思考停止

映画、本、音楽、など

TWICEハイタッチ会 ごく個人的なレポート

チェヨン

 チェヨンはTWICEのメンバーの中で一番身長が小さい。客観的に彼女の体躯がどういう作りをしているかという問題は些細な問題のようで、実際に目の前にしたときの印象はそういう些細な印象の方に引っ張られてしまうが、「FANCY」活動時の髪の色をピンク色にし、刺激的なコスチュームに身を包んだチェヨンは体躯の小ささを気にさせず、文句なしにカッコよかった。最近は黒髪に戻したが、手首、耳の裏、腕、指にタトゥーを施した彼女の姿は、アイドルと一緒について回る「アーティスト」といういささか陳腐で奇妙な肩書を字義通りのもっともらしさで受け取らせるだけの説得力がある。

 消毒用アルコールを手にプッシュしてブースに入ると、上にも書いたが、座っていたというのもあり想像以上に小さく見えた。「赤ちゃん猛獣」という有名なチェヨンの二つ名はまさに言い得て妙で、リラックスしてブースで右手を差し出す彼女を見ると、今日ハイタッチする4人の中で一番最初にチェヨンを選んだことでこちらも肩の力を抜いてメンバーに会うことができる感じがして、安心感が心の底から湧いてきた。妙に媚びたりせず、自然体で、しかし本人の持つ愛らしさがよく伝わってくるハイタッチだった。私はチェヨンのハイタッチ券を2枚持っていたのでレーンを2周することになったが、2周目は私の前の番が小さい女の子だった。その女の子を見るチェヨンの視線が、とても暖かいものだったのをよく覚えている。

 

・ツウィ

 ツウィとハイタッチするのは2回目だった。今回は「Breakthrough」のハイタッチ会だったが、先月行われた「HAPPY HAPPY」で1枚だけ引けたのがツウィだった。それが初めて至近距離でTWICEのメンバーを見る体験になったわけだが、そこで私は、当たり前のことなのだが、ツウィを含めてTWICEというアイドルが「人間の顔」をしていたことに驚いた。顔が私の拳ほどしかないように思えるツウィが、つたない日本語で「ありがとうございます」と私に言ってくれたとき、テレビやスマートフォンで見ると彫刻のような顔立ちをしているように見えるツウィが、ちゃんと私と同じ人間の顔をしていることが嬉しい驚きだった。

 ツウィはごく最近髪の色と髪型を変えた。ずっと暗めの茶色か黒の髪色で、前髪を分けていた彼女が、青めのアッシュが入った金髪にして前髪を作った。もちろん前の髪色・髪型のツウィも好きだが、今のヴィジュアルのツウィは神話に出てくるお姫様のような趣さえある。チェヨンやツウィに限らず、K-POPアイドルは髪色の変化も楽しめる要素の一つだが、個人的にはツウィの変化はとても良い変化だと思った。ツウィを目の前にして、私は思わず息を呑んだ。とてつもない美形なのに、人間味があって、嫌みな感じが全くしない。前回のハイタッチとはまた変わった雰囲気のツウィのオーラに飲まれてしまい、すぐハイタッチしてブースを通り過ぎなくてはいけないのに1秒か2秒ほど足が止まり、スタッフに「立ち止まらないでください」と注意を受けた。美しいのに人間的なツウィの魅力を2度も味わうことができて、結構ラッキーだったと思う。

 

・サナ

 遡ること約半年、私は東京ドームで初めてTWICEを観た。豆粒のような本人たちの姿を3時間肉眼で凝視することはできなかったので、メインステージにある巨大なバックスクリーンに映った9人の姿に夢中になったのを、よく覚えている。コンサートの開始を飾る「One More Time」で、私は後述する推しのジヒョがどんな衣装で、どんな髪型で、どんな表情で登場するのかを今か今かと待っていた。ところが、ジヒョ以上に、というか9人の中でもずば抜けて存在感を放ち、目が釘付けになったのがサナだった。色白に金髪が映えるサナの圧倒的なオーラは、間違いなくスターそのものだった。サナ推しに怒られるかもしれないが、チッケムで見るとモモやジヒョに比べてサナのダンスはややぎこちなく見える。もちろん、アイドルのダンスがスキルや身体能力だけではないことは知っている。サナに目が行ってしまうのは、彼女の身振り手振り、佇まい、すべてに「選ばれしもの」のオーラがあるからだ。ツウィとはまた違ったオーラである。

 場内整理(迷子の呼び出しとメンバーの休憩)が1時間ほど続き、結構私は苛立っていた。サナのレーンで座り込み、暇つぶしでいじっていた携帯の充電も危うくなり、持ってきた本をパラパラとめくっていた。そんな訳で、チェヨンとツウィで勢いがついていた私の精神状態がみるみるトーンダウンしていたのも事実である。サナを目の前にした瞬間、私の抱えていたイライラや運営への不満はものの見事に吹き飛んだ。東京ドームで衝撃を受けたあのサナが、あのまま、はじけるような笑顔で私とハイタッチをしてくれた。今日のハイタッチで間違いなく一番楽しかったのはサナとのハイタッチだった。つやつやとしていて血色が良く、派手な金髪でありながらけばけばしい感じがなく、だからといってたとえ渋谷や新宿で1万人の女の子を一絡げにしたとしても全くかなわないと思わせるような、圧倒的なスター性を感じた。ツウィの人間的な美しさとはまた違った意味で、こんなに抜群のプロポーションを持ち、他の追随を許さないオーラをまとっていながら同時に庶民的な感じもするサナという存在は、9人それぞれがそれぞれの仕方で輝いているTWICEの中でも、ひときわヴァイタルである。

 

・ジヒョ

 ジヒョは私の推しなので、若干冗長になってしまう。

 ジヒョをめぐる私の情念や感情、欲望については、2つの記事を書いた今でも、やはりあまりうまく説明できる自信がない。歌番組でも、東京ドームでも、V LIVEでも、Instagramでも、いつも私はまず最初にジヒョを探す。もはや形骸化し、巷談の中で日常的に使われ、その特殊な意味を失いつつある「推し」という言葉の、最も真摯な意味で、私はジヒョを推し、欲望してきた。そこに理由がいるだろうか?1つ前のエントリで書いたことと重複するようだが、それを逐一言葉にすることに、私はあまり価値を見出していない。意味がないわけではないだろう。何事にも始まりはある。起点を明確にすることによって分かることはいっぱいあるだろう。でも、「好き」や、「かわいい」や、「美しい」といった形容を凡庸なものとし、特権的な情念の対象を形容する際に使われる「推し」という言葉自体に、我々アイドルファンは敏感にならなくてはならない。「なぜ」「どうして」推すのか、という問いではなく、「推し」とは何か、ということを、厳密に自分自身に問うてみるときがあってもいいし、それはアイドルファンに許された豊かな営みだ。「なんとなく」かわいいとか好きなのだったら、初めから推しを決める必要はない。私も9人のTWICEが全員好きだ。でも、均等に「好き」が割り振れるわけでもない。それどころか、「好き」という言葉には当てはまらない感情の機微を、ある一人のメンバーには揺さぶられてしまうことは、大いにあるだろう。長くなってしまったが、私にとってジヒョとはそういう人であり、「推し」であることは揺らがない。

 他のメンバーとは違った心境で消毒用アルコールを手にプッシュし、ブースに入った。私は、そこで目にしたジヒョの表情――つまり私の前の順番の人とハイタッチする彼女の表情――が、鮮明に脳裏に焼きついている。彼女の大きい瞳はどこも見ていなかった。口元は横に突っ張って歪んでいた。全体の印象として最も適している言葉は、「引き攣っている」というものだろう。その前にサナの躍動的な表情を見ていたというのもあるかもしれない。こわばった表情のまま、私はジヒョと、推しと、初めてのハイタッチをした。ジヒョは私の目を見なかった。ただでさえ短いハイタッチの時間が知覚できないほど一瞬に感じられて、ブースを出たあとは何が起きたのか分からなかった。塩対応、というものでもない。一瞬ではあったが、彼女の背筋は美しく伸びていたのを確認したし、やる気がないという感じでもなかった。幸い、私はジヒョの券を2枚持っていたから、急いでもう一度レーンに並んだ。2周目は、彼女は笑っていた。どうしようもなく引き攣っていて、目を合わせたけど私の遥か後ろを見ているようで、笑顔が貼りついていた。

 1周目と2周目との間に、場内整理がもう一度あった。1周目のどう見ても不自然な表情に心を乱されていたせいか、45分ほどだったがあっという間に感じた。スタッフから注意喚起があった。なんでも、ブース内でわざと手のひらにキスをしてからハイタッチをするファンが出たのだという。ジヒョがその嫌がらせを受けたのかどうかは、定かではない。しかし、言葉が出なかった。初めて至近距離で見た推しの表情は、正直言って自分の見たい表情ではなかったから。あんなにこわばって引き攣ったジヒョの表情を、私は見たことがなかったし、見たくもなかった。でも、推しに会えてよかったとは思った。私は煙草を一本吸って、幕張メッセを後にした。

沈黙と雄弁

 先日、アイドルでオナニーすることについて少し長めの文章を書いた。あの文章を書いたことがきっかけになってかそうではないのか、私は推しのパク・ジヒョで初めてオナニーをした。終わったあと、私はしばらく動くことができず、気づいたら涙が出ていた。タバコを持つ手が震えた。なぜそうなったのかを逐一言葉にすることに、私はあまり興味がない。一人のオタクがアイドルでオナニーしただけだ。それ以上でも以下でもない。私の欲望のあり方や、私の欲望の根源が何かを問い、それを言葉にすることには、少なくとも私にとっては意味がある。言葉にすることによってしか分からない私の欲望は恐らく、必ずあるからだ。でも、欲望をどう発露するかは、ただ発露すればよい。すべてを語る必要はない。何もかもが語れないのではなく、語ることに価値がないことについては、おのおのの仕方でそれを解消し、おのおのの仕方で沈黙すればよい。

 

 昨日、私の推しであるTWICEのパク・ジヒョが熱愛報道された。サバイバル番組で期間限定で結成され、先日1年半の活動期間を終えて伝説となった男性グループ・Wanna Oneの絶対的エース、カン・ダニエルとパク・ジヒョの交際のニュースは、瞬く間にSNSを駆け巡り、今日なんかはワイドショーでも取り上げられていた。私のオナニーと交際報道には何の関係もない。しかし、ガチ恋でもプラトニックな応援でもない仕方でジヒョを「推して」いる私は、「推しシコ」と推しの交際報道に何の根拠も符牒もない勝手なめぐりあわせを感じて、胸がざわついた。友人と浴びるほど酒を飲みながらゲームをしていても、ずっと私の脳内にはジヒョの顔がちらついていた。

 

