思考停止

映画、本、音楽、など

身体を改造する、ということとそのまなざし

 今、自分は耳にピアスがロブに二個、インダストリアルが一個、インナーコンクが一個空いている状態だ。まあ、ぶっちゃけ一方のロブは6Gで普通の大きさじゃないし、もう一生このままだろう。インダストリアルの見た目の迫力もすごい。ちなみにあと18Gのピアスを二個開ける予定だ(テキトーに打ってるので変換違いは突っ込まないでほしい)。今もバングルが3個、指環を1個、ネックレスを1輪つけている。頭はくすんだ金髪で、このまま伸ばす予定だ。ヒゲも生えている。

 そこで疑問なのは、タトゥーやインプラントの存在だ。確かに日本ではヤクザの伝統があって「犯罪者」の入れるものというイメージが刺青は多いし、インプラントはまあ確かに見るとビビる(というかどうなってんだコレってなる)。でも、ブルーカラーの人たちだけが入れるものじゃなくなってもおかしくないのでは?と思うのだ。ピアスをバカバカ開け、バングルと指環とネックレスで着飾る、そのファッションと同じでいいのではないか、むしろ何がダメなのだろうという気がしてくる。そこで必要とされるのは、まなざしと倫理だ。

 当然タトゥーが入った人が電車に乗ってきたらびっくりはするだろう。いわゆる「ふつう」の人じゃないんだろうと思われるだろう。だが、それは多様性に回収できないのか?身体そのものが攻撃性を持つなんていうとメルロポンティのようだが、そういう風な形でなくタトゥーやインプラントが一般的になって、なおかつブルーカラーだけでなくインテリゲンチャにまで膾炙する日が来ることを、いや膾炙することを願っている。この文章は願いであり、祈りだ。タトゥーを入れたいが社会的状況で入れられないという人々(僕もそうだ)にどうか届いてほしいな、と思う。

エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』(1991) 感想


映画 『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』 予告編

 感想を書く前に、苦言めいたものをひとつ。自分はこの映画をアップリンクで観たのだが、(まあ分かってるならユジク阿佐ヶ谷で観ればよかったじゃねえかという批判は置いておいて)アップリンクという映画館はあまりにも音が悪過ぎると思う。劇伴はもちろんのこと、効果音も映画を構成する極めて重要な要素である訳で、前回アップリンクで観た『少女椿』(これは映画もちょっとどうしようもない程の駄作だったのでどうでもいいのだが)でも思ったことだが音が全体的にこもっていて鮮明さに欠ける。イメージフォーラムの1Fも大概ではあるが、あんなしょぼい音では映画も報われないだろうという気がしてしまう。それがこの『クーリンチェ』のような作品ならなおさら感じられてしまい、つくづく公開時の角川シネマ等で観なかったことを後悔した。上映前の機材トラブルのせいではないでしょうよ。

 

 フランス文学家(この肩書きは重要である)の蓮實重彦は、自らが映画を論じることは「運動の擁護」であると言った。スクリーンに光を「投じる」という運動によって映画が始まるその事実が示す通り、映画が映画として立ち上がるそれ以前から運動は映画の宿命として背負われるべきものだろう。況やスクリーンの中についてをや、である。そして、それを語ることによって「擁護する」ということ。世界の耐えられないほどの醜悪さによって、ひとつの夢の装置であり、現実から飛び立つ契機であり、またもう一つの「現実」である映画が傷つけられてしまうことを言葉によって守り抜く行為こそが、「運動の擁護」なのではないか。そして、『クーリンチェ少年殺人事件』は、どのような人々によってであれ、擁護されねばならない運動である。

 権利関係など様々な事情によって日の目を見ることが他のヤン作品に比べて大きく遅れをとったこの作品は、昨年の東京国際映画祭でようやく数多の問題をクリアして公開された。観客たちは口を揃えてこの作品を絶賛した。実際、自分の身の回りの映画オタクに聞いても、一切の否定的な言辞がないことには驚いた。しかし、その鳴り物っぷりに対する畏怖なのかどうかは知らないが、ここまで絶賛されている映画にしては妙な違和感があった。Twitterを始めとするSNSや、雑誌などのあらゆる媒体を見ても、この映画は語られようとしないのだ。初めは「言葉が出ないくらいめちゃくちゃにスゴい映画なんだろうな」という程度の考えだったのだが、それにしても気持ちが悪いほどに、この映画について語られることは、少なくとも自分の目にする範囲では無かった。長尺で情報量があり過ぎる上にソフト化されていないから?(見るに耐えない画質のVHS版はあるものの)いや、それでは濱口竜介の『ハッピーアワー』やパトリシオ・グスマンの『チリの闘い』についての説明がつかない。『シン・ゴジラ』のエントリにおいて、庵野秀明の作品には何かを語らせずにはおかない磁場が発生していると述べたが、『クーリンチェ少年殺人事件』においては、何も語らせない磁場が映画そのものから発生しているのではないか。であるならば、『シン・ゴジラ』の磁場に従順であったこととは逆に、『クーリンチェ』の磁場にはしばし抗ってみようと思う。

 

 この映画は、我々の目の前で2回変貌する。1回目は画面構造において、2回目はドラマトゥルギーにおいてである。全体を通して、ヤンのキャメラは違和感を覚えるほどに均質かつ完璧だと言える。光と闇をここまで符牒的に用いた作家はかつていなかっただろうし、クロースアップを用いずにひたすらミディアム/ロングショットのみで、かつ一つ一つのショットが審美的でありショット間の結びつきはこれ以外の組み合わせが考えられないというレベルで緊密だ。その極度に緻密な映画的空間では、映画自身が遂げる2度の「変貌」すらもその緻密さのうちの一つであるかのように思えてくるのが恐ろしい。

 

 1回目の変貌は、不良グループ・小公園の縄張りに小四と小明が二人で入ってしまうところにおいて起こる。その箇所に至るまで、ショットの焦点は決して中心に合うことがない。冒頭、暗闇の中で白熱灯が煌々と灯され、真っ赤に画面が染まっていく衝撃的なタイトルバックでこの映画は幕を開けるが、その白熱灯は寄る辺無くブラブラと吊るされていることをはっきりと我々は覚えてしまう。冒頭からその訓練場のシークエンスまで、独特の焦点のズレがもたらす奇妙な感覚を我々は味わい続けることになる。というのは、スクリーンの中央付近に物体があれば、観客の視線はそこに行くことになるし、事実その無意識の視線の動きを利用してショットは構成されることが多い(シンメトリーの構図は中央から左右対称であるが故に審美的である)。しかし、観客の生理に反するように、ヤンの取る構図は中心を奪われているが故に奥行きを持たず、結果的にショットはタブロー的な平面さに支配される。小四と小猫王が教室で隣同士に座っているショットは何度か出てくるが、この物語の主人公である小四が「中心にいない」という(こういってよければ)ある種の欠如は象徴的である。また、主人公が中心から「いなくなっている」、というよりは予め中心という「場所そのものが欠如している」という事実を上記のショット以上に端的に示すのは集合写真のシークエンスであろう。あのショットが持つ不穏な感覚と奇妙なすわりの悪さは、全員がキャメラの方を向いているのにも関わらず観客がどこを観ればよいのかが分からない(=中心が欠如している)という事態に依っている。その結果観客はスクリーン全体を観るように誘導されるが、そうやって見られる「全体」の感覚は視線の仮託先を失っているが故に常に浮遊感を伴う。

