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思考停止

映画、本、音楽、など

自分語りは哲学に先立つか

言葉においては私たちは、私たちにとって重要なものを把握することができない。

…この困難に対して、大多数の人間は無関心だ。

生がそれ自体で問いになっている場合、この問いに答を出す必要はない。この問いを提起する必要さえない。

だが、一人の人間がこの問いに答を出さず、自分にこの問いを提起すらしないという事実は、この問いを排除するものではない。 (ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』)

 

 接客業のアルバイトをしていると、客に「大学で何の勉強をしているの?」と聞かれることがある。文学部で哲学をやっていますと答えると、「俺/私の哲学は…」と、いわゆる「オレ流」の「哲学」を開陳されることは多い。そういうときにいや哲学というのはですね、などと長演説を負けじとぶったところで、こちらが得るものはない。そもそもあちらは金を払って気持ちよく酒を飲みに来ているのだから、ああ生きることが楽そうで本当に羨ましいですね、などと思いながら相槌を打つ以上のリアクションはしなくてよいのである。

 しかし、まあ、だからといって哲学が何たるかを自分が分かっている訳ではない。真善美とは何か?人間の認識の限界は?なぜ存在するのか?…強いて言うのであれば、そのような「問い」の無限の反復が哲学なのだろうか。これもまた問いであるが故に、哲学と言えるのだろうか。終わりの見えない、異常に分厚い哲学書(これを僕はよく「殴ったら死ぬ本」とか「物理的に殺せる本」とか言うが)のページを四苦八苦しながら手繰っていると、よくそういうことを考える。

 

 バタイユが提示する言葉と生の関係性における「問い」のあり方は、少なくとも哲学書とやらを多少なりとも読む人間にとってはかなり生々しい。何が生々しいのか。それはつまり、自らの、他ならぬ(という言い回しを哲学ではよくする)生を語ることが、どこまで「問い」として普遍的に定立しうるのか、という可能性について、バタイユはっきりと言及しているからだ。というか、人間が生を語るとき、それはどこまで言っても「私」の生に他ならない。じゃあ、お前の生を語ることによって、何が普遍性を持って「問い」として現れるんだよ…?

 

 ここで、哲学を少なからず学ぼうとする学生は、ひとつの倫理的な葛藤を経験せざるを得ない。どこまでが「自分語り」で、どこまでが「哲学」なのか。もっと言えば、自らの生の実感と地続きで語ることと、エヴィデンシャルで教条主義的な学問として論じることの、どこにおいて「哲学」とやらが現れるのかという際限のない不安に駆られることになる。上にも書いたが、生きることそのものと生きることを語ることに、普遍性はないというか、普遍性を持つことができない。生の体験は、限りなく個人的なものとしてしか語ることができないからだ。だが、それでは哲学において立てられて来た問いなるものの意味が、もはやその個人性の前で脱臼され、なすすべもなく無力化されてしまうことは明らかだ。だからこそ、「私」や「僕」ではなく「われわれ」、そこにおいて個人性が開かれることはない論理的主体としての、いわば空虚としての1人称複数が、普遍性を保証するために立ち上がることになる。どこに立ち上がるのか?それは即ち、論証と文献学的なドグマに基づいた、researchとしての「学問」とやらのフィールドにおいてである。そこではあらゆる相対化された生の語りが、「われわれ」という、言ってしまえば奇妙な意志なき主体によって語り直される。そうなると、個としての「わたし」は迷子だ。かけがえのない生を生きて、それを語ろうとした「わたし」は、「われわれ」に押しつぶされそうになる。そして、そのギリギリの逼迫した戦いにおいて、ようやく(いつの日か)「オレ流」ではない哲学が姿を現すことになるのだろうか(ここでもエクスキューズをせざるを得ないところが難しいところだ)。

 

 言ってしまえば、19世紀末で主体の代替不可能性をベルクソンが強く主張することで、それまで哲学において支配的だった神の概念は事実上ほとんど解体され、ニーチェで神と主体としての人間の関わりのようなものはとりあえず消滅する。すると、今度はこの世界にいるこの私、みたいなものが問題化されてきて、私以外の何か、つまり他者とやらがそれはもうもの凄い脅威として立ち現れてくる。だって、私を確実に定義するよすががもはやないどころか、私を私でなくするような存在に気づいてしまったら、それは恐怖でなくてなんだろう。そこで、主体は主体を記述することで、哲学の問題は「われわれ」から「わたし」へと横滑りしてゆく。でも、それって学問としてアリなのだろうか。それは、お前の「ねえ聞いて!かくかくがしかじかでオレは生きづらくって…」という愚痴なのではないか。それを普遍的に思考する体系を、主体を語る主体はどこかで保証しなければいけない。その保証はドグマティッシュなものでしか為され得ない。しかしドグマティッシュであるあまり「わたし」がいなくなってしまうのは怖い…。こうして、主体を語る主体は、自分語りと学問のはざまにあるはずの「哲学」を獲得する強度を語りそのものが持たない限り、どこかで溺死するハメになる。だからこそ哲学は、おいそれと「オレ流」にしてはいけないのである…。

 

 何故突然こんなオチのないエントリを書いたのかというと、最近自分の問題意識と知的好奇心にズレが生じて来ているなと思った矢先に同じことを考えている人とこういうことを話したからだ。言ってしまえば、文学は(それこそバタイユも言う通り)悪さえも本質として孕み得る。しかし哲学は、善く生きようとする意志によって書かれ、また語られる。ではそこにおいて、生々しい生の実感とエヴィデンスによって保証された学問的論証は、果たして哲学においてどこまで可能になるのか?まあ、結局折り合いでしかないような気もするのだが。

今年読んで面白かった本5選

初めに断っておくが、自分はそんなに読書家という訳ではない。どちらかといえば音楽や映画の方が好きだし、何より本を読むという行為には体力と余裕と時間がいる。…というのは読んでない人間の言い訳に過ぎず、いわゆる「本の虫」と言われる人たちというのはそういうのを度外視して(自分が音楽や映画を聴いたり観たりするように)本を読んでいるのだろう。多分。

しかし、まあ個人的には本を読む機会に恵まれた年だった。年間100冊(数字でマウンティングをするのは端的に言ってバカのすることだが)とか読んだわけではないにしろ、面白い本との出会いは多かった。あと偏りなく色々なジャンルの本を乱読できたというのもある。去年は西村賢太ミシェル・ウエルベックばっかり読んでいたので、今年は目についたものだったり、人に貸してもらったものだったり、古本屋で何気なく手に取った一冊だったり、そういうものを読むことによって視野が広がる(広がった気になっているだけかもしれないが)のは率直に良いことだと思いたい。という訳で、10冊も選べるほど読んでいないので、とりあえず5冊。なお順位付けはない。自分がその本を読んでいる過程で色々なことを考えたり、単純に感動したりしたものを適当にピックアップして、一応年度末っぽいまとめということにする。そう、既に今は年度末、年度末なのである…。

 

レイモンド・チャンドラー/清水俊二訳『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))
 