 「恋愛禁止」を掲げておきながら恋愛を歌うアイドルがいびつであるように感じたのは、いつからだっただろう。少なくとも私は、多少なりともそういうアイドルの振る舞い(無理やりな言い回しをすれば「振る舞わさせられ」)に欺瞞的なものを感じていたから、アイドルのスキャンダルが出るたびに、アイドルのスキャンダルに失望するというよりは、それを巡るオタクたちの失望の言説に失望していた。私がアイドルが原理的にミソジニー的なものだと考えているのは、ひとえに「処女信仰」である。彼氏がいない、セックスやキスをしたことがない、そういうことが「商品」のひとつの価値決定になってしまうアイドルと、何より価値を作り出しているオタクの空気感に嫌気が差した結果、私は一度アイドルオタクをやめた。TWICEに出会ったのは、アイドルオタクを一回やめてから3年後のことだった。

 

 「推し」が異性と浅からぬ関係を持っているという事実に対して、オタクの取りうる態度に「正しい」や「悪い」はない。ジヒョとダニエルの関係は互いの事務所(ダニエルの事務所はダニエル一人だけなので事実確認も何もないと思うのだが)が公に認め、「K-POPビッグカップルの誕生」と盛んに言われている。いきなり子供ができたとかではないし、コソコソやっているわけでもないので、見る限りの範囲内では「祝福しよう」というムードが支配的だ。その一方で、「やっぱり彼氏がいてほしくはなかった」とか(ネタ化している「カップリング」のコミュニケーション内で)「ノンケだったのか」などのコメントもまた、見られる。日本と韓国ではアイドルのあり方も微妙に異なるので、単純に比較することはできないが、「スキャンダル(醜聞)」ではない公的なお付き合いということに関しても、ジヒョに失望したり、ある種の希望や夢みたいなものが終わったと捉えるオタクがいることは、日本も韓国も同じだ。そういうコミュニケーションによってオタクコミュニティの強度が保証されていることを、私は否定しない。私のTwitterの600人ほどいるフォローでTWICEのファンがほとんど女性であるにしても、アイドルに注がれるミソジニーの欲望は、実のところ日本アイドルの男性ファンと構造をほとんど違えていない。それは、アイドルオタクのあり方が、男性にしろ女性にしろ処女信仰的な(あるいは「百合」的コミュニケーション――アイドルとアイドルの関係性を同性愛的な文脈で読むということ)、人口に膾炙した意味での(厳密でない)ミソジニー的価値観に収斂しているということの何よりの証左だろう。

 

 さも私がアイドルオタクではないかのような書き方になってしまった。何よりの前提として、私はTWICEのオタクであり、ジヒョのオタクである。ジヒョを目の前で見たいあまり、『HAPPY HAPPY』と『Breakthrough』をハイタッチ券目当てで合計で22枚買ってジヒョのハイタッチ券を当てたときは渋谷のタワーレコードで喜びのあまり過呼吸になりかけたし、まだTWICEを追い出して1年も経っていないが、私が今までで最も色んなリソースを割いて応援しているアイドルであることは確かだ(次点は多分predia)。私がジヒョとダニエルの交際報道を見た時の感情を一言で言い表すことはできない。「私のもの」だったジヒョが同じK-POPのスーパースターと交際していることのショック?「アイドル処女至上主義」をまっとうな形で推しが否定してくれたことに対する快哉?もしくは他の何か?恐らく、その全てだろう。それでも、一番強かった感情は、「ジヒョを推していて、本当に良かった」だった。その感情を、1から100まで説明することに、私は価値も必要も感じない。

 

 何かを言葉にすることの意義は、言葉にできないことの臨界にまで迫ることだ。何かを語ることによって語れないことを、語ること以外の方法で浮かび上がらせることだ。「推す」ことの欲望、「推し」が自分の思い通りにならないことに対する感情、それらに対して私たちは努めて雄弁であるべきだと思う。なぜなら、人が人の欲望や感情を「読む」ことによって人は自らの気づいてもいなかった欲望に気付くことができる可能性があるからだ。しかし、全てを語らなくともよい。語れないことが最も重要なわけではない。語ることによって気づけることと、語らない、語れないことによって気づけることの位相が異なる、という話である。アイドルオタクがTwitterやブログをやること、何の肩書もない人々の「便所の落書き」を残すことに私が意味を見出すのはそこである。ジヒョという私の推しについて、私はときに語り、ときに押し黙るのである。

「アイドルでオナニーしていいんですか?」――私とTWICEの場合

 男性のオナニーは倫理的か?という問いがもしあったとして、そこで言われている「倫理」とはなんだろう。その営みが他者を傷つけていないことから、オナニーは倫理的に正しい、と言えるだろうか。オナニーが限りなく一人でする行為であるのに対して(この場合の「一人でする」とはペニスを手や任意のジョークグッズなどで刺激して快感を得ることである)、セックスは少なくとも二人以上ですることであるから、傷つけ傷つけられるセックスというのは容易に想像がつくにしても、オナニーで傷つく主体や、傷つけられる主体がいるかどうかというのはかなり微妙な話になってくる。

 人は、性について話すとき、恥じらうか、開き直るか、格好をつけるか、何にせよなんらかのポーズを取らざるを得ない。フーコーではないが、それは性について話す人が意図的にポーズを取るのではなく、「性について話す」ということが人にそのようなポーズを取らせているのである。SNSで、居酒屋で、性は色んな形で発話される。これを書いている私は、もっと注意深くならなければならない。こんな前置きをしたところで、「フラットに」性を語ったり話したりすることは不可能だからだ。だから、ケースを限りなく絞ろう。セックスではなく、オナニーについて。しかも、男性の。「男性のするオナニー」ではまだ広すぎる。アダルトビデオや成人向け漫画などのポルノグラフィを用いることなく、ステージ上で輝いている(あるいはステージを降りた)アイドルでオナニーをするということ。大分怪しくなってきた。もう少し。日本のアイドルではなく、K-POPの場合は事情が違うだろうか?ここで私は、日韓台合同のK-POPガールズグループ、TWICEを扱おう。

 オナニーは倫理的か?その問いに答えることはできない。私は、「私のオナニー」、つまり「TWICEというアイドルを見ながら行われる男性のオナニー」についてしか語ることができないからだ。性はフラットに語れない。ざっくばらんに言ってしまえば、性とは当事者の問題であることで、万人に開かれているようで個人に閉じている。ジェンダーセクシュアリティが異なれば当然語られる性のあり方も異なってくる。これは、オナニー、アイドル、TWICEについての、私のごく個人的な覚書であり、断章である。

 

・事後的なポルノグラフィ――「オカズ」になるアイドルのポートレート

 なぜ冒頭でこんなにもったい回った書き方をしたかというと、もはや「アイドル」が誰でそれを見ているのは誰なのかが多様化しすぎているからである。日本のアイドルに限って言えば、AKB48も、嵐も、ももいろクローバーZも、超特急も、みんなアイドルだし、女の子がAKBに憧れたりジャニーズになりたい男の子がいたりするように、全てのアイドルがヘテロセクシュアル異性愛によってまなざされているわけではもはやない。私がここで扱うのは、「女性に性的志向を持つ男性が」見る「女性の」アイドルである。アイドル自身のセクシュアリティについては、問う必要もないだろう。流行りのポリティカル・コレクトネスを全部無視する言い方をすれば、ここにおける女性アイドルは「見られる」ためにしか存在していないからだ。「そんなことはない、女性のために立ち上がる女性のアイドルはいる」、「男性が女性のアイドルをプラトニックに応援することはないのか」、大いにある。そのすべての物言いは正しい。ただ、私は正しい話をしたいのではない。「女性アイドルをオカズにする男性ファンはいる」「女性アイドルは男性ファンのオカズになってきた」という話をしている。アイドルの見方が多様化している現在、何のエクスキューズもなしに女性アイドルは男性にオカズにされるために存在している、なんて言った日には四方八方から袋叩きにされてもおかしくない。

 

 2012年、ごくごく狭いコミュニティで、「ベスシコ」という言葉が(なぜか)突発的にバズった(詳しくは以下のtogetterリンクを参照:https://togetter.com/li/432618)。私は当時中学3年生で、リアルタイムでこのバズを見ていたが、率直に楽しかった。「アイドルでオナニーする」ことはごく自然なことのように思われたし、ホモソーシャル内でよくある「クラスの女子の誰が一番可愛いか」の延長線上でしかないように思われたからだ。かれこれあれから7年ほど時が経っても飽きもせずアイドルファンをやっている私は、今これを見ても(昔ほどは乗れないものの)異様な光景だとは思わない(とても雑な意味での倫理においては何もかもが間違っているが)。

 ただ、注意しなければいけないのは、「シコ」(オナニー)の対象となるべきそのアイドルの画像群は、乳房を乳首まで露出しているわけでも、女性器をあらわにしているわけでもないことだ。もちろん扇情的な(局部以外の露出が激しかったり隠すことによって局部を強調するような)水着やその他の衣装で撮影されたグラビアも画像グリッドに上がってはいるが、メンバー自身が何気なく携帯で撮ったセルフィーや他撮りが、なんなら「一番シコれる」とまで言われているわけだ。極めて危うい言い方をすれば、ポルノグラフィがポルノグラフィであるという事実はその消費者によって事後的に形成される。初めから男性のオナニーを意図して作られるアダルトビデオや成人漫画は、ほとんどの場合「男性の視点」で切り取られている(AVにおける「開き」と呼ばれる正常位で女優の体が顔から股間(挿入部)まで画面上で対角線になるように撮られたショット、「主観モノ」、成人漫画でペニス以外の体が透明になることによって女性の表情や身体が見えるようになる演出など、挙げれば枚挙に暇がない)。が、「アイドルでオナニーする」ことは、どうやら「男性の視点」は「あると良いけどなくても構わない」ものらしい。

 いや、他人事のように書いてしまったが、私も当然アイドルでオナニーしていたし、そこにおいて「男性の視点」は確かに必要がなかった。私を含めたアイドルでオナニーをする男たちは、メンバーの日常を切り取ったポートレートを、何の疑問もなくオカズにする。もしかしたら、ステージ上で歌い踊ったりする姿より、ブログに何気なく載せたセルフィーから繰り広げられる行き場のない「オタク」の妄想の中で、アイドルは奇妙な輝きを見せていたかもしれない。「かもしれない」ではない、そうなのである。男性ファンにとって、肌の露出はさほど重要ではない。「使えた」という結果しか残らない。お菓子を食べていたり、ジュースを飲んでいたり、日頃のプレッシャーから解放されている「かのように見える」オフショットのアイドルは、何かが間違っていたら自分の隣にいたかもしれないと思わせる。ここにおいて、何をもってポルノグラフィとするかという客観的な尺度などは存在しない。「オタク」個々人の「使える」「使えた」事後的で恣意的なポルノグラフィが「オタク」の精液にまみれて無造作に散らばるのみである(自分で書いておいてなんだが、ここまでアイドルのポートレートを露悪的に言ったことはない)。