 しかし、その欠如として予感されていた視線の中心は、訓練場のシークエンスにおいて適切な形で獲得される。その地点に至るまでいわば「目を慣らされていた」観客は、ロングショットで捉えられた兵士(?)たちが点々と散っているショットを目にしても驚かないが、彼らが画面の中央に向かってぎっしりと集合していく運動には目を見張ってしまう。左側から自転車を押す小四と小明がカットインしてきて、中心には辿り着かないだろうと思いながら観ているとあっさり中心に辿り着いてしまってぎょっとする。ミディアム/ロングショットの両方において決して視点が定位することがなかったこの映画は、当場面において同じく両方のスケールのショットが徐々に中心を獲得することによってじわじわと「変貌」する。これ以降、構図は中心を失ったり取り戻したりしながら、映画全体の緩やかなダイナミズムを構築していくことになる。小四が暴力を行使するのもこのシーンが初めてであるが、この中心の獲得による変貌を小四の「世界」の変貌だと言っては穿ち過ぎだろうか?だが、この映画のテーマが「世界の持つ不条理はとりもなおさず愛が挫折することの不条理」ということである以上、小四の「世界」はここで中心を獲得する=小明と本当の意味において出会う(正しくは本当の意味で出会い損ねているのだが)と言ってもよいのではないか。

 

 第1の変貌、即ちこの映画が中心を獲得して以降、完璧な精密さによって映画は進行する。特に、山東のアジトが停電した際に灯される蝋燭の光の透明感であり、また同じ場所で山東によるハニー殺害後の討ち入りが行われた際の暴れ回る懐中電灯の光線の鮮やかさは多くの人の心を掴むに足る部分だろう。この光の精密な操作は多くの映画的記憶を喚起してやまないが、とりわけスタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を観たことがある人ならば誰でも、あの映画における蝋燭の光を『クーリンチェ』に思い出させられるに違いない。と同時に、この若干異常な尺を持つ映画の均質なまでの完璧さに、どこか違和感を感じたのは自分だけではないと思う。ドラマティックでない訳ではないし、さらに言えば間然とするところが一切ない。しかし、その穴のなさがどこか奇妙である…。この奇妙さについて思い起こされるのは、やはりキューブリックなのである。この映画におけるヤンのスタンスとキューブリックのそれに共通して言えるのは、観客に安易な感情移入を厳しく禁じている点である。観客がなぜ映画を観て涙したり楽しい気持ちになったりするのかというのは、つまるところ(主人公に)自らの気持ちを重ねられるようにその映画が出来ているからだ。かなり単純に言い切ってしまったが、その手法はさまざまである。視線の切り返し、劇伴音楽による感情の起伏、あるいはもっと直接的なものとしては台詞やナレーションなど、挙げ出したら切りがない。加藤幹郎風に言ってしまえば、観客は映画の中の主人公を「ファントム・ライド」(分かりやすい例で言えば東京ディズニーシートイストーリーマニアで皆が乗るアレ)として映画を(通俗的な次元において)疑似体験することができる。ヤンとキューブリックの共通点であり、彼らの映画が異質であるとするならばその部分である。つまり、彼らは決して観客を映画内の人物に引き込むことなく、しかし説話論的構造の明快さを失うことなく映画を完成させてしまっている。観客は彼らの映画の登場人物に完全に自分たちの感情のバイオリズムを一致させることがどうしてもできない。何故ならば、キャメラや音楽、台詞といった通常観客の感情のバイオリズムと映画のテンションを一致させるための装置が、意図的にそれらの役割を脱臼させられてしまっているからだ。さらにヤンはキューブリックよりも厳しい形で、つまりショットから自明のものとしてあったはずの「中心」を剥奪することによって一層観客を遠くへと突き放しているのである。もうひとつ言うならば、キューブリックの映画の中で登場人物たちのエネルギーが高まっている場合、キャメラの動きや音楽(効果音も含む)は比較的素直な形で比例してダイナミックになる。ところが、ヤンの場合はそれすらも均質である。この映画はハニーの死亡によって小明の感情の行き場がなくなるあたりから小四自身、また小四の家庭や小馬との関係が段々と狂っていくのだが、漫然と観ているとそのことにすら気づくことができないのではないか。明らかに狂っているはずなのに、何も起こっていないかのように見えるという気味が悪いほどのスタティックな感覚は、キューブリックにないと同時にヤンにのみ見られる作家性だろう。

 

 そのつるりとした完成度で淡々と進んできた映画は、小馬と小明の関係を小四が知るラスト20分において破調を迎える。この破調こそが、この映画の第2の変貌である。夜間学校を度重なる素行不良で退学となり、想いを寄せていた(ここはこの言葉では明らかに言葉足らずなのだが)小明にも裏切られ、小馬を殺害するべく短刀を持って待ち構える。そこに小明が意図せずして現れる。小四は言う。

「君の世界は僕が照らしてみせる」

ブラスバンドの練習中の教室で小四が小明の肩を掴んで絶叫した言葉を、もう一度静かに繰り返す。このどこまでも静かで満たされた映画において、本当に数少ない破れかぶれの言葉である。あなたの「世界」を、私の「世界」によって変えることができると信じること。別々の「世界」が、もしかしたら繋がるかもしれないとどこかで予感し続けること。それは、愛でなくてなんであろうか。愛するということの切実さを、青いままに小四は小明に繰り返す。しかし、小明はそのことを信じていなかった。

「言ったでしょう?社会は変わらないのよ。あなたも私を変えようとしていたのね。あなただけはそうじゃないと思っていたのに。」

この映画のテーマが「世界の持つ不条理はとりもなおさず愛が挫折することの不条理」であると上に書いたのは、この小明に集約される。小四にとって、照らされるべきは小明の世界ではなく、小四自身の世界であった。小四は小明に「出会う」ことによって、確かに彼の世界は照らされたのだった。しかし、その光源は自明なものではなかったし、小四は小明に出会っていたのではなく「出会い損ね」ていたのである。小四にとって世界が不条理であるのは、愛するという切実な世界の変容の可能性が常に挫折してしまうことだったという事実は、あまりにもドラスティックだった(「光源が失われる」という運動については蝋燭の火の吹き消しの反復、懐中電灯の明滅、そして教員室の白熱灯破壊によって象徴的に示されている)。その結果として、小四は小明を短刀で突き殺す。端正さを保っていたこの映画の最後の20分間は、そのエンドロールまでそれまで押さえていた感情が抑え切れず漏れ出すための20分間として用意されている。小四は暴れ、父はマスコミに揉みくちゃにされ、小馬は小四を「唯一の友達だった」と言って嗚咽する。そこで鳴り響く讃美歌は、なんと皮相で、なんと誠実に聴こえるだろうか。はっきり言って、その破調、感情によるドラマトゥルギーの大どんでん返しとして、わざとらしいほどに完璧な幕切れである。

 