 いわゆるアメリカのハードボイルド小説と言われるジャンルの名作をこんなところで今更取り沙汰するのも気が引けるのだが、村上春樹の新訳も出てることだし、あえて清水訳のチャンドラーを挙げるのも別に不自然ではないだろう。硬質な文体とテクニカルな場面の移り変わりは職人芸だし、サスペンスのお膳立てはまあ予測がつくっちゃつくのだが、作品の美しさを損なうものでは全く無い(そもそもクリスティやカーのような「びっくり芸」をチャンドラーはしたい訳ではないのだし。「びっくり芸」を否定したい訳ではないが)。何よりフィリップ・マーロウという人物像への憧れを抱かない男がいるのかというぐらいにここで描かれるマーロウはカッコいい。ヤクザじみた探偵業をこなし、チンピラをボコボコにし、女を無碍にフるフィリップ・マーロウをときに冷徹な視点で見据えながらも、最後は男達の友情というやや前時代的なテーマに物語を着陸させてしまうチャンドラーは、今風な言い方で言えばポリティカリー・インコレクトなのかもしれない。でも、それがなんだと言うのだ、と言いたくなる力強さと瑞々しさが、この小説には漲っている。というかポリティカリー・コレクトな文学って文学なのかよという気がするのだが。今年出た蓮實重彦『伯爵夫人』だって極めて知的な語りの構造を持った「文学」でありながらも、表象的に依拠するテーマはシモだったり戦争だったりするのだ。『長いお別れ』は、そういう「正しくなさ」をある種のマッチョイズムと少しのリリシズムで、読み手を唸らさずにはいない傑作なのだ。

 

アンドレ・ブルトン狂気の愛』(光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

 

 白水社の『ナジャ・通低器(ブルトン全集1巻)』と迷ったが、こちらにした。ブルトンといえばシュルレアリスムの旗手として有名だが、初期バタイユマンディアルグアラゴンなどと決定的に違うのは、彼が文章を書く上でのテーゼは初期の『シュルレアリスム宣言』や『ナジャ』などから一貫して変わっておらず、それは「タブー」という既成概念の壊乱装置を用いることなしに、詩的言語や彼の豊かな知識によって「言語によるイメージ(非ベルクソン的意味合いでのイマージュと言った方が正しいかもしれない)の変容」を試みたという点だ。全7章からなるこの書物は、1〜6章まではその試行錯誤が行われる。特に第1章では「ベンチに並んだ7,9人の女たち」に「最後に愛した女」の顔を確かに書き手(≒ブルトン)は見るし、3章は「言語によるイメージの変容」が最も分かりやすい形で表れている。4章はこの書物の中核をなす章で、自身の詩である「ひまわり」をブルトンが愛したジャクリーヌとの出会いの予感として、過去時制的に自己解釈する手つきは白眉と言える。だが、『狂気の愛』がなぜ異形であり、この本が「小説」とか「思想書」とか「詩」とくくれず、「書物」と言うしかないのかという理由は、その最終章にある。即ち、ブルトンの娘であるエキュゼット・ド・ノワールに向けて書かれた「手紙」なのだ。ブルトンはその章を、そしてこの小さいながら恐るべき書物を、こう閉じる。「あなたが、狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」と。「愛する」ことについて試行錯誤を重ね、それを記述することに全精力を傾けてきたこの本は、最終章のあまりにしょうもなく、人間臭く、しかし切実な「願い」の告白によって突如終わってしまうのである。立木康介は『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(水声社、2016年)の中でラカンの読解をもとに、この『狂気の愛』のなかで起こるまさに「狂気の愛」は、対象(女たち)をブルトンの記述の中で<物>へと釣り上げることであり、その発想の根源をトルバドゥール的な「宮廷愛」に見出すという卓抜な分析を行っているが、ではなぜ最終章にこの手紙が置かれねばならなかったのか。なぜブルトンはこの本を『ナジャ』の挑戦的な変奏曲として締めくくることを許さなかったのか。その点については、少なくとも立木が述べる上でのラカンブルトン解釈は突っ込んでいない。自分は、やはりこの本が「狂気の愛」たり得ている所以は、まさにその愛についての詩的、文献的考察を経た上で「手紙」へと愛のエクリチュールが脱臼してしまう、その逸脱のプロセスにあると思うのだ。だからこそ『狂気の愛』は切実な「書物」となっているのだし、その点を踏まえてより深く読まれる必要があるとさえ思う。順位はつけないと言ったが、自分にとって2016年を代表する本を一冊挙げろ、と言われたら間違いなくこれにするだろうというレベルで面白かった一冊。

 

福永武彦『愛の試み愛の終り』(人文書院

愛の試み愛の終り (1958年)

愛の試み愛の終り (1958年)

 

 近代日本文学は太宰や三島、漱石など数え上げるまでもなくスターが目白押しであり、また私小説の分野でも梶井や中島など凄まじい筆力で自らの人生の軌跡を絞り出したような面々が勢揃いしている。その中で言うと、福永は少し分が悪いかもしれない。何せそんなに多くの小説を書いている訳ではないし、その筆の運びに上に書いたような人々の、ある種切羽詰まったような大文字の「文学」の息苦しさがあまり見られないような作家ではある。が、彼ほど愛についてリリシスティックな筆致で述べることのできる文学者、あるいは小説家はいないのではないかとさえ思う。自我について書くときでさえ、福永は抒情を忘れない。『草の花』における主人公、汐見茂思のモノローグは、そのテーマだけ見れば生臭く、自我と愛(自己撞着的な愛)について葛藤しているという意味でエキセントリックになってしまうかもしれないが、福永はそれを「主人公の遺書のノート」という形で語りを二重化した挙げ句、男と女の両方を愛して「しまう」という対象の二重化を行うことによって、ギリギリの線でリリシズムに留まる。それはロマンティシズムでもアルカイズムでもない。この本は、そのような形で物語を書いてきた福永の思想を述べたもので、自分の小説のネタバラしみたいな部分もある。ともかく福永は、愛は孤独なものだ、と繰り返す。互いが互いを浸食することは、愛ではない。孤独な魂が、出来るだけそのままに寄り添い合うことが愛なのだ、と。その静謐だが情感に満ちた愛の讃歌は、どこか上述のブルトンを思わせないでもない(これは余談だが、粟津則雄が福永にブルトン全集を献本していたという事実は見逃せないだろう)。「愛は決して終らないだらう」と、ある部分で福永は言う。「だらう」とあえて言い切らないところに、福永の抒情がある。しかし、「決して」なのだ。このことあらわしにこそ、福永武彦という人間が愛にどう向き合ってきたか、即ちそれは常に予感されながらも(疑いと言ってもいいかもしれない)、「決して終らない」と言いたいという願いが表れていると言ったら、言い過ぎだろうか。現在は『愛の試み』だけが抜粋されて文庫化されているが、人文書院のこの版は末尾に愛についての短編が収録されている。福永の思想の文学的実践を辿るにはもってこいだし、この短編があることによってより彼の思想の理解が深まる。まとめて文庫化されるべき一冊だと思う。

 

金森修バシュラール 科学と詩』(講談社現代新書

 

バシュラール―科学と詩 (現代思想の冒険者たち)