 

・「推しでシコっていいのか」「いい」「ダメ」

 ここまで、私は意図的に男性ファンのアイドルでするオナニーについて避けているタームがある。「推しシコ」だ。アイドルを「推す」というのは付帯する色々な意味を退けて言えば「お気に入り」だが、オタクの間ではそこに付帯する意味にこそ意味がある。ガチ恋もいれば、単純にアイドルの夢を応援したいという人もいるし、性的対象であったりと、「推し」の形はさまざまだし、アイドルのファンをやることの醍醐味は「推す」ことによって推しのアイドルの物語なりキャラクターなりを、推し以外のメンバーとは違う形で(ある種特権的に)消費することにある。

 「推しシコ」の問題は女性アイドルの男性ファンにとっては単純だが根深く、それはひとえにオタク自身の倫理の問題だからだ。プラトニックでなければ、「純粋な気持ちで」推していることにはならないのではないかという人もいるし、全く逆に、推しでオナニーしなければ推していることにはならないという人もいる。本題のTWICEに早く入るためにもあまり深入りできない(深入りしすぎるとそれだけで一本エントリになるし、事実かなり偏った見方ではあるものの推しシコについての文章は存在する。以下を参照:http://blog.livedoor.jp/a_waltz_of_ducks/archives/51854489.html)が、さりとて無視できる問題でもない。ただ、これは「女性をどのように見ているか」というファン個人の女性観に依存する部分も多いため、やはり断定調で書くことは些末だが個人にとっては重要な問題を捨象することにもなる。

 私のケースに限って言えば、任意の人を好きであると思うことは性的な感情を持つことに直結していたので、推すからオナニーするのではなくオナニーするから推す、というかなりねじれたアイドルの見方をしていた。だから、推しシコは自分にとって非常に自然なことだった。推しでオナニーすることの倫理を問われたとき、私にとって「推す」という振る舞いは即ちそのメンバーでオナニーをすることでしかない。「純粋な気持ちで」?「歌って踊る彼女が好きだから」?私は、そういうプラトニックな言説が全て信用ならなかった。自分にとって性的な引力がない異性に興味を持つことの方が私にとっては異常で不自然なことのように思われた。

 

・TWICEでオナニーする――推しであるパク・ジヒョをどのように見るか

 先にも書いたように、性について話すことは個人的なことだが、「推しシコ」の話をしてしまった以上、私は私について話すしかない。

 私は13歳でAKB48に出会い柏木由紀推しになって以降、色々なアイドルを渡り歩き、全ての推しでオナニーをしてきた。何度も繰り返すが、推しでオナニーすることが自分なりの「推す」ことだったし、女性を性的に消費しているだとかアイドルはポルノではないとかの意見は所詮本当にアイドルを推したことがない、外野の人間のノイズとまで思っていた節がある。ただ、言い訳をさせてもらえば、私は日本以外のアイドルを知らなかった。AKS(厳密には異なるが坂道グループも含む)、ハロー!プロジェクト(私は見事にハロプロを通ってこなかったので、名前を出すに留めておく)といったビッグバジェットは勿論、グラビア(地下アイドルを除く)や画像付きブログ(地下アイドルを含む)といった「事後的なポルノグラフィ」を生み出さない日本のアイドルは、ほぼというか全くいないとまで言っていい。何より目で楽しませないことには始まらないアイドルというショービジネスにとって、画像メディアは命であるが、特に一番長くオタクをやっていた48&坂道グループは(事後的)ポルノということについて相当に露悪的な売り出し方をしていた。胸の谷間やヒップラインをことさらに強調するビキニ衣装を誰でも彼でも着せてグラビアにする過剰なビジュアル戦略は、当時中高生で性的消費が最も活発だった時期の私が見ても、グロテスクと言わないまでも(もちろんこれはファンのマイルドな言い方で、アイドルファン以外や女性ファンから見れば擁護のしようがないほどグロテスクである)、過剰供給の感はあった。1997年生まれの私が48グループの「同い年のメンバーでオナニーする」ことに倒錯的な悦びを覚えていた事実は倫理的に正当化できるものでは当然ない。それでも、そういった性的なビジュアル戦略=アイドルの戦略だと刷り込まれていた私は、アイドル(とその中の推し)でオナニーすることに疑問を抱いてはいなかった。

 しばらく諸事情でアイドルから離れてから、K-POPというフィールドを得てTWICEのオタクとして出戻った私は、かなり戸惑った。まずV LIVE(韓国アイドルの使う動画生配信サービス)やYoutubeに違法アップロードされているバラエティで彼女らが喋っている言語が分からない。日本のように雑誌にビキニ姿のグラビアが掲載されることもない。画像付きブログもモバイルメールもない。その代わり与えられているのは、どこか壊れた日本語字幕のついたV LIVEで垂れ流される配信、メンバー全員の共有アカウントのInstagram、あとはTwitterに流れてくる空港写真である。オナニーすることでしかアイドルを好きになってこなかった私は、ポルノグラフィに「する」にはかなり苦しい材料しかなかったにも関わらず、初めてオナニー(性的な目線)を介さずにTWICEというアイドルのことが好きになった。オーディション番組「SIXTEEN」や、「アイドルルーム」などのバラエティ番組を観て、TWICEのメンバー個々人のパーソナリティを知ったりプロデューサーのパク・ジニョンの思想や哲学を勉強したりして、TWICEや所属事務所のJYPがいかにクリーンで人間重視のアイドル教育をしているかを身に染みて感じた。これによって、今まで性的な目線が第一(性的な目線しかなかった訳ではない)だった私のアイドル観は徐々に変容していった、かのように思えた。

 ただ、正直な話をすれば、TWICE、そして私の推しであるパク・ジヒョを好きになったのは、間違いなく性的興味であったことは認めなければならない。2018年8月31日に放送された「ミュージックステーション」における「BDZ」のダンスで、ひときわ大きく揺れる彼女の胸を見ていなければ、ジヒョとTWICEを好きになってはいなかった。だが、彼女のことを深く知れば知るほどに、ジヒョでオナニーをしたり性的なことを言ったりすることは倫理に悖るのではないかという気持ちが頭をもたげる。その事実は、私が少なからず今までオナニーしてきたアイドルに対して「この子ならオカズにしてもいいだろう」というミソジニーと、オナニーという行為が持つ後ろ暗さを逆照射している。プロデューサーのパク・ジニョンは、日本における新プロジェクト「Nizi Project」始動の際のインタビューで、こんなことを言っている。

いくら歌やダンスのスキルがあったとしても、人間的に失望してしまう部分があった場合は、最初からその人をデビューさせません。例えデビューしていても、人間的にがっかりするようなことがあった場合は、事務所から出てもらうことも多かったです。(https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20190224-00115829/

 「良い歌手である前に良い人間であれ」と何度も繰り返し、歌やダンスのスキル以上に人格者であることを求めるジニョンが選んだTWICEの中でリーダーを務めるジヒョを応援するにあたっては、私自身も清い人間にならなければならないのではないか……とまでに影響されたが故に、揺れる胸目当てでジヒョを推し始めた自分を恥じたりもした。

 だが、TwitterでTWICEのファンと知り合うようになって驚いたのは、(比率として圧倒的に多い女性ファンはこの場合考えない)「TWICEでオナニーする」と公言する人がおよそ見当たらないことだった。48でベスシコだの推しシコだので盛り上がっていたホモソーシャル空間はTWICEのファンコミュニティにおいては気味が悪いほどに見ることはなく、代わりに目にするようになったのはメンバー同士でレズセックスをさせる「カップリング」のコミュニケーションだった。その是非は本記事の眼目とは全くずれるので一切問わないが、アイドルの性的消費の形として「カップリング」のコミュニケーションに全く乗れなかった私は、やがてTWICEでオナニーをするようになったし、TwitterでもTWICEについての性的なジョークを言うようになった。モモやダヒョンに劣情を抱いた事実を言い訳するつもりはない。むしろ、今までの自分のオタクとしてのキャリアからすればこちらの方が正直なあり方だとさえ言える。

 それでも、性的興味から応援し始めたジヒョを「オカズ」にしたことは、ただの一度もない。これについての答えは、未だ得られない。今までの私のアティテュードから言えば、ジヒョでオナニーしていないのは推していないということであり、倫理に反することである。所詮露悪的なショービジネスであるアイドルに、安易に「尊敬」という言葉を使うのも、あまりに素朴で無垢すぎる態度だと思うし、実際私はそこまで誠実なTWICEのファンとは言えない。その一方で、今でも、Twitterや友人との会話の中でジヒョをオカズにすると言うことには気が引ける(エゴサーチを本人がするわけでもないのに!)し、ジヒョの画像をスマートフォンで表示しながら自分のペニスを愛撫しようという気には(罪悪感とも倫理観ともつかない何かが喉元に引っかかって)なれない。ジヒョでオナニーをしないことは、かなり過激なミソジニーを持つ私という人間の最後の「女性を信じていたい」という願望かもしれない。しかし、確信していることがある。いつか、何かのきっかけで、私は私に問いかけることになる。「僕は、ジヒョでオナニーしていいんですか?」と。「いいよ」、と私が私自身に答えたとき、私の「アイドルでオナニーすること」の倫理は、新たに書き換えられることになるだろう。

御伽原江良について――虚構の臨界とペルソナの呪い

・はじめに――増えすぎた「サブカル」言説

 「サブカルチャー」の射程は、今や広くなりすぎてしまった。例えば……と列挙することもできないぐらい枝葉は分かれ、手の付けようがない。コンテンツがあればそれを語る言葉も増えるわけで、「サブカルチャー批評」と名のついた言説は細胞のように増殖し、文献渉猟や史料分析のハードルの低さ(これは決してサブカルチャー批評にあたって必要な作業が容易であると言いたいわけではない)から到底「批評」の名を冠するに値しないものも多く生まれた。というか、遠慮なく言ってしまえばゴミがほとんどである。私の愛するコンテンツであるアイドルやアニメ、そしてこの記事で言及するバーチャルYoutuberバーチャルライバー(以下Vtuber、ライバーと略記)をめぐる語りは、もう遍在しすぎて正直訳が分からなくなっている。私は、「批評」や「論考」によってそれらサブカルチャーを捕まえようとか輪郭を浮き彫りにしようとかという試みに、素朴に与しようとは思えなくなってきている。聞きかじりの哲学や精神分析の理論を組み合わせてそれっぽくしたからといって、何になるだろう。

