思考停止

映画、本、音楽、など

女の頭に金属バット――Vtuberとリアリティショーの倫理、射精するオタク

 昨今、トレンディでTwitterをコロナ騒動をさておいて賑やかにさせた「テラスハウス」、並びに「リアリティショー」とSNSの問題を、僕などは「こんなもんヤコペッティの時代だったらなんでもなかっただろうが、あれはそういうもんでもないし、モキュメンタリー的表象を存外素朴に受け取ってしまう人たちが可視化されただけだなあ」程度に思っていた。僕は大昔にアダルトビデオの中で、虚構と現実のあわいがセックスシーン以外において強度を獲得してしまう事態がX監督、希志あいの主演『スキャンダル』(2015年、アイデアポケット)において生起しているが、そこで起こっている事態が虚構か現実なのかははっきり言ってどうでもよく、その「曖昧な虚構」が非常に審美的であるという文章を書いたことがある。というかアダルトビデオ自体がそういった曖昧さと厳密な意味でのドキュメンタリズムに裏打ちされていることについては映画学者の加藤幹郎も指摘している通りである(『日本映画論~』所収)し、その背景には日活ロマンポルノの戯画的なカラミのシーンから露悪的なリアリズム*1へと性表象自体が、それこそ「リアリティショー」的に審美的な感性を失っていったことと同義である。僕が「リアリティショー」において最も問題であるのは――ここでもっぱら問題にしているのはそのショー自体が観客の衆愚性によって成り立っている点であるが――観察者と実験体という、本来であればショーを見る側のテレビの前にいる我々が「観察者」としてシンプルな二項対立に落とし込むべきところを、「実験体」を見る「観察者」を代弁する存在(「テラスハウス」においては山里亮太やYOUがその位置を占めていると記憶している。「バチェラー」でも同様の構図があったと思われる)を我々の「メタにベタな」観察者としての性質をSNSという(イデオロギー的な)メディアが担保、ないし絶えず自己規定を繰り返すという構図によって現代的な意味での「リアリティショー」が孕む根源的な悪性を指摘することはできる。斎藤環が今回の件に関して言うような*2コロッセオにおける見世物のアレゴリーは現代的「リアリティショー」が根本的に含む衆愚の悪性とその可視化という点においてニアリーイコールであっても(鏡像的に)等価ではない。つまり、今回明らかになったことはこういうことだ。大衆は、「似非」リアリズム的表象の前において、みんなバカで救いようがないほど非倫理的である、と。

 

・今回の問題でVtuber(あるいは月ノ美兎の功罪)を巡る仮構されたリアリズム

 また前置きが長くなってしまった。僕はテラスハウスやバチェラーをまともに見たことはない(テラハは大学1年生のとき陽キャ集団に混じって見させられたが、その数日後に彼らとお茶を飲むことも飯を食うこともなくゴダールを観ている自分に悦に入っており、結果的に悦に入ってゴダールを観ていた僕が倫理的には正しいと後から正当性を持つわけだが、多分当時においては僕はただのイタいオタクだった)。何の話をしたいのか、そして僕は何に上の序文で書いたようなオタク早口で訳も分からずキレ散らかしているのかというと、僕の愛するコンテンツであるVtuberに対する言及において、例のテラハ事件から、Vオタクの態度を改めなければならないのではないか、リアリティショーと化したVtuberは衰退の一途を辿っている(リアリティショーとは全く関係ないが、Vtuberが「オワコン」なのはまさにそうで、後始末がもうすぐ来るかもう少ししたら来るかでしかないだろう)、そして何より、「バカな女を嘲笑ってコンテンツ化する」ような『ヘキサゴン』的な倫理観のなさの蔓延が……という意見を目にするようになったからだ。これは「正しい」のか、という自己欺瞞が反復されることなく、エラい美術学者の先生が「無料のものなんて悪質なので、お金を払いましょう」などとのたまう始末。たまたまTLに流れてきたが、以下の記事が「我々オタクはリアリティショー的な露悪趣味の倫理観を捨て、Vtuberなんかもうやめよう、これは彼/彼女らのためなんだ」的意見が読みやすくまとまっている。すごい雑な要約をしてしまったが、議論の飛躍はなく精密で、文脈を押さえた良い文章だと思う。

「リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん」

https://not-miso-inside.netlify.app/blog/better-stop-watching-vtuber/

 まずこのブログがとてもいいのは、Vtuberのオタクが一斉に「コケた」メルクマールが確実にある(これは『バーチャルさんはみている』というアニメを指す。ある程度のVtuberオタクであればこのアニメの名前が出てきた時点で察しがつく)と措定した後、記事の題名にある「リアリティショーを批判するオタクだってVtuber観てるじゃん」という人格の変容とショーの問題に我々のようなオタクが「観察者」として関わっていると指摘し、そのような非倫理によってショーが再生産され続けるととてもむごいことになるし、現状はむなしいものだ、と結論づける。運びとしては非常に鮮やかであり、彼の指摘は「虚構と現実を軽やかに行き来できる、ショーで承認欲求を満たさないようなVtuberには可能性があるが、それ以外に関してはもう後始末をするときが来たのではないか。その幕引きは、我々オタクの良心と倫理と知性にかかっている(が、オタクは基本バカ)」というものに見える。電脳少女シロやアイドル部に入れ込んだと思われる書き手の以下の段落は、愛するコンテンツに対してハードコアに絶望したくないからこその断末魔のように見える。

顧客が本当に求めていたものはなんだったのか? と私は考える。アニメから出てきたYouTuberだったのだろうか? 変なことを言って楽しませてくれる電脳世界のキャラだったのか? 最先端の技術と結びついた、リアルタイム3D技術だったのか? それとも、人-キャラ-設定の三つ組みが相互作用しながら発展していく、哲学的に深遠なところのある娯楽だったのか? それとも? それともなんだったのか?

  この叫びは悲痛だ。少なくとも僕にはそう見える。僕は2人のVtuberについて、一方ではこのブログに載せた御伽原江良のアンチ・ナンバユウキ、アンチ・ユリイカ的な批評や、一方で別のnoteには轟京子についてのある意味ベタベタなキャラクター読解*3を書いたりなど、彼の言うところで言えば「哲学的に深遠なところのある娯楽」として無邪気にVtuberを楽しんでいた。そして、多分そうではなくなってきていることは僕にだって分かっている。つらいところではある。では、Vtuberとはなんだったのか。

 そもそも、「キャラクター」とかいう概念は、Vに限らずアニメやアイドルにおいても存在しているし、件のナンバ論文はそこをキャラクタ・ペルソナ・パーソンと単純に図式化してしまっていたのだが、僕はそのあたりが癒着してどこからどこまで、と言えないのが「危うさ」であり魅力だとは御伽原江良のファンをやっていたときから思っていた。綾波レイは<母>であり『エヴァンゲリオン』はファルスの去勢?『まどマギ』『ピンドラ』も宗教思想やら精神分析やらの批評が横行していた。僕は日常系アニメが大好きで、『ゆゆ式』については「日常系アニメのノリが分からない」という知人に「いや、『ゆゆ式』は終わりなき日常の肯定でありつつ、5話でゆずこが現存在の死の固有な可能性に言及していたりしていますよ」*4などというアホ丸出しの寝言を言っていたこともある。もっと生臭い話をしよう。僕は生身のアイドルのオタクをなんやかんや10年ぐらいダラダラと続けていて今はK-POPに関心があるが、2011~2年は『アイドル領域』や『ソシゴト』などの同人誌に、哲学や社会学、宗教思想に関心のある気鋭のインテリ――概ね修士以上の研究者か駆け出しの批評家だった――が大喜びでAKB48論やももクロ論を書き、文フリのポップには宇野常寛や濱野智志といった批評家がコメントを寄せていた(今思うと下手にそっちに手を出さなかった東浩紀は興味があったにせよなかったにせよよかったのかも……と書いていて思ったが、彼はエロゲーに詳しかったのだった)。中学生ながらそっち界隈に知り合いの多かった僕はアイドル批評の同人誌を割引で買い、楽しく読んでいた。今ではその辺出身で商業ベースでアイドル批評を生業にしている人も知っている*5

 何が言いたいのかというと、声優を前提としているアニメなどでさえもが、文脈や発言、見た目など、その他もろもろによってときに全く無意識な形で、「キャラクター=テキスト」として立ち現れ、「読解」や「解釈」、「批評」の対象となってきたことを(主に「オタク文化サブカルチャー」において)否定はさせない。そういう文献が山ほどあるのだし、そしてこれはVtuber論を一円の利益もないにも関わらず何万字とか書いてきて、勿論アイドル批評というものも書いてきて最近強く感じていることがある。「もしかして、僕は、全くの白紙、あるいはヴォイニッチ手稿のような読解不能なものへの認識を捻じ曲げることによって、全く別の文脈を引き入れて「読解」ではなく「創作」をやっていたのではないか……?」と。というか、これは事実である。自己弁護をすると、スノッブゼロ年代オタクの「フーコードゥルーズの語彙で深夜アニメを解説する」的なクリシェはずっと前からあるわけで、僕はいくらかマシ(と思いたい)ではあるものの、そういうオタク文化のオーセンティックな部分を悪い意味で継いでいる。そして段落を変えないまま具体的なVtuberの話をすることにする。にじさんじに所属し、またブランドの象徴的存在でもある月ノ美兎は上のブログ記事にも登場するし、『バチャみて』でもにじさんじからの唯一の出演(これは名誉ではない)ということで引き合いに出されるが、彼女は初期の「ムカデ人間」発言や「みとらじ」の気の利いた発言で一躍エースに躍り出るものの、セルフプロデュースが上手いというより「なんとなく面白い、頭の回転が速くて喋りがうまい、古いインターネットの人」止まりだった。しかし、彼女が精神分析やらなんやらのキャラクター解釈のスノッブな元ネタを知っているとは思えないが、恐らく本人が「インターネット」の持つ時代区分や、知的オタク層にウケのいいネタ*6に興味があったりして、エピソードトーク(ダッチワイフ風俗、クリオネ食、競馬など。当たり前だが、メタ演出以上に上の書き手で言えば「エゴの切り売り」がウケることの証明になってしまい、悪い意味での彼女のリアリズムが非倫理的な見世物としての「リアリティショー」的Vtuberの振る舞いを基礎づけた面がある)なども含め、配信型Vtuberのある種のフォーマットの決定は彼女が行って「しまった」と言ってもいい。もう分かるか。Vtuberというコンテンツがあらかじめリアリティショー的衆愚だったのではない。「配信型Vtuberのリアリティショー化は、要領の良い人が行った結果真似するバカが量産されて、配信者もオタクもバカは死んでいく。そしてバカが支えるコンテンツでバカが死に、コンテンツが死ぬ」のだ。そういった意味で、「四天王」や初期アイドル部、「Ctuber」前のゲーム部プロジェクトにおいて生じていたが見えづらくなっていた、Youtubeというプラットフォーム上自然発生する衆愚的な面、あるいはコンテンツの提供者と消費者間の関与可能性と微妙な軋轢を可視化したのは、上の書き手が言うようににじさんじ~ときのそら以降のホロライブといった生配信Vtuberの方法論のフォーマット化のある種の「失敗」――インターネット的露悪を意図的に巻き込める存在がスタンダードになってしまったという意味で――だったという指摘は可能であり、なので上の記事の主張と僕の主張はそんなにずれていないはずだ。元々、キャラクターは空洞で何もない(ウゲーという言葉を使うと、シニフィアンでしかない)。意味付けできるのは「ペルソナ」、つまり虚構と中の人の距離感によって生じるフワッとした人格である。「四天王」的キャラクターへのベタベタな癒着のカウンターに、月ノ美兎という奇妙なペルソナがいたことはVtuberにとって、本当に幸福なことだったのだろうか。だからVtuberとは何か?という上の問いには、こう答えよう。そして次のセグメントに接続する。コンテンツ、商品、消費の対象、「かわいい」表象のゼロ、そしてオタクのオカズだ、と。

 

・全部一回忘れてもろて

 上の記事で、書き手は今のVtuber界はむなしい、文化の成熟だろうが、市場の拡大だろうが、それでもやっぱりむごすぎないか、と言っている。変な言葉遣いだが、お気持ちも論理も文脈も、よーく分かる。シロちゃんとアイドル部好きだったらやっぱり毎週ガリベンガーを観たりしていただろうし*7、バチャみてで苦痛を感じたりするのも分かる。ケリンの地上波のザマは僕も思い出したくない。ただ、だ。「むごくないか」、と彼は言う。最後に、「倫理的なものにお金を出そう」と。以下の引用は、「リアリティショー」が露悪的で非倫理的な概念であるという前提があると思われる。

視聴者は過激なものを求め続ける。女性同士が話し合ったらやれレズビアンだ米を炊け金をまけと大騒ぎする。オフコラボでもしようものなら、性交の隠喩や、もっとどぎつい修飾語が飛んでくる。対人関係は戯画化され続ける。それも、あなたの現実世界の対人関係がだ。あなたがうっかり話したバイト先の先輩はレズビアンにされ、あなたと毎晩、黒光りする双頭ディルドでハメ合っていることにされる。あなたを守るキャラクターの壁はない。顔だけが美しくなったおまえが、インターネットの祭壇にあげられる。おまえの日常は、おまえが話すほど、徹底的におもちゃにされる。それに耐えられるだろうか? そして、これと『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?