バシュラール―科学と詩 (現代思想の冒険者たち)

 

 フランスの哲学というと、やはり今でもいわゆる「現代思想四天王」が幅を利かせている。即ちフーコードゥルーズデリダラカンの四人(今勝手に命名した)だが、どちらかというと自分はそれ以前のフランス思想史に惹かれる。デカルトはとりあえず置いておくとして、例えばドゥニ・ディドロの思想は18世紀という時代において少し拾い読みするだけでも明らかに異形かつ横断的だし、この本でも紹介されるオーギュスト・コントや、さらにはその後に出てくる(そして11月〜12月にかけて死ぬほど読み込んだ)アンリ・ベルクソンという巨人なしには、上に挙げたようないわゆる「ポスト構造主義」の人々はなかったし、彼らの思想は概観するだけでも(というか今は概観しか出来ていないが)面白い。そして、その丁度中間地点において、ある種奇形的とさえ言えるような思想を形成したのがガストン・バシュラールという科学哲学者である。金森の良いところは、バシュラールを専門にしていながらも肩入れし過ぎておらず、例えばあまり有名ではないこの思想家の唯一著名な(とはいえ哲学を少し齧っていないと名前も聞かないだろうが)「<現象学的転回>による詩学」(例えば『空間の詩学』)という晩年の試みははっきりと「失敗している」と言っているところだ。金森が自分は少なからず科学史家・科学哲学者である、という自分のポジショニングを明確にしてもいるのも好感度アップだ。バシュラールに話を限ることなく押さえておくべき(というかフランスの科学哲学史を少しでもやる上で)なのは、いわゆるカントに端を発するドイツ観念論における「認識論」とフランス科学哲学の分野において用いられる「認識論(エピステモロジー)」は全く違うということだ。エピステモロジーは(バシュラールが距離を取りながらも親近的な概念とした)数学的実在論に根ざしており、これは「現象学」というタームにおいても同じことが言える。バシュラールは、現象ないし存在を反実在(実存ではない)と位置づけ、その反実在から我々の「物質的想像力」というものが喚起される、と説いた(らしい)。それがもっともよく表れているのは『水と夢』とのことなので、年明けには読みたい。また、『瞬間と持続』というベルクソン的な表題の論考で思いっきしベルクソンを叩いているというのも興味深い。なんだかんだ一番がっつりこの一年で勉強したのはどういう巡り合わせかベルクソンだったので、ベルクソンに軸を取りつつバシュラールも勉強していければいいなと思う。唯物論的観点もあるのでディドロも読みたい。心配なのは弊学にフランスの科学哲学を専門としている人がいないことである…(分析哲学の教授につくしかない気がする)。

 

・三秋縋『恋する寄生虫』(メディアワークス文庫

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

 

 最後にこういう本を持ってきて「僕は文学も哲学も読むけどこういうの読むんでっせ、サブカルにも理解あるやろゲッヘッへ」という真似をしたいのではない。そもそも自分の初めての読書経験は『涼宮ハルヒの憂鬱』だし小学生のときは西尾維新を狂ったように読んでいたので全く不自然ではないのである。まあオタクということなのですが。三秋の文体は読みやすいが、ラノベにありがちな一人称視点による口語のイヤな感じはなく、三人称視点を取ることによって語りの美しさを損なわずに済んでいる。ラノベを真面目に考察するようなのは他の人がやっていると思うので改めて真面目にこの本を考察しようとは思わないが、この三秋縋という筆者が生半可な知識や薄い教養で本を書いているのではないということは切実に伝わってくる。寄生虫が宿り主に恋を「させる」と思わせておいて実は、とか、寄生虫がいるかどうかは恋をするということに関係するのかとかといった部分は寄生虫についてのリサーチもさることながら、何やらワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』における「媚薬」の役割をこの作品では「寄生虫」が担わされているかのように見えることで、そのような「厚み」があるからこそ、重くはない文体によって、しかし軽薄になることなくまとめあげた物語だと思った。

 

5冊取り上げるだけでも結構な量になったしもう大晦日になってしまった。他に迷った本としてはアンナ・カヴァン『氷』、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』、谷川俊太郎『私』、ヴィルヘルム・イェンゼン/ジークムント・フロイト『グラディーヴァ/妄想と夢』、などがある。来年はもっと本を読みたい、というか読みさしの本が何冊も積み上がっていて、手のつけようがない状態なのである…(勢いで買った筑摩の世界文学体系のマラルメランボーヴェルレーヌ選集とか読み切ろうという気すらないし)。恐らく今年の読み納めは立木の『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』の終章を読み切っておしまいだろう。明日(というか今日)はできればFate/GOの7章クリアに時間を当てて大晦日TVスペシャルに備えたいのですが…(オタク)。

何はともあれ、皆様におかれましては、よいお年を。

A.P.D.マンディアルグについて

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、という作家がいる。20世紀フランス文学において、主にシュルレアリスムという文学の潮流において活躍した作家、と言われている。アンドレ・ブルトンロートレアモン(「手術台の上でのこうもり傘とミシンの出会い」は有名だろう)、トリスタン・ツァラといった面々と比べると、少々マンディアルグの知名度は落ちるかもしれない。

 

自分語りになってしまうのを承知の上で書くが、シュルレアリスムとの付き合いは個人的に長い。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』という作品に出会ってからというもの、マンディアルグはもちろん、アルトーアラゴン、上に挙げたような作家の作品は比較的好んで読んできた。彼らの作品に通底するのは、「タブー」とされているもの―糞便、性行為、血液など―を「語りなおす」という試みだ。しかも、それらは多様な概念とまとわりついている。例えば上のバタイユ眼球譚』ではそのようなモチーフが幾度となく反復されるし、それに加えて「目」、つまり意識の所在というテーマが通底しており、そこに更に「父親」や「教会」といった権力の表象がいずれも象徴化され、それらが上に挙げたような「タブー」によって壊乱される。これは同じくバタイユの『空の青み』でも「教会」のモチーフは登場するし、そこにフランスの政治の歴史(アンシャン・レジームなど)が絡んでくる。重要なのは、いずれもそれらが「タブー」のモチーフを伴って繰り返されている(あらゆる文学者たちによって)、ということだ。アントナン・アルトーヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』はその顕著な例(古代ローマにおける属州シリアの太陽信仰と「血と糞便と精液の中で死んだ」ヘリオガバルスについての語りが交錯しながら進行する書物だ)と言えるし、ルイ・アラゴンの『イレーヌ』は原題のLe con d'Irene(生田耕作が訳すところによれば「イレーヌのおまんこ」とのこと)から分かるように、まあシュルレアリスムの「タブー」とそれにまつわる多様な「既成の」概念の壊乱、という文学的実践はいたるところでなされていた、ということだ。

 

