2000円だった。
 今自分はある神経症にかかっていて、音や光に敏感になってしまっているのだが、最近は復調の様子も見られてきている(まだ情報量の多い音楽を聴いたり、映画は観たりするとダメになってしまうのだが)。安定剤を2錠飲んでから、2000円を払って劇場に入った。なので、まあ軽いリハビリも兼ねて、という意味もある。それで選ぶのがストリップ劇場、というのはどうなんだという気もするのだが。
 渋谷の道頓堀劇場は6人の女の子が入れ替わり立ち替わり踊るのが一つのステージ、というシステムなのだが、途中で出てもいい。目当ての子を見終わったら帰るという人も多かったし、そもそも物見遊山なので長居する気もなかった。劇場の中に入ると、色白でさわやかな見た目の女の子がまだ写真撮影タイム(というのがある)でステージに居たので、この子のステージを観て帰ろう、と思った。六花ましろという踊り子で、人気も高いらしい。写真撮影タイムが終わると、今日3回目になるショーが始まった。観たのは3人の踊り子で、美月春、愛野いづみ、そして目当ての六花ましろだった。そして、それぞれに特徴があった。
 
 
・「ストリップ・ショー」の特異性
 
 総体的な、というか概念的な話をすると、ストリップ・ショーというのは極めて特異なショーの形態である。浅学にしてストリップ論のようなものがあるのかどうかは知らないのだが、高校時代に卒業論文を映画学の分野で書いた、つまり表象文化論を少しだけではあるがかじった身からすると、興味深い、というのも胡散臭いが、積極的に語られるべき分野ではないだろうか、という気さえしてしまうのである。というのも、そのショーの構造は「語りの欠落」と「運動の過剰」という意味で、演劇や映画など、他のいかなる批評対象とも構造を異にしているとさえ言えるからだ。
 当たり前だが、ストリップに台詞はない。踊り子が与えられた3〜4曲(実はこれも構造があるらしいのだが)に合わせて、一人あたり凡そ20分程度のステージを演ずる。彼女らはそれぞれに任意の服装のモチーフ(それはレイヤーされている)があり、それらが曲の進行と共に、注意深く脱ぎ捨てられる。その「脱ぎ捨てる」という運動そのものによって、ストリップ・ショーはショーとしての強度を保っていると言ってもよいのだろう。つまり、レイヤードされたヴェールの「脱ぎ捨て」(特にロラン・バルトを意識している訳ではないが)という運動の連鎖によって、というよりもほぼそれのみによってストリップ・ショーはショー足り得ている、と言ってもよいのである。彼女らの衣服はなんらかの「帯」によって固着され、それらが剥ぎ取られてゆく。そしてそれらはある種の連続的な性格を持って、ショーは進行する。これは、例えば演劇であるならば空間における人物の配置とスクリプト(台本)、それに加えて演者の「発話」という行為によってドラマトゥルギーが構築されるのだし、映画に至ってはそこにデクパージュ(カット割り)とモンタージュ(編集)という、言わば輪切りにされたような空間と時間の交錯によって物語の構造を形作っていく。アイドルのライブなどを引き合いに出すのもよいだろう。そこには「歌」と「踊り」があり、一つ一つの楽曲の繋がりが総体として意味を持ったり持たなかったりする。しかし、ストリップはそうではない。ヴェールの「脱ぎ捨て」という、言わばひとつの運動が動因となってショーが進行「してしまう」、それがストリップの特異性とも言えるだろう。
 だが、ショーとしてのストリップを語るべきはそこに留まらない。「語りの欠落」、つまり一つの運動がある種の欠落を伴った形でドラマトゥルグされていくという点は上に述べた。では、「運動の過剰」とは何か。ここで言う「過剰」とは、言わば他のショー形態には見ることができないものであり、ストリップ・ショーではその「過剰」が重要な意味を持つ。道頓堀劇場のステージはT字型で、張り出しの先は円形になっていて、上下し、また回転する。ステージそのものが運動するという事実は現代演劇においては当たり前のことではあるだろうが、問題はステージの運動が「上下」と「回転」であり、そこにさらに踊り子の「踊り」という運動が加わるということである。ここにおいて、演者(踊り子)とステージは、運動という概念において共犯関係を結ぶといってもいいだろう。ここに、語ることの「欠落」に対する共犯関係としての二重の相を持つ「運動」の概念が「過剰」される。
 