もし、ここには善意があるから大丈夫だ、というなら、それは間違えている。視聴者は暗に陽にキャラクターを勝手にインポーズして、再解釈して、生身の人間に押しつける。「デビューから一年たってついに同期のことを呼び捨てになるのが尊いんだよな」。「XXに告白され限界オタクになってしまうYYYの絵です」。1000人以上の人から、週三回、「エッチだ……」とリアルタイムで言われて、精神的に健全でいられるというなら、あなたはおそらくすでに狂っている。

  「『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?」――この発言が、書き手に則って言うのであれば、倫理的に妥当である場合は一つしかない。アニメキャラ、アイドル、声優、なんでもいい、その類のものに関して、一度たりとも対象となる存在の尊厳を侮辱、蹂躙することによって快楽を覚えたことがない、つまり本来的な意味で男根主義ミソジニーを持った「オタク」でない場合のみ、倫理的に妥当である。彼は「バイト先の先輩と双頭ディルドでハメ合い」、「日常が徹底的におもちゃにされる」場合の「おまえ」に呼びかけている。それは、どこの誰に対して言っているのか、正直全く分からない。何故か。女性キャラクターの男性オタクに必要な素質は、女性に対する想像力の一部あるいは完全なる欠落によるものだからだ。というか、僕は男のオタクなのでこう書いてしまったが、女オタクについても同じことが言える。つまり、先ほど上でも書いたし、僕がかつて異常な熱量でハマっていたTWICEの推しであるパク・ジヒョでオナニーするかどうかにおいては、「リアリティショーは残酷である」と発言可能な倫理と「ジヒョでオナニーする」ことが正当化できる倫理というものが別の論理で同時に成り立つかどうか、という話をかつてこのブログでしたことがある。結論から言えばそんな二つの倫理は二律背反を起こすに決まっているので、どちらの生き方を選ぶかなのだが、僕は「ジヒョでオナニーする」(アイドルでシコる)と、言わなければ生きられない生を生きているのだという形でその倫理を背負っている。

 だから、この書き手は「正常な人間ならすべてがコンテンツ化しショーになるような状況に追い込むのは非人間的であり、その観点から見てVtuberは悪質なリアリティショーである」と主張するとき、僕はそこに書き手の中に欺瞞が存在していないかと考えてしまうし、そもそもニコ生、あるいは中堅Youtuberとしてのマネタイズ(もっとも、ニコ生の収益還元率から「生主」で生計は立てられないが)においてセミプロからの引き抜き、そして美少女/美少年のガワがくっついている(例外はある)「配信型Vtuber」の消費のされ方、「てえてえ」「ホモ営業」「えっち」「センシティブ」を求めるオタクのあり方について、色々と問題系がごっちゃになってしまっていて収拾がついていない。もし書き手の中にアニメキャラやアイドルを巡って、性的なものでなくても、なんらかの形で欲望を抱いてしまったとするならば、僕はその欲望を肯定する倫理があると思っている。よく最近男オタクのミソジニーや、ポリコレがTwitterで散見され、こっちにもヤキが回ってきたかという気分ではある。が、オタク各位は、社会的尊厳、視線、そういったものから「キモい」とレッテルを貼られ続け、それを僕はキモくない!と言ったところで完全に無駄であることを知っているはずだ。その「キモい」というレッテルは、コンプレックスによる他者への想像力の欠如から来ているオタク自身がよく知っているからこそ、剥がしたり正当化できない。部屋の隅で好きなキャラクターでオナニーするオタクは、キャラクターを蹂躙し、独占している。無論、これは人として正しいかと聞かれたら、全く正しくない。だが、「顔に袋をかぶせて女を犯した」りするような表象や、「馬鹿な女を嘲笑す」る、本当に一般的な倫理においては甚だしく逸脱しているようなむごい表象について、正しいだの正しくないだのという話でも、正当化でもなく、そういう表現について一定の価値判断(「抜ける」でも「醜い」でもいい)を下すことのできる審級にいる人々は、オタクと呼ばれる人々である。そして、リアリティショーの倫理云々以前に、キャラクターという空洞に欲情し、その空洞を蹂躙できる――『闇金ウシジマくん』の、「人の頭に躊躇なく金属バットをフルスイングできる人間」がどれほどいるかというように――かどうかで、倫理の此岸/彼岸は決まる。そして彼岸に行ってしまったら、もう戻ってこれないことを、僕はよく分かっているつもりである。

 

・自分語りと、今のVtuberシーンで僕は何に絶望しているかというオマケ

 僕はVtuberのオタクになってしばらく経つ。輝夜月のおっぱいでシコり、血眼でiwaraをディグってキズナアイのエロMMDを観ながら「ダンスのシーンいる……?」などと思っていたので、比較的初期から追ってはいて(エロ目線で)、そのうちにじさんじが出てきて、本格的にハマったのは2019年の始まりぐらいに月ノ美兎のまとめ動画とか鈴鹿詩子のネコトモ配信を追い出してからだったと思う。なので、ユリイカバーチャルYoutuber特集とかは後追いで読んだ。御伽原江良にガチ恋して原稿用紙10枚の手紙を送ったり、OTNから轟京子にハマって誕生日メッセージを書いたりした(デビュー2周年のメッセージはサボってしまったが……)。両国は行けなかったけど幕張で椎名と一緒に動き回るチャイカの3Dに普通に感動した。ホロライブにもハマってからは宝鐘マリンをよく見ている。寝るときは周防パトラのASMRを聴きながらじゃないと眠れない。特ににじさんじにはめちゃくちゃ思い入れがある。去年の僕は諸事情で留年が決まって卒論の文献も読む気がせずかといって専門書以外の小説とかも読めず、映画も観てないし音楽も聴いてない、僕の好きなTWICEはメンバーの1人が精神的な不調で休んでいたので、マジでVtuberしか観てなかった。それで書いたのが御伽原江良論で、派生的にTWICEの文章などをブログに書き散らかしていたら、今僕の人生は去年の今頃からは考えられないぐらい私生活や文筆に影響が出ているのはVtuberのおかげだと思う。マジで。コロナの自粛生活もVtuberを知らなかったらかなりキツかった。だから、このVtuberシーンの現状を、認めたくはない。

  つまり何が言いたいのかというと、このシーンには理念がない。同じようなゲーム配信と同じような雑談配信が「好き勝手やっていい」の名のもとに複製され続け、それでもバカなオタクは金を落とし、商売のシステムがつまらない形で再生産され続ける。で、別にこのことは全然いいと思っている。そもそもオタク文化を含むポップネスは大量生産であり、その結果似たようなものの差異を選び取ることが基本的なキャラクター商売だ。しかし、理念が何によって生まれるかというと、ちょっと前の僕は批評にあると思っていた。10年近くアイドルやアニメ、Vtuberのオタクをやってきた。その過程で、中学時代はアマプロ問わずアイドル批評を読み漁って思想家や哲学者を知り、高校時代は人文思想にどっぷり浸かりながらTwitterで知り合ったインテリのアイドルオタク達と居酒屋(僕はコーラを飲んでいたが)で、かたやルーマンやゴッフマン、かたやハイデガー、かたやウィトゲンシュタインなどの話で各々のこじつけアイドル理論を熱弁していた(当時は乃木坂46にみんなハマっていた)。結果的に僕は文学部で哲学を専攻して同人に参加し批評を書いている。つまり、「オタク文化にこじつけて人文に興味を持ったら人文が専門になったオタク」が僕であり、そしてそういうオタクの絶対数は決して少なくないはずだ。僕もこの10年でときに拙く、徐々にテクニックを身につけながら、女性キャラクターについていっぱしの「批評」をかませるようにはなった。なったら分かったのだが、これは、マジで何にもならない。上で、僕は「女性キャラクターなぞ蹂躙してシコるものだ」などというすごい暴論をぶっている。キモいオタクがいきなりナイーブになる方がよっぽどキモい。だが、そのメンタリティのオタクはこんな文章など読まない。分かりきっているからだ。僕がシャニマスの黛冬優子で射精しまくりながらこのような文章を書いている間、オタクは意に介さずチンポをしごく。文章など書かない。オタクは倫理を持たざる衆愚であることは知っているし、そして僕もそのうちの一人だ。オタクにも響かなければ、批評対象になんらかの影響をもたらすこともない。それは、「アイドル批評」全盛期に、知性と言説でポップカルチャーをアップデートしよう!という動きに目をキラキラさせて乗っかっていた少年時代の僕と、その後の「アイドル批評」の体たらくを間近で見てきて、疲弊しているというのもある。くたびれた全共闘時代のオッサンと大して精神性は変わらない。AKBはガラパゴス化してスキャンダルはほぼ無意味化し、地下アイドルの対バンはホモソーシャルを強め、批評的と言われていたももクロイデオロギーの解体すらなくよく分かんなくなっている。言説によるアップデートなどが可能なのかという問いに、僕はVtuberに限らずポジティブな答えを与えられなくなっている。

 「Vtuberのリアリティショー的批判」の正当化は、倫理の問題ではなくインタラクティブの醜悪さにある。美意識と理念がないことが問題なのだ。「後始末」を見据えつつ、撤退戦をしながら、審美的なインタラクティブの可能性を模索し続けることは、Vtuberというコンテンツにおいて不可能ではないと信じている。今のところは、「彼岸」のVtuberオタクとして、その可能性にすがりつくよりはない。倫理ではなく、美意識、金、人の数が、結局コンテンツを動かすのである。

*1:露悪的なリアリズムという言葉遣い自体の意図としては、例えばフローベール的なそれではなく、どちらかというと映画史における古典ハリウッドからネオ・レアリズモへと至る「もっともらしさ」(=現実との整合性)ではなく、表象それ自体が持つ現実とは別次元の説得力、という意味合いで使っている。露悪的な、という言葉遣いは表象の説得力が一般的な倫理観から外れている程度の意味合いで、ここで問題になっているのは表象だということに注意してほしい

*2:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72994

*3:https://note.com/anusexmachina/n/nc3bc30b89129

*4:『キルミーベイベー』もめちゃくちゃ好きだが、あれは割とアニメ自体が脱文脈的だったのでそういう物言いを作品自体が拒否していたような感覚がある。他のきららアニメに関しては普通に消費してた

*5:この辺の界隈の話をするとマジで生臭いし今でも関わってる人がいるのでやめておくが、何故かクラシック音楽評論のプロの人たちとコネがあったりして、「アイドル批評」があえて雑な物言いをすれば「サブカル」しぐさであるかのように見せかけてインテリのハイカルチャー業界が癒着していたという事例がままあるなど、10年代初頭はその辺が曖昧で、僕は振り返ってもこの現象がダメだったとはあまり思っていない。特にお世話になった方はアマチュア「アイドル批評」に身を沈めて音信不通になってしまったという心が痛むこともあった。多分よくある話だと思う

*6:百物語の「中の人」をいじるメタ演出など。あれは月ノ美兎の想定通りnoteのVtuberタグが月ノ美兎一色になり各々の批評もどきを嬉々としてオタクが量産していたが、あまりにもメタがベタだったので、恐らく意図して自らを「テキスト化」できるほどの能力が本人になかったし、また視聴者のオタクにもなかった。何よりどこかで指摘されていたが、メタのネタが売りだった月ノ美兎が中の人とガワの単純な二項対立に自分のアイデンティティを還元するのはあまりにも凡庸なのではないかという部分があり、プラットフォームの劇場化については同じブランドであれば雨森小夜が抜きんでているのでは……など。この辺りはnoteの「Virtual Life」というマガジンに有象無象が載っている

*7:ちなみにYoutube板のヲチが日課だった僕はガリベンガーに月ノ美兎や本間ひまわりが出演したときドル部とにじさんじアンチスレを交互に見てお互いのオタクが双方のVtuberをボコボコに叩くのを見て爆笑していた

ONCEになれなかったヲタクの嘆き、あるいは生き恥

 僕はTWICEが好きだ。Twitterでもこのブログでも、ことあるごとにTWICEのことを書いている。去年のMステで「BDZ」を観て衝撃を受け、MVを舐めるようにディグり、東京ドームのライブに足を運び、ハイタッチ会で推しのジヒョに会うために3万円分CDを積んだ。13歳でAKB48でアイドルのヲタクになってから随分経つが、こんなに金と時間をかけて応援しているアイドルは、多分TWICEが初めてだと思う。

 ちょっと迂遠な書き出しになるが、最近の「正直に言って」という枕詞は、露悪的な言い回しに対するうしろめたさや罪悪感をごまかすために機能してしまっているような気がする。正直であることは良いことであるはずで、わざわざ「正直に言って」などというエクスキューズは本当に言葉通りの意味で正直であるはずならいらないものなのだ。というエクスキューズにエクスキューズを重ねて言うならば、最近Twitterで見るONCE(TWICEの公式ファン名)を見ていると、「正直に言って」、気疲れすることが多くなった。こんなことを言うと人格を疑われるが(そして僕の人格は客観的に見て相当終わっている)、僕が10年近く女性アイドルのヲタクをやっているのは実生活で関わる女性が大嫌いだからだ。だから、ミソジニストと言われても、そうですね、という言葉しか出てこない。小学生のときからバスケ部の女子に集団リンチに遭い、女子ばかりの吹奏楽部に入って部長候補にまで上り詰めたにもかかわらず「キモいから」という理由で部長を下ろされ、今はバイト先の後輩女子にタメ口を利かれて完全に舐められている。やっとの思いでできた彼女とは本当にしょうもない喧嘩別れで関係が終わった。もう、こりごりなのである。そんな中で、女性アイドルは救いだった。散々自分をバカにしてくるリアルの女性とは違って、画面の向こうのアイドルは(ヲタクの薄汚い欲望にまみれて)キラキラと輝いていた。「都合が良い偶像でオナニーしてるだけ」、まさにその通りなのである。僕は、女性のことが大嫌いで、女性アイドルのことが大好きで、この二つは矛盾しない。もう変なおためごかしで格好をつける気力もなくなった。僕がアイドルを、TWICEを愛するのは、女性への私怨と憎悪の裏返しであることをいい加減認めなければならない段階に来ている。

 以下の文章は、TWICEとONCEを通じた、僕というアイドルヲタクの終わることのない自分語り、無間地獄である。「ONCE」でありたかった。そうなろうとした。でも、なれなかったし、もうなる気もない。しかし、こんな思いをしているTWICEのヲタクは、決して僕だけではないはずなのだ。というか、僕だけであってたまるかという気持ちがある。ONCEというファンコミュニティ以上に精神性を共有している共同体から爪弾きにされてしまったという疎外感を持つヲタクの立場に、僕は立っていたい。代弁しようとかそういう話ではなく、僕というはぐれ者を見つけて、似たようなはぐれ者の人が安心してほしいし、何より僕が安心したい。これは、コンプレックスまみれの一人のヲタクの、惨めなモノローグである。

 

・『Feel Special』と個人的TWICE観

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 つい先日の9月23日、TWICEはカムバックを果たした。今回のカムバックがただのカムバックではなかったことは、TWICEを追いかけているヲタクにとっては当然のことであった。『Feel Special』がスゴいというのは良い記事がインターネットで死ぬほど読めるから、このカムバック以前についての個人的TWICE観と僕にとっての『Feel Special』の話をすることにしよう。

 『FANCY』以前の、ティーンエイジャーの恋愛を「カラーポップ」という正直よく分からないジャンルに乗せて歌い踊るTWICEに、何の不満もなかったかというと、そういう訳ではなかった。あなたが好き、こっち向いて、という旨の歌詞を金のかかった分厚いポップサウンドに乗せて9人の可愛い女の子が歌って踊っていたら、それはまあ当然魅力的である。声も、低音が充実していて黒いグルーヴ感を演出できるジヒョ、歌い出しでグッと曲の世界観に引き込み、サビでもメインの音域を担当するナヨンのメインボーカルの2人を中心として9人それぞれに存在感があり、確かに他のK-POPのヨジャグループとは一線を画していた。ヴィジュアル面で文句のつけようがないのは今更僕が言うことでもないだろう。しかし、しかしである。僕はこれだけのポテンシャルを持った女の子が集まっておきながら、ポップに恋愛を歌うだけでいいのか?という思いを持つようになった。

 そもそも、TWICEに集まった9人の女の子は、全員は紹介できないが結構変な子たちである。とりあえずは動画を見てほしいのだが、例えば「SIXTEEN」のジョンヨンのLady Gaga「Applause」のパフォーマンス。

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化け物じみたスタイルの良さを持つジョンヨンだが、リュック・ベッソンフィフス・エレメント』を彷彿とさせる衣装を選び、目をひん剥いて棒立ちで歌うジョンヨンを観た時、「マジで変な人だな」と思った。まだ練習生なので歌が上手い訳では決してないのだが、表現力もある。

 あるいは、モモとミナのコンテンポラリーダンス

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モモは今年の初めの方に足の小指の骨を折った(何故かトイレで)のだが、V LIVEで「私は弱い人間ではないので足の骨を折った程度でダンスはやめない」と発言するという本気でアホなのかサイコパスなのかのどっちかとしか思えないエピソードもあり、このパフォーマンスで見ることのできるモモの表情は「妖しい」とか「猟奇的」とかの形容を越えて完全にイっている人間のそれである。ミナペンの人には申し訳ないが、モモが大変なことになっているのでミナを完全に食ってしまっている。