 …と、この映画が見せる劇的な2つの「変貌」に的を絞ってこの映画がいかに「完全」であるかを強調してみせたものの、観終わったあとに疑問、あるいはわだかまりのようなものが残る。世界の可塑性を信じるという意味での愛(人を殺してしまうほどの!)という、焼き切れそうなほどに切実なテーマに対して、この映画は果たして「完全」であるのか?と。夢の装置としての、あるときは現実を越えるもう一つの「現実」としての映画は、ときには夢や現実以上にいびつでなければならないのではないか。その破調に至るまでが計算され尽くしている緻密さに舌を巻くことは映画的な快楽には違いないが、観る者の人生に食い込み、もしかしたら映画のせいで人生が台無しになってしまうかもしれないといったような、作り手の意志を越えて映画そのものが暴走してしまうような、そういう彼岸に連れ去られていくような感覚を、果たして『クーリンチェ少年殺人事件』という映画は持っていたのだろうか。この映画に対して語ることをやめるということは、そのような問いを提起せずに、『クーリンチェ』という映画の持つ可能性を封じることになってしまう恐れがある。この映画のある種の「語らせなさ」は、その完璧さ、完全さに多くを負うところがあるのだろう。しかし、しかし、映画とは、もっと狂おしいもので、もっといびつなものであってほしいのだ…と、声にならない声で映画(と世界)に渇望することが、恐らくこの伝説と化した映画の持つ重みを直接に引き受けることなのだ。それはちょうど、大人たちに羽交い締めにされながら映画から退場していってしまった、あの小四のような態度であるのかもしれない。

自分語りは哲学に先立つか

言葉においては私たちは、私たちにとって重要なものを把握することができない。

…この困難に対して、大多数の人間は無関心だ。

生がそれ自体で問いになっている場合、この問いに答を出す必要はない。この問いを提起する必要さえない。

だが、一人の人間がこの問いに答を出さず、自分にこの問いを提起すらしないという事実は、この問いを排除するものではない。 (ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』)

 

 接客業のアルバイトをしていると、客に「大学で何の勉強をしているの?」と聞かれることがある。文学部で哲学をやっていますと答えると、「俺/私の哲学は…」と、いわゆる「オレ流」の「哲学」を開陳されることは多い。そういうときにいや哲学というのはですね、などと長演説を負けじとぶったところで、こちらが得るものはない。そもそもあちらは金を払って気持ちよく酒を飲みに来ているのだから、ああ生きることが楽そうで本当に羨ましいですね、などと思いながら相槌を打つ以上のリアクションはしなくてよいのである。

 しかし、まあ、だからといって哲学が何たるかを自分が分かっている訳ではない。真善美とは何か?人間の認識の限界は?なぜ存在するのか?…強いて言うのであれば、そのような「問い」の無限の反復が哲学なのだろうか。これもまた問いであるが故に、哲学と言えるのだろうか。終わりの見えない、異常に分厚い哲学書(これを僕はよく「殴ったら死ぬ本」とか「物理的に殺せる本」とか言うが)のページを四苦八苦しながら手繰っていると、よくそういうことを考える。

 

 バタイユが提示する言葉と生の関係性における「問い」のあり方は、少なくとも哲学書とやらを多少なりとも読む人間にとってはかなり生々しい。何が生々しいのか。それはつまり、自らの、他ならぬ(という言い回しを哲学ではよくする)生を語ることが、どこまで「問い」として普遍的に定立しうるのか、という可能性について、バタイユはっきりと言及しているからだ。というか、人間が生を語るとき、それはどこまで言っても「私」の生に他ならない。じゃあ、お前の生を語ることによって、何が普遍性を持って「問い」として現れるんだよ…?

 

 ここで、哲学を少なからず学ぼうとする学生は、ひとつの倫理的な葛藤を経験せざるを得ない。どこまでが「自分語り」で、どこまでが「哲学」なのか。もっと言えば、自らの生の実感と地続きで語ることと、エヴィデンシャルで教条主義的な学問として論じることの、どこにおいて「哲学」とやらが現れるのかという際限のない不安に駆られることになる。上にも書いたが、生きることそのものと生きることを語ることに、普遍性はないというか、普遍性を持つことができない。生の体験は、限りなく個人的なものとしてしか語ることができないからだ。だが、それでは哲学において立てられて来た問いなるものの意味が、もはやその個人性の前で脱臼され、なすすべもなく無力化されてしまうことは明らかだ。だからこそ、「私」や「僕」ではなく「われわれ」、そこにおいて個人性が開かれることはない論理的主体としての、いわば空虚としての1人称複数が、普遍性を保証するために立ち上がることになる。どこに立ち上がるのか?それは即ち、論証と文献学的なドグマに基づいた、researchとしての「学問」とやらのフィールドにおいてである。そこではあらゆる相対化された生の語りが、「われわれ」という、言ってしまえば奇妙な意志なき主体によって語り直される。そうなると、個としての「わたし」は迷子だ。かけがえのない生を生きて、それを語ろうとした「わたし」は、「われわれ」に押しつぶされそうになる。そして、そのギリギリの逼迫した戦いにおいて、ようやく(いつの日か)「オレ流」ではない哲学が姿を現すことになるのだろうか(ここでもエクスキューズをせざるを得ないところが難しいところだ)。

 

 言ってしまえば、19世紀末で主体の代替不可能性をベルクソンが強く主張することで、それまで哲学において支配的だった神の概念は事実上ほとんど解体され、ニーチェで神と主体としての人間の関わりのようなものはとりあえず消滅する。すると、今度はこの世界にいるこの私、みたいなものが問題化されてきて、私以外の何か、つまり他者とやらがそれはもうもの凄い脅威として立ち現れてくる。だって、私を確実に定義するよすががもはやないどころか、私を私でなくするような存在に気づいてしまったら、それは恐怖でなくてなんだろう。そこで、主体は主体を記述することで、哲学の問題は「われわれ」から「わたし」へと横滑りしてゆく。でも、それって学問としてアリなのだろうか。それは、お前の「ねえ聞いて!かくかくがしかじかでオレは生きづらくって…」という愚痴なのではないか。それを普遍的に思考する体系を、主体を語る主体はどこかで保証しなければいけない。その保証はドグマティッシュなものでしか為され得ない。しかしドグマティッシュであるあまり「わたし」がいなくなってしまうのは怖い…。こうして、主体を語る主体は、自分語りと学問のはざまにあるはずの「哲学」を獲得する強度を語りそのものが持たない限り、どこかで溺死するハメになる。だからこそ哲学は、おいそれと「オレ流」にしてはいけないのである…。

 

 何故突然こんなオチのないエントリを書いたのかというと、最近自分の問題意識と知的好奇心にズレが生じて来ているなと思った矢先に同じことを考えている人とこういうことを話したからだ。言ってしまえば、文学は(それこそバタイユも言う通り)悪さえも本質として孕み得る。しかし哲学は、善く生きようとする意志によって書かれ、また語られる。ではそこにおいて、生々しい生の実感とエヴィデンスによって保証された学問的論証は、果たして哲学においてどこまで可能になるのか?まあ、結局折り合いでしかないような気もするのだが。