 そのような無力感を覚えつつ、一方で何かを語りたいという欲求は、耐えがたく私の中にある。いっそのこと、「批評」とかいうものものしい大上段を捨ててしまえばいい。全部オタクの妄想、自分語り、自己言及と開き直ってしまいたい。そうしてできたそびえたつクソは、何やら「批評」の顔つきをしている。オタクとは、本当にめんどくさい人々だ。我ながら呆れてしまう。私は、こうして文章を書くことが楽しい以上、語ることの呪いから逃れられない。私が以下に書こうとしているあるVtuberも、そういう「呪い」から抜け出ようとしているが、上手く行っていない、ひとつのケースである。

 この宣言が失敗する前提で、ある宣言をしよう。以下の文章は批評でも、論考でも、ましてや論文のような何かでもない。オタクの独り言、便所の落書きである。でも、便所の落書きが用を足す人々の目に触れることがある可能性に、私は賭けようとも思う。

 

・助走

 Vtuberについての辞書的な定義をここでするつもりはない。が、御伽原江良というVtuberを語るにあたって、少し退屈な説明をしなければならないだろう。私の記憶では、キズナアイ、ミライアカリといったいわゆる「バーチャルYoutuber」が出てきたのは2017年あたりだった気がする。彼女らに共通していたのは「動画中心」であることで、大体5~10分程度に編集された動画を自分たちのチャンネルにアップロードしたものを皆が観るというのが意識されてもいない大前提だった。また、事務所にも所属しており、例に挙げたキズナアイはupd8、ミライアカリならENTUMと、YoutuberにおけるUUUMのような企業に属しているのが衆目に触れるVtuberの多くだ。もちろん忘れてはならないのが「個人勢」と言われる人々で、キャラクターメイク、プロデュース、動画編集などを個人(あるいはチーム)で行うVtuberもいる。これは後述するライバーも同様である。

 今回主題となるVtuberでありライバーである御伽原江良は、いちから株式会社の「にじさんじプロジェクト」に属するキャラクターだ。にじさんじの革新的だった点はキズナアイやミライアカリをはじめとする多くのVtuberが編集済の動画を活動の中心にしていたのに対し、ミラティブ、OPENREC、ツイキャスなどの配信プラットフォームをサブにしつつYoutubeliveで「生配信」をすることにこだわった点だ。動画勢も少ない頻度で生配信をすることはあったが、にじさんじというプロジェクトは現在70名以上を擁し、そのほとんどが配信中心の活動をするという一種の業界における革命は、無論個人活動のVtuberにも大きく影響を与えた。活動プラットフォームをYoutubeに限定しないという意味で、にじさんじのキャラクターは基本的に自らのことを「バーチャルライバー」と呼んでいる。

 

Vtuberの病理が「見えなくなった」Vtuber、御伽原江良

 本題に入ろう。御伽原江良の詳細なプロフィール(設定)は非公式wikiが充実しているのでそちらを参照してもらうとして、今回問題にしたいのは彼女が「御伽原江良」であるという事実それ自体である。Vtuberという存在は、実のところかなりグロテスクであり、現代的かつ病的でさえある。他のサブカルチャーの消費の対象は、かなりおおざっぱに言って「物語」と「キャラクター」である。上述したようにもはやサブカルチャーという言葉は意味が分かれすぎていてそれ自体では何も指示しなくなっているが、苦し紛れにアイドルを例に取るとして、アイドルはデビュー以前、デビュー、CDの売り上げ(サブスク全盛の2019年においてアイドルがCDの売り上げにこだわるのは言うまでもない、握手券などの付録物に意味があるからである)、メンバーの脱退、そして解散と、アイドルの節目節目という「物語」に、オタクはアイドルのメンバーという「キャラクター」に、ときに喜び、ときに悲しみ、金を落とす。アニメに関してはより精緻な分析があると思うのでそちらに譲るが、インターネットが普及するかどうかの段階で『新世紀エヴァンゲリオン』という黙示録的な作品が多くの語りを生んだのは論を俟たない。この記事の本丸ではないのでかなり雑ではあるが、オタクは仮構された「物語」と仮構された「キャラクター」に金を落としていると言っていい。

 ひるがえって、Vtuberはどうだろう。切り取られた電脳世界の彼女(男性Vtuberもいるが、その辺は今回あえて捨象することにする)たちによる10分間弱の演出は、「物語」なき「キャラクター」が宙ぶらりんになっている事実の露呈である。それまでセットで消費されていたはずのものが、片方が失われ、片方が奇形的に肥大化していく。にじさんじは配信を中心にすることで、チャンネル登録者の数や「デビュー」の概念を生み出すことによってVtuberに「物語」を復権させたかのように見えたが、Vtuber業界全体が行き詰まりを起こし飽和している現在において、既に「物語」は失効している。Vtuberの現代性と病理は、つまるところ「キャラクター」の異常なまでの肥大化だ。二次元美少女の立ち絵がときおり動きながら配信者の声だけが響き、Vtuberのオタクはそれに対してスーパーチャット(投げ銭)をする。はっきり言って、かなり倒錯的な光景である(もちろんのこと私も倒錯的なVtuberオタクの一人だ)。

 御伽原は、その点についてかなり自覚的な配信者だった。「だった」と過去形にしているのは、今彼女は「チャンネル登録者数10万人」という、飽和しきり、オタクが食い飽きた故に放棄した「物語」の成就を盲目的に享受しようとしているからだ。私が好き好んでこんな記事を書いているのであえて書くまでもないが一応断っておくと、私は御伽原江良のファンだ。御伽原を代表する配信であり、尺も6時間半に及ぶリズム天国オールパーフェクト配信も、同じにじさんじ所属のVtuber花畑チャイカとのコラボ「ギバライカ」コラボも、雑談配信も、現行観れるものはほとんどリアルタイムで観ている。今これを書いている最中も配信をしているのを知っていて正直めちゃくちゃ観たいが、そのぐらい彼女をVtuberとして追っているからこそ、歯がゆかったりもどかしかったりする思いがあり、その一心でこれを書いている。というのはどうでもよくて、要するに私は御伽原のアンチをしようとか、攻撃しようという意図では全くないということが言いたいのである。それでも、最近の御伽原江良という配信者は、Vtuberの現代性と病理をある意味体現しすぎていて、観ていて気持ち悪いほどなのだ。肥大化しすぎたキャラクターを制御できなくなり、自らのペルソナが壊れかかっていながらも、そこから自由になれない配信者の苦しみ。そして、それを自覚し苦しんでいた御伽原はもういない。腐敗した「物語」を貪り、苦しみに無自覚なように見える奇形のペルソナ「御伽原江良」が高笑いを上げて、今日も、今も配信をしている。

 

・虚構(バーチャル)とリアルは自明か?

 御伽原の動画を具体的に観る前に、この文章の前提となっている文章がある。

 メルクマ氏は、Vtuberというコンテンツに対してあまりに楽観的であるように見え、「バーチャル」と「リアル」という区分が自明に存在すると素朴に信じてしまっているかのようだ。曰く、御伽原江良は、「バーチャル」なのに「リアル」な存在だ。ロールプレイを放棄し、コラボ配信で成果らしい成果を残せなかった自分を責め立て、赤裸々に心境を語る御伽原江良は、御伽原江良である以前に、虚飾なき一人の女性配信者である、と。雑な要約だが、大体このような具合である。しかし、果たしてそうだろうか?ロールプレイをやめて、自分の心境を吐露する配信を乗せることが、「自分をさらけ出す」、「バーチャル」から「リアル」へと踏み越えることになるのだろうか?恐らく、というか、私の主張ではそれは絶対にありえない。御伽原江良に私がこだわるのは、「バーチャル」、虚構の臨界点にまで迫りはすれど自らが「御伽原江良」であるが故に「リアル」に接続することが初めから失敗していること、そして自らに課した「御伽原江良」のペルソナ(あえて「キャラクター」という言葉は避けている)を抜け出ようとしながらペルソナ自身の持つ呪いが暴走し、それを制御することをあきらめてしまっていること、この二点が故である。具体例から、「物語」ではない、彼女の虚構(バーチャル)を見ていきたい。なお、御伽原江良のモノグラフィーを作ることが目的ではない(にじさんじライバーのアーカイブは膨大なので私が作るまでもない)し、「御伽原江良ガイド」でもないので、ここでは三つの動画を参照する。

 

・ロールプレイと脱臼――「清楚」セオリーのテンプレート的実践

 「初配信」は、キャラクターの持つ個性や特徴、設定、それらを「あたかも『中の人』がいないかのように」思わせる演出である「ロールプレイ」の披露、そして何より重要なフェティシズムである「声」を初めて公にする、一回きりの機会である。「初めて」は全てのライバーに存在するが、御伽原は自分の初配信で露悪的なまでにロールプレイを遂行しようとする。作られた声で「シンデレラ城でイベント」「神戸屋でバイトしたい」など、今の彼女にとってはどうでもいいことを、もっともらしく言っている。そしてにじさんじのひねくれたオタクは、こんなことを思う。「これは、『本当の』彼女、御伽原江良なのだろうか?」と。料理上手で家庭的、夢見る女の子、あからさまな萌え声。正直、童貞の中学生が考えた方がマシなレベルであまりにカリカチュアライズされた二次元の女性像だ。それでも、少なくともこの配信での御伽原は、この無理ある設定を懸命にロールプレイしようとする。

 で、案の定このロールプレイはあっという間に破綻し、ロリコン、メンヘラ、奇声、などなど、「素」のような何かが出てくるというのが流れなのだが、特ににじさんじ的セオリーで重要なのはここまででワンセットであるということだ。にじさんじの抱える怪物であるVtuber月ノ美兎は「清楚なツンデレ学級委員長」という体でデビューしたが、初回配信でエログロ映画の話をして自らロールプレイを脱臼させるというところに端を発し、にじさんじ内では「キャラクター上(設定上)は社会通念上の『清楚』だが実はアングラな嗜好やギャップがある」というハイコンテクストな事実を示す鍵括弧付きの「清楚」概念というものがある。月ノ美兎はいざ知らず、御伽原は恐らく意図せずしてロールプレイを脱臼し、にじさんじ的「清楚」のテンプレート的実践を行った。皮肉なもので、Twitterのメンヘラアピールや配信での失言、歯に衣着せぬ物言いという当初は意図されていなかったロールプレイ脱臼のギャップの効果、ガワ(立ち絵)のキュートな見た目から着実にファンを獲得し、デビューから一か月を待たずに大規模コラボへの参加が決まる快挙を成し遂げた。しかし……。

 