 全員の個別的なパフォーマンスは挙げられないが、要するにTWICEは「真面目で、誠実で、可愛いが、変な人」の集まりである。というのも当たり前で、プロデューサーのパク・ジニョンが現役歌手時代ピチピチのTシャツと短パンで踊り狂う変な人だからである。アイドルは、本質的にグロテスクなものだ。ソロではないのだからひとりひとりが何かいびつなものを持っているのは当然のことだし(僕はそれを「個性」で片づけたくはない)、いびつさをいびつさとして提示したときにアイドルは輝く。話がかなり長くなってしまったが、『TT』に代表されるTWICEポップスを、屈折したヲタクとしては無邪気に賛美する気にはあまりなれなかった(「TWICE的」とも言えるイメージ形成に間違いなく寄与した曲だし、『TT』が入り口になった人はもちろん多いにせよ、個人的にたくさん聴いた曲ではない)。『TT』があったからこそ『FANCY』や『Feel Special』が生まれたんだ、という意見もあり、それはそうなのだが、ジョンヨンやモモ(やそれ以外のメンバー)が持つ特異さを知っていればこそ、『Feel Special』は別として、『FANCY』が出たときはやっとか、という思いがあった。60年代的な意匠が凝らされたスタイリッシュなコスチュームに身をつつみ、ド派手な髪色(最近はタトゥーだらけになっている)のチェヨンに代表される『FANCY』のカムバックは、個人的な趣味もありとても嬉しかった。

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 で、『Feel Special』である。『FANCY』~『Feel Special』の間の半年については、これまた死ぬほど文章があるが、触れざるを得ないので簡単に触れよう。「サナの炎上」、「ミナの不安障害による活動休止」、「ジヒョの熱愛」、大体この三つである。どれも難しい問題だが、特にミナについては露悪的なヲタクである僕でさえかなり慎重に言葉を選ばなければならない。『Feel Special』でM COUNTDOWNに二回目の出演を果たしたとき、ジヒョは号泣していた。当たり前だったはずの「9人」が、当たり前ではなかった。今もミナは療養中であり、いつ復帰できるか分からない。8人での活動が、TWICEにとってどれだけ複雑な意味を持つかは、TWICEにとっても、ファンにとっても、違った形で重い問いである。『Feel Special』は、サナやミナ(ジヒョについては喜ぶべきことなのだが、ジヒョにもダニエルにもガチ恋ヲタクはいるわけで、実際カン・ダニエルの熱狂的なファンがハイタッチ会でジヒョに嫌がらせをしようとしているのでチケットの譲渡には注意してくださいといった旨の注意喚起もあったりした)に代表されるグループの困難を、下世話になることなく、しかし物語化を引き受けて、血の通った楽曲とパフォーマンスに変換して世に問うた。その内実は、『Feel Special』について様々な記事が書かれていることからも、改めて僕が書くことでもないだろう。

 僕はアイドルの曲への向き合い方として、アイドルの物語と歌詞を重ねる聴き方と、自分自身に重ねる聴き方の二つで向き合っている。「物語」としては、なるほど、100点満点だ。流石餅ゴリ。では、自分自身に重ねるとしたら、どうだっただろうか。TWICEの楽曲は、上にも書いたが『CHEER UP』や『TT』、『What is Love?』など、ティーン女子の恋愛を歌ったものが多い。22歳ヲタク男性がライドできるものではない。ところが、『Feel Special』は、より普遍的なことを歌っている。特に心に残ったのは、「みすぼらしいNobody」や「何でもない存在」、「いなくなっても分からない人」といったネガティブな言葉が散りばめられていることだった。『Feel Special』は、価値がない自分が特別な何か――それは自分自身であっても、恋人でも、友人でも、テレビの向こうの人でもいい――に出会うことで、自分を価値あるように思えるようになる、という自己肯定のプロセスの歌だ。そして僕は、TWICEに出会うことによって、みすぼらしく、価値がない自分を特別な自分として認める、まさに「Feel Special」だと思えるように…………ならなかった。ここがミソである。アイドルがどれだけ輝いていようが、自分が惨めで卑屈な性格なのはどうしようもない。大事なことは、向上心を持つことだ。このままじゃいけない、と思って、自分で自分を認めなければ、スタート地点にすら立てない。そして、僕は自己承認が本当に下手である。こういう文章を書いてTwitterの感想やブックマークをもらって、ようやくなんとなく自己肯定感を得ることができるが、ベースが卑屈でコンプレックスまみれなので、それも一瞬である。TWICEが何を歌おうが、僕がキモいヲタクという事実は変わらないし、特別とは言わなくとも自分で自分を認めることがどうしてもできない。

 TWICEは、自分が今まで通ってきたアイドルの中で、最も精神性を重んじるアイドルだと思う。JYP三訓「真実・誠実・謙虚」に始まり、TWICEが人間としてファンを裏切ったり姑息なことをしたりすることはなかった。実際、TWICEが心の助けになったことは何度もあった。大学3年の秋、持病の精神疾患の治療で飲んでいた薬を減らしたら、離脱症状希死念慮にかなり苦しめられ、大学に行けなくなった。「外に出たら死ぬ」どころか「リビングに出たら死ぬ」(包丁があったりリビングのすぐ外にはベランダがあったり、など)という観念に支配され、暗い自室で1日中布団にうずくまっていたときに、なんとか自分が死なないで済んだのはTWICEのおかげである。V LIVEに上がっているシンガポール旅行やスイス旅行の動画全部を何周も観て、ああよかった、今日は死なないで済んだ、という日々は確実にあった。しかし、だ。僕がTWICEを観ているのはひとえに(離脱症状のときに助けられたのも含めて)「逃避」である。現実から、病気から、女性から、どうにかして逃げたいという気持ちでTWICEを観ている。そんな気持ちで、向き合っているとは言えない仕方で向き合っているTWICEに「君は価値がないと自分で思っているかもしれないけど、何かのきっかけで自分を特別な存在だと思えるようになるかもしれない」と言われると、かなりうしろめたい気持ちになる。すいません、僕がTWICEのことを好きなのは逃げなんです、自分で自分を認められない=自分からさえも逃げたいからあなたたちのことを観てなんとかやっていってるんです、本当にすいません……。『Feel Special』のTWICEが提示する人間像は、本当に立派だ。じゃあ、立派じゃない人は、TWICEのこと好きでいちゃいけないんでしょうか……?

 

・「ONCE」からの落伍

 女性として、人として、言うこととやることが一致しているTWICEというアイドル。K-POPのそもそものファン層が女性が多いということを考慮に入れても、TWICEのファンは結構女性が多い。Twitterでもそうだし、東京ドームやハイタッチ会で見る光景も女性だらけだ。やっぱり、見た目が綺麗だという以上に、同じ女性として尊敬できるという部分もあるのだろう。BLACKPINKなどに代表される「ガールクラッシュ」表象が、「女性から見てカッコいい女性」像として打ち立てられているのもそうだが、TWICEにしろ、K-POPは女性アイドルの精神性が日本のそれとはかなり違うというのは色んなヨジャグループを見て思う。そして、女性観や人間観も含めた精神性の象徴として、TWICEに限らず他のグループもファンに「公式ファン名」を与える。TWICEであれば、「ONCE」だ。「ワンスサランヘ~」とダヒョンやサナなんかがよく言うが、TWICEもONCEというファン名をかなり好意的に用いる。そしてONCE達は、自らがONCEであることが誇りのようだ。ライブ・イベント会場でラブリーグッズを身に着け、キャンディーボンをぶら下げ、トートバッグには缶バッジがびっしり。AKBの握手会でそういうことをするのは認知のためみたいなところがあるが、TWICEの会場でそのように「武装」するのは訳が違う。TWICEが好きであること、「ONCE」という呼び名を各々が背負うことが、ファン一人一人にとってのアイデンティティとなっている。

 しかし、僕はと言えば「アケカス」(AKBヲタクが用いる自虐的な蔑称)育ちである。というか、Twitterでアイドルのヲタクをやっているというとき、僕が中高生の頃見ていたのは「ヲタクであることの卑屈さ」である。アケ「カス」、乃木「カス」、地下「豚」、プラチナム「奴隷」「豚」、ヲタクは、アイドルが好きであることを、根本的に恥じていた。僕の育ったインターネットでは「オタク」と言わず「『ヲ』タク」と表記を変えることによってジャーゴン的なヲタクの気持ち悪さを自分たちから表明していたのも事実である。これは憶測だし、「自分がそうだったし、今もそうだから」式の牽強付会になってしまうことは承知の上で述べると、その恥ずかしさの裏にあったのは、やはりアイドルが「逃避」だったからである。僕が高校生のときよくつるんでいたTwitterのヲタク集団に、女性は一人もいなかった。アイドル現場で輪になって騒ぎ、居酒屋でドルシコ(アイドルでオナニーすること)論争を繰り広げる空間は、100%ミソジニーホモソーシャルによって担保されていた。結局そのヲタク集団はサークルクラッシャーみたいな女ヲタが現れて童貞のヲタクを食い散らかして空中分解する、という最悪の結末を迎えたのだが、それは置いておこう。とにかく、アイドルが好きであることによって自分のことも好きになれる、なんてことはあり得なかったのである。

 ここから先はかなり誤解を招く書き口になるので、予防線を張っておこう。僕は、ONCEであると自認する人たちのことをバカにしたり、攻撃したりしたいのではない。というかむしろ、本当にうらやましい。僕もできることなら、そういうアイドルの好きになり方をしたかった。TwitterやブログでONCEの方の文章を読んだり、直接話したりしてよく出てくるのは、生き方の問題や、誠実さについてである。「たかが」アイドルなのにTWICEについて話していたら自然と倫理の話になるのだから、本当にTWICEはすごい。僕はそういう人たちの文章に接する度に、この人たちはアイドルが好きなことが恥ずかしくないんだな、と素朴に思ってきた。これは僕のアイドル観がめちゃくちゃに歪んでしまっているからなのだが、20歳を越えてまともに異性と向き合わず、どう考えても普通に生きてたら遭遇するはずもないヴィジュアルの女の子のケツを追っかけている男性、本当に恥ずかしくないですか?あまつさえその女の子たちでオナニーまでしている始末である。我ながら救いようがない。僕は、ここまでの文章でV LIVEについて触れたが、実は僕はV LIVEをあんまり観ない。メンバー同士で、ときにはおちゃらけて、ときには真面目に、TWICEが語るTWICE自身の「人間性」みたいなものを見るのがめんどくさいのだ。アイドルには、完全に「パッケージ」、「コンテンツ」でいてほしい。ライブや歌番組で見せるパフォーマンスの表情の機微や、バラエティ番組でどれだけ面白いことを言ったりやったりするかの方が興味がある(「アイドルルーム」や「amigo TV」は同じものを何回も見るぐらい好きだが)。本質的に異性が怖くて興味も持てないのだ。そんなわけで、僕はずっとアイドルが好きな自分が恥ずかしい。アイドルが、TWICEが好きだと表明することは、「僕は女性から逃げています」と表明するのと全く変わらないからだ(こんなことを言っているが、TWICEの黒と金のトートバッグは普段使いにしている。デザイン的に言わないと分からないから使いやすいというのはあるが、TWICE好きな人に反応されると普通に嬉しい。こういう矛盾があることにも自分で自分に呆れ返る)。

 Twitterで、「ONCE」、「誠実さ」、といった文字列が目に入るたびに、言いようのない罪悪感を覚えた。どうひっくり返ってもこのアイドルに対するコンプレックスは言い逃れできないし、何よりそれに乗っかってそれっぽいことを言うのは一番良くないことだ。だから、逆張りのように僕は推しのジヒョでオナニーするかどうかと、結局ジヒョでオナニーしましたという記事を合わせて1万字ぐらい書いたし、Twitterでもしょっちゅうネタにしている。しかし、TWICEで下ネタを言う、みたいな露悪的な素ぶりは所詮表面的なものだ。それとは違う、もっと澱のように沈殿してしまった、TWICEを好きでいる(と表明する)ことのうしろめたさ、具体的に言えば「ONCE」からはぐれてしまったことの所在なさについて、何か言い訳をしなければTWICE自体が好きじゃなくなってしまうかもしれないとさえ思った。それでひねり出した僕の一連のツイートがこれである。

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172546555343040512

「アイドルは全くの他人」というところからヲタクが始まっているので、既にだらしがない僕の人生をTWICEを観てしっかりしようという風には思えなくて、ヲタクってそういう矛盾をTwitterで茶化すもんだよなと思ってたら、意外とこう、TWICEで自分の人生を肯定しようみたいな人が多くて、おお、みたいな」

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172548247983816706

これマジでそういう人たちを否定したいんじゃなくて、僕の母はBTS好きなくせに韓国が嫌いみたいな人だし、僕はそういうのはないんだけど、TWICEを観て頑張ってこう生きようとは思えないというか、TWICETWICEだし僕が怠惰で擁護のしようがないカスなのを特にどうする気もないみたいな矛盾はあります」

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172728400890318848

というかTWICEを好きでいることによって私たちの人生色々あるけど頑張ろう!メンバーも頑張ってるし!みたいなワンスのあり方についていけなくなってる感がある、TWICEを観ても僕は頑張れないし頑張ろうとも思わないので」

https://twitter.com/anusexmachina/status/1172730149093044226

「じゃあ何のためにTWICE観てんのって言われたら、まあ第一には単に好きだからですが、アイドルを僕が愛するのは女性や社会からの逃避としか言いようがなく、それで僕みたいなヲタクは決していない訳じゃないんだろうけど、TWICE愛する人の中ではあんまり見ないみたいな、そういう話です」

Twitterだと冷笑的な文面になってしまうのは僕のよくない癖だが、この文章で言いたいことはこの4つのツイートを引き伸ばしているだけである。というか、一番最初のツイートの「おお、みたいな」のところの説明がこの記事と言ってもいい。TWICEが立派だから、ONCEも立派にはなれなくても、誠実に生きよう。そういう姿勢にはなれなかった。もともと逃避だから、TWICEから何かを学ぼうという姿勢すらない。だからといって口を開けて消費するのは何か悔しいから、こうやって長い文章を書いたりTwitterでお気持ち表明してそれっぽいことを言いたい……もはや言うのも情けないが、これが僕というヲタクのTWICEへの向き合い方である。ONCEになれないのではない。なる資格がないのだ。僕はただただ、ONCEでも何でもない、「TWICEのヲタク」、こんな言葉はないがあえて言えば「トゥワカス」として、これからもTWICEを見続けるだろう。

 

・やっぱり、TWICEは大好き

 なんだか散々なことを書いてしまったが、冒頭に戻って言わせてもらえば僕は本当にTWICEのことが好きである。推しであるジヒョを始め、9人(あんまりこの数字を迂闊に使いたくはないが、それでも)が歌って踊る姿を観ると元気が出る。精神病で本気で死にかけた僕がなんとかこうして文章を書いていられるのはTWICEのおかげだ。でもやっぱり、つくづく僕は面倒なヲタクである。多分これからも女性を怖がって被害妄想を膨らませては勝手にキレて縁が終わる、みたいな失敗を繰り返すし、僕はそのたびにアイドルにすがるだろう。でも、そうやってしか生きられないのだ。生まれてこなければよかったとさえ思うこの人生を1秒でも肯定できる瞬間の一つがアイドルを観ているときであることを、今更変えることはできない。刻むような人生を、泥のように、生き恥を晒して、野垂れ生きるしかないのである。

 

 あと、TWICELIGHTSは幕張3公演、静岡2公演申し込んで全部外れました。なんというか、日頃の言動のバチが当たった感じです。推しであるパク・ジヒョさんに最大限の愛を込めて。

愛がいつか終わっても――風俗黙示録

・2015年2月、五反田

 高校2年生の冬、私はどん詰まりになっていた。所属していた吹奏楽部が定期演奏会を前にして一切コンディションが仕上がらず(私も自分で出した曲の譜面がまともに演奏できない状態だった)、退部者が続出し、完全に空中分解していた。中、高とまともに授業を受けず部活に全てを捧げた学生生活だったので、部活イコール自分だった。あまつさえ、来年度は私が部長の責を負うことが決まっていて、つまりはこの崩壊したグループを立て直せるかどうかは私にかかっていたのだ。曲が吹けないプレッシャー、5年間ホルンを続けてきたプライド、「次期部長」の看板の重さ……今振り返ってみれば部活の問題なんて、という感じもするが、学校の授業をサボって昼まで寝ていて部活だけ行く、みたいな生活をして高校を留年しかけるような17歳にとって、部活は何よりも優先されるべきものだった。