・ショーの構造と「視点」の問題
 
 ストリップ・ショーの一つのステージの構造は以下のようになっている。
①踊り子が登場し、厚いレイヤーを着て踊る。この段階でカチューシャやガーターなど、小道具的なレイヤーは取り外される(ことがある)。
②ここで踊り子は①の段階からやや飛び跳ねる形で一気にレイヤーが外される。しかし、この段階では張り出しに出ることはない。出たとしても、それは次の動作への予兆である。
③②において外されているレイヤーの「脱ぎ捨て」の運動は、この③の段階で一気にスローモーになる(BGMも遅いBPMのものになる)。薄いヴェールを外し、ブラジャーを外し、パンティーが脱ぎ捨てられる。ストリップにおいて最も重要なのはこの箇所である。つまり、乳房や陰部といった「覆われていたもの」が露わになるのがこの瞬間であり、また張り出しが「上下」し「回転」するのも③の段階においてである。
④幕が下ろされ、速いBPMの曲に合わせて張り出しで踊り子が踊る。既に陰部は露わになった状態であり、いわばアンコールのようなものと言える。
 この4つの運動の中で最も重視すべきなのはやはり③である。3人の演技を鑑賞したが、いずれにおいても共通しているのは「垂直」の運動、つまり張り出しの床に寝そべって脚を床に対して垂直に伸ばすという運動である。これは張り出しが回転しつつ行われるので、有り体に言ってしまえば陰部を全員の客に見せる(ステージを半円状に取り囲むような席の配置となっている)というサービスなのだろうが、ここで客は決まって拍手をする。つまり、一つのステージのクライマックスがこの「回転しつつ垂直」な運動であることが観客にも暗黙の了解として認知されているということだ。それは文化であり、「踊り」というノンバーバルコミュニケーション(そもそも踊り-ダンスという運動がセックスの薄められたものであるという事実をここで忘れるわけにはいかないだろう)が「欠落」と「過剰」によってドラマが構築されていることの歴史の重層性と言えるのではないか。このことについて考えれば考えるほど、ストリップは文化でこそあれ批評的な言説を免れてしまったことの負の意義は大きいと言わざるを得ない。無論「風俗業」であるというタブーに触れることに間違いはないが、例えばピンクサロンやヘルスなどと言ったそれとは全く違う、あらゆる劇的構造から自由である「ショー」としてのストリップを批評せずに消費することは、ストリップ・「ショー」の衰退にも繋がってしまうのではないか、という危惧さえ抱いてしまうほどである。
 ここにおいて実現される「運動」、即ち「踊り」が「薄められたセックス」であるという事実に関しても、もう少し言及しておきたい。例えば映画においては、観客は「視点」に対して何ら能動性を持つことができない。何故ならば、それはキャメラという意識の所在によって映画という事態が生起しているからであり、映画における「視点」の問題はつまりキャメラというインターフェースを通して見られた「創られた視点」について言及することになる。また、演劇ではそのキャメラの役割を「幕」という存在が担うことになるだろう。客席と舞台は分けられ、極めて古めかしい言い回しをするならばそれは「第四の壁」によって観客は「視点」をあらかじめ支配される。ストリップ・ショーは、その「視点」を掻き乱すような形で運動する。それは舞台(張り出し)そのものが運動し、踊り子が運動するという二重の相の運動によって観客の視点は撹乱される。さらに言えば、踊り子が「演技」-「踊り」として「ウイスキーをグラスに注ぐ」という運動があったが、踊り子はそれを客席の客に振る舞い、飲み干し、そのグラスにいわゆる「おひねり」を入れるという一連の動作、というか作法が存在している。ここでも、演者たる踊り子と観客の関係性はもはや入り乱れてしまっているだろう。それがあたかも「作法」のように振る舞われてしまっている、という重層性を持っている以上、「視点」を基礎付ける「壁」や「キャメラ」という観客の意識の所在は、そこにあって(いささか雑駁な言い回しをするならば)能動的であるとすら言えてしまうからである。だからこそ、希釈されたセックスとしての「踊り」は、「視点」を媒介するメディアを決定付ける諸要因が外部に存在しないが故に、限りなくセックスという運動と踊りという運動が近くなってゆく。しかも、演者の運動は常に二重の相を持つために、その漸近性は永遠にぶら下がってしまう。ここに、ストリップ・ショーの言表しがたい構造の鍵がある気がするが、ここでその点を深彫りすることはやめておきたい。
 
・六花ましろの見せた運動がもたらす夢と詩
 
 「ショー」としてのストリップの抽象概念は既に述べた。ここでは、六花ましろの演技について具体的に触れることで、その構造性と、もう一つある詩性について述べておきたい。彼女の演技は、というか表情は、豊かな、暖かみのあるそれではない。その前に観た愛野いづみの演技が非常にエモーショナルで色彩的なものだったというのもあるが、愛野の色彩性はその「まなざし」にある。ウイスキーのコミュニケーションを取り入れていたのも彼女だったが、愛野は観客に対して真摯にまなざす。その交換の豊穣さが、彼女の演技の色彩性であるとも言える。しかし、六花は、明らかに、どこも見ていない。①の段階における演技で、彼女は「まなざさない」ことによって、ひとつの冷たいポエジーを紡ごうとしているのだ、ということは既に明らかであった。③のスローモーな動きに至って、六花は「まなざさず」、よく鍛えられたしなやかな裸体を惜しげもなく張り出しの上で運動させていた。張り出しの回転に対して垂直である彼女のすらりと伸びた(文字通り)真っ白な脚は、ストリップ劇場という、こういってよければいささか下卑た場において披露されるには、あまりに詩的でないかとすら思えた。陰部を見せるためのサービスとしてその運動が提供されるということは、ある意味その「陰部」という要素が我々の「視点」を決定するのかもしれないが、少なくとも彼女の運動は「陰部」が「視点」の中心として機能するように運動してはいなかったのだ。それは、森崎東が1975年に撮った映画『喜劇 特出しヒモ天国』において芹明香が葬式という「場」でストリップ・ダンスをするあの異形の特権性を、「視点」の自由が留保された形で立ち会うことができる体験、とさえ言えるかも知れない。それは、間違いなく構造による詩性であり、踊りという詩による構造性である。六花はそんなことを意識していないのかもしれないが、張り出しの上で垂直に回転する彼女は、(森崎の)映画的な可能性を越えてファンタジックな瞬間をもたらしてくれたと言わざるを得ない。無論、森崎は別の方法論で映画と踊りとファンタスムについて上記の映画で回答をしているのだが、それについては詳述しない。ともかく、六花の「二重の相のもとにある」運動は、自分にとってある種の夢を見させてくれた運動であったのである。それが「まなざし」という色彩性を失うことによって実現されていた、ということも付言しておきたい。
 
・夢の予感、あるいはヴァレリー言表による序説の終わり
 
 自分は果たして再度ストリップ劇場に足を運ぶだろうか?と問われれば、間違いなく首を縦に振ってしまうだろう。薄汚れてタバコの煙で靄がかかったロビーで自分も同じくタバコをふかしながら、その煙の中に六花の見せてくれた「踊り」による夢と詩をなぞっていたのだ。ロマンティックに過ぎるだろうか?頭でっかちな解釈だろうか?そうかもしれない。だが、事実として、自分は彼女のステージを観た後にその後の演者のステージを観る気には到底なれなかったし、手元のスマートフォンで時間を確認しようとも思わなかったのである。ただ、手元のタバコと、口から出る煙に、彼女の幻影を描きながら呆然とする。あの心持ちを、自分は追いかけてしまうような、そんな予感がするのである。
 