マンディアルグにも、その例外でない小説がある。『城の中のイギリス人』という作品で、まあこれがとにかく酷い(ほめ言葉)。エロ、グロ、ナンセンス、その他もろもろの酸鼻極まりないSM描写や性的倒錯の表現の満漢全席で、バタイユを読んだ後にこれを読んだものだからマンディアルグ=シュルレアリスム文学の中でもひときわ頭がおかしい奴、という印象だったのだ。マンディアルグの文体は独特で、例えばブルトンはイメージの変容とそれを言語化する際の心的過程を詳細に記述していくし(『狂気の愛』における3~4章が好例だろう)、バタイユは過激な描写においてそれが現出する「場」、つまり教会であったり家庭であったり「路地」(シュルレアリスム文学において「路地」という場が「隠される空間」として機能しているのはロートレアモンの詩を見れば明らかだし、マンディアルグにも『ポムレー路地』という散文詩がある)であったりして、それを壊乱する装置として「タブー」、つまりエログロナンセンスといったような要素が周到な計算によって挿入されるのだが、マンディアルグの場合はそうではない。彼の場合は空間の描写の連鎖、つまりその環境がどのような色彩と形を持っているのか、という部分に焦点を絞って、きわめてそれが遅延的な筆致によって描かれる。そして、『城の中のイギリス人』はその「色彩と形(イメージ)によって<それ自体として描かれる>エログロナンセンス」の書物である。つまり、壊乱されるべくして壊乱される桎梏がこの本の中には存在していない。というより、壊乱のみがそこに在る、と言ってもいい。だからこそ、この『城の中のイギリス人』はシュルレアリスム文学の中でも屈指の異形な光を放つ奇書である、と言われて然るべきなのだろう。

ところが、先ほど読み終えたマンディアルグ『海の百合』は、そのような「壊乱のための壊乱」はない。それどころか、ポール・ヴァレリーステファヌ・マラルメといった先人の詩人たちの実験性や意欲的な実践を引き受けつつ、シドニーコレットの『青い麦』(というよりも『海の百合』と『青い麦』は「貞淑の喪失」という意味で反転の関係にあると言ってもいいぐらいだ)的な、むしろ『ダフニスとクロエ』的なアルカイズムさえ漂わせるような、いかにも「フランス文学」の知性と詩情を持った作品なのだ。しかも、主人公であるヴァニーナの処女を奪う「若者」の名前が最後まで分からず、しかしそのことはヴァニーナにとって意味を持たない(<ただひとりのアノニマス>を愛するという神秘)という事実は、何やらかのワーグナーのオペラ『ローエングリン』を想起させるところもある。訳者の品田一良も言及しているが、ここにはドイツ・ロマン主義的なイメージも確かに存在しているのである。

この二面性が、恐らく20世紀の終わりまで生き、シュルレアリスムという文学的実践に身を投じたマンディアルグという作家の「謎」であるのだろう。 つまり壊乱を壊乱として、一種の文学的暴力を発動するマンディアルグと、文学の持つ歴史性に目を向けながら、詩情と言葉による知性をイメージの連鎖によって紡いでいくマンディアルグ。この感想文に特にオチはないし、そもそも自分は哲学科に進学する予定なのでマンディアルグについて専門的な知識を深掘りしていくつもりもないが、恐らく『城の中のイギリス人』の冒頭に掲げられた一文が、そのままこのマンディアルグという作家の運動について言及されているように、『海の百合』を読んだ今、そう感じざるを得ないのである。

 

この書物は闘牛の一種と思っていただきたい。(アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』)

「ストリップ劇場」論序説に対するごく短い補説

lesamantsdutokyo.hatenablog.com

 上記のエントリでは書き切ることが出来なかった(そもそも「序説」であるのだから)が、ある興味深い指摘があったのでここでわずかばかりながらその指摘について触れてみたい。すなわち、「劇場」という場の生起である。

 演者を括弧に括った上で、ストリップ劇場という「場」は明らかに他の「劇場」と比べて異質である。いや、異質、というのはやや違うかもしれない。それは例えば、アイドルのライブなどと近いものがあるからだ。それらを紐帯するものは観客間で行われるコミュニケーションである、とひとまずは言うことができるだろう。

 しかしアイドルのライブにおいて起こるコミュニケーションが極めて内輪(「ヲタク」同士のもの)であることに加え、そのコミュニティ外で行われるコミュニケーションは事務的とさえ言えるからだ(この子の握手列はどこでしょうか、など)。アイドルのライブに行かなくなって久しいが、それは皮膚感覚として、確かに横たわっている(語弊を恐れず言うならば)「よそよそしさ」だ。

 ストリップ劇場において生起するコミュニケーションは、無論「ヲタク」同士のコミュニティも存在していない訳ではないが、劇場外のロビーで行われる「見知らぬ人同士の」コミュニケーションが極めて活発であるということだ。例えば、こんな風に。

 

―今日は混んでいますね。公演時間も45分近く押しているんじゃないですか。

―今日の○○さんは道劇(道頓堀劇場)出身でねえ、今日が引退公演なんですよ。目当ての子はいますか?

―ええ、六花ましろさんです。撮影時間のときに見て、とてもいいなと思いました。

―ましろさんですか、目の付け所がいいですねえ。さわやかで、よく鍛えられていて……。でも、彼女は厳しいんですよ、礼儀に。

―そうなんですか。とてもそうは見えませんが。

―それはもう。私も何度か怒られてしまいましたよ。彼女は女性にも人気があるんですけどね。ちなみに、ここは今日が初めてですか?

―ええ。ふらっと入ったんですが、作法が分からなくて……。

―(他の人が入ってきて)大変な日に来ちゃいましたねえ。でも、ましろさんならこの後もたくさん観る機会がありますから、是非他の日も来てください。

―ええ、ありがとうございます。

 

……といったような具合だ。こういう会話が、ロビーの至るところで行われている。劇場の中では、女性客も多い(3割程度が女性だったと思う)。その間でも、このような会話が繰り広げられている。

 つまり、ストリップ劇場という「場」は、観客同士においてもコミュニケーションという手段によって入り乱れ、「客」と「客」というような個人の関係性を持たず、「観客」という集合の中で共振するといってもいいだろう。この点も、映画や演劇における「場」(映画館や劇場など)では見ることのできない光景だろう。

 

 他にも、女「性」の消費など、弱者としての女性がフェティシズムの「見世物」として提供されていることのジェンダーの倫理(ポリティカル・コレクトネス)などは語るに及ぶべくもないが、それは他のアダルトコンテンツにも言える問題であり、ここでは語る必然性がないと思われる。「ストリップ劇場」という「場」の生起は、ステージ上で、ロビーの待合室で、至る所で起こっているのであり、その構造こそが問題化されるべきなのではないか。そしてそれは日本の文化史、いや風俗史という歴史の層としての「史」―アーカイブ(アルシーブ)として語られる必然性を感じる。現在、有意な文献と考えられるのは『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』(イースト・プレス 2014年)所収の藤木TDC「昭和娯楽王 ストリップ史」だが、現在は入手不可能となってしまっている。

 「語りえぬもの」を「ことあらわす」ことの可能性は、「ストリップ・ショー」を見つめなおすことによって開かれるのではないか、という問題提起で前エントリの補説としたい。