 グダグダの合奏が終わり、今日もダメだった、明日もどうせダメだろう、などと思いながら当時の次期副部長であった友人と帰りの西武線で一緒になった日のことだった。彼は高校時代一番仲の良かった友人だったが、これからの部活の方向性で若干意見が食い違うこともあり、あまり雰囲気は良くなかった(この時期が一番関係が冷え込んでいた)。いつもなら好きなAV女優や映画の話で盛り上がる仲なのだが、二人の頭の片隅には常に「今の部活をどうするか」が重たく存在していて、話の途中途中はうすら寒い沈黙に支配された。

「なあ、もうさ、風俗行こうぜ」

 今思えば唐突も唐突である。友人が沈黙を破って言い放った一言がこれだ。しかし、当時の私はこの急な誘いに、「おう、行こうぜ」とも言わず、黙って首を縦に振った。そもそも童貞の17歳二人、金も度胸もないが性欲だけは持て余している存在がストレスを溜めたときにする行為はオナニーしかなかった。というか、ストレスがなくてもとりあえずオナニーしていた。部活や人間関係の閉塞は、いつものオナニーじゃなくて、もっとスリリングで、エキサイティングで、刹那的な、そういう性体験でなんとかごまかせるのではないか――そういう期待を持たなければ、明日からの部活をもうやっていけない。かくして私と友人は、スマホで全力で安いピンサロをこれまでにない結託で調べ上げ、週末に五反田で会うことになった。

 日曜朝10時半、冬の五反田の空は高かったのを覚えている。神妙な面持ちで駅で待ち合わせ。当然、私も友人も外出前に入念に体のチェックをした。シャンプーを二回、股間を特に力強く洗い、歯磨きは歯ぐきから出血するまで行った。別に不潔にしているわけではないが、友人と飲んだ帰りにフラッと風俗に行くようになった現在からしてみると、なんとも微笑ましい話である。目当ての店は11時開店だったから、慣れない五反田の街を暇つぶしにぐるぐる見て回って時間を潰した。

 開店と同時に入店。事前に見ていたホームページで目星をつけていた子を指名、二回転コース30分で大体8000円ぐらいだったと思う。当然法律(条例?)違反のことをしているので、小心者の私は心臓が炸裂しそうになりながらおばあちゃんからもらったお年玉の1万円をボーイに渡した。「ウーロン茶と緑茶、どちらになさいますか?300円でアルコール類のご注文も可能です」「え、あ、ウーロン茶で」などとギクシャクしたやり取りをボーイと交わす。友人の方を見たら、見たことがないぐらい真剣な表情でチューハイを買っていた。バカだと思った。

 結局、あとで書くことにはなるが、自分の中で「風俗=ピンサロ」という図式が出来上がっているのは、この体験のせいだと思う。爆音で流れるEDM、謎のミラーボールに緊張しながら席に案内され、着席して一緒にサーブされるウーロン茶をとりあえず飲む。外は寒いので冷えたウーロン茶で余計に体が冷える。まず一人目、やってきたのはちょっと年の行ったギャルだった。「何の仕事してるの?」「デザイン系です……」むちゃくちゃすぎる三味線であるが、初めて自分の顔が老け顔であることが功を奏した。もうどうでもいいから早くしゃぶってくれ、と思いながら虚ろな会話を交わす。ほどなくして、彼女は「ズボン脱いで」と私に促した。親の前以外で陰部を露出する初めての機会がこんなことになるとは思っていなかった。寒さで縮こまった私のものを入念にウェットティッシュで拭かれ、しこうしておもむろに咥えた。感触より何より、口にものを含むために私の太ももの上に彼女が覆いかぶさったとき、背中にゴリゴリの薔薇の刺青が施されていたのが衝撃的だった。肝心のテクニックの方は今思い返しても水準が高かったが、明らかに今出すわけにはいかなかった。何故なら、二回転の後の方に指名の子が控えていたからである。多少危なかったが、15分を耐えきり、お目当ての子を待った。ようやく出てきた女の子は、写真とは別人だった。ここで17歳の性欲お化け高校生は、初めてのピンサロ、初めてのパネマジ(パネルマジックの略。風俗用語で、入り口の写真をPhotoshopなどで美人に加工することによって実物と少し、あるいは全く違うものになっている状態を指す)を経験することになった。そのあとのことは、正直よく覚えていない。何をどう頑張っても、私のものはうんともすんとも言わなかったことだけが、心に刻み込まれている。自分が悪いのは分かってはいた。前日に高まりすぎて三回オナニーした私に全ての非があった。苦い気持ちを抱いて退店し、よく晴れて乾いた冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。涙は出なかった。これが、私の「はじまり」だった。17歳から今に至る5年間の私的風俗史の、いささか長すぎるプロローグである。

 

 私は、「書かずにはいられない」たちである。クラシック音楽や映画、アイドルやバーチャルYoutuberなど、ジャンルを問わずひたすらに自分の好きなものを書いてきた。それだけではない。Tumblrで好きになった人への想いや、はた目から見たらいわゆる「メンヘラ」のような自暴自棄じみた、今読み返すとかなり恥ずかしいものも、やはり文章として残っている。だが――今思うとなぜこれだけ書いてこなかったのかと不思議だが――私が偏愛を示す風俗については、まとまった文章を書かなかった。これは後付けであるが、風俗についての言説は、かなり差別化が図りにくい。なんでもいいが、「諭吉で風俗」などのレビューサイトを見ると、それがよく分かる。何分コースで、こんな嬢で、こんなプレイをして、星いくつで……ほとんどそんな感じである。その店に行くための参考にするものであるからそうなるのは自然なことだが、風俗については「誰が書いても同じ」ものになりやすい。中には素人童貞a.k.a素童氏や素股三四郎氏などの卓越したレビューもあるが、それもやはり「プレイ」がどういったものなのかを詳細に述べるもので、私が書きたいものではない(私が書きたいものではないというだけで、彼らの文章は読ませる力があり、非常に影響された)。私が書きたいのは、プレイがどう、嬢がどうというよりも、風俗という場において立ち上がる空気感や緊張感を切り取ったものである。だから、風俗それ自体についても、プレイの内容よりも「このお金を払って性的サービスやそれ以外の何かを受け取った」と思える何かの方が私にとってはよっぽど重要である。

 ここでは、特に思い出深かった(中には現在進行形のものもある)3つの風俗体験について、どれほどの長さになるか分からないが、書いてみようと思う。私にとって、性は宿命的なものであるが、特に風俗を巡る情念には、何か言葉にしづらいものがある。私は5年間、何かがあっても、何もなくても、ことあるごとに風俗に行った。童貞を捨てたあとも、風俗は変わらず私の欲望の対象であり続けた。初めての恋人ができても、金銭を伴わないセックスを経験しても、必ず風俗に行った。バイトができない体になり、親から外出時にもらった3000円のお小遣いをパチンコで5000円にして大塚の3000円20分のピンサロに毎週通うなどといったどうしようもない時期もあった。風俗について語るということは、私という人間のしどけなさについて語ることだ。そして、そのしどけなさは、10人いれば10人違った形でそれぞれの中にあり、それはもしかしたら、その人間の立派なところや誇れるところよりも、大事にしなければならない何かであることだって、大いにあることだ。ならば、そのほんの一端を、言葉にする努力をしてみたい。

 ちなみに、以下は具体的なエピソードになるが、「是非行ってみてほしい」という思いもあるものの、中には「ルール違反」を伴うものもあるので、店の名誉のためにも「地名・営業形態・イニシャル」で表記する。お前ばかり良い目見やがって、という向きもあるかもしれないが、風俗はびっくり箱のようなものなので、諸賢におかれては是非自分の足で店に赴き、自分だけの風俗の楽しみ方を見つけてほしい。

 

・1.新宿の店舗型ヘルス・C

 これはランキング付けではなく、あくまでも個人的に印象的だった3つのエピソードを選ぶというものだが、後程3つめの項目で挙げることになるピンサロにしてもこのヘルスにしても、新宿は極めてクオリティが高い印象がある。信用度とアクセスの良さから風俗に行くときは大体新宿で、価格帯は大塚や池袋よりは高めだが得られるものから考えれば抜群のコストパフォーマンスを誇る。私は行ったことがないのだが、ソープの老舗・Kグループやデリヘルも多く、私は風俗に行ったことがなくて行ってみたいという友人がいたらとりあえず新宿の無料案内所にブチ込んでいる。

 あまり辞書的な説明をすると長くなるので簡潔な前置きをすると、「ヘルス」という風俗の形態は大きく分けて三つある。ラブホテルや自宅から電話をかけて女の子を呼び出す「デリバリーヘルス」(デリヘル)、店舗で写真指名してから近くのレンタルルームや安ホテルでサービスを受ける「ホテルヘルス」(ホテヘル)、店舗とプレイルームが一体になっている「店舗型ヘルス」(箱ヘル)と大まかに分類できるが(これより細かい区分は浅学なのでよく知らない)、この中では私はデリヘルのみ使ったことがないためホテヘルとの厳密な区分がよく分かっていない節もある。私は箱ヘルが手軽でよく利用するが、箱ヘルは手軽な分ハズすときは結構ハズす。ここで取り上げるCというヘルスはチェーン店で、渋谷のCにも行ったことがあるが、「ワースト」で書こうかと思ったぐらいひどいサービスだった。ディープキスなし、フェラなし、素股は下手クソ、シャワータイムも無言で挙句に結構重量級の嬢だったので、終わったあとボーイに12000円返せと詰め寄ったことさえある。流石に返金はされなかったが、相当頭に来ていたのが伝わったようで、平謝りされた。こういう場合は嬢の責任ではなく、教育していない店側の責任なので、文句を言う筋としてはボーイに言う方が一応正しい(というか風俗で文句を言っている時点で相当終わっている人種だが、それはこの際考えない)。というのも、新宿のCは一回しか足を運んでいないものの、かなり心に残る経験だっただけに、期待値が高かったのである。

 その日、Cに行ったことによって、結果的に2日連続の風俗になった。前日は友人と徹夜で飲み明かした後動物園でゴリラを見てピンサロに行き、この日は確か当時やっていたバーのアルバイトに出勤する前にCに行った。歌舞伎町を少し奥に入ったところにあるこの店は、結構古めかしい佇まいをしている。電話で料金を確認し、初回45分8000円とのことだったので、受付で電話で話を伺った旨を言うと、快く待合室に案内してくれた。風俗においてかなり重要になるのはボーイの態度で、嬢がいくら良くてもボーイのせいで台無し、みたいなケースはしょっちゅうあるが、Cは抜群の対応の良さである。靴を脱いでスリッパに履き替えるときは靴を揃えて分かるように置いてくれる、待合室への動線、プレイルームに移動するとき他の客と鉢合わせにならないようにするなど、かなり行き届いていた。こう対応が良いと待合室での一服もリラックスできるものになる。

 フリーで入ったのでどんなのが出るかと思っていたが、アイドルオタクの例えで申し訳ないがLinQというグループの坂井朝香に似た、綺麗な人だった。これからバイトなんです、というと、初対面でタメ口が多い風俗嬢には珍しく、とても丁寧に、ではしっかり癒してあげますね、と返された。

 初めての箱ヘル体験は、結果的に素晴らしいものになった。シャワーのときから会話を切らさず、ベッドに移ってからは全てのプレイがスムーズで、全てを任せることができた。素股(挿入せずに手と股間の摩擦で疑似的に膣の感覚を演出するプレイ)をされたときは一瞬何をされたか本気で分からず、(確か)まだ童貞だった私はこれが噂の基盤(本番行為のこと。ピンサロ、ヘルスでは禁止行為だが、店や嬢次第では暗黙のうちにOKになっている場合もある)かと思ったが、後ろに手をあてがっているのを見て素股だと分かった。背中のマッサージもかなり入念に行ってくれた。

 プレイ終了後、シャワーを一緒に浴びながら、大学で何の勉強をしているのか聞かれた。学科振り分けが発表された後で哲学科に行くことが決まっていたので、一応哲学です、と答えた。普通の嬢なら、ここでへえ、そうなんだと言って終わらせるところなのだが、彼女は違った。何て言う哲学者?と切り返してきたので、若干ぎょっとしながら、当時よく読んでいたベルクソンの名前を挙げた。彼女は知的好奇心が旺盛で、私が少し読んだことがあるのはデカルトぐらいなんだけど、デカルトベルクソンはどういう違いがあるのかとか、ベルクソン哲学について説明してほしいとか、かなり突っ込んだ話をしてきた。私は残り時間の5分で、早口でそれらの質問に答えた。全裸で。風俗嬢にチンチン丸出しの状態でベルクソンの『時間と自由』の内容について喋らされたのは後にも先にもあれが最後である(大塚のピンサロで席に座ってウエルベックを読んでいたら『闘争領域の拡大』のあらすじを説明する羽目になったことはある)。彼女は、私の目を見て真剣に話を聞いたあと、お客さんはとても綺麗な敬語で喋りますね、と言った。なんでも、大学にいるときにヨーロッパ(具体的にどことは言わなかった覚えがある)に歴史の研究をするために留学をしたかったが金銭の問題で諦め、ここでお金を稼いでいつか海外に行く、という話だった。今書いても、かなり嘘みたいな話だが、こういう会話をしたことは事実である。留学云々は嘘なのかもしれないが、少なくとも私の哲学の話を聞き、私の言葉遣いを指摘する彼女の眼は、本物だった。このエピソードは3つの中では唯一プレイに関係しないところで、深く心に残っている。

 

・2.鶯谷のニューハーフヘルス・L

 小学生ぐらいのときから、私は同性に性的感情を抱くことに抵抗がなかったというか、自然なことだった。高校は男子校だったが、クラスメイトの男の子に恋をしたし(何度も口説いたが性的志向の壁はどうしようもなかった)、大学に入ってから男性と肉体関係を持ったこともある。そんなわけで、私は長らく自分のセクシュアリティバイセクシュアルだと思っていたのだが、ジェンダー社会学の授業を受けたりそういう本を何冊か読んで、完全にバイセクシュアルであると自分を定義するにはやや違和感を覚えるようになり、どちらかというとMSM(=Men who have Sex with Menの略、社会統計などで用いられる。セクシュアリティに関係なく男性とセックスする男性を指す)と言った方が近い気がするので、セクシュアリティを聞かれた場合はMSMの説明をするようにしておく。という御託は置いておいて、イケメンのチンポはしゃぶりたいものである。大きければ大きいほどよい。私も飲みの席で、酔った勢いで幾度となくイケメンの首筋を舐め上げ、チンポをまさぐった。普通にセクハラなのだが、酔いの勢いと「男同士の悪ノリ」という建前で許されてきてしまった。訴えられたらまず間違いなく負ける。