今年読んで面白かった本5選

初めに断っておくが、自分はそんなに読書家という訳ではない。どちらかといえば音楽や映画の方が好きだし、何より本を読むという行為には体力と余裕と時間がいる。…というのは読んでない人間の言い訳に過ぎず、いわゆる「本の虫」と言われる人たちというのはそういうのを度外視して(自分が音楽や映画を聴いたり観たりするように)本を読んでいるのだろう。多分。

しかし、まあ個人的には本を読む機会に恵まれた年だった。年間100冊(数字でマウンティングをするのは端的に言ってバカのすることだが)とか読んだわけではないにしろ、面白い本との出会いは多かった。あと偏りなく色々なジャンルの本を乱読できたというのもある。去年は西村賢太ミシェル・ウエルベックばっかり読んでいたので、今年は目についたものだったり、人に貸してもらったものだったり、古本屋で何気なく手に取った一冊だったり、そういうものを読むことによって視野が広がる(広がった気になっているだけかもしれないが)のは率直に良いことだと思いたい。という訳で、10冊も選べるほど読んでいないので、とりあえず5冊。なお順位付けはない。自分がその本を読んでいる過程で色々なことを考えたり、単純に感動したりしたものを適当にピックアップして、一応年度末っぽいまとめということにする。そう、既に今は年度末、年度末なのである…。

 

レイモンド・チャンドラー/清水俊二訳『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))
 

 いわゆるアメリカのハードボイルド小説と言われるジャンルの名作をこんなところで今更取り沙汰するのも気が引けるのだが、村上春樹の新訳も出てることだし、あえて清水訳のチャンドラーを挙げるのも別に不自然ではないだろう。硬質な文体とテクニカルな場面の移り変わりは職人芸だし、サスペンスのお膳立てはまあ予測がつくっちゃつくのだが、作品の美しさを損なうものでは全く無い(そもそもクリスティやカーのような「びっくり芸」をチャンドラーはしたい訳ではないのだし。「びっくり芸」を否定したい訳ではないが)。何よりフィリップ・マーロウという人物像への憧れを抱かない男がいるのかというぐらいにここで描かれるマーロウはカッコいい。ヤクザじみた探偵業をこなし、チンピラをボコボコにし、女を無碍にフるフィリップ・マーロウをときに冷徹な視点で見据えながらも、最後は男達の友情というやや前時代的なテーマに物語を着陸させてしまうチャンドラーは、今風な言い方で言えばポリティカリー・インコレクトなのかもしれない。でも、それがなんだと言うのだ、と言いたくなる力強さと瑞々しさが、この小説には漲っている。というかポリティカリー・コレクトな文学って文学なのかよという気がするのだが。今年出た蓮實重彦『伯爵夫人』だって極めて知的な語りの構造を持った「文学」でありながらも、表象的に依拠するテーマはシモだったり戦争だったりするのだ。『長いお別れ』は、そういう「正しくなさ」をある種のマッチョイズムと少しのリリシズムで、読み手を唸らさずにはいない傑作なのだ。

 

アンドレ・ブルトン狂気の愛』(光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

狂気の愛 (光文社古典新訳文庫)

 

 白水社の『ナジャ・通低器(ブルトン全集1巻)』と迷ったが、こちらにした。ブルトンといえばシュルレアリスムの旗手として有名だが、初期バタイユマンディアルグアラゴンなどと決定的に違うのは、彼が文章を書く上でのテーゼは初期の『シュルレアリスム宣言』や『ナジャ』などから一貫して変わっておらず、それは「タブー」という既成概念の壊乱装置を用いることなしに、詩的言語や彼の豊かな知識によって「言語によるイメージ(非ベルクソン的意味合いでのイマージュと言った方が正しいかもしれない)の変容」を試みたという点だ。全7章からなるこの書物は、1〜6章まではその試行錯誤が行われる。特に第1章では「ベンチに並んだ7,9人の女たち」に「最後に愛した女」の顔を確かに書き手(≒ブルトン)は見るし、3章は「言語によるイメージの変容」が最も分かりやすい形で表れている。4章はこの書物の中核をなす章で、自身の詩である「ひまわり」をブルトンが愛したジャクリーヌとの出会いの予感として、過去時制的に自己解釈する手つきは白眉と言える。だが、『狂気の愛』がなぜ異形であり、この本が「小説」とか「思想書」とか「詩」とくくれず、「書物」と言うしかないのかという理由は、その最終章にある。即ち、ブルトンの娘であるエキュゼット・ド・ノワールに向けて書かれた「手紙」なのだ。ブルトンはその章を、そしてこの小さいながら恐るべき書物を、こう閉じる。「あなたが、狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」と。「愛する」ことについて試行錯誤を重ね、それを記述することに全精力を傾けてきたこの本は、最終章のあまりにしょうもなく、人間臭く、しかし切実な「願い」の告白によって突如終わってしまうのである。立木康介は『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(水声社、2016年)の中でラカンの読解をもとに、この『狂気の愛』のなかで起こるまさに「狂気の愛」は、対象(女たち)をブルトンの記述の中で<物>へと釣り上げることであり、その発想の根源をトルバドゥール的な「宮廷愛」に見出すという卓抜な分析を行っているが、ではなぜ最終章にこの手紙が置かれねばならなかったのか。なぜブルトンはこの本を『ナジャ』の挑戦的な変奏曲として締めくくることを許さなかったのか。その点については、少なくとも立木が述べる上でのラカンブルトン解釈は突っ込んでいない。自分は、やはりこの本が「狂気の愛」たり得ている所以は、まさにその愛についての詩的、文献的考察を経た上で「手紙」へと愛のエクリチュールが脱臼してしまう、その逸脱のプロセスにあると思うのだ。だからこそ『狂気の愛』は切実な「書物」となっているのだし、その点を踏まえてより深く読まれる必要があるとさえ思う。順位はつけないと言ったが、自分にとって2016年を代表する本を一冊挙げろ、と言われたら間違いなくこれにするだろうというレベルで面白かった一冊。

 

福永武彦『愛の試み愛の終り』(人文書院

愛の試み愛の終り (1958年)

愛の試み愛の終り (1958年)

 