「ストリップ劇場」論序説

 サークルの読書会の帰りに、渋谷の百軒店の入口にある道頓堀劇場、というストリップ劇場に入った。たまたま2000円が手元にあって、学割でちょうど入場料が2000円だった。
 今自分はある神経症にかかっていて、音や光に敏感になってしまっているのだが、最近は復調の様子も見られてきている(まだ情報量の多い音楽を聴いたり、映画は観たりするとダメになってしまうのだが)。安定剤を2錠飲んでから、2000円を払って劇場に入った。なので、まあ軽いリハビリも兼ねて、という意味もある。それで選ぶのがストリップ劇場、というのはどうなんだという気もするのだが。
 渋谷の道頓堀劇場は6人の女の子が入れ替わり立ち替わり踊るのが一つのステージ、というシステムなのだが、途中で出てもいい。目当ての子を見終わったら帰るという人も多かったし、そもそも物見遊山なので長居する気もなかった。劇場の中に入ると、色白でさわやかな見た目の女の子がまだ写真撮影タイム(というのがある)でステージに居たので、この子のステージを観て帰ろう、と思った。六花ましろという踊り子で、人気も高いらしい。写真撮影タイムが終わると、今日3回目になるショーが始まった。観たのは3人の踊り子で、美月春、愛野いづみ、そして目当ての六花ましろだった。そして、それぞれに特徴があった。
 
 
・「ストリップ・ショー」の特異性
 
 総体的な、というか概念的な話をすると、ストリップ・ショーというのは極めて特異なショーの形態である。浅学にしてストリップ論のようなものがあるのかどうかは知らないのだが、高校時代に卒業論文を映画学の分野で書いた、つまり表象文化論を少しだけではあるがかじった身からすると、興味深い、というのも胡散臭いが、積極的に語られるべき分野ではないだろうか、という気さえしてしまうのである。というのも、そのショーの構造は「語りの欠落」と「運動の過剰」という意味で、演劇や映画など、他のいかなる批評対象とも構造を異にしているとさえ言えるからだ。
 当たり前だが、ストリップに台詞はない。踊り子が与えられた3〜4曲(実はこれも構造があるらしいのだが)に合わせて、一人あたり凡そ20分程度のステージを演ずる。彼女らはそれぞれに任意の服装のモチーフ(それはレイヤーされている)があり、それらが曲の進行と共に、注意深く脱ぎ捨てられる。その「脱ぎ捨てる」という運動そのものによって、ストリップ・ショーはショーとしての強度を保っていると言ってもよいのだろう。つまり、レイヤードされたヴェールの「脱ぎ捨て」(特にロラン・バルトを意識している訳ではないが)という運動の連鎖によって、というよりもほぼそれのみによってストリップ・ショーはショー足り得ている、と言ってもよいのである。彼女らの衣服はなんらかの「帯」によって固着され、それらが剥ぎ取られてゆく。そしてそれらはある種の連続的な性格を持って、ショーは進行する。これは、例えば演劇であるならば空間における人物の配置とスクリプト(台本)、それに加えて演者の「発話」という行為によってドラマトゥルギーが構築されるのだし、映画に至ってはそこにデクパージュ(カット割り)とモンタージュ(編集)という、言わば輪切りにされたような空間と時間の交錯によって物語の構造を形作っていく。アイドルのライブなどを引き合いに出すのもよいだろう。そこには「歌」と「踊り」があり、一つ一つの楽曲の繋がりが総体として意味を持ったり持たなかったりする。しかし、ストリップはそうではない。ヴェールの「脱ぎ捨て」という、言わばひとつの運動が動因となってショーが進行「してしまう」、それがストリップの特異性とも言えるだろう。
 だが、ショーとしてのストリップを語るべきはそこに留まらない。「語りの欠落」、つまり一つの運動がある種の欠落を伴った形でドラマトゥルグされていくという点は上に述べた。では、「運動の過剰」とは何か。ここで言う「過剰」とは、言わば他のショー形態には見ることができないものであり、ストリップ・ショーではその「過剰」が重要な意味を持つ。道頓堀劇場のステージはT字型で、張り出しの先は円形になっていて、上下し、また回転する。ステージそのものが運動するという事実は現代演劇においては当たり前のことではあるだろうが、問題はステージの運動が「上下」と「回転」であり、そこにさらに踊り子の「踊り」という運動が加わるということである。ここにおいて、演者(踊り子)とステージは、運動という概念において共犯関係を結ぶといってもいいだろう。ここに、語ることの「欠落」に対する共犯関係としての二重の相を持つ「運動」の概念が「過剰」される。
 
・ショーの構造と「視点」の問題
 
 ストリップ・ショーの一つのステージの構造は以下のようになっている。
①踊り子が登場し、厚いレイヤーを着て踊る。この段階でカチューシャやガーターなど、小道具的なレイヤーは取り外される(ことがある)。
②ここで踊り子は①の段階からやや飛び跳ねる形で一気にレイヤーが外される。しかし、この段階では張り出しに出ることはない。出たとしても、それは次の動作への予兆である。
③②において外されているレイヤーの「脱ぎ捨て」の運動は、この③の段階で一気にスローモーになる(BGMも遅いBPMのものになる)。薄いヴェールを外し、ブラジャーを外し、パンティーが脱ぎ捨てられる。ストリップにおいて最も重要なのはこの箇所である。つまり、乳房や陰部といった「覆われていたもの」が露わになるのがこの瞬間であり、また張り出しが「上下」し「回転」するのも③の段階においてである。
④幕が下ろされ、速いBPMの曲に合わせて張り出しで踊り子が踊る。既に陰部は露わになった状態であり、いわばアンコールのようなものと言える。
 この4つの運動の中で最も重視すべきなのはやはり③である。3人の演技を鑑賞したが、いずれにおいても共通しているのは「垂直」の運動、つまり張り出しの床に寝そべって脚を床に対して垂直に伸ばすという運動である。これは張り出しが回転しつつ行われるので、有り体に言ってしまえば陰部を全員の客に見せる(ステージを半円状に取り囲むような席の配置となっている)というサービスなのだろうが、ここで客は決まって拍手をする。つまり、一つのステージのクライマックスがこの「回転しつつ垂直」な運動であることが観客にも暗黙の了解として認知されているということだ。それは文化であり、「踊り」というノンバーバルコミュニケーション(そもそも踊り-ダンスという運動がセックスの薄められたものであるという事実をここで忘れるわけにはいかないだろう)が「欠落」と「過剰」によってドラマが構築されていることの歴史の重層性と言えるのではないか。このことについて考えれば考えるほど、ストリップは文化でこそあれ批評的な言説を免れてしまったことの負の意義は大きいと言わざるを得ない。無論「風俗業」であるというタブーに触れることに間違いはないが、例えばピンクサロンやヘルスなどと言ったそれとは全く違う、あらゆる劇的構造から自由である「ショー」としてのストリップを批評せずに消費することは、ストリップ・「ショー」の衰退にも繋がってしまうのではないか、という危惧さえ抱いてしまうほどである。
 ここにおいて実現される「運動」、即ち「踊り」が「薄められたセックス」であるという事実に関しても、もう少し言及しておきたい。例えば映画においては、観客は「視点」に対して何ら能動性を持つことができない。何故ならば、それはキャメラという意識の所在によって映画という事態が生起しているからであり、映画における「視点」の問題はつまりキャメラというインターフェースを通して見られた「創られた視点」について言及することになる。また、演劇ではそのキャメラの役割を「幕」という存在が担うことになるだろう。客席と舞台は分けられ、極めて古めかしい言い回しをするならばそれは「第四の壁」によって観客は「視点」をあらかじめ支配される。ストリップ・ショーは、その「視点」を掻き乱すような形で運動する。それは舞台(張り出し)そのものが運動し、踊り子が運動するという二重の相の運動によって観客の視点は撹乱される。さらに言えば、踊り子が「演技」-「踊り」として「ウイスキーをグラスに注ぐ」という運動があったが、踊り子はそれを客席の客に振る舞い、飲み干し、そのグラスにいわゆる「おひねり」を入れるという一連の動作、というか作法が存在している。ここでも、演者たる踊り子と観客の関係性はもはや入り乱れてしまっているだろう。それがあたかも「作法」のように振る舞われてしまっている、という重層性を持っている以上、「視点」を基礎付ける「壁」や「キャメラ」という観客の意識の所在は、そこにあって(いささか雑駁な言い回しをするならば)能動的であるとすら言えてしまうからである。だからこそ、希釈されたセックスとしての「踊り」は、「視点」を媒介するメディアを決定付ける諸要因が外部に存在しないが故に、限りなくセックスという運動と踊りという運動が近くなってゆく。しかも、演者の運動は常に二重の相を持つために、その漸近性は永遠にぶら下がってしまう。ここに、ストリップ・ショーの言表しがたい構造の鍵がある気がするが、ここでその点を深彫りすることはやめておきたい。
 