 女性同士のセックスコミュニティがどうなっているのかは知る由もないが、ハッテン場や二丁目に赴く勇気のない男性マイノリティが同性とのセックスにありつくのはかなり難しい。私が過去に関係を持った男性は高校の同期だったし、運と人脈でなんとか1人2人とセックスできるか、というところだ。そういう訳で、ニューハーフヘルスである。私の男性の好みが中性的な顔立ち(ゲイコミュニティの専門用語で言えば「ジャニ系」)で胸板が少し厚め、かつニューハーフではなくて無工事の「男の娘」やニュークオーターに限ると結構要求が多いのだが、Lにはかなり助けられている。他のニューハーフヘルスの口コミが「出てきたのがただのおっさんだった」みたいな話もあったりしてかなりリスキーなのだが、Lは(おおよそ)ハズレはない。3回利用したが、女の子かと見まがうレベルのイケメンが揃っている(本筋とは外れるのでこの話はあまり深入りしないことにするが、ニューハーフの子にフリーで当たったときに脱いだらリスカ・痣だらけの痛々しい裸で、とても対応が良く見た目のレベルも高い子だっただけに相当精神的に堪えた)。

 ニューハーフヘルス、という存在がどの程度まで風営法的にセーフなのかをしっかり勉強する必要があるが、これはルール違反でもなんでもなく(コンドーム付きで――ここが重要)挿入が可である。また、「逆アナ」といって、挿入「してもらう」のもOK。ただし、逆アナにはテクニックを要するので、できるスタッフ(嬢という言い方がこの場合適切でない気がするので、スタッフと呼んでおく)は限られている。注目すべきはその業務形態である。高田馬場店と鶯谷店に行ったことがあるが(というかここまで店舗を言っていてイニシャルがLのニューハーフヘルスは知る限り一つしかないので、何か問題が発生したらこの記事は消去することになる)、共通しているのは電話で指示を出され、その通りに道を進むと普通のワンルームマンションか大きい一軒家が現れ、中からスタッフが出迎えてくれる、という仕組みになっていることである。初めて行ったときは漫画『殺し屋1』に出てきそうなマンションを前にして、普通に漏らしかけた。ここで扱う鶯谷店はある文字列の看板が掲げられた一軒家だが、住宅街のド真ん中にあるのでこれも結構怖い。

 仮に、そのスタッフのことをTと呼ぼう。彼は160cm前後で私より背が低かったが、体つきはがっしりとまではいかなくともしっかり筋肉がついていて、チンポが大きく、何よりかなりの美形だった。アイドルにばかり例えるようで申し訳ないが、乃木坂46鈴木絢音に似ていた。おっとりした口調で話しかけてくれ、大学で哲学を勉強しているという私に――大学生に何を勉強しているか聞くのは会話のとっかかりとして都合がいいのだろう――デカルトのコギト・エルゴ・スムは知ってる、みたいな適当な口ぶりで三味線を弾いた。

 ベッドに移動し、プレイが始まると、端正な顔立ちからは想像もできないぐらいの乱れぶりを見せた。美形はどんな顔をしても美形なのだなあという素朴な感想しか出てこないが、「男同士」という法の抜け穴を突いた挿入を前提としたプレイは、これに慣れてしまうと普通のヘルスだと物足りなくなってしまうかもしれない、というぐらいに濃厚である。あと、ありきたりな話ではあるが、愛撫のポイントを男性同士だからほぼ把握できるというのはかなり大きい。もちろんTの大きいものも存分に味わい、それじゃそろそろ……みたいなことを私が彼の耳元で囁くと、うん……と言いながら挿入。ん?おかしくないか?枕元にあるゴムは?え?これ、「ナマ」じゃん……。実は、初めてLを利用したときも、最中に耳元で「ナマでしていい?」と囁かれたことはある(自慢のようになってしまうが、大きいとゴムと直腸が摩擦するのでローションを使っても結構痛いらしい)。行き届いた店なので大丈夫なのは分かっているが、男性同士のセックスはやはりリスキーであるので、そのときは丁重にお断りしたが、今、目の前で確実に自分がコンドームをつけずにイケメンの直腸にチンポをブチ込んでいる事実は揺るぎないものとしてある。思考回路は既にマッハ、言うか?いやでも言わなければこの子に生中出しできるし――理性と獣がBPM250のワルツを踊り狂う。結果的に、理性は獣に負けた。恋人のように互いを貪り合い、そのまま中で達した。もう、どうでもいいかな、と。1年後、私は新宿の保健所で検査を受けた。結果はHIV陰性。本当によかった(色んな意味で)。

 余談だが、シャワーの後、思い切って「なんでナマオッケーだったんですか……?」と聞いてみた(ホームページに「コンドームを使用しないプレイは禁止」と明記してある)。「いや、オッケーな訳じゃなかったんだけどさ……」今でも、真相はよく分からない。分からない方がいいこともあるのである。

 

・3.新宿のピンサロ・N

 上で、風俗とはびっくり箱のようなものだ、と書いた。それは半分は合っていて、半分は間違っている。フリーで入り、色んな嬢と接してゆく過程は、「推し」に巡り合うための旅だ。もちろん、写真指名で惹かれた嬢やヒメ日記で人となりを見て決め打ちするのも一つの楽しみ方ではある。しかし、私が5年かけて色んな風俗に行ったのは、いずれ出会う推しを見つけるためだ。推しに会えば、元気が出てくる。このどうしようもない日々を、また推しに会うためにもう一日長く生きてみようと思うことだってある。だから、このNという店は、私にとって一つのスタートであると同時に、通過点としての風俗巡りのゴールの景色を見せてくれた場所だ。

 私とNの付き合いは長い。大学1年生のとき、新宿で手ごろなピンサロ(池袋は少し遠い)がないかなと探していて、ホームページが比較的新しいデザインで若い嬢が多いというのが決め手でNに通い始めた。Nは総じて女の子の水準が非常に高く、上野でボストロールみたいな歯がない嬢と御手合せ願った苦い経験もあったりすると、Nはまさにオアシスである。かれこれ3年通っていて、多分総額で言えば10万は行かなくとも7~8万はNに突っ込んでいる。私は、何かにつけてNに行った。友人と飲みの勢いで、親にしょうもないことで怒られて、パチンコで2万負けて、恋人にフラれて、給料日で金が入って……私の冴えないキャンパスライフを彩ったのは、間違いなくNだった。ボーイの態度が悪かったりした時期もあるが、今はみんな愛想がいい。私が通い出したのはまだオープンしてそんなに時間も経っていなかったから、ボーイにまで教育が行き届いていなかったのだろう。ハキハキとコミュニケーションを取る今のNのボーイと会話していると、なんだか3年前のぶっきらぼうだったボーイとの殺伐とした会話さえも、良い思い出である。色んな女の子と遊んだ。同じ吹奏楽部の女の子と部活トークで盛り上がったり、上京組の子には出身地のご当地グルメについて聞いたり、あるいは私の身の上話を聞いてもらったり。嬢によってテクニックにムラはあったが、射精できなくても、Nを出て今日はハズレだった、来なければよかったと思ったことは、本当にただの一度もない。友人にもおすすめしているが、みんな満足して帰ってくる。名店とはまさにこのことだろう。

 今年の3月、髪を切ったあと、いつものようにフリーで入った。Rという明るい女の子に出会った。この子が、まさに私の「推し」である。ピンサロの楽しみ方は人それぞれだが、30分という短い時間をどう配分するかは、嬢のセンスである。私は足を思いっきり伸ばしていないと射精できない(いわゆる「足ピン」)上に遅漏という厄介なたちで、このせいでNの他の子に当たったときフラットシートに足を思いっきり伸ばしていたらこむら返りを起こして嬢の前で痛みのあまり号泣するという情けなさすぎる一幕もあったり、実際のセックスでもできる体位がかなり限定されるなどこの癖のせいで色々な問題があるが、一度当時のNo.3の嬢と20分間雑談してしまったときはかなり焦った。トークが上手いのである。愛想がいいのに当てられたが多分延々とフェラをするのは疲れるからさっさと出して終わらせてしまおうという嬢の目論見を邪推した私は、プレイが始まった段階で射精は諦めていた。が、足ピンもせず、3分で射精。これはかなり強引で私の好まないパターンだが、これもこれでスタイルの一つである。否定されるものではない。翻って、Rは雑談をしない。ブースに来て、「来てくれてありがとー!」と言いながらハグをして、すぐにキスをする。これがかなりありがたかった。「今日はイケないかもしれない」という不安を胸にブースにずっといるのはかなり辛いし、嬢にも申し訳ない。その代わり、Rは早く終わったら時間いっぱいまで話をしたり、キスをしたりしてくれる。見た目や体つきもかなり満点に近く、実際初めて入ったときはフリーだったのに今や指名No.2で2時間待ちはザラという人気ぶりである。

 先日、意を決して19000円を払い、本指名で60分のロングコースに入った。人生で一番お金を使った風俗は2番目のLで17000円だったので、最高記録を更新したことになる。来て早々、「久しぶり~!」と親しげに声をかけてくれる。こちらは3月からで大体5~6回ぐらい指名しているから平均すれば月に1回は会っていることになるが、今回は2か月ぶりだった。会話もほどほどに、すぐにプレイに入った。ここでプレイの内容を事細かに書いてもしょうがないだろう。とにかく圧倒的に濃密な60分間だった。Rを抱いている間、かつて付き合っていた恋人のことを思い出した。あの人と愛し合うときも、確かにこんな感じだった気がする。正面切って愛し合うことは、年を追うごとに難しくなるし、多分これからもっと難しくなっていく。それでも、Rとの60分だったり、彼女と付き合った半年だったりというタイムリミット付きで、いつか、愛がいつか終わっても――このときだけは、確かに愛し合っていたという温もりが残ることが、大事なことだと思った。即尺(おしぼりなしのフェラ)をしてもらえたとかは、割とどうでもいい。Rと私が、生まれたままの姿で愛し合うということが、最も心に残ったし、これだったら19000円なんて屁でもない値段だ。一通り終わって、名刺を書きにRが席を立った後も、煙草を吸いながら心地よい疲れを感じた。Rは戻ってくるなり、「口開けて」と言い、飴を口移しでくれた。こんなに甘い飴は初めてだった。

 

 私は、多分これからも、風俗に行く。推しに会いに。あるいはまた新たな出会いを求めて。これは、愛がいつか終わっても、いつか愛が終わることの、私だけの、ひそやかな黙示録である。

 

・おまけ――出会い系でデブに20000円取られた

 いい話風に締めようと思ったが、女を買っている時点で男としてアウトで最低である。惨めなエピソードを1個だけ、極めて短く触れてこの記事を終えよう。私はかつて付き合っていた人に付き合う前は3回、付き合ってから2回フラれているのだが、2回目にフラれたときは完全にヤケクソだった。セックスできればなんでもいいと思って無料の出会い系アプリに登録し、5分でマッチングした相手とその日のうちに大塚で会うことになった。プロフィールは27歳人妻。メッセージではそんなことなかったのにメアドを交換して電話番号も教えてじゃあ会いましょう!となったときに相手は20000円を要求。とにかくセックスしたかったので二つ返事で了承、大塚に到着、待っていたのは関取。前頭ではない。ホテルに行き要求通りの金額を支払い、一回戦やって終了。風呂を入れてる最中に帰られた。ジャグジー風呂に一人で浸かりながら吸った煙草の味を、私は忘れることはないだろう。愛がいつか終わっても。

TWICEハイタッチ会 ごく個人的なレポート

チェヨン

 チェヨンはTWICEのメンバーの中で一番身長が小さい。客観的に彼女の体躯がどういう作りをしているかという問題は些細な問題のようで、実際に目の前にしたときの印象はそういう些細な印象の方に引っ張られてしまうが、「FANCY」活動時の髪の色をピンク色にし、刺激的なコスチュームに身を包んだチェヨンは体躯の小ささを気にさせず、文句なしにカッコよかった。最近は黒髪に戻したが、手首、耳の裏、腕、指にタトゥーを施した彼女の姿は、アイドルと一緒について回る「アーティスト」といういささか陳腐で奇妙な肩書を字義通りのもっともらしさで受け取らせるだけの説得力がある。

 消毒用アルコールを手にプッシュしてブースに入ると、上にも書いたが、座っていたというのもあり想像以上に小さく見えた。「赤ちゃん猛獣」という有名なチェヨンの二つ名はまさに言い得て妙で、リラックスしてブースで右手を差し出す彼女を見ると、今日ハイタッチする4人の中で一番最初にチェヨンを選んだことでこちらも肩の力を抜いてメンバーに会うことができる感じがして、安心感が心の底から湧いてきた。妙に媚びたりせず、自然体で、しかし本人の持つ愛らしさがよく伝わってくるハイタッチだった。私はチェヨンのハイタッチ券を2枚持っていたのでレーンを2周することになったが、2周目は私の前の番が小さい女の子だった。その女の子を見るチェヨンの視線が、とても暖かいものだったのをよく覚えている。

 

・ツウィ

 ツウィとハイタッチするのは2回目だった。今回は「Breakthrough」のハイタッチ会だったが、先月行われた「HAPPY HAPPY」で1枚だけ引けたのがツウィだった。それが初めて至近距離でTWICEのメンバーを見る体験になったわけだが、そこで私は、当たり前のことなのだが、ツウィを含めてTWICEというアイドルが「人間の顔」をしていたことに驚いた。顔が私の拳ほどしかないように思えるツウィが、つたない日本語で「ありがとうございます」と私に言ってくれたとき、テレビやスマートフォンで見ると彫刻のような顔立ちをしているように見えるツウィが、ちゃんと私と同じ人間の顔をしていることが嬉しい驚きだった。

 ツウィはごく最近髪の色と髪型を変えた。ずっと暗めの茶色か黒の髪色で、前髪を分けていた彼女が、青めのアッシュが入った金髪にして前髪を作った。もちろん前の髪色・髪型のツウィも好きだが、今のヴィジュアルのツウィは神話に出てくるお姫様のような趣さえある。チェヨンやツウィに限らず、K-POPアイドルは髪色の変化も楽しめる要素の一つだが、個人的にはツウィの変化はとても良い変化だと思った。ツウィを目の前にして、私は思わず息を呑んだ。とてつもない美形なのに、人間味があって、嫌みな感じが全くしない。前回のハイタッチとはまた変わった雰囲気のツウィのオーラに飲まれてしまい、すぐハイタッチしてブースを通り過ぎなくてはいけないのに1秒か2秒ほど足が止まり、スタッフに「立ち止まらないでください」と注意を受けた。美しいのに人間的なツウィの魅力を2度も味わうことができて、結構ラッキーだったと思う。

 

・サナ

 遡ること約半年、私は東京ドームで初めてTWICEを観た。豆粒のような本人たちの姿を3時間肉眼で凝視することはできなかったので、メインステージにある巨大なバックスクリーンに映った9人の姿に夢中になったのを、よく覚えている。コンサートの開始を飾る「One More Time」で、私は後述する推しのジヒョがどんな衣装で、どんな髪型で、どんな表情で登場するのかを今か今かと待っていた。ところが、ジヒョ以上に、というか9人の中でもずば抜けて存在感を放ち、目が釘付けになったのがサナだった。色白に金髪が映えるサナの圧倒的なオーラは、間違いなくスターそのものだった。サナ推しに怒られるかもしれないが、チッケムで見るとモモやジヒョに比べてサナのダンスはややぎこちなく見える。もちろん、アイドルのダンスがスキルや身体能力だけではないことは知っている。サナに目が行ってしまうのは、彼女の身振り手振り、佇まい、すべてに「選ばれしもの」のオーラがあるからだ。ツウィとはまた違ったオーラである。