エリュクシマコス これからまさに起ころうとしていること、これくらいわたしの好きなものはない。恋愛においてさえも、ごくはじまりの感情ほど、官能の悦びにおいてまさるものはない。一日のあらゆる時間の中で、曙がわたしのもっとも好む時間です。だからこそわたしは、 この生きた女の上で、聖なる動きが現れ出てくるところを、愛情のこもった感動とともに見届けたいのです。ご覧なさい!…その動きは生まれ出てくる、優しい鼻孔の、あの頭を、光に明るく照らしだされた肩のほうへと抗いがたく結びつける、あの滑るような眼差から…… そして、彼女の輪郭のくっきりした身体の、美しい繊維のすべてが、うなじからはじまって踵に至るまで、はっきりと現れてはつぎつぎと捩れてゆく。そして、全身が震える…… ひとつの跳躍の誕生をゆるやかに描いてゆく…… 彼女はわたしたちに息もつかせない、つんざくようなシンバルの、待ち受けてはいても意表をつく轟きに不意の動作で反応して、宙に身を躍らせるその日まで。(ポール・ヴァレリー清水徹訳「魂と舞踏」、『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』岩波文庫、2008年、p. 151)

アンリ・ベルクソン『時間と自由』第一章についての覚え書き

 エクスキューズもなしにいきなりベルクソンの話を始めるのも気が引けるので、とりあえず簡単な前置きをしよう。自分は哲学批評研究会というサークルに所属していて、なんというか適宜哲学書を選んで輪読して解釈する読書会サークルなのだが、そこでは今ベルクソンの『時間と自由』(中村文郎訳、岩波文庫、2003年)を扱っている(白水社から出ている竹内訳の『意識に直接与えられたものについての試論』もあるが、この訳の評判が高いのと文庫なので手に入りやすいという理由でこの版を使っている)。同じ著者の『物質と記憶』ほどには難物ではないものの、彼独特の言い回しがあるのでそこに慣れるのになかなか苦労したが、ハマるとこれが存外にメチャクチャ面白いのだ。で、自分の担当範囲は第一章「心理的諸状態の強さについて」の後半部分で、レジュメを作っているうちにある疑問が残った。その手だてのようなものがなんとなく、極めてなんとなくではあるが見えてきたような気がするので、備忘的に書いておきたい。レジュメにもまとめる予定だ。多分前日に急いで作る予感がするのだが…。

 

 第二章まで行っていない(まあ勝手に読み進めてはいるのだが)のだが、副読本などで参照した『時間と自由』における問題意識を超簡単に要約すると、ベルクソンが言うにはモノ(ここで言うモノとは世界-それは観念や「心的事象」も含む-において起こる事実総体を指す)には「量la quantité」と「質la qualité」の問題があり、それの取り違えによって自然科学と哲学はひとつの誤謬を起こしている。で、とりあえずはそれを丁寧に取り分けた後、取り分けた結果「何かよくわからんもの」が残る。その「よくわからんもの」がベルクソン哲学において極めて重要な鍵語である「純粋持続」という概念なのだが、とりあえずそれは放っておくことにする。

 一章において重要なのは、「量」と「質」の区別だ。ベルクソンにおける「量」の概念はとりあえずはっきり示されていて、

量というものはそのこと自体からまさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっているものだということになる。(p.14.以下特別な注釈を設けない限り引用は全て岩波の中村訳からの引用とする)

 つまり、あんまり難しいことを考える必要はなく、要するに「測定可能(分割しうる)」であるモノが量的である、とベルクソンは言う。これに対して「質」の問題は何度も何度もベルクソンが繰り返し説明しているのだがうまい引用部分が見つからないのでこちらもまとめると、質は測定できず、分割可能な連続性を持つ量に対して質は「純粋な異質性」(p.126)であり、それは差異を持って増減するのではなく「移行passage」するものである。すげえ簡単に言うと、量は数えられるけど、質は数えらんねえよ、だって差異があるかも分からんし数の間隔があるかも分からんからな、ということである。

 しかし、そこに当たって前回の読書会で議論になった部分がある。二つのセンテンスを引用しよう。

(…)しかし、これらの感情の強さは、表面のものであれ深いものであれ、激しいものであれ反省されたものであれ、意識がそこに見分ける単純な諸状態の数の多さから常に成り立つのである。(p.45) 

 ここでまた一つ留保をしておくと、ベルクソンが使用する「強さ」という概念は質についてしか用いず、対して量については「大きさ」という概念で表現する。ここで「ん?」と読書会のメンバーがなったのは、「強さ」と「数の多さ」という矛盾である。質に対してしか用いられない「強さ」の概念に「数」を当てはめてよいのだろうか…?という疑問に、我々は頭をひねった(そして結論は得られなかった)。

 さらにもう一つ見てみよう。

(…)強さと呼ばれるのは、根底的状態の内部に見分けられる単純な心的諸事実の多様性(多い少ないの違いはあれ)であるが、これはもはや後天的知覚といったものではなく、混雑した知覚である。(p.90) 

 後半部分は無視してほしい(確かに知覚の問題に関してはカントを引き合いに出して二章以降で云々しているのだが)。ここで問題にしたいのは、「単純な諸状態の数の多さ」と「単純な心的諸事実の多様性」の問題で、いずれも意識la conscienceが問題になっているのにも関わらず、「数の多さ」と「多様性」という形で訳し分けられている点である。後者の場合、それが「多様」な性質を持つということであるから、「なんかよく分からんけどいっぱいある」というイメージは質の非連続的なあり方と一致する。対して「数の多さ」は納得が行かない。質は差異を持って増減するのでなく、移行し変容するものであるから「数」という概念そのものをここに持ってくるのはアヤしいのだ(事実、第二章の冒頭で数と空間性についての議論は行われているものの、それらは純粋持続と空間を持った持続の区別の前提となる議論であるため、ここでその議論を持ち出すことはできない)。また、上で多少触れた白水社の『試論』(竹内信夫訳、2010年)においても前者が「多様性」、後者が「多様体」と訳されている。

 となるならばもうベルクソン自身が書いたエクリチュールを辿るよりないため、わざわざ地下の図書館で本書の原版(中村も底本に用いたPUF-Presses Universitaires de France版の1958年に出版されたもの)を用いて検討することにした。はっきり言ってこれの原書(Essai sur les données immédiates de la conscience-以下Edicと略)は劣化が酷く、日に焼けてるわ紙はパリパリでめくる度に破けるわでベルクソンに大変申し訳ない気持ちになったのだが、まあそれは置いておこう。問題はベルクソンが上で訳されている質に関しての「多」の問題で語を使い分けているかというと、実は使い分けておらず、multiplicitéで完全に統一されているのである。とするともうこれはmultiplicitéの問題ではなく、日本語で言うと助詞で繋がれているそれ以前の用語の問題になってくるだろう。