 近代日本文学は太宰や三島、漱石など数え上げるまでもなくスターが目白押しであり、また私小説の分野でも梶井や中島など凄まじい筆力で自らの人生の軌跡を絞り出したような面々が勢揃いしている。その中で言うと、福永は少し分が悪いかもしれない。何せそんなに多くの小説を書いている訳ではないし、その筆の運びに上に書いたような人々の、ある種切羽詰まったような大文字の「文学」の息苦しさがあまり見られないような作家ではある。が、彼ほど愛についてリリシスティックな筆致で述べることのできる文学者、あるいは小説家はいないのではないかとさえ思う。自我について書くときでさえ、福永は抒情を忘れない。『草の花』における主人公、汐見茂思のモノローグは、そのテーマだけ見れば生臭く、自我と愛(自己撞着的な愛)について葛藤しているという意味でエキセントリックになってしまうかもしれないが、福永はそれを「主人公の遺書のノート」という形で語りを二重化した挙げ句、男と女の両方を愛して「しまう」という対象の二重化を行うことによって、ギリギリの線でリリシズムに留まる。それはロマンティシズムでもアルカイズムでもない。この本は、そのような形で物語を書いてきた福永の思想を述べたもので、自分の小説のネタバラしみたいな部分もある。ともかく福永は、愛は孤独なものだ、と繰り返す。互いが互いを浸食することは、愛ではない。孤独な魂が、出来るだけそのままに寄り添い合うことが愛なのだ、と。その静謐だが情感に満ちた愛の讃歌は、どこか上述のブルトンを思わせないでもない(これは余談だが、粟津則雄が福永にブルトン全集を献本していたという事実は見逃せないだろう)。「愛は決して終らないだらう」と、ある部分で福永は言う。「だらう」とあえて言い切らないところに、福永の抒情がある。しかし、「決して」なのだ。このことあらわしにこそ、福永武彦という人間が愛にどう向き合ってきたか、即ちそれは常に予感されながらも(疑いと言ってもいいかもしれない)、「決して終らない」と言いたいという願いが表れていると言ったら、言い過ぎだろうか。現在は『愛の試み』だけが抜粋されて文庫化されているが、人文書院のこの版は末尾に愛についての短編が収録されている。福永の思想の文学的実践を辿るにはもってこいだし、この短編があることによってより彼の思想の理解が深まる。まとめて文庫化されるべき一冊だと思う。

 

金森修バシュラール 科学と詩』(講談社現代新書

 

バシュラール―科学と詩 (現代思想の冒険者たち)

バシュラール―科学と詩 (現代思想の冒険者たち)

 

 フランスの哲学というと、やはり今でもいわゆる「現代思想四天王」が幅を利かせている。即ちフーコードゥルーズデリダラカンの四人(今勝手に命名した)だが、どちらかというと自分はそれ以前のフランス思想史に惹かれる。デカルトはとりあえず置いておくとして、例えばドゥニ・ディドロの思想は18世紀という時代において少し拾い読みするだけでも明らかに異形かつ横断的だし、この本でも紹介されるオーギュスト・コントや、さらにはその後に出てくる(そして11月〜12月にかけて死ぬほど読み込んだ)アンリ・ベルクソンという巨人なしには、上に挙げたようないわゆる「ポスト構造主義」の人々はなかったし、彼らの思想は概観するだけでも(というか今は概観しか出来ていないが)面白い。そして、その丁度中間地点において、ある種奇形的とさえ言えるような思想を形成したのがガストン・バシュラールという科学哲学者である。金森の良いところは、バシュラールを専門にしていながらも肩入れし過ぎておらず、例えばあまり有名ではないこの思想家の唯一著名な(とはいえ哲学を少し齧っていないと名前も聞かないだろうが)「<現象学的転回>による詩学」(例えば『空間の詩学』)という晩年の試みははっきりと「失敗している」と言っているところだ。金森が自分は少なからず科学史家・科学哲学者である、という自分のポジショニングを明確にしてもいるのも好感度アップだ。バシュラールに話を限ることなく押さえておくべき(というかフランスの科学哲学史を少しでもやる上で)なのは、いわゆるカントに端を発するドイツ観念論における「認識論」とフランス科学哲学の分野において用いられる「認識論(エピステモロジー)」は全く違うということだ。エピステモロジーは(バシュラールが距離を取りながらも親近的な概念とした)数学的実在論に根ざしており、これは「現象学」というタームにおいても同じことが言える。バシュラールは、現象ないし存在を反実在(実存ではない)と位置づけ、その反実在から我々の「物質的想像力」というものが喚起される、と説いた(らしい)。それがもっともよく表れているのは『水と夢』とのことなので、年明けには読みたい。また、『瞬間と持続』というベルクソン的な表題の論考で思いっきしベルクソンを叩いているというのも興味深い。なんだかんだ一番がっつりこの一年で勉強したのはどういう巡り合わせかベルクソンだったので、ベルクソンに軸を取りつつバシュラールも勉強していければいいなと思う。唯物論的観点もあるのでディドロも読みたい。心配なのは弊学にフランスの科学哲学を専門としている人がいないことである…(分析哲学の教授につくしかない気がする)。

 

・三秋縋『恋する寄生虫』(メディアワークス文庫

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

 

 最後にこういう本を持ってきて「僕は文学も哲学も読むけどこういうの読むんでっせ、サブカルにも理解あるやろゲッヘッへ」という真似をしたいのではない。そもそも自分の初めての読書経験は『涼宮ハルヒの憂鬱』だし小学生のときは西尾維新を狂ったように読んでいたので全く不自然ではないのである。まあオタクということなのですが。三秋の文体は読みやすいが、ラノベにありがちな一人称視点による口語のイヤな感じはなく、三人称視点を取ることによって語りの美しさを損なわずに済んでいる。ラノベを真面目に考察するようなのは他の人がやっていると思うので改めて真面目にこの本を考察しようとは思わないが、この三秋縋という筆者が生半可な知識や薄い教養で本を書いているのではないということは切実に伝わってくる。寄生虫が宿り主に恋を「させる」と思わせておいて実は、とか、寄生虫がいるかどうかは恋をするということに関係するのかとかといった部分は寄生虫についてのリサーチもさることながら、何やらワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』における「媚薬」の役割をこの作品では「寄生虫」が担わされているかのように見えることで、そのような「厚み」があるからこそ、重くはない文体によって、しかし軽薄になることなくまとめあげた物語だと思った。

 

5冊取り上げるだけでも結構な量になったしもう大晦日になってしまった。他に迷った本としてはアンナ・カヴァン『氷』、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』、谷川俊太郎『私』、ヴィルヘルム・イェンゼン/ジークムント・フロイト『グラディーヴァ/妄想と夢』、などがある。来年はもっと本を読みたい、というか読みさしの本が何冊も積み上がっていて、手のつけようがない状態なのである…(勢いで買った筑摩の世界文学体系のマラルメランボーヴェルレーヌ選集とか読み切ろうという気すらないし)。恐らく今年の読み納めは立木の『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』の終章を読み切っておしまいだろう。明日(というか今日)はできればFate/GOの7章クリアに時間を当てて大晦日TVスペシャルに備えたいのですが…(オタク)。

何はともあれ、皆様におかれましては、よいお年を。

A.P.D.マンディアルグについて

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、という作家がいる。20世紀フランス文学において、主にシュルレアリスムという文学の潮流において活躍した作家、と言われている。アンドレ・ブルトンロートレアモン(「手術台の上でのこうもり傘とミシンの出会い」は有名だろう)、トリスタン・ツァラといった面々と比べると、少々マンディアルグの知名度は落ちるかもしれない。

 