 場内整理(迷子の呼び出しとメンバーの休憩)が1時間ほど続き、結構私は苛立っていた。サナのレーンで座り込み、暇つぶしでいじっていた携帯の充電も危うくなり、持ってきた本をパラパラとめくっていた。そんな訳で、チェヨンとツウィで勢いがついていた私の精神状態がみるみるトーンダウンしていたのも事実である。サナを目の前にした瞬間、私の抱えていたイライラや運営への不満はものの見事に吹き飛んだ。東京ドームで衝撃を受けたあのサナが、あのまま、はじけるような笑顔で私とハイタッチをしてくれた。今日のハイタッチで間違いなく一番楽しかったのはサナとのハイタッチだった。つやつやとしていて血色が良く、派手な金髪でありながらけばけばしい感じがなく、だからといってたとえ渋谷や新宿で1万人の女の子を一絡げにしたとしても全くかなわないと思わせるような、圧倒的なスター性を感じた。ツウィの人間的な美しさとはまた違った意味で、こんなに抜群のプロポーションを持ち、他の追随を許さないオーラをまとっていながら同時に庶民的な感じもするサナという存在は、9人それぞれがそれぞれの仕方で輝いているTWICEの中でも、ひときわヴァイタルである。

 

・ジヒョ

 ジヒョは私の推しなので、若干冗長になってしまう。

 ジヒョをめぐる私の情念や感情、欲望については、2つの記事を書いた今でも、やはりあまりうまく説明できる自信がない。歌番組でも、東京ドームでも、V LIVEでも、Instagramでも、いつも私はまず最初にジヒョを探す。もはや形骸化し、巷談の中で日常的に使われ、その特殊な意味を失いつつある「推し」という言葉の、最も真摯な意味で、私はジヒョを推し、欲望してきた。そこに理由がいるだろうか?1つ前のエントリで書いたことと重複するようだが、それを逐一言葉にすることに、私はあまり価値を見出していない。意味がないわけではないだろう。何事にも始まりはある。起点を明確にすることによって分かることはいっぱいあるだろう。でも、「好き」や、「かわいい」や、「美しい」といった形容を凡庸なものとし、特権的な情念の対象を形容する際に使われる「推し」という言葉自体に、我々アイドルファンは敏感にならなくてはならない。「なぜ」「どうして」推すのか、という問いではなく、「推し」とは何か、ということを、厳密に自分自身に問うてみるときがあってもいいし、それはアイドルファンに許された豊かな営みだ。「なんとなく」かわいいとか好きなのだったら、初めから推しを決める必要はない。私も9人のTWICEが全員好きだ。でも、均等に「好き」が割り振れるわけでもない。それどころか、「好き」という言葉には当てはまらない感情の機微を、ある一人のメンバーには揺さぶられてしまうことは、大いにあるだろう。長くなってしまったが、私にとってジヒョとはそういう人であり、「推し」であることは揺らがない。

 他のメンバーとは違った心境で消毒用アルコールを手にプッシュし、ブースに入った。私は、そこで目にしたジヒョの表情――つまり私の前の順番の人とハイタッチする彼女の表情――が、鮮明に脳裏に焼きついている。彼女の大きい瞳はどこも見ていなかった。口元は横に突っ張って歪んでいた。全体の印象として最も適している言葉は、「引き攣っている」というものだろう。その前にサナの躍動的な表情を見ていたというのもあるかもしれない。こわばった表情のまま、私はジヒョと、推しと、初めてのハイタッチをした。ジヒョは私の目を見なかった。ただでさえ短いハイタッチの時間が知覚できないほど一瞬に感じられて、ブースを出たあとは何が起きたのか分からなかった。塩対応、というものでもない。一瞬ではあったが、彼女の背筋は美しく伸びていたのを確認したし、やる気がないという感じでもなかった。幸い、私はジヒョの券を2枚持っていたから、急いでもう一度レーンに並んだ。2周目は、彼女は笑っていた。どうしようもなく引き攣っていて、目を合わせたけど私の遥か後ろを見ているようで、笑顔が貼りついていた。

 1周目と2周目との間に、場内整理がもう一度あった。1周目のどう見ても不自然な表情に心を乱されていたせいか、45分ほどだったがあっという間に感じた。スタッフから注意喚起があった。なんでも、ブース内でわざと手のひらにキスをしてからハイタッチをするファンが出たのだという。ジヒョがその嫌がらせを受けたのかどうかは、定かではない。しかし、言葉が出なかった。初めて至近距離で見た推しの表情は、正直言って自分の見たい表情ではなかったから。あんなにこわばって引き攣ったジヒョの表情を、私は見たことがなかったし、見たくもなかった。でも、推しに会えてよかったとは思った。私は煙草を一本吸って、幕張メッセを後にした。

沈黙と雄弁

 先日、アイドルでオナニーすることについて少し長めの文章を書いた。あの文章を書いたことがきっかけになってかそうではないのか、私は推しのパク・ジヒョで初めてオナニーをした。終わったあと、私はしばらく動くことができず、気づいたら涙が出ていた。タバコを持つ手が震えた。なぜそうなったのかを逐一言葉にすることに、私はあまり興味がない。一人のオタクがアイドルでオナニーしただけだ。それ以上でも以下でもない。私の欲望のあり方や、私の欲望の根源が何かを問い、それを言葉にすることには、少なくとも私にとっては意味がある。言葉にすることによってしか分からない私の欲望は恐らく、必ずあるからだ。でも、欲望をどう発露するかは、ただ発露すればよい。すべてを語る必要はない。何もかもが語れないのではなく、語ることに価値がないことについては、おのおのの仕方でそれを解消し、おのおのの仕方で沈黙すればよい。

 

 昨日、私の推しであるTWICEのパク・ジヒョが熱愛報道された。サバイバル番組で期間限定で結成され、先日1年半の活動期間を終えて伝説となった男性グループ・Wanna Oneの絶対的エース、カン・ダニエルとパク・ジヒョの交際のニュースは、瞬く間にSNSを駆け巡り、今日なんかはワイドショーでも取り上げられていた。私のオナニーと交際報道には何の関係もない。しかし、ガチ恋でもプラトニックな応援でもない仕方でジヒョを「推して」いる私は、「推しシコ」と推しの交際報道に何の根拠も符牒もない勝手なめぐりあわせを感じて、胸がざわついた。友人と浴びるほど酒を飲みながらゲームをしていても、ずっと私の脳内にはジヒョの顔がちらついていた。

 

 「恋愛禁止」を掲げておきながら恋愛を歌うアイドルがいびつであるように感じたのは、いつからだっただろう。少なくとも私は、多少なりともそういうアイドルの振る舞い(無理やりな言い回しをすれば「振る舞わさせられ」)に欺瞞的なものを感じていたから、アイドルのスキャンダルが出るたびに、アイドルのスキャンダルに失望するというよりは、それを巡るオタクたちの失望の言説に失望していた。私がアイドルが原理的にミソジニー的なものだと考えているのは、ひとえに「処女信仰」である。彼氏がいない、セックスやキスをしたことがない、そういうことが「商品」のひとつの価値決定になってしまうアイドルと、何より価値を作り出しているオタクの空気感に嫌気が差した結果、私は一度アイドルオタクをやめた。TWICEに出会ったのは、アイドルオタクを一回やめてから3年後のことだった。

 

 「推し」が異性と浅からぬ関係を持っているという事実に対して、オタクの取りうる態度に「正しい」や「悪い」はない。ジヒョとダニエルの関係は互いの事務所(ダニエルの事務所はダニエル一人だけなので事実確認も何もないと思うのだが)が公に認め、「K-POPビッグカップルの誕生」と盛んに言われている。いきなり子供ができたとかではないし、コソコソやっているわけでもないので、見る限りの範囲内では「祝福しよう」というムードが支配的だ。その一方で、「やっぱり彼氏がいてほしくはなかった」とか(ネタ化している「カップリング」のコミュニケーション内で)「ノンケだったのか」などのコメントもまた、見られる。日本と韓国ではアイドルのあり方も微妙に異なるので、単純に比較することはできないが、「スキャンダル(醜聞)」ではない公的なお付き合いということに関しても、ジヒョに失望したり、ある種の希望や夢みたいなものが終わったと捉えるオタクがいることは、日本も韓国も同じだ。そういうコミュニケーションによってオタクコミュニティの強度が保証されていることを、私は否定しない。私のTwitterの600人ほどいるフォローでTWICEのファンがほとんど女性であるにしても、アイドルに注がれるミソジニーの欲望は、実のところ日本アイドルの男性ファンと構造をほとんど違えていない。それは、アイドルオタクのあり方が、男性にしろ女性にしろ処女信仰的な(あるいは「百合」的コミュニケーション――アイドルとアイドルの関係性を同性愛的な文脈で読むということ)、人口に膾炙した意味での(厳密でない)ミソジニー的価値観に収斂しているということの何よりの証左だろう。

 

 さも私がアイドルオタクではないかのような書き方になってしまった。何よりの前提として、私はTWICEのオタクであり、ジヒョのオタクである。ジヒョを目の前で見たいあまり、『HAPPY HAPPY』と『Breakthrough』をハイタッチ券目当てで合計で22枚買ってジヒョのハイタッチ券を当てたときは渋谷のタワーレコードで喜びのあまり過呼吸になりかけたし、まだTWICEを追い出して1年も経っていないが、私が今までで最も色んなリソースを割いて応援しているアイドルであることは確かだ(次点は多分predia)。私がジヒョとダニエルの交際報道を見た時の感情を一言で言い表すことはできない。「私のもの」だったジヒョが同じK-POPのスーパースターと交際していることのショック?「アイドル処女至上主義」をまっとうな形で推しが否定してくれたことに対する快哉?もしくは他の何か?恐らく、その全てだろう。それでも、一番強かった感情は、「ジヒョを推していて、本当に良かった」だった。その感情を、1から100まで説明することに、私は価値も必要も感じない。

 

 何かを言葉にすることの意義は、言葉にできないことの臨界にまで迫ることだ。何かを語ることによって語れないことを、語ること以外の方法で浮かび上がらせることだ。「推す」ことの欲望、「推し」が自分の思い通りにならないことに対する感情、それらに対して私たちは努めて雄弁であるべきだと思う。なぜなら、人が人の欲望や感情を「読む」ことによって人は自らの気づいてもいなかった欲望に気付くことができる可能性があるからだ。しかし、全てを語らなくともよい。語れないことが最も重要なわけではない。語ることによって気づけることと、語らない、語れないことによって気づけることの位相が異なる、という話である。アイドルオタクがTwitterやブログをやること、何の肩書もない人々の「便所の落書き」を残すことに私が意味を見出すのはそこである。ジヒョという私の推しについて、私はときに語り、ときに押し黙るのである。

「アイドルでオナニーしていいんですか?」――私とTWICEの場合

 男性のオナニーは倫理的か?という問いがもしあったとして、そこで言われている「倫理」とはなんだろう。その営みが他者を傷つけていないことから、オナニーは倫理的に正しい、と言えるだろうか。オナニーが限りなく一人でする行為であるのに対して(この場合の「一人でする」とはペニスを手や任意のジョークグッズなどで刺激して快感を得ることである)、セックスは少なくとも二人以上ですることであるから、傷つけ傷つけられるセックスというのは容易に想像がつくにしても、オナニーで傷つく主体や、傷つけられる主体がいるかどうかというのはかなり微妙な話になってくる。

 人は、性について話すとき、恥じらうか、開き直るか、格好をつけるか、何にせよなんらかのポーズを取らざるを得ない。フーコーではないが、それは性について話す人が意図的にポーズを取るのではなく、「性について話す」ということが人にそのようなポーズを取らせているのである。SNSで、居酒屋で、性は色んな形で発話される。これを書いている私は、もっと注意深くならなければならない。こんな前置きをしたところで、「フラットに」性を語ったり話したりすることは不可能だからだ。だから、ケースを限りなく絞ろう。セックスではなく、オナニーについて。しかも、男性の。「男性のするオナニー」ではまだ広すぎる。アダルトビデオや成人向け漫画などのポルノグラフィを用いることなく、ステージ上で輝いている(あるいはステージを降りた)アイドルでオナニーをするということ。大分怪しくなってきた。もう少し。日本のアイドルではなく、K-POPの場合は事情が違うだろうか?ここで私は、日韓台合同のK-POPガールズグループ、TWICEを扱おう。

 オナニーは倫理的か?その問いに答えることはできない。私は、「私のオナニー」、つまり「TWICEというアイドルを見ながら行われる男性のオナニー」についてしか語ることができないからだ。性はフラットに語れない。ざっくばらんに言ってしまえば、性とは当事者の問題であることで、万人に開かれているようで個人に閉じている。ジェンダーセクシュアリティが異なれば当然語られる性のあり方も異なってくる。これは、オナニー、アイドル、TWICEについての、私のごく個人的な覚書であり、断章である。

 

・事後的なポルノグラフィ――「オカズ」になるアイドルのポートレート

 なぜ冒頭でこんなにもったい回った書き方をしたかというと、もはや「アイドル」が誰でそれを見ているのは誰なのかが多様化しすぎているからである。日本のアイドルに限って言えば、AKB48も、嵐も、ももいろクローバーZも、超特急も、みんなアイドルだし、女の子がAKBに憧れたりジャニーズになりたい男の子がいたりするように、全てのアイドルがヘテロセクシュアル異性愛によってまなざされているわけではもはやない。私がここで扱うのは、「女性に性的志向を持つ男性が」見る「女性の」アイドルである。アイドル自身のセクシュアリティについては、問う必要もないだろう。流行りのポリティカル・コレクトネスを全部無視する言い方をすれば、ここにおける女性アイドルは「見られる」ためにしか存在していないからだ。「そんなことはない、女性のために立ち上がる女性のアイドルはいる」、「男性が女性のアイドルをプラトニックに応援することはないのか」、大いにある。そのすべての物言いは正しい。ただ、私は正しい話をしたいのではない。「女性アイドルをオカズにする男性ファンはいる」「女性アイドルは男性ファンのオカズになってきた」という話をしている。アイドルの見方が多様化している現在、何のエクスキューズもなしに女性アイドルは男性にオカズにされるために存在している、なんて言った日には四方八方から袋叩きにされてもおかしくない。

 

 2012年、ごくごく狭いコミュニティで、「ベスシコ」という言葉が(なぜか)突発的にバズった(詳しくは以下のtogetterリンクを参照:https://togetter.com/li/432618)。私は当時中学3年生で、リアルタイムでこのバズを見ていたが、率直に楽しかった。「アイドルでオナニーする」ことはごく自然なことのように思われたし、ホモソーシャル内でよくある「クラスの女子の誰が一番可愛いか」の延長線上でしかないように思われたからだ。かれこれあれから7年ほど時が経っても飽きもせずアイドルファンをやっている私は、今これを見ても(昔ほどは乗れないものの)異様な光景だとは思わない(とても雑な意味での倫理においては何もかもが間違っているが)。

 ただ、注意しなければいけないのは、「シコ」(オナニー)の対象となるべきそのアイドルの画像群は、乳房を乳首まで露出しているわけでも、女性器をあらわにしているわけでもないことだ。もちろん扇情的な(局部以外の露出が激しかったり隠すことによって局部を強調するような)水着やその他の衣装で撮影されたグラビアも画像グリッドに上がってはいるが、メンバー自身が何気なく携帯で撮ったセルフィーや他撮りが、なんなら「一番シコれる」とまで言われているわけだ。極めて危うい言い方をすれば、ポルノグラフィがポルノグラフィであるという事実はその消費者によって事後的に形成される。初めから男性のオナニーを意図して作られるアダルトビデオや成人漫画は、ほとんどの場合「男性の視点」で切り取られている(AVにおける「開き」と呼ばれる正常位で女優の体が顔から股間(挿入部)まで画面上で対角線になるように撮られたショット、「主観モノ」、成人漫画でペニス以外の体が透明になることによって女性の表情や身体が見えるようになる演出など、挙げれば枚挙に暇がない)。が、「アイドルでオナニーする」ことは、どうやら「男性の視点」は「あると良いけどなくても構わない」ものらしい。