 一つずつ検討してみる。まず前者のセンテンスから。

 単純な諸状態の数の多さ(p.45)

la multiplicité des états simples que la conscience(Edic,出典失念)

 出典がなくなると一気に信憑性がなくなるなと書いてて思った。すいません。明日また再検討します(「激しい情動」のラストの方だったので多分p.20のあたりな気がするのだが…メモっておくべきだった…)。さらにもう一個。

単純な心的諸事実の多様性(p.90)

(la) multiplicité de faits phychiques simples(Edic,出典失念)

 「出典失念」の文字を書く度に申し訳なさで書くのをやめたくなるがここはレポートではなくブログなのでどうかご寛恕願いたい。絶対に確認して追記してやるからな。あと、名詞であるはずのmultiplicitéにメモだと冠詞が抜け落ちていたのでとりあえず補ったという意味で(la)とした。 

 問題なのは、de(des)-ドイツ語におけるvonや英語におけるofに当たる-の後ろにある言葉の違いである。即ち、états(諸状態)とfaits(諸事実)の問題であるが、ここがどうしても分からなかった。étatsfaitsの違いについては「感情的感覚」以降のセグメントでは具体的に説明されない上に、最終セグメントの「強さと多様性」に至ってはセグメントの名前になっているにも関わらず具体的な説明がなされない。しかしベルクソンの最も重要な概念である「純粋持続durée pure」に質的変容の問題は大きく関わってくるため、なんとしてもここは解決できないにせよ糸口を見出したい。

 すると、意外なところを細かく読むと、何気なくその端緒が書いてある。岩波版で言うところのp.18から始まる「深い感情Les Sentiments Profonds」、Edic版で言うところのp.6以降に当たる。そもそも、faitsについての言及はEdicにおいてp.7から始まるが、étatsについて述べる箇所はそれ以前にあって然るべきというか、読み手からするとそうあってほしいところではある(ベルクソンは最初にこれ違う、あれ違う、これが正解っぽいかも、でも断定できない、みたいな書き方をする人なので一概には言えないのだが)。そもそも一章の題名がDe l'intensite des états psychologiquesなのだし。ベルクソンは以下のように述べる。

(…)意識の深いところに降りていけばいくほど、心的諸事実を事物の並列として扱うわけにはいかないのである。/(中略)そのイメージが無数の知覚やイメージのニュアンスを変形してしまったということ、(中略)知覚や思い出のなかに(イメージが-括弧内引用者による-)浸透してしまっているのだ。(p.20) 

C'est que, plus on descend dans les profondeurs de la conscience, moins on a le droit de traiter les faits psychologiques comme des chose qui se juixtaposent./…on doit simplement entendre par là que son image a modifié la nuance de mille perceptions ou souvenirs, et qu'en ce sens elle les pénetrè…(Edic,p.6~7)

 フランス語キーボード打ちづれえなブチ殺すぞ以外の感想がない。まあともかくベルクソンがここで言っているのは、決してfaitsを事物の並列des chose qui se juixtaposentとしては扱ってはいけないものとして位置づけている、つまりfaitsにおけるmultiplicitéを「多様性」と訳すこと(ないし「多様体」)には何の問題もないのである。さらに言えば、それらのイメージは知覚や思い出(souvenirをあえて「思い出」と訳す所に中村の執念を感じる)に「浸透pénetrè」するのであるから、変容する「何か」であるところの質的問題に「心的諸事実(la) multiplicité de faits phychiques simples」は合致するのだと言える。

 とするならば、étatsの問題はどうすればよいのだろう?ここから先はあくまでも仮説でしかないが、「浸透pénetrè」に着目して読み込むのであれば、次のセンテンスに目が止まるだろう。

(おそらくは心的諸事実が)より大きな数の心的要素のうちに浸透しはじめ(…)(p.19)

 ここにおいて言われている「心的要素d'éléments psychiques」とは何だろうか?これは「光の感覚」(p.66)においてベルクソンが指摘したデルブーフの著作であるEleménts de psychophysiqueに似た言い回しが認められるものの、あくまで「psychiques(心的)」であり「psychophysique(精神物理学)」ではないことは一目瞭然である。多分だが、ベルクソンが用いる、「大きな数」の知覚や思い出を変形させられ、またやがて「浸透」していくものとしての「心的要素」が、限りなくétatsに近いのではないか。とするならば、faitsétatsmultiplicitéについての議論も納得がいく。「無数」の、しかし数としてあるétatsの集合体がやがて「意識の深いところ」に降りていき、それらが知覚や思い出に浸透することによってfaitsへと変容していく、それこそが「質的変容」であり、このプロセスが彼の本丸である「純粋持続」の概念へと接続されていくような気がする(実際、p.121〜126の「等質的時間と具体的持続」のセグメントにおいては、その「浸透」に加えて時間の概念が投げかけられ、空間がそれに対して×の捉え方をされる。ベルクソンの「空間」は我々が使うところの「空間」とは若干違う意味を持つので、より細かい読みが必要なのだが…)。

 

というわけで、講義中ずっと『時間と自由』を読んでいたら思いついたことをつらつらと書いてみた。自分にフランス語の知見は一切ないので文法制やアクサンテギュに間違いがあれば指摘してほしいし重大な誤謬を犯している危険性もある。が、ある一つのセンテンスに対してあくまでもテクストに乗っ取って這いずり回るように読むことの快楽は何にも代え難いし、ベルクソンはその意味で最高度の快楽を提供してくれる哲学者だ。という訳で、皆さん哲批研に入ろう!ランシエールの読書会してんじゃ!(泣)(もちろんランシエール以外でも可!)