自分語りになってしまうのを承知の上で書くが、シュルレアリスムとの付き合いは個人的に長い。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』という作品に出会ってからというもの、マンディアルグはもちろん、アルトーアラゴン、上に挙げたような作家の作品は比較的好んで読んできた。彼らの作品に通底するのは、「タブー」とされているもの―糞便、性行為、血液など―を「語りなおす」という試みだ。しかも、それらは多様な概念とまとわりついている。例えば上のバタイユ眼球譚』ではそのようなモチーフが幾度となく反復されるし、それに加えて「目」、つまり意識の所在というテーマが通底しており、そこに更に「父親」や「教会」といった権力の表象がいずれも象徴化され、それらが上に挙げたような「タブー」によって壊乱される。これは同じくバタイユの『空の青み』でも「教会」のモチーフは登場するし、そこにフランスの政治の歴史(アンシャン・レジームなど)が絡んでくる。重要なのは、いずれもそれらが「タブー」のモチーフを伴って繰り返されている(あらゆる文学者たちによって)、ということだ。アントナン・アルトーヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』はその顕著な例(古代ローマにおける属州シリアの太陽信仰と「血と糞便と精液の中で死んだ」ヘリオガバルスについての語りが交錯しながら進行する書物だ)と言えるし、ルイ・アラゴンの『イレーヌ』は原題のLe con d'Irene(生田耕作が訳すところによれば「イレーヌのおまんこ」とのこと)から分かるように、まあシュルレアリスムの「タブー」とそれにまつわる多様な「既成の」概念の壊乱、という文学的実践はいたるところでなされていた、ということだ。

 

マンディアルグにも、その例外でない小説がある。『城の中のイギリス人』という作品で、まあこれがとにかく酷い(ほめ言葉)。エロ、グロ、ナンセンス、その他もろもろの酸鼻極まりないSM描写や性的倒錯の表現の満漢全席で、バタイユを読んだ後にこれを読んだものだからマンディアルグ=シュルレアリスム文学の中でもひときわ頭がおかしい奴、という印象だったのだ。マンディアルグの文体は独特で、例えばブルトンはイメージの変容とそれを言語化する際の心的過程を詳細に記述していくし(『狂気の愛』における3~4章が好例だろう)、バタイユは過激な描写においてそれが現出する「場」、つまり教会であったり家庭であったり「路地」(シュルレアリスム文学において「路地」という場が「隠される空間」として機能しているのはロートレアモンの詩を見れば明らかだし、マンディアルグにも『ポムレー路地』という散文詩がある)であったりして、それを壊乱する装置として「タブー」、つまりエログロナンセンスといったような要素が周到な計算によって挿入されるのだが、マンディアルグの場合はそうではない。彼の場合は空間の描写の連鎖、つまりその環境がどのような色彩と形を持っているのか、という部分に焦点を絞って、きわめてそれが遅延的な筆致によって描かれる。そして、『城の中のイギリス人』はその「色彩と形(イメージ)によって<それ自体として描かれる>エログロナンセンス」の書物である。つまり、壊乱されるべくして壊乱される桎梏がこの本の中には存在していない。というより、壊乱のみがそこに在る、と言ってもいい。だからこそ、この『城の中のイギリス人』はシュルレアリスム文学の中でも屈指の異形な光を放つ奇書である、と言われて然るべきなのだろう。

ところが、先ほど読み終えたマンディアルグ『海の百合』は、そのような「壊乱のための壊乱」はない。それどころか、ポール・ヴァレリーステファヌ・マラルメといった先人の詩人たちの実験性や意欲的な実践を引き受けつつ、シドニーコレットの『青い麦』(というよりも『海の百合』と『青い麦』は「貞淑の喪失」という意味で反転の関係にあると言ってもいいぐらいだ)的な、むしろ『ダフニスとクロエ』的なアルカイズムさえ漂わせるような、いかにも「フランス文学」の知性と詩情を持った作品なのだ。しかも、主人公であるヴァニーナの処女を奪う「若者」の名前が最後まで分からず、しかしそのことはヴァニーナにとって意味を持たない(<ただひとりのアノニマス>を愛するという神秘)という事実は、何やらかのワーグナーのオペラ『ローエングリン』を想起させるところもある。訳者の品田一良も言及しているが、ここにはドイツ・ロマン主義的なイメージも確かに存在しているのである。

この二面性が、恐らく20世紀の終わりまで生き、シュルレアリスムという文学的実践に身を投じたマンディアルグという作家の「謎」であるのだろう。 つまり壊乱を壊乱として、一種の文学的暴力を発動するマンディアルグと、文学の持つ歴史性に目を向けながら、詩情と言葉による知性をイメージの連鎖によって紡いでいくマンディアルグ。この感想文に特にオチはないし、そもそも自分は哲学科に進学する予定なのでマンディアルグについて専門的な知識を深掘りしていくつもりもないが、恐らく『城の中のイギリス人』の冒頭に掲げられた一文が、そのままこのマンディアルグという作家の運動について言及されているように、『海の百合』を読んだ今、そう感じざるを得ないのである。

 

この書物は闘牛の一種と思っていただきたい。(アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』)

「ストリップ劇場」論序説に対するごく短い補説

lesamantsdutokyo.hatenablog.com

 上記のエントリでは書き切ることが出来なかった(そもそも「序説」であるのだから)が、ある興味深い指摘があったのでここでわずかばかりながらその指摘について触れてみたい。すなわち、「劇場」という場の生起である。

 演者を括弧に括った上で、ストリップ劇場という「場」は明らかに他の「劇場」と比べて異質である。いや、異質、というのはやや違うかもしれない。それは例えば、アイドルのライブなどと近いものがあるからだ。それらを紐帯するものは観客間で行われるコミュニケーションである、とひとまずは言うことができるだろう。

 しかしアイドルのライブにおいて起こるコミュニケーションが極めて内輪(「ヲタク」同士のもの)であることに加え、そのコミュニティ外で行われるコミュニケーションは事務的とさえ言えるからだ(この子の握手列はどこでしょうか、など)。アイドルのライブに行かなくなって久しいが、それは皮膚感覚として、確かに横たわっている(語弊を恐れず言うならば)「よそよそしさ」だ。

 ストリップ劇場において生起するコミュニケーションは、無論「ヲタク」同士のコミュニティも存在していない訳ではないが、劇場外のロビーで行われる「見知らぬ人同士の」コミュニケーションが極めて活発であるということだ。例えば、こんな風に。

 

―今日は混んでいますね。公演時間も45分近く押しているんじゃないですか。

―今日の○○さんは道劇(道頓堀劇場)出身でねえ、今日が引退公演なんですよ。目当ての子はいますか?

―ええ、六花ましろさんです。撮影時間のときに見て、とてもいいなと思いました。

―ましろさんですか、目の付け所がいいですねえ。さわやかで、よく鍛えられていて……。でも、彼女は厳しいんですよ、礼儀に。

―そうなんですか。とてもそうは見えませんが。

―それはもう。私も何度か怒られてしまいましたよ。彼女は女性にも人気があるんですけどね。ちなみに、ここは今日が初めてですか?