 いや、他人事のように書いてしまったが、私も当然アイドルでオナニーしていたし、そこにおいて「男性の視点」は確かに必要がなかった。私を含めたアイドルでオナニーをする男たちは、メンバーの日常を切り取ったポートレートを、何の疑問もなくオカズにする。もしかしたら、ステージ上で歌い踊ったりする姿より、ブログに何気なく載せたセルフィーから繰り広げられる行き場のない「オタク」の妄想の中で、アイドルは奇妙な輝きを見せていたかもしれない。「かもしれない」ではない、そうなのである。男性ファンにとって、肌の露出はさほど重要ではない。「使えた」という結果しか残らない。お菓子を食べていたり、ジュースを飲んでいたり、日頃のプレッシャーから解放されている「かのように見える」オフショットのアイドルは、何かが間違っていたら自分の隣にいたかもしれないと思わせる。ここにおいて、何をもってポルノグラフィとするかという客観的な尺度などは存在しない。「オタク」個々人の「使える」「使えた」事後的で恣意的なポルノグラフィが「オタク」の精液にまみれて無造作に散らばるのみである(自分で書いておいてなんだが、ここまでアイドルのポートレートを露悪的に言ったことはない)。

 

・「推しでシコっていいのか」「いい」「ダメ」

 ここまで、私は意図的に男性ファンのアイドルでするオナニーについて避けているタームがある。「推しシコ」だ。アイドルを「推す」というのは付帯する色々な意味を退けて言えば「お気に入り」だが、オタクの間ではそこに付帯する意味にこそ意味がある。ガチ恋もいれば、単純にアイドルの夢を応援したいという人もいるし、性的対象であったりと、「推し」の形はさまざまだし、アイドルのファンをやることの醍醐味は「推す」ことによって推しのアイドルの物語なりキャラクターなりを、推し以外のメンバーとは違う形で(ある種特権的に)消費することにある。

 「推しシコ」の問題は女性アイドルの男性ファンにとっては単純だが根深く、それはひとえにオタク自身の倫理の問題だからだ。プラトニックでなければ、「純粋な気持ちで」推していることにはならないのではないかという人もいるし、全く逆に、推しでオナニーしなければ推していることにはならないという人もいる。本題のTWICEに早く入るためにもあまり深入りできない(深入りしすぎるとそれだけで一本エントリになるし、事実かなり偏った見方ではあるものの推しシコについての文章は存在する。以下を参照:http://blog.livedoor.jp/a_waltz_of_ducks/archives/51854489.html)が、さりとて無視できる問題でもない。ただ、これは「女性をどのように見ているか」というファン個人の女性観に依存する部分も多いため、やはり断定調で書くことは些末だが個人にとっては重要な問題を捨象することにもなる。

 私のケースに限って言えば、任意の人を好きであると思うことは性的な感情を持つことに直結していたので、推すからオナニーするのではなくオナニーするから推す、というかなりねじれたアイドルの見方をしていた。だから、推しシコは自分にとって非常に自然なことだった。推しでオナニーすることの倫理を問われたとき、私にとって「推す」という振る舞いは即ちそのメンバーでオナニーをすることでしかない。「純粋な気持ちで」?「歌って踊る彼女が好きだから」?私は、そういうプラトニックな言説が全て信用ならなかった。自分にとって性的な引力がない異性に興味を持つことの方が私にとっては異常で不自然なことのように思われた。

 

・TWICEでオナニーする――推しであるパク・ジヒョをどのように見るか

 先にも書いたように、性について話すことは個人的なことだが、「推しシコ」の話をしてしまった以上、私は私について話すしかない。

 私は13歳でAKB48に出会い柏木由紀推しになって以降、色々なアイドルを渡り歩き、全ての推しでオナニーをしてきた。何度も繰り返すが、推しでオナニーすることが自分なりの「推す」ことだったし、女性を性的に消費しているだとかアイドルはポルノではないとかの意見は所詮本当にアイドルを推したことがない、外野の人間のノイズとまで思っていた節がある。ただ、言い訳をさせてもらえば、私は日本以外のアイドルを知らなかった。AKS(厳密には異なるが坂道グループも含む)、ハロー!プロジェクト(私は見事にハロプロを通ってこなかったので、名前を出すに留めておく)といったビッグバジェットは勿論、グラビア(地下アイドルを除く)や画像付きブログ(地下アイドルを含む)といった「事後的なポルノグラフィ」を生み出さない日本のアイドルは、ほぼというか全くいないとまで言っていい。何より目で楽しませないことには始まらないアイドルというショービジネスにとって、画像メディアは命であるが、特に一番長くオタクをやっていた48&坂道グループは(事後的)ポルノということについて相当に露悪的な売り出し方をしていた。胸の谷間やヒップラインをことさらに強調するビキニ衣装を誰でも彼でも着せてグラビアにする過剰なビジュアル戦略は、当時中高生で性的消費が最も活発だった時期の私が見ても、グロテスクと言わないまでも(もちろんこれはファンのマイルドな言い方で、アイドルファン以外や女性ファンから見れば擁護のしようがないほどグロテスクである)、過剰供給の感はあった。1997年生まれの私が48グループの「同い年のメンバーでオナニーする」ことに倒錯的な悦びを覚えていた事実は倫理的に正当化できるものでは当然ない。それでも、そういった性的なビジュアル戦略=アイドルの戦略だと刷り込まれていた私は、アイドル(とその中の推し)でオナニーすることに疑問を抱いてはいなかった。

 しばらく諸事情でアイドルから離れてから、K-POPというフィールドを得てTWICEのオタクとして出戻った私は、かなり戸惑った。まずV LIVE(韓国アイドルの使う動画生配信サービス)やYoutubeに違法アップロードされているバラエティで彼女らが喋っている言語が分からない。日本のように雑誌にビキニ姿のグラビアが掲載されることもない。画像付きブログもモバイルメールもない。その代わり与えられているのは、どこか壊れた日本語字幕のついたV LIVEで垂れ流される配信、メンバー全員の共有アカウントのInstagram、あとはTwitterに流れてくる空港写真である。オナニーすることでしかアイドルを好きになってこなかった私は、ポルノグラフィに「する」にはかなり苦しい材料しかなかったにも関わらず、初めてオナニー(性的な目線)を介さずにTWICEというアイドルのことが好きになった。オーディション番組「SIXTEEN」や、「アイドルルーム」などのバラエティ番組を観て、TWICEのメンバー個々人のパーソナリティを知ったりプロデューサーのパク・ジニョンの思想や哲学を勉強したりして、TWICEや所属事務所のJYPがいかにクリーンで人間重視のアイドル教育をしているかを身に染みて感じた。これによって、今まで性的な目線が第一(性的な目線しかなかった訳ではない)だった私のアイドル観は徐々に変容していった、かのように思えた。

 ただ、正直な話をすれば、TWICE、そして私の推しであるパク・ジヒョを好きになったのは、間違いなく性的興味であったことは認めなければならない。2018年8月31日に放送された「ミュージックステーション」における「BDZ」のダンスで、ひときわ大きく揺れる彼女の胸を見ていなければ、ジヒョとTWICEを好きになってはいなかった。だが、彼女のことを深く知れば知るほどに、ジヒョでオナニーをしたり性的なことを言ったりすることは倫理に悖るのではないかという気持ちが頭をもたげる。その事実は、私が少なからず今までオナニーしてきたアイドルに対して「この子ならオカズにしてもいいだろう」というミソジニーと、オナニーという行為が持つ後ろ暗さを逆照射している。プロデューサーのパク・ジニョンは、日本における新プロジェクト「Nizi Project」始動の際のインタビューで、こんなことを言っている。

いくら歌やダンスのスキルがあったとしても、人間的に失望してしまう部分があった場合は、最初からその人をデビューさせません。例えデビューしていても、人間的にがっかりするようなことがあった場合は、事務所から出てもらうことも多かったです。(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20190224-00115829/

 「良い歌手である前に良い人間であれ」と何度も繰り返し、歌やダンスのスキル以上に人格者であることを求めるジニョンが選んだTWICEの中でリーダーを務めるジヒョを応援するにあたっては、私自身も清い人間にならなければならないのではないか……とまでに影響されたが故に、揺れる胸目当てでジヒョを推し始めた自分を恥じたりもした。

 だが、TwitterでTWICEのファンと知り合うようになって驚いたのは、(比率として圧倒的に多い女性ファンはこの場合考えない)「TWICEでオナニーする」と公言する人がおよそ見当たらないことだった。48でベスシコだの推しシコだので盛り上がっていたホモソーシャル空間はTWICEのファンコミュニティにおいては気味が悪いほどに見ることはなく、代わりに目にするようになったのはメンバー同士でレズセックスをさせる「カップリング」のコミュニケーションだった。その是非は本記事の眼目とは全くずれるので一切問わないが、アイドルの性的消費の形として「カップリング」のコミュニケーションに全く乗れなかった私は、やがてTWICEでオナニーをするようになったし、TwitterでもTWICEについての性的なジョークを言うようになった。モモやダヒョンに劣情を抱いた事実を言い訳するつもりはない。むしろ、今までの自分のオタクとしてのキャリアからすればこちらの方が正直なあり方だとさえ言える。

 それでも、性的興味から応援し始めたジヒョを「オカズ」にしたことは、ただの一度もない。これについての答えは、未だ得られない。今までの私のアティテュードから言えば、ジヒョでオナニーしていないのは推していないということであり、倫理に反することである。所詮露悪的なショービジネスであるアイドルに、安易に「尊敬」という言葉を使うのも、あまりに素朴で無垢すぎる態度だと思うし、実際私はそこまで誠実なTWICEのファンとは言えない。その一方で、今でも、Twitterや友人との会話の中でジヒョをオカズにすると言うことには気が引ける(エゴサーチを本人がするわけでもないのに!)し、ジヒョの画像をスマートフォンで表示しながら自分のペニスを愛撫しようという気には(罪悪感とも倫理観ともつかない何かが喉元に引っかかって)なれない。ジヒョでオナニーをしないことは、かなり過激なミソジニーを持つ私という人間の最後の「女性を信じていたい」という願望かもしれない。しかし、確信していることがある。いつか、何かのきっかけで、私は私に問いかけることになる。「僕は、ジヒョでオナニーしていいんですか?」と。「いいよ」、と私が私自身に答えたとき、私の「アイドルでオナニーすること」の倫理は、新たに書き換えられることになるだろう。

御伽原江良について――虚構の臨界とペルソナの呪い

・はじめに――増えすぎた「サブカル」言説

 「サブカルチャー」の射程は、今や広くなりすぎてしまった。例えば……と列挙することもできないぐらい枝葉は分かれ、手の付けようがない。コンテンツがあればそれを語る言葉も増えるわけで、「サブカルチャー批評」と名のついた言説は細胞のように増殖し、文献渉猟や史料分析のハードルの低さ(これは決してサブカルチャー批評にあたって必要な作業が容易であると言いたいわけではない)から到底「批評」の名を冠するに値しないものも多く生まれた。というか、遠慮なく言ってしまえばゴミがほとんどである。私の愛するコンテンツであるアイドルやアニメ、そしてこの記事で言及するバーチャルYoutuberバーチャルライバー(以下Vtuber、ライバーと略記)をめぐる語りは、もう遍在しすぎて正直訳が分からなくなっている。私は、「批評」や「論考」によってそれらサブカルチャーを捕まえようとか輪郭を浮き彫りにしようとかという試みに、素朴に与しようとは思えなくなってきている。聞きかじりの哲学や精神分析の理論を組み合わせてそれっぽくしたからといって、何になるだろう。

 そのような無力感を覚えつつ、一方で何かを語りたいという欲求は、耐えがたく私の中にある。いっそのこと、「批評」とかいうものものしい大上段を捨ててしまえばいい。全部オタクの妄想、自分語り、自己言及と開き直ってしまいたい。そうしてできたそびえたつクソは、何やら「批評」の顔つきをしている。オタクとは、本当にめんどくさい人々だ。我ながら呆れてしまう。私は、こうして文章を書くことが楽しい以上、語ることの呪いから逃れられない。私が以下に書こうとしているあるVtuberも、そういう「呪い」から抜け出ようとしているが、上手く行っていない、ひとつのケースである。

 この宣言が失敗する前提で、ある宣言をしよう。以下の文章は批評でも、論考でも、ましてや論文のような何かでもない。オタクの独り言、便所の落書きである。でも、便所の落書きが用を足す人々の目に触れることがある可能性に、私は賭けようとも思う。

 

・助走

 Vtuberについての辞書的な定義をここでするつもりはない。が、御伽原江良というVtuberを語るにあたって、少し退屈な説明をしなければならないだろう。私の記憶では、キズナアイ、ミライアカリといったいわゆる「バーチャルYoutuber」が出てきたのは2017年あたりだった気がする。彼女らに共通していたのは「動画中心」であることで、大体5~10分程度に編集された動画を自分たちのチャンネルにアップロードしたものを皆が観るというのが意識されてもいない大前提だった。また、事務所にも所属しており、例に挙げたキズナアイはupd8、ミライアカリならENTUMと、YoutuberにおけるUUUMのような企業に属しているのが衆目に触れるVtuberの多くだ。もちろん忘れてはならないのが「個人勢」と言われる人々で、キャラクターメイク、プロデュース、動画編集などを個人(あるいはチーム)で行うVtuberもいる。これは後述するライバーも同様である。

 今回主題となるVtuberでありライバーである御伽原江良は、いちから株式会社の「にじさんじプロジェクト」に属するキャラクターだ。にじさんじの革新的だった点はキズナアイやミライアカリをはじめとする多くのVtuberが編集済の動画を活動の中心にしていたのに対し、ミラティブ、OPENREC、ツイキャスなどの配信プラットフォームをサブにしつつYoutubeliveで「生配信」をすることにこだわった点だ。動画勢も少ない頻度で生配信をすることはあったが、にじさんじというプロジェクトは現在70名以上を擁し、そのほとんどが配信中心の活動をするという一種の業界における革命は、無論個人活動のVtuberにも大きく影響を与えた。活動プラットフォームをYoutubeに限定しないという意味で、にじさんじのキャラクターは基本的に自らのことを「バーチャルライバー」と呼んでいる。

 

Vtuberの病理が「見えなくなった」Vtuber、御伽原江良

 本題に入ろう。御伽原江良の詳細なプロフィール(設定)は非公式wikiが充実しているのでそちらを参照してもらうとして、今回問題にしたいのは彼女が「御伽原江良」であるという事実それ自体である。Vtuberという存在は、実のところかなりグロテスクであり、現代的かつ病的でさえある。他のサブカルチャーの消費の対象は、かなりおおざっぱに言って「物語」と「キャラクター」である。上述したようにもはやサブカルチャーという言葉は意味が分かれすぎていてそれ自体では何も指示しなくなっているが、苦し紛れにアイドルを例に取るとして、アイドルはデビュー以前、デビュー、CDの売り上げ(サブスク全盛の2019年においてアイドルがCDの売り上げにこだわるのは言うまでもない、握手券などの付録物に意味があるからである)、メンバーの脱退、そして解散と、アイドルの節目節目という「物語」に、オタクはアイドルのメンバーという「キャラクター」に、ときに喜び、ときに悲しみ、金を落とす。アニメに関してはより精緻な分析があると思うのでそちらに譲るが、インターネットが普及するかどうかの段階で『新世紀エヴァンゲリオン』という黙示録的な作品が多くの語りを生んだのは論を俟たない。この記事の本丸ではないのでかなり雑ではあるが、オタクは仮構された「物語」と仮構された「キャラクター」に金を落としていると言っていい。