 

『ライク・サムワン・イン・ラブ』、あるいは愛の予感

アッバス・キアロスタミという映画監督の名前は知っていたけれど、その映画は観たことがなかった。音楽も映画も文章で興味が沸くタイプの人間なので、キアロスタミへのまとまった言及にもあまり触れてこなかったというのもある。去る7月に逝去し、追悼特集が組まれたということだったのでまあ不謹慎だとは思いながらもまとめて観れる機会だと思ってユーロスペースに足を運んで『ライク・サムワン・イン・ラブ』と『シーリーン』を観た。

 

ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)は端的に要約すれば「引退した84歳の大学教授(奥野匡)が風俗で初めて女(高梨臨)を買って調子に乗るものの嬢の彼氏(加瀬亮)にカチこまれる」という話で、後味もよくはない。ミヒャエル・ハネケの作品もそうなのだが人と人とのコミュニケーションの間に横たわるイヤな瞬間とか気まずい瞬間とかを切り取るのがキアロスタミは異常にうまくて、上映中何度も勘弁してくれと思ったし、特に主人公のタカシというジジイがチンピラじみた嬢の彼氏に彼女のおじいさんだと思われてウソをつくシーンの白々しさは本当にキツい。あと一番しんどかったのは嬢はさっさとセックスを済ませて寝たいのにタカシが必死にワインやスープでもてなそうとするところ。一生懸命若い女の機嫌を取ろうとしているジジイのむずがゆさが乾いた長回しと抑揚のない台詞回し(小津っぽいなー、と思って観ていて後で調べたら小津のドキュメンタリーを撮っていたりしたので、そういうことかとなった)が遅効的にコミュニケーションの上滑りによる不快感を演出していた。そこで流れるのがエラ・フィッツジェラルドの「Like Someone in Love」で、陶酔的なフィッツジェラルドの声とは裏腹にどこまでもドラスティックなキャメラの動き、という相反する音と画面の効果はハネケには見られないし、逆に言えばハネケにはこういうひからびたロマンティシズムみたいなものはないなとも思った(『愛、アムール』はロマンティックな映画だったけれども、あの映画には痛いくらいの真摯さがあったし、キアロスタミのこの映画のような老いてなおセックスしたがることの皮相さがハネケにおいては生きることの肯定のように、間接的にではあるが切実なものとして描かれていた)。

そういうわけで上映中はひたすらしんどくて、下手するとすさまじい暴力描写とかよりもそういう「コミュニケーションの上滑り」がもたらす不快感に耐え切れず映画としてのクオリティを認めながらも陶酔しきれずに終わったのだが、いざ終わってみると妙に心に残るシーンが多いことに気づく。例えばタカシの隣に住む世話焼きのおばさんが彼に恋をしていた話を窓から語るシーンとか、東京に来た嬢のおばあちゃんからの留守電を流しながら(嬢はおばあちゃんを無視しまくっている)新宿のネオンをタクシーの窓から眺めるシーンの高梨の横顔の美しさとか、他のシーンが酷薄すぎるが故に間歇的に挿入されるシークエンスが、不思議なほどファンタジックに思える。口に入れてる間は苦いんだけど、後味にかすかに甘みが残るような飲み物を嚥下する感覚とでも言えばよいだろうか。愛は成就せず、ただそれを予感し続けるよりないのだというテーマを老いぼれが風俗嬢を買うという身も蓋もないプロットで行うことの生臭さを引き受け、それを生臭いものとして提示しながらも、どこか幻想的にそれを語ってしまう手法がこのキアロスタミという監督なのかもしれないと思った。「84歳、かりそめの恋を夢みた」というこの映画のキャッチコピーはいささかキレイに過ぎるけれども、映画によって愛を予感し、そのバカバカしさと痛々しさと、しかし後味に残る奇妙なときめきを巧み過ぎるほどに切り取ったという意味で、『ライク・サムワン・イン・ラブ』は忘れ難い映画となっている。本当は文章を書くつもりもなかったのだが、この映画を思い出すと何故か落ち着かない気分にさせられるし、実際今も心のどこかが熱いような、おかしな気持ちになってしまっているのである…。


映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編

クラシック音楽愛好家が聴かないクラシック

僕の所属しているサークルで同人誌を出すらしく、最近あまり気合いを入れて文章を書いていなかったので、久しぶりにまとまったものを書こうと思い、割としっかり書きました。割としっかり書いたら一万字弱にはなったのでまあ満足です。その同人誌は実際サークル員とそのOBくらいしか読まないそうなので、インターネットの海に放流した方が文章としても本望だろうということで丸々転載します。著作権的には僕の書いたものだしたぶん問題ないでしょう(そもそも同人誌だし)。「クラシック音楽愛好家が聴かないクラシック」というタイトルで個人的に好きなマイナーなクラシック音楽の楽曲三曲についての評論めいた感想です。

 

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新海誠『君の名は。』(2016) 感想文

Tumblrのパスワードを忘れてアカウントが死んだ(知能指数5)ので、はてなで長文を書くことにしました。誰が読むかも知らないのですが。

 

君の名は。』が、あたかも世間の一般論としてデート・ムービーであるかのように言及されるのは、なんとも違和感があります。いや、どんな映画をデート・ムービーにしようと個人的に知ったことではないのですが(もしかしたらミヒャエル・ハネケの映画をデート・ムービーにするカップルもいるかもしれないし)、新海誠がこの映画で提示したメジャーストリームと作家性の葛藤は、結果的にファミリー・ムービー的な暖かみをやや自己矛盾的にではありつつも結実させた作品であるように思うからです。

 

全体を通して、新海はこの作品において『秒速5センチメートル』(2007)のような振り切れた「男の惨めさ」を徹頭徹尾排除します。というより、彼の持ち味の一つであるアニメで行われるにはあまりにも内省的で湿った情感の発露は、ここでは全く見られません。むしろ、これまで新海が執着してきたウルトラミクロの一人称視点-しかも極めて大きなスパンでの時間的経過を伴う-そのものを否定することによって、『君の名は。』は恐らく意図せずして群像劇的なあり方を見ています。前回の『シン・ゴジラ』のエントリで群像劇における心理描写については触れたので特に掘り下げませんが、新海作品独特の時間経過の手法はこの群像劇的心理描写と相性が悪いのではないでしょうか。というのは、例えば『秒速5センチメートル』における「桜花抄」での列車内ショットにおける驚くべき静謐さと美しさは、上映時間の多くをかけて同一のシークエンスの描写を丹念に映し出すことによる時間の遅延によって生み出されているものです。一方で、「秒速5センチメートル」で山崎まさよしの主題歌をバックに繰り広げられる怒濤の回想シーンは、観客が彼ら自身のつじつまを合わせるがためだけに「観たい」と欲するシーンをストイックに切り捨てるかのような省略の技法です。新海作品において、キャメラは監督の自意識に呼応するかのように、徹底して「見たいものだけ」を異常なまでの執着で「見つめ」ます。一方で、「見たくないもの」は容赦なく切り捨てられます。この遅延と省略を象徴的に描き取るという意味で、まさしく『秒速5センチメートル』はそのタイトルにふさわしく、自意識の執着する一瞬のみに対して、惨めなほどにしがみつくからこそ抗い難い魅力を放っていると言えるでしょう。対して、『君の名は。』における遅延と省略は、それが一人称視点に寄り添うことなく可能になるのかという問いに対しては残念ながら否を突きつける形になっています。群像劇においては、繰り返しではありますがシチュエーションの構築が登場人物の行為によって外的に形作られるため、心情の掘り下げが極めて困難になります。新海の持ち味の一つは主人公に寄り添ったズブズブの心情描写であること、またその心情描写が偏執狂的な時間の遅延技法によって成立していることの二点は、結果的に相容れません。主人公二人の屈託のなさは、新海のキャメラを寄せ付けないことによって、行為するという行為によってしか担保されなくなってしまうので、粘り気のある新海誠の自意識はそこにおいて読み取れないのです。つまり、群像劇を自分の方法論でやろうとした結果、群像劇に方法論が敗北してしまっていると言えます。というより、あまりに素朴な形で心情描写を欠いているので、群像劇をするために心情描写を意図的に排除している、という風にしか見えません。