・ 「素の私」、虚構(バーチャル)への抵抗

【御伽原江良】地声を晒しRP崩壊 大量の低評価をくらう - YouTube

 この配信は、2019年4月8日ににじさんじ公式チャンネルにて配信された「にじさんじ MIX UP!」というコラボの後、4月13日に御伽原の個人チャンネルにて配信され、現在アーカイブは非公開になっており閲覧は不可能になっている。当配信はこの切り抜き以外にも他の箇所を抜粋した切り抜きもあるが、これが一番分かりやすいだろう。御伽原江良の一ファンとして、この切り抜きは観ていてかなり痛々しい。ニコニコ動画からの転載なのでコメントが流れているが、ほとんどが御伽原を攻撃するコメントである。本人が自虐ネタで「にじさんじの癌」と発言するシーンが今でもたまに見受けられるが、この配信が良くも悪くも現在の「御伽原江良」のイメージを決定づけた。

 注目したいのは、動画前半部で「私の素を出し切る」と強調していることだ。私は後追いなのでこの配信の全部は観れていないし、分からない部分もあるが、他の切り抜きや上のメルクマ氏の記事から得られる情報を要約すると「ミックスアップコラボで思うような振る舞いができなかった自分を責める」という内容だった(らしい)。初配信はおろか、その後のゲーム実況や雑談配信ですら声を作っていたことを打ち明け、恣意的なロールプレイ脱臼すら飛び越えて、ここでは「御伽原江良」である必然性がなくなっている。「東京からの帰りの新幹線で泣いていた」と述べる別の切り抜きでは、実際の動きと同期する立ち絵(トラッキング)すら放棄してpngの立ち絵が貼りついている。個人的な感情を述べるならば、あまりファンとしては直視したくない姿である。なぜなら、オタクが期待しているはずの「御伽原江良」がいないように見えるからだ。

 しかし、「御伽原江良」は本当にいないのか?「地声」「素の私」と、御伽原はいかにも私は普段「御伽原江良」を演じていますよ、今は虚構(バーチャル)じゃない、「本当の私」なんですよと主張している。実のところ、御伽原がVtuberというジャンルに対して(意図せずも)批判的で、クレバーになりきれないながらも虚構に抗おうとしていたのはここまでである。上に載せた動画のタイトルには「RP崩壊」と銘打ってあるが、そもそも御伽原のロールプレイは早いうちから失敗しているし、ロールプレイの脱臼が半ばお家芸のようになっているにじさんじにおいてロールプレイがぐちゃぐちゃになることは大したダメージではない。彼女が問題となったのは、立ち絵もキャラクターも含めた「ガワ」を攻撃したからだ。これは御伽原個人の問題ではなく、Vtuber全体を攻撃することになりかねない。上で指摘した通り、Vtuberは奇形的に肥大化した「キャラクター」を倒錯的に楽しむコンテンツである。本記事で「キャラクター」と「ペルソナ」を意図的に使い分けているのは、御伽原がこの配信によって解き放たれたのは「キャラクター」からであって、「ペルソナ」からは自由になっていないという事実を指し示すためである。もっと言うと、(脱臼を含めた)ロールプレイは「キャラクター」の要素だが、「素の私」と本人が言及しても脱することのできない、あらかじめ脱臼不可能なロールプレイの剰余部分が「ペルソナ」である。御伽原は、「素の私」と語ることによってキャラクターに自覚的なVtuberになることができたが、剰余部分であるペルソナにアクセスすることはできなかった。

 わかりやすく言えば、ペルソナと術語的な意味を与えてわざとらしくこの言葉を使っているのは、彼女が虚構(バーチャル)を踏み越えようとしていたからだ。そのためには、キャラクターという言葉では言葉自体の持つ虚構の意味合いが強すぎ、どうも彼女が越えかけた虚構とリアルの臨界が曖昧になってしまう。御伽原はまったく意図しない形で、Vtuberがアクセスできるギリギリの虚構の臨界を明らかにし、かつリアルへの接続不可能という無力を露呈した。「素の私」は、「御伽原江良」のキャラクターから逸脱してはいても、ロールプレイ脱臼でも炎上覚悟のメンヘラ自分語りでも相対化不可能な「御伽原江良」のペルソナの一部でしかない。我々は「御伽原江良」のキャラクターについて知ってはいても、「御伽原江良」のペルソナについては何も知ることができない。これが、御伽原江良というVtuberの限界であり、同時にVtuberの限界でもある。そして、ほとんどのVtuberはこの問題について素朴かつ無邪気で、無批判である。それが悪いというつもりはない。しかし、御伽原江良について語ることの誘惑から逃れられないのは、まさにこの点によってである。この後も度重なる失言、炎上を繰り返し、問題を起こす御伽原だが、持ち前の鈍感さと根気、根強いファンのおかげで登録者数は9万人を突破する。

 

・抵抗の終わり――「御伽原江良」の(自己)承認

記念枠も雑談も全部一緒にしちゃおう。そんなことより私と将来について語りたくない?【御伽原江良/にじさんじ】 - YouTube

 標題に掲げた副題である「虚構の臨界とペルソナの呪い」については、上の節で述べた通りだ。この節で紹介する配信は、自己のペルソナに抗うことをやめ、ファンに恵まれた御伽原の告白であり、この文章全体のある意味不幸なエピローグである。

 チャンネル登録者数9万人突破の記念として行われたこの配信で、御伽原は王子様候補(彼女のファンの通称)に素朴な感謝を述べる。大学を辞めていたこと、両親に恩返しができていること、自分の暮らしが目に見えて良くなっていること、にじさんじの他のライバーやにじさんじ以外の企業のライバーと仲良くなれたこと。ここまで読んだ根気強い読み手の方ならお分かりかと思うが、前節のキャラクターとペルソナの問題が反転しているだけで、彼女は退行も進歩もしていない。それどころか「御伽原江良」のペルソナに、御伽原自身が抵抗することをやめたのである。恐らく、抵抗を抵抗とも気づかず、抵抗をやめたことにも気づかないまま、静かなBGMに乗せて、ときに嗚咽を交えながら、粛々と配信は進む。

 乗りこなしきれない「御伽原江良」のペルソナは、配信というプラットフォームにおいて醜く暴走することによってあらかじめ不可能な抵抗を自己自身に対して行った。その事実は、自らが虚構の臨界にどれだけ迫ろうともそこから脱出することはできないという無情な、しかし「御伽原江良」がバーチャルの存在であるが故に宿命として引き受けなければならない、我々コンテンツの消費者とは別のリアルを突き付けた。御伽原は、バーチャルにおいてのリアルに疲弊して抵抗をあきらめたのだろうか?そういう風に言えなくもないだろう。が、この配信の御伽原江良は、疲弊したようには見えない。むしろ、生き生きとしていて、にじさんじに入って、Vtuberになってよかったと、本心から言っているように見える。それは、彼女のファンが、そして何より「御伽原江良」が、チャンネル登録者数9万人という、陳腐で、どこにでもある、食い尽くされた「物語」によって「御伽原江良」に承認されたという、やりきれないひとつの成就なのである。承認によってしか、自分を(キャラクターもペルソナもひっくるめて)愛することができないという不能を示す御伽原は、とても幸福そうだ。ロールプレイも抵抗も暴走もしなくなったペルソナの呪いは、彼女が「御伽原江良」である以上、終わらないのだ。

 

・終わりに――すべてのオタク的言説は無力である

 ここまで難しいことを書いてきてアレだが、ひねった話をせず、一ファンとして御伽原江良について言うことがあるとすれば、彼女はシンプルにたちの悪いメンヘラのバカである。キャラクターやペルソナのくだりなんか、書いてて若干アホらしかった。問題になった配信の実際のところは単にコラボで喋れず気落ちして(私は女性の使う「病む」という表現を蛇蝎のごとく嫌っている)、やけくそになっただけというのが関の山だろう。

 でも、例えば他の好きなにじさんじライバーである鈴鹿詩子や、竜胆尊や、鷹宮リオンなどについて、これだけのことを書くことができただろうか。多分できなかったと思う。御伽原江良は、その点で極めて独特の魅力がある。そのすべてが無力であり、何の意味もなさないと知っていても、何かを言わせずにはおかない不思議な力がある。ガワ?父性本能?自分の好み?端的に言ってしまえば、それで終わりだ。私はメンヘラバカをかわいいと思う凡庸な感性の持ち主です、で話は初めから終了している。

 繰り返すが、サブカルチャーをめぐるほとんどの語り(この文章もそうだ)はゴミだ。頭でっかちな議論は、コンテンツの趨勢に何も寄与しない。どれだけ金を落とすかにコンテンツの延命はかかっている。特にバーチャルYoutuberは、先行きも見えず、業界自体が不安定なのでいつ終わってもおかしくない。でも、オタクは語りたがる。何も寄与せず、何も正当化できず、すべては無力だと知っていながら、語る。

 

 

 最後に。御伽原江良というライバーはコンテンツへの依存度がめちゃくちゃ高いパーソナリティを持っているので好き嫌いは分かれるし結構ボロクソ書いてしまったが、本当に好きなライバーの一人であることは明記しておく。センスが光るリズム天国実況、ギバライカコラボのスーパーバニーマンはクソガキの御伽原をチャイカがいなすにじさんじきっての名配信だと断言する。

 

Webマガジン「ラ・ショイア」について

 以下に述べるのは、自分が文章で関わったあるサイトの運営、あるいはそれにまつわるトラブルの事後処理について俺が思ったことであるが、そこにはいくらか強い表現が含まれることを先に言っておく。何故なら、本件で俺はかなりの不快感と怒り、呆れの感情を抱いたからであり、同時に「文章を書く」という行為について再度考える必要があると判断したからである。以上のことを理解した上で、本エントリは読まれるべき人に読んでもらいたい。

 

 2018年7月に大学生主体で立ち上げられたWebマガジン「ラ・ショイア」(名前を挙げる必要があるから挙げるだけで、当然のことながら本件に不快感を感じた俺はこのWebマガジンを宣伝しようという意図はないし、俺の書いた記事を読んでほしいとも思わないので、リンクも貼らない)に俺はある縁で寄稿の話をもらい、2本のコラムを書いた。クラシック音楽とアダルトビデオに関する文章であるが、まあ俺の書いた記事についてはどうでもよい。ただ、「学生主体で人文系批評のサイトを立ち上げる」という話をもらったとき、面白そうなことをやるんだろうな、と思ったのと、声をかけてくれた友人は高校時代からの付き合いだったというのもあり、喜んで俺は寄稿の話を承諾した。まあブログをやっている段階で分かると思うが、俺は文章を書くのが好きだ。趣味についてのアウトプットでもいいし、文献などをリサーチをした上でそれをまとめ、自分の考えを発表するという行為にはそれなりの苦労が伴うが、そういうのを差し置いても俺は「文章を書く」という行為に一定の価値を見出してきたし、またそれを楽しんでやっている節もある。そういうわけで、ブログという個人的な場所ではなく、Webマガジンという不特定多数に訴求するメディアに参加できることは素直に嬉しく思ったし、事実俺も楽しく記事を書かせてもらった。