・六花ましろの見せた運動がもたらす夢と詩
 
 「ショー」としてのストリップの抽象概念は既に述べた。ここでは、六花ましろの演技について具体的に触れることで、その構造性と、もう一つある詩性について述べておきたい。彼女の演技は、というか表情は、豊かな、暖かみのあるそれではない。その前に観た愛野いづみの演技が非常にエモーショナルで色彩的なものだったというのもあるが、愛野の色彩性はその「まなざし」にある。ウイスキーのコミュニケーションを取り入れていたのも彼女だったが、愛野は観客に対して真摯にまなざす。その交換の豊穣さが、彼女の演技の色彩性であるとも言える。しかし、六花は、明らかに、どこも見ていない。①の段階における演技で、彼女は「まなざさない」ことによって、ひとつの冷たいポエジーを紡ごうとしているのだ、ということは既に明らかであった。③のスローモーな動きに至って、六花は「まなざさず」、よく鍛えられたしなやかな裸体を惜しげもなく張り出しの上で運動させていた。張り出しの回転に対して垂直である彼女のすらりと伸びた(文字通り)真っ白な脚は、ストリップ劇場という、こういってよければいささか下卑た場において披露されるには、あまりに詩的でないかとすら思えた。陰部を見せるためのサービスとしてその運動が提供されるということは、ある意味その「陰部」という要素が我々の「視点」を決定するのかもしれないが、少なくとも彼女の運動は「陰部」が「視点」の中心として機能するように運動してはいなかったのだ。それは、森崎東が1975年に撮った映画『喜劇 特出しヒモ天国』において芹明香が葬式という「場」でストリップ・ダンスをするあの異形の特権性を、「視点」の自由が留保された形で立ち会うことができる体験、とさえ言えるかも知れない。それは、間違いなく構造による詩性であり、踊りという詩による構造性である。六花はそんなことを意識していないのかもしれないが、張り出しの上で垂直に回転する彼女は、(森崎の)映画的な可能性を越えてファンタジックな瞬間をもたらしてくれたと言わざるを得ない。無論、森崎は別の方法論で映画と踊りとファンタスムについて上記の映画で回答をしているのだが、それについては詳述しない。ともかく、六花の「二重の相のもとにある」運動は、自分にとってある種の夢を見させてくれた運動であったのである。それが「まなざし」という色彩性を失うことによって実現されていた、ということも付言しておきたい。
 
・夢の予感、あるいはヴァレリー言表による序説の終わり
 
 自分は果たして再度ストリップ劇場に足を運ぶだろうか?と問われれば、間違いなく首を縦に振ってしまうだろう。薄汚れてタバコの煙で靄がかかったロビーで自分も同じくタバコをふかしながら、その煙の中に六花の見せてくれた「踊り」による夢と詩をなぞっていたのだ。ロマンティックに過ぎるだろうか?頭でっかちな解釈だろうか?そうかもしれない。だが、事実として、自分は彼女のステージを観た後にその後の演者のステージを観る気には到底なれなかったし、手元のスマートフォンで時間を確認しようとも思わなかったのである。ただ、手元のタバコと、口から出る煙に、彼女の幻影を描きながら呆然とする。あの心持ちを、自分は追いかけてしまうような、そんな予感がするのである。
 

エリュクシマコス これからまさに起ころうとしていること、これくらいわたしの好きなものはない。恋愛においてさえも、ごくはじまりの感情ほど、官能の悦びにおいてまさるものはない。一日のあらゆる時間の中で、曙がわたしのもっとも好む時間です。だからこそわたしは、 この生きた女の上で、聖なる動きが現れ出てくるところを、愛情のこもった感動とともに見届けたいのです。ご覧なさい!…その動きは生まれ出てくる、優しい鼻孔の、あの頭を、光に明るく照らしだされた肩のほうへと抗いがたく結びつける、あの滑るような眼差から…… そして、彼女の輪郭のくっきりした身体の、美しい繊維のすべてが、うなじからはじまって踵に至るまで、はっきりと現れてはつぎつぎと捩れてゆく。そして、全身が震える…… ひとつの跳躍の誕生をゆるやかに描いてゆく…… 彼女はわたしたちに息もつかせない、つんざくようなシンバルの、待ち受けてはいても意表をつく轟きに不意の動作で反応して、宙に身を躍らせるその日まで。(ポール・ヴァレリー清水徹訳「魂と舞踏」、『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』岩波文庫、2008年、p. 151)

アンリ・ベルクソン『時間と自由』第一章についての覚え書き

 エクスキューズもなしにいきなりベルクソンの話を始めるのも気が引けるので、とりあえず簡単な前置きをしよう。自分は哲学批評研究会というサークルに所属していて、なんというか適宜哲学書を選んで輪読して解釈する読書会サークルなのだが、そこでは今ベルクソンの『時間と自由』(中村文郎訳、岩波文庫、2003年)を扱っている(白水社から出ている竹内訳の『意識に直接与えられたものについての試論』もあるが、この訳の評判が高いのと文庫なので手に入りやすいという理由でこの版を使っている)。同じ著者の『物質と記憶』ほどには難物ではないものの、彼独特の言い回しがあるのでそこに慣れるのになかなか苦労したが、ハマるとこれが存外にメチャクチャ面白いのだ。で、自分の担当範囲は第一章「心理的諸状態の強さについて」の後半部分で、レジュメを作っているうちにある疑問が残った。その手だてのようなものがなんとなく、極めてなんとなくではあるが見えてきたような気がするので、備忘的に書いておきたい。レジュメにもまとめる予定だ。多分前日に急いで作る予感がするのだが…。