一方で、それでは新海誠製作委員会方式に全てを明け渡したのか、というと、どうやらそういう訳でもないと思います。そもそも、彼の得意とする「過度なまでに磨き込まれた美麗な映像+(自意識の)メロドラマ」という作風は、基本的にはメジャーストリームの方式と相性が悪い訳ではないです。三葉が彗星落下を見つめるシーンの息を呑む壮麗なショットは言うに及ばず、超絶的なスケールのロングショットはアニメの映像表現の極北を示すものでしょう。中でも最も新海の意地を感じるのは、やはり扉の開閉ショットの執拗な反復です。扉という存在は映画史においてそれのみにおいて重要な意味を持ってきました。成瀬巳喜男『乱れる』(1963)における加山雄三高峰秀子の対話シーンの襖の敷居を「越えてしまう」ショットの衝撃を挙げるまでもなく、扉は「あちら側/こちら側」を明確に規定する表象です。超ローアングルによってとらえられた扉の敷居(それは襖であったり、教室であったり、電車であったりします)の開閉が象徴的に用いられることによって深層的なイメージを形作り、それらは2つのショットによってそのイメージの回収を行います。一つは三葉と瀧がようやく邂逅を果たすシーンで落ちかける太陽の光線がその役目を負うショットであり、もう一つは成長した二人が電車の車窓からお互いを見つけ出すショットです。特に後者は扉/窓による空間の遊離と、もう一つ反復されている列車(ないし電車)による移動の時間の遅延(車内ショット)という二つの反復の要素が二人の再度の邂逅の表象に全て回帰してくる、これ以上ないほどに緻密に設計された映画的瞬間です。プロットとしては「時を越えて二人が出会う」という手あかのつきまくった恋愛映画(メロドラマではない)なのですが、このプロットをベタベタなまでの映画的手法(扉、光線、列車、反復)によって強引なまでにまとめあげてカタルシスを紡ぎ出すその完成度は、高いレベルという表現でははっきり言って追いつきません。むしろ、その映画的手法と群像劇的な物語設計の間に、新海ののたうちまわる屈折した自意識が介在する余裕などはなかったのかもしれません。プラスの言い方をすれば、手法と設計の巧みさがプロットそのものを完全に上回っているのです。

 

冒頭で、「この映画はデート・ムービーには向かない」と書きましたが、まさしく僕がこの映画はデート・ムービーでないと感じる理由はここにあります。つまり、デート・ムービーがすなわちメロドラマを時に含み得る恋愛映画であるとするならば、『君の名は。』は恋愛映画としてはエンターテインメントとしてあまりに緻密すぎ、かつ高度すぎます。これは恋愛映画がすべからくエンターテインメントとして稚拙だという訳ではなく、この映画に用いられている文法は恋愛映画において用いられる文法ではないということです。この映画は二人が出会ったことによって幕を下ろしますが、新海誠がストイックに自らの奥義であるウェッティな心情描写を禁じ手として封印し、引き出しの多さと劇設計の手つきのプロフェッショナリズムのみで戦った結果、そこで実現するエモーショナルな瞬間も含めて『君の名は。』は「精密な職人アニメ映画」の幕引きとして、それはこれ以上ないほどの幕引きではあるのです。新海流のメロドラマであれば、二人は確実に出会うことがないでしょうし、三葉は隕石が激突したまま死んでいるでしょうし、瀧は口噛み酒を飲んでもどうにもならなかったでしょう。が、彼らは「出会わなければならなかった」から出会ったのであり、それらは表象の連鎖によって引き起こされるべくして引き起こされる出会いだったと言えます。だからこそ、これは「恋愛映画」という意味におけるデート・ムービーではなく、そのような手練手管を必然のものとしてエンターテインメントに溶かし込むファミリー・ムービーであるように思いました。


「君の名は。」予告

庵野英明/樋口真嗣『シン・ゴジラ』(2016) 感想文


『シン・ゴジラ』予告2

TOHOシネマズ渋谷に『シン・ゴジラ』を観に行ってきました。僕はろくろく封切り直後のロードショーを観に行くことがなく、いや厳密に言えばあるのですが直近で封切り直後に観に行った映画館はイメージフォーラムという全方位的にサブカルクソ野郎と断定されても仕方がないようなところに行っているので、シネコンに封切り新作を観に行くのは実に今年の3月に観に行ったクエンティン・タランティーノヘイトフル・エイト』以来の営みということになります。ちなみにTOHOシネマズ渋谷は2年半前のHKT48のライブビューイングぶりですから(まあバイト面接に行って落とされたのは半年前ですが…)、なんかもう映画が好きとか言わない方が良い気がしてきました。

 

何故シネコンにあまり行かない僕が『シン・ゴジラ』を観ようという気になったのかというと、まず僕はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のファンだからです。テレビ版、旧劇、新劇はもちろん全部観ましたしサントラも買いましたし、何故か家に式波・アスカ・ラングレーのフィギュアもあります(一番くじで当たった、綾波派なのに)。普段アニメとかあんまり観ないのですが、エヴァンゲリオンだけは割とちゃんと観ていたと思います。『シン・ゴジラ』の実質的な監督である庵野秀明は『エヴァンゲリオン』の製作総指揮でもあり、興味をそそられました。