 ところが、「ラ・ショイア」の「サーバー」は7月8日の公開直後、突如閉鎖。出だしからコケてんじゃねえよ、程度にしか思っていなかったのだが、その後の謝罪文で某サークルのドメインを無許可で使用していたことが分かった。少しWeb製作(もどきでもいい)をやったことがある人間なら分かると思うが、サーバーとドメインは無関係であるとは言わないが別物である。この時点でWeb運営のズサンさを見てしまった俺は、少し反応に困った。挙句、公式Twitterを見る限り、「サーバーに不具合が生じた」と言っておきながら実はドメインを無許可でパクってましたー、というだらしないオチ。現在Twitterを確認すると当初の謝罪文が消えているが、まあこのときまではだらしないけどまあしょうがないか、という程度の気持ちだった。

追記:当初の謝罪文は消えていなかった。Twitterの固定ツイートに新ドメインでのサイト公開と一緒に画像で謝罪文が掲載されている。こちらは比較的まともな内容。それだけに「声明文」を出した意味も分からないが。)

 で、新しいドメインを取得して「ラ・ショイア」は復活したのだが、ドメインが怪しい。なんだ、「http://goukaku.schoolbus.jp」って。このドメイン、検索すると分かるのだが、早〇田塾講師のブログが同じドメインでヒットする。要するに、「ラ・ショイア」の編集部は新しくドメインを作る事もせず(専用ドメイン作成なんて多少の知識があればできるはずだが)、恐らくフリードメインをそのままパクったのだろう。新しいドメインの説明については「ラ・ショイア」を見れば分かるが、正直こじつけが酷すぎる上に何が言いたいのか分からない。ここまでの顛末で既に胡散臭さ満載である。ここまでで分かるのは、まず「学生主体」をかさに着て専用ドメインを作るための予算も立てず、挙句関係のないサークルのドメインをパクり、そこから怒られた結果フリードメインで「復旧」を謳う乞食根性。さらにフリードメインについてくだらない言い訳のエントリを挙げる厚顔無恥ぶり。ぶっちゃけ新しいサイトを作っておいてこれはないだろう。「総合人文サイト」をテーマに掲げてるが、人文科学を学んでる端くれとしては、「人文」というワードを隠れ蓑にしないでほしいし(ただでさえ人文学のフィールドは縮小傾向にあるのに)、「ふ~ん、人文って便利な言葉だね」などとイヤミの一つでも言いたくなるものである。

 書き口が荒くなってきた。まあ、ドメインの件に関しては百歩譲ろう。俺がキレたのはここではない。「ラ・ショイア」のTwitterに挙げられた「声明文」を読んだとき、俺は絶句したというか、呆れて物も言えなかった。まあ、とりあえず読んでみてほしい。Twitterには画像で文章が発表されているのでコピペが出来ないので、苛立ちながら手打ちすることにする。こんなしょうもない文章に反応している俺も俺だが、こんなズサンな運営体制に乗っかって寄稿したのは俺なのだし、反応する責任もあるだろう。なお、特定のサークル名に関しては伏字で表記する。

〇〇大学〇〇さま 

この度は、U22による総合人文サイト「La Shoire」(ラショイア)において無断で〇〇様のサーバーを使用し、自由奔放かつ創造性と批評性に富んだ記事を掲載してしまい、誠に申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げます。

本稿では、以下に各編集部員よりの謝罪コメントを掲載したうえで、「La Shoire」全体としての本件に関する見解と、今後の対応策について詳細に述べようと思います。まずは各編集部員のコメントを掲載いたしますが、個人情報流出による報復攻撃等を未然に防止するために名前などは伏せてありますが、どうぞご了承ください。

A:そこにサーバーがあったから……、ほんの出来心でした……、大変申し訳ありません

B:姉に勝手に投稿された

C:〇〇の「覆い」を取り払うことにしました。(以下しょうもないので割愛)

D:むしゃくしゃしてやった、何のサーバーでもよかった、今は反省している

などと各々に供述しています。

(以下中略)

まずサーバーを〇〇さまからお借りして無断で使用してしまう形になってしまったことについては編集部内で認識の齟齬が存在していたことを認めねばなりません。このような食い違いからサイト公開までだれ一人としてこのドメインの存在様態の不可思議さについて疑問を呈する人間が現れなかったのです。しかし一方で本当に人間はそのような齟齬無くしてコミュニケーションをすることができるのか?そもそも齟齬が無い状態とは何なのか?私たちは会合の途中でそのような大いなる疑問にぶち当たってしまいました。本当に私たちにとってコミュニケーションが必要のない状態というのはいかなるものなのか。

例えばこれを『新世紀エヴァンゲリヲン』で例えるとこのようになるでしょう。つまり心の壁=ATフィールドがない、人類すべてが溶け合い、人類の相即即入の海のようなものが出来る状態である、と。しかしこんなことは可能なのでしょうか?人と人とが本当の意味でATフィールドを取り払うということは現実的に不可能でしょう。しかし私たちはそれをも超えてコミュニケーションをしようとする。

奇しくも私たちのウェブサイト「La Shoire」のテーマの一つは「覆い」を取り去る、ということです。しかしこれは一種暴力的でさえある。現在の文脈に入れ込むならば人と人との心の壁を取り除こうとするのは、ある人にとっては苦痛でさえあるでしょう。なぜならば人は自分自身という(実体がないかもしれない)なにかを支えにして生きているのですから、それが壊されるというのは恐ろしいことでもあり、しかし同時に他者との何の障壁もないコミュニケーションを取れるという点で人類がまだ体感したことのない快楽にもなり得るでしょう。

したがって私たちは本件を「La Shoire」のプロジェクトにおける暴力性の表れの一つなのである、と解釈することにしました。ですから〇〇の方々がお怒りになられる事情も大変よく理解できますし、それはもっともなことだと思います。しかし一方で言論活動をするということは常にそのような危ういラインを踏んでいるということではないでしょうか?(しょうもないので中略)「La Shoire」としてはそのようなディスコミュニケーションをあえて表に出すということによって真の意味での言論の在り方を考えさせられる一つのきっかけとなりました。

 ……ごめん。もう無理だ。全文載せてやろうと思ったけどあまりにも酷い。酷いというか、文章のあまりのつまらなさと下手さと謝罪先への誠意のなさと寄稿者への失礼ぶりが見ていて耐えられない。エヴァのくだりもアレだが、「自由奔放で創造的かつ批評的な記事を掲載してしまい申し訳ございません」ってなんだよ。なんかぐちゃぐちゃ言ってるが、要するにドメインを無断使用してすいませんでした、で済む話なのである。最初の部分のおふざけ(コレをマジで面白いと思ってやってるんだったら逆にその貧相な感性に感心してしまう)もそうだし、エヴァのくだりも呆れて言葉が出てこない。コミュニケーションがうんたらというか、テメエらがだらしなかっただけだろ。何より俺の腹が立ったのは、これを「ラ・ショイア」に携わった人間の総意のように書いていること。俺だって寄稿者の一員な訳だが、こんな文章を書く人間のもとで俺は3000字の原稿を2本書いたのかと思うと涙がちょちょ切れる。ドメイン無断使用というくだらない案件からよくもここまでつまらない長文を書ける神経の図太さが信じられないし、マセた中学生が書いたみたいな文章でこのしょうもない案件を批評的(笑)に仕立て上げようという魂胆が見え見えなのも痛々しい。身内だけでやってるならまだしも、「総合人文サイト」(もうこの看板も降ろせよ。お前らのやってることは批評でもなんでもないんだし)という枠で外から寄稿者を募っておきながら、トップが取った行動がこれだ。俺はほとほと呆れ果て、俺が執筆予定だった不定期連載も降りた。コレだったらブログで好き勝手に文章を書いていた方がまだマシである。

 俺は人文科学を出来る限りマジメに学んでいるつもりだし、本もそれなりには読んできたが、「批評」という行為が簡単なことではないということぐらいは知っている。明確に当てこすってやろうか。ドン・キホーテ論だのなんだの、「〇〇論」って書けば「批評」になると思ってんのか?小林秀雄蓮實重彦柄谷行人らがどれだけ「批評」という文芸ジャンルに対してナイーヴに向き合ってきたか知ってるか?お前らが思ってるほど「批評」は簡単なことじゃねーんだよ。最近は批評〇生塾とかあるが、アレは本当に最悪だと思う。だって、こんな名前付けといていつだったかのテーマが「〇〇批評宣言を書こう!」だったんだぜ。蓮實のエピゴーネンの三番煎じみたいなのを量産してどうしたいのか分からないし、そもそも「批評」はそういう村社会的な仲良し共同体を破壊することに意義があるんじゃないのかよ。そしてそういうラディカルな視点がない限り、「批評」は死ぬ。それこそ、「ラ・ショイア」のようなタチの悪い(そして低品質な)自称「批評」が蔓延することになる。読み手と書き手の質はお互いに悪くなっていく。

 

 おっと、別に俺の「批評」論を披露する場ではなかった。ともかく、一文章書きの端くれ(と言えたほど俺も大した人間ではないが)としての俺は、文章を書くことが好きだ。自分の考えをまとめてアウトプットすることが好きだ。そういう純粋な書き手の気持ちを、「ラ・ショイア」は見事に踏みにじってくれたと言えよう。ズサンなサイト運営、書き手へのリスペクトの欠如、そして「声明文」の(あまりにもな)クオリティの低さとナルシスティックで傲慢な態度。俺は心から「ラ・ショイア」が自滅することを願っている。それは「人文」と「批評」の持つ意義と尊厳を守ることだ。書きたいならブログで書け。ブログが恥ずかしければチラシの裏にしろ。これは俺の完全なる「ラ・ショイア」へのビーフ(ヒップホップの用語でケンカを売る、の意)だ。どうせこのエントリも無視されるかつまらない「批評」(笑)のダシにされるのだから、別に俺にケンカを売ってこようがこなかろうが構わない。ただ、俺は書き手としての尊厳を侮辱された気分になって大いに腹が立った、それだけである。

 

 ビーフついでに書いてやるよ。Twitterのbioに「勉強家」とか書かない方がいいぞ。イテーから。村社会の批評〇生塾でつまんねードンキ論で何かを「批評」した気になってんだったらマスでもかいてた方がよっぽど「批評的」(笑)なんじゃない?ま、俺は知らねーけど(笑)。

アルチュセールとデリダにおける法概念についての覚え書き①

 ルイ・アルチュセールジャック・デリダ、この二人を並べて論じることは少ないかもしれない。アルチュセールが生涯徹底してマルクスマキャヴェリモンテスキュー等を扱いながら彼独特の理論を徹底していったのに対して、デリダ現象学とそこにおける脱構築フッサールハイデガーに基づきながら分析していった哲学者であるからだ。