 ひるがえって、Vtuberはどうだろう。切り取られた電脳世界の彼女(男性Vtuberもいるが、その辺は今回あえて捨象することにする)たちによる10分間弱の演出は、「物語」なき「キャラクター」が宙ぶらりんになっている事実の露呈である。それまでセットで消費されていたはずのものが、片方が失われ、片方が奇形的に肥大化していく。にじさんじは配信を中心にすることで、チャンネル登録者の数や「デビュー」の概念を生み出すことによってVtuberに「物語」を復権させたかのように見えたが、Vtuber業界全体が行き詰まりを起こし飽和している現在において、既に「物語」は失効している。Vtuberの現代性と病理は、つまるところ「キャラクター」の異常なまでの肥大化だ。二次元美少女の立ち絵がときおり動きながら配信者の声だけが響き、Vtuberのオタクはそれに対してスーパーチャット(投げ銭)をする。はっきり言って、かなり倒錯的な光景である(もちろんのこと私も倒錯的なVtuberオタクの一人だ)。

 御伽原は、その点についてかなり自覚的な配信者だった。「だった」と過去形にしているのは、今彼女は「チャンネル登録者数10万人」という、飽和しきり、オタクが食い飽きた故に放棄した「物語」の成就を盲目的に享受しようとしているからだ。私が好き好んでこんな記事を書いているのであえて書くまでもないが一応断っておくと、私は御伽原江良のファンだ。御伽原を代表する配信であり、尺も6時間半に及ぶリズム天国オールパーフェクト配信も、同じにじさんじ所属のVtuber花畑チャイカとのコラボ「ギバライカ」コラボも、雑談配信も、現行観れるものはほとんどリアルタイムで観ている。今これを書いている最中も配信をしているのを知っていて正直めちゃくちゃ観たいが、そのぐらい彼女をVtuberとして追っているからこそ、歯がゆかったりもどかしかったりする思いがあり、その一心でこれを書いている。というのはどうでもよくて、要するに私は御伽原のアンチをしようとか、攻撃しようという意図では全くないということが言いたいのである。それでも、最近の御伽原江良という配信者は、Vtuberの現代性と病理をある意味体現しすぎていて、観ていて気持ち悪いほどなのだ。肥大化しすぎたキャラクターを制御できなくなり、自らのペルソナが壊れかかっていながらも、そこから自由になれない配信者の苦しみ。そして、それを自覚し苦しんでいた御伽原はもういない。腐敗した「物語」を貪り、苦しみに無自覚なように見える奇形のペルソナ「御伽原江良」が高笑いを上げて、今日も、今も配信をしている。

 

・虚構(バーチャル)とリアルは自明か?

 御伽原の動画を具体的に観る前に、この文章の前提となっている文章がある。

 メルクマ氏は、Vtuberというコンテンツに対してあまりに楽観的であるように見え、「バーチャル」と「リアル」という区分が自明に存在すると素朴に信じてしまっているかのようだ。曰く、御伽原江良は、「バーチャル」なのに「リアル」な存在だ。ロールプレイを放棄し、コラボ配信で成果らしい成果を残せなかった自分を責め立て、赤裸々に心境を語る御伽原江良は、御伽原江良である以前に、虚飾なき一人の女性配信者である、と。雑な要約だが、大体このような具合である。しかし、果たしてそうだろうか?ロールプレイをやめて、自分の心境を吐露する配信を乗せることが、「自分をさらけ出す」、「バーチャル」から「リアル」へと踏み越えることになるのだろうか?恐らく、というか、私の主張ではそれは絶対にありえない。御伽原江良に私がこだわるのは、「バーチャル」、虚構の臨界点にまで迫りはすれど自らが「御伽原江良」であるが故に「リアル」に接続することが初めから失敗していること、そして自らに課した「御伽原江良」のペルソナ(あえて「キャラクター」という言葉は避けている)を抜け出ようとしながらペルソナ自身の持つ呪いが暴走し、それを制御することをあきらめてしまっていること、この二点が故である。具体例から、「物語」ではない、彼女の虚構(バーチャル)を見ていきたい。なお、御伽原江良のモノグラフィーを作ることが目的ではない(にじさんじライバーのアーカイブは膨大なので私が作るまでもない)し、「御伽原江良ガイド」でもないので、ここでは三つの動画を参照する。

 

・ロールプレイと脱臼――「清楚」セオリーのテンプレート的実践

 「初配信」は、キャラクターの持つ個性や特徴、設定、それらを「あたかも『中の人』がいないかのように」思わせる演出である「ロールプレイ」の披露、そして何より重要なフェティシズムである「声」を初めて公にする、一回きりの機会である。「初めて」は全てのライバーに存在するが、御伽原は自分の初配信で露悪的なまでにロールプレイを遂行しようとする。作られた声で「シンデレラ城でイベント」「神戸屋でバイトしたい」など、今の彼女にとってはどうでもいいことを、もっともらしく言っている。そしてにじさんじのひねくれたオタクは、こんなことを思う。「これは、『本当の』彼女、御伽原江良なのだろうか?」と。料理上手で家庭的、夢見る女の子、あからさまな萌え声。正直、童貞の中学生が考えた方がマシなレベルであまりにカリカチュアライズされた二次元の女性像だ。それでも、少なくともこの配信での御伽原は、この無理ある設定を懸命にロールプレイしようとする。

 で、案の定このロールプレイはあっという間に破綻し、ロリコン、メンヘラ、奇声、などなど、「素」のような何かが出てくるというのが流れなのだが、特ににじさんじ的セオリーで重要なのはここまででワンセットであるということだ。にじさんじの抱える怪物であるVtuber月ノ美兎は「清楚なツンデレ学級委員長」という体でデビューしたが、初回配信でエログロ映画の話をして自らロールプレイを脱臼させるというところに端を発し、にじさんじ内では「キャラクター上(設定上)は社会通念上の『清楚』だが実はアングラな嗜好やギャップがある」というハイコンテクストな事実を示す鍵括弧付きの「清楚」概念というものがある。月ノ美兎はいざ知らず、御伽原は恐らく意図せずしてロールプレイを脱臼し、にじさんじ的「清楚」のテンプレート的実践を行った。皮肉なもので、Twitterのメンヘラアピールや配信での失言、歯に衣着せぬ物言いという当初は意図されていなかったロールプレイ脱臼のギャップの効果、ガワ(立ち絵)のキュートな見た目から着実にファンを獲得し、デビューから一か月を待たずに大規模コラボへの参加が決まる快挙を成し遂げた。しかし……。

 

・ 「素の私」、虚構(バーチャル)への抵抗

【御伽原江良】地声を晒しRP崩壊 大量の低評価をくらう - YouTube

 この配信は、2019年4月8日ににじさんじ公式チャンネルにて配信された「にじさんじ MIX UP!」というコラボの後、4月13日に御伽原の個人チャンネルにて配信され、現在アーカイブは非公開になっており閲覧は不可能になっている。当配信はこの切り抜き以外にも他の箇所を抜粋した切り抜きもあるが、これが一番分かりやすいだろう。御伽原江良の一ファンとして、この切り抜きは観ていてかなり痛々しい。ニコニコ動画からの転載なのでコメントが流れているが、ほとんどが御伽原を攻撃するコメントである。本人が自虐ネタで「にじさんじの癌」と発言するシーンが今でもたまに見受けられるが、この配信が良くも悪くも現在の「御伽原江良」のイメージを決定づけた。

 注目したいのは、動画前半部で「私の素を出し切る」と強調していることだ。私は後追いなのでこの配信の全部は観れていないし、分からない部分もあるが、他の切り抜きや上のメルクマ氏の記事から得られる情報を要約すると「ミックスアップコラボで思うような振る舞いができなかった自分を責める」という内容だった(らしい)。初配信はおろか、その後のゲーム実況や雑談配信ですら声を作っていたことを打ち明け、恣意的なロールプレイ脱臼すら飛び越えて、ここでは「御伽原江良」である必然性がなくなっている。「東京からの帰りの新幹線で泣いていた」と述べる別の切り抜きでは、実際の動きと同期する立ち絵(トラッキング)すら放棄してpngの立ち絵が貼りついている。個人的な感情を述べるならば、あまりファンとしては直視したくない姿である。なぜなら、オタクが期待しているはずの「御伽原江良」がいないように見えるからだ。

 しかし、「御伽原江良」は本当にいないのか?「地声」「素の私」と、御伽原はいかにも私は普段「御伽原江良」を演じていますよ、今は虚構(バーチャル)じゃない、「本当の私」なんですよと主張している。実のところ、御伽原がVtuberというジャンルに対して(意図せずも)批判的で、クレバーになりきれないながらも虚構に抗おうとしていたのはここまでである。上に載せた動画のタイトルには「RP崩壊」と銘打ってあるが、そもそも御伽原のロールプレイは早いうちから失敗しているし、ロールプレイの脱臼が半ばお家芸のようになっているにじさんじにおいてロールプレイがぐちゃぐちゃになることは大したダメージではない。彼女が問題となったのは、立ち絵もキャラクターも含めた「ガワ」を攻撃したからだ。これは御伽原個人の問題ではなく、Vtuber全体を攻撃することになりかねない。上で指摘した通り、Vtuberは奇形的に肥大化した「キャラクター」を倒錯的に楽しむコンテンツである。本記事で「キャラクター」と「ペルソナ」を意図的に使い分けているのは、御伽原がこの配信によって解き放たれたのは「キャラクター」からであって、「ペルソナ」からは自由になっていないという事実を指し示すためである。もっと言うと、(脱臼を含めた)ロールプレイは「キャラクター」の要素だが、「素の私」と本人が言及しても脱することのできない、あらかじめ脱臼不可能なロールプレイの剰余部分が「ペルソナ」である。御伽原は、「素の私」と語ることによってキャラクターに自覚的なVtuberになることができたが、剰余部分であるペルソナにアクセスすることはできなかった。

 わかりやすく言えば、ペルソナと術語的な意味を与えてわざとらしくこの言葉を使っているのは、彼女が虚構(バーチャル)を踏み越えようとしていたからだ。そのためには、キャラクターという言葉では言葉自体の持つ虚構の意味合いが強すぎ、どうも彼女が越えかけた虚構とリアルの臨界が曖昧になってしまう。御伽原はまったく意図しない形で、Vtuberがアクセスできるギリギリの虚構の臨界を明らかにし、かつリアルへの接続不可能という無力を露呈した。「素の私」は、「御伽原江良」のキャラクターから逸脱してはいても、ロールプレイ脱臼でも炎上覚悟のメンヘラ自分語りでも相対化不可能な「御伽原江良」のペルソナの一部でしかない。我々は「御伽原江良」のキャラクターについて知ってはいても、「御伽原江良」のペルソナについては何も知ることができない。これが、御伽原江良というVtuberの限界であり、同時にVtuberの限界でもある。そして、ほとんどのVtuberはこの問題について素朴かつ無邪気で、無批判である。それが悪いというつもりはない。しかし、御伽原江良について語ることの誘惑から逃れられないのは、まさにこの点によってである。この後も度重なる失言、炎上を繰り返し、問題を起こす御伽原だが、持ち前の鈍感さと根気、根強いファンのおかげで登録者数は9万人を突破する。

 

・抵抗の終わり――「御伽原江良」の(自己)承認

記念枠も雑談も全部一緒にしちゃおう。そんなことより私と将来について語りたくない?【御伽原江良/にじさんじ】 - YouTube

 標題に掲げた副題である「虚構の臨界とペルソナの呪い」については、上の節で述べた通りだ。この節で紹介する配信は、自己のペルソナに抗うことをやめ、ファンに恵まれた御伽原の告白であり、この文章全体のある意味不幸なエピローグである。

 チャンネル登録者数9万人突破の記念として行われたこの配信で、御伽原は王子様候補(彼女のファンの通称)に素朴な感謝を述べる。大学を辞めていたこと、両親に恩返しができていること、自分の暮らしが目に見えて良くなっていること、にじさんじの他のライバーやにじさんじ以外の企業のライバーと仲良くなれたこと。ここまで読んだ根気強い読み手の方ならお分かりかと思うが、前節のキャラクターとペルソナの問題が反転しているだけで、彼女は退行も進歩もしていない。それどころか「御伽原江良」のペルソナに、御伽原自身が抵抗することをやめたのである。恐らく、抵抗を抵抗とも気づかず、抵抗をやめたことにも気づかないまま、静かなBGMに乗せて、ときに嗚咽を交えながら、粛々と配信は進む。

 乗りこなしきれない「御伽原江良」のペルソナは、配信というプラットフォームにおいて醜く暴走することによってあらかじめ不可能な抵抗を自己自身に対して行った。その事実は、自らが虚構の臨界にどれだけ迫ろうともそこから脱出することはできないという無情な、しかし「御伽原江良」がバーチャルの存在であるが故に宿命として引き受けなければならない、我々コンテンツの消費者とは別のリアルを突き付けた。御伽原は、バーチャルにおいてのリアルに疲弊して抵抗をあきらめたのだろうか?そういう風に言えなくもないだろう。が、この配信の御伽原江良は、疲弊したようには見えない。むしろ、生き生きとしていて、にじさんじに入って、Vtuberになってよかったと、本心から言っているように見える。それは、彼女のファンが、そして何より「御伽原江良」が、チャンネル登録者数9万人という、陳腐で、どこにでもある、食い尽くされた「物語」によって「御伽原江良」に承認されたという、やりきれないひとつの成就なのである。承認によってしか、自分を(キャラクターもペルソナもひっくるめて)愛することができないという不能を示す御伽原は、とても幸福そうだ。ロールプレイも抵抗も暴走もしなくなったペルソナの呪いは、彼女が「御伽原江良」である以上、終わらないのだ。

 

・終わりに――すべてのオタク的言説は無力である

 ここまで難しいことを書いてきてアレだが、ひねった話をせず、一ファンとして御伽原江良について言うことがあるとすれば、彼女はシンプルにたちの悪いメンヘラのバカである。キャラクターやペルソナのくだりなんか、書いてて若干アホらしかった。問題になった配信の実際のところは単にコラボで喋れず気落ちして(私は女性の使う「病む」という表現を蛇蝎のごとく嫌っている)、やけくそになっただけというのが関の山だろう。

 でも、例えば他の好きなにじさんじライバーである鈴鹿詩子や、竜胆尊や、鷹宮リオンなどについて、これだけのことを書くことができただろうか。多分できなかったと思う。御伽原江良は、その点で極めて独特の魅力がある。そのすべてが無力であり、何の意味もなさないと知っていても、何かを言わせずにはおかない不思議な力がある。ガワ?父性本能?自分の好み?端的に言ってしまえば、それで終わりだ。私はメンヘラバカをかわいいと思う凡庸な感性の持ち主です、で話は初めから終了している。

 繰り返すが、サブカルチャーをめぐるほとんどの語り(この文章もそうだ)はゴミだ。頭でっかちな議論は、コンテンツの趨勢に何も寄与しない。どれだけ金を落とすかにコンテンツの延命はかかっている。特にバーチャルYoutuberは、先行きも見えず、業界自体が不安定なのでいつ終わってもおかしくない。でも、オタクは語りたがる。何も寄与せず、何も正当化できず、すべては無力だと知っていながら、語る。

 

 

 最後に。御伽原江良というライバーはコンテンツへの依存度がめちゃくちゃ高いパーソナリティを持っているので好き嫌いは分かれるし結構ボロクソ書いてしまったが、本当に好きなライバーの一人であることは明記しておく。センスが光るリズム天国実況、ギバライカコラボのスーパーバニーマンはクソガキの御伽原をチャイカがいなすにじさんじきっての名配信だと断言する。