 

もう一つは口コミです。『エヴァンゲリオン』が東宝最後の黄金時代(1960年代)を支えた映画監督・岡本喜八の影響を色濃く受けている(極太明朝体によるテロップのカット・イン前に数フレームの間隔を空けるのは岡本の影響だと言われています)という指摘は『シン・ゴジラ』以前からありましたが、そういったいささか露悪的に言えばシネフィル的な物言いの中に『シン・ゴジラ』は岡本喜八というよりも増村保造的だというものがありました。増村保造は個人的に非常に思い入れが強い監督で大好きな監督なので、昔の日本映画のレトロスペクティヴな要素をいずれにせよ強く持つ映画であるならば、これは見逃したくはないと思った次第です。

 

 

初めにエクスキューズしておきたいのですが、僕は岡本喜八も観ていなければ本多猪四郎も観ていません。なので、『シン・ゴジラ』を観た多くのシネフィル(要するに気持ち悪いオタク)が言うような会議シーンにおけるキャメラの位置であるとか、冒頭の「東宝映画製作」テロップがブルーバックに表示されるとかといったような部分を指摘してどうの、というようなオタクっぽい高度な遊びはできません。

 

しかし、やはり庵野秀明が作った作品だなというか、『エヴァンゲリオン』もそうなのですが彼の作品は常に言説への強烈な引力があります。平たく言えば、観た者に何か批評、分析、あるいは深読みを言わせずにはおかない奇妙な磁場のようなものが発生しているということです。そして言うまでもなく、我々の言葉というものは常に映画に対して敗北するわけですし、さらに言えば庵野秀明のレトリックは「何かを言っているようで何も言っていないかもしれない(が何かを言っているのかもしれない)」という、彼の膨大すぎるオタク的知識の「ひけらかし」の記号が作品中に過剰に表象されるために、いくらでも(誰でも)そこに恣意的なアナロジーを無限後退的に読み取り得てしまうという罠があります。さらにたちが悪いことに、その読み取った(というより勝手に意味付けた)不確実なアナロジーを誰かに語りたくなってしまうという庵野作品の語りの誘惑から逃れることは、オタクであればあるほど困難でしょう。事実、僕もこうして庵野の思惑通り『シン・ゴジラ』にいっちょ噛みしてしまっている以上、所詮はウルトラ・オタクである庵野の術中にハマったしがないオタクに過ぎないのですが…。

 

同じ映画オタクの作った映画であっても、例えばクエンティン・タランティーノ等が作ったそれと明確に違うのは、そのオタク的修辞が作り手自身の強烈な自意識と結びついているという点です。タランティーノが自らの映画の中で香港映画やマカロニ・ウエスタンをオマージュするとき、それらは彼の映画を駆動させる「装置」に変換されます。そして、卓越した映像と音響センスによりその「装置」を映画内に導入せしめた際に起こる彼自身のオタクの体臭を見事に脱臭します。タランティーノは、あくまでも自らの映画をよりスタイリッシュにするためにオマージュを補助線として用いているに過ぎません。対して庵野は、そもそも『シン・ゴジラ』というコンセプトそのものがノスタルジックで倒錯的である上に、そこにおいて行う手法はパロディと呼ぶにはあまりにも泥臭く、あまりにも「元ネタ」に対して歪んだ愛情を発露し過ぎています。彼が現行の東宝の配給会社ロゴ映像の後にもう一度60年代に使われていたカラー初期のロゴ映像をわざわざ映し出したり、また最後のスタッフロール後にわざとらしい書体で「終」のテロップを表示したりする際の極めてマニエリスティックな意匠にとどまらず、僕が岡本喜八を未だ観れていないという映画的記憶の欠損(蓮實重彦風の言い回し)が欠損であるという事実を思い知らせるようなシークエンスが何度も登場します。タランティーノは、元ネタを知らない観客が観たとしても、それとは分からないようなスマートさで元ネタを処理しているので、それはオマージュと言えるでしょう。対して庵野の異常なまでの細部執着とある意味スノッブな元ネタの発露は、映画全体を大きく歪めています。それはオマージュやパロディというよりも、硬直したパスティーシュであるような気がします。「ゴジラ」をリビルドするという、それ自体が極めて倒錯的な行為であると同時に、「ゴジラ」に直接は関わっていなかったであろう岡本喜八本多猪四郎に師事していたという事実はあるようですが)への敬意というにはあまりにいびつな愛情をその中で表現する庵野は、それ自体としてやはり硬直したパスティーシュ、と表現するのがもっとも適切なのではないでしょうか。

 

 

ただ、だから『シン・ゴジラ』はダメだ、と僕が言いたいのかというと、全くそういう訳ではありません。ただし、その(ネット上で見る限りにおいての)褒められ方に対して若干の違和感があるので、それらに対する一つの反論、ないしは僕なりの『シン・ゴジラ』定義をしたいと思っています。

これは、完全なるオタクの、オタクによる、オタクのための映画であり、その意味において異常なまでの完成度を保っていると言えます。僕もオタクの端くれという自負はあるので、観ていて興奮するシーンはたくさんありました。ネット上にあった増村保造的という指摘は極めて鋭いというか、言いたかったことを言われてしまったなという感じがします。増村保造は当時映画にあっても一般的だった女性ジェンダーがあらかじめ持つ構造的な弱さを逆手に取って、女性が情念において男性を押しつぶすというような作風が持ち味の映画監督ですが、その一方で群像劇にも秀でていました。『青空娘』(1957)や『最高殊勲夫人』(1959)に代表されるように、増村の群像劇は喜劇であることが多い訳ですが、彼の群像劇の特徴として登場人物の心理描写を極力排し、絶えず誰かが誰かに向かって喋りまくることによって人物間の構図や関係、つまりシチュエーションを外側から形作っていくというような点が挙げられます。登場人物が少ない映画では過剰なほどにエモーショナルになる増村の人物像ですが、群像劇における増村の人物像は、その結果どうしても深彫りされません。彼らはひたすら喋り、動くことによってしかキャメラに切り取られないのですから、立ち止まって思考したり愛し合ったりということができないのです。