 しかし、マイケル・スプリンカーとデリダとの対談「政治と友情」において、デリダアルチュセールの教師性に触れながらエコル・ノルマルでのアルチュセールとの関係や思想的差異に触れている。また、『マルクスの亡霊たち』が1993年、アルチュセールの没後僅か3年後に書かれているという事実にも注目すべきだろう。アルチュセールデリダ、この両者を近づけるさらなる視座として、ここでは「法」の概念に注目していきたい。

 

 アルチュセールは、比較的早い時期から法を問題化していた。その萌芽は、1959年の論文「モンテスキュー」に見て取ることができる。ここにおけるアルチュセールの眼目は、モンテスキューの著書『法の精神の擁護』を引き合いに出しつつ、法なるものがいかにして認められるのかということである。アルチュセールは、のちに『再生産について』で述べられ、またのちに触れることになる重要な概念を(モンテスキューをかさに着ながら)ここで提出している。モンテスキューの言葉を引いて彼が主張するのは、「法はまさしく関係である」という事実である。*1ここで彼が述べる事実は、アルチュセールの根本的な法概念と結びつくものである(どう結びつくかは以下を参照)。単なる「命令」であり神的なものでさえあった法は、存在相互間の関係として読み直される。アルチュセールはこのモンテスキューの慧眼をいち早く察知していた。とはいえ、「モンテスキュー」は法の構造やシステム、作用について触れることはなく、あくまで近代法とそれ以前の法の概念を比較検討するに留まっている。ここで強調しておきたいのは、法が「存在相互間の関係」として解釈されており、この規定性が70年代以降のアルチュセールにおける法論の下地となっているという点だ。つまり、神的なもの(それはとりもなおさず一者である)としての「命令」によって存在諸項が関係づけられるのではなく、存在諸項の相互的な規定がそのまま法になるという構造をアルチュセールは既にモンテスキューの中に見て取っていたのである。

 その約10年後、アルチュセールの代表的な仕事の一つでありながら未完に終わってしまった著作『再生産について』が発表されるに至る。また、「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」はこの『再生産について』のイデオロギー論を抜粋しリライトを加えたものである。ところで、『再生産について』と「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」には明確な違いがある。アルチュセールは後者を論文としてリライトする際に、法に関する言及(5章、11章)を削除しているのである。この事実を鑑みても、アルチュセールにとって法という概念が特権的とは言わないまでもある種特殊な位置を占めていたのは明らかであろう。

 アルチュセールは、執行されるところの<法>と「法的イデオロギー」を明確に区別する。<法>がひとつの抑圧装置として機能するのに対して、法的イデオロギーはあくまでもイデオロギーであるが故に<法>に対して従属的な関係を持つ。では、アルチュセールの述べる<法>とはいかなるものなのか。

1/<法>は、現存する生産諸関係との関連でしか存在しない。

2/<法>は、それに関連して存在する生産諸関係が、<法>そのものには完全に欠けているという条件においてしか、<法>の形式、つまり<法>の形式的な体系性をもつことはない。*2

 まず、1に上に挙げた「モンテスキュー」のうちで展開されたテーゼ、「法は存在相互間の関係である」の影響を色濃く認めることが出来るだろう。アルチュセールはこのテーゼをさらに敷衍させ、「現存する生産諸関係」、つまり社会構成体として機能している生産のあらゆる関係との関連においてのみ<法>は成り立ち得るのである。これこそがアルチュセールの法概念のまずもっての基礎であり、その源流はモンテスキュー論において認められるという事実が一層明らかになるものである。2に掲げられているテーゼはやや難解ではあるが、<法>は生産諸関係との関連でしか存在しないが、<法>そのものに生産諸関係は一切内在せず、その限りにおいて<法>は形式的な体系性をうることができる、ということでひとまずは良いだろう。つまり、<法>は生産諸関係と関連しながら、生産諸関係の完全な外部においてその形式を獲得することができるということである。

 ここで注意しておきたいのは、上にも述べたが<法>と法的イデオロギーは違うという点である。そもそも、イデオロギーは完全に質料的である。それに対して<法>は、「形式的な体系性」であり、<法>がマテリアリテを獲得することはついぞない。法的イデオロギーについてのアルチュセールの記述を参照しよう。

(前略)法的イデオロギーが、まさに自由、平等、義務の観念を再びとりあげるとき、法的イデオロギーはこれらの観念を、<法>の外に、ゆえに<法>の諸規則の体系の外とその限界の外に、すなわち全く違う諸観念によって構造化されたあるイデオロギー的言説のなかに刻み込むのである。*3

 ここでアルチュセールが主張しているのは、法的イデオロギーは自由、平等、義務といった観念を<法>の外に追いやり、任意のイデオロギー(的言説)にそういった観念を書き込むというその機能である。だから、<法>と法的イデオロギーを截然と分けるものは、以下のように言うことが出来るだろう。即ち、<法>は生産諸関係との関連で存在し、また内容を持たない形式的な体系である。それに対して、法的イデオロギーは<法>のもとにありながら、<法>にまつわる諸観念をまた違ったイデオロギーの中に書き込むものである。この両者の機能をまとめて、アルチュセールは以下のように述べる。

したがって、われわれは<法>の実践は圧倒的に多くの場合「法的-道徳的イデオロギーによって」「機能する」と言おう。*4

 ここでさらに論を敷衍させてみたい。イデオロギーは完全に質料的である、と上に述べたが、それはどのような意味においてであろうか。アルチュセールイデオロギーのマテリアリテについて言及する際に、意図しているであろうものは恐らく「個人」である。この個人は、それだけでは社会構成体に組み込まれることができない。何故ならば、イデオロギーを内面化していないからである。さらに言えば、イデオロギーは「身体的儀礼」によって内面化される。<法>が必然的に抑圧的である*5以上、<法>の執行は懲罰的であれ潜在的であれ、あらゆる個人に亘って「呼びかけ」られるものである。*6そこでイデオロギーに「呼びかけ」られた個人はいやがおうにも「振り向く」。法的イデオロギーになぞらえていえば、法的イデオロギーの作用によって<法>が諸個人に対して規定性を与える。その規定性—「呼びかけ」に対する「振り向き」—を諸個人が実践する(身体的儀礼)ことによって、初めて個人は社会構成体における主体となる。そして、主体化が行われると同時に、主体はイデオロギーに対して服従化assujettisementするのである。これについては、ジュディス・バトラーの記述が参考となる。

振り向きは、言わば、法の「声」と、法によって呼びかけられた者の応答の双方によって条件付けられた行為である。*7

 雑駁ではあるが、ここで一つのまとめを行うことにしたい。アルチュセールにおいて、「法」は抑圧装置であると共に生産諸関係の関連によって存在するものであり、法的イデオロギーはその執行を可能にするものである。そして個人は、<法>の法的イデオロギーによって可能となった「呼びかけ」と個人の「振り向き」によって、個人は主体化=服従化される。以上が、アルチュセールにおける「法」概念である。(続く)

*1:ルイ・アルチュセール/西川長夫・阪上孝訳『政治と歴史』、紀伊国屋書店、1974年、p. 34.

*2:ルイ・アルチュセール/西川長夫・伊吹浩一・大中一爾・今野晃・山家歩訳『再生産について 上』、平凡社ライブラリー、2010年、p. 142.

*3:『再生産について 上』、p. 156.

*4:『再生産について 上』、p. 159.

*5:『再生産について 上』、p. 150.

*6:ここで注意しておきたいのは、<法>に「呼びかけ」る機能はない。「呼びかけ」を可能にするのは、あくまでも法的イデオロギーの作用によるものである。

*7:ジュディス・バトラー/佐藤嘉幸・清水知子訳『権力の心的な生』、月曜社、2012年、p. 134.

エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』(1991) 感想


映画 『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』 予告編

 感想を書く前に、苦言めいたものをひとつ。自分はこの映画をアップリンクで観たのだが、(まあ分かってるならユジク阿佐ヶ谷で観ればよかったじゃねえかという批判は置いておいて)アップリンクという映画館はあまりにも音が悪過ぎると思う。劇伴はもちろんのこと、効果音も映画を構成する極めて重要な要素である訳で、前回アップリンクで観た『少女椿』(これは映画もちょっとどうしようもない程の駄作だったのでどうでもいいのだが)でも思ったことだが音が全体的にこもっていて鮮明さに欠ける。イメージフォーラムの1Fも大概ではあるが、あんなしょぼい音では映画も報われないだろうという気がしてしまう。それがこの『クーリンチェ』のような作品ならなおさら感じられてしまい、つくづく公開時の角川シネマ等で観なかったことを後悔した。上映前の機材トラブルのせいではないでしょうよ。

 

 フランス文学家(この肩書きは重要である)の蓮實重彦は、自らが映画を論じることは「運動の擁護」であると言った。スクリーンに光を「投じる」という運動によって映画が始まるその事実が示す通り、映画が映画として立ち上がるそれ以前から運動は映画の宿命として背負われるべきものだろう。況やスクリーンの中についてをや、である。そして、それを語ることによって「擁護する」ということ。世界の耐えられないほどの醜悪さによって、ひとつの夢の装置であり、現実から飛び立つ契機であり、またもう一つの「現実」である映画が傷つけられてしまうことを言葉によって守り抜く行為こそが、「運動の擁護」なのではないか。そして、『クーリンチェ少年殺人事件』は、どのような人々によってであれ、擁護されねばならない運動である。

 権利関係など様々な事情によって日の目を見ることが他のヤン作品に比べて大きく遅れをとったこの作品は、昨年の東京国際映画祭でようやく数多の問題をクリアして公開された。観客たちは口を揃えてこの作品を絶賛した。実際、自分の身の回りの映画オタクに聞いても、一切の否定的な言辞がないことには驚いた。しかし、その鳴り物っぷりに対する畏怖なのかどうかは知らないが、ここまで絶賛されている映画にしては妙な違和感があった。Twitterを始めとするSNSや、雑誌などのあらゆる媒体を見ても、この映画は語られようとしないのだ。初めは「言葉が出ないくらいめちゃくちゃにスゴい映画なんだろうな」という程度の考えだったのだが、それにしても気持ちが悪いほどに、この映画について語られることは、少なくとも自分の目にする範囲では無かった。長尺で情報量があり過ぎる上にソフト化されていないから?(見るに耐えない画質のVHS版はあるものの)いや、それでは濱口竜介の『ハッピーアワー』やパトリシオ・グスマンの『チリの闘い』についての説明がつかない。『シン・ゴジラ』のエントリにおいて、庵野秀明の作品には何かを語らせずにはおかない磁場が発生していると述べたが、『クーリンチェ少年殺人事件』においては、何も語らせない磁場が映画そのものから発生しているのではないか。であるならば、『シン・ゴジラ』の磁場に従順であったこととは逆に、『クーリンチェ』の磁場にはしばし抗ってみようと思う。