 

 第二章まで行っていない(まあ勝手に読み進めてはいるのだが)のだが、副読本などで参照した『時間と自由』における問題意識を超簡単に要約すると、ベルクソンが言うにはモノ(ここで言うモノとは世界-それは観念や「心的事象」も含む-において起こる事実総体を指す)には「量la quantité」と「質la qualité」の問題があり、それの取り違えによって自然科学と哲学はひとつの誤謬を起こしている。で、とりあえずはそれを丁寧に取り分けた後、取り分けた結果「何かよくわからんもの」が残る。その「よくわからんもの」がベルクソン哲学において極めて重要な鍵語である「純粋持続」という概念なのだが、とりあえずそれは放っておくことにする。

 一章において重要なのは、「量」と「質」の区別だ。ベルクソンにおける「量」の概念はとりあえずはっきり示されていて、

量というものはそのこと自体からまさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっているものだということになる。(p.14.以下特別な注釈を設けない限り引用は全て岩波の中村訳からの引用とする)

 つまり、あんまり難しいことを考える必要はなく、要するに「測定可能(分割しうる)」であるモノが量的である、とベルクソンは言う。これに対して「質」の問題は何度も何度もベルクソンが繰り返し説明しているのだがうまい引用部分が見つからないのでこちらもまとめると、質は測定できず、分割可能な連続性を持つ量に対して質は「純粋な異質性」(p.126)であり、それは差異を持って増減するのではなく「移行passage」するものである。すげえ簡単に言うと、量は数えられるけど、質は数えらんねえよ、だって差異があるかも分からんし数の間隔があるかも分からんからな、ということである。

 しかし、そこに当たって前回の読書会で議論になった部分がある。二つのセンテンスを引用しよう。

(…)しかし、これらの感情の強さは、表面のものであれ深いものであれ、激しいものであれ反省されたものであれ、意識がそこに見分ける単純な諸状態の数の多さから常に成り立つのである。(p.45) 

 ここでまた一つ留保をしておくと、ベルクソンが使用する「強さ」という概念は質についてしか用いず、対して量については「大きさ」という概念で表現する。ここで「ん?」と読書会のメンバーがなったのは、「強さ」と「数の多さ」という矛盾である。質に対してしか用いられない「強さ」の概念に「数」を当てはめてよいのだろうか…?という疑問に、我々は頭をひねった(そして結論は得られなかった)。

 さらにもう一つ見てみよう。

(…)強さと呼ばれるのは、根底的状態の内部に見分けられる単純な心的諸事実の多様性(多い少ないの違いはあれ)であるが、これはもはや後天的知覚といったものではなく、混雑した知覚である。(p.90) 

 後半部分は無視してほしい(確かに知覚の問題に関してはカントを引き合いに出して二章以降で云々しているのだが)。ここで問題にしたいのは、「単純な諸状態の数の多さ」と「単純な心的諸事実の多様性」の問題で、いずれも意識la conscienceが問題になっているのにも関わらず、「数の多さ」と「多様性」という形で訳し分けられている点である。後者の場合、それが「多様」な性質を持つということであるから、「なんかよく分からんけどいっぱいある」というイメージは質の非連続的なあり方と一致する。対して「数の多さ」は納得が行かない。質は差異を持って増減するのでなく、移行し変容するものであるから「数」という概念そのものをここに持ってくるのはアヤしいのだ(事実、第二章の冒頭で数と空間性についての議論は行われているものの、それらは純粋持続と空間を持った持続の区別の前提となる議論であるため、ここでその議論を持ち出すことはできない)。また、上で多少触れた白水社の『試論』(竹内信夫訳、2010年)においても前者が「多様性」、後者が「多様体」と訳されている。

 となるならばもうベルクソン自身が書いたエクリチュールを辿るよりないため、わざわざ地下の図書館で本書の原版(中村も底本に用いたPUF-Presses Universitaires de France版の1958年に出版されたもの)を用いて検討することにした。はっきり言ってこれの原書(Essai sur les données immédiates de la conscience-以下Edicと略)は劣化が酷く、日に焼けてるわ紙はパリパリでめくる度に破けるわでベルクソンに大変申し訳ない気持ちになったのだが、まあそれは置いておこう。問題はベルクソンが上で訳されている質に関しての「多」の問題で語を使い分けているかというと、実は使い分けておらず、multiplicitéで完全に統一されているのである。とするともうこれはmultiplicitéの問題ではなく、日本語で言うと助詞で繋がれているそれ以前の用語の問題になってくるだろう。

 一つずつ検討してみる。まず前者のセンテンスから。

 単純な諸状態の数の多さ(p.45)

la multiplicité des états simples que la conscience(Edic,出典失念)

 出典がなくなると一気に信憑性がなくなるなと書いてて思った。すいません。明日また再検討します(「激しい情動」のラストの方だったので多分p.20のあたりな気がするのだが…メモっておくべきだった…)。さらにもう一個。

単純な心的諸事実の多様性(p.90)

(la) multiplicité de faits phychiques simples(Edic,出典失念)

 「出典失念」の文字を書く度に申し訳なさで書くのをやめたくなるがここはレポートではなくブログなのでどうかご寛恕願いたい。絶対に確認して追記してやるからな。あと、名詞であるはずのmultiplicitéにメモだと冠詞が抜け落ちていたのでとりあえず補ったという意味で(la)とした。 

 問題なのは、de(des)-ドイツ語におけるvonや英語におけるofに当たる-の後ろにある言葉の違いである。即ち、états(諸状態)とfaits(諸事実)の問題であるが、ここがどうしても分からなかった。étatsfaitsの違いについては「感情的感覚」以降のセグメントでは具体的に説明されない上に、最終セグメントの「強さと多様性」に至ってはセグメントの名前になっているにも関わらず具体的な説明がなされない。しかしベルクソンの最も重要な概念である「純粋持続durée pure」に質的変容の問題は大きく関わってくるため、なんとしてもここは解決できないにせよ糸口を見出したい。

 すると、意外なところを細かく読むと、何気なくその端緒が書いてある。岩波版で言うところのp.18から始まる「深い感情Les Sentiments Profonds」、Edic版で言うところのp.6以降に当たる。そもそも、faitsについての言及はEdicにおいてp.7から始まるが、étatsについて述べる箇所はそれ以前にあって然るべきというか、読み手からするとそうあってほしいところではある(ベルクソンは最初にこれ違う、あれ違う、これが正解っぽいかも、でも断定できない、みたいな書き方をする人なので一概には言えないのだが)。そもそも一章の題名がDe l'intensite des états psychologiquesなのだし。ベルクソンは以下のように述べる。

(…)意識の深いところに降りていけばいくほど、心的諸事実を事物の並列として扱うわけにはいかないのである。/(中略)そのイメージが無数の知覚やイメージのニュアンスを変形してしまったということ、(中略)知覚や思い出のなかに(イメージが-括弧内引用者による-)浸透してしまっているのだ。(p.20) 