―ええ。ふらっと入ったんですが、作法が分からなくて……。

―(他の人が入ってきて)大変な日に来ちゃいましたねえ。でも、ましろさんならこの後もたくさん観る機会がありますから、是非他の日も来てください。

―ええ、ありがとうございます。

 

……といったような具合だ。こういう会話が、ロビーの至るところで行われている。劇場の中では、女性客も多い(3割程度が女性だったと思う)。その間でも、このような会話が繰り広げられている。

 つまり、ストリップ劇場という「場」は、観客同士においてもコミュニケーションという手段によって入り乱れ、「客」と「客」というような個人の関係性を持たず、「観客」という集合の中で共振するといってもいいだろう。この点も、映画や演劇における「場」(映画館や劇場など)では見ることのできない光景だろう。

 

 他にも、女「性」の消費など、弱者としての女性がフェティシズムの「見世物」として提供されていることのジェンダーの倫理(ポリティカル・コレクトネス)などは語るに及ぶべくもないが、それは他のアダルトコンテンツにも言える問題であり、ここでは語る必然性がないと思われる。「ストリップ劇場」という「場」の生起は、ステージ上で、ロビーの待合室で、至る所で起こっているのであり、その構造こそが問題化されるべきなのではないか。そしてそれは日本の文化史、いや風俗史という歴史の層としての「史」―アーカイブ(アルシーブ)として語られる必然性を感じる。現在、有意な文献と考えられるのは『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』(イースト・プレス 2014年)所収の藤木TDC「昭和娯楽王 ストリップ史」だが、現在は入手不可能となってしまっている。

 「語りえぬもの」を「ことあらわす」ことの可能性は、「ストリップ・ショー」を見つめなおすことによって開かれるのではないか、という問題提起で前エントリの補説としたい。

「ストリップ劇場」論序説

 サークルの読書会の帰りに、渋谷の百軒店の入口にある道頓堀劇場、というストリップ劇場に入った。たまたま2000円が手元にあって、学割でちょうど入場料が2000円だった。
 今自分はある神経症にかかっていて、音や光に敏感になってしまっているのだが、最近は復調の様子も見られてきている(まだ情報量の多い音楽を聴いたり、映画は観たりするとダメになってしまうのだが)。安定剤を2錠飲んでから、2000円を払って劇場に入った。なので、まあ軽いリハビリも兼ねて、という意味もある。それで選ぶのがストリップ劇場、というのはどうなんだという気もするのだが。
 渋谷の道頓堀劇場は6人の女の子が入れ替わり立ち替わり踊るのが一つのステージ、というシステムなのだが、途中で出てもいい。目当ての子を見終わったら帰るという人も多かったし、そもそも物見遊山なので長居する気もなかった。劇場の中に入ると、色白でさわやかな見た目の女の子がまだ写真撮影タイム(というのがある)でステージに居たので、この子のステージを観て帰ろう、と思った。六花ましろという踊り子で、人気も高いらしい。写真撮影タイムが終わると、今日3回目になるショーが始まった。観たのは3人の踊り子で、美月春、愛野いづみ、そして目当ての六花ましろだった。そして、それぞれに特徴があった。
 
 
・「ストリップ・ショー」の特異性
 
 総体的な、というか概念的な話をすると、ストリップ・ショーというのは極めて特異なショーの形態である。浅学にしてストリップ論のようなものがあるのかどうかは知らないのだが、高校時代に卒業論文を映画学の分野で書いた、つまり表象文化論を少しだけではあるがかじった身からすると、興味深い、というのも胡散臭いが、積極的に語られるべき分野ではないだろうか、という気さえしてしまうのである。というのも、そのショーの構造は「語りの欠落」と「運動の過剰」という意味で、演劇や映画など、他のいかなる批評対象とも構造を異にしているとさえ言えるからだ。
 当たり前だが、ストリップに台詞はない。踊り子が与えられた3〜4曲(実はこれも構造があるらしいのだが)に合わせて、一人あたり凡そ20分程度のステージを演ずる。彼女らはそれぞれに任意の服装のモチーフ(それはレイヤーされている)があり、それらが曲の進行と共に、注意深く脱ぎ捨てられる。その「脱ぎ捨てる」という運動そのものによって、ストリップ・ショーはショーとしての強度を保っていると言ってもよいのだろう。つまり、レイヤードされたヴェールの「脱ぎ捨て」(特にロラン・バルトを意識している訳ではないが)という運動の連鎖によって、というよりもほぼそれのみによってストリップ・ショーはショー足り得ている、と言ってもよいのである。彼女らの衣服はなんらかの「帯」によって固着され、それらが剥ぎ取られてゆく。そしてそれらはある種の連続的な性格を持って、ショーは進行する。これは、例えば演劇であるならば空間における人物の配置とスクリプト(台本)、それに加えて演者の「発話」という行為によってドラマトゥルギーが構築されるのだし、映画に至ってはそこにデクパージュ(カット割り)とモンタージュ(編集)という、言わば輪切りにされたような空間と時間の交錯によって物語の構造を形作っていく。アイドルのライブなどを引き合いに出すのもよいだろう。そこには「歌」と「踊り」があり、一つ一つの楽曲の繋がりが総体として意味を持ったり持たなかったりする。しかし、ストリップはそうではない。ヴェールの「脱ぎ捨て」という、言わばひとつの運動が動因となってショーが進行「してしまう」、それがストリップの特異性とも言えるだろう。
 だが、ショーとしてのストリップを語るべきはそこに留まらない。「語りの欠落」、つまり一つの運動がある種の欠落を伴った形でドラマトゥルグされていくという点は上に述べた。では、「運動の過剰」とは何か。ここで言う「過剰」とは、言わば他のショー形態には見ることができないものであり、ストリップ・ショーではその「過剰」が重要な意味を持つ。道頓堀劇場のステージはT字型で、張り出しの先は円形になっていて、上下し、また回転する。ステージそのものが運動するという事実は現代演劇においては当たり前のことではあるだろうが、問題はステージの運動が「上下」と「回転」であり、そこにさらに踊り子の「踊り」という運動が加わるということである。ここにおいて、演者(踊り子)とステージは、運動という概念において共犯関係を結ぶといってもいいだろう。ここに、語ることの「欠落」に対する共犯関係としての二重の相を持つ「運動」の概念が「過剰」される。
 