 

 この映画は、我々の目の前で2回変貌する。1回目は画面構造において、2回目はドラマトゥルギーにおいてである。全体を通して、ヤンのキャメラは違和感を覚えるほどに均質かつ完璧だと言える。光と闇をここまで符牒的に用いた作家はかつていなかっただろうし、クロースアップを用いずにひたすらミディアム/ロングショットのみで、かつ一つ一つのショットが審美的でありショット間の結びつきはこれ以外の組み合わせが考えられないというレベルで緊密だ。その極度に緻密な映画的空間では、映画自身が遂げる2度の「変貌」すらもその緻密さのうちの一つであるかのように思えてくるのが恐ろしい。

 

 1回目の変貌は、不良グループ・小公園の縄張りに小四と小明が二人で入ってしまうところにおいて起こる。その箇所に至るまで、ショットの焦点は決して中心に合うことがない。冒頭、暗闇の中で白熱灯が煌々と灯され、真っ赤に画面が染まっていく衝撃的なタイトルバックでこの映画は幕を開けるが、その白熱灯は寄る辺無くブラブラと吊るされていることをはっきりと我々は覚えてしまう。冒頭からその訓練場のシークエンスまで、独特の焦点のズレがもたらす奇妙な感覚を我々は味わい続けることになる。というのは、スクリーンの中央付近に物体があれば、観客の視線はそこに行くことになるし、事実その無意識の視線の動きを利用してショットは構成されることが多い(シンメトリーの構図は中央から左右対称であるが故に審美的である)。しかし、観客の生理に反するように、ヤンの取る構図は中心を奪われているが故に奥行きを持たず、結果的にショットはタブロー的な平面さに支配される。小四と小猫王が教室で隣同士に座っているショットは何度か出てくるが、この物語の主人公である小四が「中心にいない」という(こういってよければ)ある種の欠如は象徴的である。また、主人公が中心から「いなくなっている」、というよりは予め中心という「場所そのものが欠如している」という事実を上記のショット以上に端的に示すのは集合写真のシークエンスであろう。あのショットが持つ不穏な感覚と奇妙なすわりの悪さは、全員がキャメラの方を向いているのにも関わらず観客がどこを観ればよいのかが分からない(=中心が欠如している)という事態に依っている。その結果観客はスクリーン全体を観るように誘導されるが、そうやって見られる「全体」の感覚は視線の仮託先を失っているが故に常に浮遊感を伴う。

 しかし、その欠如として予感されていた視線の中心は、訓練場のシークエンスにおいて適切な形で獲得される。その地点に至るまでいわば「目を慣らされていた」観客は、ロングショットで捉えられた兵士(?)たちが点々と散っているショットを目にしても驚かないが、彼らが画面の中央に向かってぎっしりと集合していく運動には目を見張ってしまう。左側から自転車を押す小四と小明がカットインしてきて、中心には辿り着かないだろうと思いながら観ているとあっさり中心に辿り着いてしまってぎょっとする。ミディアム/ロングショットの両方において決して視点が定位することがなかったこの映画は、当場面において同じく両方のスケールのショットが徐々に中心を獲得することによってじわじわと「変貌」する。これ以降、構図は中心を失ったり取り戻したりしながら、映画全体の緩やかなダイナミズムを構築していくことになる。小四が暴力を行使するのもこのシーンが初めてであるが、この中心の獲得による変貌を小四の「世界」の変貌だと言っては穿ち過ぎだろうか?だが、この映画のテーマが「世界の持つ不条理はとりもなおさず愛が挫折することの不条理」ということである以上、小四の「世界」はここで中心を獲得する=小明と本当の意味において出会う(正しくは本当の意味で出会い損ねているのだが)と言ってもよいのではないか。

 

 第1の変貌、即ちこの映画が中心を獲得して以降、完璧な精密さによって映画は進行する。特に、山東のアジトが停電した際に灯される蝋燭の光の透明感であり、また同じ場所で山東によるハニー殺害後の討ち入りが行われた際の暴れ回る懐中電灯の光線の鮮やかさは多くの人の心を掴むに足る部分だろう。この光の精密な操作は多くの映画的記憶を喚起してやまないが、とりわけスタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を観たことがある人ならば誰でも、あの映画における蝋燭の光を『クーリンチェ』に思い出させられるに違いない。と同時に、この若干異常な尺を持つ映画の均質なまでの完璧さに、どこか違和感を感じたのは自分だけではないと思う。ドラマティックでない訳ではないし、さらに言えば間然とするところが一切ない。しかし、その穴のなさがどこか奇妙である…。この奇妙さについて思い起こされるのは、やはりキューブリックなのである。この映画におけるヤンのスタンスとキューブリックのそれに共通して言えるのは、観客に安易な感情移入を厳しく禁じている点である。観客がなぜ映画を観て涙したり楽しい気持ちになったりするのかというのは、つまるところ(主人公に)自らの気持ちを重ねられるようにその映画が出来ているからだ。かなり単純に言い切ってしまったが、その手法はさまざまである。視線の切り返し、劇伴音楽による感情の起伏、あるいはもっと直接的なものとしては台詞やナレーションなど、挙げ出したら切りがない。加藤幹郎風に言ってしまえば、観客は映画の中の主人公を「ファントム・ライド」(分かりやすい例で言えば東京ディズニーシートイストーリーマニアで皆が乗るアレ)として映画を(通俗的な次元において)疑似体験することができる。ヤンとキューブリックの共通点であり、彼らの映画が異質であるとするならばその部分である。つまり、彼らは決して観客を映画内の人物に引き込むことなく、しかし説話論的構造の明快さを失うことなく映画を完成させてしまっている。観客は彼らの映画の登場人物に完全に自分たちの感情のバイオリズムを一致させることがどうしてもできない。何故ならば、キャメラや音楽、台詞といった通常観客の感情のバイオリズムと映画のテンションを一致させるための装置が、意図的にそれらの役割を脱臼させられてしまっているからだ。さらにヤンはキューブリックよりも厳しい形で、つまりショットから自明のものとしてあったはずの「中心」を剥奪することによって一層観客を遠くへと突き放しているのである。もうひとつ言うならば、キューブリックの映画の中で登場人物たちのエネルギーが高まっている場合、キャメラの動きや音楽(効果音も含む)は比較的素直な形で比例してダイナミックになる。ところが、ヤンの場合はそれすらも均質である。この映画はハニーの死亡によって小明の感情の行き場がなくなるあたりから小四自身、また小四の家庭や小馬との関係が段々と狂っていくのだが、漫然と観ているとそのことにすら気づくことができないのではないか。明らかに狂っているはずなのに、何も起こっていないかのように見えるという気味が悪いほどのスタティックな感覚は、キューブリックにないと同時にヤンにのみ見られる作家性だろう。

 

 そのつるりとした完成度で淡々と進んできた映画は、小馬と小明の関係を小四が知るラスト20分において破調を迎える。この破調こそが、この映画の第2の変貌である。夜間学校を度重なる素行不良で退学となり、想いを寄せていた(ここはこの言葉では明らかに言葉足らずなのだが)小明にも裏切られ、小馬を殺害するべく短刀を持って待ち構える。そこに小明が意図せずして現れる。小四は言う。

「君の世界は僕が照らしてみせる」

ブラスバンドの練習中の教室で小四が小明の肩を掴んで絶叫した言葉を、もう一度静かに繰り返す。このどこまでも静かで満たされた映画において、本当に数少ない破れかぶれの言葉である。あなたの「世界」を、私の「世界」によって変えることができると信じること。別々の「世界」が、もしかしたら繋がるかもしれないとどこかで予感し続けること。それは、愛でなくてなんであろうか。愛するということの切実さを、青いままに小四は小明に繰り返す。しかし、小明はそのことを信じていなかった。

「言ったでしょう?社会は変わらないのよ。あなたも私を変えようとしていたのね。あなただけはそうじゃないと思っていたのに。」

この映画のテーマが「世界の持つ不条理はとりもなおさず愛が挫折することの不条理」であると上に書いたのは、この小明に集約される。小四にとって、照らされるべきは小明の世界ではなく、小四自身の世界であった。小四は小明に「出会う」ことによって、確かに彼の世界は照らされたのだった。しかし、その光源は自明なものではなかったし、小四は小明に出会っていたのではなく「出会い損ね」ていたのである。小四にとって世界が不条理であるのは、愛するという切実な世界の変容の可能性が常に挫折してしまうことだったという事実は、あまりにもドラスティックだった(「光源が失われる」という運動については蝋燭の火の吹き消しの反復、懐中電灯の明滅、そして教員室の白熱灯破壊によって象徴的に示されている)。その結果として、小四は小明を短刀で突き殺す。端正さを保っていたこの映画の最後の20分間は、そのエンドロールまでそれまで押さえていた感情が抑え切れず漏れ出すための20分間として用意されている。小四は暴れ、父はマスコミに揉みくちゃにされ、小馬は小四を「唯一の友達だった」と言って嗚咽する。そこで鳴り響く讃美歌は、なんと皮相で、なんと誠実に聴こえるだろうか。はっきり言って、その破調、感情によるドラマトゥルギーの大どんでん返しとして、わざとらしいほどに完璧な幕切れである。

 

 …と、この映画が見せる劇的な2つの「変貌」に的を絞ってこの映画がいかに「完全」であるかを強調してみせたものの、観終わったあとに疑問、あるいはわだかまりのようなものが残る。世界の可塑性を信じるという意味での愛(人を殺してしまうほどの!)という、焼き切れそうなほどに切実なテーマに対して、この映画は果たして「完全」であるのか?と。夢の装置としての、あるときは現実を越えるもう一つの「現実」としての映画は、ときには夢や現実以上にいびつでなければならないのではないか。その破調に至るまでが計算され尽くしている緻密さに舌を巻くことは映画的な快楽には違いないが、観る者の人生に食い込み、もしかしたら映画のせいで人生が台無しになってしまうかもしれないといったような、作り手の意志を越えて映画そのものが暴走してしまうような、そういう彼岸に連れ去られていくような感覚を、果たして『クーリンチェ少年殺人事件』という映画は持っていたのだろうか。この映画に対して語ることをやめるということは、そのような問いを提起せずに、『クーリンチェ』という映画の持つ可能性を封じることになってしまう恐れがある。この映画のある種の「語らせなさ」は、その完璧さ、完全さに多くを負うところがあるのだろう。しかし、しかし、映画とは、もっと狂おしいもので、もっといびつなものであってほしいのだ…と、声にならない声で映画(と世界)に渇望することが、恐らくこの伝説と化した映画の持つ重みを直接に引き受けることなのだ。それはちょうど、大人たちに羽交い締めにされながら映画から退場していってしまった、あの小四のような態度であるのかもしれない。