C'est que, plus on descend dans les profondeurs de la conscience, moins on a le droit de traiter les faits psychologiques comme des chose qui se juixtaposent./…on doit simplement entendre par là que son image a modifié la nuance de mille perceptions ou souvenirs, et qu'en ce sens elle les pénetrè…(Edic,p.6~7)

 フランス語キーボード打ちづれえなブチ殺すぞ以外の感想がない。まあともかくベルクソンがここで言っているのは、決してfaitsを事物の並列des chose qui se juixtaposentとしては扱ってはいけないものとして位置づけている、つまりfaitsにおけるmultiplicitéを「多様性」と訳すこと(ないし「多様体」)には何の問題もないのである。さらに言えば、それらのイメージは知覚や思い出(souvenirをあえて「思い出」と訳す所に中村の執念を感じる)に「浸透pénetrè」するのであるから、変容する「何か」であるところの質的問題に「心的諸事実(la) multiplicité de faits phychiques simples」は合致するのだと言える。

 とするならば、étatsの問題はどうすればよいのだろう?ここから先はあくまでも仮説でしかないが、「浸透pénetrè」に着目して読み込むのであれば、次のセンテンスに目が止まるだろう。

(おそらくは心的諸事実が)より大きな数の心的要素のうちに浸透しはじめ(…)(p.19)

 ここにおいて言われている「心的要素d'éléments psychiques」とは何だろうか?これは「光の感覚」(p.66)においてベルクソンが指摘したデルブーフの著作であるEleménts de psychophysiqueに似た言い回しが認められるものの、あくまで「psychiques(心的)」であり「psychophysique(精神物理学)」ではないことは一目瞭然である。多分だが、ベルクソンが用いる、「大きな数」の知覚や思い出を変形させられ、またやがて「浸透」していくものとしての「心的要素」が、限りなくétatsに近いのではないか。とするならば、faitsétatsmultiplicitéについての議論も納得がいく。「無数」の、しかし数としてあるétatsの集合体がやがて「意識の深いところ」に降りていき、それらが知覚や思い出に浸透することによってfaitsへと変容していく、それこそが「質的変容」であり、このプロセスが彼の本丸である「純粋持続」の概念へと接続されていくような気がする(実際、p.121〜126の「等質的時間と具体的持続」のセグメントにおいては、その「浸透」に加えて時間の概念が投げかけられ、空間がそれに対して×の捉え方をされる。ベルクソンの「空間」は我々が使うところの「空間」とは若干違う意味を持つので、より細かい読みが必要なのだが…)。

 

というわけで、講義中ずっと『時間と自由』を読んでいたら思いついたことをつらつらと書いてみた。自分にフランス語の知見は一切ないので文法制やアクサンテギュに間違いがあれば指摘してほしいし重大な誤謬を犯している危険性もある。が、ある一つのセンテンスに対してあくまでもテクストに乗っ取って這いずり回るように読むことの快楽は何にも代え難いし、ベルクソンはその意味で最高度の快楽を提供してくれる哲学者だ。という訳で、皆さん哲批研に入ろう!ランシエールの読書会してんじゃ!(泣)(もちろんランシエール以外でも可!)

 

『ライク・サムワン・イン・ラブ』、あるいは愛の予感

アッバス・キアロスタミという映画監督の名前は知っていたけれど、その映画は観たことがなかった。音楽も映画も文章で興味が沸くタイプの人間なので、キアロスタミへのまとまった言及にもあまり触れてこなかったというのもある。去る7月に逝去し、追悼特集が組まれたということだったのでまあ不謹慎だとは思いながらもまとめて観れる機会だと思ってユーロスペースに足を運んで『ライク・サムワン・イン・ラブ』と『シーリーン』を観た。

 

ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)は端的に要約すれば「引退した84歳の大学教授(奥野匡)が風俗で初めて女(高梨臨)を買って調子に乗るものの嬢の彼氏(加瀬亮)にカチこまれる」という話で、後味もよくはない。ミヒャエル・ハネケの作品もそうなのだが人と人とのコミュニケーションの間に横たわるイヤな瞬間とか気まずい瞬間とかを切り取るのがキアロスタミは異常にうまくて、上映中何度も勘弁してくれと思ったし、特に主人公のタカシというジジイがチンピラじみた嬢の彼氏に彼女のおじいさんだと思われてウソをつくシーンの白々しさは本当にキツい。あと一番しんどかったのは嬢はさっさとセックスを済ませて寝たいのにタカシが必死にワインやスープでもてなそうとするところ。一生懸命若い女の機嫌を取ろうとしているジジイのむずがゆさが乾いた長回しと抑揚のない台詞回し(小津っぽいなー、と思って観ていて後で調べたら小津のドキュメンタリーを撮っていたりしたので、そういうことかとなった)が遅効的にコミュニケーションの上滑りによる不快感を演出していた。そこで流れるのがエラ・フィッツジェラルドの「Like Someone in Love」で、陶酔的なフィッツジェラルドの声とは裏腹にどこまでもドラスティックなキャメラの動き、という相反する音と画面の効果はハネケには見られないし、逆に言えばハネケにはこういうひからびたロマンティシズムみたいなものはないなとも思った(『愛、アムール』はロマンティックな映画だったけれども、あの映画には痛いくらいの真摯さがあったし、キアロスタミのこの映画のような老いてなおセックスしたがることの皮相さがハネケにおいては生きることの肯定のように、間接的にではあるが切実なものとして描かれていた)。

そういうわけで上映中はひたすらしんどくて、下手するとすさまじい暴力描写とかよりもそういう「コミュニケーションの上滑り」がもたらす不快感に耐え切れず映画としてのクオリティを認めながらも陶酔しきれずに終わったのだが、いざ終わってみると妙に心に残るシーンが多いことに気づく。例えばタカシの隣に住む世話焼きのおばさんが彼に恋をしていた話を窓から語るシーンとか、東京に来た嬢のおばあちゃんからの留守電を流しながら(嬢はおばあちゃんを無視しまくっている)新宿のネオンをタクシーの窓から眺めるシーンの高梨の横顔の美しさとか、他のシーンが酷薄すぎるが故に間歇的に挿入されるシークエンスが、不思議なほどファンタジックに思える。口に入れてる間は苦いんだけど、後味にかすかに甘みが残るような飲み物を嚥下する感覚とでも言えばよいだろうか。愛は成就せず、ただそれを予感し続けるよりないのだというテーマを老いぼれが風俗嬢を買うという身も蓋もないプロットで行うことの生臭さを引き受け、それを生臭いものとして提示しながらも、どこか幻想的にそれを語ってしまう手法がこのキアロスタミという監督なのかもしれないと思った。「84歳、かりそめの恋を夢みた」というこの映画のキャッチコピーはいささかキレイに過ぎるけれども、映画によって愛を予感し、そのバカバカしさと痛々しさと、しかし後味に残る奇妙なときめきを巧み過ぎるほどに切り取ったという意味で、『ライク・サムワン・イン・ラブ』は忘れ難い映画となっている。本当は文章を書くつもりもなかったのだが、この映画を思い出すと何故か落ち着かない気分にさせられるし、実際今も心のどこかが熱いような、おかしな気持ちになってしまっているのである…。


映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編