 

翻って、群像劇である『シン・ゴジラ』にも全く同じことが起きています。この映画の登場人物は、常に早口で喋りまくります。執拗にカットは切り返され、喋りの文字数は加速度的に増えます。そうなると自然とそれぞれの人物やそれぞれの発言の意味性はカットや文字数の多さに反比例して減じていき、結果的にシチュエーションが心理描写といった内省的な要素でなく、人物の動きから構造的に形作られるという様相を呈します。そして、現在の映画が往々にして情緒過多であると言われがち(あえて「言われがち」という表現を使ったのは僕がそういう映画を観ていないからです)である以上、この手法はひとつのカウンターパートとして大きな説得力を持つことには何の疑問もありません。また、過度な説明がなされずにひたすら人物がゴジラに向かって「動き続ける」ということが一定のエモーショナルな説得力を持つことは、前のエントリで拙いながら論じたので、あえて繰り返す必要もないかと思います。

 

 

一方で、この映画の動因は「ゴジラを倒す」こと、それのみです。いや、「倒す」ことさえ庵野には蛇足であるかのようにも思われます。巨大というより時代錯誤的にまで仰々しく拡大されたバロック音楽調のBGMに乗せてゴジラが夜の東京を灼き尽くすシーンの暴力性は正直ひとたまりもないというか、スペース・オペラものにおける戦闘シーンなんかよりも遥かに恐ろしく、実感に迫ってくる恐怖と無力感がありました。このリアルな無力感が恐らく特撮ファンにとってはたまらない部分なんだろうなと思いますし、『巨神兵東京に現る』(2012)は完全にこの『シン・ゴジラ』のプロトタイプだったんだなと納得も行きました(事実『巨神兵』で見たショットが何度か出てきたので)。

 

逆に言えば、それ以外で庵野が言いたいことは、多分、ありません。恋愛要素がそこでいらないのは当たり前なのですが、人間を描く映画ではない以上、それ以外の心理描写も必要ありません。この点が増村と決定的に違う点です。増村の群像劇が結果的に人間を描くことに主題が収斂していくために、映画の動因はある決定的なショットの反復になります。あるショットが起点として物語が発生し、そのショットが反復された際に、起点として示されるショットと反復されたショットで全く意味が異なる(反復されることによってあるショットが違った意味を持つ)という事態そのものに向かって映画はうねります。注意すべきは、ひとつの感情を描くために物語が生起するのではないということです。そもそも、ある感情を描く為に表層が要請された際に、その表層もろとも描かれる感情が陳腐になってしまうことは表層の性質上自明ですから(前エントリ参照)、そのような陳腐さに堕することはまず増村はありません。

 

その意味で言えば、『シン・ゴジラ』には描くべき感情はもちろんなければ、人間のさまざまな相を映し出そうという魂胆さえもないと来ています。描くのはただ「ゴジラ」だけであり、それを物語にするために、しょうがなく、「ゴジラを倒す」ことを動因としています。その動因に上に挙げたような「心理描写を排することによってシチュエーションを構造化する」という手法を組み合わせると、人物像は極めて戯画化され、複雑な相を持った人間像は立ち現れません。そうなると、悪人か善人か、というようなアホみたいな二項対立が出現してしまいます。そしてこの映画における「悪」はゴジラだけなので、登場する人間は全員めちゃくちゃ善人みたいな事態を免れないのですが、実際そうなっています。そしてそれが行き過ぎた結果、ド級のプロパガンダ映画に(恐らく図らずも)なっているというのが、この映画のもう一つのいびつさです。プロパガンダ映画にしようとしている訳ではないのは、長谷川博巳がヤシオリ作戦に向けて自衛隊員を鼓舞するシーンのヒロイズムに観客を純粋に没入させるだけのいかなるプロパガンダ的強度もそこにはないという事実で自明でしょう。

 

これは、かのポール・ヴァーホーヴェン監督が『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)において見せたいびつさと全く同種のもののように思えます。ヴァーホーヴェンはハリウッド的方法論のストーリーテリングを用いつつもときには悪趣味とまで形容される容赦のない暴力描写で有名な監督ですが、『スターシップ・トゥルーパーズ』は彼のフィルモグラフィの中でも残虐度トップクラスの暴力描写を誇ると言われています。軍隊の訓練中の実弾誤射でわざわざ吹っ飛ばされた脳味噌を丹念に映す必要はありませんし、モンスターの人間捕食シーンも四肢が引きちぎられて骨や筋がバッチリ見える物語的必然性もどこにもありません。ヴァーホーヴェンのこの映画における動因はただ一つで、「モンスターによる人体破壊」しかありません。効果的にモンスターを動かしてよりグロテスクな人体破壊をしたいというシンプルな欲求によって、この映画は人体破壊映画としての非常に強い強度を獲得しています。しかし、人物描写はチープであり、また国防軍対モンスターという構図を取っている以上、もっともそこにおいて「とりあえずの」物語性の付与に貢献しうるのは、やはりプロパガンダでしかないという事実を『スターシップ・トゥルーパーズ』は示しています。その点を履き違えると、その「とりあえずの」プロパガンダに呑まれてしまう危険性は、扱っている団体が一応実際のものであり、かつナショナリズムと密接に結びついている『シン・ゴジラ』の方が高いのではないでしょうか。物語が単純であるだけに、また「ゴジラ」という存在がどこまでも空洞でありながら記号性の高い存在であるだけに、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりも『シン・ゴジラ』がプロパガンダとアナロジーについての言説を誘引しうることは、容易に考え得ることです。

オタクが自分の部屋で自分の好きなフィギュアである「ゴジラ」をひたすら愛でる、こういってよければものすごく熱烈なマスターベーションの結実が『シン・ゴジラ』なのだと思います。そのマスターベーションは、ああ確かにマスカキだけど、でもなんかめちゃめちゃすげえマスカキだ、と受け取るべきなのでしょう。しかし、そこに意味やアナロジーを読み出すことは、やはりどうしたって徒労にしか思えないのです。ものすごく一生懸命なマスターベーションは、ものすごく一生懸命なことに感動するのであって、マスターベーションすることに意味がある訳ではありません。きっと庵野は、シコりたかったからシコった、撮りたかったから撮った、ただそれだけなのだと。