・ショーの構造と「視点」の問題
 
 ストリップ・ショーの一つのステージの構造は以下のようになっている。
①踊り子が登場し、厚いレイヤーを着て踊る。この段階でカチューシャやガーターなど、小道具的なレイヤーは取り外される(ことがある)。
②ここで踊り子は①の段階からやや飛び跳ねる形で一気にレイヤーが外される。しかし、この段階では張り出しに出ることはない。出たとしても、それは次の動作への予兆である。
③②において外されているレイヤーの「脱ぎ捨て」の運動は、この③の段階で一気にスローモーになる(BGMも遅いBPMのものになる)。薄いヴェールを外し、ブラジャーを外し、パンティーが脱ぎ捨てられる。ストリップにおいて最も重要なのはこの箇所である。つまり、乳房や陰部といった「覆われていたもの」が露わになるのがこの瞬間であり、また張り出しが「上下」し「回転」するのも③の段階においてである。
④幕が下ろされ、速いBPMの曲に合わせて張り出しで踊り子が踊る。既に陰部は露わになった状態であり、いわばアンコールのようなものと言える。
 この4つの運動の中で最も重視すべきなのはやはり③である。3人の演技を鑑賞したが、いずれにおいても共通しているのは「垂直」の運動、つまり張り出しの床に寝そべって脚を床に対して垂直に伸ばすという運動である。これは張り出しが回転しつつ行われるので、有り体に言ってしまえば陰部を全員の客に見せる(ステージを半円状に取り囲むような席の配置となっている)というサービスなのだろうが、ここで客は決まって拍手をする。つまり、一つのステージのクライマックスがこの「回転しつつ垂直」な運動であることが観客にも暗黙の了解として認知されているということだ。それは文化であり、「踊り」というノンバーバルコミュニケーション(そもそも踊り-ダンスという運動がセックスの薄められたものであるという事実をここで忘れるわけにはいかないだろう)が「欠落」と「過剰」によってドラマが構築されていることの歴史の重層性と言えるのではないか。このことについて考えれば考えるほど、ストリップは文化でこそあれ批評的な言説を免れてしまったことの負の意義は大きいと言わざるを得ない。無論「風俗業」であるというタブーに触れることに間違いはないが、例えばピンクサロンやヘルスなどと言ったそれとは全く違う、あらゆる劇的構造から自由である「ショー」としてのストリップを批評せずに消費することは、ストリップ・「ショー」の衰退にも繋がってしまうのではないか、という危惧さえ抱いてしまうほどである。
 ここにおいて実現される「運動」、即ち「踊り」が「薄められたセックス」であるという事実に関しても、もう少し言及しておきたい。例えば映画においては、観客は「視点」に対して何ら能動性を持つことができない。何故ならば、それはキャメラという意識の所在によって映画という事態が生起しているからであり、映画における「視点」の問題はつまりキャメラというインターフェースを通して見られた「創られた視点」について言及することになる。また、演劇ではそのキャメラの役割を「幕」という存在が担うことになるだろう。客席と舞台は分けられ、極めて古めかしい言い回しをするならばそれは「第四の壁」によって観客は「視点」をあらかじめ支配される。ストリップ・ショーは、その「視点」を掻き乱すような形で運動する。それは舞台(張り出し)そのものが運動し、踊り子が運動するという二重の相の運動によって観客の視点は撹乱される。さらに言えば、踊り子が「演技」-「踊り」として「ウイスキーをグラスに注ぐ」という運動があったが、踊り子はそれを客席の客に振る舞い、飲み干し、そのグラスにいわゆる「おひねり」を入れるという一連の動作、というか作法が存在している。ここでも、演者たる踊り子と観客の関係性はもはや入り乱れてしまっているだろう。それがあたかも「作法」のように振る舞われてしまっている、という重層性を持っている以上、「視点」を基礎付ける「壁」や「キャメラ」という観客の意識の所在は、そこにあって(いささか雑駁な言い回しをするならば)能動的であるとすら言えてしまうからである。だからこそ、希釈されたセックスとしての「踊り」は、「視点」を媒介するメディアを決定付ける諸要因が外部に存在しないが故に、限りなくセックスという運動と踊りという運動が近くなってゆく。しかも、演者の運動は常に二重の相を持つために、その漸近性は永遠にぶら下がってしまう。ここに、ストリップ・ショーの言表しがたい構造の鍵がある気がするが、ここでその点を深彫りすることはやめておきたい。
 
・六花ましろの見せた運動がもたらす夢と詩
 
 「ショー」としてのストリップの抽象概念は既に述べた。ここでは、六花ましろの演技について具体的に触れることで、その構造性と、もう一つある詩性について述べておきたい。彼女の演技は、というか表情は、豊かな、暖かみのあるそれではない。その前に観た愛野いづみの演技が非常にエモーショナルで色彩的なものだったというのもあるが、愛野の色彩性はその「まなざし」にある。ウイスキーのコミュニケーションを取り入れていたのも彼女だったが、愛野は観客に対して真摯にまなざす。その交換の豊穣さが、彼女の演技の色彩性であるとも言える。しかし、六花は、明らかに、どこも見ていない。①の段階における演技で、彼女は「まなざさない」ことによって、ひとつの冷たいポエジーを紡ごうとしているのだ、ということは既に明らかであった。③のスローモーな動きに至って、六花は「まなざさず」、よく鍛えられたしなやかな裸体を惜しげもなく張り出しの上で運動させていた。張り出しの回転に対して垂直である彼女のすらりと伸びた(文字通り)真っ白な脚は、ストリップ劇場という、こういってよければいささか下卑た場において披露されるには、あまりに詩的でないかとすら思えた。陰部を見せるためのサービスとしてその運動が提供されるということは、ある意味その「陰部」という要素が我々の「視点」を決定するのかもしれないが、少なくとも彼女の運動は「陰部」が「視点」の中心として機能するように運動してはいなかったのだ。それは、森崎東が1975年に撮った映画『喜劇 特出しヒモ天国』において芹明香が葬式という「場」でストリップ・ダンスをするあの異形の特権性を、「視点」の自由が留保された形で立ち会うことができる体験、とさえ言えるかも知れない。それは、間違いなく構造による詩性であり、踊りという詩による構造性である。六花はそんなことを意識していないのかもしれないが、張り出しの上で垂直に回転する彼女は、(森崎の)映画的な可能性を越えてファンタジックな瞬間をもたらしてくれたと言わざるを得ない。無論、森崎は別の方法論で映画と踊りとファンタスムについて上記の映画で回答をしているのだが、それについては詳述しない。ともかく、六花の「二重の相のもとにある」運動は、自分にとってある種の夢を見させてくれた運動であったのである。それが「まなざし」という色彩性を失うことによって実現されていた、ということも付言しておきたい。
 
・夢の予感、あるいはヴァレリー言表による序説の終わり
 
 自分は果たして再度ストリップ劇場に足を運ぶだろうか?と問われれば、間違いなく首を縦に振ってしまうだろう。薄汚れてタバコの煙で靄がかかったロビーで自分も同じくタバコをふかしながら、その煙の中に六花の見せてくれた「踊り」による夢と詩をなぞっていたのだ。ロマンティックに過ぎるだろうか?頭でっかちな解釈だろうか?そうかもしれない。だが、事実として、自分は彼女のステージを観た後にその後の演者のステージを観る気には到底なれなかったし、手元のスマートフォンで時間を確認しようとも思わなかったのである。ただ、手元のタバコと、口から出る煙に、彼女の幻影を描きながら呆然とする。あの心持ちを、自分は追いかけてしまうような、そんな予感がするのである。
 

エリュクシマコス これからまさに起ころうとしていること、これくらいわたしの好きなものはない。恋愛においてさえも、ごくはじまりの感情ほど、官能の悦びにおいてまさるものはない。一日のあらゆる時間の中で、曙がわたしのもっとも好む時間です。だからこそわたしは、 この生きた女の上で、聖なる動きが現れ出てくるところを、愛情のこもった感動とともに見届けたいのです。ご覧なさい!…その動きは生まれ出てくる、優しい鼻孔の、あの頭を、光に明るく照らしだされた肩のほうへと抗いがたく結びつける、あの滑るような眼差から…… そして、彼女の輪郭のくっきりした身体の、美しい繊維のすべてが、うなじからはじまって踵に至るまで、はっきりと現れてはつぎつぎと捩れてゆく。そして、全身が震える…… ひとつの跳躍の誕生をゆるやかに描いてゆく…… 彼女はわたしたちに息もつかせない、つんざくようなシンバルの、待ち受けてはいても意表をつく轟きに不意の動作で反応して、宙に身を躍らせるその日まで。(ポール・ヴァレリー清水徹訳「魂と舞踏」、『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』岩波文庫、2008年、p. 151)